私が私になるまでの ~黒江真由、中学生編~   作:ろっくLWK

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2.感情、トゥーザボックス
〈7〉秋山ゆりという人


 あれから暦は進み、現在は六月の初頭。半袖のセーラー服はまだちょっと肌寒いが、それでも気温は日々高まりつつある。この頃になると真由もだいぶ秋田での生活に馴染み始め、それと共に、友人たちと触れ合う機会もずいぶんと増えていた。

「ねぇねぇ真由ちゃん、英語の宿題で分がんねぇどごあんだけど、教えでけねが?」

「あ、ずりぃナミコ。私も英文法教えてー」

「私も私も」

 転校して間もない頃はいつも早苗と二人だったのが、今はこうしてクラスの子たちも気兼ねなしに接してくれる。言うなれば、彼女たちとの間にあった壁が溶け失せる感覚。転校する度にいつも新しく触れ合う人々との壁を感じてきた自分にとって、こうした状況は何よりも嬉しい事だ。そんな真由の心理を見抜いたように、早苗がニヤリと笑みを投げてくる。

「真由ちゃん、すっかり慣れて来たねぇ」

「そう思う?」

「前は方言で喋られる度に『なんて言ってるんだろう』って言いたそうな顔してたのに、最近じゃ私に聞かねっても大体の意味分かってるみてえだし。何より真由ちゃん、ここんとこ楽しそうだもん」

「そうかな。もしそう見えるなら、それはきっと早苗ちゃんのお陰だよ」

「私の?」

「うん。転校してきたばっかりで右も左も分からなかった私に、早苗ちゃんが親切にいろいろ教えてくれたから。そうじゃなかったら私、こんなふうになるまでもっと時間掛かってたと思うもん」

「や、そりゃまあ、良ぐ分がんねえけど」

 早苗が珍しく顔を赤らめている。そんな彼女を周りの同級生たちが、やーい照れてやんのー、とからかい始めた。

「ほ、ホラ! そンたこと言ってねえで、さっさと宿題やろうで。休み時間終わっちゃうべ」

「誤魔化さねえったっていいべー。せっかぐ真由ちゃんが褒めてけでる(くれてる)のに」

「慣れてねえんだって、こういうの」

 早苗が居心地悪そうにボリボリと腕を掻く。卓球で鍛えられた彼女の前腕はかなり筋肉質で、たわみなく張り付いた皮膚にはハッキリとした隆起を認めることさえ出来た。

「真由ちゃんも、いきなり変たこと言わねえでよ。からかわれてるって分かってらったって、落ち着かねえ気分になっちゃう」

「私は素直な気持ちを言っただけだよ?」

「だがら、それが私のキャラさ合ってねえんだって。あーもう、汗だくンなりそう」

 プラスチックの下敷きでバタバタと自分をあおぎ始めた早苗に、真由を含めた友人たちがけらけらと笑い声を上げる。こんな何気ないひと時でさえ、真由にとっては掛けがえのない、大切な思い出のいちページだった。

 

 

「真由。最近、音良ぐなってきてんな」

「ふぇ?」

 放課後の練習中、ちなつが突然そんなことを言ってきたものだから、真由はつい奇声を上げてしまう。向かいにいた日向もまた「んだなぁ」とちなつに同調した。

「入部直後の頃も充分上手がったけど、ここんとこは音もきれいに張ってらし、何より活き活きしてるよな。まるで冬の日本海に揉まれてぴっちり脂の乗ったブリみてえ、っつうか」

「すみません日向先輩、その例え、良く分からないんですけど」

「つうか何でブリなのよ」

「冬んなるとウチの父ちゃんが釣って来るのよ。特に大根と一緒に煮付けたブリがチョー美味えのなんのって」

 日向の父は彼女曰く『バカ』が付くほどの釣り好きなのだそうだ。中島家では週が明ける度に様々な魚が食卓に並ぶのも半ば習慣となっているらしい。真由は魚類全般にあまり詳しくないのだが、日向の解説を聞くだに涎が溢れ出そうになるのを禁じ得ないというほどに、彼女の語る種々の魚料理はどれもこれも美味しそうなものばかりだった。

「他にも沖メバルの塩焼きっしょ。タイの刺身っしょ。アジは唐揚げにしてもいいし、一夜干しがまたうまい。川魚だったらイワナとかアユあたりも――」

「はいはい、ヒナん家の晩メシ情報は今いらねえがら」

「あぎゃっ」

 指折り数え始めた日向の額に、ちなつがベチンと平手を放つ。

「ヒナの意味不明な例え方はともかく、真由がどんどん上手くなってんのは間違いねえよ。やっぱオーディション近付いてきて、気合い入ってるせい?」

「どうなんでしょう。自分ではそういう実感、あんまり無いんですけど」

「もっと自信持っていいって。この調子で、オーディションもコンクールも頑張るべ」

 ちなつに優しく肩を叩かれ、真由は「はい」と強く返事をした。一つ、ちなつに認めてもらえた。そんな実感が真由の全身に強い充足をもたらす。

「さて、パート練までまだ時間あるよな。私ちょっと外で吹いてくっから、また後でな」

「時間までに戻れよ」

「分かってらって」

 そうしてユーフォと譜面台を手に、ちなつは教室を出ていった。このところの練習スケジュールは、合奏のある日を除けばパート練習と個人練の時間が半々、といった按配だ。ここ一ヵ月の指導によるものか、近頃は後輩たちが先輩に質問をする頻度もずいぶんと減ってきている。個人練を教室で行うパート員はおおよそ半数で、残りはちなつのように校舎のあちこちへと散らばり、そこで己の音と必死に向き合っているみたいだった。

