私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈幕間3〉荒川ちなつと彼女の家族

 そこら中に溢れ返るセミの鳴き声と、白檀の香り。

 ちなつはそれが嫌いだった。

 

 正しく言えば、どちらかだけなら、それほど気になるわけでもない。ただその二つが揃ったとき、ちなつはいつも堪えがたいほどの哀しみを胸に抱いてしまう。そんな哀しさなんてこれっぽっちも知らなかったあの頃の、楽しい思い出に埋め尽くされた日々。あの温かさが自分を包んでくれることは、もう永遠に無い。そう思うだに、胸の内の哀しみはますます膨れ上がっていくばかりで。

「ナツ、準備できたか?」

 玄関の方から父の声がする。着替えを済ませて部屋を出たちなつは、廊下を歩きながら父に返事をした。

「だいたいは。ハルはどこ?」

「先に車さ行ってら。今日が楽しみで待ち切れねがったらしくて」

「しょうがねえな。アイツにとっちゃ、年一回の外食デーみてえなもんだからなあ」

 こちらの感傷などどこ吹く風。そんな弟の現金ぶりにちなつはすっかり呆れ返ってしまう。けれどそれも無理のないことだ。弟の春輝は当時、まだ三歳の誕生日を迎える前だった。その頃の記憶など、今の彼にはほとんど残っていないのだろう。もし仮にあったとて、その比重は自分のそれよりも遥かにちっぽけなものでしか無いはずだ。

「あと他に忘れもん無いよな。持ってくもんは車さ積んだし」

「ライターとかは?」

「ちょっと待てよ。……ああ、テーブルさ置いたまんまでらった。セーフセーフ」

「あっぶな。私が声かけねがったら、また忘れるとこだったじゃん」

「ホントな、いや助かったで」

 煙草を吸わぬ父にはライターを持つ習慣が無い。いつだったかの折にはそのせいで、現地に着いてからわざわざ最寄りのコンビニまで引き返す羽目になってしまった。それは別に、父に煙草を吸って欲しいという意味ではないのだけれど。

「私も支度できたし、へば行こうか」

 先に玄関を出た父に続き、戸締まりをしたちなつもまた車へと向かう。小さい頃からこうして見てきた父の背中。それは年を追うごとに、少しずつ小さくなっているみたいだった。

 

 

 

 毎年のお盆、荒川一家は父の運転する車で外出をする。とは言ってもそれは行楽などではなく、とある場所に家族三人で赴く為だ。

「今日、いいお天気でよかったね」

「良過ぎるけどな。さっきから汗かきまくって、私もうTシャツべっとべとだし」

「ナツ姉ちゃん、今日なに食べる?」

「すぐ食いもんの話か。まあ、私はハルの食べたいものでいいかな。ハルの気分は?」

「ぼくハンバーグ」

「へば今回はファミレスで決定か」

 運転する父の隣がいい、と言っていつも助手席を陣取る春輝に、ちなつは斜め後ろの席からそう受け答えをする。父の車は中古で買ってもう何年にもなるオンボロの軽だ。エアコンの調子が悪いのか、吹き出し口から送られてくる風はうるさいばかりでちっとも涼しくならない。少しだけ窓を開けたちなつはそこから流れ込む外気に顔を晒しながら、うだるほど暑い車内での時間をどうにかやり過ごそうと努める。

「お、河川敷の準備も着々と進んでらな」

 川に掛かった大きな橋を渡る最中、父がその光景をチラリと横目に見る。まもなく開かれる『大曲の花火』。その会場となる雄物川河川敷の周辺では桟敷席やら転落防止のフェンスやら、といった各種の設営が盛んに進められている真っ最中だった。いつもながらに思うのだが、毎年たった一日のためにこれだけ大掛かりなものを拵えては解体する、その繰り返しが少しもったいないような気もしてしまう。これに関して何か妙案はないものか。そう思索するちなつに、ねえねえ、と前席の春輝が声を掛けてきた。

「ナツ姉ちゃん、今年もお友だちといっしょに花火観に行くの?」

「そのつもり。今年はたまたま会場に近いところさ引っ越してきた子が居てな、そこの家にお世話んなろうって計画してるトコ」

「へえ」

「ハルがもうちょっと大きくなったら姉ちゃんと一緒に観に行こうな、花火」

「うん。たのしみ」

 助手席の窓から会場を見下ろす春輝の、その目がきらきら輝いている、という雰囲気をちなつは感じ取る。幼い春輝をあれだけ混み合う花火会場へ連れて行くのは少々どころでなく危ない。そういう判断から父とちなつは、春輝が小学五年生になるまで会場に行くのは禁止、と本人に申し付けてあった。幸いにして家からでも花火を観ることは出来るので、彼もこれまでのところ不平を口にしたりはしていない。だがそれもあと数年で解禁だ。そうしたら春輝を会場まで連れていって、あのとびっきりの空気をたっぷり楽しませてあげよう。そんな思いを、ちなつは心に秘めていた。

