私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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1.転入、セットアップ
〈1〉出会いの季節


「起立、礼。先生さようなら」

「はい、さようなら」

 帰りのホームルームを締め括るあいさつと共に、学ランとセーラー服の集団が一斉に散らばっていく。そんな中で真由はいったん椅子に腰をおろし、ふうと一つ息をついた。

 転入から二日が経ち、真由も今のところは無難に過ごすことが出来ていた。新入生たちを迎える入学式も無事終わり、明日からは通常日程での授業が本格的に始まることとなる。新天地での生活もまずまず順調な滑り出しと言えるだろう。とは言え、まだまだ不慣れなことも多い。新しい学校、新しい担任、新しいクラスメイト。そんな多くの『初めて』に囲まれて過ごす日々にいちいち緊張してしまうのは、いかに転校歴の豊富な真由と言えど、さすがに仕方のないことだった。

 校舎のあちこちから生徒たちの賑々しい声が聞こえてくる。放課後を迎え、校内のあらゆる部活が一斉に動き始めたからだ。自分も行かなくちゃ。ホームルームで配られたたくさんのプリントと教科書を鞄にしまい込んでいたその時、チョンチョン、と誰かが真由の肩をつついた。

「お疲れー、真由ちゃん」

「あ、お疲れ」

 (しん)(どう)()(なえ)。隣席の彼女はこの二年三組に編入された真由へ最初に声を掛けてくれた女子であり、真由にとっては秋田で出来た最初の友達、ということになるだろう。

 初対面の真由に「わがんねごどあればなんでもきいでけれな」と秋田弁全開で話し掛けてきた早苗は、しかしこちらがポカンとしているのに気付くや否や「分からないことがあったら何でも聞いてくれていいからね」とにっこり笑顔で言い改め、二重の意味で真由の緊張と困惑を解きほぐしてくれたのだった。以後も彼女は事あるごとに学校や地域のことを説明してくれたり、同級生たちの交わす秋田弁トークの翻訳をこなしてくれてもいる。つまりはとても面倒見の良い子だった。

「どうだった? ウチの校歌」

「びっくりした。始業式の時は斉唱パートだけだったから半信半疑だったけど、ホントに早苗ちゃんの言った通り、すごく長い校歌だったね」

「でっしょー、私も去年の入学式は焦ったもん。これいつ終わんだー、って」

 当時を再現するように憔悴のポーズを取ってみせた早苗に、真由は思わず苦笑してしまう。でもその気持ち分かる、という、今の苦笑は一種の共感によるものだった。

 真由の転入した市立大曲(おおまがり)(きた)中学校、通称(きょく)(きた)、その校歌は異様に長かった。世間一般、校歌というものは全体を通しての演奏時間もせいぜいニ、三分程度の尺であることが多い。だが曲北の校歌は斉唱パートの他に男女別々の独唱パートや語り手までもが配されており、歌詞についても『人は何のために生きるのか』『どう生きるべきなのか』といった重苦しいテーマを文学的な語り口で主張するという、まるで歌劇か何かのような構成となっている。その総演奏時間、およそ十一分。過去数度の転校を繰り返してきた真由ですら、これほどまでの超大作校歌を擁する学校になど未だかつてお目に掛かったことが無い、というほどだ。

「んだから何も知らない一年生なんか、ようやく一番終わって『やったー』って思ってたとこにジャンジャジャーンって二番始まって、そこでショック受けてやられちゃうってワケ」

「新入生の列からバタンとかドカンって音してたね、そう言えば」

「毎年何人かは貧血起こして保健室行きになるんだってさ。まーでも、校歌でアワ食ってたら身ぃ持たないよ。文化祭んときなんか、三年生全員で四十分くらいある曲を歌わされっからね。しかも立ったままで」

「かなりすごいね、それ」

「何百人って規模で大合唱するワケだし、スケールは確かにすんげえよ。ただ生徒視点じゃ他の出し物の準備がある上にそっちの練習もしねえとだから、『めんどくせー』って感じだけどさ」

