私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
電気を消した部屋の中で、掛け布団がもぞりと動く。その内側に収まっているのは真由、ともう一人、このベッドの主たる杏だ。
「あの、杏先輩。どうして私たち、いっしょのベッドで寝てるんですか?」
「だってアタシの部屋狭いんだもん。布団もう一枚敷くスペースなんて無いしぃ」
「それにしてもその、部活の先輩といきなり添い寝するというのは何と言いますか、緊張が半端ないって言うか」
「なぁにー? もしかして真由ちん、アタシのこと意識しちゃってるのぉ?」
「ヘンな意味抜きで意識しますって、こんな状況」
「けっこうウブだねぇ。天然ジゴロみたいなくせして」
「何ですか、その天然ジゴロって。あとどさくさに紛れてヘンなとこ触らないで下さい」
「狭いんだからしょうがないニャー。ほれほれ、もっとくっつかないと布団からはみ出ちゃうよん」
どうせだから寝る体勢で……と布団に入ってからも杏はずっとこんな調子で、寝かせる気どころか話を切り出す様子も見せやしない。それにこちらもだんだんと目が冴えてきて、満腹感から催した眠気も今ではすっかり何処へやら、といった按配である。
「ちょっとぐらいはみ出たって平気です。それよりそろそろ、話をして下さいよ」
「話って何の?」
「ですから、さっきのお風呂場での続きです」
「ああそうそうお風呂場ね。えーと、何だっけ?」
「杏先輩」
至近距離でじとりと睨み付けた真由に、しょうがないにゃあ、と杏は諦めたように一つ息を吐く。
「それじゃあ眠れない真由ちんのために、おとぎ話でもしよっか。むかーしむかしあるところに」
「もうそういうの良いですから、ちゃんと話を、」
「あるところに、二人の女の子がいました」
真由の掣肘をものともせず、杏は頼んでもいないおとぎ話を朗々と述べ続ける。
「二人はずうっと小さい頃から近所に住む仲良し同士でした。物心が付くより前から一緒だった二人は親の勧めで同じ音楽教室に通い始め、いっしょにピアノを習ったりしました」
ふつ、と杏の表情からそれまでの浮つきが失せたことを察し、真由もまた黙り込む。親の勧め。音楽教室。ピアノ。それらのキーワードは、最初にこの部屋に入ったときにも聞かされたものだ。現実と虚構、二つを結ぶ奇妙な符合。杏の語ろうとしているそれは恐らく、ただのおとぎ話などでは無かった。
「とても腕のいい先生だったおかげもあって、二人はどちらもピアノが上手になりました。保育園に入ってもいっしょにピアノ弾いて遊ぼうねって約束するぐらい、二人は音楽もお互いのことも、大好きでした。けれど残念なことに、保育園に入ったと同時に二人は離れ離れになってしまいました。それもそのはず、二人は年齢が一歳違っていたのです」
あざけるように、杏はほうと柔らかい吐息を漏らす。一歳違い。それは世の仕組みを知らぬ幼子の時分には無かったも同然で、けれど学年という仕切りに慣れ切った今では当たり前となってしまった大きな隔たり。仲良しの二人を別ったものは、そのたった一個分の数字の差だった。そういう経験をした記憶の無い真由ですら、彼女たちが味わったであろう悲哀の多寡を慮ることぐらいは出来る。
「でも、それで二人の仲が引き裂かれたわけじゃありませんでした。何故なら保育園が終わって家に帰れば、二人はまたいつもの通りの仲良しこよしでいられたからです。音楽教室に行っても会えるしお互いの家でだって会える。もう一年経ったら保育園の中でだって会える。そんな二人の関係に、不自由なことなんて何一つありませんでした。そう、二人のうち片方が、小学校に上がるまでは」
語り部に徹する杏を、真由はじっと凝視する。杏の瞳は目前の真由ではなくもっとずっと遠く、例えばそう、遥か昔を見つめているみたいだった。
「小学校に上がったその子はある日、クラスメイトにこう言われました。アンタ私らと付き合い悪いよね。お稽古してるか何か知らねえけどお高く止まってんじゃねえの? ――女の子は無視しました。無理に仲良くする必要なんてない。イヤなことを言う子となんか別に付き合わなくたって良い、と」
暗闇の中で翳りゆく杏の表情が、遂には月影のように温度を失う。それをただじっと見守りながら、真由はおとぎ話に耳を傾け続けた。
「女の子のそういう態度がきっと癇に障ったのでしょう、それから何日もしないうちに、女の子はクラスメイトたちから無視されるようになりました。それだけじゃありません。机の中には見たくもないお手紙。上履きの中には刺さると痛いもの。ランドセルには給食の残飯。……一人ではなく何人もがそうしていることを、女の子はある日、クラスメイトたちの陰口を聞きつけたことで知りました」
「ひどい、ですね」
真由の率直な感想に、くす、と杏は口元を綻ばせる。
「けど今になって考えれば、その女の子も悪かったのです。はじめの時点でクラスメイトを無視したのは彼女の方だったのですから。でもその時の彼女は辛くて悲しくて、学校に行くのがたまらなく嫌で。だから女の子は度々、唯一の友達だったもう一人の女の子の前でわんわん泣きました。別に何かして欲しかったからじゃなく、あの子なら私の気持ちを解ってくれると、そう思ってたから」
でも、と杏の声色がさらに一段落ちる。
「もう一人の女の子はそれを聞いて思ったのでしょう。『そんなひどいことする奴らはあの子の友達なんかじゃない』と。次の日、嫌々ながらも女の子が学校に行ってみると、状況は一変していました。自分がされたことをそっくりそのまま、クラスメイトの子たちがされていたのです。教室中を余すことなく。それどころか直接関係していなかった子の机や上履き、ランドセルまで全て」
その光景を想像し、真由は恐怖にぞっとする。誰がやったか、なんてことは問うまでも無かった。けれどそれを本当に、小学校にも上がっていないその子が、たった一人でやり遂げたというのか。その事実が、何よりも恐ろしい。
「当然、どうしてそんなことが起こってしまったのか、とクラスで問題になりました。コイツが仕返しをしたに違いない、と女の子をなじる子もいましたが、それは無理だという結論になって真相は分からぬまま。結局この一件は担任からの『友達同士でこういうことをしてはいけません』というお決まりの説教で、全員がケンカ両成敗みたいになりました。その日の放課後、女の子はすぐにもう一人の女の子のところへ行きました。彼女はいつも通り音楽教室でピアノを弾いていました。何事も無かったかのように、涼しい顔をして」
目が眩むほどの歪さ。言い知れようのない不快感。その光景は思い描くだけでもあまりに不気味で、異質だった。中学生の自分でさえそうなのだ。小学校に上がりたての無垢な少女であれば、それはいかばかりだっただろう。
