私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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〈2〉曲北吹部、本格始動

 一般的な話、吹奏楽部の練習は大きく三つの形態に分類される。まずはロングトーンやリップスラーといった基礎訓練を踏まえつつ、与えられた譜面を譜面通り吹けるようになる為の曲練などを行う個人練習。次に、パート単位でどこかの教室などに集まり、曲を合わせながら出来ていないところを確認していくパート練習。そしてバンド全員で曲を合わせ、指揮者との打ち合わせを踏まえながら音楽を作っていく合奏練習。この三つだ。日によってメニューや時間配分は違えど、これらを繰り返して技術を磨き曲を突き詰め、部員たちは本番の舞台に臨む。

 こうした大まかな練習のかたち、それはどこの学校でもそう大きくは変わらない。違いが出るのは量と質、つまり練習にかける時間の多寡と、練習そのものの内容だ。どんな学校であれ、生徒である以上は朝から晩まで楽器を吹いている訳にもいかない。限られた時間の中でより良い音楽を作る。その為には量と質、この二つの問題をより高い水準でクリアしていくことが求められるものである。

「チューバ全員、今のとこアタック弱い」

「はい」

「コンバスは片方遅れてる。自覚あるやつ、ちゃんと合わせれよ」

「はい」

「へば今のとこもう一回、全員で」

 パート練習の時間中、多忙かつ不在がちなパートリーダーのちなつに代わって指導を受け持っているのは、副パートリーダーの日向だ。ミスをきちんと拾い的確に修正をする彼女の指導力はなかなかに高い。それはパートの面々も既に認めているらしく、彼らは日向からの注意を素直に聞き入れすぐさま演奏へと反映させてゆく。そんな速度感で進められる曲北の練習環境に加わったばかりの真由はまだ、どうにか彼らについていくのが精いっぱいという段階である。

「ユーフォは二年二人の音がぐちゃぐちゃしてる。ちょっと一人ずつやってみるべ。まずは黒江ちゃん」

「はい」

 返事をして、真由は素早く楽器を構える。

「三、四、」

 日向の指揮に合わせ、指定された箇所を吹く。そんなに難しい譜面ではないし大筋では吹けていると思ったのだが、真由の演奏を聞き終えた日向は総譜(スコア)を眺めたままの姿勢で「うーん、」と微妙そうな唸り声を上げた。

「形は出来てるけど、音のハリが弱ええな。ボソボソ喋ってるみたいに感じる。教室ならそんな気にならねえけど、体育館のフロアで吹くときはもっと通る音出さないと、観客席の奥まで届かねえよ」

「はい」

(おん)(しょく)はキレイだから、割れねえように気ぃ付けつつもっと音の通りを意識してみて。んじゃ次、水月」

 日向への返事も無く、のそりと水月が楽器を構える。彼女のユーフォは真由のそれとは対照的な黄金色、いわゆるクリアラッカー仕上げの管体だ。少し凹みや傷みも見えるその表面を艶めかしく輝かせ、ユーフォのベルが小さく呼吸を整えるような篭り音を洩らす。

「三、四」

 さっき真由が吹き上げたところを同じように、水月のユーフォの音がなぞっていく。それから僅か数小節分を聴くうちに、気付けば真由の眉間にはしわが寄っていた。走り気味なリズム。終始上擦り加減のピッチ。どこかフタが掛かったようにくぐもっている音色。端的に言って、譜面を渡されて二日目の自分よりも、水月はずっと下手だった。スタッカートやレガート、クレッシェンドにデクレッシェンドといったアーティキュレーションの類についてもまるでデタラメなその演奏の酷さたるや、楽譜上の指示記号を守る気が全く無い、とさえ言えそうなほどだ。

「丸っきりダメ。こんなんパートでいちいちやってたら、ナンボ(どれだけ)時間あったって足んねえべ」

「すみません」

「謝んねくていいがら、一通り出来るようになるまで個人練してこい」

「はい」

 ちなつに代わってパートの出来不出来を預かる責任感ゆえなのか、練習中の日向は普段のそれと比べてかなり手厳しい。水月に対しては特にそれが顕著で、端々の口調にもずいぶんトゲが感じられる。一方の水月はツンと澄まし顔を保ったままで、日向からのきつい指摘にもまるでダメージを受けていないかのようなそぶりだった。

「他のみんなはさっきのトコからもう一回合わせるべ。大会まであんま時間ないし、集中してこう」

「はい!」

 返事をして速やかに楽器を構えつつ、真由はここから日向を越した先にある教室の戸へと寸秒意識を割く。他のパート員たちが次の一奏に向けて集中する中、黙って一人そっと教室を抜け出る水月。彼女が廊下へ出る瞬間、その手に抱えられたユーフォが鈍く冷たい紅色の輝きを放つ。燃えるような夕焼けに染められた室内と、暗い影に沈み込む廊下。二者の対比は寒気がするほど鮮やかだった。

 

 

 見学しに来た新入生たちを日向が部室へ案内している間、低音パートの練習は小休憩、ということになった。楽器を脇に置いた真由が一息ついていたところに「お疲れー黒江ちゃん」とパート員たちが声を掛けてくる。

