私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
大型連休、その最終日。
吹部の休養日でもある本日、真由は当初どこか家の近所でユーフォでも吹いて過ごそうかと考えていた。しかし本番での高揚感と疲れのせいなのか、昨日のうちに楽器を持って帰るのをうっかり忘れてしまい、現在ユーフォは鍵の掛かった楽器室の奥にある。連休期間ということで永田も学校にいないとなれば、あそこから楽器を引っ張り出すことはもはや不可能と言って良い。
それならそれでしっかり休んで疲れを癒すのも一つの手なのだが、しかし外はせっかくの晴れ模様、どこにも出掛けぬままというのはどうにも勿体ない気がしてしまう。そうこうしているうちにお昼を回り、尚も時間は刻々と過ぎ去っていく。そろそろ今日の過ごし方について、真由は決断しなければならなかった。
「どうしようかな」
机の置き時計を一度眺め、もう何度も吐いたその独り言をまたも繰り返す。こんな時にタイミングよく誘ってくれる友達でもいれば良かったのだが、その第一候補である早苗は今日まで卓球部の合宿に参加中であり、第二第三の候補となるクラスメイト達も既に他の子と遊ぶ約束をしていたらしかった。そして彼女たちの中に堂々と割って入るだけの図々しさを、あいにくと真由は持ち合わせていない。
いっそ、ひとりでもいいか。どうせなら写真でも撮りに出かけてみよう。そう思い立ち、おもむろにタンスの引き出しを開ける。目についたのは去年の秋に買ったひざ丈のプリーツスカート。何だかんだで出番の無いままひと冬を越してしまったこのスカートを、今日こそは履いて出歩く絶好のチャンスと言えよう。これに飾り気の少ないライトグレーのパーカーを合わせ、日よけ代わりにぶかぶかのキャスケットをかぶる。帽子の横から飛び出る長髪のせいで、姿見の中の自分は何だかビーグル犬っぽくも見えたが、別に誰かに見せるつもりでいるわけでもない。今日の装いはこれで決まりだ。
手早く身支度を整えてから、これを忘れてはならぬ、と机上のカメラに手を伸ばす。とその時、真由の脳裏にゆうべの光景がぶわりと浮かび上がった。燃えるように輝く夕陽。艶やかに舞う桜。そして水月の、暗い深淵を思わせる漆黒。あの瞬間、あの美しさを捉え切ることが、自分には出来なかった。きっとフィルムには手ブレでぼやけた地面の像しか写っていないに違いない。それを己の不安定な心情につい重ねてしまったせいで、真由の胸は僅かに曇る。
机の上にはフィルムとデジタル、二つのカメラ。しばらく逡巡し、それから真由はデジタル式のカメラを掴み取り、黙ってそれを肩掛けポーチへと押し込んだ。
黒江家が住まうアパートは、二つの川に挟まれた三角地のちょうど真ん中にある。この二つの川はもう少し下流で一つに合流するのだが、うち片方は登下校の際に渡ることになる丸子川。そしてもう片方、大仙市の中心を南から西へと流れる雄物川は先日水月から教えてもらった通り、夏の花火大会が催される場所でもある。まずはそちらへ行ってみよう。そう決めた真由は住宅街の区画からまっすぐ川の方へ進み、堤防道路へと至る階段を上った。
「うわあ、綺麗」
真由のいる東岸の向こう側、つまり雄物川西岸の堤防には、桜の木がずらりと立ち並んでいた。快晴の大空から射すうららかな陽気とほの暖かい風、それに運ばれてピンク色の小さな花びらがいくつも舞い踊り、川の水面に長い花筏を形作る。周囲に広がる草木は青々と生い茂り、その奥にそびえる姫神山は実に悠然と、瑠璃色にまぶされた大空にその雄姿を誇示していた。たくさんの色で埋められ、命の躍動に満ち溢れる世界。これを撮らない手は無い。さっそくカメラを取り出した真由は、春爛漫の景色をシャッターで切り取ってゆきつつ、気分に任せて堤防をそぞろに歩く。
雄物川の東岸は辺り一面を河川敷公園として整備されていた。と言っても特に遊具などは見当たらないのだが、短く刈られた原っぱでは小学校低学年くらいの子たちがボールを追って駆けずり回るなどしているし、連休最終日ということもあってか、奥の河原に目を向けると複数の家族連れがバーベキューをしたり釣り竿を振ったり、と様々に余暇を楽しんでいる様子だった。どうやらここは華々しいイベントの時のみならず、地域の人々の日常的な生活エリアとしてもきちんと機能しているらしい。堤防道路を散歩中の老夫婦も揃ってにこやかな笑顔で、穏やかな風を浴びながらのんびり歩く姿も実に気持ちよさそうだ。そんな団欒のかたちをそこかしこに見つけながら、真由の散策は尚も続く。
一応の腹積もりとしては、このまま堤防道路を上流方面へ行き、適当なところで堤防を下って市街地側へ。後は日暮れまでぶらぶらと歩きながら道すがらの撮影スポットを見繕う……と、改めて考えるとかなりアバウトな計画ぶりだった。けれど幸か不幸か、悠長にうろついていられるだけの時間的余裕はたっぷりとある。それに秋田へ引っ越してきてからこっち、自宅と学校を行き来するだけの生活を送っていたせいで、この辺の地理感覚にはまだ疎かった。せっかくの機会なんだし、自分の住む街に詳しくなっておいて損は無い。そんなふうに気を取り直し、時々振り返っては迷わぬように現在地と家との位置関係を確認しつつ、真由は道なりの景色を楽しんでいった。
