小さい頃から絵ばかり描いていた。傍から見れば好きだから描いていると思われるが、正確に言えば絵を描くことしか自分には出来なかった。
これといって人よりも突出した才能が無いことは子供のときから自覚していた。走れば誰よりも遅く、喧嘩をすれば誰よりも弱く、会話をすれば誰よりもつまらない。
そんな自分を他人は馬鹿にし嘲笑う。そんなことがあれば自然と他人との交流が無くなり、気が付けば独りで出来ることばかりしている。
そんな独りで出来ることの中から選んだのが、絵を描くということであった。
初めはそこら辺りに生えている草花を適当に描いていていた。鉛筆で描き上げた絵はお世辞にも上手いとは言えず、このとき自分には絵画の才能も無いことを実感した。
だが不思議なことにそれでも絵を描くことを止めず、黙々と描き続けることにした。別に好きであった訳では無いのに何故描き続けていたのか思い返しても心当たりが無く、実に訳の分からない行動である。
描いた絵が百を超えたとき、最初に描いた絵と見比べ少しだけ上達したのが分かった。最初に描いた絵がただ線を走らせているだけのものだが、百枚目の絵はぱっと見ても草花を描いているのだと分かる。
そのことが少しだけ嬉しく思い、その日からいつもよりも真面目に絵を描くことを意識した。
日に日に増えていく描いた絵。だがその中に人物画だけは一枚も無かった。描く機会が全く無かった訳では無いが、昔苛められていたことが根本となっているのか、人を描こうとすると必ず筆が止まってしまい何度も中断するという結果に終わっている。故に溜まっていく絵はどれも風景画ばかりである。
そんな日々を繰り返していくうちに齢も重なっていき大人と呼べる年齢となった。
周囲の人間はそれぞれの道を歩み始めていく。ある者は農業の職に就き、あるものは商業の職へと就く。
その中でも一番目指す人が多い職業と言えば冒険者であった。あたれば一攫千金、一生喰うに困ることが無くなる職。だがその反面、命を失うリスクもあった。
一度、冒険者を目指す人間に何故当たり外れのでかい職を目指すのかを尋ねたことがある。返ってきた答えは実に俗と憧れに塗れた定番のものであり、理解出来ないと言うと逆に嘲笑われた。体力が無く、魔力も限りなく零に近く子供でも簡単に動かすことが出来る魔法具すら血管が千切れるのではないかと力を込めなければならない人間がいう言葉など、忠告などでは無く只の僻みにしか聞こえないのであろう。
そんな連中に背を向け、いつもの様に絵を描き続ける。そんな自分を見てやはり負け惜しみだと指を差して笑う者がいるが正直どうでも良かった。
これといって定まった職には就かず、その日あるいは次の日まで喰っていける程度の日銭を稼ぐ日々を送りながら、空いた時間が出来ればいつものように鉛筆と紙を持って適当な場所で適当な絵を描く。
そんなことを繰り返していると、いつしか周りの人間が自分のことを『画家』と称するようになった。ただし『画家』の前に『売れない』という言葉が付くが。
周りが言ったように自分は確かに売れない画家と言っていい。だが勘違いをしないでもらいたいが、絵を自分から売ることなど数えるぐらいしかしていない。それも二束三文といった安値である。今頃、その絵がどうなっているのかは分からない。今も飾られているのかそれともとっくにちり紙にでもなっているのか。しかし自分にとってはどっちでも良かった。まだ『画家』と名乗れるほど誇りを持って絵を描いている訳では無いので。
そんなだらだらとした日々を繰り返し、数年が経った。数年が経過してしても自分の変化も周りからの評価も一向に変わらず、馬鹿にされた日が続く。
悔しくないのかと聞かれれば悔しいと答えるだろうが、今を変えたくないのかと聞かれたのならば別にそれほどでも、と答えるだろう。
基の能力が低い癖に向上させようとする意志が希薄なのには自覚があったし、それが自分にとって最大の欠点であることも分かっていた。
人生を賭けられるほど本気にはなれず、だからといって今までやってきたことを全て捨てさることも出来ない。
中途半端で駄目な人間。それが自分であった。
この性格は一生賭けても治ることは無いだろうと思っていた。
あの日あの時あの瞬間までは。
◇
空を見上げると灰色の雲が一面に広がり、今にも降り出しそうな気配を漂わせている。事実、空からは時折重く響く雷音が唸るように鳴り、雲の中で青白い光を篭らせていた。
空気も湿気を帯び、足下の土や周囲の木々の匂いが一層濃くなることを感じながら、自分は心なしか早足といった程度の速度で家を目指して帰る最中であった。
いつものように日課としての絵描きをする為に今日は遠出をしていた。朝一番は快晴であり注ぐ光も鬱陶しさを感じさせる程に眩しく、熱いものであったが昼過ぎになると徐々に天気が崩れ始め空に雲が重なり始め、気付いたときには太陽の光は完全に遮られていた。
雨を遮るものは当然持っておらず、周囲に雨を凌げる場所は無いかとしきりに探しながら帰路に着いていたが、やがて頬に冷たい雫が落ちるのを感じた。
まだ本格的に降ることはなかったが、それでも雨が降る前兆を感じ更に歩く速度は速くなっていく。
砂利道を踏みしめる音を聞きながら黙々と歩いていたが、そのときある違和感を覚えた。踏み締める砂利の音が心なしか多いような気がしたのだ。
