私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈18〉大いなる秋田、小さな先輩

「お待たせしました。これより曲北文化祭伝統のフィナーレ、『大いなる秋田』の大合唱と演奏を行います」

 ぺらりと一枚、ステージ横の生徒会役員が演目をしたためた()()()を繰る。様々な催しものが行われた文化祭もいよいよクライマックス。体育館のステージ前にしつらえられたひな壇には、三年生たちと合唱部の部員が各声部ごとに分かれて整然と立ち並んでいる。その前方には真由たち吹部が陣を構え、指揮の壇上には指揮者である永田が大会本番同様のスーツ姿で立っていた。

「えー、皆さまのお陰で今年も無事、こうして『大いなる秋田』をお届け出来ることとなりました。毎年恒例となっております、大人数での演奏と合唱。全員が一丸となって今日まで一生懸命練習してきました。本日はその成果を存分に発揮したいと思っております」

 軽妙な永田の演説にワア、と沸き立つ聴衆。その中にはきっと春輝と彼の父もいるはずだ。親子揃ってこちらに注目しているであろう二人の姿を想像しつつ、真由は隣に座るちなつに視線を送る。さっき部室で会って以降、ちなつは特段の反応を見せることもなく、それには真由も少しばかりではない気まずさを抱えてしまっていた。

『私、これからもずっと、先輩にユーフォ吹いていて欲しいです』

 やっぱりあれは出過ぎた発言だったかも知れない。次第に強まる後悔の念を胸の内で必死に抑え込みつつ、真由はただひたすらに願う。どうかさっきのことがちなつの演奏に影響しませんように、と。

「これだけ大勢で一つの音楽をするっていう機会は、長い人生の中でもそう多くはありません。なので三年生の諸君には、本日の演奏を一生の思い出としてもらいたいと思います。またご父兄の皆様もどうか、お子さんの頑張る姿を温かい目で見守ってあげて下さい。それでは三年生全員と合唱部の歌、吹奏楽部の演奏にてお送りします『大いなる秋田』、どうぞご静聴を」

 あいさつを終えてこちらへ振り返った永田が全員に目で合図を送り、すうっと指揮棒を掲げる。それに合わせて真由もちなつもユーフォを構えた。トータル四十分にも及ぶ一大組曲。それを吹くことの緊張感に、心臓からどくりと勢い良く血流が噴き上がるのを感じながら。

 ゆっくりと二度振られた指揮棒に合わせ、ふわりと生まれたブラスの音色が雲海のように辺りを包む。第一楽章『黎明』はその名の通り、夜明け前を思わせる静謐な展開から始められた。同じメロディを一度繰り返し、そこから次第に音が重なると共に曲は劇的に変化していく。ティンパニーの打音を踏まえて一段上がる音量。金管が吹き鳴らす重厚なその音色は、今まさに顔を覗かせた陽光の神々しさをそこに顕わした。刹那、トランペットによる小刻みなファンファーレ。そこに一つずつ楽器が加わり最初のピークを迎えたと思いきや、あっという間のディミヌエンドでするりと落ち着きを取り戻す。そこからゆったりと左右に揺れる俗謡的なメロディと共に、合唱パートが最初の出番を迎えた。

「我ーがーふるさとーよー、うーるーわしのくーにー、みーのりー豊かーにー、さーちー満てるくーにー」

 女声部の斉唱に続き、今度は男声部の番だ。何回も重ねられた合同練習中、永田の指導によってしっかり鍛えられた彼らの深みある声が、今日という晴れ舞台の館内を席巻する。

「ひーかーり富むうーみー、みーどーり濃きやーまー、とーわにー変わらーずー、とーわーぁにーさかゆーくー」

 ミュートを付けたトランペットが曲の上面を軽やかに撫でた後、男女双方による斉唱のBパートが始まる。『大いなる秋田』は曲の主題と歌詞、その両方ともが秋田の風土を、郷里の美しさと素晴らしさを誇るものとなっている。歌がある間、伴奏を受け持つ楽器群は少しだけ音を抑え込み、しかし主張するべきところでは練習時の指示通り前面に立って合唱を引っ張る。

「いざやー讃えん、とわのーさかえ」

「いざやー讃えん、とわのーさかえ」

 斉唱にて歌い上げた歌詞を女声部だけがそのまま復唱し、そして曲はそこから更なる盛り上がりを見せる。

「高らーかに歌えよ、いーざー」

 転調する旋律。そこに合唱パートが合わさり、燦然たる音の陽光が館内を埋め尽くす。ピークに向けて加速するテンポ。退くことを知らぬかのように高まり続ける音圧。それらが頂点で弾けた瞬間、曲は一気にマーチの体裁へと形を変えた。ここからはブラスの独擅場だ。ホルンやトロンボーンが意気揚々とメロディを張り皆をぐいぐいと牽引する。トランペットの勇ましさは楽隊を鼓舞し前へ前へと推し進める。高音木管が上辺を飾ったかと思えば今度は重低音金管が下から突き上げる。一切の淀みなき快活さでもって前進し続ける演奏の漲りようは、まさに朝を迎えたときに抱く希望や充足そのものだ。下げに掛かる展開を総員ドラスティックに吹き鳴らし、木管の華々しいトリルを着飾った重奏が最後の一音を吹き切るところまで、第一楽章は疾風のように駆け抜けていった。

 続く第二楽章はおっとりと、どこか物悲しく寂しげにたゆたうダブルリードの調べから始まった。和香のオーボエが奏でる主旋律を支えるようにして、真由は場へ垂らすように重々しくユーフォの音を添えていく。

「ねーんねーこー、こーろぉろぉーこー、やーあー」

 ねんねこ、ころろこ。即ち『ねんねんころり』。女声部が担当するその歌詞は背に負った乳飲み子をあやすようにひたすら優しく、深い慈しみをもって紡がれていく。副題に示された『追憶』とは果たして子のものか、はたまた親のものか。そのとき真由が思い描いていたものは、手を繋いで向こうへと歩いてゆく春輝と父、ついさっき見た二人の後ろ姿だった。

「おぉーれぇーのーめんこぉーなぁあばー、なーしーてー泣ーくーうー、なーしーてー泣ーくー」

 可愛い我が子は何故泣くの。そんな苦悩をきっと、親となった者は一度や二度ならず抱えるものなのだろう。ぐすん、という音が観客席から漏れ聞こえ、真由もまた何かがジンと目頭に突き刺さってしまう。それほどまでに儚く美しい子守り歌。恐らくは自分もそんなふうに、父や母の愛情を一身に受け今日まで育ってきた。感情を揺さぶる緩やかで柔らかな歌声のせいで、その想像は狂おしいまでに掻き立てられてゆく。歌唱に追従する伴奏が第二楽章の主題をそっと歌い終えた時、曲はそれまでとはまた別の顔を見せた。

 唐突に叩きつけられた金管の一撃で、それまでの幻想的な雰囲気は一気に砕かれた。荒々しく放たれる木簡群の連続タンギング。十六分音符で刻まれ続ける音の波、その隙間からはグロッケンとピッコロの鋭利な高音に釣り上げられるようにして、それまでとは別のフレーズが飛び出る。

「あられやコンコンまめコンコン、イワシことれたらカゴもてこい、あられやコンコンまめコンコン、ハタハタとれたらタルもてこい」

 豊漁を告げる早口言葉のような歌声。それらは直後の輪唱によって幾重にも重なり合い、(なだ)の如き怒涛のうねりとなって観客席へと押し寄せる。男声部と同時に重低音がそこへ組すると、勢いはいよいよ止まらない。猛然と襲い来る高潮。豪雨のように辺りを跳ね回る飛沫。スネアドラムのロールを契機に波は一気にせり上がり、次の瞬間、遠く沖の彼方へと去っていった。曲は冒頭へ回帰(ダ・カーポ)し、再び紡がれる子守り歌のメロディが柔らかく場内へと沁み渡っていく。それらの構成はきっと、この地に生まれ育った人々が心に抱く、いわゆる一つの原風景と呼べるものだった。そのまま夢心地に意識を埋めるかのようなフルートとクラリネットの旋律を伴って、第二楽章はふつりと幕を閉じた。