「どうよ、我らが中島先生のレッスンは」

「ああ、はい。けっこう厳しいですけど、でもダメなところをちゃんと指摘して貰えるのでありがたいです」

「ありがたい、かぁ。さっすがって感じだな」

「さすが、って?」

「だって上手えんだもん、黒江さん」

 自分が、上手い? 思いがけず先輩からお褒めの言葉をいただけたことに、真由の心理は照れと慄きの間を行き来する。

「まだ楽譜渡されて二日目なのに、良くそんな吹けるよなー。ずっとユーフォやってたの?」

「そう、ですね。小四の時にクラブに入って、ユーフォはその頃からです」

「あー納得。いわゆるキャリア組ってやつか」

「それ、キャリアの使い方間違ってね?」

 どっ、と場の一同から溢れ出る笑声。休憩中だからというのもあるだろうが、厳しい練習の中にもこうした微笑ましいやり取りがある。その事実は真由にしてみれば、ちょっとしたカルチャーショックですらあった。ともすればそれは、強豪校と呼ばれるところではほんの僅かな隙さえ許されないものなのでは、といった先入観がどこかにあったせいなのかも知れない。

「にしても、自分の楽器持って全国渡り歩くとか、カッコいいな黒江。さすらいの天才ユーフォニストって感じで」

「いや。渡り歩くっていうか、それは父の仕事の都合で引っ越してるってだけなので」

 それに天才でも何でもないですし、と真由は心の中で呟く。人から褒められることに慣れていない真由にとって正直なところ、こういう状況はただただ居心地の悪さを覚えるばかりだ。

「こりゃあマーチングでもメンバー一直線だべ。負けてらんねえなあ、雄悦も」

「うっせぇ」

 チューバの男子に揶揄され、機嫌を損ねた雄悦がプイとそっぽを向く。あれ? と真由は疑問に思った。

「どうしてですか? 伊藤先輩もとっても上手だと思いますけど」

「ただ吹くだけならな。でもコイツ体力()くてさ。座奏はともかくマーチングだとヘロヘロんなっちゃって、それでいっつも楽器持たねえでガードやらされてんの」

「そうなんですか」

 確かに雄悦は標準的な男子に比べてちょっと、いやかなり痩せていると言える。頬骨の張りやフォークみたいに細長い手指も肉付きの無さゆえのもので、学ランの袖から覗く手首などは何かの拍子にぽきっと折れてしまいそうですらある。スレンダーという意味ではちなつのそれにも通ずるところがあるのだが、彼の場合はなまじ身長があるだけに、そのか弱げな痩躯がより際立つものとなっていた。

「言っとくけど今年は違うがらな。去年から毎日欠かさず腹筋と腕立てやってらし、登下校中にジョギングもしてるしよ」

「んだば聞くけど、腕立てと腹筋は一日ナンボずつやってんのよ?」

「……二十回」

「学校から雄悦の家までって、何キロあんだっけ?」

「……三百メートル」

「んなの、やったうちに入んねえべ!」

 チューバの先輩男子が雄悦の頭を遠慮なしに平手打ちし、教室にはまた大きな笑いが起こった。叩くなで! と雄悦が憤慨の声を上げる。と、そこにちょうど案内を終えた日向が戻ってきた。

「たっだーま。何か楽しそうなハナシしてるみてえだけど、まぁた雄悦がバカなこと言ってらったんだべ」

「俺じゃねえって。こいつらが勝手に俺のこと()()()呼ばわりしてきて」

「ただの事実だねが。そんなムキになることねえべ」

「事実って、お(めえ)なあ」

 日向はちなつのみならず、雄悦にも相当に口さがない。それは常日頃からのものであり、恐らくは彼らの付き合いの長さがそうさせていることを、真由も昨日からの観察でおおよそ窺うことが出来ていた。

「さあて。バカ話ばっかしてねえで、今日は一通り吹けるとこまで仕上げちゃうべ」

「はい」

「おい日向!」

 ぶんむくれる雄悦を置き去りにしつつ、パート員たちは再び楽器を構える。集中と弛緩。そのメリハリをちゃんと付けることは、練習の能率を上げることに少なからず寄与しているのだろう。いざ練習を開始すればみな真摯に目の前の為すべきことに取り組み、厳しい指導によって短時間のうちにもどんどん音を向上させてゆく。そうやって、低音パートは刻々と確実に上達を遂げていった。ただし、一人を除いて。

 真由はチラリと隣の空席を覗き見る。長澤水月。結局その日の練習が終わるまで、彼女は教室には戻って来なかった。

 

 

「真由ちゃん、今日帰りって空いてる?」

「うえっ?」

 その水月が練習上がりに突然こんなことを言うものだから、真由があたふたしてしまったのも無理からぬことだろう。こちらの間抜けな反応を面白がるように、水月は口からこぼしたクスクスという音を手で覆う。さらには周囲のパート員がギロリとこちらを睨むのが視界の端に映ったせいで、真由の混乱にはますます拍車が掛かってしまう。

「えっと、今日は、ちょっと」

「何か用事でもあるの?」

「用事っていうか、居残り練習しようかなっていうか」

 ほら、と水月に示すつもりで真由が視線を遣ったその先では、部としての活動を終えた後にも拘わらず、続々と部員たちが楽器を手にして教室棟へ向かう姿があった。

 曲北ではこんなふうに、帰りのミーティング後の居残り練をするのが半ば常態化しているらしい。この状況を前にして、しかも今日が初対面の人間に突然こんなことを言い出すなんて、水月の考えがさっぱり読めない。そういう気持ちもあるにはあったが、それより何より真由自身、まだクリア出来てない課題がいくつもある。中途入部のような立場の真由としては少しでも多く練習を重ね、なるべく早く周囲に追いつきたいと思っているところなのだ。