そのことを確認する為に一旦足を止める。すると後方から砂利を弾く音が複数聞こえてきた。一人や二人では無くもっと多くの数である。
踏み締める音の間隔の短さからその足音の主たちが走っていることが分かる。音も徐々にではあるが近付いてきている。
特に何か気になったという訳では無いが後ろを振り返る。足音の主たちの姿はまだ見えなかった。
「……ん?」
だが暫くすると、歩いてきた道の向こう側から黒い服を着た複数の人影らしきものが見えてくる。それを見て自然に眉間へと皺が寄った。
走っていることは走っているがその集団はやけに体勢を低くしており、まるで四つん這いで走っているかのように見えたからだ。まさかと思いもう暫く見ていたが、近付くにつれて分かってきたことがある。
その集団は衣服などを纏ってはいなかった。黒い服と思っていたのは全身を覆う黒い体毛。そして最初は見間違いだと思っていたが、その集団は間違いなく四足歩行で走ってきている。
そこまで分かった瞬間、背を向けて走り出していた。
どうして。何故だ。という言葉を何度も繰り返しながら全力で駆ける。それにつられて背後にいた集団の足音も早くなったような気がした。
先程見た奴らについて記憶違いがなければ、奴らは獣人のワードッグである。その名の通り人に犬を足したような外見で、常に群れを作って行動しその鋭い牙と爪を使い獲物を狩るという存在。『人』の要素はあるが知能は獣が多少賢くなった程度しかなく、意志疎通、会話などは当然不可能。家畜を襲い、畑を荒らす害獣と呼ぶべき存在。そして何よりも厄介なのは好んで人を襲い喰らうということである。
一説には彼らの中には独自の思考回路が有り、賢そうな存在を食べることによってその知力を得るなどと言う考えもある。それが本当かどうかは知らないがワードッグに襲われた人間は必ずといって言い程、その頭蓋を砕かれ中身を全て喰われている。
かつて一度だけ被害者の遺体を見たことがあるが、それは凄惨の一言に尽きた。
人を襲う為、ギルドの冒険者たちが定期的に数を減らすなどして町や村などの被害を抑えているが、それでも運が悪ければ出会うときには出会ってしまう。
まさにそれが今である。
極限状態にも関わらず、思い出さなくてもいいことを思い出し自分で自分の恐怖を煽ったことに、心底馬鹿であり不運な自分を蔑みながら後ろに首を回す。
先程よりも集団との距離が縮み、迫ってくる連中の容姿が良く見え始めてきた。
全身から生やした同じ色の体毛が顔のあちこちから植え込まれたように不規則に生え、目は殆ど人と同じ形をしているが、口吻は犬ほど長くはないが突き出ている。そしてその中途半端な口吻の端からは人よりも長い舌がはみ出していた。
獣人という分類に入る為、その顔はやはり獣に近い容姿をしているが中途半端に人間の要素もあり、その為一層嫌悪感を覚える怖気の走る顔をしている。
走ったことで上昇した体温のせいで汗が流れ始めるが、血の気が引いている身体にはその汗がやたら冷たく感じ、それのせいで衣服が肌に張り付くことが余計に苛立ちを煽る。
久しぶりに全力で走る自分の速度は自分の想像よりも遥かに遅く、いつの間にこんな風に足が遅くなってしまったのかと嘆きたくなるほどであった。ただでさえ運動能力が秀でていない為、どんなに走っても後ろから迫る恐怖を拭い去ることが出来ない。
そんな不安に更なる追い打ちを掛けるように、ワードッグの鳴き声が耳へと入り込んできた。獣の鳴き声というよりも人が獣の鳴き声の真似をしているかのような酷く歪な声であり、純粋に気持ち悪さしか感じられない。
突如体が前のめりになる。反射的に片手を突き出すも、地面に接触すると同時に突き抜けるような衝撃が奔る。腕の骨と肩の骨が互いに潰し合ったことで生じた痛みに、突き出していた腕は倒れる身体を支えることも出来ずにあっさりと曲がり、地面を滑るようにして倒れ込んだ。
突き出した掌。地面に着いた両膝。どちらも擦って皮膚が捲れるがそんな痛みにかまけている時間は無い。すぐさま立ち上がろうとするが、その途端に両膝が折れそうになる。
たったあれだけの距離を走った程度で足の筋肉が震えはじめていた。改めて突き付けられる自分の力と体力の無さに絶望しつつも必死になって体勢を立て直し、その場から駆け出そうとした。
その直後、肩から背中に掛けて今まで経験したことのない熱が生まれる。
ただただ肩から背中に掛けて煮え滾るような熱のような感触。思わず背後を振り向くと、そこには四足で駆けていた筈のワードッグの一体が人のように二本足で立っていた。
そしてその手に当たる指先部分には何かがこびりついている。白い布と肌色と赤の入り混じった物体。
それが人の肉であることに気付き、それが誰のものであるかを理解したとき熱は痛みへと転じ、思わず絶叫を上げていた。
少しでも近くにいる害獣を遠ざけようと無茶苦茶に手を振るうが、その手は空を切るだけであり掠めることすらなかった。
そして更なる不運として空振った勢いで再び体勢が崩れ、そのまま道の端へと倒れていく。前方に生い茂る草に頭から突っ込んだかと思えば、体全体に一瞬だけ浮遊感を覚えた。
