MH ~IF Another  World~   作:K/K

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盾と剣(後編) ※1/20加筆

 封印を解いたことによって現れた二匹の巨大な蟹。過去に最大規模の領土を支配していた国が残し、大仰な伝説で謳っていた割には想像の斜めを行くその姿に、暫しの間ジェイドたちは呆けてしまった。

 だがその呆けも二匹が動き始めるとすぐに消え去る。

 砂蟲を挟んでいる朱い蟹――盾蟹は鋏の中で必死にもがく砂蟲を地面に叩き付けると、そのまま鋏に力を込める。

 砂蟲は口から黄土色の体液を吐き出しながら更に暴れるが、砂蟲の身体に喰い込む鋏は微動だにしない。

 単純な構造ではあるが全身が筋肉で出来ているといっても差し支えない砂蟲の動きを、片手だけで押さえ込む盾蟹の力は竜種すらも超えるかもしれない。

 一方で青い蟹こと剣蟹は触覚を揺らしながら、周囲で戸惑っている男たちをその黒い目に映していた。

 表情というものなど全く無く、何を考えているのか判別する要素が皆無。故に剣蟹が次に移った行動には誰もが反応出来なかった。

 剣蟹が楕円形の形をした鋭い爪を持ち上げる。盾蟹の爪とは違い細長く先端が尖っており、挟むという行為に適していない形状をしている。

 ならばその爪はどのように使用するのか。その答えは剣蟹が持ち上げた腕を振り払ったときに出た。

 数メートルは軽く超える巨大な爪。その巨大さから重量もそれ相応のものに思えるが、剣蟹が振るった爪の速さはそれが如何に浅はかな考えであったのかを突き付けてくるものであった。

 見て逃げ始めようとしたときには既に遅く、振るわれた爪の軌道状にいた三人の男の体を爪が通過していく。

 

「ッ! ……あれ?」

 

 吹き抜けていく剣風の勢いに身を硬直させる男たちであったが、その場から吹き飛ばされることも無く立ち尽くすだけ。確かにあのとき剣蟹の爪は自分たちを捉えていたというのに。

 何が起こったのか分からないといった様子で、男の一人が我が身の無事を確認するように自分の両手を持ち上げた次の瞬間――

 

「――あ」

 

 ――ずるりと肘から先が地面に向かって落ちるのを見て、間の抜けた声が男の口から出た。

 

「何で……」

 

 現実に起こったことを認められないのか呆然とした声を出しながら、落ちた腕を拾おうとしてその場から一歩踏み出す。

 

「あれ?」

 

 気付けば天井を眺めていた。前に進んでいた筈なのにどうして自分は上を見上げているのであろう、と思った次のときには男の意識は黒く塗り潰され、二度と意識が蘇ることはなかった。

 

「うああああああ!」

 

 下半身から落ちた男の上半身を見て二人の男が絶叫を上げる。すると一方の男の腹部に赤い線が浮かび、もう一方の男の首にも赤い線が浮かび上がる。

 

「あ?」

「え?」

 

 短い言葉を放った後、二人の男の体から線よりも上の部位が切断され、最初の男と同じく地面へと落下する。

 突然のことに自分の身に何が起きているのか理解していないのか、地面に転がる頭部は数度瞬きし、上半身が切断された男は助けを求めるように手を伸ばすが、すぐに力を失い地に落ちる。

 自分が死んでいることすら分からない程、鋭い剣蟹の斬撃。

 冷たさを感じさせる青い甲殻、そして一瞬にして凄惨な死体となった仲間の姿を見て、周りの男たちは自分の体温が急激に下がっていくのを感じる。だというのに額からは暑くもないのに汗が流れる。

 剣蟹は三人を瞬殺した爪を左右に広げる。只でさえ大きな体は爪を広げることによって更に大きく見える。まるでその爪の中から逃れられないと錯覚させる程に。

 男たちは今すぐにでも逃げ出してしまいたくなるが、地上への出口は今の所一つしかなく、更にその出口の前には剣蟹が立ち塞がっている。

 逃げるにはあの恐ろしい爪を掻い潜らなければならない。

 一斉に飛び出せば数人ぐらいなら逃げ延びる可能性があるだろう。だがそんな勇気も度胸も男たちには無かった。立ち塞がる剣蟹の無機質かつ容赦の無い威圧に男たちは完全に呑まれていた。

 

「何ですかぁ! 何なんですかぁ! あれ!」

 

 逃げるのを止め、惨劇が起こっている場所から可能な限り離れた位置でジェイドたちは周りを見ていた。封印を解いたことで現れた二匹の巨大な蟹。それが瞬時に見せた圧倒的な強さを目の当たりにして、ピリムは悲鳴のような声でジェイドに尋ねる。

 

「何って――蟹だろ?」

「私の知っている蟹はあんなに大きくて強くて怖くないです!」

 

 さらっと返された答えをピリムは強く否定した。

 

「まさか……あのようなモノたちがここに眠っていたなんて……」

 

 『砂の民』がこの地に於いて支配者となった最大の理由にして最強の武器である『砂蟲』。それが一匹の蟹によって為す術も無く蹂躙されている。そしてもう一匹の蟹は一切の容赦無く男たちを斬殺していた。

 死体を見ることは初めてではないトウであったが、生々しく、そして惨たらしく死んでいった男たちの姿に顔を蒼褪めさせ、出す声も震えている。自らの命を守る為とはいえ、その結果人の命を奪うことに間接的に関わってしまったことに罪悪感を覚えている様子であった。

 ジェイドはそんなトウの様子を横目で見つつも何も言わない。下手な慰めは余計にその罪悪感を心に食い込ませるというのが分かっているからである。

 

(さて、どうしたものかな?)

 

 悔いるよりも罪悪感を覚えるよりも、まず最初にすべきことはここからの脱出である。

 ざっと周囲を見ても脱出出来る場所は自分たちが入ってきた場所のみ。しかも今その場所には剣蟹が陣取っている。

 

(あれを攪乱して上手く抜けるか? ――無理だな)

 

 思い描いた案を数秒で即却下する。

 剣蟹の動きを一目見ただけでジェイドは悟ってしまっていた。『コレは策など通用する段階ではない』と。それほどまでに自分たちとあの蟹との力量の差は別次元のものであった。

 数々の冒険を熟し、あらゆる危機を脱してきたジェイド。太古の怨霊が乗り移って動く骸骨の兵士、大木よりも太い胴体を持つ蛇、岩をも持ち上げる単眼の巨人といった怪物たちが相手でも、持ち前の身体能力と冒険で培った経験で出し抜いてきた。だが、剣蟹と盾蟹という存在はその過去の強敵たちを遥かに凌駕しており、直感が『無理』と囁く。

 

(こんなことは生まれて初めてだ……)

 