「そんなの明日でも出来るよ。ねえ、今日だけでいいからこのまま一緒に帰らない? 親睦を深めるつもりで」

「でも、大会近いって言うし、新入生ももうすぐ入って来るから油断してられないし」

「それなら明日から頑張ればいいじゃない。お願い真由ちゃん、今日だけ私を助けると思って。ね?」

「うーん……」

 返答に窮し、真由は改めて音楽室を見渡す。居残り練に向かう部員と下校する部員とはちょうど半々、といった按配だ。もっとも人によっては塾通いや家の事情など、残りたくても残れないということだってある。そもそも居残り練習自体、強制されているわけでもない。その意味では水月の言い分の方が筋が通っているとも言える。しばし熟考し、やがて真由は心を決めた。

「わかった。それじゃ今日だけね」

「ありがとう。真由ちゃんってほんと優しい」

 ふわりと満開の笑みを浮かべ、水月は上機嫌で帰り支度を始めた。あれだけ強引に迫っておいて優しいも何もあったもんじゃない。そう思いつつも、一方で真由が気にしていたのは、他のパート員たちが水月へと向ける冷ややかな視線だ。アイツもう帰んのか? あのザマで居残りしなくて本当に大丈夫なのかよ。彼らの目つきは明らかに、そういった類の思惑を内包していた。

「真由、もう上がり?」

 と、そこに通りがかったちなつが二人に気付いて声を掛けてきた。その手にユーフォや楽譜ファイルを抱えているところを見るに、彼女もまた居残り練の為にいつもの教室へと向かう途中らしい。

「すみません。今日はちょっと」

 何となく先に帰ることを咎められているような気がして、つい真由はちなつに頭を下げてしまう。

「いいっていいって。べつに残って練習せえ、って言いてえわけじゃねえし」

「でもその、何て言うか」

「居残り練なんて、やりてえ奴がやりてえ時にやれば良いよ。全然吹けてなくて周りさ迷惑掛けてるってんなら話は別だけど。――で、水月も帰んの?」

 一瞥をくれながらそう尋ねたちなつに、はい、と水月はさも当然とばかり頷いてみせる。

「さっき日向に聞いたよ。今日はずっと個人練してたらしいけど、出来てねえトコは吹けるようになったんだが?」

「まあ」

「へば明日の練習は大丈夫なんだな?」

「多分」

「そ」

 温度感の無い二人のやり取り。あまりの空々しさに、傍で見ていた真由はその身をぶるりと震わせてしまう。

「まあ良いけど。本番にさえ影響無けりゃ」

 視線を逸らし、ちなつは鼻白んだように口をへの字に結ぶ。その仕草は水月に『どうなっても知らないよ』とでも告げているみたいだった。

「そんじゃ私も行くから。帰り気をつけてな、二人とも」

「は、はい。お先に失礼します」

 背中に刺さるちなつの視線が痛い。そこから逃れるように、真由は碌に挨拶もせず先を行く水月のあとを追って、そそくさと音楽室を出た。

 とんとんとん、と階段を下りながら真由は考える。水月に対するちなつの一連の物腰は、厳しさというよりもまるで突き放しているかのような感触だ。それが部長として吹部を牽引する立場ゆえか、はたまた愛情の裏返しとでも呼ぶべきものなのか、真由にはどちらとも言い切れない。ただ少なくとも、愛想も素っ気もない水月の態度をちなつが快く思っていないことだけは明白だった。

 正面玄関から一歩外に出たその時、夕風がぱさぱさと真由のスカートを撫でつける。今日は薄手のインナーを着込んでいるおかげで、外気の低さもそれほど気にはならなかった。一方の水月はと言えば、彼女の形良いふくらはぎをすっぽり覆ったハイソックスだけが、辛うじて冬の名残りを思わせる装いをしている程度だ。他の子も皆そんな感じで過ごしているし、やはり北国の人間は寒さに慣れているものなのだろうか? などと考えていたところ、不意に水月が「ねえ真由ちゃん」と問い掛けてきた。

「真由ちゃんのお家ってどの辺にあるの?」

「どの辺って言われても、まだ引っ越してきたばかりだから良く分かんないけど」

「学校から見て、北と南で言えばどっち?」

「えっと、南かな。帰りの途中で橋を渡るんだけど、そのとき右手側に夕陽が見えるから」

「じゃあそっち寄りの方角に歩けば、真由ちゃんにとってそんなに遠回りにはならなさそうだね」 

 折角なんだし、少し寄り道していこ。そうして水月にいざなわれるがまま、真由はしばらく見知らぬ通りを歩く。立ち並ぶ家屋や商店はいずれも外壁がくたびれ、正面をぴしゃりと覆うシャッターにはところどころ錆びが出来ていた。それらの間隙を縫うようにそびえ立つ新築の家屋や建物が、却って街の景観を損ねているような気さえしてしまう。そこにはきっと、時代と共に変わりゆく人々の暮らしぶりが映し出されているのだろう。留まる景色を横目に見つつ、二人は『止まれ』と書かれた赤い標識のふもとにある白線を軽々とまたぐ。