何事かと考えるよりも先に目の前に広がる曇天の空。次の時には斜面となっていた草の向こう側を勢いよく転げ落ちていく。
頭をぶつけたかと思えば、背中に痛みを覚え、足首がこれでもかというぐらい捻る。ありとあらゆる場所に激しい痛みを訴え、どこかどうなっているかも分からないまま転げ切った体が斜面の下で大の字になって横たわる。
眩暈、嘔吐感を覚えながらも体を何とか起こそうとする。だがその途端、先程抉られた傷が思い出させるように痛みを放ち始める。
胃の内容物を吐き出してしまいそうになる苦しみ。今まで受けてきた傷の中でも一番の大怪我であった。
芋虫のように身体を蠢かせながらも、何とかこの場から移動しようと試みるも体が言うことを聞かない。
ふとこのときになって初めて気が付いたが、自分の手の中にはスケッチブックが握られていた。無意識ではあるが余程強く握っていたせいか、表紙や中の紙が皺くちゃになっている。
不運に不運が重なる事態と、こんなときですら後生大事そうにスケッチブックを手放さなかった自分の滑稽さに、諦めの笑いを溢しそうになる。
それが出来なかったのは唸る声が耳へ嫌でももぐり込んできたからであった。
横たわったまま視線だけを動かす。そこに映り込んだのは自分を追い駆けてきたワードッグたちの姿であった。
ここまでくればもう諦めるしかない。
逃げる意志は完全に折れ、害獣たちの前にその身を無防備に晒す。その姿に食欲でも湧いてきたのか、どのワードッグたちも口の端からだらだらと涎を垂らし始めた。
それを見て、今からこんな奴らに食い殺されると考えると、嫌悪感と空しさで思わず泣きたくなってくる。
一歩一歩ワードッグたちが寄ってくる度に、頭の中で過去から今に至るまでの記憶が走馬灯として流れてきた。最古の記憶は村のガキ大将に殴られて泣いた記憶、その次は一人だけ仲間外れにされて寂しく遊んでいた記憶、あることないこと村の中で噂された記憶などなど、思い出としてはどれも碌でもない記憶であった。
そんな記憶を抱いたまま、これから最低な奴らに最低な殺され方をされる自分。積み上がった不幸に全てを呪いたくなってくる。
ワードッグの一匹が大きく口を開くのが見えた。
その時こう思ってしまう。
『ああ……死にたくないな……』
これ以上醜悪な獣人たちの姿を見たくなかったので目を閉じる。広がるのは只の闇。だが野蛮な獣人を見続けるよりは遥かにましであった。
閉ざされた視界の代わりに聴覚がワードッグたちがにじり寄ってくるのを報せる。あとどれくらいこの恐怖に身と心を晒していなければならないのかと考えたとき、瞼越しにでも暗闇が白く染まる閃光が生じ、そして耳の奥が壊れるのではないかと思う程の轟音が響き渡る。
それに驚き、体が反射的に委縮し閉じていた眼も開いてしまう。
目を開けたとき周囲の光景は一変していた。並んでいた木々はどれもが大きく縦に裂け、燃え上っている。周囲の草むらも同様に焼け焦げ、所々に炎が上がっていた。
初めは落雷があったのではないかと考えた。だが視界を少しずらした時にその考えは違うと確信し、同時に体の感覚が全て消え失せるような衝撃を覚えた。
倒れている自分から数メートル先に突如として現れた一頭の獣。馬に似た姿をしていたが大きさも全身から放たれる威圧感も、そして言葉で言い尽くせないその美しさのどれもが既存の動物からは掛け離れていた。
まるで命を与えられた雷。それが最初に抱いた感想であった。
額からは真っ直ぐに伸びた角が一本生えており、それが時折蒼白い光を帯びる。全身を覆うは白銀の体毛。一本一本が銀を溶かして作られた銀糸で出来ているのではないかと錯覚を覚える程の美しい毛が、微風によって滑らかに揺れることで官能に近い感情を与えられる。
そしてその体毛からは白光が放たれており、その光もただの光では無く空気中に舞う僅かな塵がその光に触れようものならば爆ぜるようにして燃え、一瞬にして姿形も無く蒸発する。一見すれば恐ろしい現象であったが、自分にはさも当然のことのように思えた。あれほど美しい存在に汚れなどが触れていいものではない。
足下から角の先、尾の先端まで何一つ文句が付けられない程に完璧な造形によって作られたその生物は、人が思考の中で思い浮かべる完璧の更に上を行くような未知と不可侵的な美を秘め、そこに立つだけでこの世のありとあらゆるものがこの生物を引き立てる存在に過ぎず、ただ周囲を飾る為だけのものに成り下がる。
そう思ってしまう程にその生物は一つの芸術として完結していた。
痛みを全て忘れてしまう衝動に駆られ、這いずる様に身体を起こす。仰向けからうつ伏せの姿勢になったことで視界がより広がったとき、その生物の足元に転がる煤の塊のような物体が眼に入った。
全てが黒一色に燃え尽きた物体。辛うじて残った原型をよく見れば、四肢らしきものを天に向けているように見える。その燃え尽きた物体が元ワードッグだと気が付いたときには、白く輝く生物の足がそれを踏み砕き、今度こそ完全に原型を失う。
仲間をむざむざと殺されたことで残りのワードッグたちが毛を逆立てて怒りを示す。
だが自分から見ればワードッグたちの怒りや殺意はあまりにも矮小なものに見えた。普通の人間ならば死を覚悟するだろうし、冒険者たちならば腹を括って戦う覚悟を決めるだろうが、その生物はワードッグたちの殺気を受けても涼風、否周囲に舞う塵以下にしか感じていない。つまりは全く何も感情を抱いていないということである。
