私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
「昨日はご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした!」
突然の展開に、何事かと部員たちがざわめく。あの騒動から一夜明け、翌日の部活はちなつと共に壇上に上がった玲亜が開口一番、部員たちの前で謝罪のことばを述べるところから始まった。
「あの後、一人になって自分がやったことを振り返って、荒川先輩にはすごく失礼なこと言ってしまったって気付きました。それに私が騒ぎを起こしたせいで、皆さんにもたいへん迷惑掛けてしまいました。これからは決まり事をきちんと守って、もう二度とこんなことは繰り返さないようにします」
「私も、昨日は感情的になっちゃって、みんなにも恥ずかしいところを見せてしまいました。昨日の件で玲亜や私にいろいろ思った人もいると思いますが、二人とも本当に反省してます。これからは部長として信頼されるよう、発言や行動には充分気を付けていきたいと思います」
本当にすみませんでした、と二人が揃って深々と頭を下げる。それを受ける部員たちの感情も複雑といったところのようだが、他ならぬ本人たちがこうして殊勝な態度である以上、外野がどうこう言うべきではないと感じたのだろう。やがてざわつきは収まり、場の一同は部長の次の発言を待つばかり、という気配に切り替わった。それを感じ取ってなのか、ややあって姿勢を直立に戻したちなつがキリリとその表情を引き締める。
「自分で言うのも何ですが、ここから改めて本番に向けて集中していきたいと思います。明後日からはもう連休だし、大会当日までの残り時間もそう多くありません。なので残ってる課題を優先的にクリアして、本番ではベストな演技演奏が出来るようにしていきましょう」
「はい!」
「では今日の練習を始めます。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします!」
かくしてミーティングが終わる頃にはもう、部内はすっかり元通りの空気を取り戻していた。今日は外が晴れているので、全体練習は中庭を使って行われる。自分も楽器の準備をしないと。そう思っていた真由が席を立とうとしたところに、「ちょっといい?」とちなつが声を掛けてきた。
「ごめんな真由、昨日は気い遣わせちゃって」
「え? いえ、別にそんなことは」
「ホントは昨日も居残り練したかったでしょ? でも私があんなだったもんで真由に遠慮させちゃったよね。先輩として情けねえな、私」
ちなつがほぞを噛むように顔を歪めた。彼女が述べた反省の弁を受け、真由は少々呆気に取られる。昨日居残り練をするかどうかで悩んでいたことなんて、その後にあった出来事のせいで、すっかり頭から抜け去ってしまっていた。
「実はあの後、ヒナに散々言われてさ。『ちなつのそういうトコは早く直せ』って。私が喚いて部の空気を悪くすればみんなの士気も下がるし、真由みたく練習しづらいって思う子も出てきちゃうしで、ホント何にも良いこと無えよな」
どうやらちなつはちなつで日向の忠言によって、自己の言動を省みるきっかけを得られたらしかった。組織のトップにあるべき視野と洞察を彼女が取り戻せていることが、何よりそれを雄弁に物語っている。何はともあれ、これにて本当の一件落着といったところだろう。ちなつと玲亜、二人の間のわだかまりが解消されたのであれば、当然ながら真由にも否やなどは無い。
「私は全然大丈夫です。それより先輩、今日も練習がんばりましょうね」
「んだね。ありがと、真由」
少し照れたようにちなつがはにかむ。今回の件を経て心境の変化があったのだろうか、清々しいちなつの顔つきには今までよりもほんのちょっとだけ、大人の香りが漂っていた。
「じゃあ玲亜ちゃん、私たちも行こっか」
「はい。今日からよろしくお願いします、水月先輩」
