私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
周囲の騒音に紛れ、二人で座席の陰にこそりと身を埋めるようにして、楓は真由に水月との過去を打ち明け始めた。
「私と長澤さんって小学校は別々だったんだけど、去年曲北さ入学した時に同じクラスになったんだ。でね、初めのうちは同じ吹部同士なのにそんな仲良いってわけでもねがったんだけど、ある日突然長澤さんのほうから私と仲良くしたいって言ってきて」
「急に? 何か一緒になるキッカケがあったとかじゃなくて?」
「全然。思い当たることは何も無くて」
ふるふると首を振り、楓は当時を述懐する。前屈みの姿勢になっているせいか、楓の胸元は夏休み前の頃と比べてもまた一段と張りがあるように見えた。
「その頃は私も長澤さんがああいう子だなんて知らねがったがら、普通に友達付き合いしてたんだ。部活帰りとか休みの日にあちこち遊びに行ったこともあったし、部活の個人練で行き会ったりもしてて」
「その個人練のときって、水月ちゃんとはどんな話をしてたの?」
「ほとんど覚えてねえんだけど、普通にあの曲難しいよねーとか、今度どこそこのお店に行ってみよーとか。そのぐらい、長澤さんと話すことって当たり障りのねえもんばっかだったんだよ。だがら正確には、友達かどうかっつわれても何とも言えねえ感じで」
既視感にも似た不気味さに背筋が震える。それはまさに、転校直後の真由が水月と交わした会話の内容をそっくりそのまま抜き出されたみたいな重複ぶりだった。
「けど、ひとつだけ心に引っかかってたことがあって。仲良くなって間もねえ頃、長澤さんに言われたことがあったんだ。『こんな片田舎、毎日過ごしててつまんなくない?』って」
「片田舎、」
それもあのとき水月が言っていたようなことだ。こっそり自身の記憶との照合を進めつつ、真由は楓の話にじっと聞き入る姿勢を保つ。
「そん時は『すごいこと言うなこの子』ってビックリしたけど、でもまあずっと地元で暮らしてきた人ってそういうもんなのかも、とも思ってさ。それに私はこっちさ来て友達もたくさん出来たし、何よりその頃はお姉ちゃんとの事で頭がいっぱいで、そういうの気にしたことも無くて。だがら長澤さんさは『全然。楽しいこといっぱいあるし』って返事したの」
「そしたら、水月ちゃんはどんなふうに反応したの?」
「そこがあんま記憶に無くて。だけど多分、大したことは何も言ってねがったと思う」
きっと水月ならその時、どこか諦観めいた薄ら笑いと共に「そう」と素っ気なく返した程度だったはずだ。そのさまをありありと思い浮かべたときにはたと、春頃に比べて水月に関する認識をすっかり下方修正しつつある自分が居ることに真由は気付く。
「えっと、それから水月ちゃんとはどうなったの? 今でもずっとやり取りしてるとか?」
「ううん。去年の後半、確かコンクール前ぐらいからかな、その辺りから長澤さんとはあんまり関わらなくなっちゃって」
「どうして?」
「理由は特に。どっちかっていうと、長澤さんのほうが私に飽きたのかも。あんまり話し掛けて来なくなったなーって思ってるうちに、こっちから声掛けても素っ気ねえ感じでさ」
そこまで喋ってから、楓は急にしょんぼりと肩を落としてしまう。
「さっきも言ったけどその頃は私、お姉ちゃんのことだけ考えてたもんで他に頭が回ってねがったんだ。だがら今になって考えると、もしかして知らねえうちに長澤さんの癇に障るようなことしちゃったんでねえかな、なんて心配もちょっとあってね」
「それは無いと思うよ。いや、何か確証があって言ってるわけじゃないけど」
「真由ちゃんにそう言ってもらえると、ちょっとホッとする。私も私なりに、これからじっくり振り返ってみるつもりだけどね」
フフ、と微かな笑みを浮かべ、楓は口元に指を組んだ。
「で、もう一つあって。こっちのほうが本題なんだけど」
念のため、とばかりきょろきょろ周囲を見回してから、楓は真由の耳たぶギリギリまで顔を近付けて来た。本題とは? 彼女の微かな呼気が耳に当たり、そのむず痒さがぞくんと真由の襟足を逆立たせる。
「あれは確か吹部に入って二、三週間ぐれえの時だったと思うんだけど、私と長澤さんが二人して練習してるところに一度、小山先輩が来たことがあったんだ。あのトランペットの小っこい先輩」
杏が? と驚きに目を剥く真由に、楓は深い首肯を返す。
「何だったの、杏先輩の用事って」
「用事か何かは分がんねがったんだけど、小山先輩、長澤さんさ近付くなり『なんでアンタ、性懲りも無ぐ吹部さなんか入ったの』って。すんげえいがみ顔で」
ぐわ、と楓が大きく顔を引きつらせる。そのとき彼女が作ってみせた形相はちょうど、夏に見た男鹿のなまはげそっくりだった。
「私はそん時が小山先輩と初対面だったし、言ってることの意味も分がんねがったもんで、当初はひたすら
そこまでを聞いた時、ぶわり、と真由の脳内に何かが湧き上がるような錯覚があった。それは以前にも感じたことであり、けれどその時にはあまり深く気に留めていないことでもあった。
どうして杏は水月を警戒していたのだろう? それも、ちなつや日向らが水月という人物の本性を知るよりもずっと前から。
先日奈央から聞かされた話によれば、水月が騒動を起こしたのは小学五年生の時。そしてそれ以前、少なくとも姫小のマーチング部内において、彼女を危険視していた者はいなかった。ただ一人、杏を除けば。つまり杏は部活や先輩後輩といった枠組み以外のところで水月と関わりがあり、その時点で既に彼女の本質を正確に知り得ていた、ということになる。そうでなければあんな忠告を、それも確信をもって他人に出来ようはずもない。
恐らく杏は知っているのだ。水月が何故あんなことをするのか、どうしてそうなったのか、その根源となる、何かを。
「
「あ、ごめん。今聞いた話、頭の中で整理してて」
心配そうにこちらの様子を窺う楓に、真由は慌てて謝罪する。深く考え込むあまり、楓のことをすっかり置き去りにしてしまっていた。それに今の推理にしたって、途中からは自分の想像の域を出ないものも多かったように思える。どちらにせよ自分の手には余る案件だ。いったん考えるのはよそう。
「大丈夫? もし今の話でなんか気分悪くしたりしたら、ごめんな」
「ううん、そんなことないよ。むしろ教えてくれてありがとう。だけど水月ちゃんや杏先輩のこと、どうして私なんかに色々話してくれるの?」
「どうしてって? 何だろ。何か自分でも、上手く言えねえカンジなんだけどさ、」