一斉にワードッグたちが吠えるとその生物を囲むような陣形を作る。
それを見たとき、目の前の獣人たちに心底憐みの情を抱いてしまった。仲間が殺されたことで怒りを覚えるのは理解出来る。だがその怒りに任せてあの生物に戦いを挑むという愚かな行為は全く理解出来ない。生き死になどと無縁な人生を送ってきた自分でも直感的に分かるあの生き物との格の違い、それが分からないワードッグたちの頭の悪さに心の底から同情する。
周囲を囲まれようとも、光を放つ生物は地面を踏みしめながらゆったりと歩き、まるで何も起きていないかのように振る舞う。
ワードッグたちは歯を剥き出しにして低い姿勢になると、いつでも飛び掛かれる状態となる。それでもなお、その生物は構えるどころか眼中に無いといった態度を続ける。
ワードッグたちの怒声が重なり、殺意を力に変えて一斉に飛び掛かった。
その瞬間だけ、まるで世界の時が停滞し始めたかのようにゆっくりと見え、一枚一枚絵を重ねていくかのように動いていく。
一匹はその長い爪を生物の首に突き立てようとする。別の一匹は口を開き、その不揃いに並ぶ歯を胴体に喰い込ませようとする。また別の一匹は両手を大きく開きどの箇所でも良いからその生物の肉を抉り取ろうとする。
それぞれがそれぞれの殺意に従い、本能的に考えた殺し方を試みようとする。
白光の生物は動かない。いくつもの殺意が突き立てられようとしている状況の中でも、まるで彼方の出来事かであるかのように無視し続ける。
あの美麗な生物に野獣たちの汚らしい爪や牙が触れようとしている。それを想像しただけで胃が捲れ上がるような不快感が湧き立ち、衝動的に身体を起こそうとするが己の非力さからすぐに崩れる。
駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。
無駄なことだと分かっていても数秒後に訪れる未来を消し去るように言葉が重なっていく。
引き延ばして見える全ての光景がもどかしく、その中で無力にも足掻くしかない。
やがて獣人たちの爪牙がその生物に触れるか触れないかまで接近したとき、初めて生物が動きを見せた。
紅玉を彷彿させる眼を獣たちに向ける。それだけの行為。しかしそれを見た瞬間、目に映る全ての世界が白一色と化す。その刹那、聞こえてきた嘶く声。それがあの生物の鳴く声なのかと思った直後、轟音によって余韻が全て掻き消えた。
目の中に太陽を放り込まれたかのような閃光によって両目は何も映さなくなり、耳も又火薬を直接流し込みそこで爆発させたような衝撃で一切聴こえなくなる。
視力と聴力。それらを同時に奪われ、何も見えず何も聞こえなくなった世界で意味も無く手足を動かしてしまう。
一体どれほどの時が過ぎただろうか。五感の内の二つが使えなくなったことで焦る心が時間の感覚を狂わせる。
やがて白一色に染まっていた視界は徐々に色を取り戻し始め、ぼやけてはいるものの周りの形が分かり始めてきた。
そのときになって目の前に黒焦げの死体が転がっていることに気付き、思わず悲鳴を上げて身体を仰け反らせる。そして仰け反らせたせいで受けた傷が開き、その痛みで再び地面の上で悶える。
まだ聴覚は回復しないものの、少しずつ戻る視力のおかげで今どうなっているのかが理解出来た。
地面が焼け焦げ、それを中心にしてワードッグたちの死体が雑に置かれている。焼けて間もないせいかその身体からはいまだに煙が昇っていた。
思わず空を見上げる。中で青白い稲光を篭らせていた黒雲は裂かれるようにして外へと稲妻を放出しており、激しく点滅していた。
あのとき、生物が眼を動かした時に確かに稲妻の音を聞いた。それと同時に凄まじい閃光が場に満たされたことから、あのとき落雷があったのだと理解する。しかし本来の雷ならばワードッグを含め自分も焼かれていてもおかしくは無かった筈なのに、まだ生きているどころか雷を浴びてすらいない。まるでワードッグたちだけを狙って落とされた雷。自然を操るなど高名な魔法使いですら出来ない芸当である。
そんなことを考えていたとき、前に転がるワードッグの死体が踏み砕かれる。そこには光立つ獣の脚。
全身の汗腺が開き、止めどなく汗が流れ始める。心臓は今まで経験したことがない程の鼓動で動き、口の中は枯れ果て舌が張り付きそうであった。
圧倒的な恐怖と威圧。それでも視線を下から上へと向ける。
直ぐ近くには、この惨状を引き起こした張本人が何事も無かったかのように立っている。初めに見たときよりも更に距離は縮まっており、流れる銀毛の一本一本、体に刻まれる皺まで見える程の距離であった。
言葉など出ず指の一本、瞬きの一つ、眼球の一動すらも出来ない。
その生物は人が草木でも踏み潰すかのように何の感慨も抱かず、焼き殺された死体を踏みながらこの場を離れようとしていた。
最初から自分のことなど路傍の石、あるいはそこらに生えている雑草ぐらいにしか思っていないようで文字通り眼中に無いといったものであった。
生物が離れて行くのをただ何もせずに見送る。このまま何もしなければ何もされない。そんなことは分かっている筈なのに何故か体が何かをさせようとする。
