私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
管楽器の演奏を評価する際、そのポイントは幾つかある。
まずは音程。高すぎたり低すぎたりすれば違和感があるし、音ごとにまちまちだと統一感が損なわれる。正しい音程、というのも言い方としては微妙だが、少なくとも調ごとに理想的な音程を保っていることは独奏において重要だと言える。
次に音の形。これも平板であっては面白味がない。強弱は元よりテヌートやスタッカート、マルカートといった表現を緻密に使い分け、その旋律が持っている旨味とでも呼べるものを存分に引き出す必要がある。歓喜。憤怒。悲哀。愉悦。全ての表情は音のコントロールが細やかであればあるほど、より詳細に描き出されてゆく。
他にも注意すべき点は幾つもある。けれど最も大事なのは、それらを駆使して音楽を『歌う』こと。極論するならば演奏とは、楽器を使って『歌う』ことなのだ。これが出来なければ、どんなに高度な技巧を張り巡らせてあっても音楽をしているとは言えない。それは真由が今まで読んだ数多の教本やプロ奏者が著したコラム、数多の指導者が残した言葉に余すところなく埋め尽くされていた。口で言うほど簡単なことではない。『歌う』という感覚が解らぬままに楽器を吹いている人など、全国どころかこの曲北にだって両手で数え切れないぐらいいるのだから。
「すごい……」
思わずそう零してしまうほど、真由は完全に圧倒されていた。水月のユーフォは、まさに歌っていた。明るくくっきりとした花芯のような音色と、整然と揃えられた音程。ゆっくりとたゆたう音の一粒一粒が深みのある情感を豊かに描き出す。耽美な憂いをまとった旋律は、深緑の窓辺に佇む貴婦人を思わせる優雅さを密やかに湛えていた。鮮やかに駆け上がるパッセージ。色香さえ漂う緩急のつけられたメロディ。いつもと違って間近で聴いている分、音の厚みは数倍にも増して感じられる。びりびりと振動する骨に沁み込む麗しい音の波動。信じられないのは、これがあの水月の奏でた音楽であるということ。ただその一点だけだ。
「これで分かったろ、黒江なら」
暗く湿った口調で雅人が確認を促してくる。それは水月がここにいることについてではない。この曲北で誰が一番上手いユーフォ吹きか。いつかの彼の問いに対する答えは、二人の目の前にあった。
「水月ちゃんがあんなに上手いだなんて、思いもしなかった」
それはこの上なく率直で、残酷な評価だった。だってそうだろう。パート練の時の水月はいつだって、お世辞にも上手いとは言えない演奏ぶりだった。いや、それも今にして思えば少し違う。水月は、彼女はずっと、皆の前では下手であるかのように振る舞っていたのだ。本当の自分自身を覆い隠すように。そうでもなければこんな演奏、一朝一夕に出来よう筈もない。目の前に展開された水月本来の演奏は、あのちなつの音すら遠くに霞んでしまうほどの美しさで、豊かさで、上手さだった。
「まさかとは思ったけど、その様子じゃ本気で知らねがったんだな。長澤がここで練習してんの」
「それは……うん」
「黒江、いっつもこの上で吹いてんだろ。だからお前なら分かってるもんだと思ってた」
「全然分かってなかった。だって、」
だって。その続きが一向に口から出てこない。思えば水月を探しているとき、何故ここを候補から外してしまったのか。それは恐らく、ここに居るのが水月であるはずが無いと、そう思い込みたい自分が心のどこかにいたからだ。ちなつでも雄悦でも無い。だがそれ以上に、水月という可能性はもっと無い。そうして自分は無意識のうちに本当の答えを遠ざけ、ありもしない幻の答えに縋ろうとしていた。それはユーフォ吹きとしてのプライドか。それとも、水月に対して内心レッテル貼りをしていた己の醜さを認めたくなかったからか。真由自身にもどちらなのかは分からない。
「俺が初めて長澤が吹いてんのを聴いたのは、去年の春だ。上手え奴は一通りマークしてたつもりだったけど、アイツだけが完全に想定外だった。最初は期待してたけど、人前で吹く時のアイツはいっつも下手くそで、わざとやってるってすぐに分かった」
雅人の喋り声はぼそぼそと地を這うような低さだった。その唇の裏側に、彼が白い歯を食いしばっているのがちらりと見えた。
「ハラ立つだろ。あんなに上手く吹けんのに、それを周りの連中には徹底して隠してる。まるで自分の演奏は自分だけのものって言ってるみてえにな。俺にはアイツの考えが理解できねえ。上手え奴がそれに相応しいところに行かねえのは、自分の才能を無駄遣いしてんのと同じだ」
苛立ちを隠そうともせず、唾棄するように雅人は言い放った。才能の無駄遣い。彼のその言葉の意味するところを、真由も連想せずにはおれない。水月にとっての音楽とはきっと、吹部の為のものでもなければ独立組の為のものでも無い。ともすれば聴衆や審査といった概念すら縁遠い。――楽しく音楽をする。水月の言うその地平に、自分たちなどは存在していなかったのだ。そう、最初から。
「でも、期待って? 水月ちゃんに対してってこと?」
真由はふと沸いた疑問を雅人に尋ねてみる。ああ、と雅人はおもむろに俯いた。
「あのぐらい上手え奴なら、ひょっとして俺みてえにプロになりてえとか、それで
つんのめったように雅人が口を閉ざす。その続きは、何となく察することが出来た。
「水月ちゃんなら草彅くんのことを理解してくれると思った、ってこと?」
「……まあ、端折って言えば」
図星を指された恥ずかしさからか、視線を外した雅人が珍しく頬を赤くしている。間近にいた真由でさえ僅かにそうとしか判断できないほど、おぼろげに。
「けど実際は丸っきり逆だった。俺はアイツみてえなことはしねえし、したくもねえ。アイツもアイツで俺のことなんかきっと解りっこねえ。俺と長澤で共通してんのは、音楽に関する能力だけ。そう割り切ってからはもうアイツに期待はしなくなった。今でも勿体ねえとは思ってるけど」
その一言に、真由はかつての記憶を急速に巡らせる。
「それで草彅くん、あのとき私に言ってたんだ、勿体ないって」
春の河川敷。あの日雅人がこぼした言葉を、真由は自分に向けたものだとばかり思っていた。けれどそうではなかった。雅人は多分、真由を通したその奥に水月を見ていたのだ。なれる奴がなろうとしないのは勿体ない。かつて水月に抱いたその思いを真由へと重ねた雅人は、だからあの時問うたのだろう。資質があるにも関わらず、お前は高みを目指さないのか、と。
「……長澤も吹き終わったみてえだな。俺は帰る」
じゃりん、と雅人が靴底を擦らせ一歩後ろに下がる。演奏を終えた水月は楽器を下ろし、今は譜面台の片付けに掛かっていた。彼女と一対一で話をするなら今しかない。色々と衝撃的ではあったものの、このチャンスをもたらしてくれたのも雅人の案内があったればこそだ。
「ありがとうね、草彅くん」
「べつに。黒江に礼言われる筋合いなんて無えし」
真由が小さく会釈をすると、雅人はプイとそっぽを向いてしまった。照れているのか。それとも気取っているだけなのか。そのひねくれっぷりに、やっぱり男の子なんだなあ、と真由は喉を震わせる。
「へばな、黒江。――お前がどこを目指すか知らねえけど、長澤みてえに自分の持ってるもんを誤魔化すようなことはすんなよ」
去り際に雅人が放った忠告らしきものは少しだけ、耳に痛かった。そう。真由はこれまで自分の内にあるものや自分を取り巻くもの、それらをちゃんと認識していなかった。いや、より正しく言えば、しているつもりになっていた。
自分だけのユーフォを持っていること。親が積極的に応援してくれること。人より抜きん出て上手いこと。音楽に熱中できる上質な環境と条件とが揃ってこの手の内にあること。全ては当たり前でも何でもない、『特別』なこと。それを十全に理解しているとは言い難い。けれど曲北に転校してから今日までにあった数々の出来事が、その自覚を少しずつ、かつ強烈に促してきた。だからこそ思う。自分自身が『特別』ではなくとも、今ここにこうしていられること、それ自体がもう既に『特別』なのだと。