指の先をもじもじと動かし、そして楓がちらと視線を送ってきた。そのきょろりと輝く瞳の大きさに、真由は思わず心を奪われそうになってしまった。
「何とかしてくれる、っていうのとも違うんだけど。真由ちゃんさ話せば何か良い方向さ進んでいくんじゃねえかって、そんな気がして」
翌日。コンクール東北大会金賞、しかし全国への出場ならず――という結果を携え戻って来た曲北の部員たちを待ち受けていたのは、何の変哲もない平常通りの月曜日だった。当然ながら部活の大会に代休などあろう筈もなく、部員である前に生徒である以上はこれまた平常通り授業を受けなければならない。長距離の往復移動に諸々の問題で被った気苦労に本番演奏にと、さすがの真由もぐったりしそうなほど疲労が溜まっている感は否めないのだが、こればかりはどうしようもないことだ。
「――へば問い二、この
数学の金子に指名された同級生が黒板の前で問題を解く間、真由は金子の目を盗むようにして漏れ出るあくびを噛み殺す。月の境目と共に夏の盛りが過ぎ去ったことも相まって、ちょっぴり青みの薄まった空と時おり吹く涼やかな初秋の風に撫でられると、どうしても眠気を催さずにはいられない。
がんばれ。ここさえ乗り越えれば何とかなる。そう自分に言い聞かせつつ四苦八苦しつづけた甲斐あって、どうにかこうにか寝落ちせずに六時間目まで漕ぎつけることが出来た。今日のこの時間割は学級活動、つまり一コマをまるまる充てたホームルームの時間。そしてその中身は。
「それでは文化祭のクラス展示、何をやるかについての会議を始めます」
担任に代わって教壇に立ったクラス委員長が議長となり、「何か希望はありませんか?」と提案を募る。来月初頭に予定されている曲北の文化祭、そこでは毎年、クラスごとに何らかの出し物をするのが慣例となっていた。もちろん飲食物の提供を行うにはPTAの協力を得なければならないが、そうでない場合はある程度、生徒側の自由裁量に任される。お化け屋敷。クイズ大会。ハンドメイドショップ。演劇発表。様々な案が出された後、最終的にはクラス内での議論を踏まえての多数決を取ろう、ということになった。
「なあなあ、真由ちゃんは何が良いと思う?」
ゴン、と隣から机を寄せてきた早苗がさっそくとばかり、真由に話を振ってきた。
「私はみんなの意見で決まったものでいいかな。演劇希望の声も多いし、それなら私も音響係か小道具でお手伝いできそう」
「私はコーラ一気飲み競争もいいなあって思うんだけどさ。優勝者へのプレゼント、いまいち良いのが思いつかねくて」
「例えば早苗ちゃんだったら、どんなものが欲しいって思うの?」
「私? そうだなー、もし私が優勝出来たらバリ島の旅、一週間分!」
「それ、もしかしなくても却下になっちゃうと思う」
「だよな」
けらけらと笑う二人に牽引されたのか、そこに数名のクラスメイトが集ってきた。彼女らにも各々の意見があるらしく、どれが良いかなー、絶対これだべ、などと熱い意見が交わされている。そんな折、ふと真由は目の前の席で、いつものように頬杖をついてぼうっと窓の外を眺めている雅人のことが気に掛かった。
「ねえ、草彅くんは文化祭の出し物、どれが良いと思う?」
それはほんとうに何気なく、単なる級友同士として議題に沿った声掛けをしただけのつもりだった。ギロリ、とこちらを射貫く目つきで振り返った雅人はしかし、口を開くや否やとんでもないことを言い出した。
「黒江。お前、曲北のユーフォで誰がいちばん上手えと思う?」
え、と硬直する一同。質問に質問を返したこともさるものながら、雅人の発言は今のこの場に全くそぐわぬものだった。
「あー、えっと。草彅くん、私いま、文化祭のお話をしたつもりなんだけど、」
「そんなんいいがら、俺の質問さ答えれ」
高圧的なその物言いにカチンと来たのは、自分よりも早苗の方が先だったらしい。けたたましく椅子を鳴らし、「ちょっと草彅」と早苗が席を立つ。
「アンタさあ、空気読めねえにも程があんべ。今はホームルーム中だど。なに部活の話してんのよ、それも真由ちゃんの質問ガン無視して」
「……誰、お前」
「進藤早苗! 同級生のこともろくすっぽ覚えてねえのかよ」
きょとんとした顔で悪びれもしない雅人と、それにますます激昂する早苗。突如始まった二人の口げんかに、何だどうした、と他のクラスメイト達も気付き、教室内はたちどころに騒然となってしまった。
「お前なんかどうでもいい。俺は黒江さ訊いてんだ」
「だがら、そンた話は部活ん時でも何でも、別で訊けばいいべ。真由ちゃんさ迷惑掛けるようなことすんなよ」
「俺は今訊きてえんだよ。黒江がさっさと答えりゃあそれで済む」
「
「アホくせえ。見りゃあ分がんだろ、幼稚園児が学ラン着て中学さ通ってるわけねえべ」
「そういうこと言ってんでねくて、ああコイツ、ホントもう、」
「草彅君。それと進藤さん」
真冬に汲んだ水のように冷ややかな一声が、沸騰しかけていた場にぴしゃりと打たれる。それを発したのは担任の真理子だった。教卓の横で成り行きを見守っていた彼女もさすがに事態を見かねたらしい。動きを止めた二人――というよりは早苗一人なのだが――は、おずおずと真理子へ向き直った。
「草彅君は今の時間と関係のねえ質問が黒江さんさあるんだば、それはこの時間が終わってからにすること。それと進藤さんも、カッカして大声上げたらダメでしょ。今は文化祭の出し物について話し合ってる最中なんだがら、二人とももうちょっと周りのことを考えなさい。分がった?」
「……はい」
「すいませんでした」
穏やかながらも痛烈な真理子のお叱りによって、二人は不承不承ながらに矛を引っ込めた。席に戻った早苗がチクショウ、あんにゃろう、と斜め前の雅人を憎々しげに凝視する。一方、雅人は背後からの視線も叱られたこともまるで堪えていないかのように、再び元通りの姿勢でぼうっと窓の外の空を眺め始めた。そんな彼の無反省な態度に、周囲からは「何なんアイツ」「さっすが雅人、頭のねじブッ飛んでるわ」などと中傷めいた声が漏れ聞こえしてくる。
「さあさあ、みんなも終わったことをいちいち気にさねえで、続きを話し合いましょう。委員長お願い」
「は、はい。じゃあそろそろ意見もまとまった頃だと思うので、今まで出た候補の中から賛成のものに挙手を――」
