MH ~IF Another  World~   作:K/K

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解放の咆哮

 何度見上げてきたであろうか。

 目の前にそびえ立つ高い壁。それが生み出す影の中で少女がその壁をぼんやりと見つめていた。

 粗末な格好をし、貧相な体型をしている。

 そんな少女の背後では同じような格好をした大人たちが黙々と地面を耕し、野菜に水を撒き、収穫などをしていたが、誰も彼も死人のような澱んだ目付きをしている。

 岩や土を砂よりも細かい粒に変え、それを固めて出来た頑強な壁。ただ高いだけではなく果てが見えないほどの広さに建てられていた。

 その壁を立てたのはとある大国であり、壁はこの地をぐるりと囲むようにして建てられていた。

 この土地は大国の食糧を安定して供給する為の農地であり、そこで働く彼らは大国に敗れた国の末裔、あるいは大国によって捕えられた作業用の奴隷である。

 最低限の衣食住を与えられ、日が昇り沈むまでの間ひたすら農作業の為に酷使される。それが彼らの存在意義であった。

 この状況が出来て長く、かれこれ何十年と続いている。当然、この囲いの中で死を迎える者も居れば、囲いの中で生を受ける者も居る。

 壁を見上げる少女もまたこの囲いの中で生まれた存在であり、生まれてから一度も壁の外を見たことが無かった。

 少女の知る自然は、緑の少なく赤茶色の土に覆われ四方を囲まれた大地。土埃が混じった乾いた風。農地の為に引かれた用水路の濁った水。

 それが少女の知る全てであった。

 

(この向こうには何があるんだろう……)

 

 壁を見る度に少女はそんなことを考えていた。緑の草原が延々と続くのか、草木一本も無い荒野が広がっているのか、あるいは話だけでしか聞いたことが無い海という大きな水溜まりがあるのか。

 そんな空想を頭の中に描き、思いを馳せる少女であったが、その空想は背中に走る痛みによって無理矢理中断させられた。

 

「あうっ!」

 

 痛みと衝撃で少女は前のめりになって倒れる。背中の強い痛みのせいでうつ伏せのまま立ち上がることが出来ない。

 すると誰かが少女の長く、黒い髪を掴み無理矢理顔を上げさせる。

 

「何をさぼっているんだ? 貴様は!」

 

 少女を怒鳴りつけるのは黒く染め上げた鎧を纏う男。その手に鉄の棒が握られていることから少女の背中を打ち付けたのがこの男だというのが分かる。

 

「休憩など許可していない! さっさと作業に戻れ!」

 

 少女の髪を掴んだまま、農地にずるずると引き摺っていく。

 男と同じ装備をした別の男たちが、それをニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべながら眺めている。

 男たちは、この農地と奴隷を監視する大国から派遣された兵士たちであった。主な仕事内容として奴隷たちが作業を怠けていないか確認し、怠っているようならば速やかに作業速度を上げさせるというものであった。

 ここで重要なのは、その怠っているという判断は各兵士が個人で判断し、更に作業速度を上げさせる方法は各兵士が自由に行っていいという点である。

 それによって起こるのは兵士たちによる奴隷たちの虐待であった。例え仕事を怠っていなくても、反抗的、不審な行動といった自分たちにとって都合の良い解釈をし、不満の捌け口として一方的に痛めつけ、集団で暴力を振るう。容姿が良い奴隷が居れば、自分たちの慰みモノとして道具のように扱う。暴力によって死ぬ者、耐え切れずに自殺する者など後を絶たない。

 故に今起こっている暴力、罵倒が当たり前のものとなっている。しかし、それを咎める者など誰も居ず、その矛先が自分に向けられないように黙って俯くか、農作業に集中し見て見ぬ振りをするしかない。

 

「あうう!」

「とっとと働け!」

 

 畑に向かって投げ捨てられる少女。顔から地面に突っ込み、土で汚れる。

 口に入った土を吐きながら少女は叩かれた背中の痛みに耐えつつ立ち上がると、置いてある農具を手に取り、周りの大人たちと同じように地面を耕し始めた。

 黙々と終わりの無い農作業を繰り返す。周りの人間と会話することすら許されず、もし喋っているのが見つかれば、酷い暴力を受けることとなる。

 監視している兵士たちの視線に怯えながら、奴隷たちは静かに仕事をするしかなかった。

 過酷な労働環境。当然逃げ出そうと考える者たちも居る。大国によって奴隷へと堕とされた者たちは脱走を企てていることが多かった。

 だがいずれも全て失敗に終わっている。

 失敗の主な理由としてまず外に出さないための高い壁。この壁は特殊な技術によって作られている為並みの道具では傷一つ付けることが出来ない。そして、岩や木で作られた壁とは違い凹凸が無いのでよじ登るのは不可能であった。

 次に農作業場や宿舎には奴隷たちを監視する為の監視塔が置かれている。高い所から常に兵士たちが奴隷たちの動きを監視し、不自然な行動をしていないか目を光らせている。

 三つ目はこの広大な土地である。果てなど分からない程広いこの場所は中にいくつもの農地や奴隷たちの集落が点在しているが、正確な場所は兵士たち以外知らない。

 収穫した食糧を外に運ぶ為、外に通じる扉が必ず何処かに存在する筈であるが、これもまた兵士たち以外詳細は分からないものであった。

 仮にこの場所から逃げ、この土地を彷徨うこととなれば待っているのは野垂れ死にか、あるいは逃亡した奴隷たちを狩る為に放し飼いにしてある陸蜥蜴〈グランド・リザード〉という竜の遠い親戚の餌になるかのどちらかである。

