「あー! 腹が立つ!」
ギルドでの報告を終え、ギルド本部から出てきたシィが開口一番に発した言葉がそれであった。
「シィ! 取り敢えず落ち着いて! ここじゃギルドの誰かに聞こえ――」
「聞かせてやればいいのよ! 金だけピンハネして碌に動こうとしない連中にね!」
エイスの制止を無視しシィは大声を出し続ける。余程頭にきているらしく何度も地団駄を踏みながら、自分の頭を激しく掻きむしる。
「あの老害! 金食い虫! 置物! 無ッ――!」
「分かった! 分かったから! そこまで言いたくなる気持ちは痛い程分かるけど今は落ち着いてくれ! これ以上騒いだらギルドの警備に捕まるぅ!」
強引にシィの口を手で押さえ何とか黙らせることが出来たが、無理矢理黙らされたシィは凄まじい眼つきでエイスを睨みつける。その心臓に悪い眼つきを至近距離で浴びせられながら、エイスは何度も懇願する。シィもそのエイスの態度に毒気を抜かれたらしく、短い溜息を吐いた後、降参するように両手を上げこれ以上大声を出さないという意思を見せた。それを見てエイスは口を塞いでいた手を離す。
「まあ、シィの嬢ちゃんの腹が立つのは分からなくもないがな。あんだけ露骨に疑われちゃあな」
「あまり私たちの証言を信じている様子ではありませんでしたからね……」
ゼト、エルゥも表情には出さないものの言葉には隠しきれない不満が込められていた。一行が何故こんなにも不快感を露わにしているのか、それはギルドの幹部たちの彼らに対する接し方の問題であった。
時間は少し巻き戻り、エイスたちがこの街に帰還した直後のことである。
命からがらと言っていいほど必死になって戻ってきたエイスたちは荒い息を吐きながら、ギルドの受付に緊急の報告があると言ったのであるが、幹部たちは会議を行っているという理由で待機するようにとあっさりとあしらわれてしまった。
必死になって事の重要性を教えようとする一行であったが、受付の態度は一切変化する事無く挙句の果てにはこれ以上騒いだら摘み出すとまで言われる始末であった。仕方なくエイスたちは会議が終わるまでの間待つこととなり、一秒でも早く報せる為に態々会議室の前で待機していたのであるが、会議室から時折聞こえてくる会話の内容はどう聞いても世間話などといったギルドとは関係ないものばかりで、会話の途中で談笑が聞こえてくるときもあった。
そんな会議の内容なら今すぐに飛び込んで行きたい衝動に駆られる一行であったが、両端で目を光らす警備の者の手前、行動することが出来ず沈黙を保ったまま会議室の前で待つしかなかった。
会議が終わったのはそれから二時間後のことである。
会議室から出てきた幹部たちにすぐさま森であったことを伝え、その時の証拠として映った姿を記録する『映石』を見せる一行であったが、返ってきた反応は冷たいものであった。
『君たちは夢でも見ていたのではないかね?』
『アースドラゴンを一撃で葬る竜? 話を作るにしてももう少し現実味がある話を造れないのかね? それでは子供の戯言以下だ』
『そもそもあの場所にアースドラゴンが現れること自体考え難い。ひょっとして簡単な依頼をこなせなかったことを隠すための虚言かね?』
『ハハハハ! その可能性もありますな。なにせこの石を使った詐欺もありますし』
嘲笑、冷笑を浴びせ報告について碌に考えることなく疑い嘘だと切り捨てる。シィはベテランとまではいかないが数年以上この道で生きてきた身として、腸が煮えくり返る程の屈辱であった。エイス、エルゥは生来の性格からあまり怒りを露わにすることはなかったが、内心では不快感を覚えていた。ゼトはベテランの域に入っており感情をコントロールすることは容易なため、落ち着いた態度を取っている。尤もギルドの幹部の体質を十分に理解している為、一々腹を立てること自体無駄だと割り切っている部分もあった。