こうして元通りの流れで委員長が多数決の段取りを進める中、真由は雅人の質問が気になって仕方がなかった。曲北のユーフォで誰がいちばん上手いか? そんなこと分かり切っている。技量・実績共に鑑みて、ちなつに勝るユーフォ吹きがこの曲北に居る筈がない。それどころか東北、いや全国区の中学生を比較対象としたって、ちなつより優れた奏者などそうそう居やしないだろう。そんな確信は今でも真由の中に揺るぎなく存在していた。自分よりも音楽的に数段上である雅人にだってそのぐらい、とっくのとうに解り切ったことのはずだ。
だというのに、どうして雅人はわざわざあんなことを尋ねてきたのか。その意図がもう一つ読み取れぬまま、もやりと心に宿る気持ち悪さを堪えるようにそっと舌先を噛む。もしかしてあれは雅人流の皮肉か、あるいはこちらの見識を量ろうとしてのものか。……どっちにしたって深い意味など無いに違いない。掴み切れぬもやもやに無理やり結論をくっ付けて、真由は喉を鳴らし、それら全てを胃の腑へと呑み下した。
「真由。ちょっと悪いんだけど、今から私さ付き合ってもらって良い?」
放課後、部活開始のミーティング直後。ちなつからそう請われ、断る理由など無かった真由は快諾した上で念のため、どんな用事かを彼女に尋ねた。彼女の答えはこうだった。
「今から独立組んとこ行こうと思って。今後のことについて水月と、折衝しに」
「そこに私が、ですか?」
「やっぱダメ?」
「いや、ダメってことは無いんですけど。私が行ったところでお役に立てるかどうか分からない、と言いますか」
と言うより、まずもって何の役にも立たないのは明白だった。ちなつや日向と比べるまでもなく、自分などは集団の先頭に立っての牽引とか交渉だとか、そういうことにはまるで向いてない。そんな自分がちなつと一緒に水月のところに赴いたとて、せいぜいトンチンカンなことを言って場を白けさせるのが関の山というものだろう。
「真由は特に何も喋んなくたっていいから。ただじっとその場さ居て、私らの会話を傍で聞いてて貰えれば」
「けどそれだったら、私よりも日向先輩の方が良いんじゃないでしょうか。日向先輩ならいざっていう時、ちなつ先輩に助け舟も出してくれると思いますし」
「ダメなんだよ、ヒナじゃ」
「そうそう。なんたって私、ちなつ派だかんね」
日向がおどけるように、その丸い肩をすくめてみせる。
「私だって水月ちゃんからしたら、ちなつ先輩派だって思われそうな気がするんですけど」
「それは無い。私らの見立てが正しけりゃあ多分、水月的に真由は中立ってことになってるハズ」
「どうしてそうなるんですか?」
「それは……んー。まあ微妙な言い回しになるんだけど、真由ちゃんが真由ちゃんだから、なんだよ」
「え、えぇ?」
二人の言っていることは全く説明になっていない。恐らく十人中十人、誰もがそう思うに違いなかった。目が点になってしまった真由に、日向がすかさず追って言葉を重ねる。
「おっと、カン違いさねえで。今のは私らの捉え方でねくて、あくまで水月の人物評価なら、ってこと」
「まあ、それも私らの推測でしかねえんだけどな。でもそう大きく外れちゃあねえと思う」
「いやいや。先輩たちの仰ってること、まだぜんぜん理解できてないんですけど……」
「今はとにかく私らの言うこと信じて、ただついて来て。それだけで良いから、お願いっ」
ぱちん、と両手を合わせてちなつが頼み込んできた。こうなるといよいよ真由も大いに困惑してしまう。何をどう考えたって、自分がそこに同席する必要性など全くと言って良いほど感じられない。とは言え、先輩にここまで強く要請されてしまっては、もはや断る理由を見繕うほうが難しい。しばらく悩みに悩み抜き、そして端的に言うなれば、真由は断ることを諦めた。
「本当に、何の役にも立ちませんよ。それで良ければ」
「ありがとう! 恩に着るよ!」
安堵と喜びの色を帯びる顔を上げたちなつにギュウと手を握られ、うひゃあ、と真由は恐縮してしまう。普段は凛々しくてクールなのに、感情が昂ったときのちなつはどうやら過剰なスキンシップをしてしまうきらいがあるみたいだった。
そんなこんなでちなつに連れられるがまま、真由は中央棟二階にある集会ルームの前までやって来た。ここが独立組の根城になっていることは以前、日向から聞かされた通りだ。室内からはずいぶん賑々しい声と、多種多様な楽器の音が聴こえてくる。戸の向こうで具体的に何をやっているかまでは不明ながら、どうやら彼らも吹部の分派として、その名に恥じぬ最低限度の活動ぐらいはしているらしい。その戸をちなつが二度ノックすると、内側から「どなたですか」と水月の声で返事があった。
「私、ちなつ。今日も話し合いに来た」
「またですか? もう先輩とお話しするべきことも、だいたい尽きたと思いますけど」
「今日は私だけでねえ。真由も連れて来てる」
「真由ちゃんも?」
そこで少しだけ間を置き、それからギイ、と木製の戸が開く。
「どうやら本当みたいですね。『お久しぶり』、真由ちゃん」
「どうも、」
流暢な水月のあいさつに対し、こちらの返礼はどうにもぎこちないものになってしまった。けれどそれ以上に、自分の名を聞いた水月がためらいもなくドアを開けたことに、真由は内心驚きを禁じ得ない。曲がりなりにも目上である筈のちなつには、ドア越しでのおざなりな応対だったというのに。
「それにしても、荒川先輩もずるいですね。まさか真由ちゃんを私との交渉の具にしようだなんて」
「そりゃあ水月の勘違いだよ。心配さねくたって、真由さはただこの場に居合わせてもらうって条件でついて来てもらってるだけだから」
なるほどなるほど、と唇を指で撫でつつ、水月は値踏みするような視線をこちらに投げ掛けてくる。
「さしずめ真由ちゃんは
「私とヒナ、二人だ。アンタなら真由のことは中立の立場だと考えるはずだ、って」
「さすが先輩方。私のことを良くご存知ですね」
まずは中へどうぞ、と水月に勧められ、ちなつと真由は集会ルームへと足を踏み入れる。教室二つ分ほどを繋げた程度の、音楽室よりも遥かに手狭な空間。そこでは先日離反した独立組の面々がからりと椅子を並べ、各々にアンサンブルのような形態を取っている姿が幾つも見受けられた。
「ほらそこー。アンタいっつも同じ場所で間違えてるよ」
「すいませーん」
「ねえねえ、次はみんなでこの曲吹いてみねえが?」
「あっ、じゃあその次で良いから、アタシこれやりたい」
「今度の合奏、何やるの良いべなぁ。『アルメニ』? 『A列車』? 『シング』も捨てがたいよな」
「ハイハーイ。私『ダイナミカ』やってみたいでーっす」