 日々向けられる理由無き暴力に怯えながら、奴隷たちは目を向けられないように沈黙を保ちながら作業を続ける。

 日が完全に落ち、空が夜の闇に覆われたとき鐘の音が響き渡る。それは今日の作業の終了を告げるものであった。

 疲れ切った体を引き摺るように動かしながら少女は夕食の配給に向かう。

 窪みのある盆に空の器を二つ置き、配給を待つ列に並ぶ。

 配るのは同じく奴隷たちであり、兵士はその奴隷が食事をこっそりと隠していないかすぐ後ろで監察している。

 列は進み、やがて少女の番となる。

 盆の窪みに豆を潰して出来たペーストが載せられ、空の器には塩のみで味付けされた野菜くずのスープと小麦を牛乳で煮た粥もどきが入れられる。

 これが少女や奴隷たちが食べる本日の食事であり、似たような食事が朝、昼、夕の三食続けられる。

 美味さなど皆無であり、ただ空いた腹を慰める為の食事。しかし、この地獄のような環境にとって数少ない愉しみの一つであった。

 少女はそれを持って自分の家へと戻る。家と言っても土と石で出来た壁と藁の天井で作られた簡素なものである。そこでは既に少女の両親が食事を始めていた。

 

「無事だったか」

 

 戻って来た少女の顔を見て、少女の父は安堵した表情を浮かべる。隣にいる少女の母も同じ表情をしていた。両親とは離れた場所で作業している為、その間の安否は全く分からず、夕食で戻ってくる娘の無事な様子を見て、胸を撫で下ろしていた。

 

「うん!」

 

 背中を棒で叩かれたことを伏せて、元気良く返事をする。少女の怪我を見る度に両親が悲し気な表情をするので、それを見たくない少女の精一杯の我慢であった。

 今日どんなことがあったのか両親と出来るだけ小声で会話をする。声が大きいと中に兵士たちが来て、殴ってくるからだ。

 あんなことがあった。こんなことがあったという他愛も無い会話。だが、それをする度に今日も生き延びたことを実感出来た。

 食事が終わると食器を洗い、その頃には日も完全に落ちた就寝の準備をする。一応、蝋燭も支給されているが限りが有るのであまり使用しないことになっている。

 両親に就寝前の挨拶をして、地面に敷かれたボロボロな布の上に寝転がり、同じぐらいボロボロな布を被る。

 地面の固さを直接感じているのとほぼ変わらない寝心地ではあるが、もう既に慣れてしまっていた。

 少女は眠りに落ちる前に頭の中で物語を読み上げる。その物語は、少女に読み書きを教えてくれた祖父から聞かされたものであった。

 昨年風邪をこじらせて亡くなった祖父は、奴隷になるまで外の世界で生きていた為壁の向こうにしかないものを色々知っていた。

 砂漠に眠る秘宝の話。戦争をたった二頭で終わらせた炎の獅子の話。大海原に住む大きな神様の話。悪人を懲らしめる島に住むとても怖い悪魔の話など数え切れない程である。

 物語を思い返す度に祖父の優しい声が頭の中で木霊していく。かつての優しさに浸りながら少女は、深い眠りにつくにのであった。

 翌日。本来ならば目覚めの警鐘が鳴る時間であったが、この日はどういう訳かどんなに待っても鐘が鳴らなかった。

 両親は不思議そうな顔をしながら外に出ようとする。

 

「今日は家でじっとしていろ」

 

 入口には不機嫌そうな表情の兵士が立っており、外に出ようとしていた父の肩を強く押して家の中に戻す。

 今までに無かったことなので両親は戸惑い、少女もまた首を傾げていた。

 強い風の日も雷雨の日も欠かさずに作業が行われてきたが、一日中止というのは初めての事態である。

 両親は言われた通り家の中でじっとしていたが、少女は好奇心が抑えきれず、窓に耳を当てて外の兵士たちの会話を盗み聞きし始めた。

 

「――が昨日――された――全滅――奴隷だけじゃない――他の――も皆やられている」

「――手は?」

「分からない。だが――らしい」

 

 途切れ途切れで聞こえてくるので全容は全く分からないが、大国側にとって何かしら不都合なことが起きているのだけは分かった。

 例え奴隷が目の前で死んだとしても虫の死骸を見るかのように動じない大国の兵士たちが、明らかに動揺していた。

 兵士たちに対し良い感情など無い少女にとっては、焦燥感のある兵士たちの姿は新鮮であり、同時にざまあみろと舌を出して笑ってやりたい衝動に駆られる。尤もそれは奴隷たちが共通して兵士たちに持っている感情である。

 結局その日は、一日中家の中に押し込められたままであった。しかし、そのせいで食糧の配給が無く、空腹を抱えたまま床に就くこととなってしまった。

 翌日。空腹によって目を覚ました少女。両親は既に起きており、眠そうに眼を擦る少女におはようと声を掛けた後、不安そうに外を眺める。

 それを不審に思い、少女も両親を倣って外を見る。そして、絶句した。

 兵士たちの数が昨日よりも倍以上増えているのだ。それもただの兵士ではない。重武装を纏い、三メートルを超えた巨大な生物に跨っている兵士たちもいる。

 戦闘用に調教された竜、陸竜〈グランドドラゴン〉。大国にとって要とも呼べる生きた武器である。本来ならばプライドの高い竜を従えるのは、才有る者が幼い頃から共に生活し、心を通わせて初めて出来る。

 だが、大国はその過程を踏まなくても可能とし、尚且つ大量に保有している。

 それを可能としているのが陸竜の首に巻かれている首輪である。中央に填め込まれた妖しく光る石は意識を混濁させる魔石であり、大国は捕まえた陸竜をこれで洗脳し、そして卵を産ませ、産まれてきた幼い竜にもそれを填めて意のままに操っていた。

 本来の竜種に比べれば血の薄い竜ではあり、ブレスも吐けず空も飛べない。しかし、弓矢を容易く跳ね返し、剣や槍でも貫けない頑強な鱗は十分過ぎる武器であり、おまけに馬以上の早さで走ることが可能である。

 少女も何年か前に兵士たちが陸竜に乗っている姿を見たことがあった。そのときは脱走した奴隷を探す為であり、数時間後には脱走した奴隷がこの場所に戻って来た。ただし、陸竜に咥えられて血に塗れた状態で。ここから逃げ出したらどうなるかという格好の見せしめにさせられていた。

 陸竜の唸り声と重武装の兵士たちによる圧迫感のせいで嫌な緊張感に満ちた空気の中、少女は農具を手に取り作業を始める。

 いつもの様にザクザクと土を耕す音と水を撒く音、そして作物を採る音が聞こえてくる。この音が延々と続くかと思えたそのとき――

 

