私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
荒川ちなつ。曲北三年、吹部部長。低音パートリーダー。ユーフォニアム奏者。
そういった諸々の肩書きはしかし、ちなつがどんな人物なのかを語る上ではただの符号に過ぎない。彼女自身の多忙さも相まって、これまで肩を並べて練習する機会の少なかった真由はちなつのことを良く知らずにいた。と言うよりは、新しい環境に慣れることで頭がいっぱいだったせいでちなつ個人に意識を割く余裕が無かった、と表現する方がより正確なのかも知れない。
「あれ真由、今日は残り?」
「はい。まだちょっと苦手なフレーズがあって」
「早めに潰しておきたいってかあ。感心感心」
ニヒリ、とちなつが開いた口の端に犬歯を覗かせる。その笑顔はいつも弾けるように明るくて、真由は立ち眩みさえ覚えそうになってしまう。そんな彼女がユーフォを構える姿勢たるや、あたかも一切の隙がない武術の型を見ているかのような印象だ。ちなつの毛穴という毛穴から神経という名の細い糸が無数に伸び、それは手の内に収まったユーフォを抱き込んで体と同化させている。そう形容しても良いくらい、吹く時の彼女の姿からは持ち得る全ての集中力をユーフォへと注ぎ込んでいるのが見て取れた。
一拍置いて、ちなつが唇を震わせる。角の取れた真ん丸な粒の音。それがベルから広がり瞬く間に教室中へと響き渡る。張りと芯のある力強さ。細やかなフレーズを精密に吹き上げる丁寧さ。今まで真由が聴いてきた中でも、ちなつの演奏技術は指折りと言って良い。少なくとも曲北の中でなら間違いなくトップレベルの奏者だと断言することが出来る。甲乙はともかく吹部内でちなつに匹敵し得るのは、恐らく雅人ぐらいのものだ。
「うん、良いと思うで。張りもあって瑞々しい、健康的かつ色気たっぷりなオナゴの肌ってカンジ」
隣で聴いていた日向の評に、ちなつは「その例え、全然意味分かんねえんですケド」と苦笑を交えて文句を垂れる。この二人は毎日居残り練をするのが習慣らしく、彼女らが他の部員よりも先に楽器を片付ける姿を、真由はこれまでにただの一度も見たことがなかった。
「ちなつ先輩と日向先輩は、いつもこんな遅くまで居残り練をなさってるんですか?」
「いっつもっていうか、まあ半分は必然ってカンジな」
真由の問いに答えたちなつが、諦観と自嘲に彩られた表情を浮かべる。
「帰りに部室の戸締まりしねえとってのもあんだけど、事あるごとに部長ー部長ーって呼ばれたり会議だ何だって出掛けたりで、普段はなかなかパート練出来ねがったりするべ? まともに練習できる時間なんて、全体練習と居残り練ぐれえしか無くてさ」
「んで私はそんなお忙しいちなつ様のために、こうして毎日居残って音合わせに付き合ってあげてるってワケ。ああ美しきかな、女同士の友情よ」
「付き合ってる、って言う割にはからかってる時間の方が多くね?」
芝居がかった日向の物言いにちなつがズバズバとツッコむ。二人のこうした仲睦まじいやり取りを、真由は転入後から今日までのこの短い期間だけでも幾度となく目にしていた。
「だってちなつ上手えんだもん、私がアレコレ言わねくても勝手に一人でどんどん改善しちゃうし。でも音合わせに関しちゃ相手がいねえと、さすがに一人だけじゃ練習になんねえべ?」
「んーまあ、それは否定できねえかも」
照れるように耳の後ろを掻きつつ、ちなつは日向の言い分をやんわりと認めた。
「それにしたって、お二人とも大変ですよね。ただでさえ色んな業務や指導で忙しいのに、居残り練までってなると帰りも遅くなっちゃいますし、それに勉強のほうも、」
「ぐわっ」
急にみぞおちの辺りを押さえ、ちなつがうずくまる。どうしたんですか、と慌てて覗き見ると、彼女の表情は悶絶の形にひどく歪んでいた。ひょっとしてどこか具合が良くないのか。「あーあ黒江ちゃんやっちゃったー」と追って日向が責めるせいで、真由の焦燥はますます強まる。
「やめれ真由、それは私に効く」
「え、えっと。なんかすいません」
「ちなつは勉強キライだもんなー」
冗談っぽい日向の声色。直後にガバリと身を起こしたちなつも何処かニヤニヤとしていた。そうと気付いた途端、真由の顔がかあっと熱を帯びる。つまるところ、自分は二人にからかわれていたのだ。
「ごめん真由、今のはウソ、ジョークジョーク」
「一瞬本気で心配しましたよ、もう」
「黒江ちゃん安心して、こいつホントは勉強大好きだがら。なあちなつ?」
「バッカ、勉強スキな奴なんていねえべ。やらねばなんねえがら仕方なくやってるだけだって」
「まーた口ばっか。定期テストで毎回五十位以内の秀才が何をおっしゃいますやら」