そんな風に和気あいあいと会話をしつつ、けれどいざ合わせるとなれば真摯に楽譜へ向かい楽器を鳴らし、各々が各々へ注意し合いながら共に音を磨いてゆく。それまでの伝聞から、てっきり独立組が楽器も吹かずにサボっているものだとばかり思っていた真由は、彼女たちの織り成す練習風景に軽くショックを受けていた。生徒が自律的に集い真っ当に練習するそのさまは、部活動と言うよりもむしろサークル活動のそれだ。
「あっ、部長。と、低音の黒江じゃん」
「なにー? また例の交渉?」
こちらに気付いた独立組の何人かが、奇異の目と訝しみの言葉を向けてきた。ぱんぱん、と彼女らを制するように、水月がその手を鳴らす。
「みんなは気にしないで練習してて。私、荒川先輩たちとちょっと外でお話ししてくるから、合奏の相談はそれが終わってからね」
「はーい」
「ほどほどにして下さいよ、荒川部長」
独立組の一人から浴びせられた、揶揄するような『部長』のひと言。それを無視してちなつは水月と共に集会ルームを出た。もちろん真由も二人に続く。
「ここでしたら、静かで良いでしょう」
水月によって連れ出された先は、校舎裏のごみ捨て場から少し歩いたところにある、庇の下の小さな空きスペース。そこは奇しくも、真由がふだん個人練を行っている屋上テラスの直下に位置する場所だ。いつもこの辺りから美しく響き渡るユーフォの音色、その吹き手は今、演奏ではなく折衝のためにこの場に立っている。
「んで、さっそく話だけど、」
「お話しすることは何もありません。既に重ねた議論を何度もぶり返すのは、お互いに時間の無駄です」
先手を打って切り出そうとしたちなつを初太刀でばっさり斬り捨てるように、水月はにべもなくそう言い放つ。
「アンタら独立組はそれで良いかも知んねえ。けど私らは、それじゃ困るんだ」
「そちらが困っているのは、私たちとは何の関係もないことです。だいたい何なんですか、独立『組』って? まるで私たちをひと塊の反逆者みたいに」
「それは実際そうだべ」
「いいえ、ぜんぜん事実と異なります。私たちは個々人の意志でもって先輩方の活動方針から離れると決めたんです。無意味な派閥化で対立争いを煽られるのは、正直言って不愉快です」
表面的には穏やかさを保ちつつ、しかし歯に衣着せぬ物言いで、水月はすぱすぱとちなつに刃を繰り出す。ちなつはそれに負けじと毅然とした態度で水月に臨んでいた。
「じゃあその事実ってのを真由の前で言ってみせてよ。アンタも真由のことを立会人として認めてんだったら、繰り返しでもきちんと説明する必要はあるはずだべ?」
そこで一度、チラと水月がこちらを見やった。何も言わなくていい。そう条件付けされてここにいる手前、真由は迂闊に口を挟むことも出来ない。仕方ないですね、とばかりに大きな溜め息をこぼした水月は、やや面倒くさそうに薄い唇をこじ開け喋り始めた。あくまで真由に語り聞かせるようにして。
「私たちが独立しようと思った理由。それは現在の吹部における、一方的な支配体制のせいです」
それはどういうことなのか。続きを促すまでもなく、水月はどんどん言葉を紡いでいく。
「そもそも部活動というものは、生徒たちが自由意思で参加するものです。誰に強制されるものでもなく、また誰も強制する権限を持ちえません。楽器が好き。音楽が好き。何か新しいことを始めたい。好きな曲を奏でたい。人それぞれに動機は様々あると思いますが、その価値はみな等しく外部からの評価や表彰によって優劣を付けられるべきでもない、と私たちは考えています。ここまでで何か反論はありますか?」
「無えよ。とにかく最後まで一通り、ぜんぶ喋って」
「べつに先輩に言われずともそうするつもりですけど。まあ、良いでしょう」
くす、とあざけるように口の端を歪め、水月は挑発的な視線をちなつに向ける。
「ですが、ここ曲北は大会至上主義のごとき理念を掲げて部員同士の競争を煽り、またその大会においてもより上位の賞を目指すのが当然、という姿勢を部員に強いています。そのために練習すべき曲目や練習量、ひいては成果と言える上達程度まで、事実上縛られているも同然の状態です。それに対する荒川先輩の反論は、みんな入部時に同意している以上、そんなのは言い訳にしかならない――でしたよね」
「んだ」
「ですが私はこう考えます。右も左も分からない無垢な状態で『うちではそれが当たり前』と同意を求められたら、良く分かっていなくても判を押してしまうのが人間心理というものでは無いのか、と」
つっかえもせずスラスラと、あたかも繰り出すべき文言を初めから脳に打電してあったかのような滑らかさで、水月は自己の主張を読み上げてゆく。
「人によってはそれを『覚悟』と定義するのかも知れませんが、それは本来リスクとリターンを平等に秤に掛けることによって、初めて意味を持つものです。リスクを取る覚悟、リターンを棄てる覚悟、そのどちらかしか示さず、自分たちにとって都合の良い行動や結果のみを相手に求めようとするのは、あまりに不平等かつ姑息なやり方です。こちらが気付かぬうちならまだしも、一旦そのことに気付いてしまえば、契約相手に対する不信感や猜疑心は募る一方になります。それが私たちの味わった思いであり、独立を決断するに至ったそもそもの原因です」
「そこまでは、前回も聞いた」
「だいぶ端折りましたけどね。では今回は立会人もいることですし、その先のお話をしましょうか」
「その前に、私から水月への反論。良い?」
「どうぞ」
水月は素直に発言権を譲り渡した。それを受け取ったちなつが「まず第一に、」と声を張る。
「さっき水月は部員が縛られてるって言ったけど、そんなことは無い。私ら幹部だって永田先生だって、極力みんなの意見を尊重しながら方針決めや選曲をやってる。そりゃあ全員の意見をくまなく拾うってのは無理かも知れねえけど、でもそのための機会だって設けてあるし、きちんと声上げて意見通してくれれば私らだって一方的に押し付けるようなことはしねえ。でも一度決まったことはちゃんと実現できるように、みんなで力を合わせて頑張ろうっていう、ただそれだけのことだよ」
「詭弁ですね」
いつだったか、日向が玲亜に語って聞かせた組織論。あの場に居合わせた誰もが納得した筈のその論理を、しかし水月はあっさりと払いのける。
「先ほども言った通り、それはあくまで全員が正しい意思確認のプロセスに基づいて判断し、揃って同意した時のみ通じる話です。現実にはそんな上手い話はそうそうありません。例えばの話、私たちが意見を通せるような場面や状況ですら多数派、もしくは権限の強い人の意思決定によって、議論の俎上に載る前に握り潰されてるんですよ。そう、永田先生や荒川先輩、あなたたち強者の手で」
「それは水月の、いやアンタらの思い込みだ。私らはそんなことしてねえ」