 第三楽章『躍進』。まずはスネアを中心としたパーカッションの協奏が飾り、そこからは少々ひょうきんさを感じさせる律動に乗って行進曲が展開されていく。第一楽章とは異なり、少しだけ急ぎ足で。ひらりひらりと身を翻す木管の音と共に金管が素早く駆けのぼり、そして中盤には暗澹たる空気を帯びて。そんな調子で音高とアーティキュレーションの乱高下を繰り返しながらも、行進のパートはあっという間に終わった。タン、タン、タン、とスネアが三たび合図の音を送る。そこから先は秋田出身の音楽家である(なり)()(ため)(ぞう)が手掛けた『秋田県民歌』、つまりユーフォソロのある箇所だ。

 ちなつが静かに息を吸い、そしてゆったりと主旋律を歌い始める。その横で楽器を伏せた真由はただじっと、彼女の奏でる一音一音に耳を傾けていた。まろやかな中にも一本芯の通った音。天高く開く花火のように華々しくも、魂の奥底を揺さぶる雄々しい音。今日のちなつの独奏は、いつにも増して輝きと深みがすごい。それを真由は文字通り全身で感じ取る。一節を吹き終えたちなつの音を模範とするようにクラリネットら木管楽器がメロディを受け継ぎ、次いで他の金管が加わって情感豊かにサビを鳴り響かせる。ブラスパートのみによる贅沢な序奏は、主部をまるまる一本通すかたちとなった。

「秀麗ー、無ー比なーる、鳥海(ちょうかい)(さん)よー。狂瀾ー、吠ーえ立ーつ、男ー鹿半ー島ぉーよー」

 序奏を終えて一番、男声部の精悍な声が歌詞を詠んでいく。ここは男どもの最大の見せ場だから絶対に手抜きさねえように。しつこいぐらい永田にそう注意されていた彼らは今その注文通り、ここぞとばかりに声を張る。

「巡らーす、山やーま、霊気ーをー込ーめぇてー。斧のー音、響かーぬ、千古ーの美ぃ林ー」

 続く二番では女声部が前面に立つ。透明感に優れたアルトボイスと神秘的な雰囲気を纏う大自然の融和。こうして演奏しながら聴いているだけでも、その歌詞は古めかしくも麗しい。これを書いた人はきっと心の底から郷土秋田の美しさを誇りながら、その目と耳と肌で捉えた有るがままをしたためていったのだろう。何度も転校を繰り返してきた自分にとって、そう思える場所は何処なのか。いつか見出せることを信じながら、今だけは彼らと同じこの地に足を着け、真由は演奏に彩りを添えていく。

「見ぃー渡ーすーぅ、広ぉー野-はぁー、渺茫(びょうぼう)ー霞みー、」

 二番もサビに差し掛かり、秋田県民歌の残りはあと僅か。ひと吹きに力を込めるブラスの音が結末に向けぐんぐんと圧を強めていく。

黄金(こがね)ーとー実ぉーりーてー、豊けーきー、あー、きー、たー」

 リタルダンドと共に高らかに郷土を讃え、歌唱パートが第三楽章の出番を終える。そこから打ち鳴らされるドラムロールを経て、曲はまたも楽章冒頭の行進曲まで遡った。ここにおいて繰り返される場面はきっと、つつがなくも忙しない日々の暮らしを表すもの。そんなふうに捉えつつ、真由はさっき吹いた譜面をいま一度同じようになぞっていく。行進曲は立ち止まることなく前へ前へと突き進み、華麗に楽章の終端を迎えた。

 ここまでを吹き終え、真由は痺れ始めた唇をぐりりと噛み込む。あとは第四楽章のみ。頭では解っていても、体はさすがに疲労を隠せない。だがここまで来れた。もうひと踏ん張りだ。楽譜をめくり息を整え、永田の手指が動くのに合わせて真由はユーフォを構え直す。

 第四楽章『大いなる秋田』。主題をそのまま副題として冠されたこの楽章に与えられたテーマは、まさしく本楽曲全編の総括。そして全楽章中この第四楽章こそが最も風変わりかつ変則的な曲でもある。始まりは『黎明』のそれと全く同じでありながら、しかしファンファーレが入るべきところで突如として変容し、異様に速い四分の三拍子に乗ってパーカスが轟雷のような音を打ち鳴らし始める。直後に後方から飛び出したトロンボーンが嵐のような異質さを場に穿ち、それを継承した木管がさらに息の詰まるようなスタッカートを刻み付け、トランペットとドラムとの応酬が全てを吹き荒らす。それまでの明るさや穏やかさとは無縁な狂暴ぶりに誰もが息を呑み、一転スウと冷え込んだ静寂が辺りを支配しきった頃。場面は薄気味悪さすら漂わせる中盤へと移ろってゆく。

 きん、と尖った針の先端を思わせるフルートの超高音。どんよりと翳る灰色の空みたいな木管の重低音。それらはあたかも夜闇に沈んだ雪渓のごとく、決して豊かさばかりではない大自然の脅威にも通ずる底知れぬ昏さと冷厳を諸人にもたらす。その渦中を、細々と揺らめく灯火だけを頼りにして、サックスのおぼつかぬ音色がおずおずと進んでいく。金管もまた地を這うようにして後へと続き、一団は茫洋たる漆黒をしばし彷徨う。出口の見えない闇の向こう、その先に目指すべき地平があるのだと、そう信じて。

 その報せはまず初めにシンバルの衝撃的な炸裂によってもたらされた。続けて息を吹き返すトランペット。産声を上げるコーラス。雲間から差し込む光の梯子のように、それは大地に燦々と注がれ、視界は一気に開けゆく。

 遂にここまで来た。最後の最後で満を持しての登場となった『県民の歌』。第三楽章のそれとはまた異なる趣で郷土を礼賛するこの歌こそが『大いなる秋田』を総括する最終主題だ。さあ行こう。そう告げるかのような永田の笑みに、部員たちも歌唱隊も晴れ晴れとした表情を浮かべながらひと息を吸う。

「あーさ明ーけー雲ーぉのー、いーろー映-えーぇてー、あーぁおーぐー遥ーかなー、やーまーやーまーぁよー」

 それまでの陰鬱さを吹き飛ばす人々の活気。厳寒に冷え込んだ大地を再び熱する春の陽気。そんな空気に満ち満ちたメロディが歌う者奏でる者、そして聴く者全てに生命の躍動を惜しみなく注いでいく。全方位から溢れ出る音の洪水に身を浸しながら紡ぐユーフォの音色。それら全てが真由の全身をびりびりと共振させた。

「あーぁしーあわーせーのー、我ーがーぁ秋ー田ぁー」

 気が付けばもう、二番までもあっという間。それに安堵を覚える自分が、それを惜しむ自分が、ここに併存している。郷土愛。矜持。展望。そのどれとも言えぬ溢れんばかりの感情が渦を巻いて体育館にこだまし、曲はとうとう本当のラストへと至った。

「みーんなーでーみんーなで、進ーもーぉうーよー」

 終わりを告げるトランペットのファンファーレに導かれ、真由は一音ずつに全身全霊を込める。声と楽器、全ての音を渾然一体のものとして華やかに放出される終幕のフェルマータ。永田の指揮某が振りかぶった一打は残響を鮮やかに切り離し、それをもって全編の演奏は締め括られた。

 鳴り止まぬ拍手。奏者たちを褒め称える父兄の喝采。その只中で、真由はただ頭頂を突き抜ける高揚感に吐息を弾ませていた。細かいところを見れば気になる点が幾つもある。完璧な合奏と呼ぶには程遠い。それでも、これほどの規模で一つの音楽を作ることには、言葉では言い尽くせぬほどの何かがある。『大いなる秋田』の演奏を通じて、真由の心と体にはそんな思いがより強く刻まれたのだった。

 

 

 

 

「お疲れさん」

 文化祭の全日程が終了し、長閑な秋の西日もそぞろに傾きかけた頃。部室で後片付けをしていた真由にちなつが声を掛けてきた。お疲れさまです、と応じた真由だがしかし、彼女との間にぎこちなさを覚えずにはおれない。どうにも宙ぶらりんな己の態度を上手いことごまかそうと、真由はセーラー服の襟元あたりに手を這わせる。