「あれ、」
と、しばらく歩いたその先で、ふと真由の耳が何かの音を捉えた。優雅にたわむように奏でられるこの研ぎ澄まされた音色には、少なからず聞き覚えがある。音の出どころは多分、あそこだ。目よりも先に、鍛えられたその耳が、真由の意識をある一点へと運ぶ。堤防道路の脇、芝生の一角に設置された石造りのベンチ。そこでは音高の変化に伴って、細長い金色の管が前後に伸び縮みしていた。そして、その持ち主はやはりと言うべきか、真由の良く知る人物だった。
「こんにちは、草彅くん」
近付いて声を掛けると、トロンボーンのマウスピースから口を離し、雅人がぬるりとこちらを向く。
「黒江。
スライドを畳んで先端の黒い石突きをつま先の上に置いた雅人が、相も変わらずぶっきらぼうに問うてくる。がらがらと掠れた声が実に思春期の男子っぽい。目の辺りを鬱蒼と覆う髪のせいで彼の視線が自分のどこを見定めているのかは分からなかったが、少なくとも真由が真由であることだけはちゃんと認識してくれたようだ。
「天気が良かったからお散歩中。それとついでに、良い景色見つけたら写真撮ろうかなって思って」
手に持ったカメラをかざすと、雅人はそれを見て納得したのか「あぁ」と低く唸る相づちを打ち、視線ごと顔を川辺へ向けた。同じ二年三組の同級生、であるどころか一つ前の席に座っている雅人とまともに会話をするのは、もしかしなくてもこれが初めてのことだった。
「隣、座ってもいい?」
そう尋ねると、雅人はしばらく考え込むように口を閉ざし、それから『勝手にどうぞ』とでも言うかのように体をひとつ横へとずらした。空いた座面をささっと手で払い、真由はベンチに腰掛ける。雅人との間隔は、ちょうどユーフォのケース一つ分。それ以上近寄ることを彼は許容していない。そういう気配を何となく、真由は雅人と隣接したその肩越しに感じた。
「草彅くんはここで練習中?」
「まあ。家でも吹けんだけど、何となく外で吹きてえ気分だったし」
「いい天気だもんね、今日。私もホントはユーフォ吹こうって思ってたんだけど、きのう学校に忘れて来ちゃって」
ドジだね、と自虐してみせた真由に、雅人は何の反応も示さなかった。微妙に気まずさを覚えた真由は、間を持たせる話題の種は無いかと素早く思索した結果、雅人の持つぴかぴかのトロンボーンへと目を留める。
「楽器持ってきたってことは、お家ここから近いんだね」
「そうでもねえ。ウチはもっとあっち」
最小限の動きで雅人があさっての方角を指差す。それだけでは具体的な距離や位置までは分からなかったものの、彼の言葉と指の角度から、ここから上流方面の遥か向こうに彼の家はあるらしい、と察することだけは出来た。よくよく辺りを見てみれば、ベンチから少し離れた木陰にはトロンボーン用の黒いハードケースと飾り気の少ない通学用自転車が置かれてある。つまりは徒歩で来るのを躊躇う程度には遠くから、雅人は自転車を漕いでここまでやって来たということなのだろう。
「それでもわざわざ来たってことは、ここって草彅くんのお気に入りの練習場所だったり?」
「べつに」
「そっか」
短いやり取り。そしてまたがる沈黙。いったん途切れた会話の流れに、雅人は続きを継ごうとしなかった。爽やかに吹く風が木々を揺らし、擦れ合った葉っぱがサワサワと涼しげな音を立てる。そうしているうちに雅人はゆっくりとトロンボーンを構え直し、軽く音出しをして感触を確かめてから、曲を奏で始めた。
――上手い。いつぞや体育館で一人吹いているのを聴いた時もそうだったのだけれど、真由が純粋にそうと感じるほど、雅人の吹くトロンボーンはとても洗練されていた。張り、深み、滲み、余韻。あらゆる要素はメロディを引き立てるために活用され、汐の満ち引きがそうであるように、真由の耳と心に細やかな波形をかき立ててゆく。時に明るく輝き、時に暗く沈み、それらを繰り返して紡がれる旋律は音量を引き上げた時でさえなお心地良く全身を包み込む。陶酔の後に迎えた演奏の終端、たっぷりのビブラートを伴って最後の一節を吹き終えた雅人に、真由は心からの拍手を送った。
「……よせよ。べつに黒江のために吹いたワケでねえ」
「だって、本当に上手だったから。今吹いてたのって『さくらのうた』だよね。去年の課題曲の」
ん、と雅人が僅かながらも首肯する。
「今の季節にぴったりの曲だよね。春の曲って色々あるけど、私はこういう穏やかな曲の方が好きだな」
「んだのが。黒江は前の学校でも吹部、だったんだよな」
「うん。前いた吹部で課題曲に選ばれたのは『よろこびへ歩き出せ』だったんだけどね」
ふうん、と楽器を下ろした雅人はそこで一度、視線を足元の芝生へと落とした。
「なあ、黒江」
しばし黙した後、雅人がのろりとこちらを向く。
「お前、将来プロんなるつもりあるか?」
「え、いま何て?」
「だがら、プロ」
「ごめん。ちょっと言ってること、よく分からないんだけど」