「女の子は平然と言いました。『あーちゃんひとりだけがこまってるなんて、そんなのおかしいよ』『みんなのために、だれかひとりがくるしむのなんて、まちがってるよ』。確かにそうなのかも知れません。でも、そのために皆を苦しめるのも、同じくらい間違ってる。そう思ったあーちゃんは言いました。『みーちゃんだっておかしいよ』『わたし、そんなことしてほしいっておもったわけじゃない』」
『あーちゃん』と『みーちゃん』。彼女たちは日頃から互いをそう呼び合っていたのだろう。彼女たちの繋がり、その深さを、呼び名は何よりも強く表していた。
「みーちゃんはきっとショックだったのでしょう。あーちゃんのためを思ってしたことなのに、そのあーちゃんから拒絶されたことで、みーちゃんは暫くあーちゃんに口をきいてくれませんでした。けれどあーちゃんは間違ったことを言ったつもりは無かったし、いつかはみーちゃんも分かってくれて、そうすれば二人は仲直りできると思っていたのです。そう、一年遅れてみーちゃんが小学校に上がる、その時までは」
そこで一度ためらうように、杏が唇をぎゅっと噛み締める。それは話の核心に触れることへの緊張感からか、それとも。
「あーちゃんが二年生になっても、クラスメイトからのいじめは裏でずっと続いていました。あーちゃんは時々学校を休んだり、行けても保健室までだったりで、そのままだと不登校になっていたかも知れません。音楽教室にも怖くて行けなくなって、お父さんやお母さんには毎日のように『わたし、しにたい』『しにたい』とばかり言っていました。そんな時です。一年生になったばかりのみーちゃんが学校で、事件を起こしてしまいました」
「事件?」
「あーちゃんをいじめていた主犯格のグループ、その子たちがやっていたことをビデオでこっそり撮影したみーちゃんは、それを学校中の教室、職員室にばら撒いたのです」
あまりの衝撃に、真由は息をするのをしばし忘れてしまった。小学一年生にしては反撃の方法が狡猾すぎる。けれど彼女ならば、それもあり得る。そのとき真由が抱いたのは、みーちゃんの行動に対する奇妙な得心と、それを遥かに上回る畏怖の念だった。
「こうなるともう、学校の先生たちも周りの大人たちもあーちゃんの問題を無視できなくなりました。いじめっ子たちは校長先生に呼ばれて酷く叱られ、その子たちのお父さんやお母さんがあーちゃんの家にまで来て何度も謝ってくれました。担任の先生までごめんなさいと言ってくれて、クラスにはあーちゃんの味方をしてくれる子が何人も出来ました。けれど、みーちゃんがやったことはすぐに知れ渡り、そしてみーちゃんは逆に他の大人たちから叱られてしまいました」
どうしてそんなことに、などとは真由も思わなかった。仮にあーちゃんをいじめていた側を悪とするならば、彼女らに対してみーちゃんがやったことは正義でも何でもない。悪をもって悪を制する。漫画か何かなら美談のようにして終わる話であっても、こと現実においては社会のルールがそれを許してはくれない。
「あーちゃんは申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。でも、みーちゃんが良くないことをしたというふうにも思っていて、だからみーちゃんに何て言えばいいのか分かりませんでした。ある日久しぶりに音楽教室で会ったみーちゃんに、あーちゃんは思い切って言いました。『もうこんなことやめようよ。やられたことをやり返したって、みんなイヤな気持ちになるだけだから、みんなで仲良くすることを考えようよ』と」
喉が小刻みに震える。指先は針金を通したように動かない。動作を拒否した瞼はすっかり凝り固まっていた。それでも先を問うその声は、勝手に真由の口から飛び出てしまう。
「それで、みーちゃんは……?」
「みーちゃんは言いました。『あーちゃん、みんなに染められちゃったんだね』『わたしの好きだったあーちゃんは、もういないんだ』。あの子にとって、みーちゃんにとって集団とは、個人をぐしゃぐしゃにして自分たちの内側へと溶かし込む
胃液が逆流しそうになるのを真由は必死に堪える。生理的嫌悪感。理屈では説明し切れないみーちゃんのおどろおどろしさが、ただ聞いているだけの自分すらをもずぶずぶと蝕んでいく、そんな感覚が確かにあった。
「その日以来、あーちゃんとみーちゃんが会話をすることはなくなりました。あーちゃんは音楽教室を辞め、それからはクラスの子たちとも、いじめていた子たちともそれなりに仲良く過ごすようになりました。クラスの誰もがかつて起こったトラブルなんて綺麗さっぱり忘れ去り、あーちゃんが処世術を覚えて昔みたいに誰かに怯えて過ごすこともなくなった頃、あーちゃんとみーちゃんは小学校のマーチング部で再会を果たしたのでした」
めでたしめでたし、とはならなかった。その話に相応しい結びは容易に思いつくことが出来る。
「そして現在に至る、ですね」
「そう。次に会った時、アタシはアイツを水月、向こうはアタシを小山先輩、って呼ぶようになってた。それがあーちゃんとみーちゃんの、アタシと水月の物語。それからアタシはずっと水月を警戒してた。集団の輪に入れば、きっとアイツは牙を剥く。ところ構わず手段を選ばず噛みついて、必ず集団をズタズタにする。そういう奴だって知ってたから」
「杏先輩はそれを日向先輩やちなつ先輩に、何度も忠告してたんですよね」
「絶対に絶対とまでは言えねえから、遠回しな警告だったけどね。真由ちんに『水月に気い付けれ』って言ったのもそう。何より水月は、アイツは真由ちんみたいな子には必ず目ぇ付けるはずだって、そういう傾向があったから」
「傾向?」
「そう。集団の内側からじゃなく、外側からものを見て働き掛けられる人間。それには物理的な意味で外から来た人間の方が期待値が高い。アイツはそう考えてた。だから他県からの転校生とか集団に染まらないタイプの子を見かけると、水月は片っ端から声掛けてたの」
それを聞いて、真由の中に一つの解が浮かび上がる。秋山楓。彼女は水月と親しくしていた時期があった、と言っていた。それは多分、楓がかつて他県からの転入生であったことを水月が誰かから聞いて知ったからだ。水月は集団の内に属さない人間性を楓に求めて接近を図り、やがて離れていったのだろう。楓が己の期待に値しない人間だと見切りをつけた、その時点で。
「アタシや水月の言う『外の目』ってのは、つまりそういうこと。客観視、って言っちゃえばすごく陳腐に聞こえるけど、でも実際に自分たちのことを完全に客観的に見れる人間ってそうは居ないっしょ?」
「っていうか、居るんですか? そんな人」
「まさか」
杏はふるふると、枕の上で首を揺する。