「やれやれですね。無自覚は時として、自覚的であることよりも罪深いものですよ?」
大げさに両手を広げて肩をすくめ、それから水月は己の黒髪をくるくると指でもてあそび始めた。まるで目の前のちなつをその髪に見立てているかのように。
「ここで言いたいのは、その方針もまた誰も何も決めていない中から自然と湧き出てきた類のものでは無い、ということです。現実にこの春から今日までおよそ半年近く、部活前後のミーティングや荒川先輩への直訴といった形ででも、自分の希望を提言した部員が一人でも居ましたか? 声を上げたがっている子がいたとしても、他の先輩方の存在や寸詰まりなイベントの日程が『個人的要望を言うのは迷惑になる』と、その子たちを思い留まらせていたのでは? 文化祭の曲決めにしても、今年で引退だから、というだけの理由で三年生の希望が優先的に採られてますし、それでさえ不採用になったものも数多いですよね。その可否を最終的に決断してきたのは一体、どこの誰でしょうか」
「それ、は」
「そう。荒川先輩たち幹部の皆さんと、顧問の永田先生です。『みんなの意見を拾う』というのはこの場合、『自分たちに都合の良い意見だけをつまみ取る』のとほぼ同義なんですよ。そして、実際声が上がらなかったのだから他の意見などどこにも存在しなかった、などというふざけた理屈が一切通用しないことは、今のこの結果を見れば一目瞭然かと思います」
分かりやすく言えば、と水月はここまでの発言を噛み砕き、ちなつの眼前へと吐き出す。
「結局は数の論理と言うことです。ごく少数の力ある人間が、自分たちに逆らいがたい空気を作り部内に蔓延させ、多数をその流れに向かわせる。少数派となった人の意見はそのまま無視、あるいは保留扱い。そうなったら後はもう、皆さんお得意の賛成多数で可決、です。こうして紐解いてみると、なんて野蛮で残酷な決め方でしょう」
集団秩序。多数決の原理。学校生活や部活動において頻出するそれらの在りようを、水月はことごとく否定してみせる。ちなつはそれに反論をしなかった。いや、それとも出来なかったのか。キッと水月を睨みつけながら握った拳を小さく震わせているだけのちなつの無抵抗さに、傍で見ていた真由ははらはらと焦燥を覚え始める。
「少数派に回ってしまった側の意見なんか拾う必要無い。置き去りにしても構わない。そうやって端に追いやられた人たちのことなんて、多数派は一人も省みてくれません。当たり前ですよね、それで自分たちは順調に回っていられるんですから。しかもそちらには『より大勢を円滑に動かしていく』という大義名分まである。それって見方を変えれば、まるで異論を持つ少数派が多数派にとっての敵か何かみたいじゃありませんか」
「そんなことは無、」
「あります」
被せ気味に、水月はちなつの反抗を制する。
「春に玲亜ちゃんが荒川先輩とぶつかった時、あれだってそうですよ。あの時中島先輩が仰っていたのが正に、さっき私が指摘したことです。要は集団のために個人は我慢しようね、もう決まったことなんだから余計な口を挟まないでね、というのを手を替え品を替え、それらしく言っていただけ。そしてそれは、荒川先輩が頭ごなしに玲亜ちゃんたちを捻じ伏せようとしたのもまた然り、です。何の力も発言権も持たない一年生が上級生にあんなことを言われたら、どうにも抵抗のしようがなくなってしまう。それ即ち、少数派の意見を強大な力で一方的に封殺しようとした、ということです。違いますか?」
ぐ、とちなつの喉が苦しみの音を鳴らす。ちなつにそのつもりなど無かった、という弁護は恐らくこの場合、水月の打った先手によってほとんど意味を為さぬものとなっていた。
「それと似た経験は先輩もご存知の通り、私にもありました。バカ正直に真っ向から歯向かえば、力で圧し潰される。音楽がしたくて部活に入ったのに、少しでも文句があるなら部活に来るな、というのではあまりに横暴です。ですから私たちは手段を考える必要がありました。ボイコットやストライキといったものではない、もっと訴求力のある、無視のできない抵抗の手段を」
その結果がこれ、ということなのだろう。勝ち誇ったような水月の笑みがどんどん凄みを増していく。
「多数派に数で負けないように広く意見を募り、みんなで力を合わせて主張を通す。数に依らず、各々の自由意思に基づいた活動をする。先輩たちと私たちのどちらが正しいかではなく、どちらも尊重されるべき、ということです。今回はたまたま私が矢面に立つ格好となってしまいましたが、本質的には誰が先頭に立ったとしても、私たちの主張は一切変わりません。先輩たちの押し付けにはついていけない。だから独立して活動する。部には引き続き在籍しますし必要に応じて関係各所の許可も取りますが、それについて先輩方の干渉を受ける謂れはありません。また、もしも楽器や楽譜の提供について私たちを差別するようなことがあった場合、然るべき手続きをもって正式に抗議するつもりです」
と、一気呵成にそこまで喋り切った水月がくるりと翻り、真由を正面に見据えた。
「――ここまでが独立宣言以降の私たちの主張。どう思う? 立会人の真由ちゃん」
「うぇ? えと、そ、そのう」
何も話さなくて良い、と言われている人間に急に話を振られたって困る。うまい返しが思いつかずうろたえるばかりの真由を見て、水月はこちらの敵意に蓋をしようとするかの如く、まるで邪気のない可愛さ満点の作り笑顔を浮かべてみせた。
「難しく考えなくたっていいの。思ったことを率直に言ってくれれば」
どうしよう。そう思ってちなつを見やると、彼女は小さく頷きを返した。どうやら自分はこのために本日ここまで引きずり出されたようだ。仕方ない、と腹を括った真由は本番前の緊張を和らげるときのように、短く吸った息を一斉に吐く。
「じゃあ正直に言わせてもらうね。水月ちゃんの言ってること、その、難しくて全然分かんない。けど、他の人からの押し付けや一方的な決め方に不満があって、そうじゃないやり方を水月ちゃんたちが目指してるってところまでは、何となく理解できた気がする」
「うん。だいたい正解」
クイズの司会者か何かか、というツッコミを胸の内に留めつつ、真由は水月に続きを述べる。
「だけどそれって本当に水月ちゃんたちのグループの、ええと、」
「独立組、で良いよ。どうせ私たちがどれだけ主張したって、そういう見方になっちゃうんでしょ」
「じゃあそう呼ばせてもらうね。その独立組のみんながみんな、本心からそんなふうに考えてるって言うの? 水月ちゃんが首謀者とかっていうんじゃなくて」