「あれ、真由ちゃん?」
角を曲がってきた水月がこちらに気付いて目を丸くした。相対した真由は水月の瞳を正面に捉え、切り出す。
「水月ちゃん。ちょっと話したいことがあるんだけど」
「それで何? わざわざこんなところに来てまで話したいこと、って」
さっきまで水月が吹いていた場所。真由はあえてそこを対話の場所に選んだ。改めて訪れて気付いたことだが、中央棟から完全に裏手となるここの周囲には全くと言って良いほどひと気が無い。遠く離れた向こうの広場で野球部員たちがノック練習をする姿が、辛うじて見える程度だ。他に生徒のいる気配も無ければ、季節を彩る桜の木ですら周囲に一本も植えられてはいない。こんなわけで大変殺風景ではあるものの、誰かと一対一でじっくり話をする分には、ここは校内のどこよりも最適な場所だと言えるだろう。
「いつもここで吹いてたの、水月ちゃんだったんだね。すごく上手くてびっくりしちゃった」
「ああ、知られちゃったんだ。せっかく誰にもバレないようにしてたのに」
「だけど、本当は水月ちゃんも分かってたよね。吹いてたのが誰なのかまではともかく、それをずっと私が聴いてたってことは」
「もちろん。上の方からいつも真由ちゃんの音が聴こえてたからね」
つまり水月は、頭上のテラスに真由がいることを知っていた。雨の日も風の日も、とまでは行かずとも、真由がテラスで吹く時にはいつでも足元から『シシリエンヌ』を奏でる水月のユーフォの音が聴こえていた。それはその逆もまた然り、というわけである。
「あんなに上手いのに、どうして普段はわざと下手に吹いてるの?」
「わざとじゃないよ。あの曲だけはずっと前から吹いてるから得意っていうだけで、それ以外の曲はまともに練習してないから、みんな知っての通りメタメタなの」
「嘘だよね。それ」
ずぶり、と真由は水月を突き刺す。本心という名の棘で。
「同じユーフォ吹きだから分かるよ。水月ちゃんの演奏、細かいところまでしっかり表現できてたし音もすごくキレイで、何より歌ってた。ああいう演奏は単に一曲を毎日吹いてるからってだけじゃなくて、もっと底のほうから音楽そのものを理解してないと出来っこない。本当は他の曲だって、その気になれば同じくらい上手に吹けるんじゃないの?」
真由の詰問に対し、水月はそれを歯牙にも掛けぬどころか、むしろあざ笑うかのように口角を歪める。
「だとしたら何だって言うの? 人にとって、見えないものは無いのと同じ。だからみんなの見ていたものが事実であり全て。ただそれだけだよ。真由ちゃんだって内心こう思ってたでしょ? 『長澤水月はユーフォが下手だ』って」
「思ってた。ついさっきまでは」
「あ、そっか。真由ちゃんにバレちゃった以上はもう、こんな言い訳も事実としては通用しないことになるんだね」
くつくつ、と喉を鳴らす水月の悪びれもしない態度に、真由はどうにも不快感を抱いてしまう。けれどここはグッと堪えなければ。ともすれば水月はこの状況を有利にする為にこちらを挑発し、激昂させようとしているのかも知れなかった。
「じゃあハッキリ言うね。そう、私はその気になれば、どんな曲でも大抵はみんなより上手に吹ける。だって私は小さい頃からずっと音楽を、ユーフォをやって来たから。伊藤先輩よりも荒川先輩よりも、そして、真由ちゃんよりも」
「どのくらい小さい頃からなの、それ」
「既に誰かさんから聞いたかもだけど、私って幼稚園ぐらいの頃から音楽教室に通っててね。そこの先生が元々ユーフォ専攻だったの。最初はピアノだけだったけど、小学校に上がって少ししてからユーフォも習い始めて、今でも週に三日は通ってる。楽器は先生のを借りてるけどね」
ということは、彼女のユーフォ歴は今年で八年、という計算になる。真由で五年、ちなつで六年というキャリアからすれば、水月のそれは一日の長どころの話ではない。それも専門家の薫陶を受けているのであれば尚更のことだ。
「自分と誰かを比べてどうこうなんて言いたくないんだけど、本音を言うなら同年代で私より上手い、って思える人にはまだ出会ったことが無いかな。でもそんなの全然大したことじゃないでしょう? こんな片田舎の、それもたまたま全国三連覇してるだけの学校っていう、小っちゃな括りの中での話でしかないんだから。日本中や世界中にどれだけユーフォを吹いてる人がいるのかって考えたら、私なんか井の中の蛙も良いとこだよ」
「それだったら私が保証するよ。プロの人とかを含めるんじゃなければ、私が聴いた中では水月ちゃんがいちばん上手かった」
「それ、全国を渡り歩いてきた真由ちゃんに言われると信憑性あるね」
ありがとう。恭しい水月の態度はもはや嫌味とすらも思えない。謙遜を装った不遜。それは長年に渡り彼女が培ってきた技量と、それに根差した絶対的な自信によって裏打ちされている。
「でもどうして他の人の前ではワザと下手に吹くの? 水月ちゃん言ってたよね、楽しく音楽やりたいって。だったらそんなことしないで、普段から上手に吹いたら良いのに」
「じゃあ逆に訊くけど、どうして上手に吹かないといけないの?」
人を食ったような質問返しに、真由はただ黙して水月の言葉を待つ。それは決して即妙な答えを思い浮かべられなかったからではない。
「合奏をするとき、みんなで音を合わせるよね。その基準ってどこにあると思う? 答えは『集団』。誰でも無いの。そこから外れた人だけが無条件に間違ってると言われて、集団に溶け込めた人は無条件に合ってると言われる。チューニングひとつ取ってもそう。基準音が四四〇ヘルツなのか四四二ヘルツなのか、それともそれ以外であるべきか。そういうことまで考えながら音楽をやってる人が、この曲北に何人いると思う?」
真由の喉がグツリと鳴る。よほどの音楽好きならいざ知らず、学校の部活レベルであればそこまで拘っている人間などそうは居ない。尚もダンマリなこちらの様子を軽く窺ってから、水月はまた口を開いた。
「曲の中での一音一音にしたって、チューナーを使って針が真ん中に来れば良し、で終わってる人だっているよね。でもそれじゃあ合奏にはならない。自分の耳を使って音を合わせろ。これは真由ちゃんだって良く解ってると思う。じゃあ何に? っていう話になった時、それまで漠然としていた『集団』が急に実体を表すんだよ。まるで空に浮かんだ雲が凝集して一つの形を取るみたいに」
尚も口をつぐみながらも、胸の内で真由は頷かされる。音を合わせる。それは集団音楽では至極当然のものとして言われることだ。『自分だけが正しい』という吹き方をしても、合奏をする上では単に和を乱すだけの行為でしかない。歪んだハーモニー。不揃いな音。そういうものを生む人間は、時として犯罪者のように扱われてしまうことさえもある。
「誰も本当の正しさなんて見ていない。ただ何となくボンヤリとそこにあるだけの総意が、結局は正しいものとされてしまう。それが音楽的に間違っていたとしても、集団のエゴにしか過ぎないのだとしてもね。そういうの、すごく馬鹿らしいって思う。あんなものの中に、私の求める音楽の楽しさなんて存在しない」
「でもその為に指揮者が、永田先生がいるんじゃないの? 私たちだけじゃまとめ切れないものをまとめるために」
「そうだね。だからこそ指揮者には圧倒的な正しさが求められる。音楽的により良い方向へみんなを向かわせる、そのための指導と監督を尽くす。それが出来る人は名指揮者って呼ばれるし、そうでない人はただのメトロノーム代わりか、集団の前に立ってラジオ体操をしてるだけの無能者に過ぎない」
水月の口調がだんだん辛辣さを帯びてきた。ここが正念場だ。ちなつがそうであったように、下手に反論すればたちまち水月のペースに呑まれてしまう。口を固く真一文字に結び拳を握り締め、真由は水月の放つ言葉の刃にただただ身を晒し続ける。