 からからと笑った早苗が「さあて時間だ」と時計を見たのを合図に、真由も席を立ち鞄を背負う。と、忘れてはならないのが、廊下にしつらえられているコート掛けのところに立てて置かれた黒いハードケースだ。縦に七十センチほどの大きさがあるこの物品は今朝持ち込んだ真由の私物であり、さすがに教室の中には置き場がなかったため、やむなくここでお留守番させていたのだった。把手を掴んでぐいとケースを持ち上げ、真由は早苗のあとを追う。

「早苗ちゃんはこれから部活?」

「うん。新入生の勧誘したり、来月のでっけー大会に向けて練習したりでチョー大忙し」

「そっか。早苗ちゃんは卓球部だったよね、確か」

「んだよー。愛用のラケットはシェイクハンド型、得意技はシュートドライブです」

 シュッシュッ、とラケットを持っている()()で早苗の腕が宙を切る。その姿がどこか滑稽に見えてしまうのはきっと、真由が卓球にそれほど詳しくないからだろう。

「卓球部には何人くらいいるの?」

「十四人。ホントはもう二人いたはずだったんだけど、進学塾行くからって先輩たちが退部しちゃってさ」

「中学校になると、そういう人も出てくるよね」

「でもあんま人数少ねえと団体戦のメンバーもきつくなるからさ。今年の勧誘目標は十人ぐらい、ってミーティングでも話してるトコ」

「じゃあ勧誘がんばらないとだね」

「つってもカンタンじゃねえけどなあ。曲北の一番人気はやっぱ、吹奏楽部だし」

「それも昨日言ってたね。とにかく部員の数がすごいって」

 早苗から聞くところによれば、曲北の生徒数は新一年生を合わせておよそ八百人。これだけでも地域市郡の中学校としては目を瞠るような規模なのだが、中でも吹奏楽部の部員数はゆうに百数十人を誇り、校内人気堂々の第一位なのだそうだ。単純計算すれば、全校生徒の五人に一人は吹奏楽部員、ということになる。無論、それだけ部員数が多いのには相応の理由があるのだが。

「だから新入生勧誘して来いって言われても、宙ぶらりんな子がなかなか見つかんねくて大変なわけよ。あー、吹奏楽部から何人かおすそ分けしてくんねえかなあ」

「みんな入る部活は自分で決めてるわけだし、難しいんじゃないかな」

「だったら掛け持ちでもいいから」

「それは禁止されてるんでしょ?」

「がくぅー」

 大仰にうなだれてみせる早苗の振る舞いが可笑しくて、真由はくつくつと喉を鳴らした。分かりやすいリアクションと共にころころと忙しなく表情を変えるのは、早苗の美点と言って良い。それは彼女といち早く打ち解けられた要因のひとつでもある。

「で、やっぱ真由ちゃんも?」

「うん。せっかく誘ってくれたのに、ごめんね」

「まあしょうがねえべ、転校してくる前から決めてたんなら。でもそれじゃやっぱ、そのケースの中身って?」

「そうだよ」

 ケースを揺すってみせると中でゴトリと音がする。それは真由の体格からすれば、ちょっぴり大きくて重い。けれど今ではこの重さにもすっかり慣れてしまった。外装に付いた幾つかの小傷に当初はいちいちショックを受けていたものだけれど、それも今では一緒に時を重ねたしるし、という気さえしてしまう。こういう感情のことを、きっと人は『愛着』と呼ぶのだ。

「私の宝物。ユーフォニアム、っていうんだ」

 

 

 階段のところで早苗と別れ、それから真由は一階の職員室へと向かった。生徒数が多いのに比例してか、職員室はずいぶんと広く席数も多い。これだけ職員の数がいれば、自分のような転校生でなくとも卒業までに一度も関わることの無い教師が何人かいてもおかしくなさそうである。さてお目当ての先生はいずこ、と真由が周囲を見回していると、職員室の端、応接スペースを区切るパーテーションから「こっちこっち」と女性教師が顔を出した。さっそく真由はそちらへと向かう。

