私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈21〉巡る季節

 ごう、という音と共に、窓の外の景色が一瞬で暗闇へとすり替わる。こうして新幹線の車窓から外の景色を眺めるのも何度目だろう。そんなことを考えつつ、真由は鏡のごとく己の顔を反射するそのフレームから静かに目を逸らした。

 春、この秋田新幹線に乗って大曲へとやって来てから、早いものでもう九ヶ月。この間、いくつもの出来事があった。その全てを言葉だけで語り切るのは難しい。いくつかはご自慢のカメラに収め、ファインダーで捉えることの出来なかったものは心のフィルムへと焼き付けてある。それらは秋田で歩んできた真由の道程そのものであり、ここに真由が居たという確かな証でもある。日を追うごとに少しずつ嵩を増してゆくそれらのものは、つまり自分にとっては。

「ただいまー。ってあれ、いつになく神妙な顔して何かしたの?」

「ううん、何でもない」

 隣席の人物がお手洗いから戻ってきた。思索を中断した真由は一度、彼女へと柔和な笑みを向ける。ふう、と嘆息を漏らしながらそこへ腰を下ろしたのは、夏の旅行でもバスの車中を隣席同士で過ごした相手、即ち奈央だった。

「にしても、新幹線のトイレって落ち着かねえよね。狭いし、ぐらぐら揺れるし」

「そう? 私はあの狭さがちょうど良いって感じで、却って落ち着くけど」

「単純に慣れてねえのもあんだろうけどね。私、新幹線ってこういう時以外乗ったことねえから」

 早くホテルさ着かねえかなー、とぼやきながら、奈央がシートのリクライニングをいきなり全開に倒す。「ちょっとー」という後席の女子からの非難にも彼女はどこ吹く風、といった按配だ。

「あとどんけえ(どのぐらい)掛かんのかな」

「さっき仙台を過ぎたところだから、ここから福島と栃木を抜けてでしょ。んー、あと一時間ちょっとくらいかな、多分」

「さっすが真由ちゃん、詳しい」

「さすが、って言うほどでもないと思うけど」

 謙遜しつつ、真由は再び窓を覗き込む。トンネルからトンネルへとまたぐほんのひと時、冬の気配に染まった枯色の山肌が真由の視界に飛び込んできた。

 

 

 

 あの日から今日までの間にあったことを話すと、ざっくりとした要約になる。

 十一月、つまり先月初頭に宮城で行われたマーチング東北大会にて、曲北は無事に全国大会への出場権を獲得するに至った。ただし、本当に無事だったかと問われればどうとも言えない。秋の一件からごたついた代償か、今年の曲北は東北大会最優秀賞の栄誉にあずかることが出来なかった。

『結果は結果、素直に受け止めよう。そのぶん東北大会で出来なかったことを全国でぶつけるつもりで、これからの練習がんばっていきましょう』

 結果発表後、帰りのバスに乗り込む直前。駐車場に集合した部員たちへちなつが告げたその言葉は、吹部の新たな目標となった。全国金賞だとか四連覇だとか、そんなことはどうでもいい。本番の舞台を見守る聴衆に、自分たちの目指す音楽をありったけぶつける。そしてその心を最大限に揺さぶる。永田が語り続けたその言葉も、今の部員たちには少しばかり違う意味を持つものとなっているのかも知れない。各々の思い描く音楽のあり方。例えそれが一つに揃っていなくても、共に目指した方角へ向け異なる道を突き詰めれば、辿り着くところはきっと同じだ。

「それにしても、この大会で先輩たちももう引退かあ。なんか寂しくなるような、ちょっとホッとするような」

「ホッと?」

「ああ、まあホラ、私っていろいろあったじゃん。その、さ」

「あ、うん」

 彼女が言外に覗かせたものを真由は察する。そう言えばあれ以来、奈央の雄悦に対する想いには何らかの変化でもあったのか、或いは未だ胸の奥に秘めたままでいるのか。忙しい日々が続いたせいもあって、彼女にそれを聞く機会はとんと訪れないままだった。

「最近は、どう?」

 真由もまた言葉を濁しつつ、奈央へそのことを尋ねてみる。うん、と小さく頷いた奈央は真由に耳打ちするように、ぽそぽそと小さな声で喋り出した。

「あれからもいろいろ考えたけどね。やっぱ私の気持ちが残ってるうちは、自分じゃどうしようもないなって思って。だがら変に意識さねえで、もうしばらくこのまま行くことにしてるの」

「そっか」

「もう自分からあれこれアプローチしたりはさねえけどね。相手も人間だがら気が変わるかも知んねえし、それに、そうこうしてるうちに私の方が先に良い人見つけるかもだし」

「奈央ちゃんならきっと大丈夫。自信持って」

「へへ、あんがと」

 はにかんだ口の端からこぼれる白色が眩しい。これから春までの僅かな期間をきっと、奈央は少し痛む胸の傷跡と共に過ごし、そうして想いを抱えたまま雄悦たちを見送るのだろう。その先の未来がどうなるかは、彼女自身にしか解らないことだ。

「あの時はホント、真由ちゃんさもいろいろご迷惑おかけしまして」

「いやいや、そんなことないから」

「その代わり、もし真由ちゃんが恋愛がらみのことで悩んだりしてたら、今度は私が相談に乗ったげるからさ」

「恋の先輩として?」

「そう、経験豊富な先輩として!」

 エヘンと胸を張る奈央に、思わず真由は苦笑してしまう。

「せっかくの申し出は嬉しいんだけど、当分のところ予定は無いかな」

「えー、何して? まさかもう付き合ってる人がいるとか?」

「ないない。意中のお相手ならいるけど」

「え、うっそ。誰? 部内の男子? それとも同じクラスとか。あ、もしかしてまさかの草彅?」

「ううん。残念だけど全部ハズレ」

 首を振り、真由は両手を構えてみせる。そのかたちを見て奈央もすぐに「お相手」の正体に気付いたらしく、あ、と小さく得心の声を漏らした。

「今はユーフォのことで頭がいっぱいだから、私」

 

 

 さすがにここまで南下すると、灰色のアスファルトの上には雪の欠片も見えやしない。大曲駅から新幹線に乗ること二時間半。一面真っ白の雪景色から紅色の枯れ野へ。季節を遡るように変化する車窓の景色を見送って、曲北の一同は埼玉県大宮駅へと降り立った。ここからは予め手配されていた貸切バスに乗って宿舎まで移動し、そこで明日の本番に向け英気を養うこととなる。

「はい、割り振り通りにバスの前さ移動して。荷物積んだらどんどん乗ってー。他の利用客さ迷惑かけねえように、素早く動いてー」

 こうして部員たちの前で陣頭指揮を執るちなつの姿も、あとちょっとで見られなくなる。そんな感傷が胸を突き抜けていくのを感じつつ、真由は指示に従ってバスへと乗り込む。新幹線で過ごす時間を共にしたのは奈央だったが、今回バスで相席になったのは奇遇と言うべきか、水月だった。

「よろしく」

「こちらこそ」

 互いに恭しくあいさつを交わしながら、真由と水月は肩を並べてシートに座り込む。窓際席の水月はどこか物憂げな様子で、一言交わした後はただずっと窓の外を眺めていた。そんな彼女の醸す空気に憚られ、真由もまたそれ以上声を掛けずにおく。以前ならばいざ知らず、今はこうして彼女と沈黙の時を過ごしていても、特段苦痛に感じたりはしない。

「不思議だな」

 いよいよバスが動き出す、というそのタイミングで水月がポツリとこぼした。何が、と真由が問うと水月はおもむろに首を動かし、狐のように尖った眼をこちらへ向けてきた。

「こうして私がここにいることが」

「それ、不思議な要素ある?」

「大ありだよ」

 窓枠のところで頬杖をつきながら、ふう、と水月は緩く息を吐き出す。

「私、音楽って人と競い合うものじゃないって昔から思ってて。だからコンクールだとか賞レースとか、そういうものにはずっと不参加だった。マーチングの大会だってそう。曲北が原則全員参加だって聞いてたから下手なフリしたり、ありもしない用事を作ったりして、毎回舞台に上がらないようにしてたのに」

「それなのに今回は参加することになっちゃった、ってわけだね」

「おかげさまでね」

 皮肉めいた台詞を吐きつつも、しかし水月の目はそのことをさほど厭うているわけでもない、そんな安穏たる色に満ちていた。相手が機嫌を損ねていないことにちょっとだけ安堵しつつ、真由は前からずっと気になっていたことを彼女に尋ねてみる。

「ねえ水月ちゃん。水月ちゃんはこれからどうするの」

「どうするって? ここまで来ておいて大会に出ない、なんて選択肢は、さすがの私でも取らないよ」

「そうじゃなくて、将来のことっていうか。水月ちゃんすごく上手いし音楽のことだって詳しいし、その」

「プロを目指すのか、って言いたいの?」

 心臓を杭で穿たれたような衝撃に、「え、あ、」と真由は喉から漏れる枯れた空気だけをパクパクと啄んでしまう。間髪入れずに向こうから差し込まれたその問い返しは、心中で用意していた言葉そのものだった。一方、水月は読みを的中させたことに愉悦を覚えたのか、ふふん、と目を閉じ鼻から息を抜く。

「そういうのにも興味は無い。私にとって音楽は、どこまで行っても自分のためのもの。それに前にも言ったけど、この曲北の中だけならともかく、自分の才能が全国レベルで高いところにあるなんて思ってないの。プロにはそう思える人がなれば良い。例えば、草彅雅人くんみたいに」

 その名が水月の口から出てきたことに、真由は少しドキリとする。

「水月ちゃん知ってたの? 草彅くんの、プロって、えと」

「知ってたっていうか、有名でしょ。彼がプロになるつもりだっていう話。まあ、単なるうわさ話だけどね」

「あ……ああ、そうだったんだ」

 微かに上擦る己の声を、真由は必死に抑え込んだ。この分だと、どうやら水月は雅人と直接対話したことは無いらしい。そう言えば雅人も雅人で、水月とは直接話をしたことは無いと語っていたような、どうだったっけ。いずれにしても雅人の心情やら何やらをうっかり暴露せずに済んで良かった。平静を装いつつ落ち着きを取り戻そうと、真由はこっそり胸に手をあてがう。

「でも実際、彼って上手いよね。音楽全般にもすごく詳しいみたいだし、ピアノも弾けて作曲も出来るっていうし。もし本当にプロを目指すとしたら、草彅くんなら努力次第でなれるんじゃないかな」

「意外。水月ちゃんでもそんなふうに、他の人を評価することってあるんだね」

「あくまで一般論的な見方としてね。それに多分だけど、私と草彅くんとじゃ音楽観が全然違うし。彼が本気でプロになりたいかどうかなんて聞いたこともないけど、彼のなりたいと思ってるものと私が言ってるものがイコールだなんて保証はどこにも無い。どっちにしたって、私にとってはどうでもいいことだよ」

「そっか」

 水月のその推察は果たして正鵠を射ていた。水月と雅人。二人はきっと互いに反りが合わないであろうことを感知し、ゆえに互いに干渉すべきでないという結論を弾き出していた。それは同じくらいの音楽的能力を有するがゆえか、はたまた正反対なようでいて実は似た者同士だからなのか。