「ユーフォの」
少々苛ついたように雅人が語気を強める。将来。プロ。ユーフォの。そこまで言われて真由はようやく、雅人の問い掛けの趣旨を把握する。
「ううん、そんなつもり無いけど。でもどうして?」
「だってお前、上手えねが」
鬱蒼とした前髪の隙間に見える雅人の細い目が、ギョロリとこちらを覗き込んできた。まるで猫が獲物を捉える時のような、相手を強く射貫く視線。そのとき真由の胸中を占めていたものは、どちらかと言えば、不安に近い緊張の気配だった。
「音色も綺麗で音程もちゃんと取れてる。マーチングの時だって入部一ヵ月でメンバー入りしてるし、他に渡された楽譜だってあらかた吹けるようになってんだろ」
「それは、まあ」
「そのうえ楽器も自分持ちのだし」
「私以外にもマイ楽器持ってるって人はいるでしょ? それとプロがどうとかっていうのとは、あんまり関係ないと思うけど」
「普通はな。でもお前は実際上手え。前の学校の吹部がどの程度のレベルだったか知らねえけど、普通にやってて
雅人が流暢に会話を紡ぐ。それが真由には何より意外なことだった。こんなに喋る子だとは正直思っていなかった。真由の中での雅人とは、他人と二言三言も喋ればあとはむっつり黙り込んで窓の外を眺めている、そんな社交性皆無な人物だ。その雅人にいきなりこれほどまでの高評価をされること自体、真由からすれば理解不能な異常事態であり、従って彼の言葉を額面通り受け取る気にも到底なれやしない。
「私、そんなにすごくないよ。第一、私よりも上手い人なんて沢山いるし。ちなつ先輩とか草彅くんとか」
「それって比較対象が吹部トップってことだべ? じゅうぶん上等だ」
自分がその立ち位置にあることを否定どころか謙遜すらもしないあたり、彼は自身の演奏技術に絶対的な自信を持っているらしい。それもある意味羨ましいことだ。
「その理屈で言えば、私よりも先に草彅くんがプロになるべき、ってことになると思うんだけど」
「当然だべ」
意趣返しのつもりで放ったこちらの軽口に、雅人は強い断定を投げ返してきた。それにみぞおちを抉られて、真由の呼吸はがふりとつっかえる。
「俺はプロになる。なりてえんだよ。そのつもりで、小っちぇえ頃からずっとやってきた」
ザア、と風がひときわ強く木の枝を揺する。翻った髪の奥に見え隠れする雅人の鋭い眼差しは、さっきの言葉が何より本気のものであることを雄弁に物語っていた。
「ずうっと音楽浸りでやってきて、ずうっとプロになるつもりで生きてきた。俺に才能があるかなんて知らねえ、けど、俺にあんのは音楽だけだ。だから音楽に関することなら何でも、ピアノでも作曲でも、ずっと本気でやってきた。今さら音楽以外の将来なんて、俺には考えらんねえ」
言葉が出ない。同年代の友人知人に、自分の嘱望する将来をここまで明確に語ってみせた者が今までに一人でもいただろうか。そんな未踏の話題にしばらくの間、真由は返すべき言葉を見い出せぬまま、つぐんだ唇の裏側をきゅっと噛みつぶすことしか出来ずにいた。
「……それじゃ、進路は音大とか?」
「県外の高校。音楽科があるから、そこさ行く。もう親にも相談はしてるけど、そこ出たら音大行って、音大出たらプロになる」
「トロンボーンの?」
「それはこれから決める。でもどうせだったら、俺はトロンボーンのプロが良い」
雅人の右手がトロンボーンのマウスパイプをぎゅう、と固く握り締める。ぴかぴかに磨き上げられた金色の管体には、そこかしこに僅かなくぼみや塗装欠けが見受けられた。この楽器と共に彼が過ごしてきた年月は、きっと五年やそこらではないのだろう。いまの真由にはそれに比するほどの何かなど、何も無い。
「私は、そこまでじゃないよ。ふつうに部活をやってきて、ふつうにユーフォ吹いてるだけ。好きって気持ちはあるし、出来るだけ長く続けたいとは思ってる。けど、だからと言ってプロになるとまでは考えてない、かな。少なくとも今は」
吐き出すように、真由は雅人にそう告げる。
「そうか」
雅人は再び下を向き、それきり黙りこくってしまった。失望、したのだろうか。あるいは単に言葉が尽きただけなのか。焦れったい空気が蔓延るせいでお尻の辺りがむずむずする。けれど、仕方が無かった。いま答えたことが真由の考えている全てであり、他にどうとも答えようがないのだ。雅人の思惑などこれっぽっちも読み取れないが、必ずしも彼の期待に沿う回答を求められていた訳ではないのだろうし、そうする義務も勿論無い。そんなふうに、真由は心の中で自己弁護を繰り返す。
「でも、どうして気になったの? 私がプロになるかどうか、なんて」
真由の問いに、ふう、と雅人は鼻から息を吐く。それはおよそ周囲の景観にそぐわない、深い愁いの色を帯びていた。
「勿体ねえから」
「どういうこと?」
「なれる奴がなろうとしねえのは、勿体ねえ。ただそんだけだ」
彼の言わんとしていることがさっぱり分からない。互いに沈黙一択の状況がしばらく続く。やがて雅人はむくりと緩慢な所作で楽器を構え、さっきとは別の曲を吹き始めた。それが『もう喋ることは無い』という彼なりのメッセージなのだと受け取り、真由もまたベンチから立ち上がる。
