私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
「ハイ、じゃあそのまま吹いてみて。せーの、」
真由の合図に伴って、泰司が大口径のマウスピースに力いっぱい息を吹き込む。けれどそこから出てきたのは『フスー』という、風船がしぼむときのような侘しい音だけだった。
「もうちょっと唇をしっかり閉じて。ただ息を吹くっていうより、閉じた唇の真ん中からブー、って息をこぼれさせるイメージで」
「は、はい。すいません」
「大丈夫、コツさえ掴めればすぐ出来るようになるから。気を取り直してもう一回やってみよう」
「はい」
低音パートの所属員が確定した直後、一年生たちの担当楽器も当人の希望に基づいて比較的スムーズに決められた。チューバには泰司と他二人。ユーフォには玲亜ともう一人。音楽的には経験者である玲亜もユーフォは初めてということで、彼女たちには現在雄悦がつきっきりで楽器の説明と運指のレクチャーを行っている。他の子たちの受けている指導内容は、腕に覚えのある者ならさっそく曲練、そうでない者はまず基礎的な音出し、と個々のキャリアによりけりだ。
『ウチらも他の子さ色々教えないといけねえし、それに黒江ちゃんって教えんの上手そうだからさ。
そんなこんなで日向から宛がわれたのは、全くの初心者である泰司に初歩中の初歩、すなわちマウスピースを鳴らすことを手ほどきする役目である。そのぐらいだったら、と真由は二つ返事でその依頼を引き受けた。ユーフォ一筋でやってきた自分にはチューバの本格的な奏法など正直サッパリ分からないが、そんな自分でも音楽的に基礎レベルのことならどうにか教えられる。とりわけ金管楽器同士は音を鳴らすための基本原理が共通しているので、マウスピースを鳴らすだけなのであれば指導するのもそんなに難しいことではない。
マウスピースを鳴らせなければ楽器を鳴らすことは出来ないし、楽器を鳴らせなければロングトーンやスケールといった基礎練習にも移れない。こと金管楽器において、『鳴らす』という行為は必須のものでありながら、楽器にも触れたことのない初心者にとっては最初の関門、といったところでもある。この点は息を吹き込めば音が鳴るリコーダーとは少々勝手の違うところだ。
「うはあ、ダメだ、全然出ねえ」
何度か息を吹き込んだ後、泰司はマウスピースから口を離して宙を仰いでしまった。これは言葉で説明を続けるより、実際にやってみせた方が早いか。そう思った真由は泰司にいったんマウスピースを下ろさせる。
「いい? ちょっと見ててね」
「こんなふうに唇の両端をちょっと張って、真ん中あたりを小刻みに震わせるの。ずっと鳴らすのが難しかったら、最初は『ブッブッブッ』って断続的に鳴らすつもりで吹いてみるのもアリだよ」
「分かりました、やってみます」
真由と同じように指を唇へとあてがい、泰司は肺の容量の限り、目いっぱいまで息を吸い込んだ。
「そこで一度息を止めて、唇の両端をきちんと締めてるか、自分でチェックしてみて。そうそう、良い感じ。それじゃそのままで、まずは思いっ切り」
泰司が全力で息を吹く。彼が唇の力加減を僅かに変えた時、びぶっ、と短く唇が振動した。
「そうそう、それだよ。今の感じ」
ほはぁ、と緊張を解いた泰司が不思議そうに己の指を見つめる。もう一度やらせてみると、今度は『ブー』と長く唇を鳴らすことが出来た。
「上手上手。あっという間に感覚掴んじゃった。センスあるね、石川くん」
「あ、ありがとうございます」
真由の手放しの賞賛を受けた泰司の顔がぽうっと赤く染まる。出来ないことが出来るようになる、というのは誰しも嬉しく感じるものだ。初めてユーフォに触れた時のことを思い出し、真由の頬も自ずと緩む。
「今のが『バズィング』っていう、金管楽器を鳴らすときの唇の動きなの。感覚を忘れないうちに、今度はマウスピースでやってみようか」
「はい!」
ひとたび感覚を掴めば後は自転車に乗るのと同じ。あれだけ難航していたマウスピースの吹き鳴らしも、今の泰司はそつなくこなせるようになっていた。思い通りに楽器を吹くためにはまだまだ覚えるべきことが山ほどあるのだけれど、それはこれから時間を掛けてじっくり身に付ければ良い。ファーストステップさえきちんと踏めれば、あとは本人の努力次第だ。
「慣れないうちは大変だと思うけど、楽器が吹けるようになってくるとどんどん楽しくなってくるよ。私に教えられることだったらいつでも聞きに来てもらって良いから、これからも一緒にがんばろうね」