「首謀者なんてどこにも居ないよ。案外ひどい言い草するんだなあ、真由ちゃんも」
「う。ごめん」
「やだ、ちょっとしたジョークだってば。まあこうやってちなつ先輩と直接渡り合ってたりしたら、真由ちゃんがそう思うのも無理ないかもね。私が小学生の頃に起こした事件も多分、先輩たちから聞いてるんだろうし」
からかうような水月の口調がどこか空々しい。彼女の言う通り、姫小での出来事を知ってしまった以上、そうと疑いたくなる気持ちを否定できないのは事実だ。
「そうだね。いっそ私が首謀してあの子たちを洗脳でもしてる、っていうのが真実だったら話は早いよね。私一人だけを降参させれば、それで事態は全部丸く収まるんだろうから」
けど残念、と水月は人差し指を立て、それを真由の胸元あたりへ突き刺すように向けた。
「さっき説明した通りだよ。一人ひとりがそう思っていた、だから集まった。私がやったのはただ、みんなの意見を取りまとめて賛同する人同士で活動する、その宣言役を担っただけ」
「それは水月ちゃんの言ってた多数派のやり方と、何がどう違うの?」
真由がそう尋ねた途端、水月の笑みがニヤリと妖しい歪みを帯びる。その質問が垂らした釣り針に掛かるのを待っていた、とでも言うみたいに。
「さっき上で見てきたでしょう? 私たちは個々にやりたいものを、個々が自由に提案しながら活動してる。誰一人として押し付けたり捻じ伏せたりはしない。意見が合わなければ他のグループに行くこともあるし、逆に折り合いや条件をつけて合意しさえすれば、複数のグループが一つにまとまることだってある。いちおう全体合奏の時間は定期的に設けることにしてあるけど、それも吹きたい曲じゃなければ参加しなくたって良いの。出欠だって取ってないし、もし多数派に戻りたいって子がいるならそれにも何も言わない。そこに居るメンバーだけで都度考えて、その時々で出来ることをやって楽しむ。それが私たちの方針で、私たちの考える課外活動のあり方」
整然と述べられた、水月たち独立組の活動理念。それは真由から見てほとんど瑕疵の存在しない、それこそ理想的な集団活動の形態、とさえ言えそうな光景だった。確かにこのような環境であれば部員たちは不満らしい不満を抱えることもなく、各々の都合に合わせてそれぞれ好き勝手に活動することも可能だろう。みんなで楽しく音楽がしたい。かつてそう語った水月の願望、その本質はきっと、ここにあった。
「でも、それじゃ演奏会とか、そういうのはどうするつもり?」
「そこはまだ協議中、かな。でも今のところ、どうしても出場したいって意見はほぼゼロだよ。仮にそういう子が出場を望むならソロコンやアンコンみたいに少人数で出られるものだってあるし、説得を重ねてより多くの子を引き込む自由だって認めてる。体勢を整えてからどうするかを決める、それで十分間に合うと思ってるの」
「確かに、そうかも」
あ、と真由は慌てて両手で口に蓋をする。今のはどう見ても、ちなつや日向らに対する反意を本人の前で堂々と唱えたようなものだ。気を悪くされたらどうしよう。けれど意外にもと言うべきか、ちなつは真由の発言になどまるっきり無反応で、ただ黙して水月のみをじっと見据えていた。
「これがマーチングやコンクールみたいに規模の大きな競技会だと、もっといろいろ難しくなってくると思うけど。でも音楽の本当の楽しさって、互いに競い合ってしのぎを削り合ってやっと得られるなんて、そんな血生臭いものじゃない筈でしょ? その点でも、私たちの見解は全員一致してる」
「そのせいで、ちなつ先輩たちとぶつかることになったとしても?」
「誤解しないで欲しいんだけど、べつに先輩たちの活動方針を積極的に妨害するつもりは無いの。結果的にそうなっている部分があるとしてもね。だって、お互いに根本から食い違ってる主張を繰り返し続けるのって、すごく不毛なことでしょう? 私たちは私たち。先輩たちは先輩たち。お互いにやりたいことをやりたいようにやればいい。賛同してくれる人を一人ずつ、根気強く説得しながら集めてね」
自分はそうした。そうと言わんばかりの口ぶりで、水月は細めた瞳をちなつに突き刺す。
「こうなったことは私に言わせれば全部、これまで幹部と顧問がやってきたことのツケだよ。説明不足、言論封殺、同調圧力。それを当たり前のものとして部を運営していたせいで、陰に燻る反発に気付くことも無ければ何の手を打つこともしなかった。そんな私たちが荒川先輩たちに、多数派に、これ以上何を譲歩したら良いっていうの? 私たちは先輩たちの願望や目的意識を満たすための駒でも無ければ端役でも無い。一つひとつが個の意識を持つ、れっきとした一人の人間なの」
ここまでの説明を受けて、ようやく真由は事態の全貌を把握するに至る。ただの分断、見解の不一致、なんて生易しいものじゃない。これは一種のクーデターか、さもなければ革命とでも呼ぶべきものだ。部の体制に反発した水月たちの、暴力的でない、しかし決して従うつもりもないという、確固たる意志に基づいての。
「さて、他に意見や反論がなければ、私もそろそろ練習に戻りたいんだけど。――荒川先輩からは、何かありますか?」
「反論は、今は特に。質問ならあるけど」
「何でしょう」
「さっき水月、多数派に戻りたいって子が居れば、それさは何も言わねえって言ったよな」
「言いましたね。そういう子が居るなら勿論、その子の自由意思は尊重するつもりです」
「だったらだ。私らと直接話したいって子がもし居たら、そういう子とハナシさせて欲しい。戻る戻らないはともかくとして、その子たちの考えを直接聞きてえ。文句でも不満でも構わねえから」
「直談判、というわけですか」
ふむ、と手のひらを唇の先に当て、水月は少しの間考え込む。
「まあ話だけはみんなにしておきますよ。ただ、お断りされたからといって私を恨まないで下さいね。さっきも言った通り、私はたまたま矢面に立ってしまっただけの無力ないち部員です。誰かに何かを強制できる立場でもなし。先輩たちとの面談に応じるも応じないも、全ては個々の判断です」
「それで良い。
「ご信用いただけて何よりです。ただ私にも私なりの思惑というものがあるので、過度な期待をされるのは少々荷が重いですが」
どこまでも人を小ばかにしたような笑みを浮かべつつ、水月はちなつの要求をあっさり承諾してみせた。この展開に際してそれでも彼女が不遜な態度を取っているのは、独立組からそちらへ引き抜かれる者など絶対出てこない、という自信あってのことなのだろうか。それがどうにも不気味に思えて、真由の臓腑にギリリと鈍い痛みが走る。