その一方では、水月が玲亜を伴って楽器室へと向かっていくのが見えた。あの様子を見るに、どうも玲亜は昨日の一件を経てすっかり水月に懐いてしまったらしい。こちらはこちらで実に微笑ましい光景だ。真由は嬉しい気持ちで二人の背を見送る。
いつも個人練ばかりしている水月も、玲亜という後輩がいることで練習に精を出すようになってくれたら。そうなれば、やがては水月も皆の輪に混じって練習を、音楽を楽しむことが出来るようになる筈だ。きっと、彼女の願いそのままに。
練習漬けの一週間はあっという間に過ぎ去り、とうとう本番の日がやって来た。出発地である大仙市からバスに揺られることおよそ一時間。土起こしを済ませた田畑に青草繁る原野、カーブだらけの峠道に方々へ伸びる小川、といった自然豊かな道程を経て辿り着いたその先は、県内最大の都市にして県庁所在地でもある秋田市の都会的な街並みだった。
地元のそれよりも少しばかり背の高いビルが林立する市街道路を抜け、ようやく現地に着いて降車した真由が最初に目にしたものは、本日の会場となる巨大な三角形の建物。県立体育館、と銘打たれたその建物の入口には『第四十回秋田マーチングフェスティバル』と書かれた大きな立て看板が置かれている。周辺には出場者と思しき体操着姿の各団体や腕章を付けた大会関係者らがひしめき合い、まさにフェスティバルの名に恥じぬ賑やかさに溢れ返っていた。
いよいよだ。そう思ったのと同時に、真由の体が緊張と高揚に小さく震える。
「はーい、曲北吹部はこっち集合ー。手の空いてる人はどんどん楽器運びしてー」
更衣室で着替えを済ませ戻ってくると、ちょうど到着したトラックのところでは、ちなつが楽器搬入の陣頭指揮を執っていた。真由も他の部員たちと力を合わせ、荷台に残っていた大型楽器を順々に下ろす。トラックいっぱいに満載されていた中身も、ゆうに百名以上もの部員たちに掛かれば何のその。こうして人海戦術で運び出された楽器ケースの山は、広場側で和香の采配によって種別ごとに仕分けされ、あっという間に規則正しく並べられてゆく。
「ハイ注目ー」
作業を終えひとところに整列した曲北吹部一同の前へ、ちなつが右手を高々と上げながら進み出る。
「もうすぐ本番です。楽器の準備が出来たら、向こうで音出しとチューニングを始めて下さい。時間になったら集合を掛けるんであまり遠くさは行かないこと。それと、サポート組はピットの舞台袖搬入があるんで、時間が来たら忘れずに待機場所まで移動して下さい」
「はい!」
「それじゃ各自、行動開始!」
ぱん、と鳴らされたちなつの柏手で堰を切ったように、部員たちの波がどっとケースの山へ群がる。真由も自分の楽器を探そうとしていたその時、たまたま別方向からやって来た日向とバッタリ鉢合わせになった。
「いよっ黒江ちゃん。似合ってんじゃん、衣装」
「日向先輩、ありがとうございます。先輩もとっても似合ってますよ」
「はっはっ、お世辞ならよしておくれよ。自分のことは自分が一番良く分かってらい」
真由なりの気遣いを、日向はすげなく却下する。今回の曲北の演奏者用衣装は軍服をモチーフとして、長袖の白ジャケットに男女とも黒のタイトなスラックスを合わせたものとなっていた。こういうシンプルな衣装はその分、着る者の体格によってシルエットに差が出やすいものだ。
ちなつや雄悦のように細身で高身長の人なら上手に着こなせるのだろうが、あまり身長に自信のない真由としては『服に着られている』みたいでどうにも気後れしてしまう。それと同じように日向もまた、このユニフォームに対して似たような感情を抱えているのかも知れない。
「それにしてもすごいですよね。去年作ったっていうこの衣装も、秋にはまた新しいものに替えるなんて」
「永田っちの方針だからねえ。選曲もコンテも丸ごとガラッと変えるから、衣装もそれに合わせたものにするんだってさ。テーマの統一感、ってやつ?」