 冒険。その二文字を前にすれば何時如何なるときも好奇心で胸を躍らせるジェイドだが、今の彼の胸にはそのような高鳴りとは異なった心臓の鼓動が響く。そして背中から止まることなく冷たい汗が流れ落ちていく。

 

(まさかこいつらは『あの人たち』が言っていた怪物なのか? やれやれ、縁なんてないと思っていたんだがな……)

 

 圧倒的存在感を放つ二匹の蟹について心当たりがあるジェイドは一人黙考するが、その間にも事態は動き続ける。

 ぎりぎりと砂蟲を巨大な爪で鋏み続ける盾蟹。砂蟲の分厚い体皮は破られ、そこから体液が流れ落ち、砂へと吸い込まれていく。一説によれば砂蟲の表面は灼熱の日差しや潜った際の砂の圧力に耐え切れるよう、鉄と同じくらいの硬さを持つという話ではあるが、そんな説などまるで嘘だと言わんばかりに盾蟹の爪は砂蟲の体に食い込んでいく。

 伝えられているよりも砂蟲の体が柔らかいのか、あるいは鉄の硬さなどものともしないほどの怪力を盾蟹が秘めているのか。後者であるのならばより一層脅威が増すこととなる。

 

「くっ!」

 

 折角呼び出した砂蟲が一方的にやられているのを見て、村長は焦りの表情を浮かべながら手に持っている笛に唇を当て、甲高い音を鳴らした。

 笛の音で砂蟲を操ろうとしているのだろうが、肝心の砂蟲の方は盾蟹に押さえ付けられて身動きを取ることが出来ない。

 そのとき、盾蟹のすぐ側の砂が爆破されたかのように巻き上がり、巻き上がった砂の中から太い尾が現れ、盾蟹の体を強打する。

 不意の一撃であったのか、盾蟹の体が傾く。その拍子に爪の挟む力も弱まったらしく爪の中で砂蟲が勢い良く身を捩って拘束から抜け出し、砂地に降りるとすぐさま距離を取った。

 巻き上がった砂が地に向かって落下すると同時に、砂の中から強襲したモノの姿が露わになる。

 現れたのはもう一匹の砂蟲であった。

 

「くく、はははは! いきなり襲われたときは少々動揺したが何てことは無い! まだまだ遺産は残されている!」

 

 村長が笛を鳴らす。すると砂の中から更にもう一匹の砂蟲が出現する。

 

「個の力が上なのは認めよう。ならば数の力で補うだけだ」

 

 三対一という数では勝っている状況。村長の口ぶりからすれば、まだこの砂の中には砂蟲たちが眠っているようであった。

 大きな力を操ることで気まで大きくなってきたのか、傲慢さが滲み出る口調で話す村長。だが話し掛けられている盾蟹の方は何事も無かったかのように傾いた体勢を元へと戻し、感情など微塵も感じさせない無機質と呼べる黒い二つの目を現れた砂蟲へと向ける。

 

「伝説などまやかしだと私が証明してくれる!」

 

 村長が笛で指示を出すと二匹の砂蟲が盾蟹に向かって突進。負傷している砂蟲も、他の二匹より少し遅れて動き始める。

 まずは先行した二匹が左右に分かれ挟み打ちの恰好で盾蟹へと襲い掛かる。二匹同時で攻められたことでどちらから攻撃しようかという迷いが生じたのか、一瞬盾蟹の動きが鈍った。その隙に付け込み、砂蟲たちはその体を盾蟹へと叩き付ける。

 分厚い甲殻を割ることは出来なかったが、その衝撃で盾蟹は地面を滑るように後退していった。

 盾蟹との距離が開くと出遅れていた砂蟲が砂地に口を押し付け、そこから砂を吸い込む。そして、押し付けていた口を上げると盾蟹目掛け、球体状になった砂の塊を吐き出した。

 凄まじい速度で吐き出されたそれは盾蟹の胴体へと直撃し、その巨体を震わせる。

 砂地で地上も地中も自在に移動出来る砂蟲。それだけでも厄介であるが、もう一つ恐れられているのが先程の砂弾である。

 吸い込んだ砂を体内で体液と混ぜ合わせて圧縮することで鉄並みの強度へと変え、それを大砲並みの速度で吐き出すことが出来る。砂を用いる為弾切れを起こすことは無く、短い間隔で連射することも可能であった。

 他の二匹も同じように砂を吸い込み、吸い込んだ砂を固めて盾蟹へと発射する。三匹から繰り出される砂弾の連射は、嵐のように盾蟹の全身に叩き付けられていく。

 砲弾を近距離で受けている様な状況。それでも甲殻に罅が入らないのは、盾蟹の甲殻が鉄以上の強度を持っていることを証明している。

 だがいくら守りが硬くても、絶えず撃ち続けられる砂弾に身動きがとれなくなってしまう。

 延々と撃ち続けられればいずれは終わりが来る。

 そして、その終わりは意外にあっさりと訪れた。

 今まで真っ向から砂弾を受けていた盾蟹。するとその口からぶくぶくと泡が出始める。初めて見せる動きにジェイドらと村長は警戒した。

 次の瞬間、ガシンという大きな音を立てて二つの爪が盾蟹の前で揃えられる。更に身を低くして構えている為、盾蟹の体はその大きな爪によって隠されていた。

 数発の砂弾が両爪に当たる。分厚い爪によって守られていることで先程とは違い盾蟹は怯む所か微動だにしない。

 盾蟹はまさに巨大な盾と化していた。

 砂弾がまた吐かれる。それを難なく防ぐ。すると盾蟹が砂蟲たちに向かって前進し始めた。

 

「迎え撃て!」

 

 笛を鳴らし、攻撃を集中させるように指示する。

 砂蟲たちは集まり、砂弾が集中出来る陣形となると同じ個所を狙って砂弾を連射する。

 城すら打ち抜くであろう砂弾の連射。だがそれを受けても盾蟹の前進が止まらない。それどころかさっきよりも速度が上がっている。

 衝突する。それを感じ取った砂蟲たちは急いで散開し、回避しようとする。だが負傷していた砂蟲が出遅れてしまった。

 その砂蟲にぶつかる盾蟹の巨体。砂蟲の体は湾曲し、口から大量の体液が吐き出される。ただの勢いと重量に任せた体当たりだというのに、必殺の域へと入っていた。

 盾蟹は砂蟲と衝突してもその脚の勢いを緩めず、砂蟲を両爪に載せたまま壁に向かって走る。

 これから何が起こるのか想像するのも容易であり、トウに至っては顔を手で覆い目を背けていた。

 間もなくして洞窟内に響き渡る轟き。

 

 ギアアアアアアアアアアアアアアアア。

 