 吹奏楽コンクールは出場メンバーの人数に制限がある。曲北がエントリーする『中学校の部』における規定人数は五十名。つまるところ、百数十人あまりを擁する曲北吹部員のうち実に三分の二近くはコンクール本番の舞台に上がれない、という計算になる。それをふるいに掛ける為に行われるのが、来週予定されている部内オーディションだ。

 メンバー選考の一切は顧問である永田の手に委ねられている。彼に認められる為には他を押しのけて上手くなるより他に無い。普段は仲間である吹部の部員同士も、この時ばかりは互いに限られた席を奪い合う競争相手となってしまう。そこに学年の序列や部長副部長といった役職などは、何らの意味も持たないのである。

「……っちゅうのが建前だけんど、まあ実際にはみんな必死こいて練習するもんで、大体は上級生を中心にメンバー構成されんだけどね」

「じゃあ下級生のメンバー入りはほぼ無し、って感じですか?」

「ほぼってワケでもねえけど、去年は十人もいねがったな。低音からはちなつと、あと一応、私」

 すげー、と一年生たちから賞賛の声が上がる。それもそのはずで、日向のチューバの技術は真由の耳で聴く限り、部内でも上位に数えられるほどの腕前である。より上手い者が吹く。その選考基準が絶対のものであることは、日向の事例ひとつを取ってみても明らかだ。

「俺みたいに春から吹奏楽始めたヤツでもいきなりレギュラー獲る、ってこともあり得るっすか?」

「本人のがんばり次第でねえかな。オーディションで石川っちが他の子らよりも上手に吹けりゃ、あとは永田っちの判断次第だし。何にしたって下手くそだと選ばれっこねえのは間違いなしだから、とにかく練習あるのみよ」

「わかったっす! 俺、レギュラー目指してばりばり練習するっす!」

 『レギュラー』という語句に強いこだわりでもあるのか、泰司がめらめらと気炎を上げている。彼に限らず、全員がオーディションを受ける以上、メンバー入りの機会はみな等しく設けられるということでもある。もっともそれを勝ち取るべく練習に邁進しているのは、真由たち上級生とて同じことだ。

「じゃあ私もちょっと、外で吹いてきます」

「あ、黒江先輩っ。もし良ければ俺も一緒に、」

「ダーメだ、泰司は俺らと一緒にここで吹け。黒江にゃチューバは教えらんねえし、オメエはまだ基礎もしっかり出来てねえんだがら、目離しなんねえ」

「そんなぁ……」

 チューバの上級生にダメ出しを食らった泰司がしょんぼりと落ち込む。それにクスリと吐息をこぼしつつ、真由は移動のために手際よく譜面台を畳んで小脇に挟んだ。

「あ、ちょっと黒江ちゃん」

 教室を出ようとしたところで日向に呼び止められ、真由はおもむろに振り向く。

「何でしょうか?」

「もし外で水月に会ったら――いや、何でもねえ。練習がんばってな」

 何かを言い淀んだ日向が、しかしそこでかぶりを振る。言外に滲む日向の気持ちを汲んだ真由はただ、はい、とだけ返事をして教室を出た。

 校舎のどこかでは水月もきっと個人練をしている。コンクールの練習が本格化するにつれ、彼女は終日パートから離れて個人練をするようになっていった。だがどういうわけか、パート練での水月の演奏はいっこうに上達しておらず、皆と合わせてもすぐに日向に個人練を言い渡され教室から去ってしまう。そんな状況にちなつも日向もやきもきしているのを、真由は既に察していた。

『私はみんなについて行けそうもないから。真由ちゃんも私なんかに構わず、練習がんばってね』

 少し前にそれとなく調子を尋ねた折、水月がくれた返答はただそれだけだった。コンクールのメンバーに選ばれるかどうかはさて置き、水月だって吹部の一員であることに違いはない。上手い下手以前の問題として、人間同士の付き合いや親交というものだって部活の大切な一要素ではある筈だ。なのに技量的な意味でも全く伸びを見せない彼女が、加速し続ける部の空気からどんどん遠ざかっているように見えるのが、真由には少し気掛かりだった。

『アイツ、気い付けた方が良いよ』

 杏の言葉が度々脳裏をよぎるのは、そんな現状と重なるような気がしたから。もしも彼女が部内全体を俯瞰していて、このままでは落ちこぼれかねない水月のことを慮っていたのだとしたら? そうだと仮定するならばひょっとして、杏のあの言葉は「ユーフォの同僚として水月の面倒を見てやれ」という意味だった、とも取れる。けれどそれならば、あの場でさっさと意図を告げるだけで事は済んだ筈だ。気を付けろ、という言い回しにも何か引っ掛かるものはあったし、大体がして別パートの杏が日向たちを差し置いて自分なんかに忠告してくる意味が分からない。それとも他に何か隠されたメッセージが、そこには込められていたのだろうか?