「ごめんね、練習の邪魔しちゃって。私そろそろ行くから」
「……ああ」
「じゃあまた明日、学校で」
雅人に手を振り、真由は足早にその場を後にする。後方から鳴らされるトロンボーンの音色は、まるで逃げ去る自分をどこまでも追いかけてくるみたいだった。歩きながら、真由は手のひらをじっと見つめる。果たして自分はユーフォのプロになりたいと思っているのか。あるいはいつの日か、なりたいと思うときが自分にもやって来るのだろうか。それは少なくとも、いまの自分には分からない。
休み明け初日、練習開始前のミーティングは、これからの活動スケジュールをちなつが部員たちに伝達するところから始まった。
「今後直近の予定としては、今月後半と来月の中旬にそれぞれ駅前イベントのパレードと地区の合同演奏会があります。それ用の楽譜は先月渡してあるんで、各パートきちんと普段から練習して、いつでも合奏で吹けるようにしといて下さい」
手元のプリントに時おり目をやりながら、ちなつは説明を続ける。昨日は久々にゆっくり羽を伸ばせたが、ここからはまた当面休みなし。土日祝は終日練習か本番かのどっちかという、曲北の日程はまこと事前の予想を裏切らない多忙ぶりだ。
「それと、目下の大きなイベントは夏の吹奏楽コンクールです。今年の課題曲は『ライジング・サン』、自由曲は『聖母に捧げる賛歌』に決まりました。楽譜は後で楽譜係を通じて各パートに配るけど、来月にはコンクールメンバーを決める為のオーディションがあります。他の曲練と同時並行になるんで大変だと思うけど、各自うまく調整して練習時間を確保して下さい。特に一年は、学年だなんだと気にせずしっかり練習しておくこと。でないと後で恥かくよ」
うえー、と新入生たちが心底嫌そうな声を上げる。オーディション、と言われて気持ちを盛り上げられる人間もそう多くはないだろう。もしいるとすればそれは、雅人のように絶対的自信を持っている人種か、あるいはとことんポジティブモンスターであるかのどちらかだ。
「楽譜係はこのあと音楽準備室で、永田先生からコンクール曲の楽譜をもらって各パートに配って下さい。コンクールについては以上です。それと今週末、近くの高校で楽器ごとに講師の先生を招いた講習会があります。参加を希望する人は後で用紙を取りに……」
ちなつの声を聞くでもなく聞きながら、真由は左隣をそっと見やる。今日の水月は普段と何一つ変わりなく、退屈そうな顔つきで桃色に染まる指の爪を眺めていた。こうして見ていると、あの桜咲く公園で水月が見せたおぞましいほどの美しさが、夢か何かだったかのように思えてならない。けれど現実にあったことの証明として、真由の中ではあれからずっと水月の声が鈍い残響となって留まり続けている。
『この景色を真由ちゃん自身が楽しいって思えているのは、とっても素敵なことだと思う』
そして水月はこうも言った。『そうじゃない』人にはこの景色がどんなふうに映っているのか、いつかそれを知って欲しい、と。
昨日家に帰ってからもずっと、真由はこのことばかりを考えていた。それは何となく、雅人に言われたこととも何か近いことのような、そんな気がしたから。けれどいくら頭を捻ってみたところでちっとも答えには辿り着けず、やがて困憊した真由は全ての思考を身体ごと布団に投げ出し、そのまま眠りに就いてしまったのだった。
何故、自分は水月や雅人にあんなことを言われるのだろう。何故、あんな目で見られるのだろう。それが解らないのはきっと、他の誰より自分自身を解っていないからだ。そんな思いが今も胸の奥でぶすぶすと燻っているみたいで、荒れ狂う不快さを握り潰すように、気付けば真由は己の胸元を鷲掴みにしていた。
「すいませーん。低音パートの分の楽譜、お届けに上がりやしたー」
その一声と共に、分厚い紙束を抱えた女子が景気良く教室の引き戸を開けたのは、ミーティング終了からおよそ三十分後だった。
「おーご苦労」
「なんもッス。ちなつ先輩は今日も不在ッスか?」
「んだ、なんか生徒総会に向けての会議と、来月やる壮行会で応援団の団長と打ち合わせだって。幹部サマは毎度お忙しくて大変そンだなあ」
「またヒナ先輩ってば、ヒトゴトみたいに言ってー。ちなつ先輩に聞かれたら怒られるッスよ。あ、これどうぞ」
楽譜係の女子から一括して手渡された楽譜の束を、日向はパッパッと手早く選り分け、それぞれの楽器担当者へ配っていく。
「ええと、ユーフォの楽譜はコレとコレだな。んじゃ取りに来てー」
ユーフォの面々が楽器を置き、日向の下へと集う。渡された数枚の楽譜にはそれぞれ、先ほどちなつが言っていた曲名が記されていた。課題曲はまだ参考演奏などで耳にした機会もあったが、自由曲のほうは真由にもとんと見覚えのないものだ。
「この『聖母に捧げる賛歌』って、音源とかって借りられるんでしょうか?」
「どうだべな、後で備品管理係に聞いてみれば? もし永田っちからCDとか預かってれば、備品として貸し出ししてくれるハズだし」
「分かりました、ありがとうございます」