「だけど仮に凄腕の顧問だって必ずしも絶対じゃないし、そもそも部活や部員は顧問の所有物なんかじゃない。顧問が右と言ったら右。左と言ったら左。言ってることが合ってるかどうかなんて有無も言わせない。そういう部活も世の中にはあるって聞くけど、私に言わせれば愚の骨頂だよ。そんなのは素直に従う部員たちがいてくれるから成立してるだけ。従わない部員が多ければこの通り、呆気なく瓦解してしまう」
「永田先生のやり方がそういうものだった、ってこと?」
「まさか。今のはあくまで一例としての話」
水月はやんわりと手を横に振って否定の意を示す。その裏で真由は考えていた。これと似たような話を以前、早苗とも交わしたことがある。部活の在り方は部員側のやる気次第。いかに顧問が優秀であっても、それに部員一人ひとりが応えなければどうしようもない。異なる二人の口から出たほぼ同一の見解。そこにある種の真理があることを、認めない訳にはいかないのかも知れない。
「私が姫小や曲北でわざわざ部活に入ってたのは、先生たちの音楽的な能力はきちんと評価してたから。全国トップなんて結果はどうでも良くて、音楽指導の内容が正しいものであれば、私はそれで良かった。楽しく音楽ができる場さえあれば、ね。でもそれはあくまで音楽についての話であって、集団組織としての部活については話が別だった」
ぎり、と音を立てて水月の白い指がユーフォの管を握り締める。己の感情をそこへ籠めるかのように。
「正しくない人たちによる正しくない方針。立場の強い者が立場の弱い者を虐げるやり方。そういうものを私は何よりも嫌った。上手い下手なんて、そんなのどうでも良いじゃない。誰もが良いって思える方法を選んで、各々が満足できる道を邁進した方が、個々の満足度は圧倒的に高い。そしてその判断基準となり得るものは、上手さでもなければ地位や実績でもない。一人ひとりの自由な意志で、一人ひとりが決めるべき」
上手さなんて関係ない。その文言を実際に上手い人間が言ってのけるのを、真由は初めて経験する。水月の主張はその域に届かぬ者を一撃で打ち砕くほどに残酷で、異論の余地も無いほどに圧倒的な破壊力を秘めていた。
「だけど人間って弱い生き物でしょう? より強いものになびく。より高いものに組み敷かれる。そして、半ば無思考にそれを是としてしまう。そういうことはこのちっぽけな部活の中だけじゃなく、世間のあちこちに溢れ返ってる。みんなちっぽけな枠の中で、誰が作ったかも分からない序列に唯々諾々と従ったり、本当に正しいかどうかあやふやな方針に寄りすがったりして生きてる。酷いのになると、自分がそういうものに染められてることにすら気付きもしない」
「そんなことって有り得るの?」
「有り得るよ。例えば方言、あれは典型的な例」
黒真珠みたいな水月の双眸が一瞬、張りつめた弦のように細まる。
「人間誰しも、生まれた時から訛っているわけじゃない。親や家族といった周りの人たちの喋る言語を聴きながら育って、ああそういうものなんだ、って本能的に学習しながら自分でも使うようになって、気付けば訛り言葉を使うのが当たり前になる。他県から来た子であっても数ヵ月もすればある程度聞き取れるようにはなるし、そのうち周囲と同じように方言で会話し出したりもする。中にはそうじゃない子もいるけどね、真由ちゃんみたいに」
うっそりと、夜闇に浮かぶ灯し火のような笑みを水月は浮かべる。彼女が言外に真由と対比した人物はきっと、楓やゆりだったのだろう。事実、自分も当初は秋山姉妹が他県からの転入生であったなどとは露ほども意識していなかった。知識としてその経緯を踏まえてはいても、真由の認識上における現在の彼女たちはれっきとした秋田の人間。そう判断する材料の一つが彼女たちの訛った言葉遣いにあったことを、今となっては否定のしようも無い。
「それ自体はすごく小さなことだよね。でも、そういったことの一つ一つが個人を蝕んでいく。周りに同調するのが当たり前、っていうふうに個人を染め上げていく。気付きもしてないならともかく、自分でも分かっていながらそうするのって、すごくダサいことでしょ」
なるほど、と真由は一つ得心する。初めて水月と一緒に帰ったあの日、彼女が方言についてやけに悪しざまな物言いをしていたのはこれが理由だった、というわけだ。
「ちょっと考え過ぎ、って気もするけど」
「そうかもね。でも真由ちゃんにはこの理屈、完全に否定できる? 意識的にせよ無意識的にせよ、人は集団に染まっていく。それは本来、自分の生きやすいフィールドを作るために生まれつき備わった、人間の本能なのかも知れない。偶然立たされたフィールドで自己を生存させるためにうまく立ち回ろうとする、人間の理性が為せる業なのかも知れない。どちらにしても人は集団へ溶け込むために、まず自分をそこへ合わせようとする。人は一人では生きられないから」
「そこまで分かってて、なのにどうして水月ちゃんは、集団を否定するようなことをするの?」
真由の質問に、ふつ、と水月は小さく息を抜いた。そのままこちらから視線を外し、彼女はあさっての方角を眺める。つられて真由も見たその先には、晩秋の色に枯れ始めた姫神山の中腹が広がっていた。
「簡単に言えば、それで誰もが生きやすくなれるわけじゃないから、かな」
赤く淡い山の頂点。その遥か向こうを見据える水月の瞳が、ぼうと虚ろな形を取る。
「その人が本心から集団が大好きで、集団の在り方を受け入れて自分からそこへ飛び込むのなら、それはそれで良いと思う。誰がどこに属するのか、その選択に他人が口出しする権利なんて無い。けど実際には多かれ少なかれ、みんな何処かで妥協したり諦めたりしてる。例え自分自身の手で生み出したとしても、自分に百パーセント合致する集団なんて存在するはずが無いから。それもその人が許容できる範囲のことならまだいい。私が許せないと思っているのは、その人の本音や願望、譲れない欲求を殺してまで内側に溶け込ませようとする、集団そのものの持つ空気」
「それって、杏先輩のことがあったから?」
「話しちゃったんだ、あの人。まあいずれはそうなるかなって気もしてたけど」
やれやれ、と軽蔑の意思を隠しもせず、水月は大げさに肩をすくめた。
「私の中であの一件は集団社会に付きものの、よくあるトラブルの一例でしかないの。あの頃の小山先輩は登校拒否する程にまで追い詰められてた。ホントはクラスの子たちと仲直りなんてしたくなかったし、今みたいにあざとく振る舞ってまで他人と馴れ合う気質なんて持ち合わせてなかった。あの人を変えたのは、従わなければそこまで追い詰められるっていう集団への恐怖、言わばトラウマみたいなものだよ」
「杏先輩自身は、そんなふうには捉えてなかったよ」
「だろうね。あの人の中では私の方が間違ってたことになってると思う。あくまで今のあの人の視点では、の話だけどね。集団に迎合して生きやすい立場を得た代わりに、それまでの自分を見失っちゃったあの人はもう、あの頃の小山先輩とは違う。今のあの人の姿を『あーちゃん』に見せたら、『あーちゃん』はどんなことを思うんだろうね」
くつくつと水月は嗤う。それはまるで、この場にいない杏に向けているかのように。過去の杏、その正確なところを知らぬ真由はただ黙り続けるほかは無い。
「集団という漠然と大きいものを前にして、人ひとりはちっぽけで弱い存在。だから逆らうことなんて許されない。受け入れて、自分の方を変えるしかない。それが当たり前、みたいな流れを、私はおかしいと思ってる。でも力ずくで反撃したんじゃ、それ以上の力で潰されちゃう。そういうことを私は過去の一例ずつから学んだの。そう、あーちゃんの時も」
「どういうこと?」
「あの人、言ってなかったでしょ。こんな田舎の学校だからね、あのとき仕返しをしたのが私だったって噂は人づてに、先輩の同級生たちにもすぐ広まった。その後の私がどうなったか、真由ちゃんなら大体想像つくんじゃない?」