「案内ありがとうございます、()(しま)先生」

「いいのよ。顧問の先生ももうすぐ来るだろうから、とりあえずここさ座って待ってて」

「はい」

「それじゃ私はこれで。何かあったらいつでも気軽に相談してな」

 柔らかく微笑み、そして女性教師は自分の席へと戻っていった。戸嶋()()()。彼女は国語の教師にして二年三組、つまり真由の所属するクラスの担任だ。

 初めて真理子にまみえたのは始業式の少し前、転入手続きのため母と一緒に初めて曲北を訪れた時のこと。かつては自分も器楽系クラブに所属していた、という真理子はそれ以来何かと真由のことを気に掛け、事あるごとに親身な対応を尽くしてくれている。優しさと頼もしさを兼ね備えた大人の女性。どこかシンパシーを覚える、そうした人間性と経歴を有する真理子が自分の担任になってくれて良かった、と真由は心から思っていた。 

 応接スペースはさして広くはなく、小さなテーブルを挟む形で二人掛けのソファが二つ置かれているだけだった。その片側に座った真由は忘れないうちにと、鞄から一枚のわら半紙を取り出してテーブルの上に置く。

「いやあ()りい悪りい、お待たせ」

 待つこと数分。慣れない職員室の空気にそわそわしながら座っていた真由のところへ、一人の男性教師がパタパタとサンダルを鳴らしながらやって来た。真由はソファから起立し教師に会釈する。中肉中背、おおよそ中年ほどの見かけに、どこか不敵さを感じさせる強い眼差し。実際に会うのは今日が初めてだが、彼の容貌はネットの記事などで何度も目にしてきたものに相違ない。界隈では有名人、と言って差し支えないその人物をいざ目の前にして、自分の体が少しだけ強張っているのが判る。

「初めまして、(くろ)()真由です」

「戸嶋先生から伺ってるよ。吹奏楽部顧問で音楽教師の(なが)()(えい)(しん)です。よろしく」

 気さくに名乗り、それから永田が手を差し伸べてくる。うっかりその手を握り返しそうになった真由は、違うそうじゃない、と慌ててテーブルの紙を引ったくった。

「吹奏楽部に入部を希望します。よろしくお願いします」

 入部届。そう書かれた紙を受け取ると、永田は記入内容にざっと目を通していった。

「はい、黒江真由さんの入部届、確かに受理しました」

「ありがとうございます」

「ついでにちょっと聞きてえこともあるから、立ち話もなんだし、まあそこさ座れ」

 先立って対面のソファへ腰を下ろした永田の勧めに従い、真由は再びそこへ着座する。永田はシャツの胸ポケットからメモ帳を取り出し、えーと、と言いながら数枚ページを繰った。

「黒江は前の学校でも吹部だったって?」

「はい。ユーフォ自体は、小学四年生の頃からずっとやってきました」

「てことは今年で五年目か。自前の楽器も持ってるってハナシだっけな。今日は持ってきてるか?」

「はい、ここに」

 テーブルの横に置いてあったケースを指差すと、んむぅ、と永田が満足そうに喉を鳴らす。

「実はちょうど去年、ユーフォ吹いてたやつが退部しちまって、一本抜けててなぁ。そこに黒江が入ってくれんのは大歓迎だ。学年ごと二本ずつになれば全体のバランスも取れっからな」

「はあ」

「それに二年のもう一本が――あぁ、まあ、それはいいか」

 永田は何かを言い掛け、そのまま引っ込めた。もう一本が、何だろう。直に訊くのは憚られ、真由はそのまま永田の次の言葉を待つ。 

「黒江はうちの吹部のこと、どんくらい知ってる?」

「転校前からマーチングの大会動画で観てたりはしました。いわゆる強豪校、ですよね」

「その呼ばれ方はあんま好きでねえな。まあ結果から見れば、そう言われんのも仕方ねえけど」

 額の辺りをぽりぽりと指で掻きつつ、永田が何かを思案するように口角を歪める。すみません、と謝りかけた真由を押しとどめるように、彼はこちらに向けて手の平を小さく挙げた。