「貴様ぁ!」

「ひぃあっ!」

 ――兵士の怒号が上がった。

 声の方を見ると頭から血を流して怯える中年の男。周りに水汲み用の桶が転がり、地面を濡らしている。

 

「これは我々に対する嫌がらせか!」

「違います! 違います! 手を滑らせてしまっただけです!」

 

 兵士の衣服の一部が濡れている。どうやら奴隷の男が水を零し、それが掛かってしまったらしい。

 

「黙れ!」

「あがっ!」

 

 鉄棒が男の頬を殴る。血に混じって白い歯も飛ぶ。そこで終わりかと思いきや、倒れ伏した男の頭に何度も鉄棒が振り下ろされる。

 

「奴隷が! 奴隷如きが!」

「がっ! ――ッ……」

 

 一瞬呻いた後、男は沈黙する。すると他の兵士たちがやってきて殴り続けている兵士を後ろから羽交い締めにした。

 

「馬鹿野郎! やりすぎだ!」

「落ち着け! 落ち着け!」

「うるせぇ! 放せ!」

 

 周りの声も異常なまでに興奮状態になる兵士には届かない。すると別の兵士が現れ、暴れているその兵士の頭に鉄棒を叩き付けた。

 兜を被っていても衝撃を完全に殺すことは出来ず、暴れている兵士は頭を押さえながら苦悶の声を上げる。

 兵士の一人が、頭から血を流して倒れている奴隷の首筋に手を当てる。その後に口の前に手を翳す。両方やった後にその兵士は舌打ちをする。

 

「手遅れだな」

 

 兵士を一人呼び寄せると、奴隷の両足を持って引き摺っていく。

 少女が何度も見た光景。あの奴隷が死んでしまったらしい。

 初めて人が死ぬ光景を見たときは、理由も分からない恐怖で全身が震え上がった。目から涙が溢れ、すぐにでも泣き出してしまいそうになった。だが、慣れてしまった今では震えも涙も無い。

 死に対する嫌悪感はいまだに感じることは出来るが、いずれは周りの大人たちのように人が死んだとしても『人手が減った』程度の感想しか抱かなくなるであろう。

 

「何であいつはあんなに取り乱していたんだ?」

 

 死亡した奴隷に何の感慨も抱かず、加害者である兵士の方を心配する様子を見せる。

 

「例の『アレ』だよ。あそこにはあいつの弟が居たんだ。……今朝、安置所で対面したらしい」

「ああ、道理で」

 

 会話し合う兵士たちの前で、暴れていた兵士が引き摺られていく。

 

「おい! ぼうっとしていないでさっさと作業に戻れ!」

 

 暴行の現場を見ていたせいで手が止まっている奴隷たちに、兵士が鉄棒を地面に叩き付け作業を再開するように脅す。

 奴隷たちが慌てて作業に戻ろうとしたとき、警鐘が鳴った。

 脱走者が出たときに鳴る鐘の音。しかし、兵士たちの様子がいつもと違う。

 

「出たのか!」

「何処だ! 何処に出た!」

「早く情報を回せ!」

 

 慌ただしく動き始める兵士たち。明らかに脱走者を狩る為の準備ではない。

 

「今日の作業は中断だ! すぐに寝床に戻れ!」

 

 兵士がそう怒鳴りつける。

 奴隷たちはざわついた。

 昨日もそうだが、連日で前例の無いことが起こっている。

 

「とっとと戻れっ!」

 

 動物に命令するかのように鉄棒を地面に叩き付ける。

 大人しく家に戻った少女たちであったが、兵士たちの不安、焦り、怒りが伝播して皆落ち着かない。

 そういう嫌なこと不安なことがあると少女は、必ず壁を見て空想の世界に耽る。見たことも無い世界を描きそこへ浸ることが少女にとって唯一の楽しみであった。

 ただの逃げなのかもしれない。しかし、そうしなければきっと少女は早い段階で心を磨り減らし、生きる屍になっていたかもしれなかった。

 だが空想から戻ってくる度に嫌でも現実を突きつけられてしまう。

 壁によって閉ざされた世界。これが、自分が死ぬまで生き続ける世界なのだ、と。

 日が傾き、やがて夜が訪れる。

 床に入り、目を瞑り、そして眠りに入る。目が覚めたとき、きっと変わらない現実が待っていると分かっているのに、明日が今日よりも違う日であって欲しいと願わずにはいられなかった。

 

 

 ◇

 

 

 翌日。少女はいつものように目覚め、何気なく外を見たとき驚いた。昨日を遥かに上回る重武装の兵士たちが居た。

 誰も彼もが異様なまでに殺気立っており、まるで戦争を始める前のようであった。

 先に目覚めていた両親も外の異様な光景を見て、表情を蒼褪めさせている。

 ここ数日、兵士たちの様子がおかしかいことは分かっていた。自分たちの知らない所で一体どんなことが起こっているのか、不安に駆られる。

 

「お父さん、お母さん」

 

 不安気に両親を呼ぶ。

 

「今日も作業は中断みたいだ。お前はもう少しお眠り」

 

 両親は少女を安堵させるように優しく言うが、二人の言葉には隠し切れない不安があるのを少女は敏感に悟った。

 少女は言う通りに再び床に入るものの眠れなかった。

 ただ硬い地面の上で丸まって、時が過ぎるのを待つだけ。こういうときこそいつものように空想に耽る。

 頭に浮かべるのは見たことも無い壁の向こう側。そこにどんなものがあるのか、少女は乏しい知識を働かせながら朧気な形を創り上げていく。

 今日もこうやって時間が過ぎていくと思っていた。

 この時までは。

 切っ掛けは小さな異音であった。

 

 ガガガ

 

  地面に横になっていた少女だからこそ気付いた小さな音。砂が削れるような音。

  特に珍しい音では無かったので、少女は特に気にしなかった。

 

 ズガガガガガ

 

 砂が削れるような音が、次第に石が削れるような音に変わる。少女は音が気になり始め、耳を地面に押し当てた。

 

 ドガガガガガガ

 

 石が削れるような音が、今度は大地が削れていくような大きな音になる。耳がおかしくなければ、音の源がどんどん近付いてきている。

 地面の中に『何か』が居る。そう思った少女は、思わず両親に呼び掛けた。

 初めは空想癖のある自分の娘が、何か勘違いをしていると小さく笑っていたが、少女があまりに必死な様子で訴えてくるので、少女の父がしょうがないといった様子で地面に耳を当てた。

 

 ゴガガガガガガガガガ!