「それにプロになるってことは、自分のためだけの音楽じゃ済まないってことでしょう? そういうのが私に向いてるって、真由ちゃんは思う?」

「思わない」

 正直にそう告げると、水月は苦みの無い笑顔と共に「だから、」と続きを述べる。

「もし私がこれからもずっと音楽を続けるとしても、それは一般的な意味でのプロっていう形じゃない。そんなものに囚われなくたっていいの、私にとっての音楽は。将来や誰かのためみたいな実益に繋がらなくても、だからって培ったものに価値が無いわけじゃない。それを楽しいと思える自分がいる限りはね」

「そこは同意できる、かな。ほんのちょっとだけ」

「そういう真由ちゃんこそ自分の将来、どうするつもり?」

「私?」

 唇に指を掛け、真由はしばし考え込む。お前はプロになるつもりがあるのか。かつて雅人に問われた時にはまだよく分からない話だった。その後に日向からちなつの生い立ちと志望動機を聞かされて、真由はいつか自分にも将来を決めなければならない日が来ることを悟った。あれから幾星霜。明確な答えは未だ出ていない。けれど少なくとも、何一つ考えていなかったあの頃とは違う。ころころと転がすうちに一回り二回りと膨らむ雪玉のように、そのイメージは少しずつだがゆっくりと、真由の中で形を成しつつあった。

「私は、」

 真由がその思いを水月に打ち明けようとした、その時。

「うわあ、でっけぇ。あれですか先輩」

「んだよ。私も初めて見た時は、おんなじリアクションしたっけなぁ」

 車内の空気が沸き立っていることに気が付き、何事かと真由は周囲を見渡す。その戸惑いぶりを見かねたように、水月が「あれだよ」と窓の外を指差した。

「全国大会の会場。つまり明日私たちが立つことになる舞台、だね」

 街の一角を占拠する巨大な銀色の建築物、それがちょうどバスの窓から真正面の位置にドンと居座っていた。埼玉の大型アリーナ。有名アーティストの公演なども開かれるためテレビ等で見たことは何度かあったが、この距離で実物を目の当たりにするのはこれが初めてだ。前面に向かって張り出した庇のような構造。曲面と直線を大胆に取り入れたデザイン。そして、まだ見ぬ内部。明日、自分たちはそこに立つ。これまでやってきたことの全てを聴衆へと届ける。そう思い描いた時、真由の体はぶるりと熱く奮い立った。

 マーチングフェスティバル全国大会。春に掲げた目標の一つであり、最後の大一番。その時はもう目前に迫っていた。

 

 

 

 

 市内のホテルを宿舎とする曲北一同はその夜、特に決起集会やミーティングを開くといったこともせず、それぞれが思い思いの時間を過ごした。そうしよう、と決めたのは他でもないちなつだ。部長としてではなくいち個人として、と前置きしたちなつは皆が集った夕食の席、その終わり際にこう述べた。

『ここまで来た以上、みんな一人ずつが思ったり考えたりしてることがあると思う。今回はそれを大事にしよう』

 彼女のその言葉に部員たちは賛同の意を示し、夜はあっという間に更けていった。真由と同室になった同学年の女子は「明日は万全の体調で最高の演奏してえから」と一足先にベッドに潜り、今はぐっすり夢の世界を謳歌している。そんな彼女の慎ましやかな寝息とは裏腹に、何故だか今日に限ってちっとも眠気が湧いて来なかった真由は、気晴らしついでに館内を一人そぞろ歩きすることにした。

 カーペット敷きの長い廊下をゆっくり踏みしめながら、真由はぼんやり考え事に耽る。本番前日に寝つきが悪いだなんて、らしくもない。柄にもなく緊張しているのか。いや、胸から次々湧き上がるこの気持ちは『高揚』と呼ぶべきものか。自分でも判別しがたいその衝動が何なのかを手探りしながら一歩、また一歩。

 そうしている内にほど良く疲れを感じ始め、そろそろ眠れそうかな、と思った矢先。ぼう、と向こうの薄暗いフロントロビーに浮かぶ幾つかの人影を、真由は確かに見とがめた。

「……いよいよ明日かあ」

「なんかこの一年、あっという間って感じだったな」

「んだね」

 そうっと近くまで忍び寄ってみると、ロビー隅のスペースにちなつ、日向、和香、ゆりの三年生四人組が寄り合うようにして立っていた。彼女たちも寝るに寝付けず、館内をうろつくなどしているうちにああして自然と集まったのだろうか。話し声こそ密やかながら、四人の会話はずいぶんと弾んでいるみたいだった。

「ゆりはどうだった? 曲北での三年間」

「私? んだなぁ」

 ちなつの尋ねに、ゆりは少し考え込むような仕草をする。

「今年の夏までは、辛いことの方が多かったかな。『部活辞めたい』とかってのとはちょっと違うけど。でもここに居るのが苦しくて、もう何もかんも全部捨てて逃げ出してえって思ったときは、何度もあった」

 穏やかな表情を浮かべるゆりに、ちなつや和香は静かに頷くのみだった。それは恐らく、ゆりの個人的事情も鑑みた上での反応なのだろう。

「けど、秋からは今までで一番おもしれがった。ああ、吹部さ入って良がったな、ここまでやって来て良がったなって思えることがいくつもあって。こういう気持ちで明日を迎えられるのが信じらんねえってくらい。それまで全部ひっくるめたら、最高の三年間だったよ」

 少し気恥ずかしさを交えた笑顔でそう述べるゆりに、ちなつたちは柔らかい視線を注ぐ。

「和香は?」

 次に話を振られた和香は「んだなあ、」と一度考えるように呟いてから、メガネの位置をくいと指で直す。

「私は去年の秋、ドラムメジャー任されたべ。小学校ん時に経験あったから、って理由で推薦されたのは分かってたけど、それでも私は不安だった。こんなすげえ部活で指導するなんて大役、私に務まるんだべがって」

「サトちゃんがそんなこと考えてたとは。いっつもビシビシ指導してて、そんな素振りなんか少しも見せねがったじゃん」

「こらっヒナ。ハナシ遮んなってば」

「いいの。みんなさはそういう姿見せらんねえって、いつも気い張ってたし。それでここまで来れてさ、ああ何とか自分なりにやり切れたんだなあって、今はそんた感じ」

「その気持ち、ちょっと分かる。私も曲北吹部の部長だがら、って自分さ言い聞かせてたトコ、いっぱいあったから」

 お疲れさん。ちなつと和香は互いをねぎらい合い、くすくすと笑声を響かせた。

「中島さんは?」

「うぉ、同年(タメ)のやつから『さん』付けされると違和感がすげえ。頼むからゆり、もっと気楽に『日向』って、下の名前呼び捨てにしてけねえ?」

「ヒーナぁ。ふざけてねえで、こういう時ぐれえ真面目にやれー」

「いいべー。こういうのは性分の問題なんだってば」

 仕切り直すように小さく咳払いをし、それから日向は珍しく、その顔つきをキリリと引き締める。

「正直に言えばな、私、入部してからずっと色んなことさ縛られてらったなって思う。もちろん楽しいには楽しかったし、人並みにしんどい思いもしてきたけどさ。そういうんでねくて、自分じゃねえ誰かのために、っていうのがずうっと続いてたっていうか」

「それ自体は別に悪いことじゃねえんじゃねえかな。中島さん、でねくて日向の、それこそ性分みてえなもんなんだろうし」

「かもね。んだけどずっとそればっかじゃダメなんだって、最近そう考えるようにもなってさ。人同士で寄りかかるんでねくて支え合うのが大事っていうの? なんか、言葉にしようと思うと上手く出てこねえな」

「依存とか自己犠牲じゃねくて、共存共栄、みでンた話?」

「そう、多分そんた感じ」

 和香の付けた注釈に大きく首肯し、そのあと日向は一瞬チラリとちなつを見やる。

「まあそういう気持ちになってからは、自分のことをもっと良く見て考えた方がいいなあって思うようになって。そうなれたのも、吹部での三年間があったおかげっちゃおかげなのかな。んー、自分の気持ちまとめんのは難しいから、これ以上はパスで!」

「なんだそりゃ」

 苦笑するちなつの顔もしかし、普段のそれよりはずっと穏やかだった。んでちなつは? と日向に促されるとちなつは一旦目を伏せ何かを考え、それから日向たち一人ひとりと視線を交えていった。

「私はさ、この三年間を目いっぱい楽しもうって思って、入部式から今日までずっとやって来た。後から振り返ったとき悔いのねえように、最高の思い出をいっぱい作って、この三年間で全部出し切ろうってつもりで。まあ和香じゃねえけど、部長に推薦された時はかなりプレッシャー感じてたんだけどね」

 ちなつのその一言から悪戯っぽく逃れるように、プイッと日向が顔を背ける。

「けど今となってはそれも含めて、私にはすごく貴重で、他に替えらんねえ時間になった。自分がホントに大事に思ってるものが何なのか、何を道しるべにこれから歩いてったらいいのか、それがやっと解ったっていうか。曲北吹部に入ってなかったら私、きっとそういうものと出会えねえまま卒業しちゃったと思う。だから今は『この三年間に感謝!』って気持ちでいっぱいだよ。勿論、みんなに対しても」

 ちなつの瞳は外からこぼれる夜景の光を映してか、ここからでもそれと判るほどにきらきらと輝いていた。何かを言いかけた日向はそのまま押し黙り、和香とゆりも湧き上がる感情を堪えるかのように目頭を押さえ俯く。

「泣いても笑っても明日が最後。みんなで全力出し切って、最後まで笑顔でいられるように、がんばろう」

「うん」

「私も、目いっぱいがんばる」

「やり切ろうな、最後まで」

 そこまでを見届けて、真由はそっと場を離れた。今は先輩たちのこのひと時を大事にしてあげたい。そういう思いを抱きつつ来た道を引き返し、再びカーベット敷きの床に足音を沈ませながら、こっそりと決意を新たにする。明日は持てる限りの力を尽くそう。これまでの全てを出し切って、思いっきり楽しんで、そして最後は、笑顔で。

 

 

 

 

 翌朝を迎え、ばたばたと準備を整えた一同は昨日同様に三班に分かれ、それぞれバスに乗り込んだ。本番のステージに上がる予定時刻までは残り幾ばくも無い。緊張感に包まれた車内は口数も少なく、各々が自分の中で高まりゆく思いと静かに向き合っているみたいだった。

 いざ会場に着いてからの動きは速やかに。昨日は歓声すら上がった大型アリーナの外観や構造も今日は特に触れられることもなく、バスを降りた曲北の面々は日頃の訓示に従って整然と場内へ入り、更衣スペースでステージ衣装に着替える。

「前から謎だったんだけど、今回のコレって平安モチーフ? それとも古墳時代とか?」

「何だべな、頭にかぶってるのは烏帽子(えぼし)ってやつだと思うけど」

「違うらしいで。これは漆紗冠(しっしゃかん)とかっていう名前だー、って歴史好きな先輩が言ってた」

 その名はさすがに真由も知らなかったものではあったが、要はそれほど古い年代の装い、ということなのだろう。日本神話をテーマとした今年の選曲、それに合わせた新衣装。春の大会で着用した軍服もあれはあれで良い出来栄えだったが、今回の衣装にこうして袖を通してみると、これもこれでやけに細かいところまで手が入っているように感じられる。ひらひらと袖を翻しながらフロアを舞った時の見栄えの良さは、東北大会にて既に実証済みだ。早くこの素晴らしさを会場の聴衆へお届けしたい。あっと言わせてみせよう。部員たちの誰もがそうした挑戦的な野心を胸の内に抱えつつ、手抜かりの無いよう細部までしっかりと装いを整える。