「それは……そんなことになったなんて、聞いてなかった」
頭をよぎる凄惨な光景に、真由はごくりと唾を嚥下する。杏はそのことを知り得ていたのだろうか。いや、仮に誰かから聞き及んだとしても、彼女には自分に代わる暴威の対象となった水月を庇ってやることも、愚行を繰り返す級友たちを窘めることも出来なかったはずだ。もしそんなことをしてしまえばその時は、一度は逸れた刃が再び自分に向けられることになるのだから。
「あ、誤解しないでね。私はそんなの全然平気だったし、あの人みたいに屈することもなかった。ただそのことから学んだだけ。真っ向から反撃するのは愚かなやり方。それで何かを変えられるわけじゃない。もっともっと頭を使って、集団が集団である以上どうにもできないような方法を取らなくちゃいけない、ってことを」
「その方法っていうのが姫小でのボイコットとか、今回のやり方だっていうの?」
「そういうこと。前にも話した通りで、小学校の時はまだまだ未完成だったけどね」
今回は違う。水月はそう言いたかったのだろう。吹部に投げかけた波紋。その後の影響。試行錯誤の末に水月が辿り着いた一つの解として、今回の独立騒動は圧巻の成果を挙げたと言わざるを得ない。
「それを実現するために、首謀者なんてものはいない方が都合が良かった。あくまで表面上だけであってもね。だから私は徹底して裏で動き続けた。反体制的な立場の子に次々声をかけて、その子たち同士が寄り合える状況を生み出して、あの人たちとは違うやり方でもう一つの集団を作った。縦ではなく横に繋がった集団、先輩たちが独立組と呼んでいたそれを、私は『共同体』って呼んでる」
「キョウドウタイ?」
それは吹部のような組織と何が違うのか。湧き上がった疑問に、水月はすぐさま答えを寄越した。
「共同体には学年も指導者も存在しない。みんなが平等なの。平等だからこそ、個々の意見が最大限に尊重される。イヤだと思ったことをイヤだと言える環境が、やりたいと思ったことを自由に提言できる空気が、あそこにはある。集団なのに個が犠牲にならないまとまり。部活が学校活動の枠組みにあることもうまく利用して、大人たちでさえ口出しできない状況を作るの、けっこう大変だったんだよ」
少し自慢げに、水月は滑らかな曲線を帯びるその胸を張ってみせた。申し訳ないが、彼女の苦労を慮ってやる気分にはなれない。それが真由の偽らざる胸中だった。
「そこまでして果たしたい目的だったの? 水月ちゃんにとって、その共同体っていうのを作るのは」
「目的、とは違うかな。共同体を作ったのはあくまで手法の一つでしかないし、私自身そのやり方に拘ってるわけでも無いからね」
「杏先輩も同じこと言ってた。水月ちゃんの目的、本当は他にあるんじゃないかって」
「あの人ヘンなところで勘が良いんだなあ。そのくせ自分からは関わろうとしないんだもん、卑怯だよね。まあ本人がのこのこ出しゃばって来たところで、私も私で取り合おうとはしなかっただろうけど」
ぎとり、と水月が狂気を孕んだ愉悦の形に口角を吊り上げる。収穫、と玲亜を呼ばわったあの瞬間と、そっくり同じ形に。
「真由ちゃんは何だと思う? 私の本当の目的」
水月に問われ、しばし真由は頭の中の情報を整理する。今までに水月がやってきたこと。杏が言っていたこと。自分のような人間を『外の目』と呼ぶ理由。それらを自分なりにまとめ上げ、捻り出した推論は。
「……水月ちゃんは組織を、集団を変えたい。その為に今まで色んなことをしてきた」
「うん」
「そして水月ちゃんは私に、ううん、私の持ってるものにずっと興味を持ってた。それが集団の在り方を変えることに繋がる、そう考えてたから」
そう、と水月は素直に頷く。その先を促すかのように。
「変える意思と変える手段、両方を揃えることで吹部という集団がどうなるのか、それを水月ちゃんは見たかった。単純に集団を荒らすんじゃなくて、今までと違うかたちに集団の在り方を変えるために。そして同時に、結果を客観的に見てくれる人が欲しかった。ちなつ先輩たちを含めて自分たちのやってることが本当に正しいことかどうか、それを中立の立場で見てくれる誰かに、裁いてもらうために」
「ご名答」
ぴん、と伸ばした人差し指をこちらに向け、水月はしたり顔を覗かせる。
「真由ちゃんは『外の目』を持ってる。そして真由ちゃんは外側から働きかけて組織を、集団を変えられるだけの素養を持ってる。それは単に壊すこととは違うの。きちんとした変革のために必要なのは、誰もが納得せざるを得ないほどに圧倒的な正しさ。それを集団にもたらす存在が、必要だったから」
「じゃあ、私のことを立会人って呼んだり、あえてちなつ先輩たちの側に置いておいたのも、」
「私と違って真由ちゃんには、特に何かしてもらう必要は無かったの。真由ちゃんがただそこに居てくれるだけで、真由ちゃんに影響された人たちはどんどん変わっていく。って言うより、真由ちゃんの存在そのものが周りの人に変わることを余儀なくさせる。つまりはそれだけ、真由ちゃんは私たちにとって異質な存在なんだよ」
「異質、って」
「悪い言い方に聞こえたらごめんね。でも事実なの。凝り固まった空気の中で、それが当たり前みたいになってる人たちを変えるには、良い意味で異質な風を送り込まなくちゃいけない。それなのに、そういう人が私たちの側に居たら意味がないでしょ? かと言って先輩たちの側に取り込まれるようであってもダメだった。組織に属しながら中立。いずれにも敵対せず変革を促す。そういう人が現れるその時を、私はずうっと待っていた」
「――私が曲北に転校して来たことで、それは達成された?」
「今ここに真由ちゃんが居て、こうして私と話をしている。それが何よりの証明」
水月がその長い睫毛を伏せ、つかつかと歩み寄ってくる。対する真由は身じろぎもせず、ただ黙って彼女の接近を受け入れる。
「集団の力で丸め込む、押し潰す。それが出来ないと分かれば、最後にはこうして個人と個人のやり取りになる。その時に一方的な説得じゃなく対等な話し合いの相手として、『外側の人間』である真由ちゃんが選ばれる必要があったの。自分たちのやり方じゃダメなんだ、って先輩たちに分からせるためにね。結果はご覧の通り。真由ちゃんは私たちにとっても荒川先輩たちにとっても中立で、特別な存在になった」
いつの間にか、自分がそんなところに立たされていたなんて。そのことに真由は身の毛もよだつ思いがする。自分なんてただの転校生。ただの音楽好き。そうした自己意識とはかけ離れたところで、周囲の人間は真由に対して様々な思いを抱き、そして様々な捉え方をしていた。
「こういう状況を展開することが私の狙い。あとは真由ちゃんが答えを出してくれれば、それで私の目的は達成される。どうだった真由ちゃん? 今までのことを全部見てきて、やってきて、その上でいま私たちに、吹部に、何を求めてる?」
「私は、」
反射的に答えようとして、真由は一旦それを飲み込む。中途半端なことを言っちゃだめだ。いま問われているのは自分の本心であり本音。嘘やごまかしは通用しない。そのことを肝に据えるように、真由は大きく息を吸い、そして眼前の水月へと焦点を合わせ直す。
「私は正直、水月ちゃんの言ってることも分からなくない。個人には個人の自由があるし、組織に絶対合わせなくちゃダメ、なんて理屈も存在しないと思ってる」
「そうだよね」
「だけど、そのために組織を無理やり変える必要まではないと思う。もしイヤなら、その組織や環境から別のところに行けばいいって、そういう考えはしちゃいけないの?」
「誰でもそれが出来るならね。でも現実は、そうじゃない」
見て、と水月は両手を広げる。そこにあったものは山に川、草木に田んぼ、そして畑。すっかり見慣れた秋田というこの地における、ありのままの光景だった。
「この狭くてちっぽけな田舎町で、取れる選択肢なんてそう多くはない。ほかを選べる人はまだ幸せなの。属するかはみ出すか、多くの人にとって選択はそのどちらかだけ。この環境から抜け出すことさえ許されない。そういう状況の中で、それでも『好きに選べ』なんて言うのは酷なことだよ」