「それは良いんだ。ただ一応確認がしたくてな、そういう環境に黒江は途中から入ることになるわけでよ。入部前の想像とは違ってしんどく感じることも多いかも知れねえけど、大丈夫だが?」

「はい。一生懸命がんばります」

「へば良いな」

 へば、って何? 心の中で首をかしげる真由の目の前で、永田は笑顔で両手を広げ、高らかにこう告げた。

「曲北吹奏楽部へようこそ、黒江。さっそく上さ行くべ。そろそろ前準備終わってミーティング始めてる頃だ」

 はい、と返事をして鞄とケースを手に取り、真由は立ち上がる。いよいよ始まる。その喜びと緊張感に、背骨の辺りをびりりと静電気のような感覚が駆け上がっていった。

 

 

「二年三組、黒江真由です。群馬から引っ越してきました。前の学校でも吹奏楽部で、担当楽器はユーフォでした。まだ右も左も分かっていないので、皆さんにいろいろ教えていただきたいと思ってます。よろしくお願いします」

 ひとしきりの入部挨拶を終えた真由がぺこりと頭を下げると、その場にいた部員たちから一斉に大きな拍手が鳴らされる。永田に連れられ入った第一音楽室の中では、想像以上にたくさんの部員たちがひしめき合っていた。これでもまだ新一年生は参加していない、というのだから驚く他はない。今ここにいる人数だけでも、フル編成のバンドが二つは組める。それが溢れ返る大人数の吹部部員を初めて目にした真由が抱いた、率直な感想だった。

「っつうワケで、今日から仲間が一人増えることになりました。せっかくの経験者だし楽器持ちなんで、黒江にはそのままユーフォを担当してもらおうと思います。転校してきたばっかで色々と不安も多いと思うんで、みんな仲良くしてやって下さい」

「はい!」

「転校生の紹介は以上。後は荒川(あらかわ)、いつも通り頼むな」

「はい」

 荒川、と永田に呼ばれたショートヘアの女子部員が返事と共に立ち上がった。その手には金色のユーフォが抱かれている。

「今日の活動は予定通り、新入生の勧誘とパート練習になります。入部希望と見学の子がいたら、ここか各パートの練習場所まで案内して下さい。各パートリーダーは見学者の対応とパート分けテストについての説明など、昨日打ち合わせした通りに動いて下さい」

「はい!」

「今日は六時終了なので、十分前にはここに集まってミーティングをします。いつものことだけど時間に遅れないことと、練習で使った教室の片づけをちゃんとやること。新入生の手本になるよう、当たり前のことを当たり前にきちんとしましょう」

「はい!」

「では練習を始めます。今日も一日よろしくお願いします」

「よろしくお願いします!」

 てきぱきと指示を飛ばす荒川は、もしかしなくても吹部の部長を務めているらしい。解散! という力強い号令を合図に、部員たちは各々の集合場所へと散り散りになっていった。真由もまた低音パートのところへと合流する。その場にいた十名ほどの中で、最初に声を掛けてきたのはさっきの荒川だ。

「よろしく。私は荒川ちなつ。三年二組で、吹部の部長やってます」

「よろしくお願いします、荒川先輩」

「荒川でもちなつでも、どっちでも呼びやすい方でいいよ。それで黒江さんのことなんだけど、友達や後輩のこと『さん』とか『ちゃん』付けで呼ぶのって苦手でさ、私。だから『真由』って、下の名前で呼び捨てにしたって良い?」

「勿論です。好きに呼んでください、ちなつ先輩」

 真由の快い承諾と返礼代わりの下の名呼びに、ちなつは受領の意を示す白い歯を覗かせた。その面相の上には勝気に吊り上がった瞳がぎらりと輝いている。言動の頼もしさと、群衆をぐいぐい引っ張る力強さ。およそ大所帯を束ねるリーダーというものはかくあるべし、という要素を彼女は兼ね備えていた。

「それと私、部長の他に低音パートリーダーも兼任してんだけど、忙しいもんでパートのことは基本的にこっちに任せてっから。普段の練習に関して大抵のことは、コイツに聞いてけれな」

