突如として現れた謎の竜。その実力は未知数であるが、竜の足元で無惨に砕け散っているフェエレドラゴンの頭部『だった』ものを見れば、実力の一端を感じられるであろう。
文字通り腐っていてもドラゴンはドラゴンである。それを軽々と屠ったこの竜を敵にするのは不味いと考え、ジンとエスタはこの場から撤退する準備を密かに進める。
「私があれの気を逸らすものを何体か作ります。合図を出したらあの少年を連れて逃げますよ」
「分かりました」
この時ばかりはいがみ合うのを止め、ジンは最適な案を出しエスタはそれにケチをつけずに同意する。
なるべく相手を刺激しないようにさりげなく、そして静かな動きで聖書からページを数枚抜き取る。
エスタの方は、待たせている少年の様子を見た。少年は現れた竜に目を丸くして驚いてしたが、刺激しないように口を手で押え、声が洩れないようにしていた。咄嗟とはいえ賢明な判断と言える。
このまま何も起きずに計画通りに進んでくれたら、そんな淡い思いは一人の人間によって脆くも崩れ去ってしまう。
「何者だ、貴様は!」
声を荒げる死操術師。よりにもよってことを起こそうとしていた最悪のタイミングで相手を刺激する。
(馬鹿なのか? 本当に馬鹿なのか? 空気を読め! 状況を読め! 死んでしまえ! 三流!)
(死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!)
声を出して罵倒してやりたいが、それが出来ない状況なので心の中でありったけ罵る。
そして案の定、剣の竜は死操術師の言葉に反応し、動き始める。
ギュオアオオオオオオオオオオオオオオオオオオ。
尾を地面に擦り付けながら咆哮する剣の竜。その大声量は思わず体が仰け反り、四肢が強張る。
今まで聞いたことも無いその咆哮にジンもエスタも言葉を失ってしまうが、それでも戦いの経験を積んできた二人はあることを見逃さなかった。大剣のような尾が地面に擦りつけられたとき、どういう原理か分からないが間違いなく、一瞬ではあるが炎が発生していた。
(この竜、もしかして魔術も扱えるのでしょうか?)
長年生きた魔物は人のように魔術を使えるようになることが稀にある。もしかして、目の前の剣の竜もその類かもしれないと考えた。だが不思議なことに、あの炎が上がったとき竜からは魔力の気配を感じることは無かったのだ。
「ふ、ふん! 吼えたところでどうだというのだ!」
剣の竜の咆哮に気圧されていた死操術師が逆に吼える。術師としてのプライドが目の前の竜に怯えることを許さないらしい。大した精神力とも言えるが、逆に危機管理能力が絶望的に低いともとれる。
この時、ジンとエスタは一分でも早くこの死操術師が死んでくれることを神に祈った。
「行けっ!」
術師の号令に合わせて死人たちが一斉に駆け出す。その動きはジンたちに襲い掛かった時よりも素早かった。その速さはジンたちも目を見張るものであったが、その動きの差の理由はすぐに分かった。
死人の足が地面を蹴り付けると同時にひしゃげる。走っていた死人が腕を勢いよく振った瞬間、その腕が肩から千切れ飛んでいく。走った衝撃で腐った腹が裂け、中から臓物が飛び出し、それが足に絡まって転倒する死人もいた。激しく動く度に体の一部が崩壊していく。
腐敗の度合いによるが死体は死体。生きていた時以上の動きをすればたちまち無理が生じる。死操術師は、それを承知の上で死人たちに無理な動きをさせていた。
消耗の激しい動きをさせていることから、表面上は強気であるものの内心では焦っており、先程の啖呵も虚勢であるのが分かる。