膝の上のチューバを腕枕代わりにして、寝そべるようなポーズの日向が『ニシシ』と悪戯っぽく笑う。各学年がおおよそ三百人弱という生徒数の曲北において、その順位はけっこうな上位だと言えるはずだ。
「文武両道、ってことですか、ちなつ先輩は」
「そゆコト。あ、だけどちなつってスポーツはからきしダメだがらなあ。それ考えっと、どっちかって言えば文科系と芸術系で、文芸両道?」
「意味違ってくるべ。文芸だと、小説書くとかそういうのだし」
「それもそっか。へば何だ、文文両道?」
「いったい私は何を振り回してんだ」
「さっすがちなつ先生、頭の回転が早くてらっしゃるぅ。ブンブンだけに」
「アホばっか言って、この調子こき」
ちなつのチョップが日向のおでこを捉える。あいでっ、と大げさに仰け反る日向のリアクションはとても滑稽で、真由も思わず噴きそうになってしまう。
「お二人はすごく仲が良いんですね」
「まあね。日向とは同じ小学校だったし、低学年までは一緒のクラスだったんだよ。家近いからお互いの家さ遊びに行ったり、クラスでも一緒に絵描いたりしてたっけな」
「へえ」
んだんだ、と昔を懐かしむように日向が頷く。
「んで、高学年になってクラスは別々んなっちゃったんだけど、一緒にマーチングやんねえか、ってヒナに誘われてさ。それからずっとだから、えっと、もう九年の付き合いってことか」
ちなつが指折りして年月を数える。それに真由は「凄いですね」と目を丸くした。自分たちの年頃で九年間というのは途方もない長さだ。どんなに仲の良かった友達同士であっても、クラスや部活が別々になることで縁遠くなってしまう事は多い。それに、仮にずっと一緒のクラスや部に在籍していたとしても、それぞれ新しく築いた交友関係によって互いの関わりが薄くなってしまう場合だってある。近いけれど遠い。遠いのに離れない。人と人との絆には色んな形があるものだということを、既に真由は知っている。
「それまでは部活入るつもりなんて無がったんだけどね。せっかくだしやってみれ、って父ちゃんにも後押しされて、それでマーチング部に入ったのが私の音楽人生の始まり」
「けっこう意外です。先輩凄く上手ですし音楽にも詳しいですし、てっきり小さい頃からピアノ教室とかで習ってたんじゃないか、って勝手に想像してました」
「全然。ヒナもだけど、教室のオルガンだって碌に弾いたこと無かったぐれえだよ。ユーフォに触ったのだって、そん時が初めてだったからね」
「じゃあ日向先輩は、どうしてマーチングを?」
「私は姉ちゃんの影響。私の五つ上なんだけど、その姉ちゃんがマーチングやってたの見てて、何か良いなーって思ってさ。もっとも、姉ちゃん本人は中学卒業と一緒に音楽辞めちゃったんだけどね」
「へえ」
「で、いざ四年生に上がってマーチング部に入ろうと思ったまでは良かったけど、クラスにゃ私の他に希望してる子がいなくてさ。一人で入部すんのも怖いなー、って考えてたときにピコーンと来たわけよ。そうだ、ちなつも巻き込んじまおう! って」
「巻き込むって、そんな」
「酷えと思うべぇ真由? これがヒナって女の本性ですよ」
「まったまたぁー、そんなんとっくにご存知でございやしょう。ねえダンナ?」
「おん?」
日向とちなつがガツリと目を合わせ、それから二人揃ってウハハハハー、と高笑いをする。こうした阿吽の呼吸もきっと、長い付き合いの中で二人が育んできたものなのだろう。真由にはそれが微笑ましくもあり、けれど同時に、ちょっとだけ羨ましくもあった。
「こうしてお二人を見てると、なんか『親友』って感じで、良いですね」
「どっちかって言えば『腐れ縁』かな。もちろん良い方の意味で」
「ちなつもたいがい酷えな。ってか、腐れ縁に良いも悪いもあんの?」
「あるある。中学に上がる時さ、ウチら二人ともどこの部に入るかーなんて相談、お互いしてねがったじゃん。ンだってのに、よし吹部入ろって思って入部式の日に一人で音楽室行ってみたら、そこでヒナとばったり会ってさ。ここでも? って、そん時思ったもん」
「それってきっと、お二人とも音楽が好きだったから、なんじゃないですか?」
「ん。まあね」
そう呟いた日向に、おや? と真由は違和感を覚える。そのとき日向はこめかみの辺りを撫でながら、まるで何かを誤魔化そうとするみたいに視線を泳がせていた。そんな日向の様子にちなつは気付いていないようで、満更でもなさげに再び白い歯を浮かせる。
「それからヒナとはクラスは別々だけど、部活ではずっと一緒でさ。去年私が部長になってからも、パートのことお願いしたり居残り練にもこうやって付き合ってくれたりで、私も助かってんの」
「おかげで私の成績は一向に上がんないんだけどね」
「そりゃ私のせいでねくて、ヒナの頑張りが足らないだけですー」
「もちろん頑張りますよぅ。だがら、時々は宿題教えて?」
「だーめ。勉強は自分の力でやんねえと身につかねえぞ」