「誰でもいろんな人間関係の中に生きてる以上、自分の損得勘定や思い入れで判断したり、自分の立場を決めてそこを軸にして動いたりする。多かれ少なかれ、ね。完全な中立で、完全な独立。そんなことは絶対にあり得ない。そのあり得ないものをずっと、アイツは求めてる」
「何のために、ですか」
「そこは分かんない。けど多分、水月は知らしめてえんだよ。私ら集団の内側にいる人間に、お前らのやってることはこんなに無様でみっともねえ、ダサい馴れ合いなんだ、ってさ」
「水月ちゃん自身が、その内側にいるにも関わらず?」
「そう。今のがまさに真由ちんの持ってる『外の目』ってやつ」
何となしに口をついて出た真由の一言に、杏が強い反応を示す。
「完全な客観視なんてあり得ない。それは水月だって分かってるはず。それでも水月がそこに拘るのは、自分が内側の人間である以上、どうあがいたって結局は内ゲバにしかならねえから。だから水月はずっと待ってた。外側の視点を持ちながら集団の中に入って、内側から集団そのものを変えていける力を持ってる、そういう人間を」
「それが、私?」
こくり、と杏が無言で頷く。それを鵜呑みにする気には全くなれなかった。自分はそんな大それた人間じゃないし、そもそも言われるほど客観的な思考の持ち主でもない。自分なんて、ただの音楽好きな転校生。それだけでしか無かったはずだ。
「ところがそうじゃねえんだよ。ただ外から見てるだけじゃダメなの。それじゃ単なる傍観者でしかない。外から見てギャーギャー言うだけの人間なんて、水月からすりゃゴミッカスみてえなもん。人を動かすにはそれに見合うだけの力が要る。人を変えるにはそうさせるだけの何かが要る。自分でも気付いてねえと思うけど、そういうものを確かに持ってる真由ちんだからこそ、水月は真由ちんのことを特別視してんだよ」
「いまいちよく分からないんですけど……力っていうのは、具体的に何なんですか」
怪訝を超えて混乱の域に達しつつある真由の問いに、杏は小さく息を吸ってから答え始めた。
「まず当たり前に、その集団の中で一目置かれる能力があること。別に楽器の上手さに限らず、他の能力でも良いんだけどね。真由ちんは吹部の中でも上から何番目ってくらいに上手い、いや上手くなった。ユーフォのトップはちーちんだけど、もしちーちん以外の誰かがトップ張るってなったら、吹部のみんなが全員一致で推すのは間違いなく真由ちんだよ。それと、人に刺さる何かを持ってること。どれだけ能力があったって、心に何にも響かねえ話なんて誰も聞いちゃくれない。良い意味でも悪い意味でも、人を刺せる人間にはそれだけ無視しておけない存在感っていうのがある」
杏の説明は真由の想定の遥か斜め上をゆくものだった。それが自分のことを言っているのだと意識すればするほど、なんだか杏の手で自分をばらばらに解剖されているみたいでひどく落ち着かない。客観視というならそれこそまさしく、真由は杏の客観によってその人間性を裁定されていた。それが合っているか否かではなく、ただ純粋に他者から下される評価というものに、真由はすっかり脅えてしまう。
「それだけの影響力があったら普通、部の中心的存在になったり、ちーちんみてえに幹部になったりするでしょ? けどそうじゃない。どっか遠巻きにものを見ながら、うっかり近付いた人の心に深く刺さって、その人をガラっと変えちゃう。そういう人間が一人でも集団の中にいると、集団そのものがどんどん影響されて変わっていく。言い方は少し悪いけど、そういう『毒』みたいなもんを真由ちんは持ってるの」
「毒、ですか」
その言葉の意味するところを真由はしばし考え込む。毒。そんな剣呑なものを自分が持っているという杏の言い分は、率直に言えば認め難いものがあった。
「でも水月ちゃんたちの独立に、私は一言も声を掛けられませんでしたけど。もしも先輩の言う通りなら、いの一番に私を引き込もうとする筈なんじゃないですか?」
「そこがアタシにも分かんないんだよね、アイツが何を狙ってんのやら。でももしかしたら水月にとって、今回の騒動はアイツの本当の目的を果たすための手段か、あるいはただのエサなのかも知んない」
「エサ……」
「ま、それはアタシの何となくの勘なんだけどさ。でももしそうだとすると、水月がこっち側に復帰する子を引き留めずに放置してんのも、アイツの目的がそこには無いからなのかもね。何にせよ一人でも多く引き戻せるんならその方が、アタシらとしてはありがたい限りだけど」
アタシら。何気ない杏の言い回しは限りなく、彼女がちなつ側の人間であることを証明していた。そしてそれと同時にふと、真由はあることに気が付いてしまう。
「どしたの真由ちん?」
「あ。いえ、その、何でも」
うっすらと浮かんだその思考を、真由はひた隠しにする。杏はちなつ派、ひいては体制派と呼んで良い立場だ。そんな人物にこんなこと、言えるはずがなかった。
「引き戻せた方が良い」だなんて、本当に言い切れるのだろうか。嫌だというならそのままにしておく方が、その子にとってもちなつ達にとっても、実は良い結果をもたらす場合だってあるのでは? そういう考えが、杏の話を聞けば聞くだに、ヘリウムを注入した風船のようにどんどん膨らむ一方だ。集団とは何なのか。個人とは何なのか。それと向き合っていたようでいて、その実もやもやするばかりの思考に解を与えることを、自分は知らず知らず先送りにしていたのかも知れない。ひとたび答えを下せばそれは、ちなつや日向にとってとてつもなく不都合なものとなり得てしまうが故に。
「ふぅん」
考え込む真由の表情から何を読み取ったか、杏が意味深に口角を吊り上げる。
「な、何ですか?」
「べぇっつにー。ただ思っただけ。真由ちんはやっぱ真由ちんなんだな、ってさ」
「はあ」
アタシらとは違う、ってね。そう呟いた杏の意図が最後まで、真由にはちっとも分からなかった。けれどそれで良い、と今は思える。自分一人の力では全てを解明し切れない、自分自身の存在理由。それはきっと今みたいに多くの他者を通じて少しずつ気付かされ、あるいは与えられるものなのだと、そんな風に感じたから。
あの後は雑談めいた話を少ししたぐらいで、ほどなく杏はぐっすりと寝落ちてしまった。日頃は子供っぽく振る舞っていても、彼女にはパートリーダーとしてトランペットの子たちを指導する重責もあれば、勉学に励み進路に臨む学生としての本分もある。その小さな体に背負わされたものは幾つもあり、そのうちの一つに水月との因縁があるのだろう。睡魔に意識を奪われる間際、彼女はこう言っていた。
『水月と仲直り? 出来るワケねえよ。アタシとアイツはもう全然違う方向に進んでいって、ぜんぜん違うところに立っちゃった。どっちが良い悪いって話でもねえし、それにどうやったって、昔みたいには戻れない』