泰司を勇気づけるようににっこり微笑んであげると、ポカンとした泰司は一拍置いてから「よ、よろしくお願いします!」と慌てたように頭を下げた。彼のそんな初々しさが、真由には眩しいくらいだった。
新入生たちが各々要領を得てきたところで、いったん練習の手を止めさせた日向がおもむろに教壇へと向かった。真由も他の部員たちも楽器を置き、黒板の前に立った日向へと視線を注ぐ。
「これから新入生の諸君に、我が吹奏楽部の年間活動スケジュールをざっと説明したいと思います」
チョークを手に取った日向はまず最初に『五月 マーチングフェスティバル』と、大きな白文字をカツカツと黒板に刻んでいく。擦れて砕けたカルシウムは粉となり、ささめ雪のように受け皿へと舞い落ちる。
「当面の活動目標は来月、大型連休中に行われるこのマーチングフェス。って言っても一年生はいきなり参加すんのは無理だから、この時点ではどっか他の空いてるトコで音出しとかステップとか、基礎錬を中心に取り組んでもらうことになるけどね」
五月の連休。それを聞いた真由は、教室の掲示板に貼られたカレンダーへと目を向ける。今は四月の半ばであり、ということはどんなに多く見積もっても、直近の大会本番までは残すところ三週間ちょっとしかないことになる。
「んで、ここで代表推薦を受けると大きく飛んで、十一月のマーチング東北大会に出場することが出来ます。東北大会でも代表選抜されればその次の月、十二月に埼玉で行われる全国大会に出場決定です。全国大会では金銀銅の三つの賞の他、金賞の中で一番得点の高かった学校に最優秀賞が贈られるんだけど、その全国最優秀賞を獲るってのがウチら曲北の最大目標ってワケ」
口頭で説明を続けながら、日向は五月の項から大きく距離を空け、十一月、十二月の項にそれぞれ行事を書き足す。
「ついでに言っとくと、マーチングの大会には二種類あります。一つは吹奏楽連盟の主催するマーチングコンテスト、略してマーコン。もう一つはJMBA主催のマーチングバンド・バトントワーリング全国大会。で、ウチらが参加すんのはこっちのJMBA主催大会ね」
日向がそこまで説明した時、「質問です!」と泰司が勢いよく手を挙げた。
「JMBAって何の略っすか?」
「良い質問だぞ石川っち! JMBAってのは『全日本マーチングバンド協会』の英語表記から、その頭文字だけを抜き取った呼び方なのさ。つまりは
日向の得意げな解説に、一年生たちは何とも微妙そうな反応を示した。言葉の意味はともかくとして、今の怪しげな発音はツッコミ待ちなのか素でやってるのか、もう一つ捉えがたい。
「えと、二つの大会の違いって、主催団体以外に何があるんですか?」
泰司とは別の子からの、空気を入れ替えるみたいな質問。それに日向は「んー、」と口元に拳を当てる。
「ウチらも詳しく知ってるわけじゃないけど、大まかに言えば開催時期と大会の規定だね。マーコンの場合は九月の都道府県大会から始まって十月に支部大会。全国大会は十一月の後半、と大体一ヵ月刻みになってます。大会規定については制限時間の違いだけでなく『規定課題』ってのがあって、演技の途中に決められた動きを必ず取り入れないといけません。あとはフロアに立てる人数にも制限があって、確か一団体八十人までとか、そンた感じ」
ほうほう、と一年生たちが揃って頷く。
「対するJMBAのほうには小編成と大編成っていう二つのくくりがあって、私らの参加する中学校の部大編成はドラムメジャー、つまり指揮者を含めて五十五名以上のメンバー構成でフロアに立つことになります」
「へば、部員は全員本番さ出れる、ってことですか?」
「あくまで原則としては、だけどね。諸事情で不参加とか、出るには出ても虚弱体質なせいで楽器吹かずに毎回旗持ち、ってやつもいるし」
「いや、いま俺の話いらねえがら」
日向のジト目へふくれっ面を返す雄悦のさまに、他の三年生がククっと笑いを噛み殺す。
「というわけで、ここまでがマーチングに関しての説明となります。十月以降の大会では一年のみんなもフロアに立つかもなんで、ステップや
はい、と一年生がはきはき返事をする。小学生の頃にパレード演奏をこなした経験のある真由も、マーチングの用語や本格的な動きについては未知の領域も多い。彼らに負けぬよう練習しなくては、とこっそり決意を新たにする。
「それとマーチング以外では、七月から吹奏楽コンクールが始まります。こっちは順当に勝ち上がっていけば七月中旬の地区大会から八月の頭に県大会、八月後半には東北大会、んで十月末に全国大会、って感じで日程がビチビチに詰まってんだけど、全国まで行けた場合はマーチングとほぼ同時並行の練習日程になっちゃうね」