「はーい、曲北吹部はこっち集合ー。手の空いてる人はどんどん楽器運びしてー」

 手早く着替えを終えたら、お次は楽器の搬入。今回も陣頭指揮を執っているのは部長のちなつだ。いつもの流れに従って見慣れたトラックの前へと集合した一同は、荷台に満載された楽器の山を手分けして降ろしていく。真由もまた自分の楽器ケースを受け取り、少し離れたところでその蓋を開いた。銀色に光るマイユーフォ。事前の入念な手入れによって隅々まで磨き上げられたそれは今日、ここ一番の光沢と煌めきを帯びている。

 今日もよろしく。そう心の中で告げ、藍色の起毛に覆われたベッドからユーフォをゆっくり抱き起こす。冬の外気に冷えた管体を少し温めるように指でさすり、空のケースを所定の場所へと置いて、真由はみんなのところへと戻っていく。

「じゃあ今からチューニングの時間まで、音出し開始」

 場内の音出しスペースへと移動した曲北の一同は、ちなつの号令に従って一斉に各々の楽器を慣らし始める。真由も軽く唇を動かし準備運動をしてからマウスピースを楽器に差し込み、本日最初のひと息を吹き込んだ。薄曇りの空へと送るB♭(ベー)の音。楽器や自分の調子に問題が無いことを一つずつ確認しながらB♭(ベー)から(ツェー)(ツェー)から(デー)……と順々に鳴らしていく。その後もタンギング、スケール、指回しなど普段通りの基礎練メニューを一通りこなし終える頃には、ご自慢のユーフォもすっかり温まっていた。

「じゃあそろそろ時間なんで、チューニング室に移動します」

 会場の外から再び会場の中へ。目まぐるしく移動を繰り返すうち、真由はなんだか時間の感覚がおかしくなってしまったような錯覚に襲われる。あるいはそれだけ自分が心の平静を欠いているということなのか。先へ先へとどんどんコマ飛びしてゆく景色の数々。本番の最中にはそうはならないで欲しい。せっかくの楽しい時間を矢継ぎ早に過ごして終えてしまうのは、勿体ないことだから。

 ひとつ前の団体が扉の奥でチューニングしている間、真由はゆっくりと深く息を吸い、そしてひと吹きに吐き切る。それは緊張を殺し集中を取り戻すためのルーティーン。しとり、と落ち着きの気配が体に宿るのを感じ取ったのとほぼ同時に、目の前の扉が開け放たれる。

「お待たせしました。大曲北中学校の皆さん、チューニングのお時間です」

 ドア係の女子がそう告げたのを合図に、部員たちは一斉に室内へとなだれ込んだ。なにせ百人超の大所帯、それなりの大きさがあるこのチューニング室であっても、全員を収容するとなるとほとんど寿司詰めの様相となってしまう。そんな中でも部員たちはチューナーを貸し借りしながら器用に調律を進めてゆき、入室から五分と立たぬ内に全体での音合わせもしっかり完了させてしまった。こういうところはさすが経験豊富な曲北、とでも言うべき手際の良さだ。

「さて、んだば残りの時間は恒例の永田演説となるわけですけども」

 などとおどけつつ部員たちの前へ登壇した永田は、本日も大会用衣装である漆黒のタキシードをびしりと着込んでいる。さまになっているのは認めるが、欲を言えば微かに見える無精ひげがやや減点要素、といったところか。こういう時くらいしっかり剃れば良いのに。内心そう思いつつ、真由は直立の姿勢で永田を注視する。

「前に言ったことあるか分かんねえけども、実はわたくし永田、こう見えて皆さんと同じ曲北吹部の出身です」

 永田がそう宣言すると、軽く一拍を置いてから、ええ?! と驚嘆の声が全員から飛び出す。

「当たり前の話、在籍してたのはもう何十年も前だどもな。その頃の曲北はまだ古っしい旧校舎でよお。部員も今なんかよりずっと少ねくて、俺らはくたびれた備品の楽器で毎日練習してました」

「いや、その話、私ですら初耳なんですけど。先生が曲北のOBだったってことも含めて」

 未だ顔をひきつらせたままのちなつに、肝抜かしたべ、と永田は底意地の悪そうな笑顔を浮かべた。

「その頃の顧問は伊藤(いとう)辰伸(たつのぶ)という先生で、俺なんかより何倍もおっかねくて、まンず厳しい先生でした。練習に身ぃ入ってねえと必ず見抜かれるし、ちょーっとミスっただけでもすぐ『何やってらのやソゴォー!!』って叱られ(ごしゃがれ)てよお。んだども面白えとこもあって、不思議な魅力のある先生でな。俺ら部員はみんな先生さ懐いてらった」

 その頃を思い返しているのだろう。永田は遠くを見るときのように、その双眸をすがめた。

「んで俺らが三年になったその年、曲北吹部は創立以来初めてマーチングで東北突破、ほんで全国大会に出場しました。それがすんげえ嬉しくてな、感動して興奮しまくって。全国での結果は大したことねがったども、帰りのバスん中でみんなして感極まって、先生と一緒んなってわんわん泣いてよお。思えばそん時だな、俺も辰伸先生みてえな指導者になりてえ! って思うようになって、それからは音楽教師、吹部顧問になることを目指して、昼も夜も勉強漬けのそりゃあもう勤勉な学生生活を送ったもんです」

 そこはさすがに少しばかり誇張が過ぎるのでは。などと思った部員たちの含み笑いが、そこかしこから漏れ出る。

「それから何年か経って、念願叶って教職に就くことが決まって、俺はイの一番で辰伸先生のところさ挨拶しに行きました。先生みてえな指導がしたくて俺も教師になったんだ、見ててけれよ先生、ってな。そん時に先輩教師のアドバイスとして辰伸先生から頂戴した言葉を、俺は今でも時々思い出すことがあります」

 と、言葉を切った永田が一つ息を吸い、それから妙にいかめしい表情を形作る。それが「辰伸先生」とやらの形相を真似ているらしきことに真由が思い至ったのは、寸秒の後のことだ。

「いいか栄信。教師って職業はな、生徒さ教え(おへ)るのが仕事でねえ。生徒から教わって、生徒と一緒になって伸びていくのが俺達(おらだ)の仕事だ。どこまで行ってもそれさえ忘れねえでれば、オメエだばいつかきっと立派な教師になれる。そうなったら、また俺んトコさ挨拶に来い。――それが先生からのアドバイスでした」

 するりと元の表情を取り戻し、永田は部員たちを見渡した。一人ひとりにしっかりと注がれたその視線には、慈愛と感謝、あるいは敬意や憧憬、そうした類の念を織り交ぜたような感情が、ふんだんに込められていた。

「実を言うとな、今年辺りまた辰伸先生のトコさ挨拶しに行くべか、って考えてたところだった。見たか先生、俺も先生みでンた教師に成れたど! って言うために。全国三連覇っちゅう結果出して、最高の音楽を作ったっていう自負もあったしな。あんだけお前方(めがた)さは『目標と目的を履き違えるなよ』『結果より大事なものがあんだがらな』なーんて偉そうなこと言ってたクセによ」

 それは決して、永田の示威意識や承認欲求といった心理を満たすためだけでは無かった筈だ。憧れる恩師の手によって育てられ、恩師と同じ道を歩み、結果見事に大成した。そういう自分の姿を見せることで彼は、恩師を喜ばせてあげたかったに違いない。

「先生……」

 気遣うように口を開きかけるちなつを、いいんだ、と永田は手で制する。

「まあ、要はそんだけ俺が未熟者だったってことです。結果に引っ張られて、俺ん中のどっかさ慢心みでンたモンがあったんだかもな、と今では思います。こんな体たらくで、もしも得意な顔して挨拶になんか行った日にゃあ、きっと先生に手一杯叱られ(ごしゃがれ)てらったべな。そンたもんで鼻(たげ)ぐすんな、イチから出直して来い! ってよ」

 永田は口を真一文字に結び、湧き上がる苦みを噛み締めるように沈黙した。心の恩師。その厳しさと愛の深さは永田の中で、今も当時のままに息づいているのだろう。受けた指導と鞭撻を、彼自身が忘れずにいる限り。

「それを教えてくれたのが、今ここにいるみんなです。顧問として教師として情けねえと猛省する一方で、俺は心の底からお前方(めがた)さ『ありがとう』って言いたい。今日はそのみんなに、そしてみんなの演技演奏を観てくれる会場中の人たちに、今まで積み上げてきた全部を最大限楽しんで欲しいと思ってます。目標も目的も結果も何もかも全部忘れて、今日はみんなの音楽をありのまま、ステージの上で思いっ切り(おもっきし)爆発させましょう」

「はい!」

「ほんでは以上を持ちまして、年寄りのしょっぺえ話を終わります。ご清聴ありがとございました」

 最後もまたおどけるそぶりと共に話を締めた永田に、ぱちぱち、とちなつが拍手を送る。その輪は次第に広がり、やがては部員たちのほぼ全員が惜しみなく手を叩いた。真由から見える範囲において拍手をしなかったのは水月と雅人、この二人だけだ。まあ、この二人はこういう人間なのだし仕方ない。真由はこっそり呆れ笑いをこぼす。

「時間です」

 チューニングの終了を報せるドア係の一声。へば行こうか、と動き出した永田の後に続き、部員たちはぞろぞろと列を成して、開かれた扉の外側へと歩んでいった。

 

 

 メインアリーナへと続く長い通路。本番直前の待機位置であるここは、コンクールのホールで言えばちょうど舞台袖に当たる場所であり空間だ。そのすぐ先では前の団体が今まさに演技演奏を行っている真っ最中であり、それも間もなくフィニッシュを迎える頃合いとなっていた。

「やっべ、今頃んなって緊張してきた」

「そういう時は、手のひらに『人』って書いて呑み込めばいいらしいで」

「バガ。効くわけねえべ、そんな迷信」

「それより深呼吸だ深呼吸。ほらアタシと一緒に、すー、はー、って」

 そんな小声がそこかしこから聞こえる中、真由はそれらとは対照的に落ち着きを取り戻していた。というよりも、本番が近付くにつれてわくわくする気持ちの方が勝ってきた、というべきなのかも知れない。やっと全てが揃った。やっとこの時が来た。早く。一刻も早く。そんな気持ちが次第に色濃くなっていくのを鋭敏に感じ取りながら、真由はただ静かに待機を続ける。