過ぎ去りゆく時の中で、人は絶えず変わっていく。それは周囲の関係をも巻き込んで。かつて深く繋がり合っていた者同士も時間の経過と共に離れたり、それまでとは違う関わりのかたちになってしまったりすることだってある。例えどんなにそれを望まなくとも。人間とは、人生とは、そういうものだ。雲間から零れるおぼろげな月明かりを浴びながら思索を繰り返していると、どうしてもそんな達観めいた考えが頭の底から滲み出てしまう。
寝つけぬままベッドから這い出し、窓辺から見える近くの一軒家にそっと視線を注ぐ。そこはついさっき杏から教えられた、水月の家。もうずいぶん遅い時刻だというのに、二階の一部屋にだけ煌々と明かりが灯っている。あの部屋に水月がいるのだとしたら、そしてこんな時間まで起きているのなら、彼女はいま何を思っているのだろう。吹部の分裂。組織の瓦解。それらの大混乱を引き起こした水月の本当の狙いとは、一体何なのだろう。
そして自分は、何をどうしたいのだろう。真由はなおも考え続ける。これまでいろんな問題にぶち当たり、その度にいろんな人の話を聞いていろんな人の傍に立って、自分はそれらのことにばかり追われてきた。だがいずれの場面においても、その真ん中に自分は立っていなかった。それこそが水月の言う『外の目』の本質なのかも知れない。曲北吹部に、この問題に、自分はどう関わるか。その視点が真由には欠けていた。あるいはそうあることを水月は望み、ともすれば自分自身すらも、自分を責任無き傍観者の立場に置いておきたかったのかも知れない。
けれど今は、少し違う。
誰が何と言おうが、自分は間違いなく曲北吹部の一員。ならばこれは他人事では無く『自分事』として取り扱うべき問題なのだ。その答えはあとちょっとのところまで出掛かっている。それが他の誰かにとってどんなに不都合な回答でも。別の何かの火種となってしまおうとも。真由が真由としてそこに存在する限り、答えを出さずにいることは出来ない。自分が本当に求めているもの、それを心の底から貪欲に求めたいと思うのならば。
翌朝、目が覚めてから杏とはこれといった何かがあった訳でもなく、とりとめの無い会話に終始した。一家揃って朝ご飯をいただいて。柚を交えて三人で音楽談議に花を咲かせ。そうして昼を迎える少し前には来た時と同様に、杏の父が運転する車に乗って真由は小山家を後にした。玄関先で杏の母や祖父母に見送りしてもらったとき、奥の部屋からひょこりと顔を覗かせた曾祖母の少し寂しげな顔が、真由の心を強く捉えた。
『なんとめんけぇおじょっこだなや。どごさ行くのよ? バンバさみやげっこ、買って来てけれな』
もしかして曾祖母は、自分のことを孫か曾孫だとでも思っていたのかも知れない。さよならおばあちゃん。誰にも聞こえぬほどの小声で別れを告げた真由に、曾祖母は慈しむような笑顔を向けてくれた。例え彼女が明日には真由のことを忘れてしまうのだとしても、曾祖母が見せたあの皺深い微笑みを、真由はきっと忘れない。
「じゃあ真由ちん、明日からの部活もよろしくねーん」
「お世話になりました」
能天気に別れのあいさつを告げる杏と父をきちんとお辞儀で見送って、それから普段と変わらぬ足取りで共用階段を上がり、ちょっぴり新鮮な気持ちで自宅の玄関ドアを開ける。おかえり真由、といういつも通りな母の調子に、真由は強い安堵感を覚えた。
「ただいま」
そう言える自分がここにいる。自分を形作っているものは、自分一人じゃない。ここには父がいて母がいて、ちなつや日向がいて、泰司や雄悦や玲亜がいて。自分を取り巻くたくさんの人たちの中にはもちろん水月だっている。その人たちに自分というものをほんのちょっとずつ定められて、黒江真由という人間は存在しているのだ。
「どうかした?」
少し怪訝そうに母がこちらを窺っている。何でもないよ、と返事をして真由はバッグを玄関先に降ろした。ゆうべ心を決めてからというもの、時を経るごとに胸の内を覆っていたもやが一つずつ晴れてゆくのを感じる。それを言祝ぐかのように、蒼に深まった空は雲一つなく悠々と、見渡す限りに広がっていた。いずこからか漂う稲穂と金木犀の香りが、秋の深まりをふわりと真由に教えてくれた。
「独立組、残り十四人、か」
あれからおよそ十日。ちなつ達の度重なる説得により、残っていた独立組のさらに半分以上が体制派への復帰を表明していた。けれどちなつの表情に余裕などは全く無い。期限までは今日を除いても後三日。そのたった三日間で、曲北はこの騒動に何らかの決着をつけなければならないのだ。残るは水月を筆頭として、独立組の立ち上げに主導的な役割を担ったとみられる二年生数名、そして彼女らに恭順を誓う一年生たちがおおよそ十名、という構成になっている。
「まあ残るべくして残った連中、っつう感じだね。こんだけ時間も回数も掛けて説得を重ねてきたってのにアイツら、テコでも動かねえって態度だし」
はー、と日向が額に手を当て、和香やゆりも悩み果てたように俯く。本日の練習が終わった後も、対策会議はいつものメンバーで行われていた。これまでは一人説ければ何人かは芋づる式に引き戻すことが出来たのだが、さすがに現在もなお残る主導グループの面々は岩盤のごとき堅固ぶり。生半な説得など到底通用するものではなく、中には完全なる没交渉に陥っているケースもあるぐらいだ。
「これ以上は個別説得も限界でねえが? どっかで妥協するか何かして、連中の方針そのものを変えさせるようにさねえば、文字通り話になんねえべ」
雄悦の意見は確かに的を射ていた。ちなつ達の説得とは、とにかくこっちの熱意を粘り強く伝えることと、個々の要望を聞き入れやすい体制づくりの機会を設けることを確約する、というやり方だ。これにより半分くらいは情にほだされ、もう半分ぐらいは新体制への希望を持って説得を受け入れてくれたのだが、残る十四名にその手は全くと言って良いほど通用しなかった。
「永田先生も説得してるって話だったけど、そっちはどうなってんの?」
「全然ダメだって。やっぱ連中、上からモノ言われるのは大っ嫌いって感じだから。むしろ逆効果になってるのかも知んねえ」
「そっかぁ。まあ、ちなつ達の話ですら全然聞かないぐれえだしなあ」
期待に沿わぬちなつの返答に、ゆりががっくりと肩を落とす。
「マーチングの練習もそろそろ実害ってレベルで支障出始めてるしな。フォーメーション組むときに前後の目測がチグハグだと合わせにくいし、こっちでもちょっと指導し切れねえ」
和香が悩ましげに頬杖をつき、それを見るちなつもまた青白い吐息を口からこぼれさせる。今年のマーチング、永田が書いた当初のコンテは日本神話をモチーフとして楽曲と衣装を揃えたものであり、全員の動きもそれを強く意識したものとなっていた。当然ながら全員参加を前提としたそのコンテは、メンバー同士の緻密な連携を前提として成り立っている部分も数多くある。