もし可能ならさっそく今夜あたりにでも聴いてみよう。日向に一礼してから席に戻り、真由は一度自由曲の楽譜に目を凝らす。参考演奏のイメージに囚われるのは良くないことだが、曲の全容を掴むためには演奏音源を直に聴くのがいちばん手っ取り早い。出来ることならパート譜ではなくフルスコアを眺めながら聴くことで、他のパートとの連携や主題との関わり合いも理解しやすくなる。これは真由に最初に音楽を教えてくれた顧問からの、受け売りと言っても良い教えの一つである。
せっかくだし、フルスコアの件を楽譜係に尋ねてみよう。そう真由が思い立った時、目当ての楽譜係はさっきまでいた日向の傍ではなく、何故か雄悦のすぐ隣に陣取っていた。
「ドンマイですよぉユウ先輩! こないだのフェスは残念だったッスけど、今からがんばって特訓すれば、秋にはきっとブイブイ吹きながらマーチング出来るようになってるッスから!」
ユウ先輩。彼女の放ったその語句に、真由は聴き覚えがあった。あれは確か真由が入部したその日、雄悦が自分の呼び名とするよう求めていたものだ。けれど実際には真由を含め誰一人として、彼のことをその名で呼ぶ人物を今日の今日まで見掛けなかったわけなのだが。
「それにユウ先輩は良い音してますし、もしマーチングがダメでもコンクールがあるんスから大丈夫ッス!」
「いや、それ何のフォローにもなって無えがら」
日向がその女子へ気さくなツッコミを入れる。この様子を怪訝な顔つきで窺っていた真由に気が付いてか、知らないっけ? と日向はおどけた表情を見せた。
「あの子、ウチらと同じ小学校のマーチング部出身なのよ。
「そうなんですか」
「そっかぁ、黒江さんって転校してきたばっかだから、私のこと知らねくて当然だよね」
話を聞きつけた奈央が鋭いスピンでこちらを振り向く。綺麗に揃えたボブカットの髪型と溌溂とした顔つきは、華奢な体格の彼女に良く映えていた。
「よろしく黒江さん。私二組だがら、教科書忘れた時とかいつでも頼ってもらっていいで」
「隣のクラスだったんだ。こっちこそよろしく、松田さん」
「あー、苗字で呼ばれんのってなんかムズ痒い。同じ学年同士なんだし、真由ちゃん奈央ちゃんでいいべ?」
「う、うん。まあ」
こう見えて奈央はなかなかに図々しい、もとい社交的な性格の持ち主らしい。自分の呼び名を一方的に決められるのはまだしも、相手の呼び方まで強制されるのは雄悦の時よろしく若干ならざる抵抗感を覚えるものがある。そんなことはともかく、クラス外の友人というのは実のところ、とてもありがたい存在ではあった。別に初めっからアテにしているという訳ではなくとも、いざ忘れ物をした時などに頼る先が複数あるのは、それだけで随分と心強いものだ。
「なぁなぁ、真由ちゃんってユーフォ何年目?」
「小四の時からだから、今年で五年だね」
「じゃあ私といっしょだ! 私も小四からトランペットやってて、今年で五年目」
嬉しい、という気持ちを表すかのように、奈央は笑顔のそばにパアと両手を咲かせる。
「春転校して来ていきなりメンバー入りしてっから真由ちゃんすげえなー、って思ってたけど、ずっとユーフォ一筋だったんだなあ。納得納得。こりゃあユウ先輩も負けてらんないッスね」
「べつに。誰かと張り合うために音楽やってるワケでねえし」
悪戯っぽい笑顔を浮かべる奈央に、雄悦は楽譜と睨めっこしたままむっつり顔で応じる。傍から見れば後輩のイジりに辟易とする先輩、といった様相ではあるが、それを容認する程度には雄悦も奈央のことを憎からぬ存在と思っているのかも知れない。ちょうど、ちなつと日向のように。
「なんか奈央ちゃんと雄悦先輩って、仲良しって感じだね」
「そうなんだよー。ユウ先輩、小学校の時はトランペットだったからさ。私もおんなじパートだったんで、ユウ先輩とはもう五年もお付き合いしてんの」
「なるほど、それだったら仲が良いはずだね」
「言っとくけど、松田の『お付き合い』ってのはあくまで先輩後輩としてだがんな。カン違いすんなよ黒江」
雄悦の素早い訂正に、奈央が「ふえぇー?!」と悲しがる素振りをする。
「冷たいッスよぉ先輩。私に手取り足取り腰取りでトランペット教えてくれたのユウ先輩だったじゃないスかぁ。んだのに、そンたドライな言い方さねえったって、」
「あぁもう、うっせぇ。いいがら用事済んだんだば、さっさと自分のパートさ戻れって」
「そうやっていっつも邪険にしてぇ。ひどくないッスか?」
「オメーがキャンキャン
「ハイハイ分かりましたっ、帰りますよ帰ればいいんでしょ」
べー、と容赦なしに、雄悦へ向け桜色の舌を突き出す奈央。これも親愛ゆえ、なのだろうか。二人のことを詳しく知らぬ真由にはどうとも言えない。へば失礼しましたー、と奈央は教室の引き戸をピシャリと閉め、疾風のごとく去っていった。その一部始終を見送って、やれやれ、とばかりに大きな溜め息をついた雄悦が再び譜読みに戻る。
「青春だよねぇ」
二人の様子を見守っていた日向がしみじみと呟く。はあ、とも返せぬ真由は雄悦よろしく譜読みに耽るフリをして、日向の言葉を黙ってスルーした。