「そろそろ着くど」

 エンジンを吹かし、小さな車体がスロープをするする登っていく。その向こう側に目的地は見えて来た。市営霊園。そう書かれた入り口の碑文を見る度、いつも胸がずきりと痛む。駐車場に車を停めた父がトランクから花と供え物を取り出し、ちなつはそれ以外の荷物が入ったビニル袋を手にした。車を降りた三人が目指す場所は、この坂道を登った先にある。

「ナツ姉ちゃん見て。でんせつの剣」

 先を行く二人の後を、春輝はそこらへんで拾った木の枝をぶんぶん振りながらついてくる。

「こらこら。そんな長えモン、人さ向けて振り回したら危ないでしょ」

「こんだけまっすぐなやつ、なかなか無い。おみやげに持って帰る」

「ダーメ。帰る時にはちゃんと元の場所さ返しなさい」

「ちぇー」

 唇を尖らせる春輝の姿に、しかし彼もずいぶん大きくなったものだ、とちなつは妙な感心を得てしまう。初めてここに来た時の春輝はまだ足取りもおぼつかず、道のりの途中でくたびれぐずついてしまっていた。忙しかったあの時の父には頼ることも出来ず、やむなく自分が春輝をおんぶしてこの長い坂道を下ったのも、今となっては良い思い出だ。

「暑っつ」

 額からだらだら垂れる汗を拭いながら、三人は黙々と坂の先を目指して歩く。ぎんぎんと鳴き続けるセミたちの大合唱。次第に強まってくる白檀の香り。ああ、今年もここへ来てしまった。来たくないわけではないけれど、ここへ来るといつもあの日の出来事を昨日のことのように思い出してしまう。それがちなつには、辛かった。

 坂を登ったその先はちょうど山の中腹を切り開いたように、鬱蒼と繁る樹木に覆われた敷地が広がっている。時期が時期だけに、立ち並ぶ墓石の間には他の家族連れの姿もたくさんあった。ふわりと漂う煙の帯。白檀の香気、その源泉。それは方々で焚きしめられる線香から上がったものだ。神妙な気配を帯びる領域の只中を三人は黙して進み、そして目的の場所まで迷うことなく辿り着く。

「今年も来たぞ、母さん」

 黒く小さな御影石に父がそう声を掛ける。荒川家之墓。そう刻まれた石の下には、母が眠っている。ちょうどお盆の中日に当たる六年前の今日、母は病室で静かに息を引き取った。その臨終を、まだ幼かったちなつと春輝は傍で見守っていた。きっと物心もつかぬ春輝には何が何だか解らなかったことだろう。けれど九歳だった自分はあの日起こったこと全て、細大漏らさずしっかりと憶えている。デジタルの録画みたいに一つも色褪せることなく、今もあの時のままで。

「さ、準備しようか」

 発破を掛けるようにそう言って、父は持って来た荷物を然るべき場所へ配置していく。ちなつは少し離れたところにある水道へ桶に水を汲みに行き、その間に春輝は線香の束をロウソクにかざして火を点ける。お墓周りの清掃を済ませた後は墓石に水を掛け、その手前にある小さな香炉の上へ花やお供え物をからりと並べる。ドーナツ。パイナップル。おだんご。それらはいずれも母の大好物だった。

「よし。じゃあナツ、ハル、母さんさあいさつするべ」

「うん」

 三人は立ち並び、墓前に両手を合わせる。どうか天国から私たちのこと見守っていて下さい。母ちゃんの分まで私、父ちゃんとハルのためにがんばります。そんな祈りを、そこへ込めて。

 

 

 

 

 大病に冒されていることを母が医師から告げられたのは、ちなつが八歳になった年の冬のこと。その晩、両親が難しい顔で何か話し込んでいるのを、ちなつは襖の陰からそっと覗き見ていた。

「母ちゃん、病気なんかに負けないからね。ナツとハルのためにも」

 そんな風に笑顔を覗かせた母は、けれど日を追うごとにだんだんと体調を崩していった。初めは週一回だった通院が三日置き、二日置きと狭まっていき、やがては入院へと切り替わった。ちなつは、怖かった。母がいなくなるのが。それを誰かに言ってしまえばそれは本当のことになりそうで、それがなおさら怖かった。だから誰にも言わなかった。母が病気であることを。学校の先生にもクラスの友達にも、そして一番の親友であった、日向にでさえも。