 部員全員が一人も欠けることなく、本番の舞台に上がる。

 きちんと練習を重ね仕上げた万全のコンディションで、演奏に臨める。

 最高峰の舞台で、最高のメンバーと最高の演奏を思う存分楽しめる。

 それらは真由が曲北吹部に入部して以来、一つとして得られなかったものばかりだった。そしてその度に少しずつ、求める気持ちを強めてきたものだった。今ようやく、全てが叶う。これからのたった数分間で、それら全てを味わい尽くすことになる。ついさっきまでぼんやりとしていたこの内なる思いも、今ならキッパリ断言できる。これは『期待』だ。永らく求め続けていたものを遂にこの手にする、その瞬間が来ることへの。

「どうしたの、真由ちゃん」

 小さく握りこぶしを構える真由に気が付いてか、すぐ隣にいた水月が小声で尋ねてきた。

「いつになく固くなってる感じだけど。ひょっとして緊張でもしてる?」

「ううん、緊張じゃないの。とうとう来たんだ、って思って」

 ふるふると首を振った真由に、水月は笑顔を保ったままでスンと小さく鼻を鳴らす。

「それは皆で揃って全国のステージに、ってこと? それとも真由ちゃんの言う、最高の演奏を楽しめる場に?」

「どっちだろ。自分でも良く分からないけど」

 胸に手を添え、真由はそっと目を瞑る。どっちなのか、あるいはそれ以外の何かなのか。混ぜた絵の具みたいになっているこの気持ちを、今は正確に切り分けることは難しい。

「でもここまで来た以上、思いっきり楽しみたいって気持ちではいる、かな」

「ふうん」

「そういう水月ちゃんは?」

「私?」

 今さら何を訊くつもりなのか、と言いたげに、水月は横髪を指でくるくるといじってみせる。

「こうやって本番の舞台を前にして緊張したり意気込んだりするか、って話なら、そういうのは特に無いよ。私にとっての本番はいつもの練習と同じ。ただ吹くべきを吹く、それだけだから」

「それはそれで何て言うか、肝が据わってるって感じだね」

「誰かや何かのためにやってることじゃないからね。結果や見返りを期待してないし、場所が変わったぐらいでいちいち緊張したりもしない。だったら後に残るのは、吹きたいように吹くっていう気持ちだけ。そう思わない?」

 こう述べた水月には、どうやら嘘の念など無いらしい。平静さに満ちた表情。震えの一つも見せない手指。どこを取っても彼女はいつも通りの長澤水月、そのものだ。

「そう言われるとなんだか、そういう姿勢で臨んだ方がいいかもって気がしてくるね」

「やろうと思ってするようなことでも無いとは思うけど」

「どうかな。良く言うでしょ、練習は本番のように、本番は練習のように。って」

「私のとはちょっと違うんじゃない? ソレ」

「でもどっちも一回一回、演奏の機会を大切に、って意味では同じだよ。心構えとしてはすごく理想的だと思う」

「まあ真由ちゃんがそう思う分にはご自由に、だけどね」

 何やら含みのある言い方をして、水月はひらひらと片手を振った。彼女の言いたいことはもちろん真由にだって分かっている。水月の音楽はあくまで彼女の為だけのもの。それは真由の音楽観とは必ずしも一致するものではない。けれど『自分の為に音楽をする』という部分は、真由の中にも少なからずある。その気持ちは顔も知らぬ誰かの為、ゆかりも無い何かの為、などといったふわふわしたものよりも、なお強く。

「だから今回は私、水月ちゃんにあやかってみる。誰よりも自分自身がたくさん音楽を、演奏を楽しめるように」

「そう」

 意気込む真由に水月はそっけない返事を寄越した。そして僅かな沈黙のあとで、

「じゃあ私も今回だけ、特別に」

 何? と小首を傾げる真由に、水月は咲き誇る花のような笑顔を向けた。

「自分の為だけじゃなくて、真由ちゃんの為に吹いてあげる。ほんのちょっとだけね」

「水月ちゃん」

 二人はしばし顔を見合わせ、こくりと頷き合った。とその時、通路の向こうで盛大な拍手が鳴り響く。どうやら前の団体が演技演奏を終えたようだ。人と物が動く音。それらが鎮まる気配。いったん掃けたフロアへ次に乗るのは、いよいよ自分たちだ。

「さあ、行くべ」

「ちょい待ちちなつ。本番前の掛け声とかしなくていいの? こうなんか、曲北ファイトー! とか、We are(ウィー アー) 曲北! みたいなさ」

 この土壇場で日向が最前列のちなつを呼び止める。それに対し、別にいいよ、とちなつは首を振った。

「そんなことしなくたって、私らは私ら一人ひとりの音楽を思いっ切りぶつけりゃいい。そしたらきっと、『聴く人の心を大きく揺さぶる』っていうパフォーマンスができる。もし出来なかったとしたって、それはそれでいい。みんなが後悔なく全力で楽しみ切ったって気持ちにさえなれれば、それが私らにとって何より最高の結果だよ。ね、みんな?」

「はい!」

 待機通路を揺るがす総勢百三十七名の返事。それでもう十分だった。こうしている今も、個々にはそれぞれの思惑があるのだろう。意識や感情を向ける対象もきっとばらばらだ。でも、それで良い。何もかもが一つにならなくたって良い。各々の求めるところを達成するために、全員が力を合わせて一つのことに取り組む。それはただそれだけで、ほんのちょっとした奇跡みたいなものなのだから。

 先を行くちなつと和香に導かれるようにして、真由たちは暗い通路から眩いステージへと足を踏み出した。途端、視界に飛び込んでくる圧倒的なほどの観衆、観衆、大観衆。二階席の隅々まで満場の人々によって埋め尽くされた今回のステージは、真由がこれまで踏んできた数々の舞台の中でも空間規模、収容人数、共に間違いなく最大級のものだった。

「待ってたぞー曲北ー!」

「今年も最高のパフォーマンス頼むぞー」

 こぼれ出す歓声の幾つかは、曲北の父兄たちの声援かも知れない。あるいは純粋に曲北の名演に期待を寄せるファンのものだろうか。いずれにしても、気後れするようなことはこれっぽっちも無かった。ユーフォを構えて意気揚々と足を運び、真由はピタリと所定の場所へ着く。

「続いての団体は東北代表、秋田県大仙市立、大曲北中学校吹奏楽部の皆さんです」

 アナウンスの声が高々と場内に響く中、メンバー全員が配置に着いたことをドラムメジャーの和香と永田が頷きで確認し合う。シンと鎮まる場。今からたった数分間の演技演奏は、このメンバーで行う最初で最後のものとなる。その刹那たりとも、悔いの残るものには決してしない。そう願う部員たちは一人残らず、これから迎える始まりの一瞬に向けて極限の集中を保っていた。彼らを一望してにっこりと笑みを浮かべた永田が両手を高く上げ、二拍を空振った後に大きく振り下ろす。

 轟雷のごとき銅鑼(タムタム)の大音声。ひょろりと舞い上がり舞い下りるピッコロとフルートの音色が、続けて和音階のメロディーを紡ぎ始める。大小の太鼓群が複雑怪奇なリズムを刻む中、楽隊は四方に散らばり入り乱れ、まさしく混沌と形容するにふさわしい無規則な行進をひたひたと繰り返した。勿論これは予め練られた通りの動きであり、一見して無軌道なようであっても全ては計算し尽くされたものだ。やがて黎明を迎えるように金管が音を重ねるに連れ、バラバラだった人の波が徐々に何らかの形を取ってゆく。それは全員で描き出す、太陽とも向日葵とも取れる大輪の姿。オープニングを飾るこの場面を大人数での総奏が華々しく盛り上げたことで、会場からは最初の大喝采が沸き上がった。

 (いい)(じま)(ただ)(とし)作曲、『天地開けし時 ~神と人と、言祝ぎの詩』。今年永田が選んだこの曲は、先述の冒頭部から終わりまで一貫して和の曲調で構成されており、全編を通じて華やぎとあでやかさに満ち満ちている。それはあたかも春に芽吹く桜のように。夏の夜空を彩る花火のように。秋の閑寂に映える紅葉のように。冬に大地を覆う白雪のように。移ろう四季のイメージを顕わす変幻自在のメロディに合わせて一糸乱れぬムーブを繰り出し続けるメンバーたちは、互いの位置を目印にしながら複雑な図形を体現していく。前へ後ろへ。右へ左へ。ステージをまるごと一つのキャンバスに見立て、刻々と遷移するフォーメーションによって砂絵のごとく万化する像の数々。その一つひとつの場面に観衆は興奮の声を上げ、また感嘆の吐息を漏らし、諸手を挙げて応えてくれた。

 スネアの軽快な音に合わせ、一群となっていた楽隊が二つに、二つが四つに、と分散を始める。サックスの情緒豊かな旋律に乗ってクラリネット部隊は二人一組で円を描きながら前に進み、それが聴衆の耳目を集めた隙にトランペットの一団が中央へ並び、波を切り裂くようにベルから甲高い音を響かせる。彼らを起点として他の楽器たちは鈴生りに後を追い、ステージの手前側で折り返して再び奥側へと後退した。ラインを崩さぬように感覚を研ぎ澄ましつつも、演奏が疎かにならないように。注意すべきポイントを頭の中で復唱しながら、真由もまた正面を向いたままで一歩ずつ、足を後方へ運んでいく。

 完璧なる精度でバックムーブを終えた一同がその場で足を止めた時、わあ、と観客席は沸き立った。ステージ手前へ向けて大きく裾野を広げる山、それは日本一の象徴たる富士のかたち。部員たちの整列によって生み出されたその描線の間隙を縫い、雲に見立てた長い旗を手にしたガード部隊がフロア中をところ狭しと駆け巡る。この場面に合わせてセンターボックス、すなわち正面観客席のど真ん中に向かって放つ、金管全軍の重厚なサウンド。それらはアリーナを地面から揺さぶる強烈な響きで観衆を圧倒した後、次の場面に向けて速やかに音量を絞り込まれていった。

 木管によって滔々と紡がれる幻惑のメロディ。その只中に、トロンボーンの雅人とユーフォのちなつがしずしずと歩み出る。曲北金管、エース二人による渾身の独奏。ゆらりと伸びたトロンボーンのスライドが前後する度、そこからは柔らかくも昏い音がぽろぽろとこぼれ、それに呼応するかのように奏でられたユーフォの調べは嘆きの色を帯びていた。と、彼らの前にピッコロやクラリネット、それとバッテリーによる小気味良い律動がひらりひらりと舞うように躍り出る。仄かに明るみを帯びるソリスト二人の音色。一転、周囲の楽器たちも息を吹き返し、続々と音量を上げてゆく。地鳴りと見紛うばかりに打ち鳴らされたパーカッションのクレッシェンドが最高潮に達したとき、トランペットとホルンの力強いファンファーレが場を席巻した。闇が明けるのを待ちわびていたかのように、トロンボーンとユーフォの各隊は勢いよく前面へ飛び出す。それを合図に総員が渦を巻き、そこから列をなし、全員が勢揃いして前進を開始する。

