赤い鶏冠に青い鱗に黒い縞が入った見たことも無い生物が、四肢に付いた鋭い爪を見せつけながら現れた。
身の丈が成人男性程もあり、ヒスの顔を見た途端、嘴のような口からずらりと並ぶ牙を見せた。
「なっ!」
驚き思わずその場から飛び退く。するとその生物は縦に割れた瞳を細めながらギャアギャアと喚くような鳴き声を上げる。
すると別の茂みから同じ個体が現れたかと思うとうつ伏せに倒れていた冒険者の体にその爪を突き立て、そのまま茂みの中に引き摺り込んでいく。
止める暇など無かった。それよりもすぐ近くに現れたこの生物から目を離すことが出来ず、それどころではなかったのだ。
「気を付けろ! 変なヤツがいるぞ!」
腰に差してある剣を引き抜きながら馬車の方にいるボウたちに警戒の声を出す。しかし、返ってきた返事はギャアギャアという鳴き声であった。
思わず馬車の方を見てしまう。
そこで見たものは、十を超える生物が馬車から出た冒険者たちに襲い掛かっている光景であった。
生物の一匹が鳴き声を上げながら冒険者の一人を威嚇する。
「来るんじゃねぇ!」
その冒険者は短刀を突き付けながら怒鳴るも、その声は生物の鳴き声にあっさりと打ち消されてしまっていた。
それでも何とか近付かせないように必死に声を荒げながら短刀を見せつける。
「ぐあっ!」
しかし、目の前の生物に気を取られている隙に背後からもう一匹が飛び掛かって来たことには気付くことが出来なかった。恐るべきことに飛び掛かった生物は一回の跳躍で数メートルもの距離を跳んでいた。
大人一人と同等以上の体格を持つ生物に背後から圧し掛かられ、為す術もなく冒険者は地面に倒れ伏す。そしてその生物は無防備な男に背中に容赦なく足爪を突き立てた。
「ぎゃああああ!」
冒険者の男が苦鳴を上げる。突き立てられた爪は布地の服など簡単に貫き、その下にある肉を裂く。見る見るうちに男の背中は血で真っ赤に染まっていく。
「離れろぉ! 離れろぉぉぉ!」
泣きが混じった必死の声を出しながら男は手に持つ短刀を背後に向け振ろうとする。だがその腕も先程まで対峙していた生物に噛まれた。突き立てられた牙は肉を穿ち、その奥にある骨に食い込む。それによって生じる激痛に動きを止められてしまう。
「ああああああああ!」
男の絶叫。しかし、それに構うことなく生物は頭を左右に振る。牙が深く食い込みそれによって傷口は更に広がり、男の腕から夥しい量の血が流れる。
背中に乗った生物は足の爪や手の爪で激しく肉を掻き毟り、その度に絶叫を上げさせていく。
「やめろぉぉ!」
剣を引き抜いたボウが生物に斬りかかろうと走り寄るが、生物はボウの接近に気付くと男の背を踏み台にして跳び、すぐに距離を取る。腕に噛み付いていた方も同じくすぐに離れた。
剣を構えながらボウは男の様子を見る。呼吸は小さく正に虫の息といっていい状態であった。
すぐに治療しなければ助からない。だがそんな余裕は今のボウには無かった。
そのとき、ギャアアという鳴き声を上げて、生物の一匹が足爪を立てて飛び掛かってくる。咄嗟に剣の腹でそれを受け止めるが跳躍の勢いと生物の重さに耐え切れず、かなりの勢いで背中から倒れてしまった。
「うっ!」
衝撃で息が詰まる。だが目の前には大きく口を開く生物の姿。思わず剣を押さえていた手を離し、生物の顎を下から掌打で打ち上げた。
ガチンと音を鳴らして閉ざされる生物の口。しかし、すぐに押さえ付けている手を顎の力だけで押し返そうとする。
閉じた口が徐々に開いていく。片手だけでは押さえ切れない。尤も両手であろうと押さえ切れなかったかもしれない。
「ぐう!」
思わず声を出してしまう。顎を押さえている手を生物がその長い爪で引っ掻き始めたからだ。腕には革製の防具を装備しているものの、生物の爪はそれを簡単に削っていく。一度目の引っ掻きで防具は大きく裂け、二度目の引っ掻きで革を破り爪先が生身の部分に触れたのが分かった。
そのせいで手から力が抜け、口の隙間から唾液に塗れた牙が見え始める。口を押えるだけでなく圧し掛かっている足爪も押しのけなければならない。
このままではいずれ殺られる。そう思ったとき――
ギャアアアアアアア
絶叫が生物の口から上がった。
ボウに意識を向けている内に横から現れた剣が生物の首を貫いたからだ。突き刺さった剣が引き抜かれると同時に生物の横腹に強烈な蹴りが刺さる。