話が終わった後、エイス、エルゥ、ゼトの三人が押さえつけなければそのまま殴り掛かってしまっていたシィを無理矢理引き摺り、今へと至る。
「あぁ! あああ! ああああ!」
「おいおい、エイス。お前の相棒はとことんご立腹みたいだぜ。早く鎮めてやったらどうだ?」
「無茶を言うなぁ。これっぽっちも出来ると思ってないくせに……まあ、ある意味でこの結果は必然だったかもね。正直、一縷の望みに賭けて話してみたけど……やっぱり上と下とじゃ意識に差があるなぁ……」
苦笑するエイスであったが、彼の口にした言葉はギルドの幹部とそれに属する人間との間で長年ある問題を表していた。
各方面から様々な依頼を受けて冒険者に仲介するのがギルドの仕事であるが、ギルド自体は国の管理下に置かれており、監視という名目で国から派遣された人間を幹部に置くことが決まっている。その幹部というのが国に長年仕えている貴族の面々であり、そこから適当に選定しているのであるが、この貴族の幹部というのがかなり厄介な存在であった。
まず第一に冒険者という仕事に対して一切の理解が無かった。貴族たちの目からすれば冒険者など根無し草の最底辺の人種というのが大体の見識であり、良くても自分たちに利益を運んでくる働きアリ程度の認識でしかない。その偏見のせいで冒険者は過酷な任務を強制的に任されることがあり、命を落とすというケースも多々あった。仮に断ったとしても難癖をつけてギルドから追放されるというケースも決して少なくは無い。
その結果ギルドの上下の仲は最悪に等しく、ギルドの幹部が定めた規則を敢えて破る冒険者は後を絶たない。そういった劣悪とも言える環境の中、真面目に冒険者としてギルドの仕事をこなす存在は稀有とも言え、エイスたちのグループはその稀有の中の一部であった。
「ああああ! 本当にくやしぃ!」
「そう怒るな。折角の美人が台無しになるぞ?」
怒り続けるシィを宥める第三者の声。その声は渋く落ち着いたものであり、長年生きてきた証が込められたように深い響きを持っていた。
「何! あたしは今……」
そこまで言い掛けてシィは言葉を止め、固まってしまう。シィを宥めようとしていたエイスたちも同様であった。
声を掛けたのは黒髪を後ろに撫でつけた髪型をした壮年の男性。だがその顔は年齢以上に生気に満ちた顔をしており、言葉を失っているエイスたちを灰色の眼で優しく見ている。顔の左側には火傷の跡があり、そのせいで左目は閉じられ隻眼であることがわかる。女性としては長身であるシィを見下ろす立派な体格をしているが右腕が肘から下が無く、風によって右袖が靡いていた。
「すまないな。他の幹部の面々が君たちに無礼を働いたようだ」
「と、とととととんでもございません! ワイト様! ですからあたしなどに頭を下げないで下さい!」
謝罪するワイトという男性に、シィは声を裏返しながら心底とんでもないといった様子で頭を上げて貰うよう懇願する。
「い、いらっしゃっていたんですね、ワイト様」
「別件で少しギルドを離れていたのだが……どうやら私が不在の間に会議を行っていたみたいだな……やれやれ、一体どんな中身の無い会議をしていたのやら……」
緊張した面持ちで尋ねるエイスに嘆息しながらワイトは応じていた。
ワイトの一挙一動に体を硬直させ緊張を露わにする一同。しかし、それは無理もないことであった。何故なら彼らの目の前に立つ存在は『生きた伝説』『全ての冒険者の頂点』『この世で最も成功した冒険者』『冒険者の代名詞』など数え切れない程の異名と功績を持つ全ての冒険者の憧れであり、目標であるからだ。