 

 大地が裂けていくような音を聞き、少女の父はすぐに耳を離す。少女の言った通り、地面の中で何か途轍もないことが起きている。

 言いようの無い恐怖が胸の中に湧き、そのせいか意識していないのに全身が震える。娘もまた自分と同じ心境なのか、体を震わせていた。

 と最初は思ったが、違う。カツカツと机の上で音を鳴らす食器。パラパラと上から落ちて来る埃。

 体が震えているのではない。家が地面ごと揺れているのだ。

 少女もまた地面の異変に気付き、このまま家の中に居るのは不味いと考えたが、もし外に逃げ出したとして緊迫状態にある兵士たちに何をされるか分からない。

 二つの恐怖で身が縮み上がっていく。詳細の分からない異変を杞憂と思い込み、家の中でじっとしているか、それともすぐにでも家を出るか。

 そのとき父が立ち上がり、母と少女の腕を掴み、外に連れ出そうとする。

 

「何が起こった後では遅い。安心しろ。兵士たちが何をしてこようと全部私が背負う」

 

 安心させるように微笑みかけてから、二人を引っ張って家の外に出た。

 その途端、兵士たちが一斉に少女たちに駆け寄っていく。

 

「貴様! 待機していろと命じていた筈だ!」

 

 陸竜に乗った兵士が怒鳴る。それに合わせて威嚇するように陸竜も低い唸り声を出した。

 

「何かおかしいんです! 地面の中で変な音がしますし、家が揺れているんです! もしかしたらとんでもないことが起きるかもしれない!」

 

 いつもならば兵士は奴隷の言葉を一笑し、手に持った鉄棒で立てなくなるまで打ち付けていたかもしれない。だが、このとき兵士たちは、少女の父の言葉で一斉に顔色を変えた。

 

「何だと……」

「それは本当なんだろうな?」

 

 兵士が少女の父に詰め寄ろうとしたとき、異変が起こる。

 普段は鳴き声一つ上げない陸竜たちが一斉に騒ぎ始めた。洗脳し、恐怖とは無縁の存在である筈の陸竜たちが、まるで何かに怯えているかのようであった。

 同時に激しく大地が揺れ動く。それは、少女が家で感じたときの比ではない。

 

「来たぞ! 『奴』が来るぞ!」

 

 少女たちは、何が起こっているのか分からずに戸惑っているだけであったが、兵士たちは何が起きているのか把握しているらしく全員腰に差してある剣を抜き、臨戦態勢に入る。

 そのとき突如揺れが収まる。すると風が無いにも関わらず、大地の上を砂埃が走っていく。

 兵士たちは、その砂埃の行方を自然に眼で追っていた。それほどまでに不自然に舞い上がっていたのだ。

 やがて砂埃がこの集落の中心地まで移動したとき、大地を裂いてそれは現れた。

 舞い上がる土と砂煙。砂煙が風によって吹き消されると、そこには見上げる程の巨体を持った生物が立っていた。

 巨体を支える二本の足は、大木の根のように太く逞しい。

 皮膜を持った一対の翼を持っていることから最初は竜かと思えた。だが、少女の知る竜とは異なる点がいくつもある。

 砂色の鱗――ではなく鉄板や鎧を彷彿とさせる艶消しされた外殻で全身を覆っており、背中には更に厚みのある甲で覆われている部位がある。

 尾の先まで覆われた頑強そうな殻。尾の先端は膨らみ楕円形になっており、見るからに凶悪そうな棘で覆われている。尾の先端だけでも人と同じくらいの大きさがあった。

 その竜の後頭部は盾のように広がった形をしており、尾の先端と同じく棘が生えている。別の角度から見ると襟飾りをしているようにも見えた。

 口は通常の竜とは異なり鳥類と似た嘴の形をしている。

 数々の異なる部位が目に入ってくるが、その中でも少女が最も注目したのは、竜の鼻先から伸びた一本の角であった。

 真紅に染まった一本角。まるで削り出されたような荒々しい外見をしているが、太陽の光が反射し生まれる紅の輝きは、宝石など見たことも無い少女にとって初めて美しいと思える美麗さがあり、未知の竜に圧倒され恐怖するべき場面に於いて放心し心ここにあらず、といった状態となってしまった。

 呆ける少女を他所に兵士たちは一瞬呆然としていたが、すぐに正気となり現れた角の竜を前にして威嚇するような怒号を上げる。

 

「出たぞぉぉぉぉ! 出たぞぉぉぉぉぉぉ!」

 

 その声が響くと同時に見張り台に立つ兵士が警鐘を激しく打ち鳴らす。未だに異変に気付いていない兵士たちに異常を報せる。

 

「こいつが集落を襲っていた奴か!」

「でかい……何て大きさだ……」

「怯むな! ここで引いたら祖国の誇りに泥を塗ることになるぞ!」

 

 口々に感情を吐き出しながらも、武器を構え続ける兵士たち。一方で角の竜は、兵士たちの殺気にも大して警戒せず、体を震わせて付いていた土や砂を払っていた。

 その呑気とも呼べる態度に舐められていると判断した数人の兵士たちが、跨っている陸竜の手綱を操り、角の竜に向かって一斉に走り出す。

 

「奴はここで仕留めろ! 壁の外に出すな! この場所を奴の墓場にしてやれ!」

 

 疾走する陸竜。鈍重そうな見た目とは裏腹に四本の脚が素早く動き、馬並みの速さで一気に距離を縮める。

 顎を開き、ずらりと並ぶ牙を見せる陸竜たち。接近して一気に喰らい付く考えらしい。陸竜の噛み付きは鉄製の鎧すらも貫通するほどの威力がある。

 体の汚れを払い終えた角の竜が、その視界に迫ってくる兵士たちの姿を捉えた。

 角の竜が体を翻し、兵士たちに背を向ける格好となる。すると体の動きに追従するようにその長く太い尾が振るわれる。

 