さっき飛び越えたスケジュールの空白部分にコンクールの日程が書き加えられていく。日向の筆跡が存外整っていることに幾ばくか感心しつつも、真由はその日程をざっと振り返ってみた。来月初旬にマーチングの秋田大会。六月から九月まではコンクール関連。秋の中頃から初冬にかけてはマーチング東北・全国大会。こうして見ると、一年間のうち半分以上は種々の大会ですっかり埋め尽くされる恰好だ。
「コンクールも目標はもちろん全国金賞なんだけど、こっちにゃ
「はい」
「あとは十月の文化祭と年の暮れに吹部の定期演奏会、冬は冬で年始すぐのアンサンブルコンテストに三月の新人演奏会、と参加行事は目白押しです。他にも合間合間にいろんなイベントでのパレードや招待演奏なんかも入ってくるんで、ぶっちゃけ年間の休みはほとんどありません」
「うえぇー。サッカー部より厳しくねえすか、それ」
泰司から悲鳴の声が上がる。文化部なのにそこまで忙しいとは、運動部出身の彼には思いもよらぬ事実だったのかも知れない。
「まあ、曲北でウチより忙しい部は他に無えと思うで。去年なんか、まともに休めたのはお盆と年末年始くらいだったもん」
マジブラックだよねー、という声が先輩たちの間から洩れ聞こえる。さすがにここまでではなくとも、吹奏楽部がそれなりに年間通して多忙であることは、真由もそれまでの経験から知っていた事だ。朝練や居残り練も含めれば拘束時間はかなり膨大になるし、レギュラー選考やコンクールといった内外との競争も少なくないために、練習そのものの濃度も自ずと高まることとなる。『体育会系文化部』とはまさに、吹部のそういった実情を的確に表した言葉なのである。
「なモンで、短い期間でどんどん新曲を覚えたり大会ごとに練習内容を切り替えたり、っていうのは当たり前のことになります。うかうかしてるとあっという間に周りから置いてけぼり喰らうし、みんな上手くなるために必死こいて練習するんで取り返すのも簡単じゃありません。人数制限のあるコンクールでは勿論のことだけど、全員参加が原則のマーチングでも、実力不足と判断されれば本番さは出られねえことだってあります」
そこで一瞬、チラリ、と日向が水月に視線をやった。水月はそれに顔色一つ変えることなく、黒板の辺りをぼうっとした顔つきで眺めるばかり。少し気になるその間は他の何かに変換されることもなく、続く日向の発言によって流されていった。
「年間のスケジュールがこれだけ詰まってるってことと、それをこなしていけるようにしっかり腕を磨くこと。この二つを意識して毎日の練習に取り組んでいって下さい。私からの説明は以上。みんな、良いかな?」
「はい!」
日向の問い掛けに一年生たちが大きく返事をしたのをもって、小休憩は終了と相成った。再び楽器を構えた部員たちは、各自取り組むべき課題へと向かい真剣に練習を重ねている。真由もまたメトロノームの刻みに合わせてユーフォを鳴らし、膨大な数の楽曲を一日も早く吹きこなせるよう己の音を研ぎ澄ましていった。少しでも彼らに追いつく為に、少しでも早く追いつけるように。
ばしゃばしゃ、と蛇口から流れ落ちる水にマウスピースを浸し、カップの内側をていねいに指ですすぐ。クリーナーとブラシを使ってパイプの中までしっかり洗い上げたあと、ポケットから取り出したミニタオルで表面に残った水滴を拭き取る。毎日やっていればこういう作業もすっかり手慣れたものだ。入念な洗浄によってきれいになったマウスピースは、今日もつるりと美しい銀鈍色の輝きを放っていた。
今日の居残り練習はこれにて切り上げ。楽器の手入れも一通り終わらせた。さて、教室に戻って後片付けをしよう。そう思っていた真由を「あの、」と誰かが呼び止める。きょろきょろと辺りを見回し振り返ってみると、一人の女子生徒がミルク色のハンカチを手にしてそこへ立っていた。
「これ、もしかして黒江さんの?」
あ、と真由はその模様に見覚えがあることに気が付く。どうやらさっきミニタオルを取り出そうとした時、ハンカチまで一緒に引っ張られて落っこちてしまったらしい。すみません私のです、と半ば泡を食ってハンカチをひったくり、ぐしゃりとポケットに突っ込む。と、目の前の女子は突然クツクツと唇を震わせ始めた。
「あの、えっと?」
「ああごめんごめん、なんか思ってた反応と違ったもんで。気にしないで、悪い意味じゃねえから」