ワイト・メガ。引退をしている為、元冒険者であるがその偉業を認められ、貴族でないにも関わらずギルドの幹部として名を連ねる有名人である。腐敗している幹部の中で唯一と言っても言い程冒険者のことを第一に考える人格者であり、また国相手にかなりの影響力を持つ人物でもある。
顔を見ることがあっても、直接会話することは初めてであるエイスたちは憧れの存在を前にしてただ直立していた。その様子を苦笑しながらワイトは柔らかな口調で四人に話し掛ける。
「何か幹部に対して重要な要件があるみたいだな。良ければ私が聞こう。まあ、ここでは立ち話もなんだ、私の部屋で詳しい内容を聞こう」
「は、はい!」
声を震わせながらエイスは答える。その頬は興奮で赤く染まっているが、誰もそのことを囃し立てることは無かった。皆も同じような表情をしていたからだ。一番年長であるゼトも年甲斐も無く興奮しているようで、頬を紅潮させていることは無かったが目がしきりに泳ぎ落ち着きが無い様子であった。
「では行こう」
ワイトがギルドに向かって歩き始めるとその後ろを慌てて付いて行くエイス一行。
ギルド内にある階段を昇り、先程会議を行っていた階よりも更に上の階。そこは幹部と許可がある者のみ出入り出来る階であった。
階段付近で鎧を着た衛兵が数人立っている。ワイトはその衛兵たちに二三言何かを言うと衛兵たちは敬礼する。ワイトの付いてくるようにという声にエイスたちは階段へと足を乗せるが、衛兵たちは敬礼した姿のまま微動だにしなかった。
ワイトに案内され入った一室。そこは幹部の部屋にしては質素と言える内装であった。踏むのを躊躇う様な金糸の刺繍が施された絨毯も職人が長い年月掛けて織った壁掛けも無く、あるのは乾燥した植物の入った複数の小瓶、年数を感じさせる背表紙が並ぶ本棚、動物の骨格の標本といった何処か幼い日を思い起こすような部屋であった。
「掛けたまえ。茶を淹れよう」
「い、いえ! とんでもございません! 招いて頂いただけでも光栄なのにその上持成されるなんて……!」
「はははははっ! 気にすることはない、他人に茶を振る舞うのも私の数少ない趣味の一つでね。ここは一つ私の趣味に付き合ってくれないか?」
「ええ、その……はい」
こう言われてしまったのならばエルゥも首を縦に振らざるを得ない。ワイスは微笑を浮かべると部屋の隅に行き、そこで茶を淹れる準備をする。その背中を見ながらエイスたちは心臓の鼓動を押さえ、ただ室内に置かれた机の前で大人しく椅子に座っているのであった。
数分後、ワイトが盆の上に五つのカップを持って戻ってくる。そして座っている皆の前に一つずつ置いていった。
「い、いただきます!」
恐縮した様子でエイスは琥珀色の茶が満たされているカップを手に取り、口を付けるとそのまま流し込んだ。今まで味わったことのない香りが口と鼻を漂い、ほのかな茶の苦みと甘い香りが緊張をほぐしていくようであった。
「それで君たちは幹部に何を報告しにいったのかな?」
「……はい、実は――」
エイスたちは森での一件を出来るだけ詳しくワイトに話した。
「大きさは二十メートル程あり、今まで見てきた獣の中でも一番大きかったです」
「二十か……記録書に載る程の大きさだな」
「図体が大きいのも厄介ですが、素早さも相当なものだったぜ――いや、でした」
「君の話しやすい喋り方で構わない――ふむ、大きさに似合わない俊敏さか」
エイスとゼトの話を頷きながらワイトは真剣な表情をしていた。
「正直に言えば初めて感じる気配でした……何といいますか、『この世のもの』とは思えない鋭く強大な気配を持った生物です」
「鋭い牙や爪も持っていましたが、一番恐ろしいと思ったのはその獣の翼でした……竜種の鱗を簡単に切断する切れ味を持った刃なんて、あたし初めて見ました」