何か一つ声でも、音の一つでも上げたい。
去って行く生物の後ろ姿を見たとき、全身の力を奮い立たせ僅かに出来たことは――
「あ……」
自分の想像していた何百分の一ほどの大きさで放たれる、蚊の羽音にも劣る声が体の内に響く。
全身全霊を込めてその程度。自分という存在に嫌悪を覚えるほど弱いと自覚したのはこのときが初めてであった。あまりの情けなさに顔を地面へと伏せる。浮かべているであろう情けない表情を誰にも見せない為であった。
きっと届くことは無い。きっと仮に届いても羽虫のような囁きに意識を傾けることはない。そう考えたとき――
地面から一定の間隔で伝わって来た振動が止まる。それを感じたとき、弾かれるように面を上げた。
視線の先、立ち止まった白銀の雷の双眸がこちらへと向けられていた。魂が吸い込まれそうになるほど曇りが無く、あらゆる宝石をもただのくず石へと下げるような瞳、言葉では言い尽くせない美しさに息が止まる。
やがて興味を無くしたかのように視線を外すとその生物は再び歩き出し、やがて姿が見えなくなった。
見つめられていた時間はほんの数秒程度。だがたった数秒ではあるがその時間は生涯忘れられない時間であった。
気が付けばスケッチブックを開き、用紙に鉛筆を走らせていた。この感情をこの想いを一秒でも劣化させないうちに刻み込む為に。流れる血も痛みを訴える傷も何もかもが意識の彼方へと追いやられる。
真っ白な紙の上に黒の線が絶えることなく走り続ける。周りの音すら聞こえなくなる程に集中しながら、頭に浮かび上がった姿をそのまま腕、手、指先、そして筆先まで通じさせる。
恐らく十数分もかからずに一枚の絵が完成した。それは最後に見たあの生物の横顔を模したものであったが、出来上がった絵は想像したものと比べ遥かに稚拙で雑なものであった。
何一つ満足する点が無い一枚目を早々に捲り上げ、すぐに二枚目へと取りかかる。
一枚目と同じほどの時間で二枚目が出来たが最初に比べて毛程の差が無い。
それもすぐに捲り上げ三枚目に移る。
三枚目が終われば四枚目、それが終われば五枚目。描けども描けども理想には追い付かず、描いているうちに視界が滲んでくる。理想に追い付けない自らの画力の無さに涙が出てきた。
今、このときほど絵が上手くなりたいと心の底から思ったことは無い。
五枚目が終わり、六枚目に入る。目から大量の涙を流し、悔しさで表情を歪ませながらも走る鉛筆の速度は一向に緩まない。淀むことなく動き続け、一つの像を描き続ける。
それを何回も繰り返したとき、不意に鉛筆を動かしていた腕が掴まれた。
思わず掴まれた腕を引っ張ろうとするが、引く相手の方の力が強いのかびくともしない。背後を振り向くと戦いの為の装備一式を纏った複数の人間がおり、自分に対して何かを言っていた。
内容は分からない。ただ口だけを動かししきりに喋っている様子であったが、声など全く聞こえなかった。このとき、自分の耳があのときの落雷のせいで聞こえなくなっていたことに気付く。集中して周りの音を置き去りにしてしまったかと思ったら全く違い、そんな重大なことに気が回らなかった自分の鈍さを自嘲する。
その途端、急に視界が狭まってきた。瞼も意志とは関係なく下がってくる。
もっと沢山の絵を描きたい為にそれに抗おうと意識を保とうとするが、その甲斐も無く火を吹き消すかのように一瞬にして意識が途切れるのであった。
◇
次に目が覚めたとき、自分は白いシーツの敷かれたベッドの上で目覚めた。体を起こそうとするが背中から激痛が走り、すぐに中断される。
すると誰かが自分の顔を覗き込んでくるのに気付く。それは涙で表情を歪めた両親であった。目覚めた自分に何かを言っているが全く聞こえない。
身振り手振りで両親の声が聞こえないことを伝えると両親はすぐにハッとした表情となり、父が近くに置いてあった紙を手にするとそこに伝えるべき言葉を文字にして書き始める。用意の良さを見るに、聞こえないことは最初から分かっていたらしい。
書き終えた紙を見せられる。そこには現在の体調について質問する文章が書かれていた。それに対して背中が痛むことと聴力を失ったままであることを伝え、ついでにいつになったら治るのかを聞いた。戻って来た答えは共に一月は掛かるというものであった。
背中の傷はワードッグの雑菌などに塗れた不潔な爪で裂かれているため、傷口が炎症を起こしているらしく定期的に薬を摂取しなければ化膿し、病気が発生する危険があるという。耳の方も鼓膜が破けてはいるものの完全に機能が破壊された訳では無く、治療を施したので背中の傷とほぼ一緒に回復するらしい。
治療用の魔法を使用する魔法使いに頼めばもっと早く完治出来るかもしれないという考えが頭を過ぎったが、すぐにそれを消し去る。医者にかかることでさえ大金が掛かる上に自分の家は裕福ではない。
ついでに両親はあのとき何故ワードッグたちに襲われたかについても説明し始めた。何でも冒険者たちが定期的に行っている駆除から逃れた連中であるらしい。それを聞くと何故あのとき冒険者たちが自分を助けたのか理解出来たし、同時に自分が襲われたのが駆除に対する八つ当たりであることも理解した。
そのままワードッグたちの無残な死体がある中で一心不乱で絵を描いていたことについて両親が尋ねてくるが、正直あのときをことは誰にも話したくないという独占欲が働いたせいで適当な嘘でその場を誤魔化す。