そうは言われても、と思いつつ、真由は面識のないその女子の名札にじっと目を凝らす。盤上に引かれたラインは青色、三年生の学年カラーだ。こちらの名を知っていることからして吹部の先輩だとは思うのだが、ひと口に先輩と言ってもあまりに数が多すぎて、挨拶もしたことの無い人の顔や名まではさすがに覚えていなかった。
「って、黒江さんは私のこと知らねえよな。こうやって話すのだって初めてなんだし」
真由の視線に気付いた女子が、自分の名札をつまんで真由へと向ける。
「私、
「ああ。すみません失礼しました。よろしくお願いします、秋山先輩」
真由は内心安堵する。これが事実上の初対面なのであれば、ゆりに関して全く見覚えが無かったのも至極当然のことだ。初の接触に緊張を抱いていたのは向こうも同じだったようで、セミロングの髪を気恥ずかしそうに撫でたゆりが、えっと、と上目遣いにこちらを見る。
「私も他県からの転校生組だったから、って言っても転校してきたのは小学生の頃だけど。それで黒江さんのこと、ちょっと気になっててさ」
「気になる、ですか?」
「慣れねえ土地で生活する大変さって、実際に引っ越ししたことのある人でないと分かんなかったりするでしょ。そういう経験、私にもあったから」
ゆりはにっこりと、少女漫画の登場人物みたいに長く伸びた睫毛を伏せて微笑む。
「もし何か困ったことあったらいつでも言ってな。力になれるか分がんねえけど、私で良かったら相談に乗るからさ」
「はい、お気遣いいただいてありがとうございます」
「堅っ苦しいこと言わねったっていいよ。同じ転校生のよしみってことで」
ゆりの醸し出すおっとりとした純朴さを例えるなら、まるで森の木陰に佇む淑女みたいだった。最初は何事かと思わされたが、心優しい人であることはどうやら間違いないみたいだ。今の時点で特に困りごとがある訳では無いものの、ゆりの温かい気遣いの心が嬉しくて、真由もふわりと笑みを返す。
「――あ、」
とその時、視線を外したゆりが微かに目を瞠った。
「ごめん私、教室に忘れ物してたの思い出した。へばまんずね、黒江さん」
「あ、はい。お疲れさまです」
そそくさと小走りに立ち去るゆりの背中を怪訝な気持ちで見送ってから、真由ははたと疑問を抱く。
「ヘバマンズネ、って、何?」
あれは一体どういう意味だったのか。先日学んだ通り『へば』というのが『それじゃあ』なのであれば、後に続くマンズネの意味によってゆりの発言の趣旨は大きく変わる。まあとりあえず? それとも不味いね? その翻訳を試みる上で必要となる秋田弁の語彙力が、このときの真由には圧倒的に不足していた。
「あの、」
あらゆる可能性を脳内で模索していたその時、再び背後からゆりの声がした。いつのまに後ろに、と思いつつ振り返ると、そこにはゆりをほんの一回りほど小さくしたような見かけの女子がそこに立っていた。
「黒江さん、今、お姉ちゃんとハナシしてたよな」
「はい?」
お姉ちゃんって誰? ハナシって何のこと? 質問の意味が良く分からず、真由は女子に尋ね返す。
「お姉ちゃん、と言いますと」
「だがらさっきの人、秋山ゆり。あれ、私のお姉ちゃん」
「じゃああなたはもしかして、秋山先輩の妹さん?」
「おっと、そう言やまだあいさつしてなかったっけ。私、秋山
「ああー、なるほど」
ようやく彼女の素性が知れたことで、真由の体から強張りがほどける。それにしても、と真由は改めて楓をしげしげと眺め回した。長い睫毛に柔和な顔立ち、そして鎖骨までかかったセミロングの髪。紛らわしいことに、この近さで見ても瓜二つと言って良いほど、楓の風貌は姉のゆりと酷似していた。ほんの僅かな身長差以外に見つけた姉妹の相違点はと言えば、楓が髪をポンポン付きのゴムバンドで横結びにしていることと、ゆりに比べて胸の自己主張がずいぶん激しいことだ。
「秋山先輩の一つ下ってことは、秋山さんは私と学年同じなんだね」
「んだね。あーそうそう、秋山、だとお姉ちゃんと区別しづらいと思うがら、私のことは楓って呼んでもらっていいよ」
よろしく、と握手を求められた真由は何の気なしに楓の手を握る。彼女の細く冷たい指が探るように手の甲へと絡みついてきて、そのくすぐったさに真由の肩はぞわりと震えてしまう。
「それで黒江さん。さっきお姉ちゃんとどんな話してらったの?」
「どんな、って別に、私がうっかり落としたハンカチを拾ってもらって、そのついでにちょっとお話ししてただけだよ」
「そのちょっとっていうのは、具体的には?」