初めて見たときの衝撃と恐怖。アースドラゴンを容易く葬ったその強さ。ワイトはただじっとその話を聞き続けていた。
「成程、アースドラゴンを一撃で倒すほどの未知の生物か……」
「信じていただけますか?」
「この世にはまだ私の知らないことが多く眠っている。自分が知らないからといってそれを否定することは出来ないさ。もしよければその生物の姿を大まかでいい、描いてくれないか?」
ワイトが紙とペンをエイスたちに渡す。それを受け取ったのはエイスであった。この中で唯一絵心があるのは彼のみである。
「では簡単にですが……」
紙を自分の前に置き、ペン先をインクに付けるとそのまま一気に描き始める。エイスの手は淀みなく描き続け数分経った後、絵は完成した。
「見事なものだな」
「い、いえ! 大したことは無いです! 趣味の延長線で少しかじった程度です!」
絵が描かれた紙を渡されるとワイトは真剣な表情でそれを凝視する。
「見覚えがあるんですか?」
慣れない敬語を使いながらゼトが尋ねるがワイトは首を横に振る。
「このような姿をした生物は初めて見るな。ただ……」
「ただ?」
「ドラゴンを圧倒する程の力を持った生物ならば、私も一度だけ会ったことがある」
「ほ、本当ですか?」
生態系の頂点に立つドラゴンを圧倒する生物。それがこの間見た獣以外に存在することがエイスたちにとって驚くべきものであった。謂わば既存の常識が覆されるようなものである。
「この生物のように獣の姿はしていなかった。あれはどちらかと言えばワイバーンに近い姿をしていたな……だが大きさはワイバーンの三倍以上あった。私もソレを初めて見たときは衝撃的だったよ。何せフレアドラゴンを一方的に蹂躙しているところに出くわしたのだからな」
ワイスの話に出てきたフレアドラゴンとは、アースドラゴンと同じく竜種であるがその性格は竜種の中でも一、二を競う程に凶悪である。赤く頑強な皮膚を持ち、その背には飛ぶための翼を生やしている。他の竜種とは違い固有の縄張りを持たない為に常に狩り場を求めて飛翔しており、獲物を見つけるとその名の通り火を吐き焼き殺してから食すという習性を持つ。
その行動範囲と被害の大きさから『害獣』に数えられている竜種である。
「出くわして……どうなったんですか?」
「ふふ、このざまさ」
軽く笑ってから今は無き右腕に触れる。ワイトの回答に、自分が失言をしてしまったと思い込んだエイスは勢いよく頭を下げる。その拍子で置かれたカップの中から茶が少し跳ねた。
「口が過ぎましたぁぁ!」
「この大馬鹿! 人の、よりにもよってワイト様のデリケートな部分に踏み込んでんじゃないの!」
しきりに謝り続けるエイスの頭を怒りながら何度も手刀で叩くシィ。その隣では慣れた光景なのかゼトとエルゥが苦笑いしている。
相手の過剰な反応に少しの間言葉を失っていたワイトであったが、頭を下げ続けるエイスの肩を軽く叩き、面を上げるよう促す。
「ははは! 元気のいいことだ。私のことを思ってくれての反応だが気にしないでくれ。私自身この眼と腕を失ったことには納得している」
「ですが……」
「気にするなと言ったぞ、私は? それよりも今後の話をしよう。君たちの情報を基にして森での調査部隊を決めよう。未知の獣が相手だ、人員の数と質を充実しておかなければならないから少し時間が掛かると思うが」
ワイトの言葉を聞き、あらためてエイスたちは頭を下げた。
「お願いします」
「そう律儀に頭を下げなくてもいいさ。冒険者のことについてあれこれ考えるのが幹部として当然の仕事だ。まず差し当たっては調査が終わるまで森の立ち入り禁止を喚起しなくてはな……」
同じ冒険者出身とあってか、ワイトへの信頼は他の幹部とは比べものにならないものであった。彼がこうするといったら必ず行動に移るという実行力がある。