 そして、思わず耳を閉じてしまいたくなる砂蟲の絶叫。

 ジェイドは何が起こったのか目を離さずに見ていたが、それでもその凄惨さから眉間に皺を寄せ、未熟な冒険者であるピリムは蒼白となり吐き気を堪えていた。

 盾蟹と壁に挟まれた砂蟲の体は、口から下の部分が僅かに隙間から飛び出しているが、体の方は完全に潰されていた。

 それでも生来の生命力で辛うじて生きているが、その命は極々僅かなものであった。

 盾蟹が壁から離れる。砂蟲の体液と内容物のせいで黄土色の糸が引かれる。

 亀裂が無数に生じた岩壁。その中心には潰された砂蟲の胴体が張り付いている。口と尻尾の先がまだ生きていることを証明するように小さく動いていた。

 あと幾ばくも無い時間で消え去る命。動けず、反撃も抵抗も出来ないまさに死に体。だが、まだ動いているという事実のみを認識した盾蟹は閉じていた爪を広げ、その片方を振り上げると、痙攣している砂蟲の頭部に叩き付ける。

 一撃目で砂蟲の頭部は岩壁にめり込み、原型を失う。そこに容赦の無い二撃目。岩壁の破片と共に砂蟲の体液や一部が周囲に飛ぶ。

 

「ひっ!」

 

 足元に飛んできた砂蟲の牙に驚き、飛び上がるようにしてピリムはジェイドにしがみつく。

 

「容赦ないなー」

 

 ピリムとは違いジェイドは過度な反応を見せなかった。口では盾蟹の過剰な攻撃を否定しているようであったが、内心ではそれは当たり前のことであると認識している為。

 所詮、倫理観など人の持つ考え方。人以外のものが敵対するものに対し可哀想などという感情を持ち合わせる訳が無い。あの砂蟲があれほどの攻撃を受けたのも、ただまだ息があったということ。突き詰めれば盾蟹よりも弱かったせいである。

 砂蟲を撲殺した盾蟹。だがそれによって隙が生まれたと判断したのか、散開していた砂蟲たちが再びその口を盾蟹に向ける。

 しかし、砂弾を吐かれるよりも先に盾蟹が動く。

 砂蟲らに背を向けたまま脚が沈んだかと思えば、それを勢い良く伸ばして低空ではあるがその巨体から想像できない速度で跳ねる。

 一蹴りで片方の砂蟲との間合いを半分以下にまで詰め、そこからもう一蹴りすると盾蟹が背負う竜の頭蓋骨から衝突。竜の骨から伸びる鋭い角が砂蟲の胴体に刺さり、そのまま貫いた。

 体を串刺しにされ、砂蟲は奇声を上げながら悶えるが深々と突き刺さった角は抜けず、身を捩る度に貫かれた傷から体液が撒かれる。

 もがく仲間を助けようとしたのか、もう片方の砂蟲が盾蟹に口腔を向けた。

 既に発射準備が整っている。回避しようとも今盾蟹は砂蟲一匹背負っている状態。

 真面に受けたとしても堅牢な殻が破られる訳ではない。盾蟹の人知を超えた硬さを既に知っている者たちはこのまま甲殻で防いだ後、距離を詰めて屠るのであろうと考えた。

 しかし、盾蟹はその想像の上を行く。

 盾蟹の口で立ち続けていた泡が更に激しさを増したかと思えば、その口から砂蟲に向け一本の白い線が放たれる。

 白い線は細かな泡の集合であるが、それが線に見える程の密と勢いを得ていた。

 竜種が持つブレスと良く似た、泡のブレスと呼ぶべきそれは開かれていた砂蟲の口腔へと飛び込むとその膨大な量の泡で砂蟲の口部を倍以上まで膨らませたが、最後はブレスの威力によって口から背までが貫通し、砂蟲は口と大穴が開いた背から体液混じりの泡を流しながら倒れ、そのまま絶命する。

 盾蟹が砂蟲たちを蹂躙する一方で剣蟹の方もまた一方的な蹂躙を行っていた。

 

「うああああああああ!」

 

 絶叫を上げながら逃げる男たち。その背後からは両手の爪を広げて走る剣蟹。

 必死になって走る男たちだが、男たちが数歩地を踏んで走る距離は剣蟹にとって一歩の距離にしか過ぎず、逃げようともその距離は無常に縮まっていく。

 一人の男は兎に角走って逃げようとした。別の男は鎌のような爪から逃れる為に右に曲がって逃げた。もう一人の男は真っ直ぐ逃げた男と右に逃げた男を見て、彼らが囮になればいいと考え左へと逃げた。

 その結果は――

 

「う″う″!」

 

 右に逃げた男の腹に剣蟹の右爪が食い込む。

 

「あがっ!」

 

 左に逃げた男の腰には左爪に備わった鋭利な刃が刺さる。

 真っ直ぐ逃げた男は左右から聞こえた男たちの声を聞き、思わず背後を振り返ってしまったとき左右から迫る二つの爪の影を見たかと思えば、次の瞬間、体に鈍い衝撃が走るのを感じた。

 

「あっ」

 

 自分の身に何が起きたのか理解出来ていない間の抜けた声が彼にとって最期の言葉であり、左右に逃げた男たちが中央へと寄せられると爪はそのまま交差する。

 剣蟹の前で三人の男たちは物言わぬ肉塊と化した。

 

「うああ! おえっ!」

 

 無残に殺された仲間の姿、そしてそれを何の感慨も無く行う剣蟹の恐怖。それらの心的重圧に耐え切れなくなり、男の一人が我慢できずその場で吐いてしまう。

 こんなことをしている場合ではないと理解しているものの、一度出てしまったものを止めることが出来ず胃の内容物を限界まで吐き出してしまう男。

 吐き終わると口元を拭うこともせず、すぐに剣蟹の方に目を向けた。

 

「なっ!」

 

 先程まで剣蟹が居た場所の剣蟹の姿が無い。あるのは仲間の死体だけ。

 右を見ても左も見てもあの巨体が見当たらない。

 何処へ消えたのか、そう思ったとき仲間の一人が不自然な行動をしているのが目に入った。

 どういう訳かその男は天井を見上げて唖然としている。

 まさかそんな筈は、馬鹿げている、と思いつつももしかしたらという恐怖を抱きながら、男もまた天井を見上げた。

 何十メートルという高さにある天井。見上げた男は目が合ってしまった。地上より遥か上から見下ろす巌を彷彿とさせる竜の頭蓋の空っぽな眼窩と。

 閉じていた頭蓋骨の口が開く。まるで生きているかのような動きに一瞬男の動きが止まってしまった。

 それがこの後の明暗を分けることとなる。

 開かれた口から発射される何か。勢い良く噴射されたそれが何なのか男には分からなった。

 それが液体であったことに気付いたのは間近にまで来たほんの少しの間のこと。気付くと同時に男の体は上から降ってきた液体の圧によって潰される。水流の中で首は胴体にめり込み、背が臀部に密着するまで折れ曲がる。後に残るは世にも珍しい『縦』に圧殺された死体であった。