体を崩壊させながらも死人たちは一斉に剣の竜の体へ張り付くと、爪や歯などをその荒々しい皮膚に突き立てる。が、どんなに力を込めようとも顎が裂ける程力を入れようとも傷一つ付けることが出来ず、文字通り歯が立たなかった。
群がる死人たちを、体を震わせて振り落としていく剣の竜。
剣の竜の意識が死人たちに向けられている内に、ジンたちはこの場から離脱することに決めた。
「あの子を連れてとっとと離れますよ」
「分かりました」
エスタが子犬のように蹲って震えている少年を抱きかかえようとしたとき、周囲から青白い光が急に現れる。
下から上に向かって昇る光。間違いなく魔力による光である。目線を落とせば、地面には魔力によって描かれた魔法陣。見間違いでなければそれは転送用の魔法陣である。
「げっ」
思わず品の無い声を出してしまう。魔法陣から何が出て来るのか簡単に想像出来てしまった為のものであった。
案の定、青白く輝く魔法陣の中から腐敗した無数の腕が現れ、這い出るように魔法陣をその黒く変色した指先で引っ掻く。
一つの魔法陣から最低でも五体の死人たちが身を捩りながら出て来る。その際に腐った肉が擦れ合い、潰れていく音はエスタの嫌悪感を最大にまで刺激し、全身くまなく鳥肌を立たせる。
「性格は小物染みていましたが、魔術の腕はエン・ドゥウを名乗るだけあって中々のものみたいですね」
「この場に於いては最悪ですけどねっ!」
死操術と転送魔術の組み合わせを見て評価を改めるジンに対し、エスタの方は言葉を吐き捨てる。
さっさと少年を連れてこの場から去りたいというのに、行く手を阻む死人たちに八つ当たりとは分かっているが殺意が湧いてくる。尤も既に死んでいる相手にそんなものを湧かせること事態が冗句のようなものであるが。
エスタは少年を強く抱き締め、離れないようにすると最も距離が近い死人の頭部目掛けて脚を振り上げる。
小柄な体格をしているが柔軟な体を持つエスタは足を自分の頭を超える高さ程まで上げ、爪先で死人の側頭部を打ち抜いた。
金属製の靴先は死人の頭に深々と刺さる。エスタはその状態から爪先を抜かずに死人を地面に無理矢理倒しながら、爪先を引き抜く。
そして、目の前にある小石や土を蹴るような軽い仕草で足を振るうと、横たわる死人の腹に命中。そのまま片足で数十キロはある筈の死人の体を蹴り飛ばした。
球のように蹴り出された死人は他数名の死人を巻き込み、その衝撃で肉体が破壊される。後にはどれが誰の部位か分からない程混ぜ合わさった死体が残った。
だがこれでも召喚された死人たちの極一部を無力化したに過ぎない。周囲にはまだ動ける死人がうようよいる。
「まったく! 邪魔な人たちですね!」
死者への尊厳も無く吐き捨てる。最初のうちは可哀想などという情も抱いていたが、見た目やしつこさのせいでとっくにそんなものは無くなっていた。
口の端が裂けるほどの大口を開けた死人が噛み付こうとしてくる。エスタは一瞬腕が消失して見える速度で腕を振るう。
手の甲が死人の下顎に当たり、その部位が千切れ飛ぶ。その際肉片の一部がエスタに向かって飛んできたので、わざわざ少年を片手で抱きかかえてその場から跳躍して回避する。
大袈裟とも呼べる回避行動。死人の肉片が当たるのが不快だからという感情的な理由では無い。理由はもっと深刻である。
炎によって焼かれていない死体は疫病の温床である。地面に埋めて放っておくだけでも病を流行らせる。ましてや動く腐敗した死体など病が人の形を成したものといっても過言ではない。その爪や歯に傷付けられでもしたら、そこから病を発症する可能性が高い。体液も同様である。