「具体的にって言われても……あ、そう言えば、困ったことあれば相談に乗るよって、そんな感じのこと言ってたかな」
「あのお姉ちゃんが、そんなこと言うなんて」
信じられないとでも言うかのように、楓は手で口を覆う。
「えーと、ごめん楓ちゃん。私もさっき秋山先輩と会ったばっかりで、話が良く見えないんだけど」
「あ、こっちこそごめん。一人で先走って相手を置いてけぼりにすんの、私の悪りいクセで。他の友達からもちゃんと順序立てて喋れ、っていっつも注意されてんだけど」
「はあ」
「えっと、つまりな。お姉ちゃんが同じパートでもない後輩の子にあんなふうに話し掛けんのって、私今まで見たこと無かったの。普段は自分から話し掛けたりもしねえし、家に友達連れてきたことだって全然無いぐらいで。まして相談に乗るだなんて、普段のお姉ちゃんならまず言い出さないってぐらい、これはすごいことなんだよ」
ふすん、と鼻息を荒くした楓の双眸が、磨き上げられた水晶玉みたいに光っている。よほど強い関心事に巡り合ってしまった時、えてして人はこういう眼差しをその対象へと向けるものだ。
「どうかな。私だけとは限らないし、楓ちゃんが見てないところで仲良くなってる人もいるんじゃない?」
「無えよ、それは。だって私、四六時中お姉ちゃんのこと観察してんだもん。学校でも家でも」
「それはそれであぶ、じゃなくてその、すごいね楓ちゃん」
危ないね、という言葉が思わず口から出そうになるのを寸でのところで押し留める。真実は時として人を傷付けるものだ。そのぐらいはある種の社会常識として、真由もとっくに弁えている。
「だからね黒江さん、お姉ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします!」
何のためらいもなく、楓がガバリと頭を下げてきた。これにはさすがの真由も面食らってしまう。
「え、ちょ、どうしてそうなるの」
「私、前から心配してて。誰かお姉ちゃんの面倒見てくれる仲良い友達でもいればなあ、ってずっと思ってたんだ。お姉ちゃんがあんな心開いてる感じすんの、黒江さんが初めてなの。きっと黒江さんと仲良くなれればお姉ちゃんだって嬉しいと思う。だがらお願い。どうかお姉ちゃんと仲良くしてあげて下さい」
そんなこと言われても、と真由は返答に窮してしまう。大体の話、楓の願いがゆりの思惑に沿ったものかどうかも疑わしい。他人の心遣いが当人には余計なお世話、ということだってままあるものだ。けれど目の前の楓はお辞儀の姿勢を崩さぬまま、熱の籠った視線だけをこちらへと注いでいる。そのあまりの必死さにこちらも何も言えなくなり、しばし互いにじっと目を合わせ続ける。
「お願い」
重ねて懇願されたのをトドメに、真由はとうとう根負けしてしまった。これは『うん』と言うまで引き下がってくれそうにない。そう直感して渋々ながら承諾すると、途端に楓はパアッと表情を明るくした。
「でも秋山先輩とは学年もパートも違うし、それで急に馴れ馴れしくするのもヘンだと思うから、あくまで関わりがあった時にちょっとずつって感じになると思うけど」
「それで良いよ、全然良い! ありがとね、黒江さん」
歓喜する楓がこちらの手を掴み取り、勢いよく上下に振り始めた。痛い。腕がもげる。真由のそんな心の悲鳴は当然のことながら、楓にはちっとも届かなかった。
「私も黒江さんとは仲良くしたいな。また今度どっかでゆっくり話そ。へばまんずね!」
最後まで一方的なやり取りを残して、楓は竜巻のように猛然と立ち去ってしまった。それを見送った真由の全身にどっと疲労が襲い掛かる。傍目には似た者姉妹、とでも呼べそうなゆりと楓だが、全般的に落ち着いた雰囲気の姉に比べて妹は積極的かつ大分そそっかしい性格をしていた。お願い云々は置いておくとして、姉妹どっちと付き合うのが気楽かと問われれば、自分なら迷わず姉の方を選ぶだろう。そうと思ってしまうほど、楓の放ったファーストパンチは真由にとってあまりに強烈なものだった。
それにしても、と真由は考え込む。ゆりも楓も去り際に同じことを言っていた。
ヘバマンズネ。
あれも秋田の方言か、はたまた姉妹特有の合言葉か何かなのか。曲北に転校して早十日あまり、真由の知らないことはまだまだ多かった。
「『まんず』っていうのは『ひとまず』『とりあえず』って意味に
明くる朝の教室。昨日の疑問が抜けぬまま一夜を過ごした真由は早速とばかり、登校してきた早苗にその意味を解説してもらっていた。