 いろいろと腑に落ちない思いに苛まれるところもあるにはあったが、しかしオーディションの期日が刻一刻と迫りつつあるこの状況下では、一つひとつの物事をつぶさに判別するだけの余裕も無い。今は自分のやるべきことに集中しなくちゃ。迷いに燻る己を振り払うように、真由は勢いよく目の前の扉を開けた。

 見上げた先に広がるは、気持ち良く突き抜ける五月晴れの空。中央棟と教室棟とを結ぶこの連絡通路の屋上テラスは、安全性を考慮して設けられた高い柵に囲われている。普通こういった場所は立入禁止であることも多いのだが、曲北ではこの柵に加えて同階の教室からもテラスの様子が見れるためか、課外時間や日没までの間に限り生徒にも開放されていた。周囲に気兼ねなく個人練できる場所を求め、日々校内のあちこちを彷徨った真由が最終的に辿り着いたのが、ここであった。

「それじゃあ今日も、がんばろっと」

 定位置に譜面台を置いてユーフォを構え、まず初めにB♭(ベー)を鳴らす。音を向ける先は、校舎裏手側の向こうに見える姫神山。あくまでイメージ上の話ではあるが、あそこまで届けられるくらい楽器を鳴らし切れれば、どんなに広いホールや体育館であっても十全に音を響かせることが出来るはずだ。次にリップスラーやタンギングといった基礎練習を順番にこなし、それから楽譜ファイルを広げての曲練習へと、真由は己に課したメニューを順調にこなしていく。

 これまでのところ、課題曲についてはとっくに一通りをさらえていると言っても良い到達度にあった。後は自由曲、譜面的に難所の多い第一楽章と、微細な表現を求められる第三楽章が目下の課題だ。これらの一部はオーディションでの指定演奏区域にもなっている。他もまんべんなく吹けるようになっておくのは当然のことだが、まずはいま出来ていないところを重点的に、というのがここのところの練習方針である。

 それから時間を掛けて何度も反復練習をこなし、ひと段落したところで真由はふと腕時計に目を遣った。そろそろ教室に戻らないと。そう思った真由が楽譜ファイルをぱたんと閉じた時にちょうど、その調べは聴こえてきた。

「これ、ユーフォの音? ――すごく、きれい」

 自分の耳が瞭然に、それを聴き分けていた。明るくくっきりとした花芯のような音色と、整然と揃えられた音程。ゆっくりとたゆたう音の一粒一粒が深みのある情感を豊かに描き出す。耽美な憂いをまとった旋律は、深緑の窓辺に佇む貴婦人を思わせる優雅さを密やかに湛えていた。

 鮮やかに駆け上がるパッセージ。色香さえ漂う緩急のつけられたメロディ。このフレーズには聴き覚えがあった。『シシリエンヌ』。ピアノやハープと木管楽器との二重奏で奏でられることの多いこの曲は、ガブリエル・フォーレが手掛けた管弦楽組曲『ペレアスとメリザンド』のうちの一篇である。その主旋律を抜粋する形で、誰かがユーフォで、この『シシリエンヌ』を吹いていた。

 響き方からして、音の出どころは真由のすぐ足元。柵があるせいで誰が吹いているかまではここから窺い知ることはできない。けれどその吹き手が誰であるかを、真由は目視するまでもなく推測出来ていた。だって、これだけ上手にユーフォを吹けるのは部内でちなつ一人しかいないから。――暗がりにふつと埋もれる終止(フィーネ)までを確かに聴き届け、それから真由は屋内へと戻る。

「お、真由。お疲れ」

 教室へと戻る途中、階段のところでばったりとちなつに出会う。ちなつもまた外での個人練を切り上げ、教室へと向かうところだったようだ。

「お疲れさまです、ちなつ先輩。さっきの演奏、とっても素敵でした」

「おん? てことは真由ももしかして、外で吹いでらった?」

「はい。私は渡り廊下のテラスで」

「そっか。あそこまで聴こえてるとは思わねがったな」

 鼻頭を指でこすり、ちなつは視線を上へと向ける。

「あそこって、先輩のお気に入りの場所なんです?」

「まあね。音楽室からもそンたに(それほど)離れてねえから、なんか用事あってもついでに済ませられるし」

「あそこからなら景色も良いですよね」

「んだな。一番きれいなのは、やっぱ春ん時だけどさ」

「ですね」

 春の姫神山。その光景を真由は今でもはっきり覚えている。青々とそびえ立つ山を背後に咲き連なる桜並木の堤防。もしも自分が春のうちにあの屋上テラスを発見できていたなら、きっとあの美しさを毎日のように愛でながら個人練していたことだろう。やがて季節が巡れば、秋には紅葉に枯れた山際の彩りを、冬には純白の雪に覆われた水墨画の侘しらを、それぞれ楽しむことが出来るのだろうか。そんな日々の到来を心に思い描きながら、真由はちなつと二人肩を並べ、廊下を歩いていった。