「え」

 

 間の抜けた声が最期の言葉となった。側面から角の竜の尾が叩き付けられると、その尾の棘が兵士とそれが乗っていた陸竜へと突き刺さる。勢いはそれでは収まらず、そこから隣にいる兵士を巻き込み、更にその隣の兵士すら巻き込む。

 尾はそのまま振り抜かれ、巻き込まれた兵士たちは宙へと放り出され十数メートル先にある壁に衝突。兵士三人と陸竜三匹は一つの肉塊となって壁にへばり付き、赤い軌跡を描きながらゆったりと壁をずり落ちていった。

 先程まで士気を高めていた兵士たちは、目の前に突き付けられた理不尽さすら感じる力を見せつけられ言葉を失う。

 強いということは何度も襲撃を受けていたことから知っていたが、いざ目の当たりにするとまるで夢でも見ているかのような馬鹿げた力であった。

 

(人ってあんなに飛ぶんだー)

 

 現実でありながら非現実的なものを見せられた少女は、そんな場違いな感想を抱きながら尾を振るった角の竜を見ていた。

 すると急に手を引っ張られ、体勢がガクンと崩れる。

 角の竜の登場で暫しの間呆けていた両親が正気に戻り、避難しようと娘の手を引っ張っていた。

 

「ここは危ない! 逃げるぞ!」

 

 父が血相を変えて言うが、少女はその言葉についこう返してしまった。

 

「逃げるって、何処に?」

 

 両親が言葉を詰まらせたのが分かった。

 仮に逃げ込む場所があったとしても、せいぜいこの集落の中にしかない。奴隷である自分たちは、この集落の外では生きられないのだ。

 集落の外に出れば、待っているのは別の危険である。ここに居ようが居まいが死しか無い。

 少女の父が何かを言い掛けた瞬間――

 

「うわっ! 何だあれは!」

「で、でけぇ……」

 

 悲鳴が上がる。他の奴隷たちが、外の騒ぎを聞いて痺れを切らしてつい外を見てしまったのである。

 突然現れた角の竜の存在は、瞬く間に奴隷たちに恐怖として伝播し、家の中で待機していた奴隷たちは次々と外に出て来る。

 

「お前らぁ! 中で待機していろと言っておいた筈だ!」

 

 この期に及んでも兵士としての職務を真っ当しようとしているが、兵士への恐怖も角の竜の存在感に掻き消され、誰も耳を貸さない。

 阿鼻叫喚となり一気に騒々しくなる場。

 これを疎ましく思ったのか、角の竜は地面の土を後方に蹴り飛ばしながら尻尾で地面を叩き、前のめりになって短く鳴く。

 何か仕掛けてくると警戒する兵士たちであったが、角の竜の前にそんな警戒など無意味。警戒するよりも先にこの場から逃げるという選択をすべきだった。

 鼻先の角を突き出す格好で地を蹴り付け角の竜が駆け出す。恐るべきことに一足で最速へと達し、二足目で兵士たちとの距離が零となる。

 巨体からは想像出来ない陸竜を上回る駿足。間を瞬時に詰められた兵士たちに為す術は無かった。

 角の竜に最も近い位置にいた兵士と陸竜に角の竜の真紅の角が突き刺さる。圧倒的質量と速度から繰り出される一突きは硬い筈の陸竜の鱗を容易く突き破り、更に騎乗している兵士を鎧ごと貫く。

 だが、そこで角の竜の速度は緩まらず、直線上にいる兵士と陸竜たちが次々に狙われていく。

 二頭目の陸竜を巻き込むが速度は緩まず。三頭目も巻き込むがまだ緩まず。四頭、五頭が同時に巻き込まれるが何一つ変わらない。遂には六頭目も巻き込まれる。

 六頭の陸竜。それに乗った重装備の六人の兵士を地面で削るように押し出しながら、そのまま奴隷の家に突っ込んでいった。

 粉砕される家。家の破片と一緒に飛んで行く兵士と陸竜。高々と打ち上がったそれは、やがて地面に打ち付けられ二度と動かなくなった。

 残骸と化した家に頭を突っ込む形となっている角の竜。頭を振り上げて、覆っていた残骸を取り払う。

 角の竜にしてみれば邪魔な物をただ除けたということに過ぎないが、周囲にいる人間らにとっては、人の頭よりも大きい土の塊や木の柱が空から降り注いでくるという脅威に映る。

 悲鳴を上げながら頭を抱えて逃げ惑う奴隷たち。兵士たちは逃げ惑うという無様な真似はしなかったが、立て続けに仲間が殺されて士気が一気に下がっていた。

 

「え、援軍は、援軍は無いのか!」

「援軍は……来ません。そもそも私たちがその援軍ですから……」

 

 焦る兵士に対し、消え入りそうな声で現実を話す蒼褪めた兵士。

 瓦礫を払った角の竜は次に、翼膜の付いた前足で地面を掘り始める。

 農具でも何度も耕さなければ柔らかくならない硬い地面に、一掘り、二掘りしただけで頭が収まる程の大穴を開け、そこから更に鼻先の角を巧みに使って堀進めていく。

 十秒もかからずに角の竜の体は穴に入っていき、唖然とする兵士たちや奴隷たちの前で最後に残った尻尾も地面へと入っていき完全に地中へと姿を消してしまった。

 初めに現れたときのように地中を潜行する角の竜。何処から来るのか神経を尖らせる兵士たち。奴隷たちは何が起こっているのか思考がついていかず戸惑う。

 騒がしかった筈のこの場に突然訪れる沈黙。

 すると――

 

「あっ」

 

 ――沈黙を破る少女の声。

 少女が見たのは地表から起こっている不自然な砂埃。それは、角の竜が現れた時の前兆であった。

 異様な速度で移動する砂埃を見て、角の竜が現れたときの光景が脳裏を過った兵士たちは、すぐに砂埃の直線上から逃げ出したが、角の竜が現れたときの光景を見ていない後詰めの兵士たちは、反応が遅れる。