「だったら、はみ出しても良いんじゃないの? 誰かのために別の誰かが犠牲になる、それって結局は水月ちゃん達がしてきたこととそう変わらない筈、だよね」
ここで真由は意図的に、水月の肚を突く一言を放った。思わぬ反撃に少しは動揺したのか、彼女の表層に張り付いていた涼やかな微笑がフツリと失せる。
「集団のすることは絶対正しいだなんて、私だって考えてない。けど集団に属することでしかできないことをやろう、って思ってる人だっている。そういう人たちのやりたい事を犠牲にしてまで個人を主張するなら、その人たちとは別のところで別のやり方を模索する自由だってきっとある。だから、水月ちゃんたち独立組のことも半分ぐらい、しょうがないって思ってる部分もある」
「もう半分は?」
「私、最近思うの。せっかくこれだけ多くの人がいて、これだけ上手い人がたくさんいるんだったら、もっとすごい音楽ができる筈だって。なのにこういう問題でゴタゴタしてたら、それが出来ない。たくさんの人が居ればそれだけ凄いことが出来るはずなのに、半分ずつになったら半分ずつのことしか出来ない。それが私にとってはすごく苦痛で。やりたいことがやれないっていうのがこんなに嫌なことだなんて、実際そうなってみるまで思いもしなかった」
それは春以来、真由がずっと思ってきたことだった。皆で音を合わせる喜び。より質の高い演奏をする楽しさ。いつの間にか、真由はそういうものを心の奥底で追い求めるようになっていた。集団音楽は皆で行うもの。そんな当たり前のことが、とてつもなく尊い行いだと思えるほどに。最高の環境で楽しむ合奏。そんな一瞬を存分に味わい尽くせることが、この上ない喜びだと感じられるほどに。なのに今はそうすることが許されない。それが真由にはただただ勿体なくて、苛立たしくて、悲しかった。
「独立組のみんなだって、反発はしてもこうして吹部にいるんだもん。音楽が好きで演奏が好きって思いは同じでしょう? だったら私たち、力を合わせればもっとすごいことだってきっとできるよ。私はそういう音楽がしたい。無理強いはできないけど、レベルの低い演奏をして満足できればそれで良いって、そういう音楽に私自身が満足できないの」
「驚いた。真由ちゃんでもそんなこと考えるんだね」
「だから私の気持ちは半々。正直な話、この気持ちを叶える一番の正解は水月ちゃんの言う正しさなのかも知れない、って思うこともあるよ。けど、その正しさを誰かに押し付けたり引っ掻き回したりしてまで自分の考えを通したいとまでは、私は思ってない」
一歩、水月へと詰め寄る。互いに額をこすり合わせるほどの距離。真由も水月も、そこから決して退かない。
「どっちが正しいかじゃなくて、私自身が思ってるのはそれだけ。私は玲亜ちゃんとも水月ちゃんとも、本当に本気で吹いてる音に合わせてみたい。でもどうしてもそれができなかったら、無理にどうこうする必要なんて無いって思ってて。人に合わせるのって嫌いじゃないし。それに、もしも私の目的のために誰かに道を譲る必要があるんだったら、私は自分からそうする方を選ぶと思うから」
「真由ちゃんの目的?」
「そう。うまく言えないけど、私が音楽をする、目的」
ざあ、と体内を風が駆け巡るような感触がする。それは真由がこれまで経験してきたことの全てであり、自分以外の誰かがもたらしてくれたものの全てであり、それらを踏まえた上でなお己の中に息吹く、混じりっ気のない感情そのものだった。
「みんなで楽しく音楽がしたいな。きっとそれが、私が音楽に求めてるものだから」
その結論に、真由は遂に到達した。自分が音楽をする理由。それは将来のためでもなければ示威のためでもない。与えられた環境に耽溺するためでもない。ただ目の前の一奏一奏を楽しむこと。それも今、この場にいる皆と一緒に。
「……それが、真由ちゃんの出した、答え?」
無表情を保ったままの水月は、しかしどこか呆気に取られたような空気を帯びていた。そうだよ、と真由は水月の反応を伺う。
「変、だった?」
「そのみんなの中に、私や玲亜ちゃんも入ってるってこと?」
「そう思うのは、おかしいことかな」
「私の考えも分かった上で、私たちの主張も聞いた上で?」
「玲亜ちゃんは、私と一緒に吹きたいって気持ちはあるって言ってくれた。私にとってはそれだけで充分。水月ちゃんがどう思ってるかは分からないけど、水月ちゃんだってユーフォを吹くのは楽しいんだよね。それにあんなに上手いんだし、だったら私は水月ちゃんとも一緒に吹いてみたい。本気で吹いてる水月ちゃんと」
目測にして十センチ足らず。その至近距離で、真由はじっと水月の瞳を見据える。それまでほぼ不動だった水月の視線がほんの僅かに移ろったのを、真由は見逃さなかった。
「でも、無理強いはできない。水月ちゃんが水月ちゃんの目的のためにこれからも動くなら、私は私の目的のために、自分のやるべきことをする。『外の目』がどうとかそんなの関係ない。だって、私は私だから」
しばし、両者は膠着する。口を真一文字に結んだ水月は何を思っているのか。同じような表情をしている自分は水月の言葉を待つべきか、それとも口を開くべきか。そんな思考がじとりと真由のこめかみを這いずっていく。
「やっぱり真由ちゃんは真由ちゃん、なんだね」
別々の人から何度言われたか分からないその不明瞭な一言を合図に、水月はスッと身を引いた。
「羨ましいな。私も真由ちゃんの視点からここを、みんなを、見てみたかった」
「どういうこと?」
「真由ちゃんがそんなふうに言えるのは、真由ちゃんがいつでもここを出て行ける人間だから、ってこと」
「そんなの、みんな同じじゃない? 進学したり就職したりで地元を離れたりするわけだし」
「そういうことじゃないの。きっといつか真由ちゃんにも分かるよ。それが私の言う『外側』の、本質的な意味だから」
最後に浮かべられた水月の微笑は、少しだけ寂しそうだった。その意味は分からずとも、真由は何となく察する。水月はきっと誰よりもこの地に、この環境に身を置くことに縛られている。だからこそなのだ。選ぶことではなく変えることに、彼女が拘っていたのは。
果たして、それから三日が過ぎ。
「いよいよ今日か」
ぽつりと落としたちなつの呟きを、真由は確かに聞き留める。あれ以降、独立組に関して事態が好転するような動きは、全くと言っていいほど無かった。
『……というわけです。すみません』
あの日、水月との話し合いが終わってすぐに真由はちなつのところへ赴き、事の全てを報告した。水月の想い。自分の想い。最終的には平行線となってしまった二人の対話に、何らかの希望的な成果があったという手応えも無い。ハナからそれを求められていた訳ではなかったにせよ、どこか歯痒さが残っているのもまた事実だ。そんな真由にしかし、ちなつは優しく微笑んで労いの言葉をくれたのだった。
『十分だよ、真由が水月と話してくれただけで。もうこれで打てる手は全部打った、って思えるから』
あれはきっとちなつなりの、「後悔は無い」という想いの表れだったのだろう。無理に説得を続けても、もはや進展は望めない。そんな幹部たちの最終判断により、ここ数日は独立組への交渉もほとんど行われなかった。
そして今日は十月二十日。予め定められた独立組復帰の猶予期限、最終日。その通達が今まさに、永田の口から述べられようとしている。
「あー。みんなも大体分かってると思うけど、秋から部内で起こってたことについて、これから喋らせてもらうな」
いつになく硬い面持ちで、永田はそう前置きをした。
「今回の件ではそれぞれが、いろんなことを思ったり考えたりしたと思う。それについてまずは顧問として、みんなに謝らせて下さい。全ては俺の指導力不足、その一言に尽きます。本当に、申し訳ありませんでした」