 

 

 

 

 

 

 六月と言えば梅雨というイメージを持っていた真由だが、予報によると東北北部の梅雨入りは早くとも中旬からになるらしい。そこから雨空は七月の末、下手をすれば八月頭まで続くこともあるそうで、かと思えば八月の下旬にはもう肌寒ささえ感じる夜風が吹くのだという。つくづく北国の夏とは短いものである。

 暦が進むごとにぐずつき模様の天気が増え、それと共にじっとりと湿度も高まりつつある今日この頃、オーディションに向けた練習もいよいよ大詰めを迎えつつあった。この頃になると居残り練はもはや当たり前という空気が部内に蔓延しており、ほとんどの部員たちは自分の演奏を突き詰めるべくひたすらに楽器を吹く日々を送っていた。

「石川っち、そこ音の切り甘いで。全音符四拍なら、次の小節の頭にかかるとこまでちゃんと伸ばし切ること」

「はい!」

「それと(たか)(しな)っち、吹き込もうってがんばってんのは解るけど、それで音程が上擦ってたら何も意味ねえよ。周りの音を良く聴きながらピッチコントロールして」

「はいっ」

 泰司と二年の男子が真摯な面持ちで日向に返事をする。今日の日向やちなつは、主に経験の浅い下級生を集中的に指導していた。何せオーディションまで残り数日。三日に分けられた日程のうち、金管は二日目の予定となっている。もちろん日向ら自身もオーディションを受ける側である以上、他人に教えてばかりはいられない身の上の筈だ。それでも彼女らが合間合間に後輩の進捗をつぶさにチェックする理由の一つには、顧問である永田の示した方針によるところが大きかった。

『コンクールに出られるかどうかってのを、俺はあまり大事なことだとは考えてません。って言うのも出ねえ人らはコンクールの練習なんかしたって意味ないじゃんって思ったり、出る人も他さなんて構ってらんねえってなりがちです。んだけど、()()えば良えで無くて、これを通じて技術を磨くチャンスだっていう風に捉えて欲しい。ここを通り越した先の目的を意識して、そのために何をやるべきかっつうのを一人ひとり考えて行動してみて下さい』

 その理屈は真由にも十分納得できるものがあった。実のところ向上心の強い者を除けば、目標や課題のないまま投げ出されれば何をして良いか分からなくなる、ということも得てして起こりがちなものだ。永田の提言はそうした人間が少なからず出てくることを加味した上で、何故今この練習に取り組む必要があるかを明らかにするという意図があるのだろう。その効果のほどについては、ずぶの素人であった泰司ですらこの一ヵ月あまりでおおよその曲を吹けるようになった、という事実からも窺い知ることが出来る。

「真由、Gのところ、もっと音刻んで。十六分の連続はキチいだろうけど、今のままじゃ形がぼやけて聴こえねえよ」

「はい」

 ちなつからの注意点を、真由はすぐさま色鉛筆で譜面に書き記す。それは身に付くまで忘れないようにするためと、練習時に気を付けるべきポイントを明確にするためだ。不要になった箇所には消しゴムを掛け、新たな注意点が出されればまた書き留める。これを繰り返しながらただただ楽譜と、自分の音と向き合い続け、ひたすらに自分の音楽を磨き上げていく。上達するための方法に近道や裏技などは存在しない。それは必ずしも練習量と上手さが正比例するという意味ではないのだが、とは言えこればかりは積み重ねがものを言うところだ。

「すいません、俺、そろそろお先します」

「うわ、もうそんな時間か。私も今日はこれで上がります。お疲れさまでした」

 後片付けをして教室を出る後輩たち一人ずつに「お疲れ」と、ちなつ達が声をかける。閉校時間が近づく中、教室には若干名が残るのみとなっていた。パート内では比較的練習熱心と言える雄悦でさえ、この時間帯まで居残ることは稀である。

 吹部の部員はみな部活一筋というわけではない。人によっては練習後に塾へ通わなければならなかったり、家庭の事情で門限を決められていたりもする。中学生という立場を考えれば仕方のないことではあるのだが、彼らの中には「もっと練習したい」と内心思っている者も少なからずいることだろう。