 それが明暗を分けた。

 迫ってくる砂埃を見て逃げ出そうとする兵士たち。しかし、兵士たちに到達する寸前にそれが唐突に消える。

 虚を突かれた兵士たち。だが、それも地面を突き破って強襲してきた角の竜の一撃によって全て吹き飛ぶ。

 爆音のような音と共に地面が外側に向かって弾けるように散り、その周囲にいた兵士たちが陸竜ごとひっくり返る。

 その中で最も不幸なのは角の竜の真上にいた兵士であり、地中を突き破って現れた真紅の角で陸竜ごと体を貫かれていた。

 

『があ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!』

 

 即死には至らず、絶叫を上げる兵士と陸竜。二つの絶叫が混ざり合い、思わず耳を閉じたくなるほどの悲痛な叫びとなる。

 地面から飛び出した角の竜は、難なく着地すると勢い良く頭を振った。それによって刺さっていた角が抜け、振られた勢いのまま兵士と陸竜が見張り台へと向かって投げ放たれる。

 

「うあっ!」

 

 監視塔にいた兵士たちに降りる暇など無い。飛び降りようとも地上から十数メートルも離れているので咄嗟に飛ぶことも出来ない。

 どうするか迷っている内に、投げ放たれた兵士たちが監視塔の柱へと叩き付けられた。柱と陸竜に挟まれた形となった兵士は、当然即死。陸竜の方も全身を強く打ち付けられて、体の至る箇所が不自然な方向に折れ曲がっていた。

 その衝撃で支柱の一本が折れる。それによって監視塔のバランスは崩れ、地上に向かって倒れていく。

 

「うああああああああ!」

 

 監視塔に居た兵士が叫ぶが、周りはどうすることも出来ず、地面に叩き付けられると同時に監視塔は破壊され、砕けた残骸の中に消えてしまった。

 倒れた監視塔を見て立ち尽くしてしまう兵士たち。だが、角の竜はそんな兵士たちの感傷など一切介することなく、監視塔が倒れたと同時に動き始めていた。

 俊足を以って地を駆け、逃げる暇も与えずに接近すると、顎が地面を擦る程頭を下げたかと思えば、そこから上半身を上に向かって仰け反るとうに伸ばす。

 下から上へのすくい上げに数人の兵士たちが巻き込まれ宙へと打ち上げられる。まるで放られた小石を彷彿とさせる光景。

 しかし、十数メートルの高さにまで上げられた兵士たちに助かる術は無い。そもそも角の竜にすくい上げられた時点で、体中の骨がひしゃげ、内臓が押し潰される衝撃を受けており半死半生であった。

 空中で意識が無い者は幸運であった。少なくとも地面に落ちるまでの数秒間に味わう死への恐怖が無い。並み以上の精神がある者は不幸であった。どう足掻いても助からない現実を思い知らされながら、死という永遠に至るまでの短くも長い数秒間を体感するのだから。

 兵士の一人が、地面に落下する直前の兵士の顔を見てしまった。救いを求める血走った眼。何もすることが出来ず、瞬きをした後、その兵士は頭から地面に叩き付けられた。

 首や手足が直角に折れ曲がり即死であった。しかし、仰向けになったその顔は、目が見開いた状態であり、まるで他の兵士たちに、未だに救けを求めているかのようであった。

 度重なる無惨な死。それを目の当たりにして兵士たちは、二つの行動に別れた。

 

「無理だ……こんな奴、勝てる訳が無い!」

「嫌だ! 俺はもう嫌だぁぁぁぁぁ!」

「死にたくない! お、俺には家族がいるんだ!」

 

 一方は恐怖に駆られ、武器や防具を捨てて角の竜から逃げ出す兵士たち。彼らの大半は、兵役が浅いか、もしくは家族や恋人がいる者であり、大国に対しての忠誠心が薄く、戦いに於いて命を懸けられない者たちであった。

 

「逃げるな! 臆病者どもが!」

「こんな竜一匹がどうしたぁ! 我らが恥は、祖国の恥! 兵士としての名誉を守れ!」

「殺してやる! 殺してやるぞ! 貴様ぁぁぁぁぁ!」

 

 もう一方は、国に対し絶対的な忠誠を誓っている者たち、また角の竜に戦友や仲間を殺され、怒りと復讐に燃える者たちであった。

 手に持つ武器を固く握り締め、萎える所か昂った闘争心を見せ、逃げる兵士たちを罵りながら、角の竜と対峙する。

 そんな光景を離れた場所で息を殺しながら見守る奴隷たち。

 自分たちを虐げていた兵士が次々に殺され、無様に逃げて行く。状況が状況ならば、手を叩いて大喜びするか今までの鬱憤を晴らすかのようにを指差して嘲笑っていたかもしれない。だが、奴隷たちはしなかった。

 兵士を遥かに上回る重圧と恐怖を撒き散らす角の竜に完全に委縮していたからである。

 虐げられてきた故に、彼らは本能的にどうすれば相手を刺激しないのか分かっていた。それは、何もしないことである。逃げ出すことも戦うこともせず、相手が満足するまで好きにさせ、その間徹底して無抵抗でいる。

 卑屈とも呼べる対応。しかし、武器も力も無い彼らにはそうするしかなかった。それだけが一日でも長く生きる術であった。

 だからこそ彼らは物陰に隠れて息を殺し、路傍の石のように何もしない。今起こっている惨劇からも眼を背け、耳を塞ぐ。

 そんな奴隷たちの中で、唯一少女だけが角の竜を凝視していた。いつも思い描いている空想よりも空想のような現実の生物。

 生気が無く無気力とも言っていい大人たちに囲まれて生きてきた少女が初めて見た、生命に満ち溢れた存在。

 膨大な生命によって膨れ上がった巨大な体。それでも尚足りず、漏れ出した命は暴力となって兵士たちを蹂躙する。

 目を背けるような光景も、既に多くの奴隷たちの死を見てきた少女にとってある種見慣れたものであり、嫌悪感を覚えない。

 少女は、無意識に惹かれていた。正体不明の角の竜が放つ雄々しい生命という力に。

 眩さすら感じる角の竜の生命。そんな存在の前に立つのは、その何百、何千分の一ぐらいの輝きしか放たない兵士たち。少女には、それがあまりに矮小に見えた。

 あまりに広い両者の差。ここまでくると比較することすら烏滸がましく思え、角の竜の前に立つ兵士たちに同情すら覚えてしまった。

 角の竜の強い輝きに、束ねても劣る兵士たちのそれが呑み込まれるのも時間の問題であった。

 離れた場所から送られる少女の同情の念を他所に、力強く立つ角の竜に屈せず奮起する兵士たちが、それぞれの得物を構えて突撃していく。

 陸竜に乗っている兵士は槍を構え、陸竜の俊足によって得た速度を加えた突きを角の竜の人間で言う脹脛の部分を狙って突き出す。

 巨大な体躯を支える脚を傷付け、自由に動けなくさせようとする。

 槍の穂先が角の竜の足へと刺さる。かと思いきや、鉄製の穂先はそれ以上先に進むことはせず、それでも無理に刺そうするが、そのせいで槍の柄が大きく曲がり、限界を迎えて柄が音を立ててへし折れる。