ボウの上から蹴飛ばされる生物。倒れているボウに手が差し伸べられる。差し伸べたのはフラッグであった。
「大丈夫か!」
すぐにボウを引き起こすとフラッグは剣を構えて周囲を見る。いまだに十匹程の生物がおり次々と冒険者たちを襲っている。
「この野郎ぉぉ!」
「死ねぇ!」
生物を三人で囲っている冒険者たち。一人に注目しているうちに背後から斧で頭を叩き割り、もう一人の冒険者は手に持つ槍で胴体を串刺しにしていた。
かと思えば別の場所では一人の冒険者が生物に首を噛まれ、口から血混じりの泡を吹きながらもがいている。
更に別の所では全身に爪痕を刻まれ、虫の息となっている冒険者が生物に足を咥えられて茂みの中に連れ込まれている。
「来るな! 来るな!」
四方を生物たちに囲まれた中年の冒険者が、剣を無茶苦茶に振り回しながら必死に威嚇している。
生物たちは剣の間合いに入らないようにしながら様子を見つつも、その場から離れようとはしない。
「はぁ、はぁ、はぁ!」
考えも無く剣を振り回し続けたせいで中年の冒険者の体力は限界近くまで追い込まれ、剣速も格段に落ちている。
それを見計らったように中年冒険者の前に立つ生物が大きく鳴く。
「ひぃ!」
反射的にそちらに剣を向ける。すると今度は背後から大きな鳴き声が上がる。慌てて今度は背後に剣を向けようとするが、間髪入れず右から上がる鳴き声、右が鳴くと今度は左が鳴き、更に前方も鳴き声を上げ、重ねるように後ろも鳴く。
「うあああああああああああ!」
逃げ場など何処にも無いという突き付けられた恐怖に、中年冒険者は半狂乱となって剣どころかなりふり構わずといった様子で手足も無茶苦茶に動かす。
そのせいで限界に近かった体力が無駄な動きで一気に空となり、自分で振り回した剣の勢いに負け、仰向けで地面に倒れる。
見る見るうちに動ける冒険者が減っていく惨状。
生物一匹に対し冒険者が二、三人でようやく倒せるという戦力比。間違いなく冒険者側が圧倒的に不利な状況であった。
「くそ! 何だこいつらは!」
「分からん。俺も初めて見る!」
強襲してきた謎の生物たち。数も個の力も上回られている。
生物の一匹がフラッグに向かって飛び掛かってきた。
「くっ!」
それを見てすかさず回避するフラッグであったが、これにより生物がボウとフラッグを分断する形となる。
「フラッグ!」
すぐに飛び掛かってきた生物に斬りかかろうとするボウであったが、背後でギャアギャアと鳴く声を聞き、反射的に振り返ってしまう。
振り返るとすぐそこに立つ生物。フラッグを助ける為に振るおうとしていた剣を思わずそちらの方に向かって振るってしまう。
生物は横に素早く飛び退き容易く避けると、大口を開けてボウに噛み付こうとした。
避けられない。そう思ったとき数発の石礫が生物の顔に当たり、生物は鳴き声を上げながら後退する。
フラッグを襲っていた生物も同じように石礫を当てられて怯んでいた。
「大丈夫か!」
荒い息を吐きながらヒスが二人の下に駆け寄ってきた。
「悪い! 助かった!」
「こちらも助かった」
「礼はいいさ。寧ろ、ごめん」
二人の礼を聞いて何故か、ヒスが謝る。何故かと考えるよりも先にヒスが走ってきた方向から新たに二匹の生物が走ってきた。
「おいおい! こっちに連れて来るなよ!」
「仕方ないだろうが! 一人で勝てるか!」
「三人でも勝てる訳でもないだろうがぁ!」
「うるさい! 言い争いなら生き残った後にしろ!」
ヒスとボウの言い争いをフラッグが怒声で無理矢理中断させ、目の前の敵に集中するように言う。
周囲を囲む五匹の生物。こちらの動きを警戒しているのか、あるいは遊んでいるのか歩いては立ち止まるといった動作を繰り返している。
いつ襲ってくるか分からない。故にどう動くべきかを口早に話し合う。
「どうする?」
「ここを抜けて雇い主たちの後を追う。悔しいが向こうの方が装備は上だ」
「俺たちが後を追っていないことを不審に思って止まっているかもしれないからな」
「気にも留めずに止まってなかったら?」
「そのときはそのときだ」
方針が決まると同時に生物たちが飛び掛かってきた。
防いでも勢いと重さに負ける。だからこそ守りではなく攻めていく。
飛び掛かる生物たちに向け、ヒスたちは剣を振るう。