指揮台に手をついて、永田が深々と頭を下げる。ややもすればショッキングと言える顧問のそんな姿に、一同はにわかにざわめいた。
「正直、俺自身も今まで『部活ってこういうもんだ』みてえに高を括ってたっつうか、自分の考えをみんなさ押し付けるのが当たり前、ってなってたとこがあったんじゃねえかと思う。曲北さ赴任してきた四年前に、そういう思いは痛いほど味わったと思ってたんだけどな。いつの間にか『つもり』になってたんだがも知んねえ。そういうことを今回改めて、俺は学ばせてもらいました」
それはいつぞや、ちなつが低音パートの皆に語って聞かせた話と符合していた。顧問の交代に伴い変化した部の空気。より高みを目指して練習に励んだ部員たち。そして、実らなかった結果。絶望し退部していった部員たち。永田にとっても苦い経験であったことは想像に難くない。全国三連覇を成し遂げた気鋭の指導者。そうした輝かしい名声の影にはしかし、彼もまたかつて顧問としての挫折を経験した事のある一人の人間に過ぎない、という痛ましい事実が土中の遺跡みたく埋もれている。
「目標と目的。みんなさは何度も口酸っぱく言ってきたども、それが部活全体を縛るものになってしまったら本末転倒なことです。それについてグダグダ言い訳するつもりはありません。みんなさ伝えたいことをきちんと伝えるのが指導者である俺の役割であって、それが出来ねがったのは純粋に俺の力不足だった、ということです」
部員たちを見渡す永田の眼差しは、どこまでも真摯だった。真由もちなつも日向も、その場にいる者はみな一様に唇を固く閉じ、俯き加減の姿勢で永田の声に耳を傾ける。
「そして本日この場にて、マーチング東北大会に向けて、俺は顧問として一つの決断をさねえばなりません。本音を言えば、本当に悔しいって気持ちでいっぱいです。んだども顧問として、みんなを指導する大人として、その責任も何もかも全部含めて受け止めねねえと思ってる。一つ覚えてて欲しいのは、こうなったのは部員の誰かのせいだとか誰それの考えがおかしいとか、そういうものでは無いってことです。みんなには音楽を、部の活動を楽しむ権利がある。そのことが頭から抜けてた俺が、誰よりも一番悪いです」
そこで今一度、永田は深々と黙礼した。それに合わせて白髪交じりの頭髪ががさりと揺れる。敗北宣言。永田の発言をそう捉える向きもあるだろう。けれどこの場にて彼の一言一句を、微かに震える声を直に聞いていた者には、彼を非難できるただ一つの余地もあろうはずが無い。少なくとも、真由がそうであったように。
「この気持ちは独立した十四名の部員に対しても、同じように持ってます。だがら彼ら彼女らを切り捨てるっていうつもりは毛頭ありません。活動する場所や内容が別れてしまっても、彼らが吹部の一員であることは何も変わんねえ。それでも決断を下すにあたって、後のことは全部、顧問であるこの俺が引き受けます」
シンと静まり返った音楽室。その冷え込んだ空気に部員たちの翳りはより深まる。人数の多寡の問題ではない。誰が離反し誰が残ったか、などという話でもない。部内が分裂したまま最終決定が下されてしまう。そのことに対する歯痒さ。あるいは本当にこれで良いのか、という迷い。そうしたものが今のこの場を支配していた。すう、と永田が小さく息を吸い、噛み締めていた唇を開く。
「本日からの練習をもって、曲北吹部は――」
永田が決断の一言を述べ切ろうとしたその時、コンコン、と軽やかに音楽室の戸がノックされた。
「失礼します」
あの声は。そう思ったのは真由だけではなかった。いの一番に立ち上がったちなつがまっすぐ戸口へと駆けつけ、勢い良くドアを開く。しばし小声でのやり取りがあった後、ちなつが一歩引いたそこへおもむろに姿を現したのは、水月だった。
「長澤?」
「水月、ちゃん?」
それを見た部員たちからどよめき声が上がる。いや、水月だけではなかった。後に続いてぞろぞろと入ってきたのは玲亜を含めた計十余名、独立組の残り全員だ。
「お話の途中すみません。少しよろしいでしょうか」
「あ、ああ。良いども」
つんと尖った氷のような水月の態度に、永田は少々気圧されつつも頷きを示した。それを受けて水月たちは指揮台の前へ横一列に並び、部員たちへと向き直った。
「私たち十四名。本日を持ちまして、皆さんの活動に再び合流します」
ええっ、と方々から奇矯な声が上がる。水月のもたらしたその一言に、永田もちなつも日向も、和香や杏も、そして真由でさえも、みな目を見開いて驚きを隠せずにいた。
「はじめに断っておきますが、皆さんの活動方針に対して完全に賛同しているとか、こちらの考えを改めたというわけではありません。私たちの主張については今年度の大会が全て終わってから、改めて協議していきたいと思っています。ただ過日の相談中、私たちの間でマーチングを楽しむことについての見解が全員一致したため、今回に限っては皆さんと合流し活動することにした、というだけのことです。無論、そちらに拒否されるようであれば、私たちからはこれ以上何も言うことはありません」
相変わらず流暢な水月の発言は、しかし部員たちにはにわかに受け入れがたいものだった。あの水月が? なんで今さら? 虫が良い。勝手すぎる。音楽室のあちこちから漏れ出るそれらの批判めいた雑言に、水月本人は眉一つ動かすことなく、ただ凛として直立不動を貫く。
「意思決定はそちらにお任せしますので、多数決でも指導者裁量でも、どうぞお好きな方法で決めて下さい。では私たちはこれで、」
などと一方的に話を締め括ろうとした水月に、ずかずかとちなつが近寄っていく。鬼気迫る彼女のその表情に、真由は一触即発の危険すら感じ取った。はらはらとして一同が成り行きを見守る中、ちなつは物凄い勢いで水月の手を掴み取り、それから両手で固く握り締める。
「ありがとう」
こわばる顔の一端からこぼれ出たのは、そんな感謝の一言。こういうやり方、水月は嫌うかもだけど。続けて動いた彼女の口の形には、そんな音が混じっているようにも窺えた。
「今日が判断の最終期限。その日にこの子たちが戻ってくると言ってる以上、こっちがそれを受け入れない筈は無い。んだよな、みんな?」
敢然とした姿勢で部員全員に問い掛けるちなつは明らかに、その場の一人に至るまでこの決定に有無など言わせやしない、という気勢で自らをラミネートしていた。……はい。かぼそい声がぽつぽつ上がったのを見逃さず、パン! と日向が鋭い柏手を打つ。大親友からの頼もしい援護射撃を得て、ちなつがひときわ声を張る。
「決まりです。私たちはみんなの復帰を歓迎します。今日からは気持ちも新たに、目の前の東北大会に向かってお互いイチからがんばりましょう」
「はい!」
独立組の面々がちなつに力の籠った返事をする。彼女たちの表情は人により様々で、必ずしも全員が全員、この決定を心から喜ばしいものと捉えている訳ではないらしいことは見て取れた。だがその眼差しはいずれも真剣そのものだ。果たして彼女らは今、どんな思いを抱えてこの場に立っているのか。それもきっと、一人ずつ異なっている。ひと絡げにすることなんて出来ない。気迫さえ感じさせる玲亜の佇まいを目にして、真由はそう考える。
「みんなも、いいね」
ちなつが再び部員たちへと向き直る。
「今日までのことは全部水に流して、なんて簡単には行かねえかも知んないけど、みんなが部活に入った時の気持ち、音楽を始めたときの気持ちを思い出しながら、改めて今日からの練習に取り組んでって欲しいです。本番まで泣いても笑ってもあと三週間。それぞれが悔いの無いように、自分たちのやりたい音楽に向かって全力を出し尽くし、精いっぱい楽しみ、そして最後は全員笑顔で終われる、そんな吹部でありたいと私は思います。そのために、みんなの力を貸して下さい」