 道中の話題はいたって取り留めの無いものばかりだった。どんなテレビ観てる? とか、趣味はなあに? とか、いかにも知り合って間もない者同士が交わす、当たり障りのない会話。そこに、部活に関するものは一つとして無かった。

「ところでさ、真由ちゃんのヘアスタイルって、すごくフェミニンって感じだね」

「そう?」

「これだけ長いのにふんわりしてて、毛も一本一本細くてツヤツヤしてて。お手入れ大変じゃない?」

「ううん。ふつうに洗って乾かすぐらいで、特に気を遣ったりはしてないけど」

 己が胸元に掛かる栗色の髪を、真由はおもむろに掴み取ってみる。自分では特段優れているとも思っていなかったのだが、未だかつて毛質に悩まされた覚えが無いのも確かだった。そんな真由が長い髪を保っているのはただ何となくであり、特にこだわりなどがあったわけでも無い。いつの間にかそうするようになって、いつの間にかそれが当たり前になっていた。ただそれだけの事だ。従って、もしも今すぐこの髪をばっさり切ったなら――そんな自分を想像するのもちょっと難しい。

「えー、絶対ウソ。何もしてなかったらすぐパサパサになっちゃって、そんな綺麗にはまとまらないよ」

「ホントだってば。強いて言うなら、お母さんと同じシャンプー使ってるってぐらい」

「じゃあきっとお母さんがこだわってるんだね、真由ちゃんの代わりに」

「どうなのかなあ。お母さん、私よりも髪短いし。それに銘柄とか全然見てないから、よく分からない」

「私なんて真っ黒でストレートだから日本人形みたい、ってよく言われるんだよ。髪質も太くて硬いせいで、どう頑張ったって真由ちゃんみたいにオシャレな感じにはならないもん」

 いいなあ、と呟く水月が、真っすぐに切り揃えられた自身の横髪を指でつまむ。――謙遜にも程がある、と真由は思った。腰の下まで届きそうな水月のさらさらロングヘアは毛先まできっちり瑞々しさが保たれていて、水銀灯の下を通る度にきらりと美しい天使の輪を描き出している。これほどのコンディションを保てているのに己を卑下するだなんて、相手によっては嫌味とさえ捉えられかねない行為だ。

「ね、こんど真由ちゃんのお家で使ってるシャンプー教えて? 私も試してみたい」

「別に良いよ。水月ちゃんが使って効果があるかまでは分からないけど」

「やったあ。やっぱり持つべきものはロングヘア友達だね」

「なんだかヘンな友達じゃない? それ」

 こんな会話をしながら歩くうち、やがて二人は駅前通りへと辿り着いた。二〇〇五年に近隣の市町村が合併して誕生したこの(だい)(せん)()は秋田県南部に広がる(せん)(ぼく)平野の大半を占め、人口およそ八万人と、県内の市郡としてはそれなりの規模を有する地方都市である。その中核となっているのは、ここ旧(おお)(まがり)市の市街地ど真ん中に位置する駅前通り。新幹線の発着駅であるJR大曲駅から伸びるこの通りには様々な商店が軒を連ねており、数年内には近くに大きな病院も建つ予定なのである――と、これらは全て転校初日に早苗らクラスメイトから聞かされた、この街に関するあらましだ。

「なんて言ったところで、都会から来た真由ちゃんからしてみれば、全然大したことない田舎町だろうけど」

「そんなこと無いよ。それに群馬だって、みんなが思うほど都会って感じじゃないから」

「そうなの?」

「まず空港無いし、東京行くのだって近そうに見える割にそこそこ時間かかるし。あと私のいたところは田んぼとか森とか、自然もふつうに多かったよ」

「ふうん」

 こちらの言葉をあまり真に受けていないのか、水月の反応は乏しいものだった。

「でも真由ちゃんってなんか、都会の人、って感じする」

「そうかな」

「群馬の前にも色んなところを転校して回ってた、って言ったよね。きっと東京にいたこともあったんでしょ」

「良く分かったね。東京には二年くらい居たよ」

「他に大きい街だなって思ったところはある?」

「静岡と山口、かな。どっちも一年くらいしか住んでなかったけど」

「そういうところに住んでたら、オシャレなお店とか楽しいイベントとか、身の回りにいっぱいあったんじゃない?」

「いっぱいかどうかは分からないけど、それなりにはあったかも」

 たどたどしい真由の述懐をどう思ったのやら、あーあ、と水月は両手を頭の後ろに組んだ。 

「いいなあ真由ちゃんは。私も都会に転校するか、都会の家に生まれ育ちたかったな」

「そんな良いものでもないよ。転校するたび新しい環境に慣れるのもたいへんだし、都会は都会で窮屈なことも多いし。あ、でも、色んな所で友達が作れるのは良いことかな」

「そんなの、どうだっていいよ」

 ひゅるりと吹いた風が、恐ろしく冷たい。ぞわりと身ぶるいした真由は反射的に水月を見やる。路傍を見下ろす彼女の虚ろな瞳はその時、玄冬に凍てつく湖面に映った黒雲みたいな色をしていた。