「それってつまり、仲の良い友達に『さよなら』じゃなくて、『じゃあな』とか『またね』って言うのと同じなのかな」
「そうそう、そゆことだね」
早苗のおかげで大まかな意味は理解できた。噛み砕いて言うなれば、『へばまんず』は秋田弁における別れ際の感嘆詞あるいは定型句、ということだ。昨日からの疑問がようやく腑に落ちて、真由はすっきりした胸を撫で下ろす。
「こうして早苗ちゃんから聞く度に思うことだけど、秋田弁ってけっこう奥が深いよね」
「どうだろなー。私らは普通に使ってるがらあんま意識してねえけど。あ、でも小学校ん時の先生は漢字とかローマ字に直せば分かりやすい、って言ってたっけな」
「わざわざ他の言葉に直すの?」
「うん、例えばこんな感じで」
机からB6サイズのノートを取り出し、早苗がそこに幾つかの方言らしき文字列をしたためていく。その中から『おばんです』という語句をシャーペンで指しつつ、早苗は秋田弁講座を再開した。
「これは夜、人ん家に行った時とかに使う挨拶の言葉なんだけど、月のきれいなお晩です、っていう昔の挨拶から来てるんだって。『こんにちは』の語源が、
「あー、これはすごく解りやすい」
「他にはこれ、アホって意味の『ホジナシ』。これは漢字にすると『本地無し』で、この本地っていうのは仏教用語の『真理』みたいな意味だらしいのよ。それが無いからつまりアホ、だとか」
「なるほど。音だけだと分かりづらいけど、こうやって漢字ベースで考えると意味が通る気がするね」
だべー、と言いつつ早苗は引き続きノートに種々の秋田弁を並べていく。ねまる、したっけ、おざってたんせ。それぞれの言葉の横に訳語や解説が付けられると、それはちょっとした翻訳字典のようですらあった。
「あと秋田って雪多くて
「それで『そうだね』が『んだね』になったり、『そうなのか』が『んだのが』になったりしたってこと?」
「実際どうだかは分がんねえけどね。でもそういうふうに考えてけば、ああ何となくニュアンスで理解出来んな、って感じもするべ?」
「言われてみると、確かに」
「よしよし。へば、これでキミも今日から秋田弁マスターだ!」
「いや、まだその域にはちょっと達してないかな」
いくら何でもそれは段階を飛躍し過ぎだ。苦笑いを浮かべる真由に、早苗は「謙虚ですなー」と言いつつ口元をにやつかせる。
「それでも私らはテレビとかネットの影響で、かなり訛り抜けてる方だけどね。じいちゃんばあちゃんたちの会話とか聞いてると
「あ、それ、前いたところの友達も言ってたよ。年配の人の話し言葉って訛りが強いから、全然意味が通じないんだって」
「でしょー。うちのばあちゃんなんて、女なのに自分のこと『おら』って言ったりするし。オメエは地球育ちの戦闘民族か! ってなるもん」
「そのツッコミのほうが意味分からないよ」
あはは、と二人が笑い声を上げたところでキリも良く、スピーカーから始業時間を告げるチャイムが鳴り響く。周りで遊んでいたクラスメイト達も席につき、ほどなく担任の真理子がホームルームのため教室へとやって来た。
「先生おはようございます」
「おはようございます。今週から委員会の活動が始まりますが、それに向けて所属する委員会を決めるためのアンケート用紙を配ります。それぞれ第一希望と第二希望の委員会を書いて、明日のホームルームまでに用意しておいて下さい」
そう告げて、真理子は持ってきたプリントの束を最前列の生徒へと配った。先頭から後列へと順々にプリントが手渡しされていき、前席の男子から無言で寄越されたプリントを真由も受け取る。
「ありがと」
それに返事もせず、男子はぶっきらぼうに姿勢を直した。
常に目の辺りを鬱蒼と覆い隠す、ゆるいパーマが掛かったような癖っ毛の頭髪。細く尖った眼差しと頬骨の張ったきつめの相貌。周囲との会話も最低限レベルで、授業中に当てられた時以外では彼のくぐもった声を聞いたためしが無い。仲の良い友人というのもクラスの内外を問わずいないらしく、休み時間になるといつもどこかへフラリと出かけてはチャイムが鳴るまでにフラリと戻って来る。だからと言って周囲から邪険にされるでもなく、まるでそうあるのが当然とでもいうように、彼はただ一人きりで教室の片隅にひっそりと存在していた。
真由自身は別段、彼のことが気になっていたわけでは無かった。どんなクラスにも一人はいる、一匹狼タイプの少年。彼に関して抱く認識はせいぜいその程度。ただ一つだけ、そこに付け加えるべき情報がある。雅人は真由の同級生というだけでなく、同じ吹部の部員でもあった。