「なあなあ()()()、明日の放課後うちさ来ねえ? 『みん森』のグッズ集め手伝ってよお」

「ごめん。明日はちょっと、おうちの用事あって」

「用事ってなにさー。最近そういうの多くね? 付き合い悪りいど」

「ホントごめん。約束破ったら、父ちゃんにおこられちゃうから」

 そんな言い訳でずっと日向を騙していることに、ちなつはひどい罪悪感を覚えていた。けれど、どうしようもなかった。素直に『母のお見舞いに行くから』と言えば、それは母の病気を喋ったことになってしまう。うっかり喋って、もしホントになっちゃったら。ホントに母ちゃんがいなくなってしまったら。そういう恐怖がちなつの口を固く縛った。代わりに舌の上から滑り出たたくさんの嘘は、きっといつか日向に知られてしまう。大好きな親友に、嘘つきの自分はきっと軽蔑される。そう覚悟もしていた。

「……ナツ。あのな、母さんな」

 深刻な顔をした父のそんな言葉からも、終始ちなつは逃げ回った。聞いてしまえば全てが確定すると思った。だから聞かないようにした。そんなことない。病気なんかに負けないって、母ちゃんは約束してくれた。だからきっと元気になって帰って来る。またあの笑顔で、温かさで、私とハルを包んでくれる。そう信じながらも健気にお見舞いを続け、その度にちなつは、日毎に衰弱してゆく母の酷な現状を直視させられた。

「ナツ、こっちおいで」

 それは例年よりも梅雨明けが遅れ、ようやくセミの鳴き始めた頃。病床の母に抱き寄せられ、長い時間を掛けて、ちなつと春輝は優しく頭を撫でてもらった。その温かさとやせ細った手の切ない感触を、ちなつは今でも確かに覚えている。

「ごめんな、ナツ。母ちゃん、もっといっぱいナツと一緒にいたかった。もっとナツが大きくなるとこ、いっぱいいっぱい見てあげたかった」

 そんな風に謝る母に、ちなつはただ首を振った。だいじょうぶ。母ちゃんはきっと治る。わたし、信じてる。そういう思いを込めたちなつの否定を受け取って、母は静かに泣いていた。

 それから三日としないうちに病院から連絡が来て、父と春輝と急ぎ駆け付けた病室の片隅で、母は少しずつ呼吸を弱めていった。

「駄目だ、まだ駄目だ()(あき)! こんな(ちゃ)っけえ童達(わらへだ)置いて、アンタどこさ行くつもりなの!」

 怒鳴りつけるようですらあった祖父母の悲痛な声は、けれどあの時の母にはもう殆ど届いていなかったことだろう。母ちゃん、母ちゃん、と縋るちなつと春輝に母はうっすらと目を開け、そして何かを語りかけるように僅かに口を動かした。

「母ちゃん!」

 それが母の最期だった。いつもは大きくてあったかいのに、母の元でただ咽び泣く父の背中は小さく丸まって、ひどく震えていた。しめやかにお葬式が営まれ、棺ごと焼かれ小さな壺に入れられて。そうしてやっと、母は家へ帰って来た。仏壇も無かったため座卓で簡単な祭壇を拵え、お墓が建つまでの暫くはきれいな飾り箱に包まれたままで、母はちなつたちと一緒に居てくれた。あのぬくもりはもう、そこに無かったけれど。

「チイコ? チイコいるんだべ! 開けて! 私だよ、ヒナだよ!」

 どんどん、と戸を叩きながら表で日向がわめいている。あれから一週間近く、夏休みが明けてからもちなつは学校を休んでいた。

 母がいなくなってしまった。それは同時に、これまで積み重ねて来た嘘の全てが何の甲斐もなく、がらりと音を立てて崩れてしまったことを意味する。いま日向に会ったって私、どんな顔したらいいの。そう思いながら祭壇の前に座り、ちなつは母の写真が収められた額縁をぼうっと眺めた。不思議なことにあれから何日経っても、どこかで母が生きている、そんな気がしてならなかった。

「いいから開けて! チイコ、何で応えてけねえの!」

 ちなつは腹を括った。これはきっと、嘘をついた罰なんだ。神さまが自分に天罰を与えたのだ。ウソはいけないことだから、だから自分の思いは届かなかったし、日向を怒らせてしまった。せめてごめんって言わなくちゃ。のろりと立ち上がり、薄暗い室内をさまよってようやく玄関へと至る。その間もドアを叩く音はひっきりなしだった。