芸術性の追求を第一に考えるなら、確かにそういう手法もアリなのだろう。けれど都合百人分を超える衣装を年単位で入れ換えるというのは、予算的にもかなりの負担が掛かることだ。これが並の学校ならば、いくら顧問が切望しようがまず通らない。それを可能としているのも、曲北が全国屈指の強豪校として確かな実績を上げているが故、といったところなのだろう。
「ただそのおかげで、毎年変わる自分のスリーサイズを突きつけられる残酷さよ。あー、増えこそすれど、ちっとも減らねえこのハラ肉が恨めしい」
「そんなふうに見えないですよ。日向先輩の場合、柔らかくて美味しそうって感じですし」
「おおん? ムダ肉の一切無い黒江殿がそれを仰いますかァ?」
つん、と日向に脇腹を突かれた真由は思わず「ひゃんっ」と情けない声を上げてしまう。
「ちょ、先輩、やめてください」
「はー、直に触ったらシュッとなってて、そのくせ欲しいとこだけプルップル。何かだんだんムカついてきたかも。したらここはどうよ、えいっえいっ」
「や、その、くすぐったいですから。お願いですから、やめ、」
「こぉらヒナ、真っ昼間から後輩にセクハラしてんじゃねえの」
パコンと乾いた音。途端、真由の体の色んなところに伸ばされていた日向の手がするりと解けていく。
「痛っでぇ! ちょっとちなつ、けっこう本気めに叩いたべ、今の?!」
「止めてあげたの。ちょっと間違ったら犯罪行為だぞ、ソレ」
見ると、うずくまった日向が両手でつむじの辺りを押さえながらじんわり涙を浮かべている。対するちなつはゲンコツを作ったままのポーズで、くずおれた日向のことを見下ろしていた。
「全く。アホなことばっかやってねえで、さっさと楽器出して音出し始めれって。本番までもう時間無えど」
「ちぇっ、分かってますよぅ。全くちなつってば、すぐ手ぇ出るんだがら……」
ブツクサとぼやきつつ、日向は巨大な二枚貝のような形をしたスーザフォンのケースを目指してとぼとぼ歩いていった。それをしかと見送ってから、真由はちなつの傍へと近寄り「ありがとうございました」と小声で感謝を告げる。
「別にいいって。ああ見えてヒナも本番前で興奮してんだろね。ま、ちょーっと行き過ぎてたから、今回は鉄拳制裁してやったけど」
「でも日向先輩、ちょっとかわいそうでしたね」
「いいのいいの。どうせそのうち一人で勝手にテンション上げて戻って来るし」
などと邪険な物言いをしながらも、日向の背中を見つめるちなつの眼差しは優しかった。それもきっと、ちなつが日向の人となりを良く知っていればこそなのだろう。ちなつと日向、二人は本当に良いコンビだ。この時期までには真由もそうと確信するに至っていた。
「さあて、私らもそろそろ楽器の準備すっか。今日は目いっぱい頑張ろな」
「はい。頑張ります」
先を行くちなつに続き、真由も楽器置き場へと向かう。アスファルトの地面にずらりと並べられた大小さまざまな楽器ケースの群れ。その中から、真由は自分のユーフォケースをすぐに見つけ出す。ロックを外して蓋を開けると、昨夜のうちに隅から隅まで丹念に手入れを施したマイユーフォは、今日も深みのある白銀の輝きを放っていた。
ケースからユーフォを取り出し胸に抱き、まず最初にマウスピースを鳴らして唇を少しなじませた後、それを楽器に付けて
一通りをこなしてちょっぴり安堵した真由は、ぐるりと辺りを見渡した。ちなつと日向は交互にチューナーを使いながら互いの楽器の調律を行っている。雄悦はステップの最終確認に余念がなく、集団の輪から外れたところでは雅人が一人でメロディのフレーズをなぞっていた。ドラムメジャーの和香はバトンを小脇に挟み、四角い眼鏡のレンズをクロスで念入りに拭いている。「そっちそっち!」「そっちってどっち?」とかしましいやり取りを繰り広げるサポート組の中には泰司や玲亜の姿もある。
みんなが本番を前に、それぞれのやるべきことに向かって集中し、あるいは尽力している。彼らのそんな姿を見た真由は同時に、体の奥底から何かがこんこんと湧き出てくるのを感じた。曲北吹奏楽部の部員として初めて踏む本番の舞台は、もうすぐそこまで迫っていた。