「あ、誤解しないでね。今のは真由ちゃんのこと言ったワケじゃないから。真由ちゃんとは友達になれて嬉しいって思ってるよ、もちろん」

「……なら、良かったけど」

 水月の真意がもう一つ汲み取れない。今の発言にしたって、果たして額面通り受け取って良いものかどうか。判断に窮する真由の柔らかい唇がぱくぱくと空気を啄む。会話の取っ掛かりを見失ったまま、気付けば真由は水月と駅舎前の交差点を曲がり、『花火通り商店街』と書かれたアーチ状の看板をくぐっていた。

「ねえ真由ちゃん。こうして私と喋ってて、違和感ない?」

 ふぇ?! と真由は素っ頓狂な声を上げてしまう。水月の唐突な質問。それはほとんど、薄々思っていたことを見事に言い当てられたようなものだった。

「い、違和感って、何が」

「だから、私の口調。真由ちゃんが聞いててヘンに感じたりしないかっていう」

 そこまで言われてようやく、ああそうか、と真由は落ち着きを取り戻す。自分のことばが訛ってはいないか。水月が尋ねているのはそういう類のことだった。

「全然。ふつう過ぎて意識もしてなかった」

「ホントにそう思う?」

「イントネーションも普通だし、私が聞いててもちゃんと意味分かるし。すごく自然で、逆に今まで気付かなかったぐらい」

「良かったぁ」

 満足、とばかりに水月が胸の前でポンと掌を合わせる。

「自分なりに努力はしてるんだけど、ネイティブの人からしたら『なんかヘン』って思われるんじゃないかな、ってちょっと不安だったの。でも真由ちゃんがそう言ってくれるのなら、きっと大丈夫だね」

「方言とか外国語ならともかく、標準語にネイティブなんてあるの?」

「テレビ局のアナウンサーは全然訛ったりしないでしょ、あれがネイティブだよ。標準語を喋れるように訓練された人たちなんだから」

「なのかなあ」

 真由は首を傾げる。標準語の起源については知りもしないが、少なくともアナウンサーが標準語を用いるのは全国津々浦々の視聴者に情報や意図を正しく伝えるため、と真由個人は考えていた。その理屈からすれば、標準語のネイティブとはすなわち日本人全員、ということになるのではないか? そんなものをやや薄い根拠で意識していることと言い、オシャレに気を遣っているらしき振る舞いと言い、ひょっとして水月は芸能界デビューでも志しているのだろうか……などと、ついそんなことを勘繰ってしまう。

「でもどうしてそんなこと気にするの? 他の子はみんな普通に方言で喋ってるのに」

「だって、訛ってるのってダサいでしょ」

「ダサくはない、と思うけど」

「ダサいよ。だって、」

 何かを言い掛けた水月が口をつぐむ。だって、の続きが気になった真由が追って尋ねようとしたちょうどその場所で、水月の足がぴたりと止まった。

「ちょっとここで休もっか」

「あ、うん。別にいいけど」

 商店街通りを一つ外れた小路の先。そこは河原の堤防になっていて、植えられた木のふもとにはいくつかの木製ベンチが置かれていた。ベンチの表面を軽く手で払い、それから水月はポケットからハンカチを取り出して座面へと敷く。真由もそれに倣ってハンカチを敷き、二人は並んでベンチに腰を下ろした。

「見て、あの山」

 水月の指し示す方角にあるのは、昨日の帰り道に見た大きな山。昨日と違い、西の空は既にとっぷりと暮れている。真由の本来の登下校路である(おお)(もり)(ばし)はその手前にあり、ここから見るとちょうど河流から山裾を切り離すかのようにそこへ横たわっていた。

「私たちの足元を流れてるこの川は(まる)()川って言うんだけど、そのずうっと下流の向こうに見えるあの山が(ひめ)(がみ)山。毎年夏の終わりに、あの山のふもとにある()(もの)川の河川敷で、大きな花火大会があるの」

「聞いたよ。大曲の花火、だよね」

 それは早苗や他の同級生から、大仙市の見どころの一つとして話に聞いていたことだった。全国各地から七十万人以上もの観客が一斉に集い行われる、日本有数の花火競技会。職人たちが腕によりをかけて作った花火を夜空に打ち上げ競い合う、それはそれは見事な大会なのだそうだ。

「だけど、この街が賑やかなのはその時だけ。後はご覧の通り何にも無い、ただの小さな田舎町」

 水月の声のトーンが徐々に落ちていく。日没に追いすがるように山の稜線からこぼれる光の帯を、真由はただじっと眺めた。

「観光地でも何でもないこの街には、そのたった一日のお祭りしかない。真由ちゃんもここに来るまでに通ってきた商店街、見たよね?」

 ためらいがちに真由は首肯する。洋服店や菓子鋪、酒屋に手芸店。いくつもの店舗が軒を連ねる商店街のほとんどは、錆び切ったシャッターですっかり覆われてしまっていた。

「学校帰りに友達とゲームセンターで遊ぶとか、雰囲気の良いカフェでお茶するとか、そういうことはこの辺じゃ全然できないの。郊外のショッピングモールにならそういうお店もあるにはあるけど、下校ついでにちょっと寄れるような立地でもないし、自転車で行くにしたって遠いしね」