そのまま親たちと中身の特に無い会話を続けるもののやがて話が底を付き、会話も沈黙が続くようになった。それを見兼ねて疲れたのでもう眠りたいという意志を両親に伝えるとすぐに了承し、一旦帰宅する準備を始める。
病室から去る時、両親が何か必要なものはないかと聞いてきた。考える間も無く口から出て来たものは絵を描く為の道具であった。
◇
あれから半年以上の月日が流れた。あのときの傷も完全に治り後遺症も無い。
あの日以降、外で適当な草花などの風景画を描くことは無くなり同じ絵ばかりを描き続けている。勿論、絵のモデルはあのとき見た輝く生物である。
何百という絵を描き続けるもどうにも一歩先に進めない状況が続く。試しにキャンバスや絵具などを買い本格的な絵を描いてみたがすぐに駄目だと感じ止めた。色や額をつけた程度であの生物を再現できる筈など無い。そもそも模写をしたいのではなくあの生物の神秘的な美しさを現したいのである。
今日も目の前の用紙に向かい唸りながら、どうすればあれに近付くことが出来るのかを脳を絞り尽くすようにひたすら熟考する。どれもこれも満足には程遠い絵ばかりであり、自分の進歩が感じられない。
そのとき遠くから雷の轟音が聞こえてくる。それを聞いた途端、鉛筆やスケッチブックを手に取り一目散に外へと飛び出した。
見上げる空は曇天。あのときを彷彿とさせる。あの日以降更に加わったものとして今にも雷が落ちそうな日にはあの生物が現れるのではないかと思い、曇天の空が消え去るまでひたすら外を駆け巡ることをしている。
もう一度あの生物を見れば、もっと完成度の高い絵を描けるのではないかという思いと、この眼であの生物の光を見てみたいという個人的な思いからであった。
この行動と絵画の為に引き籠る生活のせいで、周囲の人々からは雷に撃たれて頭がおかしくなり奇行に走るようになったと陰口を囁かれるようになったが、最早気にも留めない。
いつの日か役に立つかと思い、少しずつ貯蓄した金を削りながら眠って起きては絵を描き、疲れたら眠り、天候が悪くなれば外へと駆け出していく日々を続けていく。
そんな生活をし続け一年以上が過ぎようとしたとき、ある変化があった。
親以外に自分のことを尋ねてくる人物がいたのだ。その人物は会うなり絵を見せて欲しいとせがんできた。全て失敗作であり特に断る理由も見たらなかったので、描いた絵の一部を見せると何故かその人物は感嘆とした声を洩らす。
聞くところによると、この人物はとある場所で自分の絵を見て気に入り尋ねて来たと言う。要らない絵を何枚か他人にタダで譲ったことを思い出した。その内の一枚をたまたま見たのであろう。
その人物はいきなり自分の絵を売ってくれと申し出てきた。思いもよらない言葉と、そして提示された金額に思わず呆然としてしまう。正直な話、自分の視点から見て今まで描いてきた絵にそこまでの価値を見出したことなど無かった。どれもが自分の思い描く理想とは程遠い絵である。
呆然としているのを渋っていると勘違いしたのか、その人物は延々と自分の絵の良さについて褒め始める。やれ躍動感があるなど、やれ神秘的など、やれ魂が込められているなど、聞いている身としては本当にそう思って言うのか首を傾げてしまうものであったが。
賞賛の言葉を聞くのにも次第にうんざりし始め、早く絵を描きたいが為に最後まで話を聞くことなく、描いた絵を何枚か適当に見繕って渡し、遠回しにさっさとここから帰るように伝える。
こちらの気持ちを知ってか知らずかその人物は満面の笑みを浮かべ、絵を手に取り代わりに提示していた額の金を置くとそのまま帰って行った。
いつか場所が圧迫されるようならば捨てようと思っていた絵が思わぬ形で資金へと変わったことは、嬉しい誤算であった。これで当分、雨水で空腹を満たす心配がなくなる。
数日後、再びその人物が家へと尋ねてきた。何でもこの間渡した絵が好評であったらしく結構な値で売れ、今日はその内の何割かを持ってきたという。
その話を聞いたとき、初めは嘘ではないかと疑いの眼差しを向けてしまったが、目の前にその何割かの金を置かれたときは正直声を失った。
ここで初めて、その人物の身分が画商であることを明かされる。画商が言うには、自分の絵は何十年に一度生まれるか生まれないかの天才的芸術性が秘められているらしい。
芸術性、あまりに自分と縁の無い言葉で思わず失笑しそうになる。
画商は、これからも絵を提供してくれれば売り上げの何割かを渡す、という仕事の話を持ちかけてきた。
食うにも画材を買うにも金が要る。どうせ完成には程遠い失敗作のみを渡すのならば、別に痛くも無い。それどころか処分に困っていたこともあって寧ろそっちの方が助かる。
画商の言葉を二つ返事で了承した。
画商は喜び、また来ることを告げて家から去って行く。
これで当分金稼ぎに時間を割くことは無くなり、今まで以上に絵に集中することが出来る。そういった意味ではあの画商は幸福の使者のように思えた――だが話を聞いているときに一つだけ気に食わないことがあった。
自分の絵に描かれたあの存在を独自性溢れる存在と評したことだ。まるで架空の存在だと言わんばかり、それどころか作者である自分が生み出したかのように言う。あのときばかりは声を大にして主張したかった。