「――私たちは大曲北中学校吹奏楽部です。今回は『ミス・サイゴン』をテーマに、その物語の一部を音で、動きで、全力で演じます。音楽を通じて感動をお届けしたい。そんな想いを込めた私たちの演技演奏、ぜひ会場中の皆さんに楽しんでいただきたいと思います――」
司会の代読による自校紹介アナウンスが大口径のスピーカーから放たれる。その間に部員たちは速やかにフロアへ散らばり、各々所定の位置へと着いた。真由もまた前後左右の位置関係を確認し、楽器を胸の高さに構えてその場に静止し時を待つ。
部員たちの配置を後方から見据えるドラムメジャーの和香とフロントピットの指揮台に立ったスーツ姿の永田とが頷き合う。審判員によって演技開始を示す旗が振られ、永田と和香が腕を上げたのを合図に、部員たちは呼吸を揃えて整然と楽器を構える。緊張がピークを迎える一瞬。全ての準備が万全に整ったことを確認した永田は腕を大きく振り上げ、そして大きく振り下ろした。
地を刻むようなドラムの連打。荒れ狂う過酷な運命を予感させるファンファーレの
曲調が移り変わり、木管が主体となって悲哀を綴るフレーズを美しく歌い上げていく。その合間を縫うようにして旗を持ったガードの面々が艶やかに舞う。ここからはしばらく緩やかなテンポが続き、それと共に歩行速度にも余裕が出る。だがそれは演技上、必ずしも楽なこととは限らない。スローウォークの時ほど間隔の乱れはより目立ちやすくなるからだ。体に叩き込んだ感覚を頼りに場面ごとの最適な距離を保ち、他者の動きに気を配り、フォーメーションを完璧に揃える。機械で測ったかのようなその正確さは、血の滲むような練習の日々に裏打ちされていた。縦へ、横へ、そして斜めへ。一人ひとりの複雑な動きがフロア上に幾つもの模様を描き、それは次の瞬間にまた別の模様へと移ろい、悲しみのメロディと共に連綿として流れ行く時の残酷さを紡ぐ。
場面はさらに次へと転じる。二重の円を形作ったメンバーが放射状に広がり、その中央でガードの二人が交わるように旗をかざしては離れていく。円の一部に切れ目が生じ、そこから二列になった隊はフロアを後ろ向きに縦断して二又に裂け、その流れは怒涛の勢いでフロアの左右へと別れた。二つの塊にまとまった集団。そのちょうど中間の空隙に、今度は打楽器を担いだ『バッテリー』と呼ばれる集団が躍り出る。地鳴りのようなドラムのけたたましさが息を吹き返し、演奏演技は再び迫力と緊張感を取り戻す。ここからステップは一段と複雑さを増す。前に出した足を横へ直角にスライドさせ、その足を軸として体をぐるりと捻る二百七十度ターン。踏み込みの角度。回転の勢い。そして速やかな静止。それら全てを全員がピタリと一致させると聴衆からは最大級の歓声が巻き起こった。続けて十字の形に並んだ隊列が各々動き、時計の針のように交差する。練習中にみんなが苦戦していたこの箇所は、音量面でも最大級のボリュームが求められるところだ。交差時の姿勢に注意を払いつつも一人分が欠けている音量を補うべく、真由もちなつもありったけのブレスをユーフォへと注ぎ込む。鳴り響く大音声と追いつかない呼吸のせいで頭がくらくらする。けれどここが踏ん張りどころだ。足に力を込めてベルアップの姿勢を取り、真由は音色の美しさを保てるギリギリの音量と共に、足に力を込めて前進を開始する。ここがこのドリルで最も盛り上がる場面、カンパニーフロント。両サイドに分かれたトロンボーン隊のスライドが閃光のように虚空を切る。ガード隊は上へ向かって旗を投げ、それを鮮やかにキャッチする。スーザやユーフォの畳み掛けるような重低音とトランペットを主体とした華々しいメロディ。それらは混然一体に折り重なって洪水のように観客席を駆け巡っていく。ここまで来たら、フィナーレまではあと一息だ。
