私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈17〉曲北文化祭

 コンコン、と戸を叩くと、内側から「どうぞ」という返事。拍動を高める胸を押さえて一度深呼吸をし、それから真由は戸を開ける。いつだったかも日向と二人きりで会話した教材保管用の資料室、今回そこで真由を待っていたのは独立組のうちの一人、玲亜だった。

「ごめんね。練習の邪魔しちゃって」

 取って付けたようなこちらの愛想笑いに対し、玲亜はボンヤリとしかめっ面を張り付けたままだ。埃っぽくて息もつけないような空気が二人の間にまたがる。けれどそれに臆することなく、真由は玲亜の真正面に用意されていた椅子へと腰を下ろした。

 さて、彼女からはどんな話が出てくるのやら。居ずまいを正すフリをしながらそっと玲亜の様子を窺う。玲亜は普段よりもずっとひんやりとした雰囲気に包まれながら、しかし微かにそわそわと、椰子の木みたいな頭頂の縛り髪を揺らしていた。

 

 

 

 

「玲亜ちゃんとの面談を、私が、ですか?」

「そう」

 九月も折り返しを過ぎた昼下がり、給食後の休憩時間中に日向の呼び出しを受けた真由は、廊下の片隅でその旨を彼女から告げられていた。

「連日の粘り強い交渉のおかげで、三島ちゃんも箸にも棒にもかかんねえような当初の状況からはだいぶ軟化して来てんだけどさ。それでも踏み込んだ話をしようってなるとすぐダンマリで。それで昨日言われたのが、私らでねくて真由ちゃんさなら喋る、って」

「どうしてでしょう。玲亜ちゃんがわざわざ私を指名するなんて」

「聞きたいのはこっちの方。まあ何となく予想はつくけどね。水月が一目置いてる真由ちゃんだからー、とか」

 本当にそんな理由なのだろうか? もう一つ確信を持てぬまま、真由は何だか宙ぶらりんになったような気分を味わう。そもそもからして、自分と玲亜との関わりはそれほど濃かったわけでもない。彼女が一緒に花火大会に出掛けたという水月と自分とでは、それこそ雲泥の差とすら言えるだろう。彼女と話す機会があったのはせいぜいパート練習中、指導のために幾らか声掛けをした程度のこと。それ以外に彼女とじっくり会話したのは……と、そこで一つ思い当たった真由は「あ、」と小さくこぼした。

「ともあれご指名があった以上、何とか真由ちゃんさ行ってもらいたくて。もし都合悪ければ無理にとは言わねえけどさ」

「いえ、大丈夫です。私もちょっと、玲亜ちゃんに聞いてみたい事がありますし」

 そう答えると「助かるぅ」と日向が両手をすり合わせる。

「で、場所と時間についてなんだけど――」

 

 

 

 

 こういった経緯から、真由は指定された通りの日時に話し合いの場へとやって来たのだった。とは言え先般からの打ち合わせの通り、真由の役割は玲亜の意見を聴き取るところまで。どうやって玲亜を説得するか、なんてことを考える必要は無い。聴き取った後のことはちなつたちに委ねれば良いのだ。その点、臨機応変な受け答えを求められることがないこの役回りは、真由にとって比較的気楽とも言えるものだった。

「さて、じゃあ何から話そっかな」

「その前に、一ついいすか」

 重苦しい雰囲気の中、割とすんなり口を開いてくれた玲亜に「どうぞ」と真由は発言を促す。

「黒江先輩、どうして私と直接話してくれる気になったんですか?」

「玲亜ちゃんに指名されたからだよ? だからこうして来たんだけど」

「先輩は、断っても良かったはずです。直接的には何も関係ねえんですから」

「一応ユーフォの先輩として、そう言われちゃうのはちょっとショックなんだけど」

「それなのに来てくれたのは、『黒江先輩になら喋る』って私が中島先輩さ言ったから、ですよね? つまり先輩は知りたかったから聞きに来てくれたんです。私が何考えてこうしたかを、自分の目と耳で、直接」

 玲亜の口調はこちらの心理を読み当てるかのような確信の空気を帯びていた。興味本位と好奇心。こうまでど真ん中に直球を投げ込まれては、素直にそうと認めざるを得ない。苦笑を浮かべる真由の態度からあらかたを察したのか、玲亜はやや失望めいた鼻息と共に眉間へしわを寄せる。

「じゃあ、どうして先輩さだけは喋る気になったか、ってのは解りますか?」

 彼女にそう問われるのを、真由は薄々ながら予測していた。他にも沢山いる部員たちの中で、玲亜はわざわざ自分なんかを対話相手に指名した。それが全くの無意味である筈は無い。玲亜はきっと真由ならば、いや真由だからこそ、自分の話を聞き入れてくれると考えたのだ。そして彼女がそう考える、その根拠となるものは。

「多分だけど、春の一件でしょ。玲亜ちゃんとちなつ先輩がぶつかって、先に帰った玲亜ちゃんを私と水月ちゃんとで追い掛けた、あの一件があったから」

「……覚えてて、くれてたんですね」

 こくり。玲亜をなだめすかすように真由はゆっくり大きく頷く。正確にはつい最近になって思い出したと言うべきなのだが、勿論そんなことは当の本人に言えやしない。それにあの日の出来事がきっかけとなって、玲亜と水月は親しく交わりを持つようになったのだ。それが今のこの事態に繋がっているのだとしたら、事前に知りようが無かったとは言え、他ならぬ自分がその片棒を担いでいたことになる。この事実から目を背けるのは、玲亜に対してひどく不義理なことのように思えた。

「だけど玲亜ちゃんには私、大したこと何もしてあげられなかったって思ってる。玲亜ちゃんを引き留めに行ったのも正直言えば、二人で行こうって水月ちゃんに誘われたからだし」

「何となく想像ついてました。今回のもですけど先輩って、自分からそういうことするタイプには見えねがったですから」

 そう述べた玲亜の微かな苦笑に、真由は舌の上へほろ苦さを刷り込まれたような気分に陥ってしまう。他人に自分がどう思われているか。それをこうして眼前に突き付けられるのは殊のほか窮屈で、しんどいものだ。

「でも、私は嬉しかったんです。あの時、誤解されがちな私に声掛けてくれて、すぐ周りとトラブル起こす私みたいなヤツを気遣ってもくれて。そういう人が二人も居るって思えたのが本当に救いだったし、ありがたかったんです」

「玲亜ちゃん……」

「それが誰かに誘われたからだったとしても、黒江先輩は来てくれました。あんな状況なら普通、『一人で行けば』って突っぱねてたっておかしくないです。だから私、水月先輩だけでねくて黒江先輩のことも、あの日からずうっと尊敬してました」

 往時を思い返すみたいに、玲亜はぱちりと瞼を伏せた。孤独の淵で差し伸べられた手のぬくもり。それはきっと彼女にとって他の何にも代えがたい、縋るべき大事な(よすが)だったに相違ない。少なくとも、あの瞬間だけは。