 

「何て規格外な……」

 

 天井に張り付く剣蟹の姿はまるで白昼夢でも見ているかのようだ、とジェイドは半ば信じ難い気持ちでいた。

 剣蟹が体を深く沈め、そこから一気に脚を伸ばして跳躍したが垂直に跳び上がった高さが数十メートルであり、冗談だとしても笑えないものであった。

 天井付近まで跳び上がると素早く体勢を変え、脚から天井に着くとその杭のような脚を岩で出来た天井に突き立て、体を固定したのだ。一連の動きを見ていたジェイドであったが、きっとこの話を冒険譚の中で書いても誰も信じないであろうと想像を超えた現実を見ながら思った。

 剣蟹は背中付近から発射した体液らしきもので一人屠ると、そのまま天井を地面のように移動する。

 岩を突き破りながら移動し、その度にパラパラと岩の欠片が地面に落ちていく。運の良い者はこれによって剣蟹の追跡に気付くが、逃げることに集中している者たちは気付かずに進路上に先回りしていた剣蟹による水の噴射を真上から受け、その体を無理矢理折り畳められていった。

 短時間で既に集団の三分の二を殺害した剣蟹。伝説の剣と謳われているが、その残酷さ、無慈悲さ故、高尚さを感じることなど出来ず『魔剣』と称するのが相応しく思えてくる。

 数人を殺害した後、剣蟹は天井から脚を離し、地面に向かって落下。その巨大さの為、着地と同時に凄まじい振動が洞窟内に響き、大量の砂が巻き上がる。

 

「んん?」

 

 このときジェイドの視線は着地した剣蟹ではなく先程剣蟹が走り回っていた天井の方へと向けられていた。

 パラパラと降ってきた少量の砂が顔に当たって思わず見上げてしまった。天井に刻まれた剣蟹の足跡。まだ何かが起こっている訳ではないが、経験から来る直感がジェイドに見えない危機を囁く。

 

「危険かもしれないが、そろそろここから逃げるぞ」

「ええっ! で、でもあの蟹たちが居たんじゃ……」

「奴らの意識があいつらに向けられているうちに逃げた方が助かる確率は高くなる。――全滅するのも時間の問題だ」

 

 注意を散漫にさせるための囮。聞こえが悪いかもしれないが、この場で生き残るにはそれが最善の策であった。そもそも村長たちとジェイドたちは敵対関係にある為、見捨てる理由はあっても助ける理由は皆無である。

 そんなことを話している内に巻き上がった砂煙が消える。

 

「ど、どういうことだ?」

「何処だ? 何処にいる!」

 

 男たちから動揺の声が上がった。

 砂煙が晴れた場所にあの剣蟹の巨体がないのだ。

 着地した場所にあるのは落下した衝撃で出来たと思える浅い窪みのみ。

 

「し、師匠! 今なら――」

 

 逃げられるかも、と言おうとしてピリムがジェイドの方を見ると悪鬼のような形相で睨まれ、口を噤んでしまった。

 

「馬鹿が。冒険者になろうとしている者が安易に動こうとしやがって貧相体娘が……お前はあの蟹が最初にどう出てきたのをもう忘れたのか? この鳥頭娘が」

 

 罵倒をしつつも、何故すぐに動かないのか、という理由を直接言わずヒントを交えてピリムに投げ掛ける。

 

「――あっ」

 

 理由はすぐに思い至った。あの蟹は登場時、地中から奇襲しながら姿を見せたのだ。つまりあの蟹は地中をある程度自由に動くことが出来ると考えられた。

 つまりこの瞬間にもあの剣蟹が自分の足元に迫っているかもしれない。そう考えるだけでピリムとトウは全身に鳥肌が立ち、背筋に汗が流れる。

 

「落ち着ついて下さい――お前も落ち着け」

 

 トウに対しては肩に手を置いて宥め、ピリムの方は後頭部を叩いて無理矢理宥める。弟子の方はあまりの扱いの差に涙目で睨んでくるが、それ以上に凶悪な目付きで睨まれて慌てて視線を落とす。

 

「動かないでいれば、恐らくはばれない。ああいった地中に潜る生物は足音といった些細な音でこちらの位置を把握する。絶対動かないこと。そうすれば痺れを切らして向こうから姿を見せる」

 

 断言するジェイドにトウとピリムは反射的に『はい』という言葉を言いそうになるが、慌てて呑み込み、代わりに頷く。経験者としての言葉は重く、二人の不安を少しだが和らげてくれた。

 

(――だといいんだがなー)

 

 自信満々といった態度で話していたジェイドであるが、実際の所はほとんど推測でしかない。何せ初めて見る生物だからである。

 似たようなことをしているから似たような性質である、という思い込みははっきり言えば危険である。しかし、怯える二人を落ち着かせるには多少なりとも嘘を混ぜた言葉を言うしかなかった。と言っても少なくとも下手に動かない、というのはこういった状況ではほぼ間違いのない行動である。

 見えない重圧をジェイドによって軽くしてもらい落ち着きを取り戻した二人に対し、村長側の男たちには剣蟹の重圧を和らげてくれるような人物がいない。

 消えた剣蟹。それによって開かれる出口への道。仲間の死、そしていつ訪れるか分からない自分の死に恐怖する者たちにとってはその道は唯一の救いであり、死からの解放、生還を甘く匂わす耐えがたい誘惑であった。

 一刻でも一秒でもここから逃げ出したい者たちはその道を求めてなりふり構わず走り出す。

 誰もが最短距離を求めて走る為、必然的に起こる道の奪い合い。一歩引けば誰も衝突し合わずに済むが、そんな余裕など彼らには無かった。

 

「どけっ!」

「離せ!」

「邪魔だ! 邪魔だ!」

 

 ある者は顔に肘鉄を受け、鼻血を流しながら転倒。ある者は脚を蹴り飛ばされて転び、ある者は服を引っ張られて倒れる。

 

「必死だなー」

 

 さっきまで仲間だった者たちの内輪揉めを見て、そんな言葉が出てくる。それを醜いとは思わない。そんな光景などジェイドにとっては見慣れたものである。誰であろうと死にたくはない。死んだらそれで終わりなのである。ましてやあんな怪物に無惨に殺されるなど誰でも拒否する。

 

「だがな――」

 

 ジェイドの中にあるのは憐憫の感情であった。必死になって死に抗おうとすることこそ――

 争う集団の中から一人抜け出し先を行く男。出口まであと僅か。生への希望を掴みかけたかに思えた。

 直後、砂を突き破るようにして出てくる剣蟹の青く鋭い頭部。言葉を発する暇も無く男の胸部を突き、そのまま一気に突き上げた。

 ――死を招く結果に繋がっていく。

 最初の一撃で男の胸部は潰れ、大きく陥没する。それだけで致命傷だが、即死に至るほどではない。だからといってそれが男にとって幸運とは呼べない。

 突き上げられた体は地上から十数メートルの高さまで上げられていた。風に翻弄される木の葉のように錐揉みしながら飛ぶ男はやがて最高点へと達した後、地面に向かって頭から落下していく。