出すべき音と為すべき動作に従って、ひとりでに体が動く。それをいま支配しているのは疲労感でもなければ義務感でもなかった。ひたすら純粋に、楽しい。こんなにすごい演奏を、こんなにすごい演技を、自分とみんながつくっている。その実感が燃料となって、尋常では得難いほどの高揚感と多幸感をどくどくと際限なく真由の奥底へと注ぎ込んでいた。その喜びが、とっくに疲れ切っているはずの体を突き動かしていた。もっとだ。もっとすごい感覚を味わってみたい。今までにない高みを。打ち震えるほどの喜びを。そして、最高級の楽しさを。
――全ての演奏演技が終わり、荒く息を吐く真由の耳には文字通り、万雷の拍手が鳴り響いていた。体のあちこちがじんじんと疼き、胸の奥で心臓が暴れ馬のように跳ね回っている。退場の拍子を取るドラムに合わせて足を動かす間もずっと、それらは真由の全身を止めどなく揺るがし続けていた。
きっと、この時だったのだと思う。
自分が『熱病』に冒された、その最初のきっかけとなったのは。
「……というわけで、我らが曲北吹部は無事、十月の東北大会への代表推薦を頂くことが出来ました」
堂々たるちなつの宣言に、部員たちはワアア、と拍手喝采をもって互いに喜び合い労い合う。大会は滞りなく全日程を終了し、吹部の一行もまた既に音楽室に戻って帰りのミーティングを行っている最中だった。
「んだけど、ここで浮かれないように。今回のマーチングフェスはあくまで目標への第一関門でしかありません。本番は東北大会以降。そしてその間にはコンクールを始めとする各種演奏会があります。その一つ一つに気を抜くこと無く全力で臨みましょう」
「はい!」
「では永田先生からも一言、お願いします」
「おう」
壇上に上がった永田はまず「ひとこと!」とお決まりのボケをかまし、それに部員たちがきゃっきゃと無邪気な笑声を上げた。それらがひとしきり収まってから、永田は空気を切り替えるように小さく咳払いをする。
「えー、まずみんなお疲れ様でした。今日の演技演奏ですが、みんな練習してきたことがちゃんと出せてて素晴らしい内容だったと思います。新生曲北一発目の本番としては、非常に良いスタートを切れたと言って良いでしょう」
予想外な永田のベタ褒めぶりに、真由はちょっぴり拍子抜けしてしまう。こういう強豪校であれば、例えどんなに良い結果であっても顧問からは「あそこがダメだ、ここが出来てない」と苦言が飛び出すのではないか、と思い込んでいたきらいも無くはないのだが。
「んだども、この中には内心悔しい思いをしてる奴や、『もっと良くやれたハズ』って思ってる奴もいるんでねえが、と俺は思う」
永田がそう述べた途端、それまでさざめいていた部室はシンと静まり返った。永田の言っていることを最も痛感している者のうち一人は、たぶん雄悦だ。事前にあれほど意気込んでいたにもかかわらず、本番では結局楽器を吹かずにステップだけを行っていた彼の胸中がいかばかりであったかは、察するに余りある。部員目線では完璧だと思えていても観客側の視点で見ればそうではない、というところだってきっとある事だろう。恐らくは、真由自身にも。
「そういう点を今後改善して、最後には各々悔いのないようにするための準備期間を、我々は幸運にも今回授かることが出来ました。これはみんなの頑張りのおかげでもあり、みんなのご家族を含めたたくさんの人たちの支えのおかげでもあります。そのことにしっかり感謝しつつ、今のこの気持ちを忘れずに、これからも目標と目的に向かって邁進していきましょう」
「はい!」
「つーわけで、先生からは以上。年寄りはもうすっかりヘトヘトですんで、職員室でアイスでも食ってきます」
「えぇー?!」
先生ずりぃー、俺さもよこせー、という諸々の罵声もどこ吹く風、「へばな!」とだけ言い残して永田は軽やかに退室してしまった。成績優秀な吹部の顧問には個性的な人物が多いとは良く聞く話だが、永田もその例に洩れずかなり奔放な性格をしている。あるいはそのぐらいでなければ、全国最優秀賞のような栄冠を手にするのは難しいものなのかも知れない。
「ハーイ、静かに」
姿を消した顧問と入れ替わるようにして、ちなつが手を叩きながら再び前に出る。