「けど水月先輩には、それ以上に感謝してます。あの人は私に吹部での居場所を与えてくれたんです」

 次に睫毛をひるがえしたとき、見開かれた玲亜の眼にはそれまでとは異なる、強い想念が宿っていた。

「居場所?」

「何にも知らねえ私にこの部のことを教えてくれて。吹奏楽がどういうものかを教えてくれて。一人で居た私を、色んなところさ連れて行ってくれて。初めは()してこんなに気遣ってくれんだろう、何して私なんかにここまで優しくしてくれんだろう、って不思議に思ってました。けど夏休み中のある日、先輩方がコンクールの練習で音楽室さ居る時、個人練習してた私のところに水月先輩が来て、言ったんです」

「何を?」

「『見てごらん。ああやって自分たちの思い通りにするためにそれ以外を犠牲にするのが、あの人たちのやり口だよ』って」

 真由は息を呑む。水月が玲亜に述べたというそれは、何をどう解釈しても悪意的に過ぎる物言いだった。

「それ聞いて私、春にあんだけ悩んでたのがバガくせえって思うようになって。大会の為とかコンクールの為とか、そんなんを理由に私らは自分のやりたいことを何一つ自由にやれねえで、それに文句ひとつ言いにくい状況なのは正直すごいストレスでした。でも荒川先輩らにしてみれば、そっちの方が都合が良かった。部を円滑に回すためっていう建前は結局、自分らのやりてえことに私らを巻き込むための体のいい方便だったんだって、その日から考えるようになりました」

 吹きたいと思った曲も自由に吹けない。やりたいと思ったことも満足に提案できない。玲亜は元々そのことに強い違和感を覚えていた。あの時は日向の仲裁や水月と二人掛かりでのケアがあったから一旦手打ちにすることが出来ただけであって、事の本質はそこへ置き去りにされたままでいた。そして水月の関与によって、それは再び目を覚ましてしまったのだ。

「その頃から、周りに居たメンバー落ちの子らも同じようなことを言い始めたんです。うちの吹部は自由が無さすぎる、もっとやりたいこと好きにやりてえ、って。最初は二人三人、って感じだったのが気付けばどんどん増えてきて、私と同じことを考えてる人がこんなに居たんだ、私の気持ちを分かってくれる人がこんな大勢居るんだってなったら、それまでの自分がどんだけみじめだったかって考えさせられました。それと同時に、この人たちの居るところが私の居場所なんだって、そう思うようにもなりました。そういうモンを私にくれたのが水月先輩なんです」

「だから玲亜ちゃんは水月ちゃんと一緒に、私たちから離れて独立組に加わることにしたんだね」

「言っときますけど、水月先輩からは直接誘われたりなんかしてません。みんなで『やろうよ』って流れになったから、私もそれさ手ぇ挙げただけです」

「その流れに、水月ちゃんはどんなふうに関わってたの」

「最初にみんなの前で話を切り出したのは他の先輩方です。その人らと水月先輩との関係は、詳しくは知りません」

 それは恐らく真実だった。良くも悪くも正直者の玲亜のことだ、例え恩人を庇う為であっても嘘をつくようなことなど決してしない。そして玲亜による一連の告白は、『私たちは皆自分の意志で独立を決断した』という水月の主張を裏付けるものでもあった。

「じゃあ今、独立組の活動はその子たちが主導してるってこと?」

「そういうのは無いです。水月先輩からも聞かされてると思いますけど、私らの活動は基本的に自由ですから。合奏の指揮者も交代制で、希望者が名乗り出たりジャンケンで決めたり、その時々によって違います」

「それは本当に玲亜ちゃんたちの望んでいた、楽しい音楽のやり方だった?」

 あえて鋭く、真由はその質問を投げ込む。玲亜はしばし視線を彷徨わせ、そして考えをまとめるように一度、深呼吸と共に天井を見上げた。

「正直なところ、分かりません。あくまで一つのやり方って感じで、いざ動き出すときにそこまで厳密に決めてたワケでも無かったですし」

「そう」

「だけど現状、誰からも不満は上がってないです。みんな吹きたい時に練習に来て吹きたい曲吹いて、帰りたい時に帰って。ハッキリ言ってそれ以前の部活よりもずっと、私らは今のこの体制に満足してます」

 堂々と言い張る玲亜の姿勢に、それもまた彼女の本音だということを真由は悟る。独立組の活動に強要は無い。理念こそあれ目標も目的もそこには存在しない。したがって自己研鑽のために夜遅くまで居残り練習をする必要も無ければ、大して好きでもない曲を吹きこなすために努力を重ねる責務も無い。あるのはただ純粋に楽しさのみを追求しそれに徹することだけ。大きな喜びを作るのではなく、小さな不満を募らせないための構造。それを独立組は発足から蜂起までの過程、そのどこかで組み上げたのだ。

「私が喋りたかったことは以上です。先輩には申し訳ねえですけど、せっかくみんなで作ったこの居場所を壊されたくねえって思ってますし、自分から抜ける気にもなれません」

「分かった。ありがとね、色々話してくれて」

「いえ」

 途端に言葉少なになった玲亜を見て、ふと真由は思う。どうして玲亜はここまであけすけに独立組結成のいきさつを語ってくれたのだろう。玲亜が水月へ個人的な恩義を感じていることと、それに前後して吹部に対する不信の声が彼女の周りに集まったこと。そこに見え隠れする水月の存在。それらはまるで、事件の背景をそれとなくこちらへ匂わせているみたいだった。

 仮に玲亜の語ったことが全て真実であるとして、しかし彼女に見えないところで水月が他の部員にも何かを吹き込み、そして巧みに操ってみせた……そういう可能性を否定する材料にはならない。と言うよりもむしろ、水月は玲亜にしたのと同じような手段を用いて不満を抱く子を一人ずつ丸め込み、時に扇動し、そうして今回の事態へと漕ぎつけたのではないだろうか。何となくではあるが、そんな気がしてならない。

「へばそろそろ練習に戻りますんで、私はこれで」

「あ、ごめん。玲亜ちゃんに聞きたいこと、もう一つだけあった」

 聞き役に徹し過ぎていたためか、真由はうっかりそのことを忘れそうになっていた。慌てて手を伸ばした真由に「何ですか?」と、玲亜が訝しみつつ応じる。

「私としてはこっちが本題なんだけど。玲亜ちゃんは私やちなつ先輩とまた一緒に吹くの、もうイヤだって思ってる?」

「……この状況でそれ聞いて、どうするっていうんですか」

「難しく考えないでね。ただ玲亜ちゃんたちが自分たちのやりたい音楽をやることと、私たちと一緒に音楽をすることって、そんなに矛盾してるのかなって思っちゃって」

 それは妥協点を探り出すためではなく、真由の抱える素朴な疑問からの質疑だった。より高みを目指すための音楽と、純粋に楽しむための音楽。これらは一見相容れるところが無いようでいて実はどこかで繋がっている、そうであるような気がしてならない。楽しさを求めるためには本当に、一切の縛りから脱け出す以外に道は無いのか。このところ独立組からの聞き取りを重ねるうち、少しずつだが着実に、真由はそんな思いを抱き始めていた。