 ちなつが差し伸べた手の先で、ショートボブの女子が恭しく一礼する。真由とほぼ同じ身長でスレンダーなちなつに比べ、その女子は縦にも横にも二回りほど大きかった。

「三年五組の(なか)(じま)()(なた)です。担当楽器はチューバで、忙しい部長さんの代わりに副リーダーとして低音パートの指導を受け持ってます。よろしくね、黒江さん」

 瀟洒にはにかむ日向のやたらかしこまった挨拶に、真由はすっかり委縮してしまう。とその時、「ちょっとちょっとー」と横からちなつが割り込んできた。

「ヒナぁ。そうやって初対面の時だけいい子ブリッ子すんの、いい加減やめれって」

「ブリッ子でねえってー。これが私の地なんですぅ」

「まーたウソばし言って、コイツ」

 どん、とちなつが拳で日向の肩を小突き、日向が「ぶう」とほっぺを大きく膨らませる。周囲から笑いがこぼれているところを見るに、どうやらこちらが彼女本来の姿なのだろう。ノリも人当たりも良さげな日向の振る舞いには、真由も素直に好感を抱くことが出来た。他に数名の先輩たちの紹介を経た後で、今度は細身の男子部員が一歩前へと進み出る。

「三年七組、()(とう)(ゆう)(えつ)。担当楽器は黒江と同じユーフォだ」

「よろしくお願いします」

「それと、俺のことは『ユウ』って呼んでけれ」

「ユウ、ですか? でもさすがに、先輩にそれはちょっと」

「先輩後輩とか、そういうの気にしねくて良いがら」

 しばし困惑していた真由を見かねたのか、あー黒江ちゃん、と日向が口を挟む。

「こいつ、自分の『雄悦』ってフルネームがジジ臭くてヤダ、って駄々こねてるだけだがら。ウチらみんなして名前か苗字のどっちかで呼んでるし、黒江ちゃんも何とでもお好きにドーゾ」

「おいヒナ、余計なこと言うなって」

「分かりました。じゃあ慣れるまでは、伊藤先輩で」

「待て黒江、だがらユウだって」

「話も丸く収まって良かった良かった。したら次、二年どうぞー」

「人の話聞けって!」

 けらけらと笑い声を上げた一同に混じり、真由もこっそり笑みをこぼす。男子部員の地位が低いのはどこの吹部でも変わらないものらしい。ちょっぴり内気ではあれど人付き合いが悪そうでもない雄悦に対し、いい人ではありそうだ、と真由は率直な感想を抱く。

 続けて二年生のパート員とも一通り挨拶を交わした後、ふと真由はあることに気が付いた。

「そう言えばさっき永田先生に、二年生のユーフォ吹きが私以外にもう一人いる、って聞かされてたんですけど」

 紹介された面々の中に、該当する人物はいなかった。真由の呈した素朴な疑問に、日向とちなつは「あー」と何かを言い淀む。

「ソイツなんだけど、なんか家の用事あるらしくてさ。今日は部活休むって」

「そうなんですか」

「明日はちゃんと部活に来ると思うから、そん時に本人と直接ハナシして」

 分かりました、と返事をしつつ、真由はちなつの席の隣に置かれた空の椅子をちらりと見やる。自分と同学年のユーフォ吹き。真由の同僚となるその子は果たしてどんな人物なのだろう。仲良く出来るといいな。そんな事をぼんやりと、胸の内に思い描きながら。

「さ、自己紹介も済んだことだし、そろそろ練習始めるべ。準備できたらいつもの教室に集合」

「はい!」

 日向の一声に皆で返事をし、低音パートの面々は各々支度を始めた。ケースを地面に寝かせ、真由は金色のロックに手を掛ける。パチン、という気持ちの良い音と共に外れるロック。持ち上げた蓋の内側にはいつも通り、きれいに磨き上げられた銀色のユーフォニアムが横たわっていた。

 

 

 

 入部一日目の練習を無事に終え、帰途に就いていた真由はぶるりと体を震わせる。辺りはすっかり薄暗い。さすがに雪はすっかり溶けてしまっているけれど、時折吹く風は春と言われてもにわかには信じがたいほどに冷たかった。道理でその辺の樹々に、桜の花はおろか芽吹きさえも見当たらなかった筈だ。桜前線がこの辺りを通過するのは、まだ当分先のことなのだろう。