「今日は居残り練禁止で明日は休養日になってるので、みんなも今日は早く家さ帰って疲れをじっくり癒して下さい。くれぐれも休みのうちにハメ外し過ぎて、明後日の練習再開からいきなり病欠なんかしねえように」
一度口を閉じたちなつが唐突に、チューバパートの辺りをギトリと睨みつけた。それに即応してどこ吹く風とばかり、涼しい顔でカラ口笛を鳴らしながら顔をそむけた日向は、さっきのちなつの物言いからしてどうやら過去に何かをやらかした前科があるらしい。
「とにかく、休める時にはしっかり休むこと。私からは以上ってことで、今日はこれで解散にします。今日も一日お疲れさまでした」
「お疲れさまでした!」
締めのあいさつと同時に、部員たちは雪崩を打ったように帰り支度を始める。それを眺めるでもなく、真由はしばらくぼうっと座ったままでいた。べつに人混みが解消されるまで待ってから動こう、などと打算していたわけではない。単純に本番で全力を出し切った充足感と疲労のせいで、すぐに動く気力が湧かなかったせいだ。
「お疲れさまでした、黒江先輩!」
そうしていたところに玲亜と泰司が労いの言葉を掛けにやって来た。お疲れさま、と真由も後輩たちに笑顔を返す。
「すごかったっす、先輩たちの演技演奏! 俺も早く先輩たちと一緒にステージ立ってみてえっす」
「石川はその前に、まず一曲吹けるようになんねえとダメだべ」
「はあ? バカにすんなよ三島。俺だって一曲ぐれえ、もう吹けるようになってるし」
「何よ、その一曲って」
「チューリップ」
チュー、リッ、プ、と玲亜が嘲笑混じりに復唱する。その悪しざまな態度を見かね、真由は咄嗟に口を開いた。
「ダメだよ玲亜ちゃん、『チューリップ』だってちゃんとした曲なんだから。それに千里の道も一歩から、って言うでしょ? カンタンな曲だってちゃんと吹けるようになっていくのは上達の近道だよ」
「あ……そうですね。調子こいてすいません」
「やーい、黒江先輩に怒られてやんのー」
「うっせ、ホジナシ」
こんなふうに泰司と玲亜がぎゃあぎゃあ罵り合うのも、いつの間にやら日常茶飯事みたいになっていた。彼らのやり取りは日向たちに比べれば剣呑ながらもどこか微笑ましくて、もしも自分に弟や妹がいたらこんな感じだったのかな、と真由は想像上の光景を二人の姿に重ねてしまう。と、泰司がふと何かを思い出したように「あ、っと」と論争の口をつぐんだ。
「ところで黒江先輩、会場さ居た時にカメラであちこち撮ってたみたいっすけど、先輩って写真が趣味なんすか?」
「ああ、そう言えばみんなには言ってなかったかも。写真撮るの、趣味っていうか、昔から好きなんだ」
真由はがさごそと鞄を探り、取り出したカメラを泰司に向けてかざす。ずっと昔に父から譲り受けたこのカメラは、真由にとってユーフォに次ぐ宝物だ。このカメラで撮った景色や思い出を数え始めたら、それこそ枚挙にいとまが無い。撮り貯めた写真を余さず現像し写真帳にしまい込むことは、真由の半生における大切な記録作業であり、またある種の儀式でもあった。
「へぇー、フィルム式なんて今どき珍しいっすね」
「デジタル式のも持ってるんだけど、フィルム独特の色が好きなの。っていうか石川くん、良くこれがフィルムカメラだってこと分かったね」
「あ、へへ、いやあ。親父の実家のじいちゃんがカメラ好きで、自慢のカメラコレクションだーっつって色々飾ってんすよ。俺はそんな詳しくないんすけど、じいちゃん家に遊びに行くと毎回とっ捕まって、いろいろ説明されるもんで」
「そうなんだ。もし私が石川くんのおじいちゃんに会ったら、カメラの話で盛り上がれそうだなあ」
「それ、マジっすか?」
「何でオメーが興奮してんのよ」
「三島は黙ってれよ。……んでその、もし先輩さえ良けりゃ、明日にでもじいちゃん家に案内しますけど、どうすか?」
「えっ」
「じいちゃん家、市内にあるんでそんな遠くないですし。先輩がカメラに興味あるって聞けばじいちゃんも大歓迎だと思うんで」