「やっぱ黒江先輩は黒江先輩、ですね」

 ふっと唇を緩め、玲亜が諦観めいた感想を漏らす。どういうこと? と真由は彼女に追って尋ねた。

「水月先輩が前に言ってました。黒江先輩は『外側の人』。だから自分も特別視してるんだ、って」

 またその話か、と真由は内心辟易してしまう。水月の言う『外の目』。それと今の『外側』とは恐らく同質のものなのだろう。さりとてその意味はさっぱり解せなかった。過去はどうあれ、自分はもう曲北の一員だ。既に数え切れないほど他の部員らと合奏を重ね、共に日々を過ごしてきた。転校してきたばかりの頃に比べれば、今は友達も仲の良い先輩後輩も大勢いる。それなのに『外側』とは一体どういうことなのだろう。水月から見て自分には曲北の一員たるに足りない何かがある、とでも言いたいのだろうか。

「あの、先輩?」

「あ、うん。ごめん、何か一人で考え込んじゃってただけ。気にしないで」

「それだば良いんですけど。――先輩にはいろいろご面倒お掛けしちゃって、本当にすみません」

 殊勝にも玲亜がぺこりと首を垂れる。いいよそんな、と真由はとっさに両手を振ってしまった。

「さっきの質問ですけど、私バカなんで何とも言えねえっす。けど、私はもうこっちさ居ることを選んだんで。イヤとかどうとかじゃなくて、また元のように一緒に吹ける日は多分もう来ねえと思います」

「そっか。ちょっぴり残念だけど、でも仕方ないね。玲亜ちゃんが自分でそう決めたんだったら」

 それは真由なりに玲亜を慮った一言のつもりだった。けれど何故か、玲亜はそれにぷふっと含み笑いを返す。

「何かおかしかった?」

「いえ、すいません。ただやっぱり先輩って何て言うか、特別な人なんだなあ、って思って」

「とくべつ、」

 それがどうにもピンと来なくて、思わず真由は首を傾げてしまう。水月と言い玲亜と言い、自分をどういう目で見ているのだ。もしかしてからかわれてる? そう思いつつ真由はじっと玲亜の瞳を覗き込む。ここに来た直後と比べて、今の玲亜の目つきはほんの少しだけ穏やかだった。

 

 

 

 

 それからさらに半月ほどが経ち、冬服に衣替えをして一週間。

「……以上、ステージ発表のトップバッターを務めましたのはマーチング全国三連覇の実力、今やすっかり曲北の顔である吹奏楽部の発表演奏でした!」

 司会役を務める放送部の女子がマイク越しにそう述べると、体育館に集った来場者からたくさんの拍手が送られる。それを浴びる曲北吹部の面々はしかし、どうにも浮かぬ顔をしていた。

「さて、本日午後の部の最後にも吹奏楽部が登場します。三年生全員と合唱部、そして吹奏楽部を合わせた総勢四百名あまりでお送りする曲北祭伝統のフィナーレ『大いなる秋田』、是非ご期待ください」

 今しがたのアナウンスにもあった通り、本日挙行されている曲北文化祭にはもう一度吹部の出番があった。『大いなる秋田』とはそこで演奏する曲の名前であり、正式名称を『合唱とブラスのための楽曲・大いなる秋田』と言う。

 全四楽章構成からなるこの曲は一九六八年、明治百年の記念事業として作曲家の(いし)()(かん)により制作されたものであり、表題通り男女混声の合唱に加えてブラスパートのみの箇所も多く、全編通せば演奏時間は三十分から四十分近くにも及ぶという文字通りの超大作である。とりわけ第三楽章『躍進』の後半部には、ユーフォソロが朗々と主旋律を歌い上げる箇所も備えられている。本日これを吹くのはもちろん、我らが部長にして曲北ユーフォのトップであるちなつだ。

「それではご来場のみなさま、吹奏楽部に今一度、盛大な拍手をお願い致します!」

 司会に促されるがまま鳴らされる拍手の波間を抜け、部員たちは列を成して整然と体育館から撤収する。と、出口に差し掛かったところで、観衆の交わすこんな声が真由の耳元に届いた。

「……うん、まあ、悪くは無がったけどさ」

「ちょっと物足りない、っつうかねえ。去年なんか余裕で百人超えてらったべ」

「ところどころ怪しげ(おかしけ)な箇所もあったし。大会に演奏会にって忙しくしてるせいで、こっちの練習さは身ぃ入ってねがったんでねえの?」

「なーんか期待外れ、って感じだなあ」

 そういう否定的な声を上げているのも一人や二人ではない。彼らは他校の生徒か曲北の父兄か、はたまた吹奏楽関係の人間か。曲北吹部の演奏を聴いた上で述べられたこれらの感想は、この賑々しい体育館の中でもハッキリ聴き取れてしまうほど、何人もの人たちが口々に発する忌憚無き評価だった。そしてそれは、部員たちが文化祭というハレの日にも関わらず心沈んでいた理由とも直結している。

 度重なる説得が功を奏し、昨日までに独立組からは三十名近い部員が『体制側』へと戻っていた。それ自体は苦労の甲斐あった、と喜ぶべき事なのかも知れない。けれどそこにも問題はある。不揃いな音の粒。安定しないピッチと音圧。統一感に乏しいアーティキュレーション。一カ月近い乖離を経た結果、まるで練度の異なる部員同士での合奏は、数日やそこらでは到底修正し得ないほどのいびつさを生み出してしまっていた。

 もっと演奏を楽しみたいのに、思うようにできない。そのフラストレーションは確実に吹部の一同を、そして真由自身を、蝕みつつあった。

 

 

 

「本番おつかれー真由ちゃん。次の出番って午後のラストだっけ」

「そう。一時間前にまた音楽室集合」

「へばそれまで、こっちの手伝い頼むな」

「任せて」

 午前の本番を終え、真由はいったん自分のクラスへと戻っていた。先般行われた学級投票の結果、選ばれた出し物は演劇ではなく仮装喫茶と、なんだか無難なところに落ち着いてしまった。曰く「演劇だと練習に時間を割かれて部活や勉強に支障をきたすから」という声が多かったからなのだが、ではなぜ事前の候補にも挙がっていなかった仮装喫茶が、圧倒的多数を占めるほど票を伸ばすことになったのか? これだけは未だに判然としない。