『この生物は実在する』と。
とは言っても心の中ではあの生物の存在を独占したいという感情もある。実在していると言いたいが誰にも知られて欲しくない、自分以外が本物に目を触れて欲しくないという矛盾した欲求。
己の幼稚性を認識しながら、この悶々とした感情を目の前に置かれた白い紙にぶつける。
その日の絵はほんの少しだけではあるが、思い描いたものに近付いたように見えた。
◇
あれから十年が経った。
貧困だった生活のときと比べ、今は見違えるほどに裕福な生活をしている。全ては絵に価値がついたからであった。
この頃から画伯などと呼ばれ始められていた。大層な呼び方に戸惑いを覚える。
しかし、自分は相変わらず真っ白なキャンバスに向かい合い、曇天の空の時は外へと駆け出すという日々を送り、あの頃と全く変わらない生活をしている。
金が溜まったから失敗した絵の置き場に困らないように大きな家を買った。余った金は両親に上げた。それでもまだ残った金は広い家を掃除したりするのが面倒なので、身の回りの世話をしてくれる人間を雇った。
天と地ほどの生活の違い。雨水や野草で飢えをしのいでいたときが遠い過去のように思えてくる。
だがそれでもあの時見た生物の姿は色褪せることなく記憶の中に刻み込まれており、それを基にあの姿を描く。最初のときと比べれば二歩、三歩ほど理想に近付いたような気がした。しかし、まだ満足には程遠い。
この頃になると少しではあるが焦りというものを感じ始めてきた。二十代だった自分も今は三十代。時間の有限さをひしひしと感じ取りつつある。
自分が老い果て、記憶が曖昧になる前に果たして追い求めた絵を描くことが出来るのか。夜寝る前にそんなことを度々考えるようになる。
どんなものであろうといずれは色褪せて元の輝きを失う。思い出の中に刻まれたこの美しい記憶がいずれ掠れた記憶になることを考えると、恐ろしくてしょうがない。
だからこそ筆を振るう。不安を拭い去るように、少しでも完成に近づく為に。
◇
あれから数十年が経った。
振るう筆や鉛筆に重みを感じるまでに体が衰えてきた。自分の腕や手を見る度に朽ちる前の枯れ木を連想する。
そしてこの頃から満足に絵を描くことが出来なくなった。体力の衰えは勿論のことであるが、何よりも若かりし頃に刻まれたあの生物の姿をぼんやりとしか思い出せなくなってきたからだ。
ある日、キャンバスに向かい合ったとき白い面に筆が触れた瞬間、頭の中に空白が生まれた。自分は今から何を描こうとしているのか、そう考えてしまったのだ。数秒後には描くべきものを思い出したが、今までならばそんなことをせずとも描くことが出来た。
理想の絵にあと数歩と近付いたときの出来事である。
最も恐れていた事態。だがどうしようもないことであった。
そこで絵を描くことを止めた。曖昧な記憶で描いてアレを歪めたくなかったからだ。
絵を止めても、幸い今まで溜めてきた金のおかげで死ぬまで食うに困ることは無い。
初めて絵を描くことを止めた日、その日は感覚が狂う程長く退屈であった。これ程までに一日という時間は長かったのかと思う程。
絵を描いていたときは朝日が昇ると共に絵を描き始め、気付けば日が沈んでいた。それを見る度に一日がもう一時間、二時間長ければと切に願っていた。
退屈な時間は心を腐らせる。一日描かなかっただけで心身共に朽ちていくような感覚を覚えた。その耐えがたい感覚に翌日にはすぐにキャンバスへと向かい合っていたが、残酷にも筆が動こうとはしない。
このとき自分の全てが終わったことを悟る。老い過ぎたのだ、何もかもが。
体から急速に生気が抜け出していくのを実感する。思い描いていた理想には最早届かないという絶望。
それが自分の心を完全に殺した。
◇
あれからどれくらいの月日が経ったであろう。
画伯や天才などと一時期持て囃された自分も、ベッドの上でただ死を待つくたばり損ないと化していた。
全てを注いできた絵も描けなくなり、無意味な日々を過ごす余生。妻も子供もいない為、死ぬときは独りであることも決まっている。
窓から見える外の景色をただ無意味に眺め続ける日々。
そして時折使用人たちが自分の陰口を囁いているのを聞くことぐらいしかすることがない。もう終わった人、ただの老人、金以外何もない人、そんなことをぼそぼそと囁き合っている。こちらの意識が無いと思って好き勝手言っている様子であったが、生憎意識の方ははっきりとして、まだ耄碌はしていない。いっそのこと何も考えられない程、頭の中身が空になってしまえば楽であったが、そこまでは衰えることはなかった。
ただ大事な、本当に大事な記憶だけがぼやけた状態。つくづく人生というものは残酷なものを用意する。
いっそのこと自らの手で自分の人生に幕を下ろすことも考えたが、往生際が悪いものでいつか元に戻るのではないかと根拠の何もない希望を抱き、惰性で今まで生きてきた。
しかしそれももう終わりが近い。自分でも寿命が近いことを何となくではあるが悟っていた。
いつもの様に眺める窓の外の景色。曇天の空が広がっている。
今までの自分ならば真っ先に飛び出していたであろうが、絵を描けなくなってからはそれも自然としなくなった。