姿勢を正して一礼するちなつに、部員たちももはや異論を挟む気など無いようだった。あったとしても、この空気の中ではとても手を挙げられなかったことだろう。はい! という総員の大合唱をもって結論が下された後、永田と互いにぺこぺこ頭を下げ合った十四名の部員たちが各々の席へと散らばっていく。水月はその間ずっと、ちなつに対してどこか胡乱げな、というよりはふてくされたような目つきを投げ掛けていた。集団を扇動してまとめ上げる。それは水月が最も忌むであろう手法。だがその強権的な手法によって今回、彼女ら独立組の復帰はあっさりと受け入れられたのだった。
「それじゃさっそく今日のミーティングを始めます。予定していた全体練習はいったん延期にして、まずは戻ってきた子を中心に基礎の動きの見直しから――」
永田との打ち合わせを手短に済ませたあと、急遽改訂となった練習スケジュールをちなつがいつもの調子で告げてゆく。それを横目に見つつ低音パートのところまで歩いてきた水月が、ふう、と真由の隣の席へ腰を落ち着けた。入室からここまでずっと注がれていた真由の視線にふと気付いたのか、あるいは初めから感知していたのか、ほどなくして水月がゆるりとこちらを向く。
『これで満足?』
そう言いたげに肩をすくめた水月に、真由はクスリと微笑を返す。水月はきっと、真由の結論を最大限に尊重してくれたのだ。だからこそ彼女は今ここにいる。彼女がその手で引き剥がした全員を伴って、真由の傍らへ舞い戻っている。もしも水月が悪意で他者を踏みにじるだけのさもしい人間だったなら、こんなにも嬉しい驚きを自分にもたらすことなど絶対しなかった筈だ。今まで一つも分からないと思っていた、長澤水月という子の本質。それを真由はこの時、本当にほんのちょっとだけ、理解することが出来たような気がしたのだった。
「
スティックを握る和香の音頭でマーチングの練習は滞りなく、しかし徹底的に進められていく。何せ今まで欠員のある状態で、とりあえず形だけラインを揃えてきたような状況だ。そこにこれから動きを合わせようという面々が加わったことで、練習は実質イチからのやり直し。全体の練度としてもまだまだ本番を迎えられる状態に無い。しかし過ぎ去る時間は待ってはくれず、連日の猛練習は一週間という日にちをあっという間に食いつぶしてしまった。東北大会まで残り二週間弱。唯一の希望は旧独立組の面々が、意外なほど意欲的な姿勢で練習に取り組んでくれていることだ。
「罪悪感じゃねえけど、ほんのちょこっとだけ反省するみてえな気持ちがあんのかもね。連中にも」
そんな日向の見解が、果たして的中しているかどうかは分からない。けれど真由は思う。彼女たちが熱心に練習するのはきっと、水月を見ているからだ。復帰後の水月はそれまでとはまるで異なっていた。本当の自分自身を覆い隠すためにわざとしていた下手な演奏や演技。不真面目とすら言えた練習姿勢。それらの全ては鳴りを潜め、今の彼女は本来持っていたであろう音楽的、いや芸術的能力を皆の前でいかんなく発揮している。整然たる動作に秀麗な演奏。マーチング練習においても彼女の有するポテンシャルは、並の域を遥かに凌駕していた。
「すげー。長澤ってあんなに
「あんな騒動起こしたりさねえで、最初っからあんだけ吹いてりゃなあ」
「もう、それは言わねえっこ、って話んなったべ。それよりウチらもアイツさ負けねえよう練習さねえば」
復帰後たったの一週間で、水月の技量と能力の高さは誰もが認めるところとなっている。それは長らく本調子を出せずにいた部員たちにとって、ある種のカンフル剤になったとも言えるかも知れない。かつての話は置いておくとして、今は部員たちの大半が水月に負けじと今まで以上に練習に打ち込み、自分たちのパフォーマンスを限界まで磨くべく部員同士で切磋琢磨していた。無論、それは真由とて例外ではない。
「水月ちゃん、さっきやった箇所ってどんなふうに吹いてる? 私が吹くとどうしても音が割れちゃって」
「それは音量を出すことに気を囚われ過ぎてるからだよ。ただ大きく吹くんじゃなくて、きれいな音を遠くに通すの。口や喉、体のどこかに変な力が掛かってるとそれが出来ないから、意識をずっと向こうに置いてそこを目指して吹いてみて。吹いてる時の自分の状態をチェックしながら、こんなふうに」
マウスピースに唇を当てた水月が、ポーン、と鮮やかなハイトーンを響かせる。要求された音量を保ちつつもしなるように柔らかでクリアな音の波紋が、水月を中心として体育館中へと広がった。その美しさとインパクトに「おおー、」と部員一同が感嘆を洩らしてこちらを振り向く。
「こりゃあちなつも負けてられませんなあ。まさかのダークホース出現で曲北ユーフォトップの座もピンチ、ってか?」
「アホ言うなって。コンクールじゃあるまいし、部員同士でそんなん競い合ってもしょうがねえべ」
ゴン、とちなつが日向に軽めのチョップを叩き込む。この二人のやり取りもまた相変わらずではあるのだが、ようやく真の実力を見せた水月に対し、ちなつはどこか嬉しそうでさえあった。
「だって、こんだけ上手え奴と一緒に吹けんだもん。最高だべった?」
そう語るちなつの言葉に、嘘偽りはひとかけらも無かった。彼女は今、純粋に楽しんでいるのだ。全身全霊でもって、最高の環境で最高の音楽を、最高のメンバーと一緒に。それは真由とて同じである。
「けど雄悦先輩はヤバいっスねー。どんどん後輩に追い抜かれて、内心焦ってるんじゃないっスか?」
「あるワケ無えべ。てか松田、いい加減オメエも自分の練習さ戻れって」
「今は休憩兼個人練の時間ッスよ。どう過ごしたって私の自由ですぅー」
「くっそ、ハラ立つ。おう小山ぁー、コイツそっちさ持って帰れよぉ」
「やーだよん。そんな困ってんだったら、雄悦が自分で何とかすればぁ?」
「ぐぬぬ」
杏に軽くあしらわれた雄悦が歯噛みをする。あれ以降がどうなったのかはさて置き、この三者の関係もいろいろと吹っ切れはしたようだ。雄悦に対しても以前と変わりなく明るい振る舞いを見せる奈央の姿に、真由はほんの少し心の重荷をおろしたような感覚を抱く。
「秋山先輩、あのう。なんか私のサックス調子おかしくて……」
「どれ、ちょっと見せて。――ああ、タンポ緩くなってんね。前交換したのっていつ?」
「えっと、ちょっと分かんないです」
「したら早めに交換した方がいいかもね。来週楽器屋さん来るって言ってらっけし、そん時に相談した方が良いと思う。もし取れたりして修理さ間に合わねさそうだったら、とりあえず糊つけて仮留めしてみて」
「分かりました、後でやっときます。ありがとうございます!」
「すいませーんゆり先輩。こっちもこっちもー」
「ああハイハイ、今行くなー。そっちは
体育館の片隅では、後輩からの相談にゆりが甲斐甲斐しく応じる姿があった。秋以降の彼女は仲間や後輩たちと、ああして和気あいあいと過ごす姿を見せる機会がずいぶんと増えている。それも恐らくは秋以降、彼女の身に纏う雰囲気が変わったからだ。そんな姉を遠くから誇らしげに眺める妹、楓との関係と共に。
「ハイハイ石川っち、まだそこ曲がってる。基本の足さばきがなってねえよ」
「すいません! もう一回お願いします」
片やこちらでは泰司が、スモールステップで刻むように周囲と位置合わせをする足さばきの練習に熱を上げている。泰司もこの一年の特訓を通じてようやっと基礎中の基礎であるグライドステップは習得したようだが、それ以外の高度な足運びや上半身まで使った演技動作についてはまだおぼつかないものも数多い。泰司に限らず他の部員たちにも、小さな瑕疵はいくつか見られる。そうした技術的なブレをどこまで圧縮できるかが、今後の曲北にとっての大きな課題となってくるだろう。
「また石川は中島先輩さ迷惑掛けて。そんぐれえ一発で覚えれって」
「うっせえ。こっちゃ真剣にやってんだ、アホは黙ってれ」
「アホはどっちだ、
進捗芳しくない泰司を心持ち愉快そうにいじる玲亜は、さすが小学校からのマーチング経験者と言うべきか、この一週間で大体のムーブをそつなくこなせるようになっていた。それもあるいは水月へ、真由へ、その他の諸々へ抱く感情に駆られてのことなのかも知れない。練習で音合わせをする際、いつも少し嬉しそうに微笑む玲亜のことを、真由もまた愛おしく思わずにはおれないのだった。