「だけど結果的にゃ、演劇よりこっちのが良がったかもね」

「分かるー。三年のどっかのクラスも演劇やってるらしいし、そっちと被らなくて済んだってのもあるしね」

 級友とそんな話をしている早苗も今は警察官のような衣装で、来客があればせっせと給仕をこなしている。何故か男性用の格好をしているのが謎ではあるが、しかしこうして見ると気性の強めな早苗にはこういうカッチリとした姿が意外と似合っていた。今回用いられる仮装の全ては被服同好会所属の女子が腕によりを掛けて作ったものだ。ある意味プロの仕事というわけであり、その完成度の高さについてはあえて詳しく語るまでもないだろう。

「あ、真由ちゃーん。悪りいけど、そっちの棚からサイダーとお茶持って来てー」

「分かった」

 早苗の指示に従い、真由は奥のパイプ棚から持ってきた二本のボトルを長机の上に置く。客から注文があればここで飲み物を紙コップに注ぎ、給仕役がそれを客席まで届けて料金代わりの半券をもぎる――というのが仮装喫茶の大まかなシステムとなっている。『喫茶店らしく軽食も用意したい』という声も当初は多かったのだが、それは衛生管理の面など様々な事情によりあえなく没となってしまった。

「それにしても真由ちゃんのカッコ、やべえな」

「え? どこかヘンなところある?」

「いやいや、ヘンとかそういうんじゃなくて。なあ」

「ってかマジハマり過ぎ。後で写真撮らしてよ」

「ごめん。撮るのは好きなんだけど、撮られるのは私、ちょっと」

「えー、ずっこい。私らの写真はいっつもパシャパシャ撮ってるくせにぃ」

「そうだそうだー。こんなバッチシ決まってるのに撮らせないなんて不公平だどー」

 早苗たちの揶揄だか何だか良く解らない誉め言葉を、真由はどうにかいなそうと腐心する。真由に宛がわれた仮装は『大正浪漫漂う女学生給仕』をテーマとした振袖と袴、そしてフリルの付いたカチューシャ状の頭飾りに現代的エプロンという、和洋折衷のコーディネート。よくよく見れば袖口などに造りの怪しい部分もあれど、パッと見にそれらしく映る作り込みはさすが専門家といったところである。

「その服もリボンで結った髪もめちゃくちゃ似合ってるし。これ絶対残しといた方が良いってぇ、一生の思い出になるから」

「いや本当に、私の写真なんて撮っても誰も得しないよ。自分で自分の映ってるとこ見ると、何でこんななんだろう、って毎回ゾッとしちゃうもん」

「勿体ねえなあ。私が真由ちゃんだったら、自撮りだけで百枚はいけるね」

「甘いで早苗。私なら千枚は固い」

「何の競争してんだよお前ら。てか注文来てんぞ、さっさと飲みもん持ってげった」

 きゃいきゃいと話に興じていたところを男子にせっつかれ、女子たちは慌ててお盆を片手に教室中へと散ってゆく。仮装のおかげなのかはともかくとして、喫茶店としての売れ行きはおおむね好調だった。意外とこういうの向いてるのかも。そんなことを思いつつ、真由は目の前の紙コップにコーヒーと紅茶をそれぞれ八分目のところまで注ぎ入れる。注ぎ過ぎれば儲けが減り、少な過ぎれば不満が増える。たったこれだけの作業であっても、人の満足を得るにはそれなりの配慮を要するものである。

「ごめーん。誰か手の空いてる人、ちょっと来てけねがー」

 と、そのとき教室の入り口辺りで同級生の女子が声を張った。お客さんのところへジュースを配膳し終えた早苗が同じく大声でそれに応じる。

「何したぁー、ヒロミぃ?」

「それが迷子みてえで。一人でうろうろしてるとこ見つけて声掛けてみたんだけどさ、したっけば行きてえところ分がんねぐなっちゃった、って」

 ここからでは良く見えないが、ヒロミと呼ばれた女子は誰かの手を引いているらしい。迷子? 何とする? という声が方々から沸き、教室内はにわかに騒然となった。

「迷子だば生徒会のとこで迷子案内してらったと思うけど。ヒロミ行ける?」

「アタシ無理。もうすぐ合唱部の出番だがら、そっちさ集合さねえばだし」

「私らもこっちの仕事あっからなあ。どっかその辺でうろついてるヤツ捕まえりゃあ何とかなるかもだけど」

 どうやら現状、手を空けられる者はいないらしい。各々がなるべく校内の出し物を見て回れるようにと細かくシフトを分けていたことが、この局面では裏目に出てしまったようだ。「どうしようか」という困惑の空気が級友たちの間に漂い始めたところで、真由はおずおずと手を挙げる。

「もし良かったら、私が行こうか?」

 吹部のステージ発表も終わり、次の『大いなる秋田』の出番は午後最後。そしてクラスの仕事以外には特に用事も無い。お茶汲み係の自分が少々抜ける程度なら、ここの業務にもそれほど支障は無いはずだ。そう考えて名乗りを上げた真由に、早苗は少し悩んでから「んだな」と決断を下した。

「じゃあ真由ちゃん、悪りいけど頼む。その子のこと案内してやって」

 うん、と返事をして真由は客席の合間をすり抜け、ヒロミの元へと辿り着く。

「お待たせ」

「ごめんな真由ちゃん。へばこの子のこと、お願いね」

 そう言って、ヒロミは繋いでいた手をこちらへクイと寄せる。彼女に連れられていたその迷子は、身なりからしていちおう男子のようではあったが、一概にそう呼ぶにはあまりにも愛らしい外見をしていた。おかっぱみたいな髪型と、自分のみぞおち辺りに頭が来るぐらいの身長。利発に吊り上がったその目元にはどこか見覚えがあるような気もする。歳の頃は小学校低学年、といったところだろうか。彼の前にしゃがみ込み、真由はとりあえず自己紹介をすることにした。

「私、真由。よろしくね、ボク」

「ボクじゃない。ハルキ」

 ちょっとだけ舌っ足らず気味に、けれど見た目よりはしっかりした語調で、ハルキはそう名乗った。

「ごめん。ハルキくん、っていうお名前なんだね」

「春の輝き、って書いて(はる)()。おぼえて」

「うん、ちゃんと覚えた。それじゃ行こっか、春輝くん」

 ヒロミの代わりに春輝の手を取り、そして真由は雑踏の中へと漕ぎ出した。廊下は生徒ばかりでなく一般来場のお客さんで溢れ返っている。なるべく彼に人の波がぶつからないようにと慎重を期し、しっかりと春輝の手を握りつつ生徒会室のある中央棟を目指す。ぷにぷに、と弾力のある春輝の指先が手のひらを押し返してくるのが少し心地良い。こうしているとまるで弟が出来たみたいな気分だ。