「あーはいはい、ソウデスヨネー。こういうトコまじドライなんだがら、ちなつは」
たっぷり一呼吸ぶんの間を空けてから、三人は同時にブッと噴き出した。
「さ、馬鹿言ってねえで練習するべ」
「はい」
ちなつたちに倣い、真由もユーフォを構え直す。厳しく真剣な練習と休憩中の和気あいあいとした空気。それは楽しくもやり甲斐のある、きわめて理想的なひと時だった。
マーチングフェスに向けての練習が、日に日に熱を帯びていく。今日も全体練習は体育館で行われているのだが、他の部との兼ね合いもあるため、明日以降は中庭での練習へと移ることになっていた。あとは本番前日に一度、体育館での練習が予定されているだけ。屋外練習は音の反響やアクションを取る際の目測の付け方が本番環境からかなりかけ離れているし、何より天候次第では中止となってしまうため、屋内とは何かと勝手が違う。つまるところ、音や動きをじっくり合わせたり修正したりする機会は今日が実質最後ということになる。
先輩たちによれば秋田県大会には他に目ぼしいライバル校がいないため、東北大会への推薦枠はほぼ確定と言って良い状況なのだそうだ。とは言え人前で何かを披露する以上、手抜かりがあっていい訳が無い。『目標と目的』という永田の理念に準じるならば、大会で勝ち上がることは単なる目標に過ぎず、会場にいる観客を感動させる事こそが曲北の真の目的の筈である。それは日々の活動や年月の蓄積と共に、部員の大半にもきちんと沁み渡っていた。それが証拠に、近頃の練習ではドラムメジャーの和香だけでなく、部員同士で注意の声を掛け合うことも随分と増えていた。
「真由、まだ上半身曲がってる。体は真正面に固定して足だけ進む方さ向けんの。中途半端な切り替えはカッコ
「はい」
「そんで雄悦、アンタは体揺らし過ぎ。音は外れてるわ歩き方はバタついてるわで、ほとんどゾンビになってんど」
「ハァ、ハァ、……分がってる」
んぐ、と時おりえづきながら、雄悦がほうほうの体でちなつに返事をする。彼の基礎体力の無さはどうやら筋金入りのようだ。いつぞや言っていた日々の筋トレも、およそ効果が上がっているようには見えない。針金のごとき痩身を汗だくにしながら襲い来る疲労に抗い続ける雄悦を見ていると、そのうち心臓発作でも起こしてしまうのではないか、と真由もだんだん心配になってくる。
「大丈夫ですか、伊藤先輩」
「ぜぇ、ぜぇ、うぇっ。悪りい黒江、今はちょっと、話し掛けねぇ、で」
「だーめだこりゃ」
息も絶え絶えといった雄悦の様子に、スーザフォンを担いだ日向が天を仰ぐ。「今年こそ演奏する側に立つ」と息巻いていた雄悦だったがしかし、この分だと練習のみならず本番でも一人だけ悪目立ちしてしまいかねない。マーチングは全員で作り上げるものであり、それ故にたった一人が挙動を乱してしまえば、それは全体の構成そのものの破綻をも引き起こしかねないのである。
「おーい雄悦ー。もうギブアップだがー?」
彼のそんな苦境は、当然ながら見逃される筈も無かった。二階のキャットウォークから、メガホンを口に当てた永田が雄悦に声を掛ける。
「大丈夫っす。まだ、やれます」
「無理すんな。コンテ通りには動けてっから、雄悦は楽器構えたまま音出さねえで歩ぎさだけ体力使え。分がったかー?」
「……はい」
それは体力不足の雄悦を慮っての措置か、はたまた不確定要素を切り捨てるための容赦ない裁断か。真意はともかく、永田の決定を黙って受け入れるしかない雄悦の表情が苦々しく歪む。
「荒川、それと黒江。ここはユーフォ二本でやる。雄悦の音が減る分、もうちょい音張れるがー?」
「私は大丈夫です」
永田の問いにちなつは即答を返した。彼女に続くその前に、真由はそっと胸へ手を当ててみる。この心臓がどくどくと強く脈打っているのは、決して体を動かした直後だからというだけの理由では無いだろう。
自信などは何処にも無かった。ここで期待に応えられなければ、全体に影響を及ぼすことになる。それを怖いと思う気持ちは当然のようにある。失敗して恥をかくよりだったら自分に出来ることだけを粛々とやっていた方が何倍もマシだったと、後で後悔する時が来るのかも知れない。
けれど。
「できます」
答えは挑戦一択だった。元よりその為に曲北を選んだのだ。やりたいと思ったことを貫き通す上で、迷う事なんて一つもない。ならば後はやり切るだけ。ただそれだけだ。強い意志を瞳に込めて、真由は決然と永田を見上げる。
「良い顔つきだ。本番まであまり時間は無えども、頼んだど二人とも」
「はい!」
ちなつと声を重ね、真由は大きく返事をする。本番まであと十日あまり。この限られた時間の中で、出来得る限りのことを精いっぱい頑張ろう。拳をぎゅっと握り締め、真由はそう念じていた。
最初の事件はそんな中で、突如として起こった。