 唖然とする兵士。最も柔らかそうに見えた箇所であったが、血を流させるどころか傷すら付けることも出来ない。

 いきなり破綻する戦法。

 角の竜は側面にいる兵士たちに目線だけを向けると、その状態から体ごと兵士たちにぶつかる。

 何の変哲も無い体当たりであるが、人外の瞬発力と驚異的な体格、圧倒的硬度から繰り出される体当たりは、人間という小さな存在には必殺に等しく、事実体当たりを受けた兵士たちは体を半分の大きさに圧縮されながら宙を吹っ飛んでいった。

 そこから先は、一が多を蹂躙するという光景であった。

 絶えず人や陸竜が宙に飛び上がり、あるいは壁に叩き付けられて原型を砕かれ、押し潰されて大地の一部と化す。

 砂地が血によって赤く染まり、場には咽る程の死臭が漂う。

 惨劇を前にして奴隷たちは、皆震え上がり、角の竜の矛先が自分たちに向けられるのではないかという恐怖に縮み上がっていた。

 数十分も経たずに大国の兵士たちは全滅してしまった。敵など居ないと思われていた屈強な兵士たち。だが、結果を見ればまるで羽虫のように角の竜を何一つ傷付けることなく一方的に潰されてしまった。

 最早この場に戦う力を持った者たちは居ない。もしかしたら逃げた兵士たちが援軍を呼んでいるのかもしれないが、それがあとどれくらいの時間で来るのかなど分からない。

 そもそも来たとしても兵士たちがこの角の竜に勝つ姿を想像出来なかった。ましてや自分たちのような奴隷など触れただけで消し飛ばされるのは目に見えている。

 そんなことを考えている内に角の竜の視線が奴隷たちに向けられる。

 はっきりと瞳の中に捉えられた奴隷たちはそれから逃れるように目を瞑り、全身を強張らせ、震え上がった。

 ただ一人、少女だけは角の竜の瞳を見返す。角の竜は何もすることはなく、あっさりと視線を外した。

 それを見て少女は理解した。

 角の竜は自分たちを見ているようで全く見ていない。

 蹂躙された兵士たちですら排除する敵と認識していたが、奴隷である自分たちは敵に見られていない。そこらに生えている雑草、あるいは落ちている小石、もしかすれば宙を舞う塵を見ているかのように自分たちの存在を全く認識していなかった。

 少女は兵士たちが抗っている姿を見たときちっぽけだと思った。しかし、角の竜によって自分たちは更にちっぽけな存在であることを突き付けられる。

 角の竜が何もしてこなかったことに気付き、喜ぶ大人たちがいる。少女も素直に命が助かったことを喜べば良かったのかもしれない。だが、そんな気持ちなど微塵も湧いてはこなかった。

 ただ悲しいと感じた。何故悲しくなったのか少女自身も言葉にすることは出来なかったが、自分の胸の奥にある何かが傷つけられたような気持ちであった。

 角の竜は、そのまま白い壁の方に向かって歩み寄る。

 何をするつもりか、と見ている奴隷たちの前で、角の竜は壁までの距離をある程度詰めると、地面を蹴り付けて駆け出し頭から壁に突っ込んだ。

 腹の奥底に響くような衝撃音が集落に響き渡り、あまりの音の大きさに奴隷の何人かは耳を押さえてしゃがみ込んでしまう。

 残りの奴隷たちは、角の竜が壁を壊す姿を見て立ち尽くす。

 

「無理だ……」

 

 奴隷一人がそう呟く。

 どんなに強靭な力を持っていようともあの壁を破壊することは出来ない。それが奴隷たちに長年染み付いた真理であった。

 事実、あの角の竜の体当たりを受けても壁が揺さぶられただけである。

 ――そう思っていた。

 

「あっ」

 

 少女が声を洩らす。

 角の竜が、頭を左右に強く振りながら壁から離れる。すると角の竜が体当たりした箇所には角の刺突によって穴が丸く穿たれていた。

 

「あ、穴が……」

「壁にあんな大きな傷が……」

 

 壁の強度を知っている奴隷たちは、あれ程深く付けられた傷を見るのは初めてらしく、信じられないといった様子であった。

 再び壁に向かって突進する角の竜。その度に壁に穴が穿たれていく。

 しかし、何度突進しても穴が増えるが、壁はびくともしない。

 壁の厚さの前に角の竜の力もあと一歩届かない。

 見ていた奴隷たちも最初の驚きから冷め、やはりという諦観した空気が戻っていた。

 少女は、何度も同じことを繰り返す角の竜をじっと見ていた。他の奴隷たちとは違い、あの竜ならば、という希望を消してはいなかった。

 だが、そんな少女の願いとは裏腹に何度目かの突進した後、角の竜は突進するのを止めて壁から離れていく。

 それはまるで壁を破壊するのを諦めた姿に見えた。

 

「やっぱりか……」

「あれでも無理か……」

「仕方ない。誰であろうと無理なものは無理なんだ」

 