桜の芽がようやく膨らみを見せ始めた頃、真由も部の練習にかなり対応できるようになってきていた。来週の連休を迎えるとマーチングフェスまで残り数日。現在はそれに向け、体育館で動きと音を合わせる全体練習に取り組んでいるところだ。
「
ドラムメジャーの打ち鳴らすスティックの音に合わせ、フォーメーションを組んだ隊列が体育館に線引きされた演技範囲、すなわちフロアの上を一斉に動き始める。レフトターン、ライトターン、ボックス、クロス。その動きは既に基礎練習の域ではなく、『コンテ』と呼ばれる隊の動きを書き割った台本に沿ったもの、即ち本番用の演技動作となっている。つまるところ、ほんの数週間前に転校してきたにもかかわらず、真由は来たる五月の本番にメンバーとしてフロアに立つ前提で全体練習に参加していたのだった。そんな思い掛けない真由の大抜擢には、ちょっとした事情がある。
『……二年の長澤に関してですが、諸々の事情から、長澤は今回のマーチングフェスには参加しないということになりました』
それはつい先日のこと。メンバーにコンテが配られさあこれから本格的に練習開始、というミーティングの場でにべもなく、永田は部員たちにそう告げた。その諸々の事情、とやらが何なのかは永田も水月も明かさぬまま。とにもかくにもコンテが仕上がってしまっている現状、今から代役を立てるにしても間に合うかどうかと部員たちがざわめく中、真由を代役にしてはどうか、という案を上げた人物がいた。それは誰あろう、部長兼パートリーダーのちなつだ。
『同じユーフォだし、他のパートの子を無理くり入れるよりは良いんでねえかな。真由は動きも良いし飲み込み早いから、残りの練習期間でも全然間に合うって』
部長で実力者のちなつにそう言われてしまえば、自分なんかに否やを述べる権利などあろう筈も無い。かくして急遽メンバー入りすることとなった真由ではあったが、かと言って曲北は昨年度全国トップの学校、今回のメンバーもほぼ全員がその時の出場経験者。この水準を当然のものとして日々錬磨されてきた面々に昨日今日で追従するのも、そう容易いことではない。
基本姿勢。踏み出しの足の角度。ラインキープ。複雑なコンテの暗記。そして演奏本体。真由とて決してマーチング未経験というわけではないのだが、曲北では一つひとつのことに求められる水準が段違いに高く、少しでも気を抜くとどれかがすぐ疎かになってしまう。本番が近い中、自分が足を引っ張るわけにはいかない。集中しなくちゃ。一つ指摘を受ける度に体の隅々まで意識の根を張り直し、求められた動きをひたすらこなし続ける時間がしばらく続く。
「井上さん、ラインはみ出てる。自分一人の感覚で動かねえで、他の人との位置関係をもっと意識して」
「はい!」
頭上から注がれた指摘に、部員の一人が声を張って返事をする。体育館側面の二階にはキャットウォークと呼ばれる細い通路があり、そこには角ばったフレームのメガネを愛用する三年の女子、
一般的にドラムメジャーの役職はその性質上、部を率いる立場である部長が兼任することも多い。しかしながらそれでは部長の業務が二重三重に膨れ上がってしまい、多忙なちなつの負担があまりに大きくなってしまう。それを避けるため、今年は部長職とドラムメジャーをそれぞれ別の人間に振り分けることにした……というのが現在の曲北の体制であり、小学生の頃にもドラムメジャーを務めた経験を持つという和香がこの任を宛がわれた大きな理由の一つでもある。かと言って無論、層の厚い曲北で他を押しのけ彼女が選ばれたのは、単にそれだけが理由ではない。
「全員、ちゃんと歩幅意識。ムーブ後に位置が決まってればいいってワケでねくて、ムーブ中も統一感のある動きになるよう注意して。今のままだと線が伸びたり縮んだりで、全然揃ってるように見えません」
「はい!」
「あと、ムーブにばかり気を取られて肝心の演奏が小ぢんまりしてます。動きだけあれば良いってんなら楽器要りません。本番ではここより遥かに広いハコで吹くことになります。雑な演奏すればすぐにバレるし、それでムーブもダメだと観てる側からしても『何してえんだコイツら』って印象にしかなりません。フロアに立つ以上、観られてるってことを常に意識しましょう」
「はい!」
和香の指導力はさすが、ドラムメジャーに指名されるだけのことはある。部員たちが「まあこんなものか」と思う程度の微細なズレですら見逃されることは無く、隅から隅まで容赦のない指摘が次また次と飛ばされる。その度に各員の動きはキッチリ修正され、隊列は速やかにあるべき形へと整えられていった。