「真由ちゃんからは?」
「私も、特にない」
「じゃあ、話し合いはこれで終わりにしましょう。お互いに活動があることですし」
そう言い残して立ち去ろうとしたところで、ああそうそう、と水月が再び真由へ顔を向ける。
「立会人の役目、お疲れさま。どうしてそうさせられたのか、不思議じゃなかった?」
「それは、まあ」
「真由ちゃんが今日この場で立会人に選ばれた理由。それは、真由ちゃんが『外の目』を持ってるからだよ」
「外の目?」
「ですよね、荒川先輩」
唖然とする真由を無視するように目線を流し、水月はちなつへ問う。それに彼女はおずおずと頷いた。
「水月ならそう考えるんでねえか、って話になった。最初に言い出したのは、私じゃねえけど」
「それが誰なのかはおおかた想像がつきますが、まあこの際置いておきましょう。ではこれにて」
水月が再び踵を返す。待って、とその背に追いすがるように、真由は声を掛けた。
「外の目、って何? 私がそれを持ってるってどういうこと? 言ってることが全然分かんないよ」
「その話はまたそのうちね。真由ちゃんたちも練習に戻らなくちゃでしょ? あんまり無駄話ばっかりしてると、話し合いを言い訳にして練習サボってるってみんなに思われちゃうよ」
そうとだけ言って、水月は軽やかに遠のいていった。くすくす、という耳障りな嗤笑を、その場へ置き去りにして。
そして時は現在へと戻る。
ちなつと真由から全ての報告を受けた永田は、書きかけのコンテに投げ出したペンを指でなぞりながら「んぐー」と大きな唸り声を上げた。
「要するに連中、俺らとは別個に活動していくから、もう構わねえでってことか」
「そういうことになります」
永田への報告はちなつと真由、二人で交互に担当するかたちとなった。立会人としてその場に同席していた以上、真由にもその義務はある。それはあまりにも膨大な情報量をどちらか一人ではまかない切れなかったがゆえ、相互に補完し合うという意味合いもあったわけなのだが。
「厄介だなや。連中に許可出した教頭からも『部としての体面を保ってる以上、こっちからは口出しされねえ。後は吹部の中でなんとか処理せえ』って叱られちまったし」
それもそれで随分と無責任な話だ。真由は向こうでふんぞり返っている教頭に冷たい一瞥を投げ込み、それから再び永田を見やる。年齢のせいもあるだろうが、それ以上にこのところの気苦労がたたっているのか、彼の頭髪には白髪が幾つも入り混じっていた。
「んだども、教頭の言い分さも一理あるんだよな。部活ってのは顧問の私物じゃねえ、
太く浅黒い腕を組み、永田が再び黙考の構えに入る。この分ではどうやら教師側からのアプローチによる事態解決は望み薄、と言えそうだ。とは言えしかし。真由は水月の主張を頭の中で再生する。
自分の目線で見る限り、水月はほぼ盤石の理論武装を施していた。部を辞めるわけでもなければ活動をサボるわけでもない。自由を主張している点を除けば、こちらの活動を妨害しようというつもりも無い。向こうに落ち度が無ければ有効な攻め手を見出せない、という点において、独立組の打った布石は論戦のお手本みたいな完成度だ。それにあれほどの弁舌を披露してみせた水月のこと。仮にこちらが何らかのつつき所を見つけたとしても、あの場ですぐさま穴埋めをしてしまったに違いない。
「こっちも一応最悪の事態に備えて新しいコンテ書き始めてみたんだけどよ、全然ダメだ。用意してた曲と衣装に、この人数じゃあ完全に負けちまってる」
「そんなにですか」
うむ、とちなつに首肯を返し、永田はバリバリと頭を掻きむしった。
「曲を変えるにしても、今度は衣装との釣り合いも取れねぐなるしな。かと言って今さら返品って訳にもいかねえ。まあ曲と衣装はどうにかするとしたって、それで迫力が出せるか? っつうのが最大の問題だ」
演奏、衣装、そして動き。それら全てを巧みに使って観衆に強いインパクトと感動を与える。永田の構想するマーチングがそのようなものである以上、この事態を前提として新たに演出を練り上げたとしても、きっと当初のものから相当にダウンサイジングしたものとなってしまうのだろう。そしてそれは多分、彼の考える感動の領域には程遠い。
「まンず、愚痴ばっか垂れ流してるわけにもいかねえ。現状でやれることは全部考えておかねえとな」
ぱん、と踏ん切りをつけるように、永田はそこで一つ柏手を打った
「幸いにしてマーチング東北大会は十一月頭だし、まだ多少は時間がある。手続きはもう終わっちまってるけど、当日までに連中との折衝が上手くいけば影響は最小限で済むべがらな。それまでの間、とにかく粘り腰で行くしかねえ」
「はい」
「コンテについてはこっちで何とかする。人数が増減したとしてもなるべく練習さ支障が出ねえよう、元々の構成をベースにしながら組んでみる。荒川たちは引き続き、連中の面談と説得に当たってけれ。出来れば協力してくれる奴を他に募って、それぞれ別角度から当たることにするべ」
「分かりました。でももし、上手くいかなかった場合は……?」
「その時は全部、俺が責任をかぶる。それが顧問の役目だ」
そう言い切る永田の顔は、断固たる決意と覚悟に満ちていた。
「面倒ごとを押し付けるみてえで申し訳ねえども、さっきも言った通り部活は大人のもんじゃねえ、お
「はい!」
力強いちなつの返事に真由も声を揃える。そんな二人に永田は一度温かい微笑みを向け、それから「ふう」と小さく息を抜いた。
「それにしても、六十八人か。これだけ多くの部員からここまでハッキリと
置いていたペンを再び手に取った永田が、ぱしん、とクリップ側でコンテの紙を叩く。
「今まで皆さは目的意識を持って取り組んで欲しいって思って、実際そう言い続けて来た。んだどもそれももしかせば、俺自身のただの独りよがりだったんだかも知んねえなあ」
虚しげにそうぼやいた彼の姿には、苦渋の感情をありありと見て取ることが出来た。ちなつも真由もそれに何らの言葉を返すことも出来ず、ただ黙礼して職員室を後にする他は無かった。
「――で、具体的にこれからどうするかっちゅう話だけども」
本日の活動が終わった後で、ちなつから直々に声を掛けられた面々が空き教室へと集められていた。ちなつと日向はある意味当然として、木管からは和香や秋山姉妹、金管からは雄悦に泰司、それとトランペットの奈央が選抜された。真由も勿論このメンツの中に含まれている。『他の部員たちには出来る限り普段通りの練習を優先して欲しい』というちなつの意向により、杏を始めとする各パートのリーダーたちは今回ここには召集されなかった。今後の活動も見据えれば、それは至極妥当な判断だと言えるだろう。