雲の中で青白い雷が篭り、内から照らしているのが見える。今にも落ちてきそうな雷を見ても、それの下に走っていく気力が無い。
このまま何もせずあの雲が消えるのを待つだけ。
そう思っていた。
このときまでは――
閃光。轟音。そしてその狭間に聞こえた微かな嘶く声。
気付けばベッドの上から跳ね起きていた。たった一つの声。それであの日の記憶が蘇る。――否、そんな生易しいものではない、あの日の記憶だけが頭の奥底から抉り出されたような感覚。音、光、匂い、それらが一気に掘り起こされる。
跳ね起きた次の瞬間にはベッドの側に置いてあったスケッチブックと鉛筆を手に取り、部屋から駆け出していた。途中、何人かの使用人が自分の姿に驚き慌てて止めようとするが、乱暴に振り払って先へと行く。
寝間着、裸足、そんなことなど構う事無く雷雲の下に向かって走り出す。
不思議な感覚である。死に掛けていた筈の身体だったのに、今は信じられない程の活力に満ちている。現にこれほどまでに力強く走れている。
全てはあの声を聞いたせいである。もしかしたら自分が朽ちる前に聞いた都合のいい幻聴だったかもしれない。だが構うことは無かった。どうせは尽きる命、無駄であったとしても最期に馬鹿の一つでもやって散らせた方が清々しく終われる。
走る、走る。全力で走る。風を切るように走る。不思議と疲労も息苦しさもしない。だからこそ全力で走り続けることが出来た。
街を抜け、人道を抜け、森を抜ける。
やがて走り続けていた足が止まる。もう走れなくなったからではない。探すべきものがそこにあったからだ。
雷雲の下、そこに居たのはあの日から寸分も変わらなく同じ輝きを放つあの生物。あの全ての穢れを浄化する様な光も銀糸のような鬣も言葉に現せられないぐらいに整った美しさも、何一つ変わっていない。
一目見ただけで失われた筈の記憶が掘り起こされ、そして未だ翳りの無い存在であることに双眸から知らず知らずうちに涙が零れてきた。
気付けばしゃがみ込み、スケッチブックに鉛筆を走らせていた。今なら描ける、本当に描きたかった絵が描けるという確信があった。
鉛筆を走らせる度に高揚感が増していく。まるであの日まで若返ったような感覚であった。
蘇る。蘇る。鼓動が、命が、魂が。
絵を描きながらも、あの生物がこちらに近付いてきていることを察する。相手が何をするか理解しつつも、その場から離れようとはせず、今まで止まっていた時を加速させるようにひたすら腕を動かす。
あと十分、いやあと五分、いや三分ほどの猶予が欲しい。その間までに生涯で最高の一枚を完成させる。
紅い目と自分の目が合う。それだけで相手がこちらをそこらの石程度にしか思っていないことが分かるが、それで結構であった。
あれほどの生物が自分のような矮小な存在にそれ以上の意を向ける必要は無い。それでこそ超越した存在の証である。
迫る距離が、残された絵に費やせる時間と命の刻限。刹那とも言える時間の中で己の全てを一枚の絵に描き起こす。
やがて眼前にその生物が立つ。近付くだけで肌が焼けるような存在感。だが今は恐怖よりも歓喜の方が優っていた。
あれほど焦がれた存在が手に届く距離まで来ている。
それと時を同じくして、白紙の上を走らせていた鉛筆の動きも止まる。完成した絵を見て頷く。
生涯最後の絵。それは初めてこの生物を描いたときと意図せず同じ構図であった。だがその完成度は比べものにならない。
ようやく――ようやく追いつくことが出来たかな。
密かに満足するとスケッチブックを閉じ、遠く離れた場所に向けて放る。折角出来た絵である、あの世まで持っていくのは忍びない。
生物の青白い光が輝きを増していく。これから何をするのか考えなくても分かる。
「ならせめて」
記憶の中に焼き付いて離れることの無い光。それに老い、朽ちた手を伸ばす。
「その光に――」
◇
ある国に一人の高名な画伯がいた。
その画伯は変わりものとして有名であり生涯たった一つの絵を描き続け、曇天のときには嬉々とした様子で外へ出かけるという奇行もあった。
しかし晩年体調を崩し全く絵を描くことが無くなったが、ある日雷が鳴り響く空の時に突如として家を飛び出し、そのまま行方をくらませてしまった。
必死に捜索をしたが見つかることは無く、唯一見つけることが出来たのは画伯が愛用していたスケッチブックのみ。
画伯が最期に描いた一枚。それは鉛筆のみで描かれたものであったが、どういった訳か見る者全てがその絵が光を放つような錯覚を覚えるという。
鬣を持ち雄々しくも美しく命に満ち溢れた生物。画伯が一生を掛けて描き続けたもの。
誰かは言う。
きっと画伯はこの生き物の下へと旅立ったのだと。
そして旅立った画伯はきっと幸せだっただろう。そうじゃなければこんな絵を描くことなんて出来ないから。
だってこんなにもこの生き物のことを愛おしく思っているのだから。
キリンさんが好きです。でもキリン装備の方がもっと好きです。
今回の話は初期に考えていたものを形にしてみました。初めはこんな風に一話完結で登場人物に名前など一切ない感じの話でした。
設定的には国や時系列が全く異なるというもので書いています。
連続した話がメインストーリーならこういった話はサブストーリーでサブはこんな形で書いていきたいと思っています。