 上昇から落下までの数秒、男の頭の中に過るのは何か。死への恐怖か、諦観、過去の記憶か、未練か、あるいはこの地獄から先に抜け出せる喜びか。

 間もなく男は頭から地面に落下。いくら砂地とはいえ落下の衝撃を吸収することは出来ず男の首は真横に折れ曲がり、背も歪に曲がった状態で死を迎えた。

 男を撥ね上げた剣蟹はすぐに地中に潜り、姿を消す。

 生きる為の道を断ち切られた男たちは散るようにして走り始めた。何処へ逃げるのかなど考えない、考えることが出来ない。兎に角あの剣蟹から少しでも早く離れたい。その一心で逃げる。

 だが――

 

「ふぐぁ!」

 

 男の一人が高々と打ち上げられる。

 

「あがっ!」

 

 また別の男も宙に打ち上げられた。

 逃げる男たちの足音を探知し、恐るべき精度で次々と地中から強襲する剣蟹。その度に悲鳴が上がり、男たちの体は宙に舞い、そして地面へと落下していく。

 そして最後の男が打ち上げられたとき――

 

「うっ!」

 

 ジェイドは肌に鳥肌が立つ。砂中から上半身を出している剣蟹の黒真珠の様な目が自分たちを見ていたことに。瞳が無い目であるが、ジェイドは本能的に狙いを付けられた、と感じ取った。

 地中に再び姿を消す剣蟹。次は必ずこちらに向かってくる。例え、動かなかったとしても目で位置を把握されている為、無意味である。

 

(時間が無いな)

 

 残された時間は短い。ジェイドはある決断をするとピリムとトウの肩を掴み、引き寄せる。

 

「今から出口に向かって走れ。振り向かずに真っ直ぐ。ピリム、このレディのことはお前が護るんだ。それぐらいの基礎は今のお前にはある」

「え? どういう――」

「質問は受け付けない。頼むぞ!」

 

 そういうとジェイドは走り出す。『出口』とは反対の方向に向かって。

 

「し、師匠!」

「ジェイド様!」

 

 そのとき地面が細かく震えていることに二人は気付いた。だがその振動はすぐに離れていく。それが向かう先にいるのは走るジェイド。

 

「行けぇぇ! 今だ! 走れぇぇぇ!」

 

 ピリムは一瞬、泣きそうな顔をするがすぐに表情を引き締めるとトウの手を引いて走り出す。

 

「行きますよ!」

「で、でもジェイド様がっ!」

「師匠はそんな簡単に死ぬような人じゃないです! だから、だから今は!」

 

 ジェイドは少だけ後ろを振り向き、ピリムたちが出口に向かって走る姿を見届ける。

 

(そうだ。それでいい。少なくとも二人は助かる)

 

 二人の助かる確率が高くなったことに安堵するが、その安堵もすぐ側まで迫ってきている剣蟹の重圧によって塗り潰されていく。

 

(本当、どうしようか……)

 

 二人が逃げるまでは計画通り。しかし、その後の自分の助かる方法については全く考えていない。全くの無計画である。

 どうすれば逃げ延びられるのか、そう思ったときジェイドの目に盾蟹と戦っている村長の姿が入ってきた。

 既に三匹の砂蟲が倒されているが、そこで笛を鳴らし今度は五匹の砂蟲を地中から喚び出している。

 

「成程」

 

 ジェイドの頭に一つの案が浮かぶ。尤も、それは案というには全く練られておらず、殆ど運任せのようなもの。案というよりも賭けという方が相応しいものであった。

 

「試してみるか!」

 

 自然と口角が上がっていくのが自分でも分かる。この様な状況で本来笑みを浮かべることなど人として可笑しいと自覚しているが、なってしまうものはしょうがない、と自分に言い訳をする。

 ある学者の説に、人は極限まで追い込まれるとその恐怖を打ち消す為の感情が自己防衛の為出てくる、という話を聞いたことがある。自分はまさしくそれであるが、少し違う点があるとすれば自分からその極限状態に向かっていっている点であろう。

 ジェイドが走り込んだ先、そこは砂蟲たちと盾蟹が相対する丁度、真ん中の位置。

 いきなり現れ、しかも最も危険な位置へと立つジェイドに村長は目を丸くして驚く。

 その直後、ジェイドのすぐ背後の土が盛り上がり、そこから剣蟹が鋭角の頭部を突き上げながら姿を現した。

 背中で感じる下から上に駆けていく風圧。あと一歩先に進んでいなかったら間違いなく先程の男たちと同じように宙へと舞っていたであろう。

 攻撃を空振りしたと分かった剣蟹はそのまま脚を伸ばし、砂中から這い出てくる。そして目の前にいるジェイドに爪を振るおうとしたとき、突如身震いし、動きを中断させる。

 震えの原因は背後から当てられた砂蟲の砂弾であった。砂から出てきた剣蟹への先制攻撃のつもりなのであろうが、剣蟹の背負う頭骨は盾蟹の甲殻と変わらない程の強度を持っているらしく、何度当てられようとも頭骨には罅一つ入らない。

 剣蟹の口に泡が出始めるのをジェイドは見た。

 

 ギジャジャジャジャジャジャジャ

 

 石や岩を擦り合わせたような不快音が剣蟹から発せられる。最初何の音なのかジェイドは分からなかったが、やがてそれが剣蟹の鳴き声であると分かったとき、剣蟹は背に砂弾を受けながら後退。そして砂蟲たちから数メートル離れた場所で旋回し、背後に並ぶ砂蟲らに向かってその爪を振るう。

 明らかに間合いの外であった。だというのに剣蟹が爪を振り切った瞬間、二匹の砂蟲の頭部が宙に舞っていた。

 振り抜かれた剣蟹の爪を見て、何故そんなことが出来たのかを理解する。

 剣蟹の爪の形が変わっていた。折り畳まれていた爪が展開することで爪は倍の長さになり、斧、あるいは鉈を彷彿とさせる爪が今は大きな曲線を描き、内側には無数の突起を生やし鎌の形をしていた。

 不意を突かれたこと。横槍を入れられたこと。それらが剣蟹の逆鱗に触れたのか、より一層攻撃的姿勢となっている。

 剣蟹が向きを変える。まだ砂蟲たちが残っているというのに視線は何故か、ジェイドに向けられていた。

 当初の目的では砂蟲たちに標的を移すつもりであったが、世の中そうそう思った通りにことは進まないらしい。

 