「永田先生が言うには、独立組の扱いをどうするかの最終判断をするのは、来月の二十日。マーチング東北大会の三週間前ってことで、それ以降だと練習の日程的にももう取り返しはつかねえって」
「今からだと約一ヶ月半、ってとこか。時間はあるようで無えな」
沈痛な面持ちで親指を噛む和香に、んだね、と隣のゆりも同意を示す。楓と和解を果たしたあの日以来、ゆりとの親睦を深めていたのはちなつだけでは無かったらしい。部の内外を問わず、和香とゆりが二人揃って行動しているところを、真由は度々目撃していた。
「個別の面談はオッケーって話だったよな。んだども、それ全部をちなつ一人でやるのは流石にしんど過ぎるべ」
日向の率直な意見に、もちろん、とちなつは頷く。
「今回の件、正直私ひとりじゃどうしようもねえって痛感してる。それに私がのこのこ出てったところで向こうも素直には話をしてくれねえと思うし。だがら、今ここに居るみんなさ協力して欲しいの」
「協力は良いども、具体的には何せえっつんだよ? いきなり戻って来いなんて言ったって、反発されるのは目に見えてるで」
雄悦がそう尋ねると、ちなつは全員を見渡しながら作戦を告げ始めた。
「みんなさお願いしてえのは、あの子らの話を聞くこと。それぞれ不満もあったと思うし、水月が言ってた以外の理由があったかも知んねえ。そういう一人ひとりの声を聞いて、私まで届けて。そこまでしてくれりゃ、後の説得は私がやる」
胸に手を当て、熱のこもった眼差しを湛えて嘆願するちなつ。そこに「ちょい待ち」と手を挙げたのは、日向だ。
「説得って、アンタそれ一人でやるつもり?」
「んだけど」
「ジョーダンでしょ。七十人近くいる独立組を一人で相手してたら、半分もいかねえうちに期限切れになっちゃうべ。一本気なのはアンタの良いとこだけど、こういう時には冷静にソロバン弾かねえとダメだって、いっつも言ってらべ」
歯に衣着せぬ日向からの指摘に、うぐ、とちなつがたじろく。
「ちなつの気持ちは解らんでもないし、あの子らに直接伝えてえことだってあると思う。けど限られた時間の中で動かねねえってのを忘れたら、思ってるような結果は出せねえど」
「そりゃあ……うん」
「そんなわけで説得には私も当たるから。まあ半分ぐれえは三島ちゃんに公開説教かました負い目っつうか、そういうのもあるんだけどさ」
「ヒナ……」
「私も、やる」
日向の果敢な姿勢につられてか、そこで和香が靴を鳴らして立ち上がった。
「木管の子らの聞き取りだけで無くて、説得もやらせて。私だって幹部だし、それに今年が最後のマーチングだがら、ドラムメジャーとして絶対成功させてえ」
「助かるよ、和香」
感謝の意を述べ、ちなつが和香の手を取る。
「これで説得役は三人か、まあ十分でねえかな。あんま大勢で掛かっても却って態度がばらついたりしかねないし。てなわけで和香、よろしく」
「こっちこそよろしく、日向」
そこへ日向も加わり、ちなつたち三人で固い握手が交わされた。ありそうで無かったその光景に胸を焦がされつつも、これが部内の分裂騒動という渦中で無ければどんなに良かったことか、と真由は少々複雑な思いに囚われてしまう。
「へば俺は、一年の男子と初心者のヤツら中心に声掛けしてみるっす。説得とかアタマ使うことは苦手なんで無理っすけど、聞き出すぐらいなら何とか出来ると思うんで」
「私も和香といっしょに、木管の子から聞き取りできるかな。って言っても仲良い後輩ってあんま居ねえし、私なんかさ話してくれるかどうかも分かんねえけど」
「大丈夫。お姉ちゃんにならきっと本音打ち明けてくれる子だって沢山いるよ。私もお手伝いするから」
「ありがと楓。それと言いにくいんだけど、出来ればこういうとこでベタベタひっつくのはやめて。恥ずかしい」
「ハッ、ごめんお姉ちゃん。お姉ちゃんの傍に居られんのが嬉しくって、つい」
活気づく一同の姿に喜ばしさを覚えつつ、その一方で、と真由は教室の片隅に目を向ける。泰司や秋山姉妹もそれぞれ協力の意向を示す中、奈央だけは膝を抱えてぽつんと一人、そこに座ったままでいた。彼女が雄悦と一つところに同席するのもあの花火の夜以来。いたたまれなさも心の痛みも、まだ相当残っているに違いない。それを見かねた真由が何気ない風を装い声を掛けようとしていたところに、のそりと雄悦が奈央の傍へ近付いていった。
「松田」
「え、あ。はいっ」
「金管の女子、頼めるか。俺はこういうのあんまり得意じゃねえけど、お前なら友達多いし色んなやつの話も親身になって聞いてやれると思うから。……頼む」
雄悦はそう言うなり、奈央に向かって深々と頭を下げた。そこに言葉通りでない意味合いを見出しそうになったのは、果たして真由が二人のことを知り過ぎてしまったからだろうか。少しためらうように一度唇を結び、そして奈央は雄悦へ笑い掛けた。あの日以前に見せていた、彼女らしい快活さで。
「……はい! 任せて下さいッス、ユウ先輩!」
そんな二人の様子を見て、真由はほんの少しだけ心を緩める。これで何もかもが元通り、という訳にはいかないだろう。けれどここからまた新しい何かを築いていくことは出来る。果たしてそれが望んでいた通りのものではなくとも、あるがままの形として受け入れさえすれば、人と人はお互いに手を取り合って前へ進んでゆける、そういうものなのかも知れない。一度はこじれてしまった雄悦と奈央の関係。目の前の問題解決に向け過去のしがらみを断ち切ろうとしている二人の姿はある意味、これから独立組との折衝に臨もうとする自分たちにとっても決して無関係ではない筈だ。
「へば雄悦には取りまとめを頼もうかな。みんなが聞いて来たことを一覧にして、それを説得役の私らに寄越す。どう?」
「任せれ」
ちなつの打診に胸を張って、雄悦がその任を引き受ける。これでおおよその体勢は整った。あとは少しでも事態が良い方向へ向かうべく、各々に出来ることを精いっぱい果たすだけだ。
「じゃあみんな、負担掛けて申し訳ねえけど、今言った通りの算段でよろしく」
「おうよ」
「そんで最後の最後に、みんなで笑い合って、最高の結果をもぎ取ろう!」
「おー!」
こうして独立組への説得とマーチングの全国最優秀賞、二つの大きな目標に向かう曲北の、史上最大の戦いが幕を開けたのだった。期限まであと五十日余り。そこに向けて祈るような思いを抱きつつ、真由もまた自分の為すべきことをいま一度、しっかりと見据えようとしていた。