今のところの練習では欠けているポジションを『本来はそこに人がいる』ものとして組み立てているのだが、このまま本番を迎えるとそこにポツンと穴が空いてしまうことになる。何より前後のメンバーが動きを合わせる上で目安となるものが存在しないため、全体として見ればズレや乱れと捉えられかねない違和感を生じさせていた。
『もし復帰が間に合わねえば、そん時は修正コンテを出す。それで練習がギリギリ間に合うのが交渉期限までだ。あとは一日だって余裕は無え』
修正コンテ。それはつまり、復帰の見込めないメンバーのことは諦める、という最後通牒。このことはもちろん独立組の十四名にも通達済みである。彼女らは「それならそれで勝手にすれば良い」と、まさにけんもほろろの姿勢を崩さない。修正案がどんなものになるかは分からないし、それが永田の当初構想していたクオリティとほぼ同等かそれ以上のものである保証もどこにも無かった。
「もうさ、早めに決断した方が良いんでねえの。こっちだって練習さねねえんだし、東北だって絶対抜けられるって決まってるワケでもねえんだしよ」
「諦めんの早いッスよユウ先輩。あと三日あるならギリギリまで粘ってみませんか? 私、仲良かった子が一人いるんで、こうなったらダメ元で説得に行ってみるッス」
「奈央の気持ちは分かんなくもねえけど、今はやめとけ。独立組もかなり意固地になってる。下手に色んな人間が出て行けば数で潰しに来てるって思われて、最悪交渉打ち切りにもなりかねねえ」
「だけど現状、荒川部長や中島先輩があれこれ言ってもほとんど話し合いになってねえんですよね。私もお姉ちゃんと一緒で何とか出来るならしたいって思ってますけど、ここまでどうしようもねえんじゃ、もういっそ部員全員で総当たりするとかしか、」
「だから楓、そのやり方が何より独立組の反発を買ったんだって。ある意味でいちばんワリ食って来た子たちだし、私はその子らの気持ちもちょっとは分がんなくもねえから、強硬策には反対」
「でも今からじゃあ、じっくり説得してるような時間もねえすよ。いい加減諦めた方が良くねえすか?」
「どうすんの、部長?」
「どうするっすか、荒川先輩?」
「どうしよう、ちなつ?」
となると当然、最後の審判を部長であるちなつへ委ねるべく、皆の声がそこへ収斂する。充分過ぎるほど悩み、苦渋の表情を浮かべたちなつが貝の如く閉じていた口をとうとうこじ開けようとした、その時。
「全員静かに!」
パシン、と大きく日向が手を鳴らした。一瞬で黙り込む一同。焦れた熱が失せ、場はシンと静まり返る。
「いくら部長ったって、そう簡単に答えなんか出せるわけねえべ。みんなと同じようにちなつだって毎日ウンウン唸りながら必死で考えてる。その上で出来ることを一つずつ、今日までやってきたんだ。今ここで焦ったって良いことなんか何も無えよ」
「けど日向、」
「和香の言いてえことは分かる。その気持ちもな。だけどそれだけじゃ、この状況は動かせねえ」
きっぱりと日向に言い切られ、和香は再び押し黙ってしまう。あるいはそうなるべく、日向は機先を制して和香の発言を封じたのかも知れなかった。
「とにかくもう遅くなっちまったし、今日はこれで解散にして、明日またどうするか話し合おう。それまで一晩、それぞれ案を練ってくるべ。結果がどうなろうが少しでも後悔さねえように、さ」
最後は柔らかく諭すような日向の口調、それによって一同は渋々ながらも納得させられたようだった。とは言え、希望を見出せる余地がほとんど無いことに変わりはない。たった一晩で何が出来るというのか。誰もがそう思っていたであろうことは、彼らの顔を見れば一目瞭然だった。
「……じゃあ、お先します」
「お疲れさまです」
鞄を背負い、雄悦たちはめいめい帰途に就いてゆく。自分も帰ろう。楽器を片付け鞄を背負った真由は、まだ残っていたちなつと日向にあいさつをしようと近付いた。
「すみません、お先に失礼します。お疲れさまで――」
「真由ごめん。ちょっとだけ、私さ付き合ってくれる?」
「え? はい、別にいいですけど」
そう返事をすると、ちなつと日向は何かを確認するかのように頷き合った。その流れはひどく奇妙で、真由は何とも落ち着かない気分にさせられる。
「じゃあ私はお先。真由ちゃん、よろしくな」
「はい、お疲れさまです、日向先輩」
こちらが別れの挨拶を言い切るよりも早く、鞄をひったくるようにして日向はさっさと音楽室を出て行った。キンと耳鳴りがするほど静まり返った音楽室、そこには真由とちなつ、二人だけがぽつんと取り残される格好となった。
「それであの、何の用事ですか?」
「んー、なんか外の空気吸いてえ気分。ちょっと外さ行こうよ。話ならそこでも出来っからさ」
「ええっと、まあ、分かりました」
はぐらかすようなちなつの口ぶりには、明らかに何らかの思惑が浮かんでいた。真由はさらに嫌な予感を加速させる。さりとて今さら帰るなどと言い出す訳にもいかず、結局はちなつに付き従うより他は無かった。
中央棟から連絡通路を抜け、教室棟の一角から内履きのまま外へ出る。秋も深まって来たために外はもう真っ暗で、機械室を含めると四階建ての教室棟がそこにのろりとそびえ立っているさまは、どうにも薄気味悪い。どうしてちなつはわざわざこんなところを話し合いの場に選んだのだろう。真由はこっそりと首を傾げつつ、「んーっ」と疲労を抜くように伸びをするちなつを見やった。セーラー服の裾から覗いたおへそのくぼみが、何とも言えず艶めかしい。
「悪りいね、こんなとこまで付き合わせちゃって」
「いえ、それは別に」
「それにしても、空気が冷てくて気持ちいいな。もう十月も後半だもんな」
「ですね」
本当は寒いと言った方が良いぐらいの体感気温なのだが、ここへ連れ出した張本人であるちなつにそれを言うのは何だか申し訳ない。そう思いつつ、真由は後ろに回した手をそっとすり合わせる。
「もう遅い時間だし、あんま長く引き留めるつもりはねえから、結論から言うで」
「はい」
「真由。水月んとこさ行って、直接話して来てもらえねえかな?」
ちなつがとんでもないことを言い出した。仰天した真由の瞳孔がキュウとすぼまる。
「は、は、はい?」
「だから、真由に水月んとこさ行って欲しいって――」
「あの、それは分かりました。そういうことではなく、どうして私が水月ちゃんと?」
「ずっと考えてたんだ。どうすれば独立組の子らを説得できるか。自分なりに出来ることも全部やって来た。けど水月や玲亜や残りの子らは私の話なんか聞いちゃくんねえし、あれ以上の話もしてくんねえ。私じゃダメなんだよ。もちろんヒナでも、和香でも」
「だったら私なんか、なおさらダメだと思うんですけど」