 周囲の生徒たちがみな制服姿で歩く中、自分一人だけがコートを着るのはどうにも気後れしてしまう。さりとて何の対策もしないと体調を崩してしまうかも知れず、転校して日の浅い身としてはそんな事態に陥るのも極力避けたい。明日からは内側に何か一枚着込もう。そう心に決めつつ渡りかけた橋の上で、ふと顔を向けた先の景色に、真由は思わず足を止めてしまう。

「うわあ、」

 街のど真ん中を流れる一本の川。その流れの先にそびえる大きな山の稜線からは僅かに夕陽が顔を覗かせていて、山肌を掠めてこぼれ来る朱色の光は川面の波に弾かれ、いくつもの煌めきを放っていた。濃紺とオレンジが織り成す色彩の幻想。初めて見たはずなのに、目の前の光景には何故だか強烈な懐かしさを覚えてしまう。今度ここからの眺めを撮ってみよう。そんなふうに思った時、夕陽は山際に飲み込まれるようにとぷりと姿をくらました。

 日没の瞬間を見届けてから、停まっていたつま先を再び家路へと向ける。橋を渡り川沿いの堤防道路をしばらく歩くと、やがて閑静な住宅街の一角に少し古びたアパートが見えてきた。ここの二階の一室が黒江家の新しい住まい、つまりは秋田の地における真由の我が家、というわけだ。ただいま。玄関のドアを開けて帰宅を告げると、室内にはおいしそうな匂いが漂っていた。

「お帰り。先に着替えておいで」

 奥のリビングから母の声が響く。うん、と返事をして真由は靴を脱ぎ、家へと上がった。

 これといって特徴のない2DKの間取り。玄関に接した短い廊下のすぐ右手側にはトイレや浴室などがあり、正面方向がリビング代わりにしているダイニングキッチンと両親の寝室、そしてトイレと反対側の左手側が真由の自室となっている。六帖ほどのこぢんまりとしたフローリングの部屋、そこにはまだ引っ越し用の段ボールがいくつか積み上がったままでいた。そのうち機を見て整理しようとは思うのだが、半分くらいはいつも封を切らぬまま押し入れの肥やしとなってしまう。我ながらズボラなことだと思いつつも、それはそれで次の引っ越しをするときに荷造りの手間が省けて良い……というのは、これまでの人生で積んできた真由なりの経験則みたいなものである。

 ともかく部屋着に着替えよう。そう思ってタンスから取り出したTシャツを頭からかぶったまでは良かったのだが、裾が胸のところでパツンとつっかえたことに、真由は閉口してしまう。おかしいな、去年の秋まではちゃんと着られたのに。いかに成長期とは言え、こうして毎年のように体型が変わってしまうのは少々いただけない。ついでにブラも若干キツくなってきている。近いうち、まとめて新しいのを買っちゃおうかな。そう考えながらガサゴソとタンスの中身を引っ掻き回し、どうにか体に合いそうなものを見繕う。

 着替えを済ませてリビングに出ると、奥のキッチンでは母が鍋の中身をおたまでかき混ぜているところだった。香ばしいにおいに鼻が自ずと反応してしまう。おみそ汁と焼き魚。特に好き嫌いのない真由にとって、母の手料理は何よりのごちそうだ。

「お母さん、これ学校からのプリント」

「後で見るから、テーブルの上に置いといて」

「はーい」

 テーブルに数枚のプリントを置き、それから真由は夕食までの暇潰しにと、リビング中央に設置されたテレビの前へと腰を下ろす。たまたまやっていたのはローカルニュース番組で、複数人のキャスターたちが桜の開花予想や各種催事など地域の話題を取り上げているところだった。