 華美を最大限に強調したメロディが花吹雪のように、場内を鮮やかに舞う。活き活きと動く部員たちの表情は朝露をまとった若草を思わせる瑞々しさを帯び、とめどなく流れ続けるその足並みが大河のうねりとなって、ステージ上を駆け巡る。生命の躍動と喜び。それを音で体で、持てる全てを尽くして表現しようとする部員たちは、この時確かに一つに溶け合っていた。それが真由の心を強く打つ。とくとくと速まる胸の律動に全身を焦がされ、あるいは自ら生み出す熱に脳天まで浮かされつつも、日々の練習で徹底的に刷り込まれた動作は絶えず無意識のうちに繰り出されていく。すぐ隣で鳴らされるちなつの力強い音色。反対側で奏でられる水月の優雅な音色。そのちょうど中間に自分がいる。それが嬉しくてたまらない。楽しくて仕方ない。と同時に、こうも思ってしまう。終わりたくない、と。

 曲もいよいよ終盤を迎え、楽隊は俄かに加速を始めた。それまでより倍近く速いテンポであっても、人同士の間隔はほんの少しも乱れてはならない。それには一人ひとりの歩幅や楽器ごとの形状の違いを把握すること、数え切れないほどの反復練習で体に刻み込ませた距離感覚に従うこと、そして何より、全員が互いの動きを信頼することが必要不可欠である。滑らかに淀みなく。そうやって曲線状に行進する部員たちが縦に横にと重なってゆき、やがて鳳凰の形を取って大きく両翼を広げた時、場内の興奮はピークを迎えた。ここを過ぎれば曲もまた徐々に、けれど確実に、終止(フィーネ)へと近付く。

 ああ、もうすぐ終わるんだ。その切ない実感が真由の脳裏にひしめく。こんな経験をすることが、これからの人生に何度あるのだろう。いや、そうじゃない。何度だって味わえばいい。そうなるように。そうあるように。他ならぬ自分自身が選ぶことをやめさえしなければ、楽しくありたいと願い続ければ、この瞬間はいつかまた必ず訪れる。全開の演奏をこなしながらもそんなことを思えるだけの心の余裕が、何故かこの時の真由にはあった。十字に交錯してからの二百七十度ターン、次の一歩を折り返して逆二百七十度ターン。その両方を華麗に決め、最後は全員がステージの中央へと結集し、仰角を揃えたベルアップを決めて、会場全体にこれでもかとクライマックスの大音声を浴びせてゆく。その場でステップを刻みながらユーフォへありったけの息を吹き込み、気の遠くなるほど長いフェルマータを突き抜けて。最後の一音、永田の指揮と和香のバトン、そして百三十七名の音はその一点に集約した。

 はあ、と一息ついた真由の意識が次に捉えたのは、会場を余すところなく包む拍手と喝采。歓喜の声。熱狂と興奮。感動の嵐。自分たち曲北が、いや一人ひとりが追い求めてきたものは、果たしてこれだったのだろうか。答えは各々の中にしかない。けれど眼前に広がるこの光景を見て真由は思う。自分たちの想い。それはきっと、この人たちに伝わったのだと。

 

 

 

 本番での演技演奏と、表彰式の場で告げられた本大会の結果。

 それを物語るのは賞の色やトロフィーの大きさなどではなく、本番終了後の記念撮影に並んだ部員たちの晴れやかな表情と、それを撮った真由の手元と心に残る、思い出の写し絵たちだった。

 ちなつ。日向。雄悦。和香。ゆり。楓。杏。奈央。玲亜。泰司。雅人。永田。名を挙げ切れぬほどたくさんの部員たち。そして、真由と水月。

 時おり涙を交えつつも、最後はみんなが笑顔でいる。それは彼らにとって他のどんなことよりも意味のある、宝物とさえ断言できる、最高の結果そのものだった。

 

 

 

 

「ああ真由。そのな、ちょっと話があるんだが」

 その日の夕食時、真面目な顔をした父がこんなふうに話を切り出した。あれから月日は流れ、堆く積もった雪に押し潰されそうだった秋田の冬もようやく終わりを迎えようとしている。ついこの間には三年生の卒業式も無事終わり、来たる新年度に向けて曲北吹部が新たに打ち立てた方針のもと活動を始めようとしていた、その矢先でもあった。

 父と母、二人の表情と気配。それを見て察せぬほど、自分のことを鈍いとは思っていない。というよりは、こういう状況を何度も踏まえてきたが故にイヤでも分かってしまう、と言った方がより正確だろう。ごめんねみんな。そう心の中で呟いて、真由は父と母に尋ねた。

「いいよ。――次は、どこ?」

 

 

 

「北海道?!」

 真っ先に仰天の声を上げたのは泰司だった。他の部員たちも唖然としたように口を開け、あるいは受けた衝撃の大きさに血相を変えている。彼らの顔を見渡しながら、真由は自分の口でしっかりと、その事実を告げた。

「はい、父の転勤で。なので修了式を最後にみんなとはお別れになります。一年間という短い間でしたが、みんなといっしょに音楽をすることが出来て、とっても充実した毎日を過ごすことが出来ました。今まで本当に、ありがとうございました」

 ぺこり、と真由がお辞儀をした後もしばらくの間、音楽室はざわつきが止まなかった。そんなー。いくら何でも急すぎ。黒江さんいなくなったらどうなんの。そんな声が少なからず漏れ聞こえたことに、真由は寂しさと申し訳なさの間にほんのちょっとだけ嬉しさを見出してしまう。別れを惜しんでくれる程度には、自分という存在は彼らに受け入れて貰えていたのだ、と。

「残念なことだけどもな。仲間が一人、せっかく部に馴染んできたところでいなくなっちまう、っつうのは」

 指揮台に座った永田がぼりぼりと頭を掻く。今朝がた職員室でこの件を伝えた時も、永田は「そうか」とだけ呟いた後、何かを考え込むように黙り込んでいた。

「修了式までってことは、あと一週間ぐれえか」

「はい。父の仕事の都合上、今月末までには向こうに行かないといけないらしくて。引っ越しの準備もしないとなので、部に出られるのはそれまでになります」

「家庭の事情だからな、それはしょうがねえ。とにかくそういうわけだ。みんなも急な話でびっくりしたべども、黒江を気持ちよく送り出してあげましょう」

 はい、と返事をした部員たちも、この時ばかりはいつもの元気を失っているみたいだった。壇を降りてパートの輪に戻った真由を、早速とばかり「真由ちゃん!」「先輩!」と、パート員たちが取り囲む。

「ごめんねみんな、驚かせちゃって」

「驚いたなんてモンでねえっすよ。せっかく先輩と仲良くなれたのに」

「あたし、真由ちゃんが居てくれるからパーリー引き受けたんだよ。それなのにこんなことになるなんて、あたしこれから何とせば良いの」

「いや、オメエの都合はどーでもいいべ。んだども残念だな、真由ちゃんとだったら来年も絶対良い音楽できる、って思ってたのにさ」

「黒江先輩、行かないで下さい!」

「ハッ、そうだ。黒江さんが誰かの家に下宿すれば転校を回避できるのでは?」

「無理だべそれは、常識的に考えて」

 方々から投げかけられる言葉を捌き切れず、あ、えと、と真由は狼狽えるばかりだ。とその時ふと、パートの輪から少し離れたところで沈痛な面持ちをして俯く玲亜と泰司の姿が視界に入った。彼らにも一応ひと言を、と真由は人垣を抜け出し二人の傍へと向かう。

「玲亜ちゃんも石川くんも、びっくりさせちゃってごめん。そういうわけだから、私がいなくなった後の低音パート、よろしくね」

「あ。ハイ。……その、黒江先輩」

「なに?」

 玲亜の唇がわなわなと震えている。それが大きく開かれたとき、そこから出てきた言葉は予想だにしないものだった。

「すみません! こうなるって分かってたら私、あの時あんなことしてねえで、もっと先輩といっしょに吹ける方を選んでたかも知んねえのに、」

「玲亜ちゃん」

 どうやら今回の報せを聞いて改めて、玲亜は過去の自分が取った選択の重さを振り返ってしまったらしい。彼女が独立組へと加わっていた折、真由と共に吹けなかった期間はゆうに三ヵ月近くにも及んだ。いや、コンクールだ何だといった時期まで含めればもっとかも知れない。真由が過ごした一年のうち実に四分の一以上、と考えれば確かに、決して短くはない空隙の月日。でもそんなの、今さら取り返しようもないのに。そう内心では思いつつも、真由は傷心の玲亜へ努めて優しく声を掛ける。

「それはしょうがないよ。私だってつい昨日知らされたんだし、それにウチっていつもこうなの。秋からは玲亜ちゃんとも一緒にたくさん吹けて、おかげですごく楽しかった。だから玲亜ちゃんも気に病まないで」

「……はい」

 涙に濡れる目尻を拭い、玲亜は不承不承といった様子ながらも頷きを返してくれた。真由もそれを見て微笑む。そう、過去は取り返しようがない。決定してしまった事実もどうやったって覆せない。真由は思う。自分が可能な限り欲しいがままを得られるのも、それを支えてくれる親のおかげ。だからこれはその代償みたいなものなのだ。少なくとも、自分が親の庇護下にいるうちは。

「ありがとうございました黒江先輩。短い間でしたけど、本当お世話んなりました」

「いやあえっと、そういうのはまだちょっと早いから。あと一週間はここにいるし」

「わっ、そう言えばそうだったすよね。変な勘違いしちゃってすいませんっ」

 平謝りに転じた玲亜を見て、思わず真由は苦笑してしまう。この一年を通じて精神的にずいぶん成熟したと思っていたのだが、彼女のそそっかしさはまだまだ抜け切らないようだ。だが玲亜のそんなところも今は、とてつもなく愛おしいと思ってしまう。

「あ、黒江先輩、あの、あの……」

 一方、泰司はうわ言のようにぱくぱくと口を動かすばかりで、一つも言葉が出てこないらしかった。今回の急報、どうも彼には相当なショックを与えてしまったみたいだ。何だかんだで先輩が急にいなくなるというのは心細いものだろうし、それに部活云々を抜きにしても、せっかく仲良くなった人間との別離に際して寂しさを覚えるのも当然だろう。そう思って真由は真由なりに、彼の心情になるべく寄り添える言葉を選んだ。

「大丈夫。石川くん、去年入部した時と比べたら見違えるくらい上手くなってるから、春からはきっと良い先輩になれるよ。玲亜ちゃんとは同じ学年同士なんだし、もっと仲良くした方がいいかなって思うけど。努力家の石川くんならまだまだ上手くなれる筈だから、自信持ってこれからもがんばって」

「いや、あの、そうでねくて……あ、ハイ」

 玲亜のそれに比べ、泰司の返事は何だか歯切れの悪いものだった。何だろう、と小首を傾げつつも、真由はそれ以上気にしないことにする。泰司が時おり変な反応を示すのも今に始まったことではない。それに急な話で気が動転しているせいもあることだろう。きちんとした別れの挨拶は後日、双方落ち着いてからでも十分間に合う。