「今日はありがとね」

「あ、いえ。春輝くんのことならたまたま偶然が重なったってだけで、そんな大したことでは、」

「ハルのこともそうだけどさ。それだけでねくて、何つうか」

 そこで間を置いたちなつはちょっぴり照れくさそうに、つるりと滑らかな頬を指で引っ掻く。

「あのさ、今日思いっ切り吹いて分かったよ。ああ、私やっぱ音楽が、ユーフォが好きだって。他のどんなことよりもこれが一番だ、って胸張って言えるくらいに」

 それは眩しいくらいにありったけの想いを込めた、ちなつ自身の偽りなき本音だった。え、と息を呑む真由を少し覗き見るようにしつつ、ちなつは言葉を重ねる。

「好きなんだよ私、音楽もユーフォも。どんなに諦めるつもりでいたって、どんなにしょうがねえって思い込もうとしたって、この気持ちにフタすることは出来ねえんだなって痛いほど解った。このまま卒業してそこでユーフォ辞めたら私、きっと一生後悔すると思う」

「それじゃあ、先輩」

 うん、とちなつがはにかむ。窓から注ぐ夕陽を浴びた彼女は今日の演奏がそうであったように、どこまでも煌びやかだった。

「今日家さ帰ったら、改めて父ちゃんと話してみる。もちろん父ちゃんやハルのこと楽させてやりてえ、って気持ちも変わってない。けどそのせいで私が好きなものを我慢したり諦めたりしたら、父ちゃんたちだって喜んじゃくれないよね。多分、母ちゃんも」

 窓の向こうを一度仰ぎ、そこに居るであろう人へ思いを馳せるかのように、ちなつはしばし瞳を閉じた。

「さっき真由に言われて、そう感じた。先のことはどうなるか分かんねえけど、もうちょっとだけ好きなコトするのを許してもらえるなら全力で頑張ってみる。好きなことをこれからも、ずっと続けられるように」

「良いと思います。すごく」

 心からの言葉を、真由はちなつへ捧げる。好きだと思えることをずっと続けていく。例えその夢が叶ったとしても、彼女の前には荊に覆い尽くされた遥か険しい道のりが待ち受けていることだろう。そのことを思えばやはり、彼女は元々考えていた道を歩む方が現実的と言えるのかも知れない。けれど、そんな回答を真に望む者などきっと、彼女の周りには一人とて居やしないのだ。であるならば、ちなつには思ったままの道を進んで欲しい。この選択をして良かったと、ずっと遠い未来の彼女が心から思えるように。

「さて、そろそろ部室閉めっか。明日は久々に練習休みなんだ、真由もゆっくり休んで疲れ取っといてな。週明けからはマーチングの練習も本格化するし、それに独立組との交渉期限も近付いてるから」

「そうですね」

 ちなつの言葉に真由は表情を引き締める。文化祭が終わった、ということは、永田の示した最終判断の日までは残すところ二週間。ここまでの過程を思えば、独立組の全員がこちら側に復帰するのは難しいかも知れない。それでもちなつは、日向たちは、全員揃って大会に出場することを未だ諦めてはいなかった。

「最後にみんなで笑い合えるように、あともうひと踏ん張り、がんばろうな」

 はい、と呼応した真由にちなつはとびきりの笑顔を向ける。あらゆる迷いを振り切った今のちなつは端的に言うなれば、無敵のオーラをその全身に帯びているみたいだった。

 部室の鍵を職員室の永田へ預けた後、正面玄関を出たところで「へば休み明けにな」と別れたちなつの背が遠のいていく。きっとこの後、家に帰ったちなつは父に真なる想いを告げるのだろう。その後ろ姿に心の中でこっそりとエールを送りつつ、ふと真由は思考する。

 音楽が好き。ユーフォが好き。そういう彼女の気持ちには真由も大いに共感できるところがある。けれど少なくとも今の自分には、この道を貫きたい、と強く思い描けるだけの具体的なイメージや熱量は無かった。そんな自分がもしも、今のちなつと同じ立場になったとしたら。現実を見据えるか。それとも理想に邁進するか。そのどちらかを、いつかは自分も選択しなければならない。季節の移ろいと共に刻々とその時が近付きつつあることを、真由はちなつの背中越しに見据え始めていた。

「おっつっかれー、真ー由-ちん♪」

 そうした自分の謹厳なる思惟を容易く切り裂くかのように、『かっとばせー』のメロディに乗せたでたらめな挨拶を伴って、杏がその場に姿を現した。部室の鍵閉めの時には影も形も無く、とっくのとうに下校したと思っていた杏が何故ここに? 軽い困惑を抱きつつも、とりあえず真由は「お疲れさまです」と挨拶する。

「いやあ、良がったよねぇ今日の本番。今まで吹いた三年間で今年の『大いなる秋田』が一番の出来だった、ってアタシ思う」

「それは、何よりですね」

「真由ちんはどうだった?」

「私も楽しかったです。あんなたくさんの人と一緒に歌って吹いて、っていう経験は初めてでしたし」

 んだべー、と相づちを打つ杏のテンションは不自然なほどに高かった。何となく気味の悪さを覚えつつ、しかしあからさまに警戒してみせるのもいかがなものかと判断した真由は、ひとまず杏に歩調を合わせる。

「それにしてもさ、真由ちんとこうやって話すの、何かずいぶん久しぶりだよね」

「ですね。先輩は先輩でトランペットパートの指導があって、私は私で練習の合間を見ながらちなつ先輩たちと一緒に独立組の子と面談してっていう感じで、お互い夏以降は忙しかったですし」

「そうそう! それそれ」

 両手の人差し指をこちらに向けた杏が、にまあ、と昼寝中の猫みたいな表情を形作る。

「部の状況がそうだから仕方ねえんだけどさ、ちょっとバタバタし過ぎてたトコあるじゃん? で、せっかく文化祭も終わったことだし、ここらでパーっと打ち上げしようかと思って。アタシん家で」

「打ち上げですか? これから?」

「うん。まあ思いついたの今なんだけど」

 真由は内心動揺する。それは自分自身が本番の直後でクタクタだからというのもあるが、それ以上にちなつのことを考えたからだった。せっかくちなつが決心したばかりなのに、その決心を進むべき道へと変える絶好の機会を奪うようなことになるのは、あまり得策とは言えない。出来ることなら今夜ひと晩、彼女とその父にはじっくりと話し合いの席に着いていて欲しいところだ。

「あーでも、今からだと皆もそれぞれ都合があったりで、あんまり集まらないんじゃないですかね。今回はいったん見送りにして、次の大会の後とかにまとめてやっちゃうのはどうでしょう」

「集まる? 何言ってんの真由ちん」

 かこん、と首を傾けた杏がその黒い両眼で、真由の瞳の奥底を覗き込んでくる。それはあたかも深淵のように。

「アタシが誘ってんの、真由ちんだけだよ」

「え?」

「だからぁ。文化祭の打ち上げってことで、二人っきりで話そうよ。女同士のタイマントーク」

 くるりと身を翻すその動きに合わせて、杏のスカートが花弁のように広がる。

「あとで家まで迎えに行くから、一回帰って泊まりの用意しといてね。ひと晩かけてじっくり話そ」

「で、でも、どうして私なんですか。それも先輩のお家で二人きり、って」

 すっかり混乱してしまった真由に杏はいたずらっぽく喉を鳴らし、そしてこう告げた。

「聞きたいでしょ? 水月のこと」

 その瞬間、真由の全身が粟立つ。思えばそうだ。忙しさにかまけて、真由はそのことをすっかり忘れていた。杏と水月、二人の繋がり。ちなつや日向もあずかり知らぬ、けれど重要な手掛かりとなり得るかも知れない何らかの過去。それを目の前にぶら下げられた真由にはもう、杏の誘いを断る理由など微塵も無かった。

 

 

 それからおよそ一時間後。事前の約束通り、杏は父親の運転する車で真由を迎えにやって来た。

「今夜ひと晩、娘が御厄介になります」

「いやいや。おら()こそ、ウチの娘のワガママさ真由ちゃんどご付き合わせちまって申し訳ねえっす」

 そんな親同士のお決まりな会話を尻目に、真由は玄関先から共用階段の一階へと降り立つ。と、目の前に停まっていた大型のワゴン車の窓がスルスルと下がり、中から「やほー」と杏が声を掛けてきた。

