私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~ 作:ろっくLWK
楽器の一種。U字形のスライドを操作して数々の音高を得る低音用金管楽器。十五世紀に大型のトランペットにスライドをつけたものが前身とされていて、イギリスではサックバットと呼ばれた。主として公的な儀式や教会音楽に用いられたが、スライドによって多くの音が出せるため、当時ではトランペットよりも用途が広く、十六~十七世紀には芸術音楽に加えられることが多かった。管弦楽で常用されるようになったのは、ベートーベン以降。
初めて音楽に触れた日のことを、雅人は良く覚えていない。
気が付けば自分の周りには音楽があった。
それが発端であり、雅人の全てだった。
彼の音楽歴を辿ると両親にそのルーツがある。同じ市民楽団に所属していた父と母はそこで出会い、順調な交際を経て結婚し、そして雅人が産まれた。音楽好きであった両親は雅人にも音楽を好きになって欲しいと願い、彼が物心つく前から様々なかたちで音楽に、楽器に触れる機会を与えた。こうした親の寵愛を『干渉』や『強制』と捉える者もいるだろう。けれど雅人はそのことに何の疑問も抱かず、また彼自身の意志によって純粋に音楽を愛好し、すくすくと育っていった。
リビングの棚にあるアルバムを引き出し、ぱらぱらとページを繰る。そこにはまだ言葉もろくに喋れない頃の自分がピアノに座り、両手で鍵盤を叩く写真がいくつも並んでいる。次のページは七五三くらいの頃のものだろうか。そこではピアノだけでなくバイオリンの弦に弓を当てている姿もあった。雅人が初めてトロンボーンという楽器に出会ったのも、おおむねその頃だ。
『天使の歌声』に由来があるとも言われるその金管楽器の音色は、中音から重低音域までを網羅し、厚みのある美しさと遠くまで良く通る明瞭さとを兼ね備える。父の知人から譲り受けたトロンボーンはかなり使い込まれていて、ほとんどオンボロと形容して差し支えの無い代物だったが、その音色は幼少にして既に練り上げられていた彼の耳にもとても気持ちの良い感覚をもたらした。
自分も吹いてみたい。そう思って担いでみた時、幼な子の腕の長さでは十分にスライドを扱うことが出来ず、思うように吹けなくてわんわん泣いたのを今でも昨日のことのように覚えている。あの悔しさもきっと雅人の中では『原点』の一つだと言えるだろう。トロンボーンとの付き合いはそれ以来、今年でちょうど十年目だ。
「草彅、きのう出た新作遊んだ? あれ面白くてよお――」
こんな同級生たちの話題にはちっとも乗る気になれない。雅人にとってはそんなものよりも音楽の方が、トロンボーンの方が、遥かに遊び甲斐のあるおもちゃだった。高学年になってマーチング部に所属したのを機に親から新品のトロンボーンを買い与えてもらい、それと同時に市内に住む社会人楽団のトロンボーン奏者からより専門的な指南を受け始めた。平素は音楽教師でもある彼に師事したことで、雅人の音楽はより深みを増すと共にいっそう広がっていったのだった。
彼の音楽人生に、雑音は常に付きまとった。
「うげ、またあいつソロの練習してる。先輩に気ィ遣うとか知らねえのかよ」
「ちょっとぐらい上手いからって
「三年の高橋先輩、トイレで泣いてらったけど。アレってやっぱさあ……」
「当たり前だよ。最後のコンクールで一年なんかにソロ取られたら、そりゃあ悔しいべった」
「あいつ自分で書いた曲、軽音バンドの連中に弾かせたりしてるらしいけど、何ソレってカンジ。アーティスト気取り?」
そんな耳障りな周囲の声に、いちいち耳を傾けている余裕なんて無い。音楽そのものは雅人に無上の喜びと満足をもたらしてくれるものであっても、その周りで関わる者たちが必ずしもそうしてくれる訳ではないことを、雅人はとっくに解っていた。けれど、それで良いとも思っていた。
俺の目指す場所に、こいつらは存在してない。
どこかで縁の切れるような連中にかかずらって時間や余力を損なうのは、何より無駄なことだ。
そういう思いがほんのひと欠片も無かった、と言ってしまえばウソになる。実際、小学生の頃からずっと、雅人には友達と呼べる存在など一人としていなかった。休憩時間はこっそり持ち込んだミュージックプレイヤーを手にトイレや校舎裏で過ごしていたし、部活中はトロンボーンさえ吹いていられればそれで良かった。休みの日には自室でピアノをいじり五線譜に筆を走らせ、それに飽きたら家の防音室で心ゆくまでトロンボーンを吹き鳴らす。どこにも出かけないし誰とも会わない。それが雅人の日常であり、音楽以外のあらゆるものに、彼が関心を持つことは無かった。そう、あの時までは。
とある春の日。中学校に上がって数週間、ようやく開き始めた桜の花を窓の外に見つけながら、彼は手洗い場へと続く廊下を歩いていた。ふと雅人の鋭敏な聴覚が、どこかで鳴らされている楽器の音色を捉えた。その音色に、気付けば足は誘われていた。階段を下り、ごみ捨て場から校舎の裏手へと回り、内履きのままで壁伝いに歩き。だんだん音が鮮明になっていき、そして次の角を曲がった時、彼はついに音の出どころを見つけた。
そのユーフォニアムの音色は、部内の誰よりも美しく整然として、眩く輝いていた。ある時は咲き誇る一輪の花のように。またある時は穏やかな大河の流れのように。たっぷりと豊かな響きがびりびりと全身を刺激し、骨の髄まで満たされる。そんな未曾有の快感を、雅人は確かに知覚した。同時に、心の底から恥じてもいた。これほど上手い奏者がこの曲北にいたことに露ほども気付かなかった、己の不明を。
ここからは距離と角度の関係上、奏者の顔までは分からない。けれど遠目にもその奏者が女子用のセーラー服に身を包んでいることと、ふわりと風になびく黒い髪を湛えていることだけはハッキリと分かった。そしてたったそれだけの情報で、彼女が何者であるかを特定できるだけの材料は、十分に揃っていた。
――アイツは、吹部の。
その姿、その旋律、その響きを、己のあらゆる感覚へと刻みつける。胸の内に巻き起こる衝動が、瞬く間に全身を包み込む。あれほど上手いのならば、アイツならば、ひょっとして。知らぬうちに握り締めていた拳の中で、爪がギリリと音を立てて皮膚に食い込んだ。
それは雅人が生まれて初めて自分と音楽以外の何かに関心を抱いた、その瞬間だった。