「それに後一週間はみんなと一緒だから。最終日まで悔いのないよう、みんなで演奏楽しもう。ね?」

 振り返った真由が問いかけると、しょぼくれていたパート員たちも諦めをつけるしかなくなったのか、おもむろに顔を上げる。

「……んだな、んだよな」

「落ち込んだって何にもならねえし、それよりだったら残った時間でいっぱい音合わせて楽しんだ方がいいでな」

「んじゃさ、修了式の日にみんなしてパーっと黒江さんのお別れ会やろ! お菓子持ち込んで飲んで騒いで、ほんで合奏して」

「あ、いいねそれ」

 え? 思いがけぬ提案に真由は目を丸くする。

「せっかくだから先輩たちにも来てもらうわ。私、日向先輩に連絡してみる」

「こうなったら吹部を挙げて盛大にやったるべ」

「吹部を挙げてって、他のパートの先輩らは何とすんの?」

「ラッパの奈央ぼうにでも言っとけば、小山先輩づてに広まるっしょ。あの人お祭り好きだし」

「お祭りってそれ、なんか真由ちゃんさ失礼でね?」

「しんみりするよりマシだべって。そうと決まれば早速オラ、永田先生さ許可貰いに行ってくる!」

「ちょ、ちょっと、みんな」

 当の本人を差し置いて、パート員たちはどんどんお別れ会とやらの計画を打ち立てていった。この行動力こそが曲北の原点、などと言えば聞こえは良いが、いざ自分のこととなるとすっかり恐縮してしまう。ありがたいような、そこまで大ごとにして欲しくないような。けれど真由が口を挟むいとまも与えられぬまま、「GO!」という掛け声と共にパートの面々は一斉に散らばっていった。

「……ありがとう」

 その一言には自ずと万感がこもった。と、ふと隣を見ると、そこにはまだ玲亜と泰司が残っていた。しまった。もう誰も残っていないと思ってうっかりしていた。慌てて真由は場を取り繕おうとする。

「え、ええと。なんだか申し訳ないね。みんなに迷惑掛けちゃって」

「そんなん気にしないで下さい。皆さんきっと先輩とちゃんとお別れしたい、っていう気持ちからのモンだと思いますし。もちろん私らだってそうです」

「うん。私も嬉しい、みんなそう思ってくれてて」

「それはきっと水月先輩だって同じだと思います。ここに居れば、の話ですけど」

「……そうだね」

 真由は玲亜と共に、パートの一角に置かれっぱなしの椅子をちらと見る。その席の主である水月。彼女はあれ以来ずっと、この部に不在のままだった。

 

 

 水月が退部届を提出したのは、全国大会を終えて秋田に戻った曲北吹部が次に活動を再開した、その日のことであった。

 家庭と進学の都合上。表向きの退部理由はそういうことらしいが、もしかしたら水月は水月なりに、部へ混乱を招いたことに責任を感じていたのかも知れない。いや、元々部の活動に興味なんか無くて、やりたい事をやり遂げて満足したから辞めるだけなのでは。そうした様々な憶測が部員たちの間で飛び交う中、真由は残念さと仕方無さのほぼ中間みたいな気持ちでもって、その報せを受け止めたのだった。

 水月が自分で決めたことなら、わたしにそれを止める権利は無い。言葉にしてしまえばひどく冷たく聞こえるけれど、そう思っているのを真由自身、否定することは出来なかった。それに、引き留めることが必ずしも彼女のため吹部のためになるとも限らない。各々の信じた道を各々の往きたいように往く。それもまた誰もが不幸にならない解決策の一つであることを、今の真由は知っている。

「けど結局その長澤さん、退部はしてねえんでしょ?」

「うん、永田先生が水月ちゃんを直接引き留めたみたい。どんな話になったのかは良く分からないけど」

 朝、いつもの通学路で久しぶりに早苗と肩を並べた道中にて、真由は彼女にその顛末を語り聞かせていた。そもそも水月の退部理由にしたって部員同士での噂話に過ぎない。真実を知るのは水月と永田、当人たちだけ。二人がどんなやり取りをしたのかさえ、蚊帳の外にいる自分たちは知り得る筈もないことである。分かっているのは水月が未だ吹部に籍を置いていること、そして今現在、彼女の取り扱いは『退部』ではなく『休部』であること。この二つだけだ。

「どうなんだろうね。部さ戻ってくる気あるんだば、たまに顔出しぐれえはすると思うんだけどな」

「そういうことは全然。どこかでばったり会ったらそれとなく聞いてみよう、って思ってたんだけど、不思議と水月ちゃんに会う機会も無くて」

「三組と八組だからなぁ。合同授業でも一緒になんねえし、こんだけ生徒数多い学校だと会わねえ時ってとことん会わねえんだよね」

「それに、こういうことになって自分から言いに行くっていうのも、なんかヘンな感じがしちゃって」

「まあ、しょうがねえんでねえの。同じ八組の子だって吹部にいるべし、それとなしに本人さも伝わるって。もしも真由ちゃんがどうしても、その長澤さんって子さ言っときてえコトがあるってんだったら、そりゃあ直接会って言った方がいいとは思うけど」

「そう、だね」

 水月に言いたいこと。改めて問われてみると特段思い浮かぶものも無い。お世話になりました。ありがとう。いい思い出だよ。そう思っているのは間違いないのだがしかし、水月相手だとどこか皮肉めいて聞こえるというか、空々しさが混じる感もある。もし目の前に水月が居たとして、彼女に何をどう言うべきなのか。離れて久しい二人の隙間が、そこに紡がれるべき言葉を見失わせている、そんなもどかしさに駆られる思いがする。それが真由が水月に直接別れを告げられずにいる原因の一つでもあった。

「にしても、せっかくいい友達が出来たと思ったのに、いなくなっちゃうんだなぁ真由ちゃん」

 あーあ、と組んだ両手を頭の上に載せながら、早苗が天を仰ぐ。ごめんね、と言いたい気持ちはあった。でも転校は自分の意思ですることじゃない。親の仕事の都合なのだから、謝ったところでどうにもならないのだ。だから真由は別の語句を選んで伝える。

「ありがとね早苗ちゃん。私のこと、転校して来てからずっと面倒見てくれて」

「いいよいいよ、そんなん。改めて言われると照れくせえし。それに真由ちゃんさ秋田のこと教えてあげんの、私も楽しかったしさ」

 カラリとした笑顔で早苗はそう告げた。それがどんなにありがたかったか、とても言葉で言い尽くせるものでは無い。転校して最初に出来た友人が誰あろう早苗であったことは、真由にとって間違いなく僥倖と呼ぶに値するものだった。

「真由ちゃんが北海道に行っても、私らずっと友達でいようね」

「もちろん。向こうで良い写真撮れたら、早苗ちゃんにも送るね」

 そんな約束を交わし、二人は微笑み合う。離別は悲しみばかりをもたらすわけじゃない。そこに自分が居たという証がこうしてまた一つ、この地に刻まれていくのだから。

 

 

 

 

 

 それからの一週間はまさしく光陰矢の如し、だった。

 修了式の後でクラスメイトたちが開いてくれた、ささやかなお別れ会。そして部活では部員たちの企画による、真由だけのための送別会。その両方で一人ひとりから温かい言葉をもらい、互いに別れを惜しみ、またの再会を誓い合い。寂しいけれど楽しいそれらのひと時は、全て余さず真由の手でファインダーに収められ、シャッター音と共にフィルムへと刻まれていった。

『で、出発っていつ? 明日にはもう発っちゃうとか?』

『三日後です。荷造りとか、まだ準備があるので』

『じゃあそん時も私ら見送りに行くよ。どうせ高校の入学式までヒマだし』

『ちなつもそんまか(そのうち)出発だけどな。どうせだば、ついでにちなつの分もやっちゃう?』

『要らねって。今回は真由が主役なんだがら、きちんと送り出してあげるべ』

 そう言ってくれたちなつ達にも感謝の念は尽きない。あの時、転校先を曲北に選んで本当に良かった。段ボールの蓋をガムテープで留めながら、真由は当時を振り返る。こんなに濃密な日々を過ごせるだなんて、転校前には思ってもみなかった。決して楽しいことばかりじゃなかったけど、たくさんの発見や気付きがここにはあった。真由自身、思い知らされたことも沢山ある。今もまだ明確な答えが出ていない問題も多い。その一つひとつが糧となるのか、無為に流れ去ってしまうのか、それはこれからの自分次第だ。

「へばお預かりします。この便の到着は明日になりますんで」

「はい、よろしくお願いします」

 荷物を満載した引っ越し業者のトラックを見送って、それから改めて、今日まで暮らした住まいをすみずみまで眺める。こっちに来た時には既に荷物の山だったおかげで、がらんどうの部屋を見るのはこれが初めてだった。こうして見ると思っていたより広い気もする。家族揃ってごはんを食べた居間。いつも母がぴかぴかに磨き上げていた台所のシンク。ちょっと作りの古いお風呂とトイレ。両親の寝室として使われていた和室。そしてこの一年、自分の部屋として最も多くの時を過ごした六帖の洋室。その一つひとつに『ありがとう』と『さよなら』を告げて回り、全てを終えて真由は玄関に立った。

「もう良いの?」

「うん」

「じゃあ行こっか。お父さんも、時間になったらあっちで待っててくれるって」

 今回も自分たちに先駆けて、父は既に現地入りしている。前回と異なるのは、先に送った荷物をほどきながら自分たちの到着を待ってくれているわけではなく、自分たちも父と一緒に現地で荷物を受け取ることになる、という点だ。それはひとえに前回と今回とで移動の手段が異なるから、ではあるのだが。

「真由が掛ける? 玄関のカギ」

 うん、と頷き、真由は母の手から銀色の鍵を受け取る。こうしてこの戸に施錠をするのもこれが最後。そのことに微かな感傷を抱きつつ、真由はドアノブに鍵を差し込み、そしてくるりと捻った。

 

 

 市内のちょうど中央。この五月に竣工する予定の白く巨大なこの建物は、地域医療の中核を成す総合病院を含む複合施設となるらしい。その敷地内にあるバスターミナルには既に、見知った顔がいくつも揃っていた。

「やっほう真由。約束通り、見送り来たよ」

「ちなつ先輩、日向先輩。ありがとうございます」

 真由は深々と頭を下げる。今日来てくれた低音パートの関係者は、直属の先輩であった彼女たちだけ。他は雄悦も含め、この場に居ない。けれど寂しいなどとは思わなかった。彼らとは先日の送別会できちんと惜別の挨拶を済ませてあったし、互いの関係性も鑑みれば、自分なんかの見送りにわざわざ面倒を掛ける方が却って忍びない。

「まだ時間少しあるんだべ。今のうちに真由は他の子とお別れ済ませなよ、私は最後でいいがらさ」

「はい、そうします」

 続けてちなつが、あの時はお世話になりまして、と母に別れの挨拶をし始める。それを真由がボーッと眺めていた折、真由ちゃん真由ちゃん、と少し離れたところで日向が手招きをした。

「何ですか?」

「まだ言ってなかったなーって思ってさ、私の進路」

「あ、そう言われれば」 

「私さ、マーチングやってる高校に行くことにしたんだよ。別に私立でも強えとこでも何でもねえけど、何つうんだろな。自分が今までちなつのために吹部に居ただけなのか、それとも実は音楽が好きだから吹部に居たのか、それをもう一度確認したくってさ。ちなつとは別々の学校になっちゃったけど、まあだからって友達じゃなくなるワケでもないしね」