やけに強く誘ってくる泰司を前に、真由はしばし考え込む。彼のその申し出はありがたいと言えばありがたい。けれど、いくら孫の部活の先輩とはいえ、赤の他人である真由が突然押し掛けるというのもどうなのだろう。それはそれで先方の迷惑になってしまうのではないか。
「せっかくだけど遠慮しておくよ。今度お祖父さまから聞いたカメラのお話、私にも聞かせてね」
「あ、そ、そうっすか……」
「だがら、何でオメーが落ち込んでんのよ」
うなだれかけていた泰司が、うっせ! と激しく玲亜に吠える。彼の感情の機微はよく分からないが、どのみち自分には関わりの無いことだと信じて疑わぬ真由には、せいぜい場を取り繕うように愛想笑いしておくぐらいしか出来なかった。
「まあこんなホジナシのことは放っといて、私そろそろ帰ります。先輩もゆっくり休んで下さいね」
きょろきょろ辺りを見渡した玲亜が頃合いとばかり、手にしていた鞄を背負う。帰りに混雑する部員たちもだいぶ掃け、音楽室の中にはまばらに人影が残る程度だった。これならすし詰め状態にならずに学校を出ることもできるだろう。
「ありがと。じゃあ玲亜ちゃん、また明後日」
「本番お疲れさまでした、お先に失礼します」
キッチリと一礼をし、玲亜は部室を去っていった。あの日以来、玲亜は同級の泰司などには時々口を滑らせることもあれど、こと上級生に対してはちゃんと礼節を弁えた言動を取るようになった。そして気付けば自分も、彼女を『玲亜ちゃん』と下の名で呼ぶ程度には玲亜と打ち解けつつある。あるいはそれもあの子の教育によるものなのか。などと物思いに耽りつつふと顔を上げたそこには、もうとっくに帰ったものとばかり思っていた泰司の姿がまだあった。
「あれ、石川くんは帰らないの?」
「先輩こそ、まだ帰らないんすか」
「私はもうちょっとだけ休憩してからかな。石川くんも今日は疲れたでしょ? 私に構わず先に帰っていいよ」
「え……はい。や、じゃなくて、そ、その」
「どうかしたの? もしかして、私に何か用事でもあった?」
コトリと小首を傾げながら、真由は泰司をじっと見つめる。
「ええっと、ですね。つまり、俺、俺――」
「俺?」
「……俺、おっおおお先します! お疲れさましたっ」
急に声を張り上げた泰司は鞄をひったくり、一目散に音楽室を出ていってしまった。あまりに突飛な彼の行動に真由はポカンとしてしまう。もしかして、それほどまでに帰りたいと思っていたにも関わらず、彼は先輩である自分に気を遣って今の今まで帰れずにいたのだろうか。そうなのだとしたら泰司には気の毒なことをしてしまった。後で詫びた方がいいのかな。そんなふうに真由は思案する。
「青春だねぇ」
一部始終を傍らで眺めていた日向が、訳知り顔でポツリと呟いた。早く帰りたかったであろう泰司と日向の言う青春とに、一体どんな関係が? 謎が謎を呼び、雪だるま式に膨れ上がるこの状況に、真由はますます首を傾げるばかりなのだった。
真由がようやっと学校を出たのは、ちなつが音楽室を閉めるギリギリ直前のことだった。普段の部活に比べれば格段に早い時間帯なのだが、それでも周辺の家々は茜色の塗料を撒いた後みたく、すっかり夕焼けに染まっている。長いような短いような、とても不思議な一日だった。本番を迎えた後はいつもこうだ。一歩一歩と足を進める度に全身に襲い掛かる疲労感が、何故かいまはひどく心地良い。それを噛み締めながら歩くうち、目の前の公園に広がる景観にはたと気付き、真由は立ち尽くした。
桜が、満開になっている。
四月半ばに気温の低い日が続いていたせいか、今年の開花は平年より少し遅めになっている、という県内ニュースを見たのはついこの間。あれから忙しい日々を過ごすうち、気付けば春は足元で咲き誇っていた。これを逃してはならない、と真由は早速鞄からカメラを取り出す。