フェスの出場メンバーが体育館で練習をしている間、それ以外のいわゆる『サポート組』は音楽室で、基礎練習や簡単な曲を用いた合奏練習を行うことになっていた。入部して日が浅い一年生の大半や、水月らごく少数の上級生などで構成されるサポート組。彼らは部長であるちなつの言いつけに従い、今日も滞りなく自分たちの課題に取り組んでいた、筈だった。
「何やってらのよアンタら!」
耳をつんざく怒号。それが真由の耳に届いたのは、体育館での練習を終えて音楽室へ戻るため階段を上り切ろうとしていた、まさにその時だった。何があった? 真由は残り数段の階段を駆け上がり、角を曲がって急ぎ音楽室へと向かう。
音楽室の入口ではメンバー部員たちが瘤のように固まり、こわごわと中の様子を伺っていた。真由もまたこそりと彼らの近くへ寄り、状況を掴もうと躍起になる。室内からは何やら言い合いをしているような声こそ聞こえど、ここからではそれ以上の情報を得ることは出来なさそうだ。
「ちょっとすいません」
どうにか室内の様子を窺おうと、人垣を掻き分け進めるところまで進み、つま先立ちになって首を伸ばす。と、チラリと見えた音楽室の中では腕組みをしたちなつと、彼女に正対して仁王立ちするユーフォの一年生、玲亜の姿があった。二人とも顔を強張らせていて、周辺にびりびりと殺気立った緊張感が漲っている。他のサポート組はみな一様に怯えた表情のままで二人を注視するばかり、止めに入る様子などは特に見受けられない。
「言ったよな私。サポート組はコレ練習しといて、って。ちゃんと基礎練習用のも含めてそれ用の楽譜も全員さ配ってらった筈だよ。なのに何で、別の曲合わせて遊んでんのよ」
「遊んでたんじゃありません。同じ曲ばっかだば飽きるって意見が出て、せっかくだがらちょっと別の曲もやってみようってことンなって、それで吹いてらっただけです」
「それが遊んでるって言うの。そもそも二年は何してんの、後輩がこんな勝手してたらアンタらがきちんと注意せえよ」
「す、すいません……」
棘の立った口調でちなつが後輩を叱り飛ばす。それは普段の朗らかな彼女とはあまりにもかけ離れていて、ありったけの怒気にまみれた今の姿は、傍観者である筈の真由までもが心の底から震え上がってしまうほどの恐ろしさだった。
「指定された曲以外は吹いちゃダメだなんて、吹奏楽部にそんな決まり無いんでないですか?」
「そういうのは休憩中とか居残り練とか、空いた時間にいくらでも出来るべ。好き勝手すんのをサボりの言い訳にすんな」
「だがら、サボってません。鬼ごっことかトランプやってたワケで無くて楽器吹いてたんですから、吹奏楽部としての活動上は問題なんか無えハズです」
「部としてこういう練習しましょう、って決めたことをやらねえで問題無えワケ無えべ。そういうのをサボってるって言うんだよ」
「へば飽きた時は何とせば良いって言うんです? それでも吹かねねえって言われたって、身が入ってねえのにただ吹いてたって、やってるフリなだけで能率なんか上がんないですよね。それこそサボってんのと何が違うってんですか」
対する玲亜も負けじとばかり、次第に声量を増していく。一年生が三年生に食って掛かる、というのもなかなか良い度胸をしているとは思うが、しかしこれでは収拾がつかない。そうこうしているうちにもちなつと玲亜は激論を重ね、両者のボルテージはどんどん高まっていく。このままじゃまずい。そう思い始めたその時、トントンと誰かが真由の肩を叩いた。
「何やってるの、真由ちゃん」
そこに居たのはユーフォを抱えた水月だった。サポート組の水月が何故ここに? と一瞬うろたえた真由の心中を知ってか知らずか、彼女はきょとんとした顔で「これ、何の騒ぎ?」と真由に尋ねる。
「いやその、ちなつ先輩と三島さんが何か揉めてて」
「玲亜ちゃんが?」
どれどれ、と水月は真由がそうしたように、つま先立ちで部室の様子を覗き込む。どうやら彼女はこの事態について何も知らなかったばかりか、元凶となったサボり行為とやらについても心当たりすら無いらしい。ホントだ、と背伸びの姿勢を解いた水月は、その白く形の良い頬へと手を添えた。
「でもどうしてこんなことに」
「っていうか水月ちゃん、他のサポート組の子たちと一緒にここで練習してたんじゃないの?」
「ううん。私、例によって他所で個人練してたから」
『例によって』などと自分で言うあたり、水月も水月でなかなか肝が据わっている。いや、今はこんなこと言ってる場合じゃない。ひとまず真由が事の次第を一通り説明すると、なるほどね、と水月は指で顎をさすった。
「あの通りちなつ先輩もすごい剣幕だし、三島さんもぜんぜん譲らないしで、誰か止めに入らないと収まらないと思うんだけど」
「別にいいんじゃない。このまま放っておけば」