「そんなこと無え。前にも言ったけど、水月は真由の話なら聞く。それと同じように、真由さだったら水月が本当は何を求めてんのか、何のためにこんなことしてんのか、それをアイツは話すんじゃねえかって気がする」
「それは、どうなんでしょう」
曖昧な返事をしつつも、真由はその裏側で考え込む。先日の杏とのやり取り、その中で杏は真由が持っているものについて語ってくれた。もちろん自分自身、未だに半信半疑なところはある。単に杏が見込み違いをしているだけで、実は自分に対する水月の関心などとっくのとうに失われている、なんてことだってあり得るかも知れない。けれどもしも水月が自分の持っているらしき『外の目』とやらを認めていて、未だ何かしらの関心を抱いているのだとしたら、その場合は。
「今まで連中と面談を重ねてきて、水月以外の子らもかなりの部分で水月の思想に共鳴してる、って感触がある。あれを覆すのは並大抵のことじゃねえ。だからここに来て交渉は一進一退になっちまってる。みんなからアイデア募ったって多分、これってものは出て来ねえと思う。残り日数もあと僅かだし、頼みの綱はもう真由しかいねえんだよ」
「それってもしかして、日向先輩から言われたんですか。そんなふうに」
「その通り」
真由の指摘をあっさりと認め、ちなつは固い表情で俯く。
「ヒナも、水月とやり合えんのはもう真由しかいねえって考えてる。水月との話次第では、真由だけがこの状況をどうにか動かしてくれるんじゃねえか、って」
「そんなの無理です。大体、吹部がどうなるかが私一人の行動で決まるだなんて、そんなこと」
「そこまで重く考えなくていいって。私は水月を説得してくれって言ってんじゃねえ。もちろん解決して来いなんてことでも無い。ただ話をしてきて欲しい、ってだけなんだ」
正面に立ったちなつがこちらの肩をがっちりと掴んでくる。力の籠った指先が食い込んで、少し痛い。
「結果がどうなろうと私は真由を責めたりしねえし、他の子さもそんなこと言わせねえ。このことだって私とヒナ以外の連中には秘密にしておく。明日部活始まったら真由はすぐに水月んトコ行って、それでアイツと話してくれさえすれば良いの。私らのことも吹部のことも、なんも考えねえったって良い。直接話をして、そんで真由の思ったままをその通り、水月に言ってやって」
お願い。そう言って頭を下げたちなつの足元にぽたり、と雫が滲む。己の無力。報われぬ労力。そうした不甲斐なさを今、ちなつは噛み締めている。後輩に頼らざるを得ないこの状況に忸怩たる思いでいる。それを自分ごときがどうにかしてあげよう、などと考えるのはおこがましいことだ。けれどだからと言って何もせずにいられるほど、憔悴したちなつを前にして何の感情も抱かぬわけでは無かった。
「分かりました。その、話すだけで良いなら、何とかやってみます」
「――ありがとう」
ぎゅむ、とちなつが抱き着いてきた。「わひゃあ」と変な声を出しかけた真由は慌ててそれを押し留める。
「真由が居てくれて良かったってホント思ってる。なのにごめんな、何の力にもなれねえどころか、こんな面倒ごとまで押し付けちまって」
「いえ、大丈夫です。大丈夫ですから。それよりあの、いくら女同士でもこの体勢はまずい、っていうか」
「あ、ごめん。つい」
どぎまぎする真由からすぐに身を離し、ちなつは今さら恥じらうようにしばし視線を泳がせた。ブドウみたいに爽やかな彼女の香り、その残り香が自分の襟元からほわりと漂うせいで、顔がかっかと熱くて仕方ない。
「へば悪いけど頼むで。練習始まってすぐなら水月もどっかで個人練してると思うから、そん時を狙って一対一の方が話しやすいと思う」
「そうですね……でも、水月ちゃんって普段どこで個人練してるんでしょう」
「さあ。私もヒナも、アイツが個人練してるところは見たこと無えんだよな。んだけど、少なくともここでは無えと思う」
「どうしてですか?」
「だってここ、私がふだん個人練してる場所だから。ってか、ここ以外でやってないっつうか」
ああなるほど、と真由は思った。ちなつがいつもここで個人練をしているのであれば、ここに水月が来たことが無いと知っていたって当然の話だ。……そう考えた直後、脳から溢れ出すどろりとした違和感の塊。待て。何かがおかしい。咄嗟に真由は、背後にそびえる真っ暗な校舎を仰ぎ見る。
「
ちなつが不思議そうな顔でこちらを覗き込む。悪いがそれになど構ってはいられなかった。鉄筋コンクリートで形成された校舎の壁は高く分厚く、それに遮られれば如何に明るく芯の通ったちなつのユーフォと言えども、その音色がこの建物の向こう側にまでまともに届くことは無いだろう。例えばそう、真由がいつも個人練をしている連絡通路の屋上テラス。ここから教室棟をまるまる一棟隔てたあんなところへは、特に。
「先輩、いま、普段ここで個人練してるって言いましたよね」
「そうだけど」
「前に言ってませんでしたか? 春の時は眺めが良いところだ、って」
「うん。この時期は紅葉もまだだし、ちょっと殺風景だけどね。ほら、あそこ見て」
ちなつは目の前に広がる裏庭を指差した。住宅街の通りに面するその先にあるのは、道に沿って植えられた何本もの広葉樹だ。
「春んなるとさ、あそこの桜が一斉に咲いて、辺り一面桜吹雪になるんだよ。それ見ながらユーフォ吹くのがすんごく気持ち良くて。それに夏は夏で西日が届かなくて涼しいし、冬の晴れ間にはちょっと寒みいけど空気がきらきら光るのがキレイで、って感じで年中楽しみがあるんだ。おかげで一年の頃からずっとここで吹いてるうちに、気が付いたらここでしか個人練しなくなってたんだよね」
楽しそうに語るちなつを前に、真由の膝がガクガクと震え出す。ひと息吐いて吸うごとに呼吸がどんどん浅くなる。脇腹に滲んだ汗が氷の玉みたいに冷たい。ちなつの一言一言、それら全てが、これまで大前提として真由に張り付いていた絶対的なその認識を、ブルドーザーみたいな勢いで押し剥がしてゆく。
「だからちょっと意外に思ったんだよね。こっからあのテラスんとこまで私の音が届いてる、なんて思ってねくてさ。そっちからの音は丸っきり聴こえねがったけど、真由はあそこで個人練してるって言ってたもんな?」
その通りだ。自分はいつもあそこで個人練をしている。だからこそ有り得ない。極限の動揺に攣りかけた顎を制するように手で口を押さえ、試しにぱくぱくと動かしてみてから、真由はちなつに問うた。
「先輩、『シシリエンヌ』って曲、知ってますか」
「『シシリエンヌ』?」
「そうです、フォーレの」
フォーレ、ね。そんなふうに顎をつまんだちなつの顔つきを見て真由は悟る。彼女が次に、何と答えるかを。
「知っちゃあいるけど、木管とかピアノの曲だよな、あれって。それがどうかしたの?」