ヒスが身を屈めながら振るった剣は一匹にカウンター気味に当たり、その胴体に裂傷を刻む。
ボウの方は剣を突き出すように構えていた為、足爪を立てながら飛び掛かってきた生物の足を貫き、そのまま相手の勢いを利用して脇腹辺りにまで剣を埋める。
フラッグは横に避けると同時に剣を横薙ぎに払い、生物の腕を切り飛ばした。
一瞬にして三匹に傷を負わせたものの残りの二匹は攻撃に加わらず、様子を見ている。
胴体を切られた生物はその傷口から臓物を零し、よろよろと動いた後に倒れ、脇腹を貫かれた生物はすぐに後退したものの傷は深いらしく動きが鈍っている。腕を切られた生物は鳴き声を上げながら大きく後退した。
「今だ!」
ヒスが叫ぶと共にボウたちは一斉に駆け出す。
背中からギャアギャアという生物の鳴き声が聞こえるが、そんなものは無視して全速力で走る。
「おい! 何処へ行くんだ!」
「待て! こっちの手、うわあああああ!」
生物たちの声だけではなく他の冒険者たちの悲痛な叫びも背中越しに聞こえてきた。
生きることに優先順位があるとすればまず第一が自分であり、第二が長年連れ添ってきた仲間である。それ以下は無慈悲と思われるかもしれないが生きる為に切り捨てるしかない。
平気な訳ではない。寧ろ罪悪感すら覚える。だが全てを救うには力が足りないのである。
「悪い。本当に悪い」
ヒスは謝罪の言葉を自然に口に出してしまう。そんなことは死に行く者たちにとって何の慰めにもならないと、分かっていながら。
ボウは背後を見る。意外にも追って来ている生物たちは居なかった。ヒスたちを追うのは止めて残っている冒険者たちの方を優先して襲っている。
今はただ援軍を呼ぶために逃げるしかない。背後から聞こえてくる断末魔を必死に堪えながら、前だけを見てヒスたちは走り続けた。
それから十分程走り続けるヒスたち。息が切れ、空気を求めて顔が上がっていく。喉の奥から鉄のニオイがし、鼻の奥に痛みを感じる。
脚も重くなり始め、だるさと鈍痛を感じ始めていた。
「あっ」
先頭を走っていたヒスが声を上げる。少し遅れてボウたちもまた小さな声を上げた。
数十メートル先に見える目的の馬車の後部。幸いなことに停車していた。
ヒスたちにとって心底気に入らない男であったが、このときばかりは心の底から感謝の気持ちを送りたくなっていた。
疲労も吹き飛んだような気分になった一行は数十メートルの距離を十秒程で駆け抜け、馬車の後ろに立つ。
恐らくは中にいるだろうと考え、前へと回り込もうとするヒスとボウ。
フラッグもまたその後に続こうとした。
「ん?」
数歩進んだとき、ぬるりとした感触が靴底から伝わってきたので思わず足を止め、下を見る。
靴底からはみ出している赤黒い液体。全身に鳥肌が立つ。踏んでいた足を退けると粘着質な音を上げ、短いながらも赤い糸が引かれた。
靴底にあったものを見てフラッグは胃が裏返しになったかのような嘔吐感を覚えた。
液体のみであったのならばここまではならない。赤黒い液体こと血溜まりの中心には一塊の肉片。赤黒い血に染まっているが肌色の部分も見える。
人の皮膚が肉ごと抉られていたのである。
吐き気を抑え込みながら前にいるヒスたちに声を掛けようとする。『ここにも奴らが居る!』という警戒の言葉を。
だがそんな言葉もヒスたちが茫然と立つ姿を見て喉の途中で止まってしまった。
前に立つ二人の隙間から奥を覗き込むフラッグ。そこで前の二人と同じく絶句し、茫然と立ち尽くしてしまった。
辺り一面血の海と化し、その上ではかつて人だった者たちがヒスたちが襲われたときの倍以上の生物たちによって食い散らかされている。
千切れた足を奪い合う生物。光の無い目をした護衛の腹に頭を突っ込み、そこから臓物を引き摺り出す生物。爪で遺体を切り刻み、食べ易くしてから噛み付く生物。
生物たちの咀嚼音だけが周囲に響き渡り、そこはこの世に現れた地獄と化していた。
「あ……あ、あ……助けて……くれ……」
そんな地獄の中で聞こえてくる人の声。思わず声の方を見ると、そこには血塗れになったアセが這いずりながらこちらに手を伸ばしていた。
「助け……て……くれ……礼なら……いくら……でも……」
必死になって助けを求めている。アセの片足は失われており、その流れる血の量からどう見ても長くは持たない。