「あれ? 荷物そんだけ?」

「一泊だけなら、これで充分なんで」

 真由は肩に担いだ小ぶりなバッグを揺すってみせる。バッグの中には替えの下着や寝間着にタオル、それと携行用歯ブラシなど最低限の宿泊用具しか入っていなかった。男鹿旅行の時みたいに水着だ何だと持ち込む必要は無い。今回の目的は杏と話をすること。彼女と水月にまつわる諸々を訊き出すこと。それだけなのだから。

「まぁいっか。父さん戻ってくるまで、先に車ん中さ入って待ってなよ」

 音を立てて電動スライドドアが開き、中列シートにちょこんと座る杏が真由を手招きする。それに従って真由はステップを踏み、杏の隣へと腰を下ろした。

「ところで、先輩のお家ってどの辺にあるんですか?」

「んー? 説明難しいなあ。とりあえず北にある」

「それ、ものすごくアバウトなんですけど」

「まあまあ、着けば判るって。学校までは歩きで三十分ちょい、ってとこかな」

「けっこう距離あるんですね」

「自転車で通ってっから、割とそうも感じねえけどね」

 そんな当たり障りのない会話をしているうちに、杏の父親が車へ戻ってきた。運転席に乗り込んでシートベルトを締め、それじゃ行くどー、とエンジンを吹かす。真由たちの乗った車はゆっくりと動き出し、堤防道路からいつもの橋を渡って電飾灯る夜の通りを進んでいく。

「すみません、わざわざ迎えに来ていただいて」

「ハハ、なんもだよ。むしろ真由ちゃんこそ迷惑してんでねえか? 『ウチさ来い!』なんていきなりコレに言われてよ」

「ちょっとぉ父さん、そんた言い方さねえでよ。それだばまるで、アタシが後輩を無理やり拉致したみてえだべ」

そんたよんた(そのような)モンだべった。オメエ、()のペースさ人どご巻き込むのも程々にせえでな」

 軽口を叩く父親に「むぎー」と声を荒げる杏。こうしたあけすけなやり取りが出来る辺り、杏は親と仲が良いのだろう。そう考えて真由の口角は自ずと緩んだ。我が家も家族関係は良好なので特段羨ましいとは思わないが、これまでに幾つかの家庭の様々な事情を垣間見てきたせいか、小山家がそうであることにある種の微笑ましさを覚えるものはあった。

「あ、見て見て真由ちん。ここがアタシらの通ってた姫小」

 やにわに杏が窓の外を指差した。旧国道と呼ばれる通りの脇に立つコンクリート造りの建物。ここが噂に聞きし杏やちなつたちの母校、姫神小学校らしい。そしてここには水月も居た。当時の彼女たちがどんなだったか、いくら想像を巡らせたところで真由には分かりっこない。

「このルートって、アタシん家から曲北までの通学路なんだよね。だがら通りがかる度に毎朝毎晩、この校舎も見てんだけどさ」

「へえ」

「改めて思い返せば懐かしいな。色々あったっけ、小学校ん時も」

 暗がりに浮かぶ灰色の校舎。それを見据える杏の目つきが、微かに細まる。と同時に前方の運転席から、ああ、と杏の父が溜め息交じりの声を上げた。

「んだったなあ。まあ何つうかな、今が面白ぇ(おもしぇ)んだば良いべった」

「そうそう。昔は昔、今は今、ってね」

 杏と彼女の父とで交わされた、少し神妙な空気を帯びる会話。真由はあえてそこに首を突っ込もうとはしなかった。それは肉親同士のやり取りだから、というのも勿論あったが、それ以上に隣の杏が放つ気配の質感が、いつもと少し違った気がしたから。

 やがて旧国道から一つ曲がり、住宅地の細い路地を進んだあとに大きなバイパスを横断する。ライトを点けた車が夕暮れの田んぼを突っ切り、道なりにしばらく進んだその先で、何軒かの家が立ち並ぶ区画が前方に見えてきた。

「あそこ、あれがアタシん家」

 木造二階建て、築数十年といった趣きの一軒家。周囲は木々と畑に囲まれており、敷地の広さはそれなりにある。それは地方郊外にはさして珍しくも無い小集落の形態だ。錆の目立つガレージの前にゆるりと停まった車のドアを開けるや否や、杏は先立ってぴょんぴょんと降りていった。

 続いて車を降りた真由のすぐ足元で、にゃあ、という鳴き声。見ると、雉柄の毛皮を身にまとった一匹の猫がスンスンと靴下のにおいを嗅いでいた。それを見て、かわいい、という率直な感想が真由の口からこぼれ出る。

「ただいまぁリンゴ。今日はお客さん連れて来たよー」

 リンゴ、と呼ばれてそちらにすり寄った猫を、杏が持ち上げ抱っこする。彼女の腕の中で、ビー玉みたいな二つの目がこちらをきょろりと見据えた。

「先輩のお家の猫ちゃんですか?」

「そう、リンゴっていうの。今年で六歳のメス猫。ほーらリンゴ、真由ちんにあいさつはー?」

 杏の言葉を理解しているのか、それともただの気まぐれか、こちらを見たリンゴは「なーお」と牙を覗かせた。初対面の相手に緊張してはいるようだが、試しに鼻先に指をやっても攻撃的になる様子は見られない。きっと躾が行き届いているのだろう。よろしくリンゴちゃん、とやさしく額を撫でると、リンゴは気持ち良さそうにガラスのごとき双眸を瞑った。

「というわけで、いらっしゃい真由ちん。何も無えトコだけどゆっくりしてってね」

「お邪魔します」

 玄関先でお決まりのあいさつをし、真由は靴を脱ぐ。真っすぐ伸びた廊下の先には居間があるらしく、そこからは照明の光芒と夕餉のにおいがこぼれていた。

 靴を脱ぎ捨てた杏がリンゴを床へ降ろし、さっさと急勾配の階段をのぼっていく。片や、自由を得たリンゴがリズミカルな足取りでまっすぐ居間へと向かう。久しぶりに猫に触れたが、ふかふかで気持ちよかった。あとでもうひと撫でしたい。そんな思惑をこっそり胸に抱きつつ、揺れるしっぽが戸口の向こうへスルリと消えるまでを見届けたその時、「あやあや、」と脇から飛び出したしゃがれ声へと、真由は何気なく首を巡らせた。

「なあんと、めんけぇおなごわらしだごど。どごのおじょっこだべが」

「え、あの」

 廊下の一室から顔を覗かせたこのしわしわのお婆ちゃんは、杏の祖母、いや見かけからして曾祖母といったところだろうか。彼女の発するきつい訛りことば。それは秋田のことにもずいぶん詳しくなったと思っていた真由の自信を軽くへし折る程度には、およそ翻訳不能な代物だった。

「あなた杏のおともだぢ? サッとコさねまって、バアどハナシこさねが」

 辛うじて判別できる単語もあるにはあるが、全体を通して何をどうと喋っているのやら、まるで理解が及ばない。どこの地方でも高齢の人ほど訛りがきつい。いつだったか早苗とも話したことだが、それを真由は改めて痛感せずにおれなかった。

「まぁた大ババ、新顔見ればすぐ声掛けて。お客さん来ても構わねえで部屋さ居れ、って父さんさ言われてらべ」

 と、この状況に気付いて階段の中ほどから引き返してきた杏が、大声で曾祖母をたしなめる。それに曾祖母は、へぁ? と不思議そうな顔をした。

「あぁもう、ぜんぜん耳聞けねえんだから。父さんがー、部屋さ行ってれー! って」

「ああ、はいはい。なんとバンバだばよげンたごどばりするどって、すぅぐごしゃがれでな。部屋さばりいだって何んもやるごどねして、とぜねくてよお」

「もういいがら、大ババは部屋さ戻って、そんまか(そのうち)晩餉(ばんげ)だがら大人しくしてれって。ほら真由ちん、大ババは放っといて行こ行こ」

「いや、でも、良いんですか?」

「大ババ、ちょっとボケ入ってるから。心配さねくたって明日には忘れちゃってるよ、真由ちんごと」

 随分と手厳しい口ぶりで曾祖母をこきおろしつつ、杏はのしのしと階段をのぼっていく。一応のつもりで曾祖母にひとつ会釈をし、それから真由も杏に続いてギシギシ軋む木造りの階段を踏みしめた。