一見して親密そうな二人の間柄。そこに添えられた、青春という煌びやかな言葉の意味。それら全てを真由が正しく理解するのは、もうちょっと後になってからのことだった。
帰宅後、夕食を済ませた真由はさっそく自室の机に座り、鞄から二枚のCDケースを取り出した。うち一枚の中身をプレイヤーのトレイに挿げてボタンを押すと、プレイヤーは音を立てて円盤をぺろりと呑み込む。続けて部活後に奈央から貸し出してもらった課題曲のスコアを広げてヘッドホンを掛け、そっと耳に神経を集中させる。
『祝典行進曲「ライジング・サン」』はまず冒頭、金管を主体としたファンファーレから始まった。
課題曲の演奏が終わったところで、次は自由曲の参考演奏へとCDを差し替える。『組曲「聖母に捧げる賛歌」』。新進気鋭の作曲家である
第一楽章『天上からの使者』は、聖人の誕生を聖母に告げる場面が金管の重奏とオーボエの歌い掛けによって紡がれており、全体的に荘厳な曲調を主とする。続く第二楽章『奇跡の道標』では木管が主体となって緩やかな癒しの曲調を奏で、第三楽章『裏切りと磔刑』では一転して衝撃的かつ悲壮なメロディによって聖人の受難を表し、そして第四楽章『聖人の復活』は大音量での総奏によって圧巻のフィナーレを迎える……というのが大筋の内容。曲自体の難易度も決して低くはないどころか、中学生が扱う曲目としてはかなり難しい部類に入ると言える。技術と表現、その両方に高いレベルが求められるであろうことは、こうしてCDを聴きながらざっとスコアを眺めただけでも十二分に把握することが出来た。
溜め息と共にヘッドホンを外した真由はいま一度、自由曲のスコアをパラパラとめくってみる。テーマ性を際立たせるためなのか、大量の音符で埋め尽くされた譜面上にはソロの指定もあちこちに散りばめられている。いずれも各楽章を象徴する場面に指定されているあたり、奏者の責任は重大だ。そう思いつつ五線譜を指でなぞっていった先、第三楽章のところでふと真由はその手を止めた。
第三楽章『裏切りと磔刑』。その象徴的なシーンにはユーフォのソロがある。それを目にして真由が真っ先に思い浮かべたのは、ちなつのことだった。
曲北はコンクールでも全国金賞を目指している。日向はそう言っていた。であるならば、ソロの選考基準は『各パートで最も演奏技術に優れる者』となる可能性が高い。部内のユーフォ吹きの中ではちなつと同じ三年生の雄悦も上手い部類には入るものの、ちなつのそれは曲北どころか中学生という括りで見たとしても明らかに群を抜いている。となれば、今回のソロにもちなつが選ばれると予想するのは極めて妥当だと言えるだろう。
そのこと自体には何のわだかまりも無かった。一口にソロと言っても、担当者の決め方には学校によって様々な文化がある。上手い人が吹く。三年生が吹く。希望者が吹く。コンクールでより良い賞を目指すのであれば必然的に選択肢は限られるのだろうが、結果としての演奏に大差が無いのなら、どんな選び方であっても価値は同じだ。少なくとも真由自身はそう考えている。けれど今の真由にはもう一つ、別の思いもあった。
上手くなりたい。もっと上手くなって、もっと凄い演奏をしてみたい。そしてもう一度あのマーチングフェスでの感動を、いやそれ以上の喜びと快感を、思う存分味わってみたい。そんな衝動がずんずんと胸を強く突き続けている。この想いを満たすために自分がやるべきことは、ただ一つしかない。
スコアの上に置いた指で、ソロの音符をグイと拭う。乾き切ったインクが指の腹に付くことは無かったけれど、自分のこの溢れる気持ちは、確かにそこへ擦り込まれた。
あんなに咲き乱れていた桜もすっかり散り、若葉の緑が植わる樹木の大勢を占めるようになった頃、部内の空気もまたコンクールに向けて徐々にシフトしつつあった。
「すんません黒江先輩。ここの表記ちょっと分かんないんですけど、教えてもらっていいっすか?」
個人練の最中、泰司が自分の楽譜を手にして真由のところへ質問に来た。入部時に楽器の吹き方を指南して以来、彼はまるで雛鳥が親鳥のあとを付いて歩くがごとく、度々真由に教えを乞うていた。
「どれどれ……ああ、これは『
「ぴ、ぴぅ?」
「ピウ=モッソ。『より動きを持って』っていう意味なんだけど、実際に使われる上では『それまでよりも速く』っていうのが近いかな」
「速く、すか」
うーん、と泰司が唸り声を上げる。今の説明だけだと、初心者の彼としては「じゃあどうすれば良いのか」といった心理を拭うにはもう一つ物足りなかったことだろう。だからあえてそのひとつ前の箇所を、真由は指差す。
「直前のここにリタルダンドがあるでしょ? こないだ教えたやつ」
「『だんだん遅く』っすよね」
「そうそう。つまりここは直前にリタルダンドでぐっとテンポを抑えて、次の小節、つまりピウ=モッソのところでテンポを元のよりも少しだけ速める……っていうことなんだけど、解るかな」
「わか、るような、解んねえような。速くっつうのは、具体的にはどれぐらい速くなるんすか?」
「そんなに極端な速さでもないけど。そうだね、まず直前までの速さが大体これぐらいだとして、」