「そういうの、真由ん家は大丈夫なの?」

「うちは平気です。お父さんお母さんも楽しいと思うことには全力で取り組みなさい、って言ってくれてますし」

「はー。理解のある家庭ってのは羨ましいねえ」

 ちなつと真由の会話に、日向が肩をすくめながら割り込んでくる。

「うちなんか、今度の期末で成績下がったら部活辞めて予備校さ行げー、って散々どやされててさ。ったくもう、うちの親と黒江ちゃん家のご両親、取っ換えっこしてえわ」

「でも、そうすると全国転勤しないといけなくなりますよ」

「全国かあ、そりゃあキチぃなー。こう見えて私って、生まれも育ちもピュアな秋田っ子だもんなあ」

「ヒナはどっからどう見ても秋田っ子だと思うんですケド。特にピュアでも無え方の」

 完全に呆れ顔のちなつが溜め息混じりに突っ込みを入れる。あによー、と顔をしかめる日向も含め、二人はいたって平常運転といった様子だ。

「そう言えば泰司も、最近は遅くまで残ってんな。大丈夫?」

「ハイ! 俺、昔っからサッカーの練習とかで遅くまでやってたんで、居残りは慣れてるっす」

「いや、親が色々心配さねえが、っていう話なんだけどな。主に成績とかをよ」

 本当に大丈夫かよオメエ、とちなつは幾分困ったように眉をひそめた。彼女のそんな微妙な空気を、しかし当の泰司はまるで意に介していないようだった。

「お袋はガミガミうるせえっすけど、親父はやるならとことんやれって応援してくれてるっす。親父もどっちかっつうと勉強より趣味ってカンジの人なんで」

「ま、程々にしとけや。今は入学したてで周りに楽しいことばっかの石川っちも、二年三年ってなってくると、そのうち親からも担任からも進路だ何だでアレコレ言われるようになるど」

 半ば脅し気味に、日向がその実例を泰司へ語り聞かせる。内申がー、面談がー、という語句が立て続けに並ぶと、はたで聞いているだけのこっちまでなんだか胃もたれしてしまいそうだ。

「でも実際、勉強する暇ないんすよ。家帰って、メシ食って、ゲームして、んで風呂入ったらもう眠くなるんで」

「ちょいちょい泰司。今サラっと言った中で、勉強さ充てれる時間あるって気付いてらが?」

「はぇ?」

 間の抜けた声を出す泰司には、とぼけるつもりなど決して無いのだろう。ちなつも真由もそのことを良く解っているが故に、はあー、とただただ残念な吐息を漏らすしかない。

「そう言えば、ちなつ先輩は成績良いって前に聞きましたけど、毎日居残り練もしてて忙しいのにいつ勉強してるんですか?」

「私? いつって、まぁ普通にだけど」

 んー、と唇に指を当てながらちなつが思案顔をする。

「家帰ってご飯食べてすぐ風呂入るべ。それがら勉強始めて、十二時ぐらいには寝て、そんで五時頃起きてまた勉強して」

「えぇ? 先輩、夜だけでねぐ朝も勉強してるんすか」

「うん。学校は七時ンなんねえば開かねえべ? だがら一時間ちょっとぐらい勉強して、それがら朝ご飯食べて支度して、家出てくる」

「んだがら成績良いワケよ、ちなつは」

 アタシにゃ無ぅ理ぃ、と日向がお手上げのポーズを取る。勉強がキライだと言っていた割に、ちなつはかなりの時間を勉強に割いているらしい。学年五十位以内、という成績もこれならば納得できる。やはり成績の良い人は周囲に見えないところでコツコツと努力を重ねているものなのだ。

「そんだけ勉強しまくってるってことは、荒川先輩ってもしかして(しゅう)(こう)志望なんすか?」

「シューコー?」

 初めて聞く語句に真由は首をひねった。少なくともこの市郡周辺に、そのような名前の高校は無かったように記憶しているのだが。

秋田(あきた)高校っす! 秋田市にある県内トップの頭いい学校で、卒業生は東大だの医大だの、とにかく頭いい大学にバンバン進学してるんすよ」

「へえ」

 泰司のあまり頭の良くなさそうな解説のおかげで、真由もそこはかとなく秋高とやらの凄さを理解するに至る。どんな事柄においても『トップ』という単語はそれだけで、何やらとてつもない、と万人に思わせるだけの強度を有するものだ。

「秋高だとこっから通うのもキツいんで、下宿したり寮に入るって人も多いらしいんすよね。あーいいなあ、俺も早く親元離れて一人暮らししてえ」

「いや泰司。盛り上がってるとこ悪いんだけど、私の志望校って市内の公立の普通科だがら」

 ちなつの否定に、そうなんすか? と泰司は意外そうな声を上げた。県内どころか市内の高校情報にもさして詳しくない真由の頭の上にはポンポンと、ハテナマークが二つほど浮かぶ。

「そこって偏差値はどのくらいなの?」

「あ、いや、そこも頭いいトコなのは確かなんすけど。俺数学ニガテなんで、ヘンサ値っていうのの計算のやり方は分がんねっす」

「えっと。別にいま計算して、ってことじゃないんだけど……」

 ただただ苦笑するしかない真由の隣で、ふー、と日向が自らの前髪を吹き流す。額に留まっている紺色のヘアピンは、どうやら彼女の一番お気に入りの品らしい。汗をかく機会が増えたからか、とりわけ衣替えを迎えてからの日向はいつもこのヘアピンで前髪を括るようになっていた。