「おいおいおいおい。そんな目で見るなよ」

 

 仕留め損ねた獲物を改めて仕留めようとしているのか、更に間合いが伸びた

 両爪を構えながらジェイドに突進してくる。

 村長の部下たちを追ってきたときより明らかに脚の速度が上がっており、開いていた距離もあっという間に縮まっていく。

 全速力で真っ直ぐに走るジェイド。右にも左にも曲がれない。方向を変える為に少しでも速度を緩めてしまえば即爪の間合いである。

 やがてジェイドの逃走劇も終わりを告げる。目の前にはそびえ立つ岩壁。

 壁ギリギリまで逃げ、後ろを振り返るとそぐそこには剣蟹が爪を左右に構えて立っている。

 

「いやいや、ここは一つ落ち着いて話でもしようじゃないか。ミスター? いや、それともレディかな? 生憎、人間以外の性別には疎いもので」

 

 自分で言っていて馬鹿ではないのか、と思える程の無駄口。だがこうでもしなければ目の前に立つ剣蟹の圧力で思考が麻痺しそうになってしまう。口を動かしている間はまだ頭が動く。ジェイドはまだ考えているのである。生き残る為の術を。

 剣蟹の両爪が持ち上げられる。それを見たとき、ジェイドは形振り構わず横へと飛んでいた。

 その直後、振り下ろされる両爪。間一髪で避けたジェイドは靴底に爪で巻き起こった風が当たるのを感じた。

 横に滑るようにして飛ぶジェイドは視線だけは剣蟹から離すことは無かったので、その後の光景が時間を引き延ばした様に目に焼き付く。

 空振りの両爪が壁に突き刺さる。そしてそのまま下に向かって一気に引き裂かれた。岩は決して柔いものではない。だというのに剣蟹の爪は刺さってから引き裂くまでの間、一切止まることは無かった。

 恐ろしい切れ味だとは分かっていたがここまで鋭利であると見せつけられると、分かっていても血の気が引いていく。これ程の切れ味ならば鉄すらも切断出来るのではと思っていたとき、ジェイドは顔から砂へと飛び込んでいった。

 顔中砂塗れになり、口の中は砂粒でじゃりじゃりと不快な音と食感がする。すぐにでも口の中を水で注ぎたい衝動に駆られるが、今はそんなことをしている時間も余裕も無い。

 そのとき小さな何かが額に当たる。反射的に落ちてきたものを手で受け止めてしまったが、それは石の欠片であった。

 砂に混じっていたものではない。明らかに色も大きさも違う。剣蟹が天井を這っていたときこれと同じものが砂と一緒に上から落ちてきたことを思い出す。

 もしやと思い、ジェイドは剣蟹が爪を突き立てた壁の方を見た。壁に刻まれた裂け目。目を凝らして見ると細い亀裂が裂け目から上に伸びているのが分かる。

 それらの要素が頭の中で並んだとき、ジェイドは新たな賭けもとい策を思いつく――が思い付いた途端、激しい後悔に襲われる。

 上手く行けば生き延びられるかもしれない。だが失敗すれば今まで以上の恐怖の中で死ぬこととなる。

 剣蟹が壁から爪を抜き、こちらの方を見たのを感じた。

 迷う時間は無い。策を思いついたのは一瞬、それに葛藤するのも一瞬、そしてそれを実行するのも一瞬である。

 自らの命を守るには、命懸けになるしかない。矛盾しているように聞こえるかもしれない。だが命を救うにはそれに見合った対価、つまり命を賭けるしかない。そうしなければ生き延びられない。

 ジェイドは腰に手を回すとそこに巻き付けていた鞭を抜き取りつつ、それを剣蟹の方に向かって振るう。

 人の皮膚など簡単に裂いてしまう鞭ではあるが、砂蟲の砂弾を受けてもびくともしない剣蟹には無力である。

 しかし、それはジェイドも重々承知。狙いは剣蟹ではなく、岩壁を裂いたときに出来た岩の破片であった。

 鞭が破片に蛇のように巻き付く。手首を動かして鞭を操り持ち上がると、そのまま力の限り振るう。

 空を奔る鞭。その勢いで巻き付いていた部分が解け、石の破片が飛んで行ってしまう。

 飛んだ先にいるのは盾蟹。放たれた石は盾蟹の目の下部から伸びた触覚に直撃した。

 恐らく痛みなど皆無であろうが、生物にとって感覚を司る部分に攻撃されたことで盾蟹の意識がジェイドへと向けられる。

 左右の爪で掴んでいた砂蟲らを地面に放り捨てる――足元には既に絶命している砂蟲が踏みつけられていた――とその感情を読ませない無機質な目をジェイドに向けた途端、口から大量の泡を噴射した。

 

「うひぃ!」

 

 情けない声を上げながら壁際を疾走する。狙いが外れた泡のブレスは岩壁を砕き、そのまま逃げたジェイドの後を追って横薙ぎに振るわれた。

 背中に感じる冷たい感覚。汗と岩壁に反射して飛んだ泡の飛沫の二つによるものであったが、その冷たさはこの世のどんなものよりも冷たく感じた。

 その飛沫の向こうでは剣蟹もジェイドを追い始めている。

 

「はぁ! はぁ! はぁ! ――はははははははははは!」

 

 追われながらジェイドは声を上げて笑う。危機的状況に似合わない哄笑であった。

 彼は決して今の状況で発狂してしまった訳ではない。本当に追い込まれているときに行っているジェイド流の気持ちの上げ方であった。

 冒険者の心得その二『笑えない状況でこそ笑え』。彼がピリムにも教えていることである。

 恐怖というものはほっとけばどんどんと精神を蝕み、やがて思考を停止させていく。だからこそ、その恐怖を紛らわせる為に真逆のことをして精神を保たなければならない。

 その為の『笑い』である。

 抗い、もがき、足掻き続ける。往生際の悪さをこれでもかと見せつける。

 泡のブレスを吐き終えたのを背中で感じた。だが今度は鋭利な鎌を持つ剣蟹の圧力を背中に感じる。

 息も苦しくなり、脚も重くなる。走る速度を維持するのが困難になってきた。

 あと十歩走ったら速度を緩めよう。十歩走ったが、まだ走れる気がするから、あと十歩走ったら、速度を緩めよう。十歩走った、まだ――

 何度も囁いてくる諦めの誘惑に耐えながら真っ赤な顔でジェイドは疾走し続ける。

 だがやがてそれも限界を迎える。走ろうという意思に反して両脚が前に進もうとしなくなる。

 がくん、と膝が折れてしまったジェイド。こうなればもう剣蟹の間合いから逃れることが出来ない。

 振り向くとすぐそこには爪を振り上げた剣蟹。そしてその側には同じく爪を構えた盾蟹までいる。

 

「ここまで、か」

 