「チイコ!」

 鍵をかちりと捻ったその途端、ものすごい勢いで戸が開け放たれた。そこに立っていた日向の形相は想像以上に険しくて、ああやっぱり怒ってる、とちなつは歯を食いしばった。

「ごめん、ヒナ。私、その、ずっとウソついてて」

「そんなんどうでもいいよ!」

 絶叫と共にほとんど突進するように、日向がちなつに向かって飛び込んで来た。彼女の体重を受け止めきれずに仰け反ったちなつは、その場にべたんと尻もちをついてしまう。

「私こそごめん。チイコの母ちゃんがそんなことになってたなんて、知らねくて」

「そんなことない。悪いのはウソついてた私だから」

「ウソつかれたなんて私、ちっとも思ってねえ」

 ふるふると首を振り、そして日向がこちらを見据える。その瞳は涙でずぶ濡れになっていた。

「チイコ、気付いてあげれねくてごめん。付き合い悪いなんて言っちゃってごめん。私ただ、」

 それを見た自分の目からも、ぶわりと熱いものが溢れ出た。ああ、日向は、ウソをつかれたことに怒ってここへ来たんじゃない。私のことを心配して、私なんかのことで気に病んで、それでこうして来てくれたのだ。それが解った瞬間、ちなつは急に、それまで抑圧していたものが全てほどけてしまったような気がした。

「ヒナ、ごめん。あの、あのね、」

「うん」

「私の母ちゃんね、母ちゃん、……母ちゃん、」

 そこからはもう、言葉にならなかった。ちなつが大声を上げて泣きじゃくっている間、日向もまた大泣きしながらずっとちなつを抱き留めていてくれた。あの時日向が傍に居てくれて、どれだけ救われたか分からない。二人分の泣き声はその後もずっと、夏空が夕闇に染まるまで途絶えることは無かった。

 母が死んだ。その現実をあの時ようやっと、ちなつは受け入れることが出来たのだった。

 

 

 

 

「――へば、そろそろ行くか」

 祈りを終えた父に首肯を返し、ちなつは春輝の手を取って三人で坂を下りていく。今の家族を、自分たちを、母はどんなふうに見てくれているのだろう。それを本人に問うことはかなわず、従ってちなつはただ想像するより他に無い。けれど、優しくて温かかった母のことだ。きっと元気でいて欲しいと願っているに違いない。だから自分の、今ここに生きる自分のすべきこと、それは。

「どうしたの、ナツ姉ちゃん」

「ん。何でもねえ」

 荷物を積み終え車に乗り込み、そして窓からそっとお墓の方角を見やる。こっちは大丈夫だよ母ちゃん。父ちゃんのこともハルのことも、私がきっと何とかするから。それは日向と二人でさんざん泣き合ったあの日、密かに立てた一つの誓い。もういなくなってしまった母の分まで家族のために生きる。ちなつはそう決めていた。その一方では胸の奥底でのたうち回る己の願望と、必死にせめぎ合いを続けながら。

「ねえハル。ハルには今何か、やりたいことってある?」

 おもむろに春輝へ問うてみる。前席の弟は振り向きもせず、そのままの姿勢で答えてくれた。

「ゲーム。同じクラスのみっちゃんがね、『みん森』の新しいやつ買ったんだって」

「そういうんじゃねくて、こう、何て言うかな。それがやりたくてやりたくてしょうがねえ、っていうやつ」

「しょうがないやつ、」

 問いを復唱した春輝が、うーん、と首を傾げて考える。

「思いつかない」

「そっか。んだよね」

 まだ小学三年生の春輝にそんなものを求めるのは、いささか性急に過ぎたかも知れない。けれどちなつは、いつか彼にも見つけて欲しいと思った。その時には必ず自分が父と春輝を支えてみせる。春輝がやりたい限りを思いっ切りやれるように。そしてそのさまを見た天国の母が、安心して眠っていられるように。

「もし見つかったら、そん時は姉ちゃんさ教えてな。約束だよハル」

「うん。やくそく」

 助手席から伸ばされた短い小指に自分のそれを絡め、ちなつは春輝と誓いを結ぶ。そのとき傍らで運転中だった父の目に、姉弟の姿はどんなふうに映っただろう。春輝の手から微かに漂う白檀の香りが鼻腔に沁みて、ちなつの視界はゆらりと滲んだ。それと同じように今、ちなつの心も揺れている。自分の選ぶ道はほんとうにこれで良いのか。いや、良いんだ。いつか春輝がやりたいことを見つけたとき、一切の憂慮無くその道を選べるように。私の人生はそのために。そう自分に言い聞かせることが、このごろ少し増えている。

「……ナツ」

「ん、なに? 父ちゃん」

「あー、そのな。今日は食べてえもんあったらナツも遠慮さねえで言えよ。ファミレスでねくたって、二人の食べてえもん食べれるトコはある筈だし」

 それは多分、不器用な父なりの気遣いだったのだろう。その気持ちをありがたく受け止めつつ、けれどちなつは目頭を拭い、努めて元気に振る舞った。

「大丈夫。だって私、ハルの姉ちゃんだもん」

 

 

 

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