 奴隷たちは、口々に諦めの言葉を吐く。

 少女は離れていく角の竜をじっと見ていた。本当に諦めてしまったのか、本当にこの壁を壊せなかったのか、本当に――

 そこで少女は考えを止めた。それ以上を考えることが出来なくなった。壁に向き直った角の竜の形相を見て、恐ろしさから思考が凍り付く。

 飾り盾のような頭部に赤い斑点がいくつも浮かび、口から洩れる鳴き声。

 一目見て理解した。角の竜が怒っていることに。自分の自由を妨げる壁に対し凄まじい怒気を向けていることに。

 向けられている訳でも無いのに、奴隷たちは角の竜の全身から発せられている怒気に触れて、誰もが口を閉じて怯える。仮にその怒気が自分たちに向けられるのであれば、人としての本能は恐怖で簡単に屈服し、それから逃れる為に即自害してしまうであろう。

 角の竜が足元の砂を蹴り払う。それは突進を繰り出す前の動作であった。

 顔を突き出しながら壁に向かって短く吼える。そして、内に溜まっていた怒りを全て力へと変換し、壁に向かって駆け出す。

 大地を踏み締める一歩一歩の重み。離れた場所で見ている少女たちにも伝わってきており、まるで小さな地震が連続して起こっているかのようであった。

 瞬時に最高速へと至った角の竜は、自らが傷付く恐れなど微塵も抱かず、最速を維持し続ける。頭部から胴体に掛けて体勢が直線となり、最大の武器である角は骨、甲殻によって支えられ、さながら一本の巨大な槍と化す。

 巨大かつ頑丈な体。それを支える為に発達した筋力。この竜にとっての武器はその二つであった。たった二つではない。この二つ以外不要なのだ。

 火を吐くことも風を吐くことも水を吐くことも必要無い。己の体こそが唯一にして最大の武器。

 角の竜は、その最大の武器を以って壁に全力を叩き付けた。

 更に増した速度から繰り出された突進。壁とそれが衝突し合った時、それによって生じた風が奴隷たち全員の顔に叩き付けられ、それに驚いて目を瞑ってしまう。

 やがて奴隷たちは風がおさまると閉じていた目を開く。目を瞑っていた時間はほんの数秒程であった。

 奴隷たちが見たのは壁に角の突き刺している竜の姿。数十秒前と変わらない光景。

 だとこの時、皆が思っていた。

 

「……崩れる」

 

 少女の言葉に他の奴隷たちが驚き、壁に目を凝らす。そして気付く。角の竜を中心にして蜘蛛の巣のように亀裂が生じていることに。

 角の竜は、角を突き立てた状態から更に地面を蹴り付けた。亀裂が更に増えたかと思った次の瞬間、角の竜の体が壁に沈む。

 直後、破砕音。轟音。崩壊音。様々な音を立てながら白い壁が壊れ、角の竜はその向こう側へとその巨体を消す。

 誰も言葉を発することが出来なかった。長年自分たちの自由を奪ってきたあの壁が壊されたことを受け入れることが出来ず、ただ呆然と立ち尽くす。

 しかし、そんな奴隷の大人たちを掻き分けるようにして少女が壊れた壁に向かって走り出した。

 両親が戻ってくるように叫ぶが、少女は止まらない。

 全力で、一秒でも早く、壁の向こうを見たかった。

 

「ああ……」

 

 壁があった場所に立つ。そして、そこから見えた光景に意味の無い言葉が洩れた。

 所々に生い茂った緑がある大地。ごつごつとした岩山。初めて見る形をした木。遠くの方で霞んで見える山々。そして、何処までも遠くへと広がっている青空。

 

(――こんなに広かったんだ)

 

 初めて触れる世界に対し、そんな言葉が少女の頭に浮かんだ。少女が想像していたよりもずっとこの世界は広かった。

 夢にまで見た景色。それに向かって歩み出そうと少女は壊れた壁を乗り越え――ようとしたが、何故か足が動かない。

 

(あ、あれ?)

 

 自分でも不思議に思ったが、どうしても前に進むことが出来なかった。

 少女自身気付いていなかったが、広い世界を目の当たりにして二つの感情を抱いていた。閉じ込められた世界しか知らない少女にとって何もかもが未知で埋め尽くされている世界は、憧れを抱くと同時に恐怖でもあったのだ。

 どうやっても動かない体。汗が流れ、口の中が乾いていく。ずっと憧れきたものが目の前にあるというのに動けない自分を情けなく思い、涙も滲んでくる。

 そんな涙でぼやけた光景にあるものが入り、思わず涙を拭う。

 数十メートル先を歩く角の竜。動けない少女を嘲笑うかのように広い大地を闊歩していた。

 どうすればあんな風に生きることが出来るのだろうか。

 嫉妬とも羨望とも言える感情を胸に抱いたその時――

 

 ギュアアアアアアアアアアアアアアア!

 

 遠く離れている少女が反射的に仰け反ってしまう程の咆哮が角の竜から飛んだ。

 空気が震え、遠くにいてなお耳元で放たれたかのように聞こえる大音量。体の芯から揺さぶられたような気がした。

 まるで世界に自分の存在を刻み込むかの如く、角の竜は鳴く。そして、満足でもしたのか地面に穴を掘り、角の竜はその中に消えていった。

 最初から何も居なかったような沈黙。夢でも見ていた気分であった。だが、間違いなくあの角の竜は存在した。少女の裡に木霊する咆哮の残響が何よりの証拠であった。

 少女が壁に向かって一歩踏み出す。少女の中に世界に対しての恐怖は無かった。あの角の竜の咆哮で何処かに吹き飛ばされてしまっていた。

 囲まれていた世界と広がっていく世界の境界に立ち、少女は大きく息を吸い込む。

 

「わああああああああああああああああああああ!」

 

 そして、角の竜に倣うかのように大きな声を上げながら広がっていく世界へと一歩踏み出した。

 少女の咆哮は、新しい世界で生きることを決意したもの。

 自分がここにいることを新たな世界に教える産声であった。

 

 

 ◇

 

 

 これより十数年の後、大国の横暴に対抗する反乱軍が現れる。

 赤い角を持った竜が描かれた旗を掲げ、大国に囚われた奴隷たちを次々と解放し自由を与えていく。

 そんな反乱軍を率いるのは、若く美しい女性であったと言われている。

 




無印ではオフラインでラスボスポジションであったのに、出番があんまり鳴く妙に影が薄い気がするモノブロス。
好きなんですけど、どうにもディアブロスに居場所を取られた感じですよね。

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