「そうだね」

 引っ越し直後の家財調達、その折に真由は件のショッピングモールを訪れていた。自宅からは車でおよそ十五分。とてもじゃないが、歩きで行きたい距離ではない。

「花火以外には大きな催し事も産業も無い。あるのはせいぜいお米作り。ホントにつまんない街だな、って思う。地元で生まれ育った私でさえそうなんだから、きっと都会から来た子は飽き飽きしちゃうんじゃないかって。どう? 真由ちゃんは」

 ジャリ、と水月の靴底が地面を擦る。聴覚に爪を立てるその音はまるで、問うた相手に沈黙など選ばせやしない、とでも告げているみたいだった。

「私は……正直言うと分かんないかな。あんまりそういうことに興味ないし」

「そう」

「それに音楽が好きだから、帰りがけに遊んだりするよりもユーフォ吹けるほうが楽しいって思うタイプだし」

「そうなの?」

 突然、水月が身を乗り出してこちらを覗き込んできた。その距離があまりに近かったもので、真由は思わず仰け反ってしまう。

「真由ちゃんと私って、ホントに似てるね」

 似てる? どこが? 内心湧き出た困惑を表に出さないよう努めると、嫌でも表情がこわばってしまう。一方の水月はと言えば、そんな真由のぎこちなさにはさほど関心が無かったようで、くすりと吐息を洩らしながら小さく丸い肩をすくめていた。

「私もユーフォを吹くのは好きなの。何にも無い退屈なこの街で、楽しいと思えることって言ったらせいぜいそれくらい。だから部活も楽しくやりたいなあって思ってる」

「そう、なんだ。楽しいのは良いこと、だよね」

 そう紡いだ唇の端が苦々しさに引き攣る。さっきの部活での様子を見れば、とてもじゃないがそんなふうには思えない。もしも水月が本気でユーフォを、音楽を楽しいと思っているのだとしたら、せめてもう少しはまともに吹けるようになっている筈だ。とは言え、頭ごなしに相手のことを否定すべきではない。そうした思いから、真由は本心とは裏腹な言葉を述べざるを得なかったのだ。

「でしょ? 苦しいとか辛いとか、そういう気持ちでする音楽なんて何か違うと思うの。私は楽しく音楽やりたいし、きっとそう思ってる人だって沢山いる筈だよね。私と真由ちゃん以外にも」

「そこまでは分かんないけど。でも、楽しくないことをわざわざやろうとする人は、あんまりいないと思う、かな」

「だよね。ホント良かった、真由ちゃんが私の気持ちを分かってくれる人で」

 我が意を得たり、と言わんばかりに水月が顔を綻ばせる。それを見た真由の内側ではしかし、不服の念がぶくぶくと大きく膨らむばかりだった。

 字面だけを切り取って見れば、水月の言うことは真由にも共感できるところが大いにある。音楽は楽しむためのもの。少なくとも自分は楽しいと思うからこそ音楽をやっている。だがしかし、同じ『楽しむ』という言葉であっても、水月と自分のそれには何か齟齬があるような気がしてならなかった。いまいち歯車が噛み合っていないというか、どこかでボタンを掛け違えているというか。そういう異物感のようなものが、さっきから奥歯の辺りでこりこりと小さく蠕動している。

「一緒に楽しく音楽やっていこうね、真由ちゃん」

 もやもやの正体を掴み切れぬまま、その思考は水月の完璧に整えられた笑顔によってたちまち押し流されてしまう。「そうだね」と返す真由の心中は、川面に立った波濤のように忙しなく揺れ動くばかりだった。

 

 

 

 

 それから一週間ほどが過ぎ、真由が曲北での生活にもようやく慣れ始めた頃、吹部は入部式の日を迎えていた。

『面食らうなよ黒江ちゃん。当日はこの広ーい音楽室がパンパンになっから』

 という日向の言も、こうして目の前の光景を見ればなるほどと頷けるものがある。二、三年生だけでも既に百名近い大人数だというのに、そこへ加えて今この場にいる新入生はゆうに五十名を超えていそうだ。それだけの人数を一気に収容した事によって、第一音楽室はほとんど芋洗いの様相を呈していた。

「はーい、一年はそっちのほうに固まって座ってくださーい。上級生はこっち、ピアノ側さ立って並べー」

 上級生と新入部員を隔てる僅かな面、というよりほぼ線と呼んで良い隙間のところでは、ちなつが声を張り上げて部員たちを誘導していた。他校のそれと比べてかなり広めに造られている筈のこの第一音楽室も、一旦こうなってしまえばもう一部屋欲しくなるぐらいに狭く感じられる。ぎゅうぎゅう詰めとなった人いきれの只中で、どうにか斜め挿しに体を収めるスペースを確保した真由は、すぐ目の前に立つ水月の艶めいた後ろ髪をそれとなしに見つめていた。

 一緒に下校したあの日、水月とはほどなくしてベンチのところで別れ、それぞれの家路に就く運びとなった。聞けば彼女の家の所在地は駅を挟んで我が家とは正反対の方角だったらしく、それならばあの河原まで来たのはかなり大幅な寄り道であった筈なのだが、そんなことは水月にとってさしたる問題では無いみたいだった。