カシャ、カシャ、という小気味良い機械音と共に、レンズを通してフィルムへと焼き付けられていく光景の数々。桜はまさに今が花見どきで、枝の上に開いた花弁は幾重にも折り重なり互いにその美しさを競い合っていた。せっかくだし別角度からも撮っておこう。と、もう一度ファインダーを覗いたその時、真由はそこに彼女の姿を見つける。
「……水月、ちゃん?」
そこには私服姿の水月がいた。ギイギイ、と小さくブランコを揺らす彼女が、真由の呟きに反応したかのようにゆるりとこちらを向く。
「真由ちゃん、お疲れさま」
「どうしてここに、水月ちゃんが」
「待ってたの。真由ちゃんのこと」
ブランコから立ち上がり、そしてゆっくりと水月がこちらへ近付いてくる。待ってた? そんな真由の疑問にはお構いなしに、後ろ手を組んだ水月は悪戯っぽく目を細めた。
「どうだった? 本番」
「え。うん、楽しかったよ、とっても」
「それなら良かった」
うっそりと笑みを浮かべ、踵を返した水月はさっきのブランコまで戻り「どうぞ」と手招きをした。それに応じ、おずおずと隣のブランコに腰かける。束の間の静寂。何となく落ち着かない気持ちにさせられ、真由は自分から口を開く。
「ひとつ、水月ちゃんに聞きたい事があるんだけど」
「なあに?」
「どうして今日休んだの?」
それは決して水月を責める口ぶりにならぬよう、それとなく尋ねたみたいに聞こえるよう、出来る限り声色を選んで発言したつもりだった。対する水月はしかし、しばらく返答をよこさない。沈黙が続く中、二人の座るブランコの鎖だけが赤錆びを剥がされ窮屈そうな音を立てる。
「真由ちゃんはさ、今日の本番に出てみて『楽しい』って、そう思えたんだよね?」
ようやっと水月が寄越したのは、こちらの質問を無視するかのような問い返しだった。それは水月が答えたくないと思ったからなのか、それとも真由の回答次第で腹の内を明かすつもりでいるのか。どちらともつかず、そして水月への答えを今さっき告げてしまっている以上、真由もまた黙るほかは無い。
「私はね、この景色を真由ちゃん自身が楽しいって思えているのは、とっても素敵なことだと思う」
ギイ、と鎖が大きく軋む。それはブランコに立ち乗りした水月が地面を蹴って、大きく漕ぎ出した音だった。
「それはきっと特別なことなの。真由ちゃんが真由ちゃんだからこその」
「私が、私だからこそ?」
水月の言っていることが全然理解できない。それはあるいは疲れのせいで、うまく頭が回っていなかったからなのかも知れない。今はただ、ぎいこ、ぎいこ、と強まる錆めいた金具の音がひどく耳障りだった。
水月がブランコを大きく引き、はずみをつけて前へと動き出す。その勢いに乗じて飛び出すように、水月の体が宙を舞った。その長い髪をなびかせて。まるで銀河の暗幕をそこへ広げるみたいにして。それを見た真由の手元で、カシャ、と何かが音を立てる。それは自分のフィルムカメラだった。考えるよりも先に指が反応してしまうほどに、その一瞬はあまりにも唐突で、美し過ぎた。
土埃を立てて水月がきれいな着地を決める。振り向いた彼女は事もなげにつま先でトントンと地面を蹴り、靴についた砂を振り落とした。
「でもね。だからこそ真由ちゃんにはいつか、知って欲しい」
ゆらり、と水月が再びこちらへ近付いてくる。夕陽を浴びて真っ赤に燃える彼女の髪が眩しくて、真由は思わず目をすがめる。
「そうじゃない人にとっては、その景色がどんなふうに映っているのかってことを」
自分を覗き込む水月の瞳は、星一つ無い真夜中みたいに真っ暗だった。途端、全身からドッと冷や汗が噴き出す。――我に返った時にはもう水月の姿はどこにも無くて、ただ辛うじて「じゃあね」と去り際に告げたその声だけが、確かに彼女がここに居たことの残滓として、おぼろげな意識の中に漂っていた。
カメラをぎゅっと握り締め、真由は頭上の桜を見上げる。満開の桜からは僅かに花弁がこぼれ始めていて、この分だと数日の内には散り桜に変わってしまいそうだ。
雪国の春は短い。その移ろいの早さを思う時、それはまるで今の自分みたいだと、真由はそう感じていた。