 日向の表情は実に清々しかった。彼女もまた誰かや何かに依存せず、確立された自分の人生に向き合おうとしているのだろう。日向の進む道にも幸多かれ、と真由は願う。

「良いと思います。高校に行ってもがんばって下さいね、先輩」

「私がそういう気持ちになれたのも真由ちゃんのおかげ、本当に今日までありがとね。真由ちゃんも体さ気ぃ付けて、向こうでもがんばって」

 手を振る日向に迷いの色は見られない。はい、と返事をした真由に、日向はニッカリと白い歯を覗かせた。

「真由ちゃん、絶対(ぜってぇ)手紙送ってな。私も絶対(ぜってぇ)返事書くから」

「あ、奈央ちゃんずるぅ。私だってゼッタイゼッタイ真由ちゃんさ手紙書くもん」

 次に声を掛けてきたのは奈央と楓という、少々意外な組み合わせだった。同学年だし女子同士だしで確かにあり得なくもないのだけれど、それにしたって今までこの二人が交流していたことなんてあったっけ。そうと訝しむこちらの曖昧な反応を読み取ってか、「忘れちゃったの?」と楓が腰に手を当てる。

「秋の会議で私ら、それぞれ金管と木管の意見窓口係になったじゃん。去年までの反省から、もっと部員たちの声を聞いて幹部や先生に伝えるっていう」

「ああ、そう言えば」

「それで私と奈央ちゃん、ときどき行き会って情報交換したりしてんの。まあ話してる内容はそれだけじゃねえんだけどね」

「そうそう」

 と、奈央が楓の肩越しにずずいと身を乗り出してきた。

「楓ちゃんから聞いたよ、真由ちゃんの活躍ぶり」

「え。活躍って、そんな」

「私も奈央ちゃんから色々聞かされてビックリしたよ。さっすが真由ちゃん! って」

「もう、そんなこと無いから」

 二人が褒め殺してくるせいで、真由はすっかりしどろもどろになってしまう。この期に及んでもまだ、自分を良く言われることには酷い抵抗感があった。これが自分なのだからどうにもしようが無い。そんな開き直りを、半ば胸のうちに抱きながら。

「真由ちゃんは私らの恩人だからさ、なんか困ったことあったらいつでも相談して。今度は私らが真由ちゃんの力になるよ」

「じゃあ、その時が来たらよろしく」

「まっかせなさい! 私と楓ちゃんが手を組んだらもう怖いもん無しだよ、なー楓ちゃん」

「うんうん。どんな問題でもスパっと解決してみせっから、そん時ゃ()()に乗ったつもりで安心して頼ってね」

 それはそれで別の何かが怖い気がする、などとはさすがに言えなかった。じゃあね、と軽めに挨拶を交わし、それから真由はキョロキョロと辺りを眺める。残念と言うべきか当然と言うべきか、今日ここにもあの子の姿は見当たらない。このままお別れ、というのも少し寂しくはあれど、しかし彼女の気持ちを尊重するならこれまた仕方の無いことだ。

「どしたの真由ちん、なんか探し物?」

「あ、いえ、別にそういうわけでは」

「ひょっとしてぇ、アタシのこと探しててくれたとか?」

「先輩のことじゃなくて――ってうわ、杏先輩!?」

 一歩後ずさりして真由はおののく。視界の高さから一段下のところでは、ぴこぴこと杏の頭頂部が上下に動いていた。ついさっきまではそこに居ないと思っていたのだが、いつの間に。すぐ詫びを入れた真由に「気にしてないよ」と、杏は平手をぷるぷる翻す。

「さすがに今日が最後だかんね。真由ちんとは(しとね)を共にした仲のワケだし、ちゃんと見送ったげなきゃーって思って」

「ヘンな言い方しないで下さい。別にそういうことがあったわけじゃないですし、」

「ふぅぅん? 『そういうこと』がどういうコトだか、真由ちん知ってるんだぁ?」

 杏に鋭く突っ込まれ、は、いやそれは、と真由の顔は茹でだこみたいに火照ってしまう。その反応を見て杏はケタケタと笑い転げた。

「ジョークジョーク。実は預かりものがあってさ。真由ちんに渡してくれ、って」

「私に、ですか?」

「ほい、確かに渡したよ。返事は本人に直接してね」

 杏が取り出したのは小さな封筒、と思しき紙製の包みだった。気持ちを落ち着かせつつ包みを受け取り、真由はぺらぺらと裏表をひっくり返してみる。差出人の名や誰宛てのものか等は一切書かれていない。ただの折り紙、と言われれば信じてしまいそうなほど、それは素っ気も何もない装丁だった。

「誰からですか?」

「開けてみりゃ分かるってさ。ここでってのも何だから、後で移動中の暇つぶし代わりに開けてみなよ」

 杏にお使いを頼めるような人物。しばし考えてみたものの、心当たりはサッパリ無かった。そもそも中身が何なのかも分からない。ただこの異常な軽さからして、お菓子や小物の類でないことは明白だ。杏に言われた通り後で開いてみることにして、真由は包みをスカートのポケットにしまい込む。

「あー、慣れないお使いしたから肩凝った肩凝った。奈央ちーん、ちょっとマッサージして」

「はいッス! うわ先輩、思ったよりも凝ってるッスね。疲れ溜まってんスか?」

「そりゃもう当ったり前よー、なんたってアタシ、気遣いのできるオトナの女だもんね。あーそこそこ、もちっと強めにグイグイやっちゃって」

 杏の要求に応じて飛んできた奈央が、甲斐甲斐しくも先輩の肩をもみもみしてあげている。何だかんだでこの二人が良好な関係を保っているのも微笑ましいことだ。などと思って杏たちを眺めていると、そうだ忘れてた、と楓が突然声を張った。

「私もお姉ちゃんから伝言頼まれてた。真由ちゃんに」

「ゆり先輩から?」

「うん。お姉ちゃん、お別れが辛くなるから見送りには来ないって。でも真由ちゃんのことはずっと忘れないでいるから、いつかまた秋田に来ることがあったらいつでも会いに来てけれ、ってさ」

「そうなんだ」

 真由はついつい苦笑してしまう。寂しさも無くは無いけれど、本人が直接言いに来ないあたりがどうにもゆりらしい。

「じゃあ私からも。その日を楽しみにしてます。今までたくさんのお気遣い、本当にありがとうございました。――って、ゆり先輩にお願い」

「分かった。帰ったらお姉ちゃんに伝えとくね」

 えへ、とはにかんだ楓の柔らかい表情は、秋山姉妹の現在を何よりも雄弁に物語っていた。ゆりと楓。二人はこれからも支え合い想い合い、時にはぶつかり合ったりもして、姉妹としての関係を保ち続けてゆくことだろう。きょうだいとはそういうものなのだ。一人っ子の真由にそれを教えてくれたのは、他ならぬ彼女たちである。

「ところで真由、バスの時間ってそろそろ?」

「ええと、あと十分くらい、です」

 ちなつに問われ、真由は壁の時計で再確認をした。今回の引っ越し、移住先である北海道へは空路を用いての移動となる。空港までのバスの乗車時間等を含めれば、移動に掛かる時間は三時間とちょっと。そこだけ見れば短い旅路に思えるが、物理的な距離では概ね四百キロ超の大移動だ。大人ならばまだしも、学生の身である自分たちにとっては途方もない隔たりと言えよう。

「じゃ、トリは私がいただいちゃっていいかな。私もみんなと大体同じことしか言えねえけど」

 周囲を見回し、オホン、とちなつが咳払いをする。トリなどと冗談めかしてはいるけれど、きっと彼女は最後まで部長らしく皆に遠慮していたのだろう。と言っても、今のちなつは『元』部長なのだけれど。

「ありがとう真由、曲北に、ウチらのとこに来てくれて」

 ちなつからの別れの言葉はまず、手放しの感謝を真由に告げるところから始まった。

「真由が来てくれてから毎日がすっげえ楽しかった。真由がいてくれたおかげで、私ら本当にいろんなものを貰えたと思う。そのおかげで私も他のみんなも今ここにこうやって居られる、ってぐらいに。おまけに、マーチング全国四連覇、っていう最高の思い出まで付けてもらってさ」

「そんな。私の方こそ、皆さんにお世話になりっぱなしで」

「今日ぐらいは謙遜ナシで素直に受け取りなって。私さ、ホントに感謝してる。真由がいなかったら私、ずっと自分を騙したまんまだった。それは他のみんなだってきっとそう。真由がここに来てくれたから、ここに居てくれたから、私らはみんな自分と向き合えるようになったんだよ。だから本音言うと、真由がここからいなくなっちゃうのはすげえ寂しい。例え通う学校が違ったって、すぐ傍にいりゃあ会いたい時にいつでも会いに行けんのに、ってさ」

 ぐすん、と鼻をすすったのは誰だったのか。ちなつの顔もまた笑顔と泣き顔のちょうど中間にあるような、えもいわれぬ形を取り始めていた。

「でも、真由が居たことは私らみんなの中にしっかり刻まれてる。真由が居てくれたことを、真由と過ごした毎日を、私らは絶対忘れやしない。そうしたら離れてたって、何も関係無いんだよね。だから真由にも覚えてて欲しい。ここに私らが、曲北のみんなが居たってことを」

「はい。ぜったい、忘れません」

「そんでまたいつか、どっかで会おう。音楽を楽しむ者同士として、それにふさわしい最高の場所でさ」

 約束。その言葉と共にちなつが差し伸べた手を、真由は固く握り返した。そのぬくもりから離れる時、耐えがたいほど狂おしい感情が胸に押し寄せる。それはちなつも同じだったのだろう。彼女の目尻から大粒の涙がぽろりと溢れるのを、ほんのり滲む視界の中央で、真由は確かに捉えた。

「あー、それにしたってウチの男子どもは一人も来てねえのかよ。ったく、甲斐性無し共め」

 ぼやくフリをしながら、ちなつはプイと顔を背けた。その顔を見た日向は一瞬目を見開き、それからちなつのことを、どこまでも優しく温かいまなざしで見守っていた。

「あ、来た」

 向こうを眺めていた杏がぽつりと呟く。男子が? と皆が一斉に目を向けたその先からは、赤い塗装を施されたバスが一台、のろのろと徐行運転でこちらへと向かって来ていた。定刻通り、間違いない。もうすぐ自分は母と一緒にあのバスに乗って、一年間暮らしたこの地を、大曲を離れることとなる。

「いよいよか」

 詰まったような声色で日向が独りごちた。それを合図にしたかのようなタイミングで、真由は手荷物を詰めた鞄を肩に掛ける。中から一つ、フィルムカメラだけをそっと抜き出して。

「じゃあ最後に、みんなが揃ってるこの場面を一枚、撮ってもいいですか?」

「え? いやいいけど、真由抜きで?」

「そうですけど」

 当然とばかりにちなつへ頷きを返した真由へ、ちょい待ち、と今度は日向が絡んでくる。

「なんかヘンでね? こういうのって普通、旅立っていく人が他の誰かさ撮られるもんじゃねえの」

「いや私、自分が写真に写るのは億劫っていうか、何というか」

「最後くらい良いべった。お母さんさ撮ってもらって、あとで私らにも送ってちょうだい。それでみんなの思い出にしよ。な、ちなつ」

「んだな。ヒナにしちゃあ珍しく名案」

「一言余計だ、オノレ」

 二人が漫才を繰り広げているうちに、他の皆もぞろぞろと真由の周囲に集ってくる。えっと、あの、などと言っているうちに撮影の体勢はすっかり整ってしまい、どうにもならなくなった真由は渋々カメラを母へと託した。