たんたん、と机を叩いてテンポを示してみせる。つられるようにコクコクと、泰司は首を縦に動かし始めた。
「で、ここでこれぐらいまでリタルダンドして、そのあとのピウ=モッソで、このぐらい」
一度テンポを緩めたあと、元のテンポよりも僅かに速く机を叩く。泰司はそれに、おー、と納得の声を上げた。
「合奏の時は永田先生次第だから、リタルダンドでもっと溜めたりピウ=モッソでもっと速めたりするかもだけど。練習中はとりあえず、こんな感じでやってみて」
「分かりました、言われた通りやってみます。ありがとうございます!」
元気の良い泰司の返事に真由もすっかり気を良くする。音楽を理屈のみで説明するのは中々に難しい。それよりは歌ったり音を鳴らしたり、つまり実際にやってみせた方が相手にも伝わりやすい、ということは多々あるものだ。そうして後輩の音楽的成長を手助けできたのであれば、これは教える側の真由としても喜ばしいことである。
「おーい石川っち、あんま黒江ちゃんにばっか刺さんなよ。黒江ちゃんにだって自分の練習あんだがら」
「あ、ハイ! すんませんっ」
横から日向に注意を飛ばされ、たちまち泰司が畏まる。口調の割に、日向の表情は彼をからかうかの如く、どこかニヤニヤとしていた。
「べつに良いですよ、日向先輩。これぐらいならお安い御用ですし」
一応泰司を庇うつもりでそう言ってみたのだが、そんな真由に対し日向は実に生温かい一瞥をくれただけで、再び泰司に矛先を向けた。
「大体、
「そりゃあ、黒江先輩の教え方が丁寧で解りやしいからっす!」
「私らのはグダグダで解りづれぇってか、コンニャロ」
日向がこれ見よがしにゲンコツを振り上げると、泰司は「誤解っす! そういう意味でねえっす!」と慌てたように両手を挙げて弁明する。実際問題、真由と比べて上級生たちの教え方がお粗末などという事は決して無く、とりわけ日向のそれは簡潔かつ的確であることの方がずっと多い。
「んだどもまあ、石川の言いてえことも分かる。黒江は教え方上手えよな」
「ンですね。細けえとこまでキチッと解説してもらえますし、前後の繋がりなんかも含めてくれてるんで、あーなるほど、って思えますし」
「あ、はは……」
雄悦と玲亜にまでそう言われ、無性に照れくさくなった真由はそれをどうにかごまかそうと、自分の髪をばさばさと撫でる。……良い気分でいられるのはここまでだった。
「優しくておっとりしてて、包容力あって。黒江先輩のこと一言で言うとせば、ママ、って感じですよね」
「ママぁ?!」
一同は驚嘆の声を上げる。玲亜からのママ呼ばわり、これにはさすがの真由もグサリと胸を貫かれてしまった。
「三島ちゃーん。たった一学年上の先輩相手にママ、ってのは流石にどうなのよ」
「あれ? ひょっとして今のって、問題発言でした?」
きょとんとした玲亜が日向たちを見回している。彼女自身はただ思ったことをそのまま口に出しただけなのだろう。事実、『ママ』と口にした玲亜の声のトーンには悪意などひと欠片も混じっていなかった。本人の性分と照らし合わせてみても、それは分かり切っている。けれど言われた側にしてみれば、今の一言はただただショッキングなものでしかなかった。
「もうちょっと考えてモノ言えよ、アホ」
泰司になじられ玲亜は一瞬ギロリと睨みを返したが、いやそんな場合じゃない、とでも思い至ったのか、すぐさま真由へと申し訳そうな顔を向けた。
「すいません黒江先輩。また私、悪りいクセで」
「う、ううん良いの別に、気にしてないから。それはそれとしてすいません、私、ちょっとお手洗い行ってきます」
そそくさと席を立ち、真由は教室を後にする。ほどなくして「アホ!」「ホジナシ!」という痛罵の応酬が廊下に響き渡った。声色からして泰司と玲亜が教室で言い合いをしているのは容易に想像がつくのだけれど、今の真由には後輩二人の衝突を気に掛けるだけの余裕など、少しもありはしなかった。
「はー」
冷たい水で火照った顔を洗い終え、鏡に映るずぶ濡れな己の面相をしげしげと眺め回す。小学生の時の言い間違い程度ならともかく、この歳になってまさか一歳下の後輩にママ呼ばわりされるだなんて思ってもみなかった。それというのもこの大人しめな顔立ちが悪いのか、それとも髪型が地味なせいなのか。試しに真由は自分の髪を片方ずつ手で束ねてみる。サイドで二つに括られた長髪を垂らす自分。そんな未知なる自分の姿は、直視するのもためらわれるほど似合っていなかった。
「何してんの真由ちゃん」
あ、と驚いて手を離すと同時に、真由の長い髪がふわりと元通りの形に収まる。おそるおそる振り返ると、手洗い場の入り口には不思議そうな顔でこちらを見やる奈央が立っていた。
「なんか髪いじってたけど、イメチェンの計画?」
「そ、そういうんじゃないよ。何となく気分っていうか、ちょっといじってただけっていうか」
「ふうん?」
真由の苦しい言い訳に、奈央がコキリと細い首をかしげる。セーラー服の襟元から覗く彼女の首筋は今日も、蝋で作った細工物みたいに白く透き通っていた。
「奈央ちーん、どったの急に立ち止まって」