「まあざっくり言や、学年百位以内が合否のボーダーってとこ。今のちなつの成績ならまず余裕」

「なんすよ。ンだってのに荒川先輩、睡眠時間削ってまで勉強してるんすか? さすがにそこまでは必要なくねえっすか」

「や、そりゃあその、油断してっと成績なんていつ落ちるか分がんねえし……」

 泰司に詰め寄られ、ちなつは何やら言いにくそうにもごもごと弁解する。その様はどうにもちなつらしくなかった。

「それとも実は公立だけで無ぐ、県外の頭いい私立も併願するつもりとか」

「それは無えよ。受験すんのは公立一本」

 さらなる泰司の問い詰めに、ちなつが眉尻を下げながら答える。私立。そうと聞いて、真由が真っ先に思い浮かべたのは雅人のことだ。音楽科のある県外校へ進学する。以前、彼はそう言っていた。彼と同じように、ちなつほど上手い奏者ならばひょっとして、推薦やら特待生やらでそうした方面への進路が拓けている、なんてこともありはしないのだろうか? 疑問と好奇心を掛け合わせにしたような気持ちがむくむくと、真由の中で膨らむ。

「ちなつ先輩は、進路に音楽系のところを考えたりはしないんですか?」

 それは本当に何気ない一言のつもりだった。けれどその質問にちなつはハッと息を呑み、うろたえたように真由から視線を逸らしてしまう。

「あ……すいません。私、聞いちゃいけないこと聞いちゃったみたいで」

「いや、そういうんじゃねえよ」

 落ち込みかけた真由を気遣うように、ちなつがその手を横に振る。

「たださ。その、私ん家ってさ――」

「さあ、お喋りはそろそろオシマイ!」

 ちなつが何か言い掛けたところで、日向がそれを遮った。ただならぬ圧を伴うその大声に虚を突かれた泰司も真由もビクリと体を震わせ、日向へと目を見開く。

「人の進路の話さ首突っ込んでる余裕なんか無えでしょ。まずは目の前のオーディションに集中。分がったら、練習戻んべ」

「は、はいっ」

「……んだな。練習すっか」

 泰司がいそいそと楽器を構え直す。こうして一同が練習の空気へと戻ってゆく中、真由は楽譜をめくるフリをしながらそっとちなつの様子を窺った。日向を見やるちなつの唇が、ごめんな、と呟くように動いた、気がした。

 

 

 時期的に夜の訪れが遅いとは言え、この時間帯になると外はもう真っ暗だ。教室の片付けを終えユーフォと譜面台を手にした真由は、灯りの乏しい廊下をひたひたと歩く。永田が帰るときには音楽室や楽器室を戸締まりされるため、それまでには居残り練を切り上げなくてはならない。ついさっきまではちなつや日向も一緒に個人練をしていたのだが、二人とも今日は普段より三十分ほど早く教室を出ていってしまった。それはきっと自分の発したうかつな問いのせいだ。そんなふうに自責の念に駆られつつ、真由は廊下の窓に目を向ける。昼過ぎから空を覆った分厚い雲は夜になっても未だ留まっているらしく、そこには月明かりどころか一点の星彩さえ見つけることは出来なかった。

 恐らくちなつには事情があるのだ。公立高校に進学せざるを得ない、あるいは本当に進みたい道に進むことを許されない、そういう何らかの事情が。さっきの自分の発言は、それにうっかり触れかねないものだった。だからちなつは狼狽し、彼女を慮った日向はすぐさま会話を寸断させたのだろう。果たしてその事情とは何なのか。そこは結局分からず終いだったけれど、人間誰しもあえて他人には明かしたくない物事だってある。今後この話題には触れないほうが良い。ちなつの張り詰めた顔を思い出し、その後味の悪さを散らすように、真由は舌先でざらりと歯の裏をなぞる。

 ……それにしても。真由はおもむろに周囲を見渡す。ほとんどの教室は既に照明が落とされ、人の気配もすっかり失せていた。こういうことにはあまり物怖じしない性格の真由ではあるが、とは言え真っ暗な中に一人というのもあまり気味の良いものではない。早く部室に戻って楽器を片付けよう。そう思っていた矢先、どこからかキイキイ響く高周波の音に背筋がびくんとなってしまったのは、あくまで生理的に自然な反応だった。

「何?」

 冷静に聴覚を研ぎ澄まし、音に集中する。初めはコウモリか何かの鳴き声かとも思ったのだが、その音は一定の周期で、同じ形を繰り返し繰り返しなぞるように鳴らされていた。明らかに動物の発する類のものではない。そう確信した真由は一歩一歩、慎重な足取りで廊下を進む。角を曲がったその先、ずっと遠方の教室から僅かに光が洩れている。そこへ近付くだに音は徐々に大きくなった。間違いない。これは、木管楽器の音色だ。