 腹を括り、それでも笑みを崩さない。どんな最期であろうと笑って受け入れるというのが冒険者になったときに誓った決め事である。

 

(まあ、流石に蟹に殺されるなんて微塵も思わなかったけどな……)

 

 そんなことを考えながら今、振り下ろされそうとしている鎌を見上げる。

 

「――あ」

 

 間の抜けた声が出る。見上げた視線が鎌から更に上へと向けられる。

 ジェイドの不審な行動を気にすることなく剣蟹が爪を振り下ろそうとしたとき――

 

 ゴゴゴゴゴゴゴゴ

 

 ――擦れ合う大きな音。直後、剣蟹の頭部に巨大な岩が直撃する。

 重みと衝撃で前のめりになる剣蟹。盾蟹が何事かと上を見上げたとき、大量の砂が盾蟹へと降り注いだ。

 この瞬間、ジェイドは全身の力を絞り出すようにして走り出していた。

 落石の直前、ジェイドが見たのは天井に刻まれた無数の罅であった。一か八かで考えたジェイドの策、それが成功した証でもある。

 砂の中に広がる洞窟。それを剣蟹や盾蟹を利用し内側から壊す。ある程度壊せば、あとは洞窟の周りの砂の圧力によって崩壊が始まると考えたが、正直半信半疑な策である為成功する確率は極めて低いと思っていた。

 この策が上手くいったのは、皮肉にも剣蟹と盾蟹の力が予想を大きく上回るものであったからと言える。

 真っ直ぐに出口を目指すジェイド。途中、洞窟が崩壊し始め慌てている村長の姿が目に入ったが構っている暇など無い。

 

「馬鹿な! こんなことが!」

 

 遺産が眠る洞窟が崩れ始め、村長は蒼褪める。

 このままでは折角の砂蟲たちが永久に砂の中で眠っていることになる。

 慌てて全ての砂蟲たちを目覚めさせようとするが、笛に口を付けようとしたとき背後から凄まじい衝撃を受け、前のめりに倒れてしまう。

 見ると人程の大きさがある岩が落ちていた。

 

「――無い! 無い!」

 

 村長は手の中にあった笛が無くなっていることに気付く。転倒した際に手放してしまっていた。

 

「何処だ! 何処――」

 

 必死に探すと一メートル程先に転がっているのが見えた。慌てて手を伸ばす。

 が、手で掴んだとき上から落ちてきた岩が笛ごと村長の手を押し潰す。

 

「がああああああああ!」

 

 絶叫が上がる。岩は少なくとも両手で抱えきれない程に大きい。人ひとりでは持ち上げられない。ましてや片腕が使えない今の村長が持ち上げることなど不可能であった。

 

「誰か! 誰かいるか!」

 

 既に全滅している部下たちを呼ぶ声が洞窟内に空しく響き渡った。

 降ってくる大小様々な岩を辛うじて避けながらジェイドは必死に出口を目指す。体力も限界な上、砂に足が取られ速度が出ない。だが確実に出口には近づいていた。

 

「あと少し……あと少し……」

 

 息も碌に吸えなくなるぐらい肺が痛く、喉の奥からは鉄のニオイがする。

 

「あと――」

 

 岩が砕ける音が背後から聞こえる。振り向かなくても分かる振動。落石を払った剣蟹が逃げるジェイドの後を追って来ていた。

 

「しつ、こい! いい加減、見逃せ!」

 

 ここまで追いかけてくると恐怖よりも怒りの方が増してくる。

 空っぽに近い体力をこれでもかと振り絞り、更に脚を動かす。その速度は蝸牛の歩みが蛞蝓の歩みになった程度の微々たるものであった。

 距離は離れているものの、ジェイドの速度と剣蟹の速度を比べれば無いに等しいもの。

 出口までもう少しだというのにこのままでは剣蟹に追い付かれる。そう思ったとき――

 

「師匠ぉぉ! 鞭を!」

 

 名を呼ぶ弟子の声。その声に反応し、ジェイドは手に持つ鞭を出口の方に向かって伸ばす。すると出口に立つピリムの方も鞭を取り出し、ジェイドの鞭に向かって振るった。

 二つの鞭が絡んだとき、ジェイドはありったけの力を込めて地面を蹴り飛ばす。ピリムもジェイドの動きに合わせて力の限り鞭を引っ張った。

 剣蟹の鎌が靴の爪先を軽く削っていくのを感じながら出口まで引っ張られていくジェイド。

 その後を追おうとする剣蟹であったがそれを防ぐように目の前に岩が落ちてきた。そのせいで追う気が削がれたのか、あるいはそこまで追う程価値のある獲物ではないと思ったのか、そのまま出口に背を向けて行ってしまう。

 出口にまで引っ張られたジェイドは仰向けになりながらこちらを涙目で見下ろしているピリムとトウの顔を見た。

 

「馬鹿弟子め……逃げろと……言った筈だぞ……」

「出口まで行けと言われましたけど逃げろとまでは言われてないです!」

「柔軟さの……足りない奴め……」

「はい! だからまだ師匠に色々教えて貰いたいです!」

「ふっ」

「ジェイド様、無事で、無事で何よりです!」

「喜んで頂いて……光栄ですが……ここは間もなく崩れます……早く……脱出を……」

「分かりました!」

「師匠、失礼します!」

 

 ジェイドの脇を肩で持ち上げて立たせる。

 

「私もお手伝いします」

 

 反対側もトウが持ち上げた。

 

「やれやれ……情けない格好だ……」

 

 息も絶え絶えといった様子で、ジェイドは己の不甲斐無ない姿を嘆きつつ地上を目指して階段を昇っていくのであった。

 崩壊していく洞窟の中に独り残された村長。必死になって岩に潰された手を抜こうとしてもびくともせず、痛みで踏ん張ることも出来ない。

 そのとき村長を覆う影。影の主を震えながら見上げる。

 四つの目が村長を見下ろしている。

 

「な、何だ……」

 

 カシャカシャと動く剣蟹と盾蟹の顎。その動きに村長は否応無く察してしまう。2匹の蟹が何を考えているのかを。

 

「やめろ……やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ! やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 

 千切る。刻む。斬る。運ぶ。砕く。噛む。食す。千切る。刻む。斬る。運ぶ。砕く。噛む。食す。千切る。刻む。斬る。運ぶ。砕く。噛む。食す。

 剣蟹と盾蟹は崩れ行く洞窟の中で村長が『無くなる』まで延々と繰り返すのであった。

 

 

 ◇

 

 

 洞窟から逃げ出し、遺跡から脱出したジェイド一行はすぐに遺跡から離れた。洞窟は砂の中に埋まってしまったが、あの二匹の蟹がその程度で死ぬなどとは微塵も考えてはおらず、このことを広く報せる必要があると考え、街を目指す。