「放っておくって、そんな」
「荒川先輩と玲亜ちゃんのどっちかが致命的に間違ってるならともかく、私は玲亜ちゃんの言ってることにも一理あると思うよ。音楽するための部活なのに、みんなで好きな曲を好きに合わせちゃいけないだなんて、それって何だかヘンじゃない?」
「それは……でも、」
「でも、なあに?」
水月が不思議そうに小首を傾げる。そうまでされても、真由は回答を述べられずにいた。部活ってそんなんじゃないとか、こうあるべきだろうとか、頭の中にはそれっぽい台詞が幾つも浮かんでいる。なのにそれを口に出そうと思う度、心のどこかでブレーキが掛かってしまう。何故なのだろう。自分の中の何かが上手くまとまらない。その感覚はひどくもどかしくて、不快だった。
「でも、お互いの言い分はいったん置いといて、いい加減誰か止めに入らないと。このままじゃ本気のケンカになっちゃう」
「心配ないよ。こうなった以上、そろそろ調停が入る頃だと思うから」
調停? やけに悠長に構える水月を真由は訝しむ。答えは程なくして示された。
「はいはいはいはい、ここらへんで双方ストップ!」
音楽室から廊下まで響くほどの咆哮。ちなつと玲亜の間に割って入ったのは、日向だ。切迫極まる両者を掻き分けグイと引き離し、日向はまずちなつへとその渋面を向ける。
「とにかく落ち着け。部長のアンタが大声上げれば他の部員も無駄に怖がるでしょ。騒ぎもどんどん大っきくなるし、悪循環もいいとこだべ」
そうと言われてようやっと、ちなつは凍りつく周囲の状況に目を向ける気になったようだ。激昂によって忙しなく上下していた彼女の両肩が、首をめぐらすにつけ次第に緩やかさを取り戻していく。
「それと三島ちゃん。さっきまでの話をまとめれば、つまり吹部の部員は練習中に好きな曲選んで好きに吹いたって良いって、そう考えてるってこと?」
「そういう権利は、あると思います」
毅然とした口調で玲亜が答えると、日向は口に手を当て、んー、と言葉を選ぶように唸った。
「学校によっては、そういう方針で活動してる吹部もあるっちゃあると思う。楽譜と楽器があるわけだし、後は吹く人さえ揃えば合奏だって出来るんだしな。そうやって皆で楽しくやりながら上手くなって、演奏会とかで聴いてる人にも楽しんでもらえるような音楽が出来るんなら、それでも良いんだかも知んないね」
「だったら、」
「だけどそれはあくまで一般論。三島ちゃん、入部式で永田先生が言ったこと覚えてる? ウチらはマーチング全国最優秀賞が目標、お客さんを感動させんのが目的。それに向かって全員一丸でがんばるべって話もした。んだよな?」
忘れたとは言わせない。そうとでも言わんばかりに日向が語気を強めると、さすがの玲亜も不承不承といった様子でおもむろに頷きを返す。
「けど部員それぞれがアレやりてえコレやりてえって好き勝手してたら、人も楽器もナンボあったって足らないぐらいバラバラんなるでしょ。それだったら、一つの部活にこんだけ人数集まる意味が無い。だがらこそ幹部は色んな人の意見を取りまとめてコレっていう風に方針を打ち出すし、幹部の決定には部員全員が協力して一つの事をやっていく。そうやって初めて集団での活動が成立するもんなんだって、私は思う。そこで我慢しなきゃなんねえ人ってのも出てくるとは思うけど、それも全員がまとまるためにはある程度、仕方の無いことなんでねえの?」
いたって落ち着いた口調で、かんしゃくを起こした子供をなだめすかすように、日向はこんこんと玲亜を諭す。組織論、と言えるかどうかは分からないが日向の述べる主張、その趣旨は真由にも分からないではなかった。たくさんの人が集まればそこには何らかの軋轢や摩擦が生じる。それらを上手く解消できなければ、集団のまとまりを維持し続けることは難しい。ならば解消のためには個々が我を張るだけでなく、どこかで妥協や譲歩を求められることだってある。そうした諸々の折り重ねの上に保たれるのが秩序というものである筈だ。
「やりたい曲がある時はミーティングとかで提案してくれたっていいし、ちなつの言うように空き時間でやるんだったら誰も文句言ったりしねえ。ちなつの言ってんのは、これをやろうって決まった時間のうちはやるべきことをちゃんとやろう、って話。それを一方的に無視して好き勝手してたら誰だって怒るよ。ちなつだけで無ぐ、私だって怒る。それは解るな?」
「……はい」
「ンだったら良し。とりあえず三島ちゃんは一旦席さ戻って」
すっかり意気消沈といった様子で殊勝に頷き、玲亜はすごすごと自分の席へ戻っていった。ふう、と日向は一息をつき、それから後方で硬直していたサポート組の一、二年生たちへと向き直る。
「他の一年もいいね。それと、さっきちなつも言ってたけど二年は上級生なんだから、後輩のお手本になるよう練習を主導したり、言うこと聞かない後輩にはビビってないでちゃんと注意すること」