「んじゃもう一回Fから、演奏アリで行きます。
楽器を構え、真由は深く息を吸う。十字型に並んだ隊列が時計の針のように互い違いで交差し、横二列になった後にフロア手前へ向けて行進をする。さっきから何度もやっているこのムーブがなかなか上手に決まらず、練習はこの部分を徹底的に反復していた。
「黒江さん、交差の時に下向いてる。ここから見てると一人だけ不格好で目立つよ。目線は客席、いつも笑顔で。それ忘れねえで」
「はい」
大きく返事をし、真由は顎を伝う汗を体育着の袖で拭う。交差の一瞬、前の人とぶつからないよう僅かに目線を下げただけのつもりだったのだが、その一瞬ですらも和香のレンズにはしっかり捕捉されてしまっていたようだ。本当に僅かな油断も曲北では許されない。そういう緊張感の連続とハードな反復練習による疲労の蓄積は、真由のみならず部員たちの心身を加速度的に消耗させてゆく。
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ」
背後からものすごい息切れの音が聞こえてくる。振り返ると、そこでは立ったまま膝に手をつき体を屈める雄悦の苦しげな姿があった。元々がかなりの痩躯で見るからに体力に乏しい彼は、青ビョウタンよろしくちょっと動いただけでもすぐバテてしまう。これにはさすがの真由でさえも『大丈夫なのかこの人は』と思わずにおれなかったほどだ。額をびっちょりと脂汗にまみれさせ、足腰をがくがく震えさせながらも、雄悦は雄悦なりに全身全霊で練習についていこうと必死のようだった。
「へば十分休憩にします。休憩明けに一度最初から通してみるんで、不安な箇所があったら今のうちにパートで確認しておいて下さい」
はあー、と疲労の籠った吐息が一斉に飛び出す。水を飲みに行く者、凝り固まった体をストレッチでほぐす者、ステップやムーブを他の人にチェックしてもらう者、と余暇の過ごし方は人それぞれだ。真由もまた余念なく、さっき注意された箇所を日向に観てもらいながら動きの再チェックをする。
「三、四、――うん、今はいい感じ。楽器吹いてる時に前のめりにならねえよう、肩と背中の張りに気い付けてみて」
「分かりました。ありがとうございます」
念のため一人で同じ動きを繰り返し、正しい動きの感覚を身体に刷り込む。本番までの練習時間は多いようで少ない。周りに迷惑を掛けないためにも、限られた時間の中で一つずつを着実に身に付けていかなければ。そう思っていた時、ポーン、と、どこからか高く澄んだ金管の音色が響いてきた。あまりに綺麗なその音色の源泉を、真由は無意識のうちに目で辿る。
出どころは金色のトロンボーン。それを吹いていたのは雅人だった。直立の姿勢で巧みにスライドを操る彼が息を吹き込む度、ベルからは暖かみに満ち溢れた音がぽろぽろとこぼれ出す。低音から高音まで豊かな響きを保ち、正確な発音でもって音の束を切り分ける。そんな高度な演奏を事も無げに繰り広げる彼の技量の高さは明らかに、中学生のそれを逸脱していた。
「上手いべ、アイツ」
気付くとちなつがすぐ隣に立っていた。彼女も真由と同じく、その視線を雅人へと固定している。
「アイツのこと、真由は知ってる?」
「はい。同じクラスなので、一応は」
「雅人って親が音楽マニアらしくてさ。だから小っちぇえ頃からピアノ教室通ってたり、自作の曲を軽音同好会の連中におろしたりしてて。曲北じゃいろいろ有名なの」
「そうなんですか」
「他にも小学校から音楽やってるって子はいるっちゃいるけど、アイツぐらい上手いヤツはいねえんだ。去年入部してからずっとボーンのファースト張ってんのも納得、って感じだよね」
それはつまるところ、雅人は全国トップレベルを誇る曲北の中でもエース級の腕前を持っている、ということだ。楽器の上手さに学年なんか関係ない。以前誰かがそう言っていたのを真由は思い出す。音楽に限らずどんな分野にもそういう人間はいるものだが、今までの真由にとってそれはただの普遍的事実に過ぎず、自分の生涯にはおよそ縁遠い存在だと思っていた。生まれながらに環境と能力とに秀で、それを伸ばす努力を惜しまず、常人を遥かに超える結果を叩き出す、それこそが俗に『天才』と呼ばれる人種なのだろう。
「羨ましいな」
そう呟くちなつの瞳は雅人を通り越して、どこか遠くを見ているみたいだった。何故彼女が雅人を羨ましがるのか。その瞳の先に何を映し出しているのか。窺い知れぬちなつの心境を、この時の真由はただ黙って見送ることしか出来なかった。