後方から飛んできた女子の声に奈央が素早く振り向く。どうやら入口で立ち塞がる奈央のせいで、声の主はトイレに入って来れなかったようだ。
「あっと、すいません先輩。友達とバッタリ会ったもんで」
「友達?」
「こないだ言ってた真由ちゃんですよ、転校生の」
途端、あー! と、壁に遮られた向こう側の『先輩』が甲高い声を上げる。「この子です」と一歩譲った奈央の陰から、先輩と呼ばれた女子はヒョコっと姿を現した。
「キミがうわさの真由ちんかぁ。うんうんなるほど、見た目といい声といい、奈央ちんの言ってた通りだね」
その『先輩』は、真由の目線の高さにも頭頂部が届かないほど低身長な女子だった。天真爛漫で可愛らしい雰囲気。あどけない顔立ち。二つ縛りにした色素の薄い猫っ毛。外見だけを取ってみれば、先輩どころか同じ中学生と言われたってにわかには信じがたい。そんな彼女はむっくりと人懐こく微笑み、モミジのように小さな手を真由へと伸ばしてきた。
「アタシの名前は
「あ、はい。よろしくお願いします」
流れのままに杏の手を握り返そうとして、いや待て、と真由は自分の手がまだ水に濡れたままだったことに気が付く。慌ててハンカチで手を拭き、それから真由は杏と握手を交わした。
「杏先輩、トランペットのパートリーダーなんだよ。つまり私の直属の先輩、ってワケな」
奈央の紹介を受けた杏が、にはー、と人懐こい笑みを形作る。パートリーダーというからには彼女もまた相応の実力者である筈なのだが、立ち振る舞いのせいもあってかどうにも事実を受け止めきれない。見た目と立場。杏の有するその強烈なギャップに、真由は大いに混乱してしまう。
「アタシ、奈央ちんとは昔っから仲良いんだ。出身小同じだから」
「じゃあ先輩もその頃から、奈央ちゃんとずっと一緒なんですか?」
「そう! 奈央ちんに手取り足取り腰取りでトランペットを教えたのは、何を隠そうこのアタシだもんねぇ」
どこかで聞いたようなフレーズを杏がまくしたてる。なるほど、杏と奈央が小学生時代から先輩後輩の関係であったことは、どうやら間違いないらしい。主に発想的な意味で。
「ちーちんとかヒナちんとも仲良しだから、たまぁに一緒に遊んだりもしてんだよ」
「ちーちん、とは?」
「荒川ちなつのことだよー。アタシ仲良い子のことはみんな『ちん』付けで呼んでんの。だってその方が可愛いでしょ? あっそうだ、アタシの中では真由ちんも、もう仲良しっ子だからね」
「はあ、それはどうも」
何とも言えず、真由は僅かに口の端を引きつらせる。仲良しも何も出会ってまだ数分だというのに。杏はなかなかにアクが強く、それでいてパワフルな性格の持ち主だった。
「こんど真由ちんも一緒にお泊まりで遊ぼうよ。曲北って合宿無いからその代わりってことで、アタシら年イチくらいでプチ旅行してるんだ。他にもいっぱい誘ってみんなでワイワイ過ごすから楽しいよー」
「は、はい、考えておきます」
「やったー!」
そう言って杏はぴょんぴょんと無邪気に跳ねた。小動物みたいな彼女の仕草は、やっぱり先輩というよりは年下の女の子と表現したほうがふさわしい気がした。
「じゃあ私、そろそろ教室に戻りますので」
「うん、まったねー!」
「練習がんばろな、真由ちゃん」
笑顔で手を振る杏と奈央に見送られ、真由はようやくトイレを抜け出る。疲れたあ、と息を抜こうとしたその瞬間、「忘れてた!」という声と共にバタン、と背後から大きな音がした。ぎょっとして振り返った真由の目前に飛び出してきたのは、さっき別れたばかりの杏だ。
「こ、小山先輩?」
「苗字は可愛くねえから『杏』って呼んで。ってそうでねくて、真由ちんさ言い忘れてたことあったの思い出した」
ぜえぜえと息を切らす杏は一度呼吸を整え、それからちょいちょいと、猫みたいな手つきで真由を呼び寄せる。
「何ですか?」
「あんまり大きな声じゃ言えねえから。ほれ、もっと近う近う」
言い忘れたことって何だろう。膝を曲げ、彼女の口元まで耳を寄せた真由にぼそぼそと、杏はこう耳打ちをした。
「真由ちんとこ、長澤水月っているでしょ? アイツ、気い付けた方が良いよ」
え? と真由は耳を疑う。顔を上げた真由に、杏はただ意味深な笑みを返すばかりだった。
「それってどういう、」
「あー、洩れそ。悪りいけどその話はまた今度ってコトで!」
来たときと同じく、杏が脱兎のごとく飛び出し再びトイレへと戻ってしまう。その場に取り残された真由の思考は、ただただ混迷を深めるばかりだ。
水月に気を付けろ。杏はそう言っていた。
確かに水月は、彼女は、吹部の活動にも真面目に取り組んでいるとは言い難い。それにときどき不可解な言動を取ることもある。けれど基本的な部分に関して、水月は『普通』の子と呼んで良いはずだ。少なくとも、自分にとっては。なのに杏はなぜ気を付けろなどと言ったのか。そもそも何をどう気を付けろというのか。杏の思惑、それを考えれば考えるほど、真由はただいたずらに不安をかき立てられるばかりだった。
手洗い場の蛇口から一滴、水がぱたりと零れ落ちる。流し台を鈍く叩いたその音は、決して心地の良いものではなかった。