「はい」
「メンバーの皆だって他人事でないからね。気付いた時はみんなで注意し合う。みんながみんなのお手本、って気持ちで取り組む。そういう意識が抜ければ曲北はおしまいだよ。本番も近えんだし、油断しねえようキッチリふんどし締め直していきましょう」
「はい!」
「私からは以上。さあちなつ、とっとと帰りのミーティングやるべ。な?」
「……分がった。ごめん、ヒナ」
「ホーント頼むで、部長サン」
やれやれ、と日向が芝居っぽく肩をすくめる。そんな彼女の手際の良さに、真由はひたすら感服していた。どこでどう身に着けたものか知らないが、普段の陽気でおちゃらけた姿からは想像もつかない名裁きっぷりは、真由がこれまで抱いていた日向への人物評価を大きく改めるに値するだけの衝撃があったことは確かだ。
騒ぎが一件落着したことで部室前に出来ていた人だかりも瞬く間に解消され、部員たちは各々所定の場所へと向かっていく。もうすぐミーティングが始まる。自分も席につこう。そう思って振り向いた真由の目前に立つ人物の口から、その一言は漏れ出した。
「惜しかったなあ」
真由は我が耳を疑う。魚群の如き部員たちの蠢く只中で、独り言のようにポツリと落とされた水月の澄んだ声だけは、やけにハッキリと聞き取ることが出来た。どう反応して良いか分からず立ちすくむ真由の目には、自分と水月の周囲だけが時の流れから切り離されてしまったみたいに、その他の全てがぼやけた背景としてしか映っていなかった。
「ちょっとお粗末だったね、玲亜ちゃん。あんなバカ正直に歯向かったりして、もう少しうまくやれば良いのに」
え、とこぼした自分の声が、ほとんど吐息にしかならない。何かを言おうとして、真由は震える顎が言葉を噛み切れていないことに気が付く。
「でも、面白い子だな。これは思いがけない収穫かも」
ニタリ、と水月の口角が大きく吊り上がった。そのあまりの凄絶さに、真由はまばたきをすることも出来なくなってしまう。不気味に歪んだ彼女の表情は、もとが端正に整っている分、言い知れようのない狂気さえ感じさせる程のおぞましさだった。
『収穫』とは何なのか。水月は玲亜の中に何を見出したのか。それを問う前に彼女は無言で身を翻し、音楽室の戸口をくぐってゆく。そのたった寸秒の動作がスローモーションでくっきりと、真由の網膜へ刻み込まれていった。
「何してんの? もうミーティング始まっちゃうよ」
ハッと我に返った時にはもう、廊下に残っているのは真由ひとりだけになっていた。声を掛けてきたパーカッションの三年生に慌てて会釈をし、真由も音楽室の中へと向かう。胸の内をかき乱す残響を、そのまま廊下の端にかなぐり捨てることは、かなわなかった。
「何なのあの一年。部長に楯突くとか、頭おかしいんでねえの」
「空気読めよな、最初っから素直に謝ってりゃあいいのに」
「『権利はあると思います』って、バッカくせ。何でああいう奴って平然とあんなこと言えんだべ?」
「ちょっとやめれってー。本人に聞こえるで」
ミーティングを終えて解散となったその後も、部室内の空気は散々だった。そこかしこから小声の悪態が飛び交い、時にはクスクスと嫌味ったらしい含み笑いさえこぼれ出す。そんな状況に、事の張本人である玲亜は相当いたたまれなかったようだ。周囲の嘲罵に曝されながら楽器を片付けた後は人目を避けるようにして、彼女はさっさと部室を出て行ってしまった。
それまで今日も居残り練をするつもりだった真由はしかし、さてどうしたものか、とユーフォを抱いたまま楽器室の前で立ち尽くす。あんな事の直後にちなつと膝を突き合わせるのはどうにも気が引ける。かと言って今日に限って別の場所で居残り練をするのも、それはそれであからさまにちなつを避けているようなものだ。つまるところ、自分は今日この状況下では「針のむしろ」といった心境で楽器を吹かざるを得ない、ということである。率直に言って、それは嫌だった。
「お疲れ真由ちゃん。そんなとこにボーッと突っ立ったりなんかして、どうしたの?」
そこへ通りがかった水月が、身を斜めに屈めるようにして下から真由の顔を覗き込んできた。半ば予想通りと言うべきか、彼女は既に帰り支度を整えその背に鞄を負っている。先ほどのあれは何だったのかと思うくらい、今の水月はいつもの水月らしい淑やかな面持ちを取り戻していた。
「まだ楽器しまってないの? もしかして居残り練?」
「しようかな、って思ってたんだけどね」
真由の言外の意図を向こうも何となく察したらしい。ふうん、と艶やかに光る横髪をいじくりながら、水月はこちらの反応を窺うように意味深なそぶりをする。
「ねえ真由ちゃん。それだったら、これから私といっしょに玲亜ちゃんを追いかけてみない?」