「ごめんねぇ。急に変なこと言われてビックリしたっしょ」

「あ、いえ。変なことっていうか、ほとんど意味分からなくて」

「あれはね、『可愛い子だね、どこのお嬢さん?』『ちょっとこっち来て、おばあちゃんとお話しない?』って言ってたの」

「へえ」

「それと、『ババは余計なことばっかりする、ってすぐ怒られてね。部屋に居てもすることが無くて、寂しいの』って感じ」

「なるほど」

 杏の意訳によって、真由はようやっと先ほどの曾祖母の発言、その全容を把握するに至る。

「寂しい、ですか。おばあちゃん」

「もう九十超えちゃってるからね。知り合いも親兄弟もみーんな死んじゃってるし、そんなもんだと思うよ」

 何でもないような口ぶりで、杏はそう宣った。去り際に見た曾祖母の小さく縮こまった背中。瞼の裏側に今も残るその残像に、真由はしばし人の一生のあり方を考えさせられてしまう。

 家族。友人。仲間。そういった人たちに囲まれて暮らす日々は、真由にとってある意味普遍的なものだ。例え引っ越しで離れ離れになろうとも、移り住んだ先ではまた新たな出会いを迎え、そして新たな関係を築いていくことが出来る。そういうものだとずっと思っていた。けれどそれは当たり前のことのようでいて、いつまでもし続けられるわけじゃない。いつかは自分もあの人のように年老いて、その時には周りに両親も家族も友人もいなくなって、やがて独りきりになってしまうのだろうか。そんな想像に少し、体が震える。

「さて、ここがアタシのお部屋でーす!」

 階段をのぼってすぐのところにある戸を開け放ち、杏が両腕を大きく開く。寸秒、真由はポカンとした。この人のことだから室内には少女趣味全開のグッズが満載だったり、はたまたこちらが恥ずかしくなるほどファニーな装いだらけだったりするのでは、と予想していたのだが、いざ目にした六帖ほどの部屋にはシンプルな勉強机とベッドが一つずつ、それに素っ気の無い収納タンスや本棚が置いてあるだけで、思っていたよりもだいぶ普通だった。

「あれ? 何かリアクション薄くね?」

「へ?」

「さては真由ちん、アタシのことだからもっとヘンテコリンな部屋だって思ってたんでしょー」

「あ、いやいや。そんなことはない、んですけど」

 図星を突かれ、うろたえながらも真由は必死に否定する。この部屋の中にあって杏らしさを感じさせるものと言えば、多少ファンシーな柄のカーテンと掛け布団ぐらい。ともすれば自分の部屋の方が、インテリア的にまだ賑やかかも知れない。こんな落ち着いた部屋で杏が暮らす姿がどうにも想像できなくて、真由は狐か何かに化かされているような気分に陥ってしまう。

「わ、わあ。音楽関係の本とかCD、たくさん持ってるんですねえ」

 多少わざとらしく感嘆の声を上げながら、真由は部屋の隅を飾る本棚へと近付く。それは部屋の件から杏の気を反らすためではあったが、実際に本棚にはクラシックの名盤やら音楽系教本やら、玄人好みするものがところ狭しと詰め込まれていた。

「これ、全部先輩のものなんですか?」

「そだよん。こう見えてアタシ、小っちゃいとき音楽教室通ってたから」

 えへん、と杏が薄めな胸を張ってみせる。

「けっこう多いですよね曲北って。小さい頃から音楽教室通ったりピアノ習ってたり、っていう人」

「そだねー。けどアタシのはそういうのと、ちょっと違うんだ」

「違う、と言いますと?」

「アタシの習ってた先生、東京の有名な音大出た元音楽教師で、プライベートで専門的なレッスンしてた人だったから」

 そう言って杏は本棚から何冊かの本を取り出す。バスティン。ブルグミュラー。ツェルニー。ピアノについては少々疎い真由でさえも、それらの名は一度ならず聞き覚えがあった。

「まあ、たまたま母ちゃんの知り合いに先生の教え子だった人がいて、その人に紹介されたからって縁なんだけどね。小二の春くらいまでちょくちょく通ってたけど、そこで音楽の基礎は大体教わったかなー」

「なるほど。それで、水月ちゃんのことなんですけど、」

「ちょいちょい真由ちん。先走りし過ぎ」

 こちらの質問を遮って、杏は肩をすくめた。

「そんな焦ってどうすんの。夜は長いんだよー? 別に今からそんなおカタい話しなくたっていいじゃん」

「でも、今日はそのためにここへ来てるわけですし」

「だからこそ腰据えて、順を追ってゆっくり話さねえとだよ。それより真由ちん、まだお風呂とか入ってないでしょ?」

「や、まあ、それはその」

「じゃあひとっ風呂浴びてえべ。本番のステージだいぶ蒸し暑かったし。汗くさいまま真面目な話するっつうのも、何かイヤじゃね?」

 そう言われてぎょっとした真由はクンクンと、咄嗟に自分の腕を嗅ぐ。確かに先ほどは家に帰ってすぐ泊まりの準備をしていたため、シャワーを浴びるような暇などはこれっぽっちも無かった。以後は支度を終えたところに迎えの車が来て、それに乗ってここまで運ばれて。……もしかして私、けっこう匂ってる? そんな不安を全開にした真由の表情に、杏がケタケタとおもちゃみたいな笑い声を上げる。

「今のはモノの例えだってばぁ。真由ちんはいつでもいい匂いだよ。けど晩ご飯までまだちょっと時間あんだし、夜じっくり語らうつもりなら今のうち入っといでニャ。母さんさ頼んで、お風呂の支度しといてもらったから」

「ええ? でも、お家の人より先にお風呂入る、っていうのはちょっと」

「真由ちんはお客さんなんだから、ヘンな遠慮なんかさねえで良いの。さっさと入んないとお湯ぬるまっちゃうよー。ほらほら」

「いや、ちょっと、あの、待って下さいってば」

 ぐいぐいと背中を押してくる杏に、真由はバッグを降ろすいとますら与えられぬまま部屋から追い出されてしまう。行動的と言えば聞こえは良いが、杏のこういう強引さはどちらかと言えば、苦手な部類のそれだった。

 

 

「はー」

 他人の家のお風呂というのはどうにも落ち着かない。まして先輩のお宅ともなれば、それは尚更のことだ。あの後すぐ杏によって脱衣所まで押し込まれ、にっちもさっちも行かなくなった真由は覚悟を決めて浴室へと足を踏み入れた。モザイクタイルのあしらわれた床と白塗りの壁面。三方向に出っ張ったスクリュータイプの蛇口ハンドル。そしてシステムバスという呼び名には縁遠い、水色の腰高な浴槽。こういう年代感溢れるお風呂に入るのも、男鹿旅行で泊まった民宿以来かも知れない。

 さてと。湯舟を使うべきかどうかしばらく迷ってから、真由はとりあえず先に洗髪を済ませることを選んだ。一度お湯で軽く流した後、家から持参した携帯ボトルのシャンプーを数滴手に取り十分に泡立ててから、髪をしっかり揉み込むように洗っていく。別に小山家の洗剤を使わせてもらってもいいのだろうが、そうすることは何だか杏に借りを作る行為みたいに思えて、少しばかり気が咎めるものがあった。

「杏先輩、ホントに話してくれる気あるのかなあ……」

 くしゃくしゃ、とふんだんに泡を立てて髪を洗うその間も、真由はそのことが気掛かりで仕方ない。これまでのところ杏に対しては、水月の件をエサに釣られてしまった、という悪印象が強かった。今こうしてお風呂に入らされているのも、もしかして半分くらいはそうこうするうちに有耶無耶にしようという魂胆であって、あの人は最初から何一つ話すつもりなんて無かったんじゃないか。そんな猜疑心がむくむくと鎌首をもたげてくる。

 やはり、のんびりお風呂に浸かってる場合じゃない。さっさと泡を洗い流して、もう一度先輩のところへ話を聞きに行こう。それは真由がそのように腹を括った矢先のことだった。