 街に着き、最初に訪れたのはこの街のギルドであった。

 ギルド前でピリムは不安そうな顔でジェイドの顔を見る。

 

「本当に大丈夫なんですか?」

「無理をなさらなくても……」

「まあまあ。ここは俺に任せて。二人はここで待っていてくれ」

 

 躊躇うことなくギルドへと入っていくジェイド。

 中に入った途端、ジェイドの顔を見て何人かの冒険者が顔を顰めた。フリーの冒険者として名が売れている為、顔を覚えられているのである。

 

「すいませーん! 偉い人なら誰でもいいんで出てきて貰えますかぁ!」

 

 いきなり大声を上げ、幹部を呼び出すジェイド。その行動に周囲の冒険者たちは目を丸くする。

 

「すいませーん!」

「うるさいぞ」

 

 その大声を聞いて身なりのいい男が二階から降りてくる。あからさまに不機嫌な表情をしていた。

 

「ああ、良かった。ちょっと幹部専用の通信魔法具をお借りしたいと思いましてね」

「貴様、ふざけて――っ!」

 

 答えを聞く前にジェイドは懐から一枚の紙を取り出す。そこには角を生やした赤と緑の獣の刻印があった。

 それを見た途端、身なりのいい男は言葉を詰まらせ震え始める。

 

「な、何故、お前がそ、それを!」

「理由なんてどうでもいいでしょう? 俺の頼みを聞いてくれるのか、聞いてくれないのか、そっちが重要なんですよ」

「わ、分かった! 今すぐ用意する!」

 

 慌てて二階に駆け上がっていく男を見て、他の冒険者たちはポカンとした表情になるのであった。

 ジェイドが案内されたのはとある一室。幹部の部屋らしく豪華な家具が置いてある。

 身なりのいい男を退室させ、机の上に置かれている特殊な紋様が刻まれた水晶――通信用魔法具を耳に当て、とある言葉を紡ぐと目的の人物専用の通信魔法具に繋がる。

 

「どうも、ごぶさたしています。――ええ、おかげさまで。――はい。今回はそのことで報告があります」

 

 通信魔法具の向こうの相手に礼儀を以って接している。

 

「会いました。――はい。戦いはしませんでしたが、あれは人の手に負えるものではないですね――ええ、寿命が何年も縮みましたよ。――はい。得た情報を出来る限り伝えさせてもらいます」

 

 通信魔法具の向こう側から労いの声が掛けられると、ジェイドはニヤリと笑う。

 

「いえいえ。スポンサー様の希望にはきちんと応じますよ、エヌ殿。エム殿、エクス殿にもそう伝えておいてください」

 

 

 

 

 

「く、ぐう……くそ!」

 

 毒を吐きながら遺跡から出てくる三人の人影。ジェイドたちが遺跡の最深部に行く前に伸されてしまった男たちである。

 顎を殴られた男は殴られた箇所をさすりながら別の男に肩を貸していた。

 肩を貸してもらっている男は股間を蹴り上げられた男であり、片方あるいは両方とも潰れてしまっているのか三人の中で最も顔色が悪く、土気色をしており呼吸もひゅーひゅーとか細いものであった。

 その二人の後ろに歯の抜けた男がとぼとぼと歩いている。歯の折れた部分が痛むらしく苛立った声を上げていた。遺跡から出てきた際に毒吐いていたのもこの男である。

 三人はジェイドに気絶させられた後、そのまま遺跡入口付近で放置されていた。目を覚まして周りに村長たちがいないことに気付き、急いで地下へと降りて行ったが、あろうことか『砂の民』の遺産がある筈の扉は砂によって埋まっており、中に入ることが出来なくなっていた。

 仲間も指導者である村長もいない。途方にくれながら三人はとりあえず遺跡の外へと出ることにした。

 遺跡を出た途端、降り注ぐ灼熱の太陽。この砂漠で生き残る為の食料や道具は最低限持っているが、人のいる場所に行くまでこれからどれぐらい掛かるのであろうかと考えると嫌気がさす。更に未だに体を蝕んでいる痛みも共になることを思うと嫌気が倍となる。

 

「くそ! くそ! 奴らめ! 奴らめ!」

 

 グチグチと恨み言を吐き続ける男。背中越しに聞いていて最初のうちは仕方ないと思っていたが、徐々にそれが鬱陶しくなる。

 それでも我慢だと思い、肩を貸す仲間に合わせてゆっくりと歩いていた。

 するといつの間にか男の愚痴が聞こえなくなった。流石に言い続けるのは疲れたのであろうと思い、水でも差し入れるかと振り向く。

 

「これでも飲んで……」

 

 絶句する。背後にいる筈の男の姿がどこにも無かったからだ。周囲を見渡すが何処にもいない。迷ったのか、と一瞬考えたがこんなひらけた場所で見失うことなどありえない。

 

「おい! 何処だ! 何処にいる!」

 

 呼びかけるが返事は無い。ただ声が砂漠に響き渡っていくだけ。

 

「ここで待っていろ!」

 

 肩を貸していた男を座らせ、来た道を見る。

 砂地に確かに足跡が刻まれていたが二人分しかない。三人目の足跡を探し逆走する。

 三人目の足跡はそれからすぐに見つかった。

 距離にして数十メートル程。その足跡の位置をいなくなったことに気付いた位置と比べて時間を推測しても、ほんの数分の間に目の届かない位置に行ったということになる。

 こんな広い場所で見つからなくなる場所まで行ける筈が無い。

 一体何が起こったのかと焦りながら置いてきた男の方を見る。

 

「なっ……」

 

 言葉が詰まる。その男も何処かへと消え去ってしまっていた。

 三人の中で最も重傷であり、手助けがなければ上手く歩くことも出来なかった男が視界に入らない場所にいけることなど不可能である。

 得体の知れないことに触れ、背筋に悪寒が走った男は反射的に懐から短剣を取り出していた。

 何故抜いたのかは分からない。だが抜かなければならない事態が起きているのが本能的に分かった。

 

(何だ……! 何が起きているっていうんだ!)

 

 息を荒げ過敏なぐらい周りを警戒する男。

 しかし、このとき男は知る由も無かった。

 自分の背後の砂が盛り上がっていることに。

 そして、その砂の下から分厚く頑強そうな朱色の爪と鋭く冷たい色をした青紫色の爪が覗かせていることに。

 

 

この地に我らが財を封じる。我らの血を受け継ぐ者よ、その身に流れる血に誇りを抱くのであれば我らが遺したものを使うが良い

そして同じくしてこの地に盾と剣を眠らせる。引き継がれる力に恐れを抱いたのであれば、二つを目覚めさせ血を断ち、野心を阻め。ただし心せよ、盾と剣は『諸刃』故に

 

 

 

 




これにてダイミョウザザミ、ショウグンギザミ編は終了となります。
次回は少し違った方向性の強さを書いていきたいと思っています。

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