「さあ、そろそろ休憩終わり。みんな形は出来てきてるけど、勝負はこっからです。今日は全体で一回通して、問題点をきっちり洗い出していくよ」
「はい!」
快活に放たれる和香の号令。体育館にこだまする返事。それらはどこまでも元気良く、果てなく快活に響いた。各々のやるべきことに取り組み、真剣になって音楽を究める。それは確かにしんどいことなのだけれど、少なくとも真由にとっては楽しさに満ち溢れた時間であり、曲北に転校して以来ずっと求めていたものでもあった。
「お疲れ真由ちゃん。今日もここにいたんだね」
「あ、水月ちゃん」
東北大会を数日後に控えた、とある日の放課後。珍しいことに、いつもの屋上テラスで個人練をしていた真由のところへ水月が姿を現した。
「今日は下で吹かないの?」
「たまには上で吹くのもいいかなって思って。久しぶりに天気も良いし」
水月がゴールドラッカーに塗られた自分のユーフォを構える。それは彼女のマイ楽器、では無く部の備品。吹ければいいから特に自分用って拘るつもりは無いの。そう言って憚らぬ水月は、けれどいつも時間を掛けて丹念にそのユーフォを手入れしていた。軽く音出しをして、それから水月はふとこちらに視線を寄越した。
「真由ちゃんも一緒に吹く? 『シシリエンヌ』」
「いいの?」
「真由ちゃんなら耳コピでも、もうあらかた吹けるようになってるだろうし。合わせて吹いてみようよ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
真由も自らのマイ楽器である銀色のユーフォを揚々と構え、三、四、と二人で呼吸を揃える。前奏を軽やかに吹く水月。彼女の音の名残りをなぞるようにして、真由は主旋律を歌い上げてゆく。すると水月の辿る譜の形はたちまち伴奏のそれに差し変わり、水面に波紋のステップを描くがごとく音を刻みつつ、時として麗しいハーモニーを生みながら、どこまでも丁寧に真由のメロディを支えていった。
その息遣い、指運び、強弱や形状の繊細さ、ビブラート。こうして同じ曲を二人でいっしょに吹くと良く分かる。音の一粒一粒まで神経を注ぎ込んだかのような水月の音色に、自分のそれはまだまだ遠く及ばない。
「やっぱり水月ちゃんはすごいね」
「そう?」
「音の質感が私と全然違うし、何より楽器で歌ってるって感じがする。私は水月ちゃんの真似して吹くのが精いっぱい」
「単純に吹き慣れてるかどうかの違いもあると思うけど。そのうちにこのぐらい吹けるようになれると思うよ、真由ちゃんならね」
「本当にそう思う?」
「真由ちゃんがそこまで努力すれば、の話だけど」
くす、と笑いながら取り出したハンカチで、水月はたおやかにマウスピースを拭う。こうしていれば水月はなんの邪気もない、それこそ一級品の美少女と形容して差し支えのない容姿と物腰をしていた。
「そう言えば、水月ちゃんに前から聞いてみたかったんだけど」
「何?」
「どうして『シシリエンヌ』なの? いつも吹くのって」
「ああ、」
マウスピースを拭き終えたハンカチを片手で器用に畳み、水月はそれをポケットにしまい込んだ。
「この曲にまつわる由来や歴史はいろいろあるんだけど、そんなものより私、この曲にすごく都会的な空気を感じるの。とっても落ち着いていて知的で、けれどどこか寂しげで。そういうものに惹かれたんだと思う。最初にピアノ教室で教わってからずっとこればっかり弾いてて、気付けばユーフォでも吹くようになってたんだ」
「そうなんだ」
「真由ちゃんはどう思う? この曲」
「私? そうだなあ……」
顎に指を当て、真由はしばし考える。『シシリエンヌ』に関するイメージ。聴いていた場所が場所なだけに、そのほとんどは目の前に広がる姫神山の裾野だったりするのだが、こんな野暮ったい回答をきっと水月は求めてはいないだろう。一度再考し、やがて頭に浮かんだ答えを、真由はあえてそのままに述べる。
「森の奥にある泉のほとりでそっと佇んでる女性、って感じ。落ち着いてて知的なのは水月ちゃんの解釈と同じなんだけど、寂しさっていうのとはちょっと違ってて」
「ふうん」
「どっちかって言えば、都会の喧騒を離れて過ごす静かな時間を一人でこっそり楽しんでる、そんなイメージかな。あ、でもだとすると都会の女性ってことになるから、その点ではやっぱり水月ちゃんの解釈と似たようなことになるのかも」
そこまで真由が喋った時、ぷふっ、と水月が小さく噴き出した。それまで引き攣ったような不敵さを纏う微笑しか浮かべることのなかった彼女の、不意を突かれて思わず出したみたいに自然な笑顔。それを真由は初めて目の当たりにする。
「なんか面白いね。曲の解釈が私と真由ちゃんとで、似てるようで全然違うのって」
「そうかな?」
「それとも真由ちゃんだから、なのかな。そんなふうに物事を見られるのは」
「分かんない。けどきっと私だけじゃなくて、一人ひとりに聞けばそれぞれ違うイメージを持ってると思うよ」
「そう、なのかもね」
何かを言いたげな水月の顔が、しかし何を言うでもなく、するりと山裾の方角へ向けられる。彼女に倣うようにして、真由もまた紅の彩りを繁らせた山々の稜線を目で追っていった。
さっきの発言、真由はそこに自分なりの想いを込めたつもりだ。自分は『外の目』でも何でもない。それは水月や杏がそう言っているだけであって、本当は誰もが一人ひとりの視点を持ち、一人ひとりの考えを持っている。己の視点や思考が他の誰かと比べて異質なものであったとしても、それは決して特別なことなんかじゃない。本当の『特別』はもっと他に、ありふれた自分たちの身の回りに、きっとある。
「じゃあ私、そろそろ行くね」
そんな真由の切なる想いを、果たして彼女が汲んでくれたかは分からない。水月は少し寂しげな視線を一度投げ掛け、それを巻き取るように背を向けた。
「あ、水月ちゃん」
「どうしたの?」
水月が再び身を翻す。ふわりと舞った彼女の黒い長髪が、ちょっぴり肌寒い風の吹く虚空に波を描く。
「まだお礼言ってなかった。ありがとう、私の希望、かなえてくれて」
「……何の話?」
「だから、私の結論。みんなと楽しく音楽がしたいって言ったからだよね、水月ちゃんが戻ってきてくれたの」
水月は少しの間微動だにせず、ただ黙ってこちらを覗き見るようにしていた。ややあって「ふ、」と唇を緩めた水月はいつもの水月らしく、いくぶん嘲笑めいた表情を真由へと向ける。
「言ったでしょ? あれは私たちの見解が一致したからそうしただけ。それ以上の理由なんて無いよ」
ただそれだけを言い残して颯爽と、水月はテラスを立ち去ってしまった。凛として己を曲げぬその後ろ姿に水月らしさを強く感じつつ、けれど、と真由は思う。独立組のあの短期間での翻意。それに水月が関わっていない筈が無い。これは推測にしか過ぎない話ではあるのだけれど、水月は部へ復帰を促すようにそれとなく、独立組の子たちへ何らかの働きかけをしたのではないか。それが頑なだった独立組の考えを翻させ、全員揃って部に復帰するという選択を取らせ、今日へと至った。きっとそんなふうであったに違いない。そう考えることで今はもう、真由は心に抱いていた水月へのわだかまりをほとんど払拭するに至っていた。
今の水月は、ただの仲間。そう、同じ目標に向かって練習を共にする、真由の大事な仲間だ。
「さあ、練習がんばらなくっちゃ」
再び楽器を構え、目の前の譜面に沿って音を出していく。全ての問題にひとまずの決着が付けられた今、真由たち曲北がすべきことはほぼ一点に集約されていた。その一点を突き詰めること。それは真由自身、無上の喜びとも言えるひと時を堪能するのとほとんど同義だった。
秋の空が移ろい、やがて空から白いものが零れ落ちてくる。
それが積もり積もって大地をすっかり覆う頃、曲北はついにその日を迎えた。