「え、追ってどうするの」
「玲亜ちゃん、絶対ヘコんでると思うの。なのに周りからあんなふうに言われたら、明日部活に来たくないって思ったり、最悪居づらくなって退部しちゃうかも。それってすごく可哀想じゃない?」
「そりゃあまあ、そうだけど」
「だったら、そんな後輩をケアしてあげるのも先輩としての務めなんじゃないかな。私たち二人とも、玲亜ちゃんとは直属の間柄なんだし」
意外にも、と言うのも失礼な話ではあるが、水月の提案は至極真っ当なものだった。何も音楽的なことだけが吹部の、部活としての在り方ではないだろう。後輩に悩みや問題が発生した時には先輩が面倒を見てあげる。困ったことがあれば仲間同士で話し合って解決を図る。それもまた部活動における大切な一側面、と言われれば否定はしがたい。
「でも私なんかが行ったって、三島さんに気の利いた言葉は掛けてあげられないと思うよ」
「いいの、特別なことは何も言わなくて。一人より二人って言うでしょ。私の他にもう一人傍にいた方が、玲亜ちゃんだって納得しやすいだろうし」
「うーん……」
「ね、行こ?」
水月が袖をぐいぐい引っ張ってくる。この時点でもう、真由は観念せざるを得ない状況へと追い込まれていた。どのみち居残り練をするか否かと悩んでいたところだったし、今日のところはこのまま帰るという選択肢だってある。それに水月の言う通り、もしもこのまま肩身の狭くなった玲亜が退部でもしてしまったら、一連の騒動は随分と後味の悪い結果となってしまう。当の喧嘩相手だったちなつだって気に病むことだろう。だったら帰るついで、とでも思えばいい。自分に何が出来るわけでは無くとも、いま玲亜と話をすることで事態を穏便に収められるのであれば、誰にとっても決して悪くはないことの筈だ。
「分かった、行こう」
水月に頷きを返し、それから真由は片付けのために楽器室へと入った。ケースを棚から下ろし、管体の手入れを手早く済ませ、藍色の起毛に覆われたベッドへとユーフォを寝かしつける。銀色の管体が描き出す自分の像はもやもやと歪んでいて、それはあたかも定まらぬ己の心境をそこに反映しているみたいだった。
本当にこれで良いのかな。ううん、きっと良いんだ。そう自分に言い聞かせつつ、真由は両手でケースの蓋をそっと閉じた。
二人が玲亜を捕まえたのは、それから五分もしないうちのことだった。もっと離れたところに行ってしまったかも、という当初の予想に反して、玲亜は校門を出てすぐのところを一人でとぼとぼ歩いていた。薄暮れの空にはどんよりと灰色の雲がかかり、辺りは深夜のごとく真っ暗。そこにぽっかり浮かぶ玲亜の煤けた背中は、指でトンと突けば音も無く崩れ去ってしまいそうなほどに儚げだった。
「三島さん!」
後ろから真由が声を掛けると、玲亜はビクリと肩を震わせ、それからおずおずと振り返った。
「黒江先輩。と、長澤先輩」
「ごめんね急に。その、私たちもいま帰りなんだけど、三島さんが前にいるのが見えたから」
とりあえず追いついたまでは良かったものの、傷心の玲亜にどう声を掛けるべきかは全然考えていなかった。下手に追い打ちを掛けることの無いよう、真由は探り探りで慎重に言葉を選ぶ。
「ええっと、さっきのことなんだけどね。もし私たちで良ければ、話を聞くぐらいなら――」
「すみませんでした!」
極めて勢いよく、二人に向かって玲亜が頭を下げる。目の前で大きくスイングしたヤシの木頭が鼻先を掠め、「うお、」と真由は小さく仰け反ってしまった。
「あの、私って昔っからこうで。後先とか周りのこと何も考えねえで思ったことすぐ口走っちゃうんです。自分でも悪りいクセだって分がってんですけど、カッとなってしまうとどうしても我慢できねくて」
プリーツスカートの裾をぎゅっと握り締め、玲亜が声を絞り出す。
「さっきだって中島先輩に言われて、やっと皆さんに迷惑掛けたってことに気付いて。ホントもう、自分が嫌んなります。私のせいで空気悪くしてしまって、すみませんでした」
「いや、私たちは別に、そんなふうには思ってないから」
ひたすら謝罪の言葉を述べる玲亜を前にして、真由はすっかりしどろもどろになってしまう。反省しているのは良いとして、まさか彼女がここまで自分を卑下するような自己解釈をしていたとは。そんな玲亜に何を言えば良いか分からず、窮した真由は助けを求めるつもりで水月に目配せをする。それに小さく笑みをこぼした水月は、後ろ手を組みながら「そうだねえ」とおもむろに前へ進み出た。
「玲亜ちゃんが自分で思ってる通り、さっきの態度は良くなかったと私も思うよ。中島先輩が言ったことの繰り返しになるかもだけど、少なくとも相手の言うことを真っ向から否定したのは間違ってる。あれじゃあ荒川先輩だって引っ込みがつかなくなって当然だよ」
「……はい」