「……お願い」

「はいはい。みんな準備いい? あ、端っこのあなた、もうちょっと真ん中に寄って。そうそう、いい感じ。それじゃ行くわね。はい、チーズ……」

 そんなふうに母がシャッターを切ろうとした、その瞬間。

「先輩!」

 ばん、とターミナルの戸が勢いよく開け放たれる。そこに立っていたのは荒く息をつく泰司と、遅れて彼の後ろから駆け込んできた玲亜だった。突然すぎる闖入者のお出ましに、一同は呆気に取られる。

「すいま、せん。家出るの、遅くなって、めいっぱい、走って、来ました」

 泰司が嘘を言っていないのは、彼の姿を見れば一目瞭然だ。まだ早春だというのにシャツが張り付くほどすっかり汗だくになっている。二人とも来てくれたの、とねぎらいの言葉を掛けようとした真由に、しかし玲亜はふるふると首を振った。

「二人でねくて別々です。コイツとはついさっき、そこの角でバッタリ会っただけで」

「いやいや三島ちゃん、真由ちゃんの『二人とも』ってのは、そういう意味で言ってんじゃねえと思うんだけど」

「え? ああ……ンだったんですか。私またてっきり」

 苦笑交じりに突っ込む日向の言葉も、それにあたふたとする玲亜の慌てぶりも、今の泰司にはまるで耳に入っていないみたいだった。まだ苦しそうに浅い呼吸を繰り返しながら、しかし泰司はその視線だけをガッチリと真由に固定していた。あまりの迫真ぶりと必死さに染まり切った彼の形相は、まるで怒ってすらいるようにも見える。

「えっと、大丈夫? 石川くん」

「あの、俺、どうしても黒江先輩に、伝えてえことあって。ギリギリまで、迷ってたんすけど、いま言わねえばダメだって思って、それでここに」

 おお、と後ろの一同が色めき立つ。ナニゴト? と真由は思った。

「その、こういうこと初めてで、どう言ったらいいか分かんねえんすけど、」

「うん」

「俺、俺っ、黒江先輩のこと、」

「私のこと?」

「先輩のこと、ずっと、ずっと……」

 長い沈黙。ごくり、と固唾を呑むような音が真由の後方からこぼれた。わたしのこと、ずっと、何だろう。そう思いつつ泰司のことをジッと見つめ続けていると、いよいよ顔を真っ赤にした泰司は息苦しそうに唇をぱくぱく開閉させたあと、

「……ずっと、応援してます。向こう行っても、がんばってくだ、さい」

 言いたいことがようやく言えたからなのか、泰司は全身から力が抜けたように緩慢な所作で一礼をした。ありがとう、と彼のことばを受け取った真由がふと後ろを振り返ると、真由以外のみんなは呆れたような、あるいは信じられないものを見るような冷たい目つきを泰司に注いでいる。ヘタレ、と一言述べた玲亜に珍しく噛みつこうともせず、それからも泰司はずっとうな垂れたままでいた。

「じゃあ、そこの二人もこっち来て撮っちゃいましょう。ほらほら並んで」

 状況がひと段落したと見てか、母が手早い誘導で二人を列へと加える。はいチーズ、の声と同時にぱしゃりと焚かれるカメラのフラッシュ。続けてもう一枚を撮影したところで、ロータリー状の道路を一周してきたバスはちょうど停留所に停車した。

「じゃあ皆さん、お世話になりました」

「こっちこそ」

「さよなら、なんて言わねえよ」

「また会おうね」

「ありがとな、真由ちゃん」

「今年の夏も秋田さおいでよ。みんなして遊ぼっ」

「ああ、先輩、まっ真由先輩!」

「黒江先輩、ありがとうございました」

 それぞれが別れの言葉を述べ、その全てに見送られながら母と二人、バスに乗り込む。窓の外側まで集ってくれたみんなに、真由は窓を開けて手を振ることで応えた。

「ありがとうございます。またいつか、」

「うん、またね!」

 フオン。軽やかな警笛を鳴らし、バスはゆるりと動き出した。次第に遠ざかるちなつ達の姿。それが完全に見えなくなるまでずっとずっと、真由はこの目で追い続けた。

「いい人たちだったわね、吹部のみんな」

 うん、と首肯し、座席に座り直した真由は母に預けていたカメラを受け取る。いくつもの思い出が詰まったこのカメラ。内側のフィルムが最後に宿したものは、その中でもとびきりの宝物だ。これから真由がどこへ行こうと、そこで何をしていようと、これだけはいつまでも色褪せることは無い。

「私、良かった。秋田に来て、曲北のみんなと出会えて、」

 無意識のうちにこぼれ出したその想いの吐露を、母は沈黙と柔らかな笑みでもってただ受け止めていてくれた。しばし経って後、ようやく感情が収まってきた真由はほう、と一つ息を吐く。

「ところでさっき、何か貰ってなかった? 小山さんって人から」

「あ、そう言えば」

 母に言われるまですっかり失念していた。ポケットをごそごそ探り、真由は件の紙包みを取り出す。杏から託されたそれは封筒と呼ぶにしても厳重な糊付けがされていて、光に透かして覗いても内側に別紙の影すら見えやしない。本当に中身なんてあるのだろうか。ぴりぴり、と折り目の一端から丁寧に包みを剥がしてみる。と、そこにびっしりと文字が書かれていることに気付いた真由は、引き続き慎重に糊付けを剥がしていった。

 正体はほどなくして判った。それは包みではなく、それ自体が内折りにされた、A4サイズほどの用紙を埋め尽くす手紙そのものだった。

「……拝啓、黒江真由様」

 それこそペン字の上級者みたいに均質な筆致でしたためられた、やけに流暢な定型句。それを目にした瞬間、差出人が誰なのかはすぐ思いつくことが出来た。途中で杏に盗み見されないようにとでも思ったのかも知れないが、それにしたって随分と手の込んだことをしてくれたものだ。送り主の顔と声を思い浮かべながら、真由はさっそく主文へと目を走らせる。

 

 

 

 拝啓 黒江真由様

 早春のみぎり、黒江様におかれましては益々ご健勝のことと存じます。

 さて過日、黒江様のご一家ご栄転ならびにご転校の件、人づてに知りました。黒江様とのお別れに胸が張り裂けそうな思いではございますが、本来直接ご挨拶に伺うべきところをこうしてお手紙のみで済ませる非礼、なにとぞお許しくださいませ。

 

 思えば黒江様と初めてお会いして以来、私はずっと黒江様に期待しておりました。黒江様ならばきっと、この曲北の小さな集団を変えてくれる。黒江様こそが私の望み続けていた人物である。勝手ながらそう願っておりました。それは同時に、あなたならば私の考えを、思いを理解して下さる、そういう期待でもあったことを今となっては否定できません。

 そして私の願望、あるいは狙い通り、黒江様は本当にたくさんの変化を曲北の集団にもたらしました。それは必ずしも私の理想そのものとは限りませんでしたが、そんな些事などはどうでも良いことでした。結果がどうあれ、黒江様が私の思い描いていた存在であったことには間違いありません。その点において私は私の目的と念願を果たすことが叶ったのです。けれど一つだけ、誤算もありました。

 

 覚えていますか? マーチング全国大会の会場で黒江様に、私が誰かの為、何かの為に吹くことは無い、と申し上げたことを。

 あれは本心からの言葉でした。今もその思いは失われていません。けれどあの時、あの一度だけをあなたの為に吹こう。そう思って吹いた時、どうやら私自身もまた黒江様の毒に冒されてしまったようです。

 本番が終わって喜びに打ち震えるあなたの姿を見た時、結果発表に感極まったあなたの姿を見た時、そしてあなたから直接『ありがとう』を言われた時、私はほんの少し、本当にほんの少しだけですが、誰かのために吹くのも悪くないと、そう思わされてしまいました。

 

 今はまだ自分の気持ちに整理が付かず、したがって黒江様にお会いすることはできません。ですが今しばし自分を見つめ直し、あの時感じた思いが本物であるという確信が持てた時、私はまた誰かのため何かのため、再びユーフォを吹いてみようと思います。そしてその遥か先で、いつかあなたにもう一度お目通りし今日の非礼をお詫びする機会がありますことを、今はただ願ってやみません。

 乱文乱筆失礼いたしました。新しい土地でもどうぞお体にお気を付け下さい。そして願わくば、こんな情けない人間がここに居りましたことを、どうか黒江様の心の片隅にでもお置き下されば幸いに存じます。

敬具

 

 平成二十六年三月某日  長澤水月

 

 

 追伸 この手紙は読んだらすぐに破り捨てて下さい。もし手元に残されましたら、末代まで呪います。

 

 

 

 最後の一文まで水月らしい。そう思いつつも真由は手紙を丁寧に折りたたみ、そっと懐にしまい込む。それは彼女に対する真由なりの、たった一度きりの反撃だった。

 いつの日か、何処かで水月と再会する時、その日までこの手紙は大事に取っておこう。そして時が来たら彼女にこの手紙を見せて、こう告げてやるのだ。『確かに読んだよ』と。しらばっくれさせはしない。果たしてその折、彼女はどんな顔をするだろうか。水月はどんな水月になっていることだろうか。それを見られる日が来るのが、今から楽しみでしょうがない。胸に芽生えた小さな嗜虐心にクツリと喉を震わせて、ふと真由は窓の外へと目を向ける。

「あれ、」

 県南部から日本海へ向けて流れる雄物川。その支流に当たる(たま)(がわ)を渡る大きな橋の歩道に、一人の少女が立っていた。――あれはもしかして。背格好を見てそう思いながらも迅速に、真由は手元のカメラを窓の外の少女へと向ける。

 ちょうどバスが少女の横を通り過ぎる瞬間、真由は目撃した。陽光に包まれた姫神山と広大なる川面、その二つに挟まれた天地中間の位置で、美しく輝く少女の横顔。風になびいた彼女の長く艶深い黒髪が、銀河の暗幕を広げるかのように波を描く。その瞬間ひとりでに、カシャ、と真由の指がシャッターを切った。まさにあの日、夕暮れ迫る春の公園で、あの子をぼうっと見ていた自分がそうしてしまったように。

 湧き上がる満足感に真由はこっそりとはにかむ。――今度は捉えた。構えていた手を下ろし、少し震えるその指でカメラの表面をゆっくりと撫でてみる。これはきっと、直接会いには来れなかったあの子なりの餞別だったのだ。例え向こうにそのつもりなど無かったとしても、或いは全くの別人だったとしても、だったらだったで別にいい。あれは確かに水月だったと、自分さえそう思っていられれば、それで。

「ねえ、お母さん」

「なあに?」

「次行くところも楽しいこと、いっぱいあるといいな」

 そう述べる真由の晴れやかな表情から、母も何かを感じ取ったのだろう。言祝ぐような笑みを浮かべると共に、母は言った。

「きっとあるわよ。だって真由が楽しみたいって、そう思ってるんだから」

「うん」

 ときめきに弾む胸に手を当てながら、膝の上のカメラを見つめる。これからも思い出は増え続けるだろう。そう、今のこの気持ちを、真由が忘れずにいる限り。

 

 

 

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