どうすればいいのか。決断を迫られる三人であったが、すぐに答えなど出す必要も無くなる。
大地を踏みしめる音。その音に伴い馬車が揺れる。
足音の主に目を向けた一同は血の気が引いていくのを自覚した。
現れたモノの姿形は周囲にいる生物と殆ど変わりない。しかしその体格は一回り以上大きい。自己主張するかのように発達した半月状の大きな鶏冠。
誰が見ても分かる。今、現れたこれがこの生物たちのボスであることが。
ボスはそのまま這いずっているアセへと近付いていく。
ボスの存在に気付いて悲鳴を上げながら懸命に手足を動かして逃げようとするが、一人と一頭の追い掛けっこは絶望的なものであった。
アセが痛みを堪え十数センチ程前進する間にボスが一歩で追い付く所か、追い抜いてしまう。
正面に回ったボスは這いずるアセを見下ろす。
「やめて――」
言葉の通じない相手への命乞い。それが如何に空しく無意味なものであるか、その直後に身を以って知ることとなる。
ボスが軽く足を持ち上げる。そして、その足を足元にいるアセの頭目掛けて下ろした。
果実のようにアセの頭部は弾け、頭部に詰まっていたものが噴き出す血と共に辺りに飛び散っていく。
絶命したアセの遺体に部下たちが群がっていく。
「あ、あああ……」
惨劇を目の当たりにしてヒスたちはじりじりと後退していく。今すぐにでも駆け出したいが、相手を刺激しないように徐々に離れていくつもりであった。
だが群れのボスはそんな動きを見落とす筈が無い。既にヒスたちはボスにとって狩るべき獲物であった。
ボスの目がヒスたちに向けられたとき、極限まで高まっていた緊張と恐怖が爆ぜる。振り返り全力で走り出す。
なりふり構わず、何処へ逃げるかも考えない。そんな余力があれば全部逃げる為に脚に注ぐ。
少しでも脅威から距離を取ることに死力を尽くす。
既に酷使されていた脚ではあるが、生死に深く関われば驚く程良く動く。
ボスたちとの距離があっという間に数メートル開いた。
『このまま逃げ切れるのでは?』
頭の片隅に過る言葉。だがそれが如何に甘いものであったかを、この後身を以って知ることとなる。
横並びに走る三人。そのときヒスとフラッグは、視界の端に高速で通り抜けていく青縞の影を見た。
思わず隣を見る二人。そこにいた筈のボウの姿は無い。替わりに立っているのはあのボスの姿。
何故、と考えるよりも先に二人の視線がボスの顔から足元に向かって下げられていく。
見るべきではない、と直感が警告するがもう止めることが出来なかった。
ボスの足元を見たとき、二人は声にならない絶叫を上げる。
そこにはボスの重量によって頭部を地面に埋め込まれたボウの変わり果てた姿があった。
あまりに、あまりに呆気無く死んだ。
子供の頃から知っており、二十年以上もの長い付き合いがあり、多くの修羅場を共に潜り抜けてきた戦友であり、親友でもある者の死。
その衝撃は計り知れないものであり、事実ヒスとフラッグは生死が係る状況だというのに棒立ちになってしまっていた。
この行為が彼らの命運を決定付けた。
茫然としているフラッグに飛び掛かる青い影。生物はフラッグを押し倒すと同時にその喉に牙を突き立てる。
死を免れない致命傷。受けたフラッグもそれが分かっているらしく、潰されて声が出てこない喉を震わせ、近くにいるヒスに血を吐きながら『逃げろ』と声無き叫びを上げる。
それが伝わったかどうかは分からないがヒスは漸く正気を取り戻し、その場から駆け出そうとした。
ギャアギャアとボスが大きく鳴く。
するとヒスの退路を塞ぐように何匹もの生物が現れ、取り囲んでくる。
「はぁ! はぁ! はぁ!」
まともに呼吸が出来なくなる。心臓が潰れそうな勢いで動く。恐怖で思考が動かなくなる。手足から力が抜けていく。
何も考えられない。何もすることが出来ない。もう既に取り返しのつかない状況になっていた。
ボスがもう一度鳴き声を上げる。それに反応し、生物たちは一斉にヒスへと飛び掛かった。
「うああああああああああああああああ!」
襲い掛かる青い影はその絶叫すらも呑み込み、蹂躙する。
絶叫の余韻が消える頃には、後を追うようにして無数の咀嚼音が響くのであった。
ドスランポス編の話となります。
卵運びのときの恨みは絶対に忘れない。絶対に、絶対に!