「……次に、県内の各小中学校では今日から明日にかけ、入学式が行われています。今日はそのもようを特集してきました」

 黄色い帽子をかぶり、真新しいランドセルを背負って元気にあいさつする男の子。着慣れない学生服に身を包み、緊張した面持ちの女子生徒たち。大から小まで様々な新入生たちの姿が画面に映し出される。どきどきしてます。授業についていけるか不安です。お友達いっぱい作りたいと思います。そんな瑞々しいコメントが出る度、その気持ちわかるよ、と真由は心の中で相づちを打つ。

「ただいま」

 その時ちょうど玄関から、帰宅を告げる父の声。黒江家の夕食は特別な場合を除いていつも父と母、そして真由の一家三人が揃った時と決まっている。おかえり、と返事をして立ち、真由は食卓へと向かった。

 

 

 父の仕事の都合で秋田に転居することが決まったのは、今から二週間ほど前のこと。突然と言えば突然かも知れないが、真由にとっては慣れっこでもある。山口、和歌山、静岡、東京、群馬。物心ついてからの記憶だけでも、黒江家は数年ごとに全国単位の転居を繰り返してきた。父がそういう職種なのだから仕方がない。大きくなった今ならそう言えるのだけれど、幼かった頃はせっかく出来た友達と離れ離れになるのが辛くて悲しくて、わんわん泣いたりもしていたものだった。

「今日から部活だったんだってな。どうだい、初日の感想は?」

「すごく楽しかったよ。先輩たちも優しいし、みんな上手いし。こっちに転校してきて良かった」

 そうかそうか、とすっかり上機嫌な父がグラスに景気よくビールを注ぐ。泡を立てて満たされる金色の液体。その味わいがいかなものであるかを、真由はまだ知らない。

「これもお父さんのおかげだね」

「そう言われると、父さんも頑張り甲斐があるなあ」

「あらあら。すぐ調子に乗るんだから、お父さんは」

 三人家族の賑やかな会話に食卓は華やぐ。短い周期での転校を強いられる娘を不憫に思ったのか、両親は真由に二つの贈り物をくれた。一つは真由の愛器である銀色のユーフォニアム。これは中学に上がる時に入学祝いを兼ねて母に買ってもらった。そしてもう一つは、ある程度ではあるのだが、転入先の学校を好きに選べる権利だ。

『秋田に行くなら大曲北中がいい。吹奏楽の強いところなんだって』

 そんな娘の希望を、父は二つ返事で了承してくれた。これが父の通勤にかなりの負担を掛ける選択であったことは、もちろん真由にだって分かっている。けれどこのことに関してだけはいつも、真由は一切の遠慮をしなかった。親の気遣いには素直に甘えておくべきだ。それを無碍にしてしまうのは却って親不孝なことだと、そう思うから。

「そうそう。今日のお買い物中、お隣の奥さんとばったり会ってね」

「ああ、柴田さんね」

「それでちょっとの間話し込んでたんだけど、秋田には『ボダッコ』っていうすごく塩っ辛い鮭があるんですって」

「塩辛い鮭? 普通の塩鮭じゃなくて?」

 父が怪訝な顔つきをしながらグラスを仰ぐ。

「私もそう思って訊いてみたんだけどね、何だか全然違うらしいの。しょっぱさがすごくご飯に合うから是非食べてみて、ってお勧めされたから、今度買ってきてみるわね」

「塩辛い鮭かあ。酒にも合うといいな」

「またお父さんはすぐそうやって、お酒の話に持っていく」

「だって、せっかく酒どころの秋田に引っ越してきたわけだしさ。美味い酒には美味い肴が欲しくなるもんなんだよ」

「そう言ってこないだも飲み会でべろんべろんになって、職場の方にご迷惑かけたばっかりじゃない」

 呑み過ぎもほどほどにしてよ、と母の窘めを受けた父が、少しばかり居心地悪そうにぼりぼりと襟首の辺りを掻く。酒好きの父は毎夜のごとく晩酌を欠かすことが無い。いつぞやも健康診断で注意すべき事項があったらしく、そのことを母に咎められたりもしていた。