あのとき遭遇した獣との恐怖もワイトという頼れる存在がいることで少しだけ和らぐのであった。
「では僕たちはこれで……」
「もう少しゆっくりしていてもいいのだが?」
「あはは、何といいますか……あの獣と出会ってから今まで気が張り詰めていたんですが、ワイト様と会話していたらそれも解れてきたみたいで……」
遠回しな言い方であったが、ワイトはその言葉でおおよその察しがついた。おそらく今のエイスたちは張り詰めていたものが緩んだことで強烈な眠気を感じている様子であった。必死になって表情に出さないようにしているが。
似たような経験があるワイトは当時を少し思い出し、微笑を浮かべる。
「そうだな。必死になって情報を届けてくれた君達に今一番必要なのは休養だな。引き止めて悪かった。後のことは私が進めておこう」
「はい。ありがとうございます! お茶、ご馳走様でした」
「あ、あのお話出来て光栄でした!」
「ここらで俺らは失礼します」
「お気遣いありがとうございました」
ワイトの言葉に一同安堵しそれぞれ深々と礼をした後、部屋から退室をする。すると――
「おんやぁ? 何故この階に冒険者などがいるんだぁ?」
勘に障るような高い声、その絶妙な音域と口調は聞く者にとってまず不快感を与えるものであった。
「ここはお前たちのような存在が踏み入ることを禁止されている場所だがぁ?」
声の主はまだ二十代ぐらいの若者であったが、日頃から十分な食事と不十分な栄養バランスのおかげで肥えており、そのせいで更に十歳ほど上乗せしたような貫禄のようなものがあった。
若者もワイトと同じく幹部の一人であるが。典型的な貴族出身の幹部であり、その証拠にエイスたちを見る眼はワイトと違ってこちらを見下すものであった。
会議の際にもこの顔を見た様な記憶があったが名前までは知らなかった。というよりもこのギルド内でワイト以外の幹部の名前を知っている冒険者など極少数である。
「分かっているのかぁ? これは罰則事項に当たることだぞぉ?」
嬲るような口調。一言一言に言い様の無い苛立ちを覚える。蛇蝎の如く嫌っている相手ではあるが、最低限の礼を持ってエイスは応じた。
「申し訳ありません。誤解を招いてしまいましたが、僕たちは許可を貰ってここに上がっているので」
「許可ぁ? お前たちのような輩に一体誰が許可を出すのだぁ? どこの愚か者だぁ?」
嘲笑を混ぜた言葉。『お前よりも立派な人からだよ』と言葉が口から出るのを懸命に抑えつつ返事を返そうとすると。
「私ですよ」
会話が聞こえたのか部屋の中からワイトが出てきた。先程まで嘲笑を浮かべていた幹部は表情を蒼褪めさせあたふたし始める。
「こ、これはワイト殿のご友人でしたか!」
「申し訳ない。本来なら要らぬ誤解を招かないよう私が率先して動くべきでした」
「い、いえ! こ、こちらの早とちりなので! では私は失礼します!」
慌てて背を向ける幹部であったが振り返った彼の表情は妬みに塗れたものであった。一連の行動、どちらに非があるか冷静に考えれば簡単に分かるものであるが、このときこの幹部は内心でこう考えていた。
『下賤な冒険者たちの前で恥をかかされた』
どう考えてもただの逆恨みでしかないものであったが、元より彼は貴族でないにも関わらず人望も地位もあるワイトの存在に妬み僻みを持っていた。
いつか目に物見せてやると考えながら立ち去ろうとした彼の耳にある会話が入ってくる。
「済まないが下の階の者にこれを届けてはくれないか?」
「何ですか、これは?」
「君達が言っていた件についての仮申請の為の書類だ」
これを聞いた幹部の顔に邪笑が浮かぶ。頭に浮かび上がるよからぬ考えを示していた。