 教室の戸まであと数歩の位置に差し掛かり、真由はようやく音の正体へと辿り着く。半分だけ明かりを付けた教室、そのど真ん中で、明かりを背負った一人の女生徒が一心不乱にアルトサックスを吹いていた。影に覆われているせいで顔までは分からなかったが、彼女が吹いているのは間違いなく、『聖母を讃える賛歌』第四楽章の主旋律であるワンフレーズ。それはきっと、サックスパートに与えられたオーディションの課題区域なのだろう。吹いては戻り、吹いては戻りを何度も繰り返す彼女は明らかに、この箇所のみを重点的に練習していた。

「あれは……秋山先輩?」

 鶴の頭のような形をしたマウスピースから口を離し、ハア、と上に向かって息を吐いたことで照らし出されたその女子の顔は間違いなく、秋山ゆりのものだった。そう言えばあれ以来、ゆりとは一度も会話していない。別にどちらかが避けていたというわけでもなく、会話の切っ掛けもないまま気付けば春が終わっていた、というだけのことなのだが。

 眼が眩しさに慣れてきて、ようやく真由はゆりの姿をハッキリと視認するに至る。そこに浮かぶ彼女の形相はまさしく鬼気迫るものがあった。一度吹いては苛立ちを噛み殺すように顔を伏せ、もう一度吹いては乱暴な手つきでペンを譜面へと走らせる。もう片付けをして下校しないといけない時間だというのに、今のゆりには壁に掛けられた時計など目に入っていないどころか、門限の概念自体が頭からすっぽり抜け落ちてしまっているかのようだ。

 どうしよう、と真由は逡巡する。もう帰りの時間ですよ、と声を掛けるべきか、それとも見なかったことにしてこの場を立ち去るか。どちらにしても、ゆりのこんな姿を見てしまった後では申し訳なさが募ってしまう。

「そこで何やってんの、黒江さん」

「うひゃっ!」

 やにわに背中から声を掛けられ、あまりの驚きに喉から奇怪な音が出てしまった。ばくばく暴れる心臓を必死に手で押さえつけながら、真由は恐る恐る振り返る。

「あ、佐藤先輩」

 闇の中にぼわりと浮かぶ人型の影。かっきり真四角なフレームのメガネには見覚えがある、とまで思った真由はすぐさま目の前の人物の特定に至る。そこにいたのはドラムメジャーの和香だった。マーチングの時には長いバトンを持っていた和香も、今日は担当楽器であるオーボエをその手に握っている。始めこちらを訝しむようにしていた和香は真由の見ていたものに気付き、なるほど、と微かに顎を引いた。

「秋山先輩っていつも、こんな遅くまで練習なさってるんですか?」

「まあな。ひでえ時は永田先生が来るまでずっとだよ。私も時間合うときはそろそろ上がろ、って言うようにしてんだけど、最近のゆりはあンた感じで声も掛け辛くてなあ」

 頬に手を当てた和香が、ふう、と悩ましげに息を吐く。

「同じ三年生だし、アイツの気持ちも分がらなくはねえんだけどさ」

「佐藤先輩、秋山先輩と仲が良いんですか?」

「良い、ってほどでもねえかな。でもまあ木管同士だし、居残り練終わる時間もだいたい同じぐれえだがら、帰り掛けとかに喋る機会はそこそこね」

「そうですか」

「でも、あっちから話し掛けてくることはほとんど無えんだ。苦手みてえでさ、友達作んの」

 すさり、と和香が足を組み直す音がする。こぼれ来る光によって浮き彫りにされた彼女のふくらはぎは、ぞっとするほど艶めかしかった。

「黒江さんはゆりが転校生だったって話、聞いてる?」

「はい。確か小学生の時、でしたっけ」

「んだ、小五ん時。私と同じ学校でね。クラスは違ったんだけどあの子、教室じゃずっと一人で過ごしてたらしくてさ。前の学校じゃ器楽クラブだったって言うから同じクラスだった子が『じゃあマーチングやらねえ?』って誘ってみたけど、そん時は断られちゃったんだって」

「どうしてですか?」

「分がんね。まあゆりにもゆりなりの事情が、何かしらあったんだがも知んないけどね」

 ここでも事情、か。そんな真由の小さな嘆息を、果たして和香はどう受け止めたのだろう。中指でクイとメガネのブリッジを押し上げた彼女は、そのプラスチックレンズ越しに教室内のゆりへと視線を向ける。

「結局、ゆりはそれから卒業までずっと帰宅部だったみたいで。んでも中学に上がって入部式ん時、部室にゆりが居るの見っけてさ、あーやっぱこの子音楽好きなんだなって、そん時は思ったよ」

 和香の指が柔らかく、その手に握られたオーボエのキイを撫でてゆく。ゆりの過去を聞いていた真由は、何故だか息苦しくなってしまう。断絶期間、ブランク。ずっとユーフォを続けてきた真由には、それはとても縁遠いものだ。一度辞めてしまったものを再びやろうとするのにはきっと、とてつもない量のエネルギーが必要になる。ゆりにとってのそれをもたらしたものが何だったのか、真由には勿論分かりっこない。けれど少なくとも、今のゆりはただ何となく楽しい、という程度のことで音楽をやっているわけではない。それは今の彼女の姿を見ていれば、それだけで解ることだ。