『今日は真由ちゃんとお友達になれたことが、何よりの収穫だったから』

 そう語る水月の蠱惑的な笑みを、真由は今でも忘れることが出来ずにいる。あの日以来、水月からは帰りを誘われることも無く、また真由自身も居残り練習や何やらで帰りの時間が遅くなりがちだった為に、再び水月と帰りを共にする機会はついぞ訪れなかった。クラスも異なる二人の接点は部活のみ。その間も水月は相も変わらず、日向の注意を受けては個人練のためにパートの輪から外れる日々を送り続けていた。そんな彼女は果たしてあの日の言葉通り、『楽しく音楽をする』日々を送れているのだろうか? それがどうにも理解しがたい。

「全員中さ入った? まだ廊下にはみ出てる子いねえが?」

「オッケーです、部長ー」

「よし。へば先生、お願いします」

「はいよ」

 よっこらせっ、と永田が音楽室の壁を辿るようにして、新入生の真正面に立つ。

「えー新入生の皆さん、まずは入部おめでとうごさいます。吹奏楽部顧問の永田栄信です」

 いつぞや真由に言ったのとほぼ同じ文句を口にして、永田は新入生の群れをぐるりと見渡した。

「既に知ってる人も多いんだろうけども、我が曲北吹部はマーチングバンド全国大会において、直近三年連続で金賞および最優秀賞をいただいております。その実績からか、外部の人なんかは我々のことを『強豪校』と呼ぶ向きもあるようですけども、」

 そこでおもむろに振り返った永田が、ギロリとこちらに視線を向けた、ような気がした。動揺した真由は慌てて目を逸らす。強豪校という呼ばれ方は好きではない。入部届を直接手渡したあの日、永田はそのように述べていたからだ。

「今年入部した皆さんの中にも、全国トップの吹部でがんばりたい、って思ってる人は多いんでねえかと思います。もちろん我々の目指す目標は今年も全国金賞、最優秀賞です。んだけども、それはあくまで目標の一つであって目的ではありません」

 新入生たちがにわかにざわめき立つ。目標と目的。良く似た二つの言葉を区別するものは何なのか。それは中学に上がったばかりの彼らのみならず、真由にとっても難解な問い掛けだった。

「曲北吹部の目的は演技演奏を通じて、観た人の心を芯から揺さぶるようなものを作ること。それが出来なければ芸術じゃありません。何となく楽器吹いて、何となく()がったねーで終わってたら、これはただの自己満足です。人前でパフォーマンスをするがらにはそうで無くて、自分たちの持ってる何かを目の前の相手にきちんと伝えてこそなんでねえか、と先生は思ってます」

 それはとてもシンプルで、力強い言葉だった。彼の語気に当てられてか、あるいは冒されてか、ほのかに浮き足立っていた新入生たちの目の色が見る見るうちに赤熱していく。

「全国三連覇なんてのは、この目的さ向かって先輩たちが精いっぱい努力してきた、その結果に過ぎません。音楽は勝ち負けでない、というのは良く言われてらども、観てる人はその良し悪しをハッキリ付けます。残酷なようだけど、それは厳然たる事実です。要は自分たちだけでなく、観てる人にも『これが最高だ』と思われるようなパフォーマンスが出来れば、結果として後から賞が付いてくるってことです。大会の結果はあくまで目標。観てる人全員を最大限に感動させる音楽をするのが目的。これを意識して、ここにいる百三十七名全員、一丸となって頑張っていきましょう」

 永田が語りを終えると同時に、ちなつが事前の打ち合わせ通り「せえの、」と小声で音頭を取る。

「よろしくお願いします!」

 上級生一同から送られた大合唱。それは歓迎の意を示すと共に、新入生たちの覚悟を促すための宣告でもあった。引き続いて部長以下、吹部を取り仕切る幹部たちの簡単な自己紹介を経た後、式の次第は淀みなく新入生のパート分けへと進行していく。

「では各楽器の希望者は、パート単位でそれぞれの教室さ移動してもらいます。各パート定員があるので希望者の多いところは振り分けのために簡単なテストをしますけども、それについては各パートリーダーの指示に従って動いて下さい。所属が決まり次第、パート内での自己紹介と楽器決めをやることになります。それも各パートリーダー、打ち合わせ通り動くようお願いします」

 ちなつの適切な指示によって、大軍勢とも形容できる人の波が音楽室から廊下へとどんどん掃けていく。我らが低音パートの列にくっついて来たのは男子が一人、女子が四人。大漁、と一般的な吹部なら呼べそうな人数でも、大元の部員数が倍以上にもなる曲北にあっては少なく感じられるから不思議なものだ。

「さて、低音パートは毎年希望者が少ねえから、お互いの自己紹介すんのは他のパートのテスト結果待ちね。それまでの間はソコさ座ってちょっと待ってて」

 低音パートの練習場所である教室に着いてすぐ、日向は新入生たちに最初の指示を出した。それを受けた彼らは「ハイ」と素直に返事をし、教室の隅に椅子を並べて姿勢正しく着座する。彼らの見守る前で真由たち上級生はいつも通り音出し等の基礎練習を開始し、それからパートでの音合わせ、曲練習、とメニューをこなしていく。自分もやがてはこの輪に加わることになる、と期待に胸を膨らませているであろう新入部員たちの双眸はみな一様に、煌星(きらぼし)のごとく輝いていた。