このとき思いつきで行った幹部の行動。それは後にギルドの歴史上最悪の失態と呼ばれる事件へと繋がるのであった。
◇
「森、森、森。どこへ行ってもずーと森。緑ばっかで目がおかしくなりそうだぜ」
足下に広がる光景を見ながらまだ少年とも言える容姿をした男子が愚痴をこぼす。彼が現在居るのは森を見下ろす高さである上空であった。
なぜ彼がその高さに居られるのか。
「お前もそう思わないか、相棒?」
「ギャア」
答えは彼が跨っている生物の存在であった。全長5メートルの体に緑が混じった青色の鱗、大きく広げられた翼膜。長く伸びた口吻からは時折鋸状の牙が見え隠れする。
世間一般からはワイバーンと称される生物、それこそ彼が相棒と呼んだものの正体であった。
竜種と遠い繋がりを持つ生物であるワイバーンであるが、気性は竜種に比べれば大人しくその飛行能力から移動の手段に用いられている。ただやはりというべきか気難しい性格をしており気に入った相手しか背中には乗せず、乗り手には才能が必要とされていた。
少年がワイバーンを操っているということは、すなわち才を持って入る証拠である。
「にしてもまいったねぇ。上の奴らの人使いの荒さには。いきなりこの森で探索しろって……」
「ギャア」
ギルドの仕事を終えたところに入ってきた、太った幹部からの急な依頼。手当たり次第と表現してもいい程に適当な人選であり、まだ冒険者として一年経ったか経っていないかという自分まで選ばれたときは流石に目を丸くしたが。
「一通り見回したら他の人達と合流するか、もう一頑張りしてくれよ」
「ギャア」
そう言ってワイバーンの首を撫でた時、突如下から突風が吹き上がり、少年は思わず目を瞑ってしまう。そのとき何か生温かいものが頬へと付着した。
「何だ?」
頬に付いたものを手で拭い、瞑っていた目を開くと手が赤く染まっている。間違いなく血であった。
なら、この血は一体何の血だろうか、それを考えるよりも先に飛翔していたワイバーンが落下し始めた。
「どうし――!」
その言葉の続きは言えなかった。空を飛ぶためのワイバーンの翼、それが半ばで断ち切られ血を宙へと撒き散らしていた為に。
落下するワイバーンから少年が放り出される。空中の為視界が激しく変化していく中で少年は見た。落下していく自分たちを追う様にして降りてくる黒い獣の姿を。
それを見たとき少年は叫んでいた。
「うああああああああああああああああああああ!」
本能から来る恐怖に怯える叫び。それは落下することよりも遥かに恐ろしく、ただただこの黒い獣の前から逃げ去りたいという願いで頭が埋め尽くされる。
だが獣が追い付くよりも先に、少年の体は下に一本の木の枝に叩きつけられた。勢いで枝は折れ、その下の枝に落下しては折れを数回繰り返す。意識が飛びそうになる程の衝撃を何度も受けながらも、死ぬことなく少年は地面へと辿り着いた。
しかし、それだけでは終わりでは無い。少年は打ちのめされ傷付いた体を引きずりながらこの場から一刻も早く逃げようとする。早くしなければあの獣がやってくる。
そのとき――
「おい、今の音を聞いたか?」
「ビートとかいう新人の竜騎手が落ちたみたいだな」
「おーい! 生きてるか!」
「返事しろ!」
近付いて来る他の冒険者たちの声。この声を聞いた時、ビートは助かったとは思わなかった。寧ろ不味いと考えた。
だからこそ渾身の力を込めて叫ぶ。
「こっちに来ちゃダメだぁぁぁぁぁ!」
だが――
「うあぁ!」
「何だ、何だよこいつは!」
「構えろ! 早く構えろ!」
「で、でけぇ!」
願い空しく獣の矛先は冒険者たちに向けられた。
『竜の変』と呼ばれた時代。それを語る上で外すことの出来ない事件、『ナナ森の惨劇』と呼ばれた悲劇の幕開けであった。
大分間が空きましたが続きを投稿しました。