「ああ、ごめんな。帰り際引き留めちゃって」

 はたとそのことに気付いたらしく、和香が片手で謝罪のポーズを作った。いえそんな、と咄嗟に発した真由もどう返してよいか分からず、しばしまごついてしまう。

「もう遅いし、私らに構わねえで、黒江さんは先帰ってて」

「佐藤先輩は?」

「私はもうちょっとここで。あの子のキリ良さそうなとこで声掛けるつもり」

「そう、ですか。分かりました」

 廊下の壁に肩を預け、和香はクツとくぐもった吐息をこぼした。それはなりふり構わず練習に没頭するゆりへの呆れか、はたまた仲間を放っておけない己自身に向けた嘲笑だったのか。どちらとも判断のつけがたい和香の態度は彼女とゆり、二人の関係性をそのまま顕わしているみたいだった。

「それじゃすいません、お先に失礼します」

「うん。帰り、気をつけてな」

 和香に一礼をし、踵を返して真由は音楽室へと向かう。その間も教室から、ゆりの吹くサックスの音色が途絶えることは無かった。キイン、と廊下まで突き抜ける甲高いリードミスの音は、まるで泣き叫ぶゆり自身の悲鳴みたいだった。

 

 

 楽器を片付け校門をくぐっても、音楽室の窓には未だ煌々と明かりが灯されていた。ちなつは音楽室を閉めるまでは部室に居る、とピアノの上にノートを広げて宿題をしているみたいだったが、あの分だとまだ誰かしらは残っているみたいだ。ゆりはまだあの教室で練習をしているのだろうか。そして彼女をそっと見守る和香も、また。何となくいたたまれない気持ちを抱えつつ、真由は無言で振り返り家路へと歩を進めてゆく。

「ちょっと、黒江さん!」

 その時グイと、誰かが真由の制服の袖を強く引っ張った。あ、うわ、とバランスを崩した真由は踏ん張りも利かぬまま、ドシンと芝生に尻もちをついてしまう。

「あ痛たた」

「わああ、ごめん黒江さん。私そんなつもりじゃ、」

 痛む腰をさすりつつ目を開けると、すぐそこにはゆり……いやゆりの妹、楓がいた。文字通り目と鼻の先、というその距離感に心臓がどきりとする。こちらの袖を掴んでいるところを見るに、どうやら彼女は倒れ込む真由に巻き込まれて体勢を崩し、そのまま覆いかぶさる形で二人一緒に転倒したようだった。

「楓ちゃん? どうしたの急に」

「シーッ!」

 楓が唇に人差し指を当てたのを見て、真由は反射的に口を塞ぐ。困惑と動揺で身動きが出来ないのをいいことに、楓はそのまま真由を近くの植え込みまで引きずり込み、その陰で再び真由へとのしかかってきた。両手首をがっちりと押さえられた姿勢のままで楓の豊満な二つの膨らみを頬に押し当てられ、真由はすっかりどぎまぎしてしまう。短い袖の奥からはマンゴーのような甘い香りが芬々と漂っていた。

「いやあの。ムネ、胸当たってるんだけど。何これ、何のつもり?」

「いいがら、静かにして」

 息が出来ない。頭がくらくらする。首を四方八方へと動かした結果、どうにか楓の脇から顔を出すことに成功した真由は、呼吸のついでにさっきまで自分が歩いていた正面玄関の通りを覗き込む。と、いつの間にやら音楽室の明かりは消えていて、代わりに玄関には良く見慣れた女子たちの姿があった。

「ちなつ先輩。と、佐藤先輩」

「それと、お姉ちゃん」

 真由と楓は息を潜めて三人の動向を注視する。二人のいる植え込みのすぐ傍を、ゆりたちが並んで歩いていく。いずれも俯き加減で口を動かしている様子もないあたり、会話らしい会話はほとんど無いみたいだった。三人が正門へと向かう角へ曲がったのを確認して、ぷはあ、と楓が息を抜く。ようやく戒めを解かれた真由もまた、じんわりと痛むお尻に手を添えつつ姿勢を正した。

「急にびっくりしたよ。何だったの、一体」

「やはは、ごめんごめん。最初はただ黒江さんと話するだけのつもりだったんだけど、奥からお姉ちゃんたちが降りてくるのが見えたもんで……」

 少しだけ非難の気色を込めた真由の物言いを受け、楓は申し訳なさそうにぽりぽりと後れ毛の辺りを掻く。

「もしかしてこの時間まで、ずっとここで待ってたの? ゆり先輩のこと」

「待ってたっつうか、たまたま黒江さんが通りがかったからさ。私、いっつもここでお姉ちゃんが帰るとこ見てるから」

 相変わらず楓は危なかった。と、それはともかく、話とは一体何のことだろう。そう思った真由は直接楓に尋ねてみる。

「うん。実はね、そのね、」

 何か言いづらそうにもごもごと口を動かし、それからややあって、楓が大きく息を吸った。意を決した彼女の瞳は真剣そのものだった。

「お姉ちゃんのことで、協力して欲しいんだけど。黒江さんに」

 

 

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