「でも、玲亜ちゃんも今は充分反省してるんでしょ?」
「それは、もちろんです」
「だったらそれで良いんじゃないかな。誰にだって失敗はあるんだから、あんまり自分を責めちゃダメだよ」
「でも私、皆さんに申し訳ねくて。何より、しょうもねえことで迷惑掛けた自分に腹立ってて、」
「あんまり難しく考えないの。明日のミーティングの前にでもみんなの前でちゃんと謝れば、それで済むよ。玲亜ちゃん自身も今後は同じ失敗を繰り返さないように気を付けて過ごしてれば、そのうちみんなも忘れちゃうから。ね?」
はい、と返事をした玲亜の鼻が、グズリと滲んだ音を鳴らす。
「実を言うと私たち、玲亜ちゃんのことが心配だったの。あんなことで挫けちゃったら気の毒だな、って真由ちゃんと話して、それで二人して追いかけて来たんだよ。ねえ真由ちゃん?」
「あ、と、うん。そう」
やにわに水月から同調を求められ、焦った真由は関節の外れた人形みたいにコクコクと首を縦に振ることしか出来なかった。
「この通り、玲亜ちゃんにはちゃんと味方がいるんだよ。今日の件は気にしないで、これからも一緒に楽しく部活やっていこう? 私も真由ちゃんも、玲亜ちゃんが困ってる時は惜しまず協力するから」
「はい。……ありがとう、ござい、ます」
とうとう堪え切れなくなったのか、大粒の涙を幾つも頬に走らせて、玲亜は泣きじゃくり出してしまった。そんな彼女の丸まった背中を「よしよし」と、陶器みたいに美しい水月の手のひらが撫でさする。
なんて先輩らしいんだ。この時ばかりは真由も、水月の完璧な対応ぶりに驚嘆せざるを得なかった。さっきの禍々しい表情は自分の見間違いだったのかと錯覚してしまうほどに、目の前の水月は慈愛と慮りに満ちた柔和な笑みを湛えている。ちなつや日向とはまた違う種類の理想的な先輩像。それはまさしく、いま目の前に体現されていた。
ひとしきり泣き終えたことで、ようやく玲亜も昂っていた感情を鎮めることが出来たらしい。明日からもよろしくお願いします、と二人に一礼し、玲亜は再び夕闇の中へと溶け込んでいった。その後ろ背が向こうの角を曲がるまでを見届けてようやく「うはあぁ」と、真由はたっぷり疲労のこもった息を吐くことを許された。
「ね、上手く行ったでしょ」
「そうだね。実際に三島さんを説得したの、ほとんど水月ちゃんだったけど」
というか、全部、と言うべきだ。この件に関して自分などは、ただ黙って傍に突っ立っていただけの木偶の坊に過ぎなかった。水月のように玲亜の荒れた心を
「そんなこと無いよ、あれは隣に真由ちゃんが居てくれたから。さっきも言ったでしょ? こういう時は一人でも味方になってくれる人が多い方が、向こうも心を開きやすくなるものなの」
「なの、かなあ」
「それに私だって真由ちゃんが傍に居てくれて、とっても心強かったんだよ。一人じゃない、って思えるだけで出来ることってあると思う。特に真由ちゃんみたいな子が味方で居てくれるのって、味方してもらう立場からしたらすごく頼もしいことなんだからね」
「それなら良いんだけど」
自分みたいな人間のどこをどう頼もしく感じるものなのか、いかんせん自分ではちっとも分からない。何となくばつが悪くなって真由は俯く。と、その視界を遮るように、上体を横に屈めた水月が下から顔を近づけてきた。
「私、本気でそう思ってるから」
もぎたての果実みたいに潤った水月の唇。それが発音を伴って動く度、洩れ出た彼女の吐息がなめらかに耳をくすぐる。ぞわぞわ、と背骨のすぐ傍をえもいわれぬ感覚が駆け抜け、真由は今にも腰が砕けそうになってしまう。
「じゃあ私もそろそろ帰るから。また明日ね」
するりと身を離した水月はそのまま「ばいばい」と手を振り、玲亜が向かったのとは逆方向へ風のように去っていった。場にひとり残された真由は立ち尽くしたまま、そっと耳たぶをつまむ。さっきの感触はまだそこにねっとりと、生々しくこびりついている。そう感じた時、不意におへその辺りがジンと熱を持ったのを、真由は確かに認識した。
それにしても。家の方角へと踵を返し、真由は改めてこれまでの出来事を振り返る。たった一日のうちに、色々な人の二面性を目の当たりにしてしまったものだ。
いつもは快活で頼もしいリーダーであるちなつの、感情に任せて激昂する姿。
練習の時は厳しいけれど愉快な人だと思っていた日向の、理路整然と落ち着いた対応。
先輩に反抗するほど我の強い玲亜の、脆く打ちひしがれやすい気性。
そして水月の、後輩に対する信じられないほどの包容力。
「人って、分からないものだなあ」
ぽつりと独り言ちた真由に、ひょう、と一筋の夜風が吹きつける。ずいぶん暖かくなってきたと思っていたのに、そのひと吹きは雨上がりのように冷たくて、せっかく膨らんだ蕾をも断ち切ってしまいそうなほど鋭かった。