「ところで春輝くん、どこ行きたかったの?」

「姉ちゃんとこ」

「お姉ちゃんがいるんだね。どこのクラスかは分かる?」

 その問いに春輝はぶんぶんと首を振った。はらりと乱れた淡い栗色の髪が幼さを強調しているみたいで、それが余計に可愛く見えてしまう。

「じゃあ、お姉ちゃんの学年は?」

「三年生」

「そっか。それならこのまま三階に行った方が良いかな」

 向きを変え、真由は教室棟の端にある階段を目指す。曲北の教室棟は学年ごとに階が分けられており、下階から順にそれぞれ一年、二年、三年のクラスが割り当てられている。ここからなら連絡通路を経由して中央棟に向かうよりは、最寄りの階段を利用して三階まで上がる方が到着は早い。そこで姉なる人物を見つけ出すことが出来れば、話はもっと早いだろう。

「さてと。問題はこの中のどれがお姉ちゃんのクラスなのか、だけど……」

 三年生は計八クラス。春輝の姉なる人物は果たしてそこにいるのだろうか。総当たりしてみるのも良いが、真由のクラスみたいに当番制で回っている出し物だとすれば、時間帯によってはどこかに外出してしまっている可能性もある。こんなことなら生徒会室に直行して呼び出しを掛けてもらった方がマシだったか。少々考えが足りなかったと後悔しつつ、せめて何か一つでも春輝の姉を特定するに足るヒントがあれば、と真由は春輝に尋ねてみる。

「ねえ春輝くん、ひとつ聞いてもいいかな」

「なに?」

「お姉ちゃんの特徴って、どんな感じ?」

「とく、ちょう?」

「例えば髪型とか、身長はどのくらいー、とか」

 んと、と春輝は顎をつまんで何かを考える仕草をする。

「髪は短くて、えと、ぼくとおんなじくらい。それで身長は、まゆおねえさんとおんなじくらい」

 おねえさん。その甘美な響きに、真由の胸はキュンと締め付けられてしまう。もうこの子が私の弟で良い。そんな内なる声に揺さぶられた理性という名のタガが、びきびきと音を立てて崩れ落ちそうになっている。

「他に何か、分かることはある?」

「んっと、えっとね」

「慌てなくていいから。何でもいいの、例えばお家はどことか、お姉ちゃんの好きなものとか」

 逸るあまり言葉を継ぎ切れずにいる春輝をなだめつつ、真由は探りを入れてみる。髪型と身長。それだけで人物を特定するには、さすがにもう三つばかり足りない。

「あのね、姉ちゃん、ふだんはすごくやさしくて」

「うん」

「でも怒るとおっかなくて」

「そうなんだ」

「あと、カレー作るのじょうず」

「へえ」

 その後も何とか粘り腰で聞き取りを試みたものの、返って来たのはこんな情報ばかりだった。そのうち思いつくこともなくなったらしい春輝はむっつりと黙り込んでしまう。これ以上姉について尋ねても、春輝の知り得ない情報はどうやったって出てきそうに無い。どうしたものか。真由はしばし黙考し、そして閃いた。

「そうだ。じゃあ代わりに、春輝くんのことを私に教えて」

「ぼくのこと?」

「そう。春輝くんのことが分かれば、お姉ちゃんに繋がる何かが見つかるかも知れないし」

 もう一度しゃがみ込み春輝に視線をしっかり合わせ、真由はにこりと微笑む。

「ね?」

 その笑顔にやや安堵したのだろうか。ほわ、と春輝の頬が鮮やかに染まったのが分かる。んと、んと、としばしもじもじしてから、春輝は少しばかり緊張したような面持ちで口を開いた。

「ぼく、荒川春輝。姫神小学校の三年生」

「……あれ?」

 荒川。彼が名乗ったその苗字にはもしかせずとも聞き覚えがある。加えて姫小に通う春輝は男の子で、彼には姉がいる。その姉は曲北の三年生であり、つまり春輝とはずいぶん歳の離れた姉弟ということになる――とまで考えたところで、真由は極めて可能性の高い一つの候補に思い至った。

「春輝くんのお姉ちゃんって、何か部活やってる?」

「やってる」

 突っ込んだ真由の問いに、春輝はこくんと頷く。

「その部活のお名前って分かる?」

「分かんない。なんかむずかしい字」

「吹奏楽、って聞いたことない?」

「スイソウ、ガク……?」

 春輝の声量が尻すぼみに落ちていく。この分だと単語を音として聞いたことがあったとしても、その意味まで覚えてはいないのだろう。この路線ではダメだ。そう思った真由は切り口を変えてみる。

「お姉ちゃんがその部活で何をやってるかは知ってる?」

「知ってる。楽器吹いてる」

「その楽器のお名前、憶えてる?」

「えと、なんだっけ。ユー、フォー、みたいなの」

「それって、ユーフォニアム、じゃない?」

「そうかも」

 こうしていると何だか誘導尋問みたいだ。けれどここまで訊き出すことが出来れば、状況はほぼ確定と言って良い。弟が居て、吹奏楽器を扱う部活に所属している、三年生のユーフォ吹き。その条件に合致する人物は、この曲北に一人しか居なかった。

「お姉ちゃんのお名前、もしかして『ちなつ』じゃない? 荒川ちなつ」

 そう尋ねた直後、しまった! と真由の脳内を電撃が駆け巡る。こんな遠回りをせずとも、初めから直球で姉の名を春輝に訊いていれば良かったのだ。尋ね人は見も知らぬ上級生、とハナから思い込んでいたせいで、そのことに全く頭が回っていなかった。私って、どうしていっつもこうなんだろう。機転の利かぬ己を呪わしく思いつつ、アタリかハズレか、といった心境で春輝の反応をじっと窺う。春輝はただただキョトンとした顔で、不思議そうに小首を傾げていた。

「まゆおねえさん、どうして姉ちゃんの名前知ってるの?」

 やっぱり。確証を得た真由は春輝の問いにあえて答えず、たくさんの人が往来する廊下を迷わずに進んでいった。確か、ちなつのクラスは。ちなつにまつわる数多の情報を無理くり脳内から引っ張り出しつつ、真由は春輝と共にその場所を目指す。

 三年二組。そう書かれたプレートの真下に立った真由は、周囲の様子をざっと確認してみた。クラスの出し物は演劇のようで、教室の入り口前に置かれたボードには午前の部の開演時刻が間もなくである旨が記載されている。果たしてそこにちなつは居るのか。意を決して戸を叩くと、「すいませーん」と三年生の女子が顔を覗かせた。

「いま準備中でして。もうすぐ開場の時間になりますんで、それまでちょっと待っててけねぇすか?」

「あの、そうではなくて。私、吹部の黒江って言うんですけど」

「吹部?」

「はい。その、ちなつ先輩はこちらにいらっしゃいますか?」

「ああー、部活の子な。ちなつに用事か何か?」

 短いやり取りで要領を得たらしいその女子はしかし、ごめんな、と真由に向けて手刀を立てる。

「悪いけどちなつ、今ちょっと手ぇ離せねえんだよ」

「もしかして、どこかに外出中ですか」

「ううん、着替え中。すぐ終わるから、それまでコッソリ中で待ってて」

 招かれた手に応じ、真由と春輝は人目をはばかるようにして戸の内側へ滑り込む。窓辺に貼られた暗幕のせいでほぼ真っ暗な無灯火の教室内は、客席側と舞台側とで大きく半分に仕切られていた。