「でもボダッコもそうだけど、説明されないと全然意味の解らない言葉って、やっぱり何処にでもあるものね」

 話題を切り替えた母に、うーん、と父も唸り声で応じる。

「秋田弁ってけっこう難しいよな。発音は割と聴き取りやすい方だと思うけど、言い回しに特徴があるっていうか」

「お父さんの職場でも、やっぱりそういうことってあるの?」

「大半は地元の人だからな。それでも『んだのが』が『そうなのか』だとか、『へば』が『それじゃあ』っていう意味だってのは、ここ一週間でようやく分かってきたかな」

 それを聞いて、なるほど、と真由の中で一つ合点がいく。あの時永田が『へば良いな』と言っていたのはきっと、『じゃあオッケーだな』と確認するような趣旨の発言だったのだろう。

「私はまだ全然分かんない」

「そのうち分かるようになるよ。クラスの友達や部活の仲間と会話してるうちに、自然と慣れていくさ」

「そうだね。私も早苗ちゃん達から教わりながら、少しずつ覚えていくよ」

 お茶碗に残っていたひと口ぶんのご飯を頬張り、ごちそうさま、と手を合わせる。自分の食器を自分で洗ってから、真由は再び部屋へと戻った。

 机に向かい、明日の授業に備えて教科書をパラパラ眺めつつ、部活でのことを振り返る。練習初日となった今日、真由には一度に大量の楽譜が与えられた。目分量にして数十曲分のそれらは全て、今後の演奏会や大会などで吹くことになる曲目。うち数曲は来月に迫る本番に向け、優先的に練習を進めるようにと申しつけられた。今までとは比較にならない量をこなすだけの習熟スピードと、一曲一曲を高い質に仕上げるべく道を究め続ける姿勢、その両方が曲北では求められている。そこに一年遅れで入る形となった自分は、今はただがむしゃらに追いすがるしかない。

 そんな環境に気後れするような気持ちを、しかし真由は全くと言って良いほど抱いてはいなかった。上手い人たちの中に身を置くことで、自分もそこへ至ろうと一生懸命練習し、ユーフォの腕を磨いていく。それは今の真由にとってこの上もなく幸せなことなのだった。

 

 

 

 それは翌日の放課後、今日も練習を始めよう、と真由が楽器ケースに手を掛けていた時のことである。

「あなたが黒江真由さん?」

 後ろからの呼び声に不意を突かれ、真由の身が竦む。漉いた和紙のように透明で、新雪のように穢れのない声。さりとて今の声色に思い当たる人物はいない。恐る恐る真由が振り向くと、そこに立っていたのはやはりと言うべきか、全く見覚えのない女子だった。

「あ、はい。あの」

「緊張しなくていいよ。私もあなたと同じ二年生」

 ほら、と女子は自身の胸元の名札を指差してみせた。校則により曲北の全生徒が付けることを義務付けられているプラスチック製の名札には、それぞれの学年を表すカラーマークが刻まれている。彼女の学年色は真由のそれと同じ、赤色だ。

「二年八組、(なが)(さわ)()(つき)。昨日は部活休んでて挨拶できなかったけど、噂は聞いてるよ。これからよろしくね」

 簡単に自己紹介を済ませ、水月が手を差し伸べてくる。よろしく、と握手をした真由に、彼女はフワリと無垢な笑みを向けた。それはあたかも鏡を見ながら何度も練習したみたいな完璧さで、綺麗さと可愛さの良いとこ取りをしたような彼女の端正な造形を最大限に活かし切るものだった。

「黒江さんもユーフォ?」

「も、ってことは、長澤さんも?」

「そう。これでユーフォの二年は私と黒江さんの二人になる、ってことだね。それと、私のことは『水月』でいいから」

 黒く艶深いさらさらのロングヘア。人当たりの良い物腰。そして、ユーフォ吹き。そんな水月に真由がある種の共感を抱いてしまったのも、きっと偶然では無かったのだと思う。お返しにこちらも下の名で呼ぶことを許可してあげると、「嬉しい」と目を輝かせた水月が両手で真由の手を、いま一度ぎゅっと握り締めた。

「仲良くしようね、真由ちゃん」

 それが水月との、最初の出会いだった。

 

 

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