「真由ちーん、湯かげんどーお?」

 脱衣所の方から杏の声がする。まだ湯船に入ってすらいないので加減も何も無いのだが、シャワーがぬるいということもなかったので、「丁度いいです」と真由は扉越しに返事をした。

「そりゃあ良かった。今は体洗ってるとこ?」

「はい。体っていうか、髪ですけど」

「フンフンなるほど。んじゃアタシも入るね」

「分かりました……って、えっ!?」

 こちらの返答を待たず、後方の扉がギイと音を立てて開く。真由は洗髪の姿勢を保ったままで完全に硬直してしまった。宣言通り入浴にふさわしい恰好で浴室に入って来た杏は、普段の幼げなイメージとは裏腹にきちんと年相応の成長ぶりをしていて――なんて、そんなことに気を取られている場合じゃない。入るってそういう意味? 杏を凝視していたその目にたらりとシャンプーの泡が垂れ入ったことで、うぎゃ、と真由は悲鳴を上げてしまう。

「あ痛たぁっ」

「うわ、すっげー泡モコ。やっぱそんだけ髪長いと洗うのも大変なんだねえ」

 そんなやくたいもないことを言いつつ、ぺたぺたと傍に寄ってきた杏が躊躇なく蛇口のノブを捻る。ばしゃあ、とシャワーヘッドから溢れ出るお湯の玉。それをまともに顔面へ浴びせられた真由の口から「あぶぶぶ」と変な声が出てしまった。おかげで目の痛みが取れた代わりに、今度は顔中すっかりびしょ濡れだ。

「さっさと髪すすいで、したらお互いに背中流しっこしよ」

「へ、平気です! 一人でもできますから!」

「二人してさっさと洗っちゃったほうが良いと思うけどなー、湯冷めさねえうちに」

 休み明けに風邪っ引きだとちーちん怖えよ? と杏がニヤニヤしながら脅しをかけてくる。そう言われれば以前、ちなつが日向を揶揄するようにそんなこと言ってたっけ。……などと真由が一瞬思考を巡らせたその隙に、杏は真由の頭部めがけてシャワーのお湯を解き放った。

「わきゃっ」

「ほーら、きれいきれいにしましょうねー♪」

 何だか杏はおままごとにでも興じるがごとく、人をオモチャにしてその反応を面白がっている節がある。子供っぽいイタズラと割り切れれば良かったのだが、あいにく杏は見かけほど実年齢が幼いわけでもなく、従っておいそれと割り切ることなど出来やしない。本当に年長者なのかこの人は。その微かな苛立ちから、いきり立つ真由は杏の持つシャワーヘッドに手を伸ばし、どうにかこの蛮行を阻止しようと必死に抵抗を試みる。

「もうっ、やめて下さいっ」

「まあまあ、そう目くじら立てねえで」

「先輩が意地悪するからじゃないですかぁ」

「イジワルでねえって。これは私の愛のあかし」

 意味不明なことを言いながら、なおも杏はシャワーのノズルをしつこくこちらに向けてくる。それを真由は両手でガードしつつ、ノズルを杏へと向け返す。そうして二人がきゃあきゃあ言いながらお湯の掛け合いをしていたところに「お姉!」と、誰かの甲高い声が浴室の扉をつんざいた。

「うるっせえがら風呂場で暴れんなって。居間まで聴こえてんぞ」

「あー、ごめーんユズ。調子ん乗っちゃって、つい」

 杏が甘えた声で詫びを入れると、ったくもう、とボーイッシュな声でぼやきながら、扉の向こう側に立っていた人の気配が遠のいていく。

「い、今のは?」

(ゆず)っていうの。アタシの三つ下のきょうだい」

姉弟(きょうだい)、ですか。はあ、」

 杏に弟がいただなんて初耳だ。その驚きがひとたび冷めかけたところでもう一度、真由はまた別の事実に気付いて驚かされる。

「っていうか先輩って、お姉さんだったんですか」

「あっれー? アタシがお姉ちゃんだと何か問題でもあんのぅ?」

「いえ、そういうわけでは」

 大ありだ。そう言ってやりたい衝動を必死にこらえつつ、真由は杏から視線を外す。それにクツリと唇を震わせた杏は、気にしていない風を装いつつ「さて、体洗っちゃおうか」と、目の前のボトルポンプからふんだんに白い洗剤を押し出した。

 

 

 ちゃぷん、と湯面に飛沫が跳ねる。例えこれを掴み取ろうとしても、きっと滴は瞬く間に手から滑り落ちて、湯船へと還ってしまうことだろう。自分の心境も今まさに、それと同じだ。まるで思い通りにならず、どこにも掴みどころを見出せぬまま、向こうには一方的にペースを握られて。そんな苛立ちをぐっと堪えつつ、真由は杏に半ば強制されて二人でいっしょの湯に浸かっていた。

「あー、やっぱお風呂ってサイコーだねえ。一日一回は入んなきゃ、生きた心地しねえもん」

「そうですね」

 湯面にぶくぶくと泡を立てながら、真由はふくれっ面で杏に応じた。さすがの真由でも、ここまでされては多少なりとも不機嫌にならざるを得なかった。『前も洗ったげる』という彼女の申し出だけは断固として拒否したわけだが、それ以外の部位は彼女の手によってしっかり洗い上げられてしまった。いかに後輩相手とは言え、いくら何でも横暴が過ぎやしないか。彼女の誘いに乗って迂闊にここまで来てしまったことをひたすらに悔やみつつ、それでもせめてもの抵抗として、じとりと杏を睨みつける己の眼球に収まりのつかぬ憤懣と疑わしさを込める。

「なぁにその目ぇ。ちょっとからかわれたぐらいで腹立ててたら、世の中渡っていけないよん。真由ちんったらカタいカタい」

「先輩のほうこそ、後輩に対して少し馴れ馴れし過ぎるんじゃないか、って思いますけど」

「やーん、真由ちんに叱られちったぁ」

 怖いニャー、と猫みたいな鳴き声を上げながら杏が浴槽にへばりつく。それを見た真由の頭のどこかで、何かがプツリとはち切れる感触。もうこの人のことなんて放っといて、先に上がってしまおうか。そう思い立った真由が湯舟から上がろうとしたちょうどその時、「あのさあ」と神妙な顔つきの杏がおもむろにこちらへ振り返った。

「本題の前に一つ、真由ちんにお礼言っときたいんだけど」

「お礼、って、何の話ですか?」

「夏頃にひと悶着あったっしょ、うちの奈央ちんと、雄悦との間で」

 杏の口からぽろりと零れたその名に、真由はしばし唖然とする。いつの間に。というかあの二人のいきさつを、杏は知っていたのか。

「モチロンのことよ。奈央ちんはアタシの直属の後輩だし、それに雄悦とも同じ姫小からの付き合いだしね」

「じゃ、じゃあ奈央ちゃん、喋ったんですか。杏先輩に、その、」

「えーとね、奈央ちんからは直接聞いたわけじゃないよ。ただヒナちんとかもそうだと思うけど、まぁ見てりゃあ解るっしょ、ってヤツでさ」

「ああ……」

 言われてみれば確かに、と真由は得心する。奈央の雄悦に対する恋心。それは見る人が見ればすぐそれと解るほどあからさまなものだった。まして転校生の自分とは違い、杏は彼らと同じ小学校、同じマーチング部から続く付き合いなのだ。従って杏には、雄悦と奈央の微妙な関係に気付ける機会などいくらでもあったと見るべきだろう。

「正直さぁ、花火の日にアタシ、すっげえ迷ってたんだよね。奈央ちんの事どうしたもんかー、って」

「どうしてです?」

「だって、あんなカッコで花火行くなんて、これどう考えたって告白する気マンマンでしょーこの子、みたいな。けどあそこでアタシが奈央ちん止めたりしたら、それはそれでまずいじゃん」