「ちなつー、お客さんだどー。クロエ、だったかな? 吹部の後輩の子」

 そう声を上げながら、応対してくれた女子が教室の奥へと姿を消す。教室後方にからりと並べられた客席用椅子へ腰を下ろし、二人は少しの間そこでじっと待つ。

「ごめん真由、お待たせー。って、これだば何も見えねえ」

 数分ほどして、舞台袖からちなつがひょっこり顔を覗かせた。とは言ってもそう判断できたのは声のおかげであり、暗さのせいで互いに互いの顔も分からない。同じように感じたのであろうちなつの影が壁を辿り、教室の端にある蛍光灯のパネルへと手を伸ばす。パチン、と室内が明るくなった直後「あれ?」とちなつは素っ頓狂な声を上げた。

「ハル?」

「ナツ姉ちゃん」

 それまで真由の手の内にあったぷにぷにがスルリと抜け、春輝がちなつへと駆け寄る。この時のちなつは派手な柄をしただぶだぶのTシャツに、ところどころ虫食いのように穴の開いたダメージジーンズという、やけにボーイッシュな装いをしていた。

「やっぱり、先輩の弟さんだったんですね」

「いや、うん。それはそうと()してこんなとこさ居るの、ハル」

 ちなつに問われ、春輝はやや言いにくそうにむずむずと口元を動かす。

「姉ちゃんの文化祭見にきた」

「見に来たは良いけど、それで何でアンタ、真由と一緒なのよ」

「まいごになって、連れてきてもらった」

「ええ、もしかして一人? 父ちゃんと一緒に来たんでねえのが」

 こくり。小さく首肯した春輝が気まずそうに視線を落とした。

「ダメだべ。ここさ来るなら来るって、ちゃんと前もって姉ちゃんたちに言っとかねえと。いっつも言ってらべ、人さ迷惑掛けるようなことすんなって」

「……ごめんなさい」

 姉のお叱りにしょんぼりしてしまう春輝。その姿が何ともいたいけで、真由はつい口を挟まずにはおれなかった。

「春輝くん、ちなつ先輩のところに来たがってたんです。最初は私も分からなかったんですけど、詳しく聞いてみたら先輩の弟さんかもって思ったので、それで」

「そうだったんだ。ごめん真由、この悪ガキのせいで手間掛けさせちゃって」

「いえ。とっても良い子でしたよ春輝くん。私の質問にもちゃんと答えてくれましたし」

 しょげかえった春輝を慰めるつもりで『いい子いい子』と頭を撫でてあげると、春輝はくすぐったそうに身をよじり、そのままちなつの足元へと退避してしまった。今さらになって人見知りしてるのかしらん? と真由は小さく苦笑を洩らす。いや、姉の前ということもあって、春輝はきっと照れているだけなのだろう。当初のツンツンした態度ももしかして、恥ずかしがり屋さんの裏返しだったのかも知れない。

「それにしても参ったな。私、これから演劇の出番でさ。父ちゃんさは連絡してみるけどすぐには来れねえだろうし、かと言って手の空く子も居ねえから、誰かが春輝に付いて見ててもらうってわけにもいかねえし」

「ぼく、おとなしくしてる」

「だからそういうことでねえってばぁ。オメエがそれで良いったって、こっちはそうは行がねえんだって」

「ひとりでも平気。ここで姉ちゃんの劇見る」

「いやあ、どうしようなあ……」

 額を押さえて途方に暮れるちなつ。それを見て真由は何ともいたたまれない気持ちになってしまう。その気持ちをちなつの悩みの種ごと解消しうる手段を、真由はすぐさま思いついた。

「あの、ちなつ先輩。もし良ければ先輩の出番が終わるまで、私が春輝くんについててあげましょうか?」

 真由のその申し出に、え、とちなつは一瞬瞠目する。

「いや、悪りいよ。真由だってクラスの出し物あるんだべ、そんな恰好だし」

 ちなつのくれた一瞥に、はたと真由は気恥ずかしさを覚える。大正浪漫の女学生給仕。完全に周囲の空気から浮いた現在のこの服装は、下手をすれば劇の役者よりも大いに目立ちかねない。

「こ、こっちは少しぐらいなら平気です。先輩の出番が終わるか春輝くんのお迎えが来るまでなら、クラスのみんなもきっと何とかしてくれますし」

 それは全くの方便というものだった。『春輝を生徒会室に連れて行くまで』という前提で外出を認めてくれた級友たちには追加で迷惑を掛けることになるが、こうまで姉の為にがんばる春輝を見ていると、何だか放っておけないという気持ちにさせられる。それに平素からのちなつの恩義に報いるという意味でも、ここで彼女を困らせたままにするわけにはいかなかった。

「……ホントに、大丈夫?」

「はい」

「じゃあ悪いけどお願い。一応クラスの子にも事情話して、誰か代わってくれそうならその子にハルのお守りさせっから」

「大丈夫ですって。春輝くんとってもいい子ですし、きっとおとなしく観ててくれると思います。ね?」

「うんっ」

 同意を求めた真由に、春輝が両方の拳を握り締めて力強く頷いてみせる。全くこの子は。そんなふうに呆れ返るちなつの表情は、まさしく姉のそれに相応しいしょうがなさと温かみをほんのりと浮かべていた。

 

 

「じゃあここに座って、私といっしょに静かに観てようね」

 父への連絡を終えて再び舞台袖に戻るちなつを見送った真由は、春輝と二人並んで端っこの席を陣取っていた。舞台の前面にはきちんと厚手の幕が張られているなど、自作にしてはなかなか手の込んだ造りだ。その上方に掲げられた看板には『THE・DANCE 青春の煌めき』というペンキ塗りの字が書かれている。恐らくはこれが今回ちなつたちの演じる劇の題名なのだろう。間もなく開場の時刻を迎えるということもあって、「がんばるぞー」「おー!」という掛け声が木組み舞台の奥から聞こえて来た。

「それじゃ入場開始しまーす」

「はーい」

 入口に立っていた受付係の女子が戸を開けると、まさしく堰を切ったようにぞろぞろと人が入って来た。その大半は身なりからして一般客、そして残りは曲北の生徒。恐らくはちなつのクラスメイト達の父兄や友人、もしくは後輩などだろう。数十人ほどの群衆が席に着き、そして再び部屋の照明が落とされるまでの間、春輝は言いつけを守って大人しく座ったままでいた。

「それではこれより三年二組の発表、舞台演劇『THE・DANCE』を開始いたします」

 そのアナウンスに聴衆はまばらな拍手を送る。ズン、という重低音。それを皮切りに、奥から流れ出した音楽に合わせて舞台の幕が上がり――もとい、横にスルスルと開いていった。舞台中央、真っ暗闇の中で膝立ちしている人物へ向けて、直上からスポットライトが注がれる。