その答えは完全に予想通りのものだった。そして、完全に想定外のことだった。なんてことだ。真由は今にも膝から崩れ落ちそうなほど、完膚なきまでに打ちのめされてしまう。真由? とこちらの異変を察したちなつの声も、もう耳には入らなかった。
ちなつがここでしか個人練をしていないのなら、そして『シシリエンヌ』を知識としてしか知らぬのなら、この結論に間違いはない。いつものテラスで階下から聞こえていた演奏。毎日のように聴いていたあの美しい音色。明らかに部内随一と言えるほどの上手さと、それを冠するに相応しい人間。それらを真由は根拠らしい根拠も無しに、頭の中で勝手に結び付けてしまっていた。この目で見たわけでもないのに。ちなつがそれをあの場所で吹いているところを、実際確認したわけでも無いというのに。
けれど、だと言うのならば、あれは一体誰だったんだ。
ちなつだと信じて疑わなかった、あの流麗なユーフォの調べの持ち主は。
翌日、放課後のチャイムが鳴ると同時に、真由にとって勝負の時がやって来た。
「あれ? 鞄忘れてるど真由ちゃん。部活さ行くんでねえの?」
「今日はその前にちょっと用事があって。じゃあね早苗ちゃん、また明日」
「お、おう。また明日」
ポカンとしている早苗ら級友へ一方的に挨拶を告げ、真由は一目散に廊下へと出る。その目的はもちろん、この校舎のどこかで個人練をするであろう水月を探し出すためだった。
管理の関係上、独立組の子たちが使っている楽器も平素は楽器室にて保管されている。水月はそこからケースごと楽器を集会ホールへと持ち出し、そこで支度をしてから個人練習を開始するはずだ。そこに自分は居合わせない方が良い。周りに人目の多いこの導線上では、水月は何だかんだと理由をつけて一対一での対話を避けようとするかも知れない。そう考えた真由は適当に教室棟の三階をうろついて時間を潰す。水月にとっての『敵』が多いこの階には、彼女もそうそう足を踏み入れない筈だ。放課後の雑踏、廊下の端から裏庭を見下ろす窓辺。そこに寄り掛かった真由はふと視線を落とす。その先にあったのは、ゆうべちなつと二人きりで話をしたあの場所だった。
正直、今でもにわかには信じがたい。いつもテラスで聴いていたあの素晴らしい演奏が、ちなつのものでは無かっただなんて。けれど数々の傍証が真由に、この厳然たる事実を突きつけてくる。全てはお前の思い込みに過ぎなかったのだ、と真由をなじってくる。だがちなつで無ければ、では誰なのか。次に真由が思い浮かべたのは雄悦だが、しかし彼の演奏はちなつのそれと比べれば一枚、いや二枚は確実に落ちる。本人に聞かれたら気を悪くするだろうが、あの『シシリエンヌ』の物憂げな優雅さを吹きこなすのは雄悦の技量では到底不可能だと断言できる、それほどまでの差があるのだ。
……もうやめよう。際限なく惑い続ける己の思考を、真由はかぶりを振って打ち払う。こんなこと考えている場合じゃない。今すべきことは水月と話をすること。そしてその結果をちなつ達のところへ持ち帰ること。それだけだ。他のことは後でゆっくり考えればいい。それを態度で示すように、振り返った真由はもう後ろを見ることはしなかった。
やがて、校舎のあちこちから楽器の音が聴こえてくる。時刻的にそろそろ練習前のミーティングも終わった頃。校内に散らばった部員たちが音出しを始めたのだろう。恐らくは、水月たち独立組も。そう思った真由はまず初めに集会ルームへと足を向けてみる。水月がどう動くかは不透明だが、そこに彼女がいないと分かれば一つ、それ以外の何処かで個人練をしているということが確定するからだ。
かくして数分後。無事に集会ホールの前まで来たはいいものの、さてここからどうすべきか、と真由は立ち往生していた。
「どうにかして中の様子、見れないかな……」
木製の戸に窓は無く、ここからでは室内を窺うことは出来ない。だが外から覗こうにもここは二階。忍者か何かならいざ知らず、壁面を伝って窓のところまで辿り着くことなど出来ようはずもない。となれば少し離れたところから注視して、ドアが開いた瞬間に中の様子を可能な限り観察する。今出来ることと言ったらせいぜいそのぐらいだ。
「こんなとこで何してるんですか、黒江先輩」
「ひゃあ!」
急に真後ろから声を掛けられ、びっくりした真由はバネ仕掛けのように素早く振り向く。そこに居たのはユーフォのケースを手にした玲亜だった。
「今日も誰かと面談ですか?」
「あ、や、違うの。そうじゃなくて、ただみんながどんな練習してるか気になっただけ、っていうか……」
これから自分がしようとしていることは、もちろん玲亜にだって知られない方がいい。真由は冷や汗をだらだら流しながらも必死に取り繕う。けれど玲亜はこちらの不自然な反応を一瞥すると、何かを読み取ったかのように小さく笑った。
「水月先輩だったら、この時間はもう個人練さ行ってると思いますよ」
「うえ、っと、そうなんだ」
「どこで吹いてるかは分かんないんですけどね。水月先輩、個人練は一人になれるとこでやりたいからって言って、いっつも私らとは別行動してますし」
「いっつも? 玲亜ちゃんは水月ちゃんと一緒に吹いたりしないの?」
「たまになら一緒になることもありますけど、そういうときは水月先輩の方から私のところさ来てくれるんです。なもんで、私の方からは一度も。けど無理に聞き出すのも良くねえかなって思ってるんで、先輩の個人練の場所もどんな練習やってるかも知らないまんまです」
やはりと言うべきか、玲亜も水月の所在を把握しているわけでは無さそうだ。がしかし、「この集会ルームに水月はいない」という貴重な情報は得られた。しかも個人練をする際、水月は一人でいることが多い、とも。この分なら水月と一対一で話をするのもそう難しくはなさそうだ。個人練の時間が終わる前に彼女を見つけ出すことが出来れば、の話ではあるが。
「ありがとう玲亜ちゃん。それじゃあ私、用事あるから行くね」
「あ、黒江先輩!」
ばいばい、と手を振りかけた真由を玲亜が呼び止める。
「何?」
「えっと、その、もしもの話ですけど、ひょっとして黒江先輩、」
そこまでを言い掛けた玲亜はしかし、何故か口をつぐんでしまう。どうしたの? と追って尋ねた真由にしばらく惑うそぶりを見せた玲亜は、やがて何かを諦めたように寂しく微笑んだ。
「あの日、先輩に訊かれたこと。もう先輩らと吹くのイヤだと思ってるか、っていう」
「ああ、」
それはずいぶん前、玲亜との面談で真由が最後にした質問だった。あれからたった一ヶ月ほどしか経っていないはずなのに、何だか遠い昔のことのように思えてしまう。それというのもきっと、曲北に来てから起こった出来事の一つひとつがあまりにも濃密過ぎたせいだ。
「あん時は私、いっしょに吹ける日はもう来ねえと思うって答えました。今でもそう思ってます。けど私、私は黒江先輩とだったら、またいっしょに吹きたいです」