「まあ、奈央ちゃんからしたら、雄悦先輩のことを好きなのが他の人にバレてるってことになりますもんね」

「それもあるけど、よりにもよってアタシにゃ止められたくないでしょ? 奈央ちんの立場からしたらさ」

 その言い方に、真由はもやりと渦巻く何かを胸の奥に抱いてしまう。よりにもよって、というのはまさか、ひょっとして。

「先輩、気付いてたんですか? 雄悦先輩の、」

 ためらいの念から尻切れトンボになった真由の問いに、杏の喉が「くひゅ」と変な音を鳴らす。その通り、とでも言うかのように。

「アタシって誰かさんと違ってそんな鈍感じゃねえからさ。あれは小学校の五、六年ぐらいの頃かなー。雄悦がアタシを見る時の目がちょっと違うことに気付いて、あーそうなんだ、って」

 なんてことだ、と真由は戦慄する。杏は雄悦の内なる想いをずっと前から知っていた。そして勿論、奈央が雄悦に向ける想いにも。それ即ち、彼女たち三人の中で杏だけがそのこんがらがった関係性をつぶさに把握できていた、ということでもある。

「でも、だったらどうして旅行の時、恋バナゲームなんて」

「あー、それは話せばちょっと(なげ)ぐなっちゃうかな。まあ半分はアタシの趣味なのもあったけど、簡単に言うと、このまま行けばもうすぐ奈央ちんと雄悦が破綻するって思ったからだよ」

「ちょっと待って下さい。奈央ちゃんが雄悦先輩のことを好きだったのって、あの時よりもずっと前からなんですよね。それなのにどうして急に、」

「あの日の雄悦の態度。あれ見た奈央ちんが、雄悦の気持ちに気付いちゃったから」

 ぐ、と真由は喉を詰まらせる。男鹿旅行の夜、浜辺で興じた花火のひと時。あそこで二人語らっていた奈央と雄悦のところへ杏が近付き、杏に誘われるがまま雄悦は奈央を置き去りにした。それが失敗であったことを認めるみたいに、杏は薄いはにかみを浴室の天井へと向ける。

「正直、もちっと注意すべきだったなーって後から反省したよ。最初は面白半分っていうか、テキトーに焚きつけてからかってやろうって程度にしか考えてなかったもんでさ。だけどああなった以上は、どっかでこの件に収拾付けねえとって思って、それで急遽やる予定もなかった恋バナゲームをやることにしたの」

「それは奈央ちゃんに、雄悦先輩のことが好きって言わせるため、ですか?」

 真由の問いに、杏は「ううん」と首を振る。

「小山杏は雄悦のことなんか何とも思ってない。そう奈央ちんに思い込ませるため」

 ぴちゃん、と将棋の一手を指すかのように、杏はお湯の上面を指で叩いた。雄悦の想いに応える気が無いことを奈央に分からせる。それが果たして奈央の心を救う術となり得たのだろうか。その後の成り行きを思えば、十分な効果があったとは言い難い。むしろあの日あの時、奈央はこう思っていたのではないか。

「私の気持ちはゲームだからってポロッと喋れるほど軽くなんかない、って?」

「……先輩ってもしかして、超能力者か何かです?」

「大したことじゃねえでしょ。話の流れからしたら、絶対そういう想像になるし」

「いや、なりませんよ普通」

 震える自分の体を真由はギュウと抱き締める。熱いお湯に浸かっている筈なのに、ひどく怖気がする。言うまでもなく、畏怖の対象は目の前の杏だ。小さな体の内側で、宇宙よりも大きなことを考えている。そんな風に思ってしまうぐらい、こちらの思考を軽々と読んでみせた杏のことが不気味でたまらなかった。

「だけどそれでもどうにかして、アタシが雄悦に対して何の気も持ってねえってことを奈央ちんに示す必要はあった。もちろんド直球じゃなくね。そうしねえとあの子、本気で居場所失くしてただろうからさ」

「居場所、ですか」

 うん、と頷いた杏の顎がお湯に沈み込む。

「好きな人の恋愛対象が、自分の直属の先輩。それってすっげえしんどいでしょ。フラれた後で雄悦のこと忘れようとしても、アタシの顔見る度にイヤでも思い出すことになる。そんなアタシがもしも雄悦のことを好きで、そのうち両想いになってくっついたりでもしたら。そんなん想像するだけでも、奈央ちんにしてみりゃ堪んないよ」

「でも先輩は雄悦先輩のことなんて、何とも思ってないんですよね。恋バナゲームの時にも言ってたじゃないですか、先輩が好きなのは草彅くんだ、って」

「あーそれね。ごめん、あれウソ」

「う、ウソ?」

「実は雅人クンのことは、それこそ好きでも何でもねえの。まあ色んな意味で有名人だし、そっちの意味で気になってるってのはホントだけどさ」

 あまりにも正直過ぎる杏の回答に、真由は開いた口がふさがらない。大体がして、『ウソをついたら罰ゲーム』というルールをあのとき定めたのは、他ならぬ杏自身だったではないか。そんな非難を滲ませたこちらの視線を、杏はカラカラと笑って躱した。

「だーかーらあ。あんま真面目になりなさんなってぇ、あの恋バナゲームそれ自体はどうでも良かったんだし。それにウソ云々だったら奈央ちんだってウソついてたわけでしょ。アタシもついてたんだからおあいこ、ってことでいいじゃん」

「いや、でも、他の子たちとか。それに奈央ちゃんが真剣に悩んでた時に、恋愛絡みでウソを言うのは」

「あまりにも誠意が無い。そう言いたいんだよね?」

 杏の冷たい声色にドキリとし、真由はおずおずと首肯する。本当にこの先輩は得体が知れない。からかったりウソを言ったり、かと思えばいきなりみぞおちを抉ってきたり。あまりにも翻弄されっぱなしの状況に、だんだん視界がグラグラしてきた。

「まあ、その報いはあったけどね。アタシがあそこで失敗した時点で後はもう、延々罰ゲーム状態よ。もうどうやったってこの流れは止めらんないなーって思ったし、だからいっそのこと奈央ちんには思いっ切りフラれて、それで早々に吹っ切ってもらった方がいいかなって考えたワケ」

「奈央ちゃんの恋を応援するっていう選択肢は、無かったんですね」

「出来るワケないって。結果が分かり切ってんのに、そ知らぬフリして『奈央ちんがんばれー』なんて、これほど人をバカにした話も無いでしょ。出来たとしても、それが通じるのは奈央ちんが雄悦の好きな相手に気付くまでだよ」

 濡れた手を左右に振りながら、杏が苦笑する。

「どうせ知らんぷりするなら最初っから、それこそ誰の気持ちも知らぬ存ぜぬで押し通すしかなかった。そのためにはアタシ自身、別の誰かを好きってことにしちゃうのが一番手っ取り早かったの」

 それは確かにそうなのかも知れない。とどのつまり、この閉じられた関係の中で誰かが誰かに実らぬ恋をした、その時点でどうあがいても最低一人は傷付くしかなかったのだろう。雄悦が杏に想いを寄せているのを目の当たりにした後で、その杏から自分の恋を応援されるなど、奈央にしてみれば屈辱以外の何物でもない。少なくとも杏はそう考え、そして彼女なりの配慮でもって奈央と向き合っていたのだ。

「ま、そこで計算外だったのが雄悦のバカさ加減だけどね。アイツったら相当手ひどいフリ方してくれちゃって、おかげで奈央ちん三日も学校休んじゃってさ。こればっかりはどうしようもなかったとは言え、マジで怒っちったよ。雄悦ってホント女心分かってないよねぇ」

「それは……まあ、何と言いますか」

「でもそこで真由ちんが上手くケアしてくれて、あれから奈央ちんもすっかり元気んなってさ。アタシとしてはチョー助かったって思ってる。そうなるのを予め期待してたってワケではなかったけど、やっぱり真由ちんってアタシらに無いものを持ってんだなあって、そん時改めて思ったんだ」

「先輩たちに無いもの、って?」

「ちーちんに聞かされてない? アタシが真由ちんのこと『外の目』って言ってたの」

 杏の放った一言に、真由はごくりと息を呑む。外の目。それはあの日、ちなつに連れられ水月との直接交渉の場に立たされた折、別れ際に水月の口から出た言葉。それと、ちなつはこうも言っていた。『最初に言い出したのは私じゃねえけど』。つまりその『外の目』とやらを真由が持っていて、ゆえに水月との交渉の場における立会人に相応しいとちなつに進言したのは、目の前にいる杏その人だったということだ。