「ああマリア。どうして君は、僕の気持ちを分かってくれないんだい?」

 眩く照らされながらその台詞を読み上げたその人物は、なんとちなつだった。真っ白なライトに照らされたった一人冒頭から独白を連ねるその姿は、どう見ても主役のそれだ。

「君が誘ってくれたから、僕はこうしてダンスを始めたというのに。その君が今になって僕を突き放す。一人で踊れという。マリア、君はちっとも解っていない。僕がどんなに苦しんでいるか。君と踊るためだけに、僕がどれほど多くのステップを踏み続けて来たことか」

 天に向かってその手を伸ばし、感情豊かに滔々と、ちなつは観客へ向かって語りかける。抑揚の効いた台詞読みや手足のきびきびした動きなどはまさしく、ちなつの吹くユーフォの音色そっくりだ。音楽を通じて磨かれた表現への姿勢。それをちなつは今、演劇という方向性へ遺憾なく発揮していた。

「……かくして、ロブは恋するマリアのため、ダンスコンテストでの優勝を誓うのでした」

 ナレーションを挟み、大道具の入れ替えを行うため舞台は一時暗転する。どうやら脚本も生徒オリジナルのものらしいが、それにしてはなかなか良く出来ている、と真由は思った。おおよその筋としてはこのようなものだ。

 時は二十世紀半ばのアメリカ。主人公のロブは幼なじみであるマリアに誘われダンスを始めた。うらぶれた街の片隅に二人で刻むステップ。慎ましくも幸せに満ちた日々。けれどある日突然、マリアはロブと踊ることを辞めてしまう。

「あなたとはもう一緒に踊れない。これからはあなた一人で踊って」

 ロブは彼女と踊れなくなったことを嘆き悲しみ、いっときはダンスを辞めようかとまで思い悩んでしまう。しかし仲間たちの支えもあって再び立ち上がったロブは、迷いを振り払うようにダンスの道を邁進する。努力の甲斐あってついに全米ダンスコンテストで優勝し、ロブはプロダンサーという名の未来を掴み取った。これで暮らしは今までよりも遥かに豊かなものとなる。これを機に、秘めたる想いを彼女へ告げよう。そのように期する彼を待っていたのはしかし、マリア本人から突きつけられた別離の宣告だった。

「私のダンスじゃ、プロになったあなたとは釣り合わない。あなたはずっと遠い所へ行ってしまったの。あなたはもう私と踊るべきじゃない」

「どうしてそんなことを言うんだい、マリア。僕はずっと君のためにダンスを続けて来たというのに」

 ロブは悲痛な表情を浮かべ、対峙したマリアへ思いの丈を告げる。

「君の気持ちはナンシーやユンからも聞いた。僕のことを考えて、マリアはそうしてくれたんだろ? でも僕はそうじゃない。僕はマリア、君と二人でいつまでも、ただずっと一緒に踊っていたかっただけなんだ!」

 しかしマリアはただ悲しげに首を振る。

「ロブ、あなたのダンスはもうあなただけのものでは無いの。もちろん私のものでも無い。あなたのダンスは多くの人に勇気と喜びを与える。あなたはもっと凄いところへ行って、そしてもっと多くの人を救うために踊らなくてはいけないの」

「そんなのはごめんだ。僕が誰のために踊るか、それは僕の決めることだ。君にダンスを教えてもらったあの日からずっと、僕はそうして来た。それなのにどうして」

「お願い。分かって、ロブ」

 辛さを堪えるマリアが顔を背ける。彼女の肩を掴もうとしたロブは寸前で、その手を止めてしまう。

「私もあなたのダンスが好き。だからあなたのことはこれからも、ずっと見ている。例えどんなに遠く離れても、私がしわくちゃのお婆さんになっても。もしもあなたが私のために踊るというのなら、私となんかじゃなく、どうかあなたの踊るべき場所で踊って」

「どうしてなんだマリア。今さら一人で踊れ、なんて言われたって出来っこない。僕は君がいたからダンスを続けて来たのに。いつかまた君といっしょに踊るため、ただそれだけのために」

 悲嘆に暮れるロブにマリアは一度振り返り、そして彼女なりの想いをそっと述べる。

「――ロブ、こんな私を愛してくれて、ありがとう」

 マリアがロブに歩み寄り、ロブがマリアを引き寄せ、二人は抱き締め合う。バックに流れるは二人の思い出の曲、『ムーン・リバー』。ロブとマリアは手を取り合い、ただ静かにゆったりと舞う。このひと時だけでも、想いを重ねるかのように。

「さよなら、ロブ」

 曲が途切れる寸前、ロブの元を離れたマリアが駆け出し舞台の上手へと去りゆく。「マリア!」というロブの悲痛な叫びと消音、そして暗転。次に場面が入れ替わった時、そこにはスポットライトを浴びて汗だくになりながらも踊るロブ、いや、ちなつの姿があった。

「マリア。僕はこれからも踊り続けるよ。そうすることが君の望みなら、それは僕の望みでもあるのだから。僕の踊りを待ってくれている人のために。そして君のために。いつまでも、いつまでも、ずっと」

 最後のポーズを鮮やかに決め、弾けるような笑顔を見せたちなつ。それをラストシーンにして幕は下ろされた。カーテンコールで再び登場した役者たちへ真由も春輝も、そして他の観客たちも、万感を込めた拍手を注ぐ。

「ご観覧ありがとうございました。よろしければ出口に置いてありますアンケート用紙に、観劇のご感想を……」

 教室内が明るくなり、来場客の波がぞろぞろと出口の方へ向かっていく。その場に残る熱気にすっかり汗ばんだ額を押さえ、真由はふうと一息をついた。青春の煌めき。そのラストは悲恋と呼ぶべきか、はたまた未来へ希望を灯すものだったのか。うっすらと尾を引くほろ苦い余韻を噛み締めつつ、真由は隣の春輝に声を掛ける。

「すごかったね、お姉ちゃん」

「うん」

 姉の大活躍を見届けた春輝もまた、抑え切れぬ興奮に表情をきらきらさせていた。真由たち以外の客が一通り掃けたところで、お待たせー、と衣装姿のままのちなつが舞台袖から出てくる。

「お疲れ様です。ちなつ先輩が主役だなんて思ってませんでした。前もって言っておいてくれてたら私も他のみんなも、ちゃんと時間取って観に来たのに」

「やめてよ。それが恥ずかしかったから、あえて吹部のみんなさは秘密にしてらったの」

 さっきまでの踊りと羞恥とで顔を真っ赤っかにしたちなつが、ひらひらと片手を振る。

「私も当初は主役なんてやるつもり無がったんだけど、クラスの皆に無理やり押し付けられちゃってさ。吹部でソロやってるぐれえだし舞台度胸あんでしょ、っていう謎理論で」

「でも本当に良い演技だったと思います、お世辞とかじゃなくて。春輝くんもずっと夢中で観てましたよ」

「ナツ姉ちゃん、超かっこよかった」

「あぁもう、真由にもハルにもこんな恥ずかしいトコ見られて。今すぐ消えてしまいてえ」

 ぶしゅう、と頭から湯気を立たせるちなつの姿は、普段めったに覗かせない可愛らしささえ感じさせるものがあった。真由はくすくすと笑いながら、恨めしそうな赤面を弟に向けるちなつと、そんな姉のことを誇らしげに見つめる春輝とを交互に眺めていた。