彼女のあまりの真っすぐさに一瞬、真由の肺は呼吸を忘れてしまう。それほどまでに、玲亜が繰り出した純粋な感情からなるその一手は、こちらの気持ちを丸ごと鷲掴みにしてしまうだけの確かな力を持っていた。
「ありがとう。私もまた玲亜ちゃんといっしょに吹きたいって、そう思ってるよ」
投げ返された直球を受け止めた玲亜もまた、気恥ずかしそうにはにかむ。例え立場が違っていても、想いが同じなら、いつかは。真由はそう願わずにはおれなかった。
ずっと早足で歩いていたせいか、すっかり息が上がってしまった。頬から垂れる汗を制服の袖で拭い、真由はボソリと独りごちる。
「……見つからない」
教室棟の周辺。正面玄関先の前庭。体育館の裏手。遠いところから順を追って捜索範囲を狭めるように練り歩いてきたのだが、水月の姿はおろか吹いている音すら聴こえやしない。これでもまだ広い敷地の半分ぐらいしか回れていないという事実がまた、焦りと疲労を一段と色濃くさせる。郡内屈指のマンモス校。それは今まさに物理的な意味で、真由を苦しめていた。
そうこうしているうちに水月も個人練を終え、集会ルームに戻ってしまうかも知れない。出来れば一人で居るところに行き合わせる形を取りたいのに。でなければきっと、水月は独立組の練習を盾にその場から動かない。そう考えるのは真由の勘とも言える何かだった。
兎にも角にも、今まで捜索してきた範囲に水月が居ないということは分かった。着実に絞り込めてはいる。次はまだ行ってないところを重点的に探してみよう。そう思い角を曲がったところで、突如として真由の目前に黒い学ランが飛び込んできた。
「わわ、」
一瞬視界に映った金色の細長い管。明らかに楽器の一部と思しきそれにぶつかりそうになった真由は、咄嗟の判断で身を捻って衝突をかわす。その拍子にバランスを崩して転倒しかけた真由の手首を、学ランの男子ががしりと掴んだ。
「大丈夫か」
「はい、ボーっとしててすみませ……あ。草彅、くん」
そこにいたのはトロンボーンを抱えた雅人だった。うっかりして転びかけた自分を、彼がすかさず引っ張り起こしてくれたのだ。こちらが体勢を立て直すや否や、すぐに雅人は手を放してくれた。手首に残る圧迫感をさするようにして散らしつつ、真由はほうと安堵する。自分を助けた雅人の手指は、男子らしいごつごつとした感触だった。それが予想外に頼もしいと思ってしまったせいか、あるいは単に危機一髪な状況を脱したことからなる高揚感によるものか、いずれにしても自分の心拍がドクドクと早まっているのが分かる。
「何した。そんた急いで」
「ううん、何でもない――ん、だけど」
最初はごまかそうとしたのだがしかし、はたと真由は思いつく。このまま一人で探すのには限界がある。いつぞや日向も言っていたが、限られた時間の中で成果を出そうと思うのならば、時には人手を頼ることだって必要だ。それがどんな目的であるかを明かさなければ、誰を探しているのかぐらいは言ったって差し支えない。それに雅人ならばあらゆる意味で、方々へ言いふらすような真似もしないに違いない。
「実は水月ちゃんを探してて」
「水月って、ユーフォの長澤か」
「そう。いま個人練に行ってるらしいんだけど、場所が分かんなくて。水月ちゃんが個人練してそうな場所、草彅くんは心当たりない?」
真由のその問いに、雅人はしばし胡乱げな目つきでこちらを睨むばかりだった。知っているのかいないのか、どっちかだけでもハッキリさせて欲しい。そんな思いに駆られた指がぐりぐりと手の内を引っ掻いてしまう。
「黒江。前も訊いたけど、曲北のユーフォで誰がいちばん上手えと思う?」
は? と真由は一瞬呆気に取られる。確かにいつぞやもそんなことを訊かれた覚えはあるのだが、ちなつ以外に誰がいると言うのか、とあの時は思っていた。いや、そもそも今はそんな話などしていない。やっぱり雅人は相も変わらず草彅雅人でしかなかった。だが一刻一秒を争う現状、彼に理解を求めて説き伏せる、その手間暇ですらも惜しいというのが偽らざる本音だ。
「ごめん。そういう話なら後にしてもらって、」
「分かんねえなら教えてやる。ついて来い」
一方的にそう告げて、雅人はふらりと歩き出した。こんなことしてる場合じゃないのに。けれど何を言っても雅人が足を止めそうな気配は無い。その背中に何か確信めいたものを感じ、真由は黙って彼の後を追う。そのうちにとある楽器の唄声が、微かにだが聴こえ始めた。
周囲の風景には見覚えがあった。ここは前に一度通ったことがある。このまま進めばどこに辿り着くか、それも知っている。そしてそこを調べることを、真由は知らず知らずのうちに避けていた。だって、そこにいるはずが無い。そこにいるのが彼女であるはずが無いのだ。彼女には、そんなことは不可能なはずで、だから。願わくば彼の進む先がそっちであって欲しくはないというのに、雅人の足はそこへ向かって躊躇なく進んでいく。
階段を下り、ごみ捨て場から校舎の裏手へと回り、内履きのままで壁伝いに歩く。歩を進める度、音はだんだん鮮明になる。このフレーズは真由たちも普段行っている基礎練習用のコラール。そしてこの柔らかく響く特徴的な中低音は、真由の良く知る金管楽器特有のものだ。耳で拾った情報を頭の奥で判別しつつ次の角を曲がった時、とうとう真由は音の出どころを見つけてしまった。
いた。
秋風にさらりと揺れる黒い長髪。学校指定のセーラー服。彼女が胸に抱く金色の物体は、間違いなくユーフォだった。そして彼女が立っている場所。それは連絡通路の裏手であり、校舎の至るところから死角になる位置であり、屋上テラスのちょうど真下に当たるところ。譜面台を前にして光り輝くユーフォを抱き、彼女はそこに立っていた。風がやむと共に髪のなびきが収まり、隠されたその相貌が露わになる。
「水月、ちゃん」
それは今の今までずっと探し求めていた人物。この場に最もいて欲しくなかった人物。彼女はまだこちらに気付いてはいない。ふう、と一度息をつき、楽器を構え直した水月が静かに息を吸う。その集中力と気迫は、ちなつのそれに勝るとも劣らぬほどの質感を周囲に放っていた。
「そのまま黙って聴いてろ。俺がなんであんなことをお前さ訊いたのか、すぐに分かる」
角に身を寄せたまま、雅人が小声でそう告げてきた。真由は、聞きたくなかった。雅人の言葉も。水月の音も。聞いてしまえばこれまでの全てが呆気なく崩れ去ってしまう。積み重ねてきたもの全てが甲斐なく色褪せてしまう。それはあたかも撮り貯めてきたフルカラーの思い出たちが、セピア色に塗りたくられた記録写真となり果ててしまうのと同じように。
水月のユーフォが奏で出す曲。それは紛れもなく、これまで何度もテラスで聴いた、フォーレの『シシリエンヌ』だった。