「ふぇー、あんま長風呂してたらのぼせてきたかも。そろそろ上がろっか」

「え、でも、」

「気付いてないと思うけど、真由ちんも顔真っ赤んなってるよ。これ以上入ってたら湯あたりしちゃうって」

 杏にそう言われて、はたと真由は時間の感覚を取り戻す。話に夢中で忘れていたが、長湯と呼ぶにも程があるというぐらいにはたっぷり湯浴みをしてしまった。窓の外も夕闇を通り越してほぼ真っ暗。慌てて湯から上がろうとしたものの、途端にくらりと眩暈を覚えた真由は壁面に片手をついてしまう。

「ほれ見なって。話の続きは晩ご飯食べて、ゆっくりしてからにすんべ」

 ざばあ、と湯船から這い出した杏が先に脱衣所へと向かう。そんな彼女の背に、あの、と真由は声を掛けた。

「一つだけ、今のうちにどうしても聞いておきたいんですけど」

「何かニャ?」

「先輩自身はホントのところ、どう思ってるんですか。雄悦先輩のこと」

 そう質問した時、振り返った杏はくしゃりと表情を歪めただけだった。それは本心を言いづらくてなのか、或いはどこまでも見当外れな真由のことを残念に思ったからなのか。どちらとも判別がつけ難かったのもきっと、自分がすっかりのぼせてしまっているせいなのだろう。真由にはそう思い込むしかなかった。それはその後に続いた、皮肉の言葉でさえも。

「今までの話で分がんねがった? やっぱ鈍感だなぁ、どっかの誰かさんは」

 

 

 

 

 お風呂から上がって少し縁側で涼んだ後、真由は小山一家の夕食の席へ招かれた。真由を除いても杏に柚に彼女らの両親、それと祖父母、と家族六人が囲む食卓というのはかなり賑やかなもので、そうした団欒の中で食事をするのも真由には随分と久しぶりのことだった。

「え。柚くん、じゃなくて柚ちゃんって、妹さんだったんですか」

「そだよ。じゃなかったら何だと思ってたの? 柚のこと」

「別にいいって。アタシこんな見てくれだし、いっつも男子に間違われてばっかいるし」

 ふて腐れるでもなくあっけらかんとしながら、柚が目の前の大皿に盛られたから揚げをひょいひょいと口に運ぶ。姉と顔立ちの似ている柚は、しかしベリーショートな髪型とTシャツにハーフパンツといういでたちのお陰もあって、真由の目には完全に男子としてしか映っていなかった。

「まあ、真由さんみてえにどっからどう見ても女子って人から言われる分には、アタシも悪い気しねえけどね」

「これ柚、年長者さ生意気な口の聞き方するもんでねえ」

 父の窘めに、柚はツンと唇を尖らせ反抗の意を示す。見た目に違わぬこの気の強さ。それを目の当たりにした真由は、杏のそれともまた異なる芯のようなものの存在を柚の内に見出していた。

「柚って小っちゃい時からずーっとこうなんだよねー。音楽好きなところはアタシに似て、今も姫小でマーチングやってんだけどさ」

「べつに、お姉さ影響されたワケでねえし。それに音楽やるのが女子らしい、なんて時代でもねえべった。アタシは自分が好きだから音楽やってるだけ。それとお姉とは関係ねえもん」

「まったくコイツは。誰さ似て、こんた口の減らねえ娘に育ったんだか」

「そりゃもちろん父さんさ、だべ。この人も昔っから口が先に生まれて来たみてンたく、べらべら喋ってばっかでよお」

「何い。オメエのそういうとこが良い、どって嫁っこさ来たのはお(かあ)だべ。()の責任ヒトさ押し付けるよンたごどばり言って、はぁー」

 今しがたの小山夫妻の言い分、より正しいのはどちらだろう。そんな推理を働かせつつ、真由はエビフライをかぷりと噛み千切る。総菜ものではない揚げたてのエビフライはとても香ばしくて、ぷりぷりとしたエビの身は齧れば齧るほど口の中で旨味の大輪を咲かせた。

「おかわりもあるから、遠慮さねえでどんどん食べてけれな」

「ありがとうございます。とっても美味しくいただいてます」

「まぁ、ほんとにお行儀良い娘さんだごど。ウチもこれからもっと厳しく躾さねえばダメだがや」

「ハア? じょーだん。お母がこれ以上口うるせぐなるかと思ったらウンザリも良いとこだで、なぁお姉」

「なぁー」

「オメエ()、そンたとこだけ姉妹仲良く息合わせんでねえって」

 親子の遠慮なき罵り合い。それは自分の家庭には殆ど無かった光景で、ほんのちょっとだけ羨ましい、と真由は感じてしまう。ちなみに杏たちの曾祖母は「立って歩けないから」という理由で、この食事の席には来ていない。その代わりに曾祖母のご飯や諸々の面倒を見るべく、杏の母や祖母がちょくちょく席を外していることを、真由はそれとなしに察していた。

「ごちそうさまでした」

 お皿に盛られたごちそうを一通り食べ尽くし、真由はたっぷりの満足感と共に両手を合わせた。片付けぐらい手伝おう、と空になった食器を台所へ持ち込んだ真由を「いいのいいの」と杏の祖母が制する。

「真由ちゃんはお客さんなんだがら。そンた気い遣わねえで、アンちゃんと部屋でゆっくりしててけれ」

「でも申し訳ないです。お皿洗いなら家でもやってますし、せめてお手伝いぐらいは」

「あやぁ、なんと気持ちっこ優しいお嬢さんだごど。おら()さ貰いてえぐれえだなや」

 祖母の大袈裟な感銘ぶりに、ええ、と真由は困惑してしまう。

「ババったら、そうやって遠回しに孫を貶すのやめてよぉ。アタシ泣いちゃう」

「言われでぐねがったらアンちゃんも、たまにゃ食器洗いぐれえしてみれって」

「やだぁ。どのみち一人暮らし始めたら、イヤでもすることになるもーん」

「あれ? 先輩の進学先って県外とかなんですか?」

「大学とかの話だよぉ。このへんで県外進学の高校なんつったら、スポーツ特待とかそういう特殊なやつ以外まず無えから。まあ親戚の姉ちゃんみたく下宿して吹部の有名校さ進学する、って道もあるっちゃあるけど、そうまでして強ええトコ行きたいわけでもねえし」

 それにアタシって地元愛に溢れてるからー、と杏は目をくりくりさせながらあざとく物申す。その真偽はともかく、彼女が当面実家に居着くつもりでいるのは間違いなさそうである。

「真由ちゃん、ほんと良いのよ。食器の片付けぐれえチャッチャと出来ちゃうから。それにほら、まだ晩酌終わんねえ男共も居だし」

 ハァ、という溜め息と共に杏の母は居間を指差した。なるほど確かに、真由の父にも劣らず酒好きらしい杏の父と祖父は、どこからか持ち出した一升瓶を交互に傾けては盃を煽っている真っ最中だった。もちろん肴になるものも卓上にはちりぽり残されている。あの分だと、彼らの食器が片付くのは当分先のことになりそうだ。

「お母もババもこう言ってることだし、私らは部屋さ行こ? ホラ真由ちん」

「それじゃあすみません、今夜はお言葉に甘えさせていただきます」

 有り余るほどの申し訳なさを抱えつつも、真由は自分の使った食器をシンクの端に置いた。杏の母も祖母も、本当に心優しい人たちだ。けれどだからと言って、何もしないではいられない。明日の朝食こそは、ちゃんと後片付けを手伝わせてもらおう。そう心に思い描きながら。

 かくして杏と共に彼女の部屋へと戻った後は、杏お勧めの吹奏楽曲を鑑賞するなどしつつ、しばしまったりとしたひと時を過ごした。その間あえて本題に触れなかったのは、向こうから喋る気になるまでは杏の好きにさせておいた方がいいと、今日一日の経験を糧にそう考えたからだ。

「さあてと。お腹も落ち着いてきたし、夜も更けてきたしで、そろそろ頃合いかな」

 ぼふん、とベッドに腰を下ろした杏が真由に手招きをする。ようやっとその時は来た。今日ここへ来た意味。それを真由が得る瞬間は、もうすぐそこだ。

「教えてあげるよ、水月のこと。それと、真由ちんのこと」

 

 


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