 

 

 それからほどなくして、三年二組に春輝のお迎えがやって来た。娘と同年代の真由にでさえも「うちの春輝がご迷惑をお掛けして」と平謝りするぐらい人当たりの良さそうなこの男性こそが、話に聞いたちなつの父親。見た目からして永田と同じくらいの歳であるにも関わらず、彼の頭髪に混じる白い線の数は永田のそれよりもずっと多かった。

「へばな、ハル。ちゃんと父ちゃんの言うこと聞いて、大人しく見て回るんだよ」

「だいじょうぶ。姉ちゃんは心配しすぎ」

「オメエな。既にここまでの時点でナンボ多くの人さ迷惑掛けたと思ってんの」

 憚らぬちなつの指摘を上目遣いで受け止めた春輝がおもむろにこちらを向き、何かを言いたそうにもぞもぞと口を動かす。

「……あの、まゆおねえさん」

「どうしたの春輝くん?」

「ナツ姉ちゃんのとこまで連れてきてくれてありがとう。それと、ごめんなさい」

 ぺこりと頭を下げた春輝に真由は目を瞠った。迷惑だなんてこれっぽっちも思っていなかったのだが、その愛くるしい謝罪を前にしてはいよいよもって文句の一つも出ようはずがない。どういたしまして、と笑顔で受け止め、真由は春輝のふわふわな頭を今一度撫でてあげた。

「ちゃんと最後まで静かに劇観てて偉かったよ、春輝くん。この後も吹部の本番でお姉ちゃん大活躍するから、お父さんと一緒に絶対見に来てね」

「うん。見にいく」

 ぷくぷくしたほっぺを微かにたわませ、春輝はほんのちょっとだけ嬉しそうな表情を形作った。勘弁してよ真由ぅ、と肩を落とすちなつの憂いぶりとは正に好対照、といったところだ。

「それじゃ父ちゃん、せっかくの休みなのに悪いけど、ハルのことよろしく」

「時間になったら体育館さ行くがらな。ナツ、黒江さん、本番の演奏頑張ってけれな」

「はい」

「へば行こうか、ハル」

 別れの会釈をするちなつの父親に一礼し、それから真由は「ばいばい、」と春輝に手を振る。ばいばい、と返してくれたあどけない春輝と、穏やかさの中にも哀愁を漂わせる父。二人が手を繋いで去っていくその後ろ姿が、今も目に焼き付いて離れない。

 ちなつの父は想像以上に穏やかな人だった。妻を喪った後、彼は苦労に苦労を重ねながらも男手一つでちなつ達を育てて来たのだろう。そんな日々に積まれた重さが顔に刻まれた数多の皺に滲んでいるみたいで、そのことを思うだけでも真由は言葉に表しがたい感傷を抱かずにはおれなかった。

「ホントごめんな真由。後で春輝にゃキッツく言っとくから」

「いえ、私も春輝くんと一緒に過ごせて、なんだか弟が出来たみたいで楽しかったです。それに、先輩のお父さんにもお会い出来ましたし」

「ああ、うん」

 そこでちなつは一瞬、何かをためらう時のように唇をきゅっと結ぶ。

「真由さは前にも話したっけ、うちの父ちゃんのこと」

「はい。先輩と春輝くんのために、たくさん頑張ってらっしゃるんですよね」

「会ってみて分かったと思うけど、ああいう人だがらさ。仕事から帰って来るといっつもクタクタんなってて。それでも私らのためだがら、って頑張りに頑張り抜いて。そのおかげで今の私があるんだ、って思ったらさ、どうにかして早く楽させてやりてえんだよ」

 ちなつのその言葉を、今の真由は堪えがたいほどの実感と共に受け止めている。それはちなつの家族に会い、彼らの実像をこの目で見てしまったから。そしてその実感は、いつかちなつに言おうと思っていたものを喉の奥へと引きずり込んでしまう。

「あ、ごめん。真由もクラスの当番抜け出して来てたんだよな。ここであんま引き留めてっと不味いね」

「いえ、そんなこと」

「とにかくホント助かったよ。へば、また部室で」

 手を振りながらちなつは背を向け、その場を去ろうとした。

「あの、先輩」

 それでも、どうしても。堪え切れず真由は口を開く。ん? と振り返るちなつに、真由は湧き上がる想いを浴びせた。

「前に私、お母さんに言われたことがあったんです。親としては子供のことを出来るだけ応援してあげたいって思うものだ、って」

 あの日の母の姿。そしてちなつの父の後ろ姿。その二つが不思議と重なって見える。親は誰もが同じ、というわけではないことぐらい分かっている。けれど縁もゆかりも無いはずの二人はほとんど同じことを言っていた。ならばその想いも、子へ注ぐ親としての感情も、きっと。

「その、先輩のお家の事情とかも聞いたので、うまく言えないんですけど。でも実際に会ってみて私、思ったんです。きっと先輩のお父さんもおんなじように思ってるって。先輩が本当にやりたいって思ってることならきっと、その夢が叶うまでお父さんは応援して下さるんじゃないかって」

「真由、」

「だから先輩が本当に後悔しなければ、どんな道を選んでもいいじゃないかって思いまして。や、単に私の感想っていうか、根拠があって言ってるわけじゃないんですけど。ですからつまり、えっと、」

 喋れば喋るほど思考が拡散してしまい、真由は言葉に詰まってしまう。黙するちなつは真顔のままでじっとこちらを見つめていた。鋭い彼女の視線が、だんだん痛くなってきた。

「私、これからもずっと、先輩にユーフォ吹いていて欲しいです。――ご清聴ありがとうございました!」

 最後はほとんど言い捨てるようにして。頭を下げるや否や、真由は脱兎のごとく教室を飛び出す。人いきれの中を小走りに駆け抜けながら、真由はさっきの行動を頭の中で省みていた。

 あんなの、どこからどう見たって自分らしくない。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。いや、言わずにはおれなかったのだ。ちなつのことを、家族のことをより知ればこそ。ちなつにも彼女の家族にも、後悔して欲しくない。苦渋の選択をさせたくない。その想いだけは決して嘘偽りのない真由自身の本心だ。

 ちなつが気を悪くしていなければ良いのだが。そういう懸念がまるきり無かった、と言えば嘘になる。けれど後悔はこれっぽっちもしていなかった。肩で息をつきながら疾走を続ける間、吐息を弾ませる真由の胸には言い知れようのない清々しさが去来していたのだった。

 

 

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