 そうこうしている内に、他パートからこぼれてきた新入生が一人二人、とやってきた。彼らの受け入れを済ませた日向がチラ、と教室の壁掛け時計を見やる。パートごとに分かれてから三十分。そろそろ他パートの人員もあらかた定まった頃だろう。実のところ、パートの割り振りは今日までの仮入部期間で大半が内定済みであり、パート分けテストという名のふるい掛けもあくまで補助的に行われているに過ぎなかった。もっとも「入部そのものの可否をテストで決める」なんてことが無いだけ、曲北はまだマシなのかも知れないが。

「じゃあ一年生、こっち来て。そろそろ自己紹介始めっから」

 日向に案内された一年生が席を立ち、黒板の前に並ぶ。上級生たちも椅子の向きを変え、彼らと対面するかたちとなった。

「それでは改めまして、新入生の皆さんの低音パート加入を上級生一同、歓迎します。これから順に自己紹介をしていきますので、低音パート! って呼ばれたらすぐこのメンバーで集まれるように、全員の顔と名前をしっかり覚えて下さいね。ではトップバッターは低音副パートリーダーのわたくし、中島日向から……」

「日向ってば、まぁた初顔相手にブリっ子してら。いい加減やめれ、ってこないだちなつに言われたばっかだべー」

「こぉらー。言わねば分がんねえのに言うなってー」

 突如として繰り広げられる上級生同士の漫才にどっと笑いが起こり、それにつられるようにして新入生たちからもくすくすと笑みがこぼれ出た。こうして日向本人から始まった自己紹介は三年生、次に二年生、と先日の順序通りスムーズに行われてゆく。「んじゃ次ー」と日向に指差され、真由はおもむろに席を立った。

「二年の黒江真由です。実はこの春転校してきたばかりなので皆さんと同じく新米みたいなものですが、先輩として胸を張れるよう精いっぱい頑張っていきたいと思ってます。よろしくお願いします」

 真由が一礼すると、一同からは盛大な拍手が返ってくる。転校してからこっち、何度自己紹介をしてきたかも分からない。その度に緊張を強いられるのはもはや生来の気質ゆえ、と真由は半ば諦めの境地に立っていた。

「二年、長澤水月です。よろしくお願いします」

 続く水月の挨拶はいたって簡素で短いものだった。新入生はともかく上級生たちの拍手はまばらで、中には水月から露骨に顔を逸らす者さえもいる。個性派揃いながらも連帯感の強い低音パートの中で、水月だけが明らかに一人ポコンと浮いている。パート内に蔓延しているそんな空気を、さすがの真由でさえもここ数日のうちに察しつつあった。

 ともあれ上級生の自己紹介はこれにて一段落、お次は新入生たちが自己紹介をしていく番だ。端から一人ずつ起立し、名前と出身校に加えて自分のキャリアを述べてゆく。どこそこ小のマーチングバンド出身。楽器歴何年。そんな申告が続々と出てきたことに、真由はちょっとした感動すら覚えてしまう。地域柄なのか何なのか良く分からないが、学区内に幾つかある小学校から曲北に入学した新一年生のうち実に八割ほどがマーチング部上がり、残る二割も座奏バンドや合唱など何かしら音楽の心得あり、というのは何気にすごいことである。これほど多くの経験者が新入部員として入ってくるのなら、曲北吹部の層が分厚くなるのも道理と言えよう。だがそうかと言って、必ずしも強豪吹部に入部するのが経験者ばかりであるとは限らない。例えばそう、彼のように。

「一年一組、(いし)(かわ)(たい)()です。小学校ではサッカー部だったすけど、中学では全国制覇を目指してみたいと思って吹奏楽部に入部しました。音楽は全くの初心者ですが一生懸命がんばりますんで、よろしくお願いします!」

 教室いっぱいに彼の元気な声が響く。スポーツ刈りの頭髪に浅黒く日焼けした肌、そしてぶかぶかの学ランに身を包んだ泰司は、低音パート新入生で唯一の男子だった。いかにも元気いっぱいのやんちゃ小僧、という彼の成長途上な見た目と溌溂とした表情に、真由もなんとなく『かわいい男の子だな』という印象を抱く。

「じゃ、これから具体的に希望楽器を決めて、それぞれ練習を――」

 と日向が言い掛けたところで、「すみません!」と勢いよくドアが開け放たれた。そこに立っていた女子の名札には緑色のマーク、つまりは泰司たちと同じ新入生の学年カラーが施されている。硬そうな髪を頭頂部で括りつけたその子の容姿はあまりに個性的で、髪型だけをあげつらうならば『横倒しになったヤシの木』という表現がピッタリだな、と真由はこっそり思う。

「テスト受けてきた子?」

「はい。ホルンパートのテストが終わって、その、こっちに来ました」

「そっか。ちょうどいま一年の自己紹介してたとこだから、あなたもこっちさ並んで」

「はいっ」

 日向の出迎えを受けた女子がおずおずと新入生の列に加わる。彼女はテストに落選し、ホルンから低音へと回されてきた。今の受け答えはそういう意味を言外に含んでいた。

「一年四組の()(しま)()()です。小学校ではマーチング部でフリューゲルホルンを吹いてました。低音楽器は未経験ですけど、一生懸命練習しますんで、どうかよろしくお願いします」

 ぺこりと玲亜が頭を下げ、一同からは歓迎の拍手が注がれる。こうして全パートの人員配置が確定し、それと共に、曲北吹部の本格的な活動の日々が幕を開けることとなった。

 

 

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