傷は治癒の魔術によって治すことが出来るが、病は治癒の魔術では治すことは出来ない。病をうつされた時点で死と同義なのだ。
「すぐにそこから離れなさい!」
ジンの鋭い声が飛ぶ。回避に意識を傾けていたエスタは、そこで剣の竜に不用意に近付いていたことに気付く。距離として十メートル近く離れているが、あれほどの体格をもった相手には不十分と呼べる距離である。
剣の竜がその場から一歩後退する姿が見えた。それと同時に持ち上がる尾。何気無いその動きを一目見ただけで、エスタの頭の中で激しい警鐘が鳴り響く。
少年を抱えたまま駆けるエスタ。逃れる場所など何処でも良かった。一メートル、一センチでも剣の竜から離れることに集中していた。
剣の竜が前方に踏み込むと同時に体を反転させる。これにより纏わりついていた死人たちは体から振り払われた。そして、その長く鋭い尾は剣の竜の正面に向かって横薙ぎに払われる。構えから振るわれるまで瞬く間の出来事であった。
最初にジンやエスタは顔に砂埃や小石が当たるのを感じた。剣の竜とはそれなりに距離をとっている筈だというのに。それと同時に鼻腔を襲う腐った血のニオイ。
尾が振り抜かれたかと思った瞬間、剣の竜の正面にいた死人たちは消失していた。尤も完全に消えた訳では無く、尾が通過した場所には持ち主を失った脚の一部や腰から上の無い下半身が残っている。
消えた上半身は何処へ行ったのか。その答えは空から降ってきたモノが示していた。
水を含んだ布を壁や床に張り付けた時のような音が間を置かずに鳴り続ける。地面に横たわるのは無くなっていた死人たちの残りであった。
腹部から臓物を零し、その腸を意図せずに纏っている者。膝から下を失い立てなくなった者。腰から斜め上に切断され、残った片手で地面を引っ掻いている者。凄惨な光景が広がる。
振るわれた剣の竜の尾。その巨大さと重圧感から戦場で用いられる斬る為でなく叩き潰す為の剣を彷彿とさせる。しかし、実際の切れ味は並の剣を遥かに凌ぎ、熟練の鍛冶師が生涯を懸けて造り上げた名剣の如き鋭さがあった。
ジンはしっかりと見ていた。尾の刃に死人たちが触れた瞬間、まるで実体の無い煙か靄でも裂くかのように抵抗も無く死人たちの体を滑る剣の竜の尾。刃が通過し終えると斬り抜けた勢いで上半身がその場で舞い上がっていく光景が目に焼き付いてしまう。
恐ろしい。ただ恐ろしい。ただぶつけるだけでも軽々と人を殺せそうな尾に、凶悪且つ美すら感じてしまう刃が備わっていることに。振り抜かれた尾の刃に死人の腐った黒い血が一滴も付着しておらず、まるで達人のような太刀筋を恐らく修練では無く、生まれつき修めているこの竜に恐ろしさしか感じられない。
技ではなく常識外の力によって生み出される斬撃。それは何十年という血の滲むような修行をしてきた達人たちの非力さを嘲笑うかのようであった。
「くっ! ぐっ……! 貴様……!」
手駒の死人たちをあっさりと無力化されたことに憤怒の表情を浮かべる死操術師。だが、彼は顔を怒りで引き攣らせたまま小声で何かを唱え始める。すると今まで呻いていた死人たちの声が一斉に止まり、損壊していた死人たちも含め一カ所に向かって集まり始める。
剣の竜は、黙ってそれを見ている筈も無く咆哮を上げて集まろうとしている死人たちを薙ぎ払おうとしたが、それを妨害すべく新たに召喚された死人たちが剣の竜に向かって飛び掛かる。これにより剣の竜の攻撃対象は移ってしまい、その間にも死人たちは一カ所に集い、身を寄せ始める。
死人の一人が別の死人の顔に手を当てる。その途端手の皮膚と顔の皮膚が一体化し、溶け合わさるように繋がる。他の死人たちも同様に触れた箇所が融合し始めていた。
グチャグチャと潰れ合い、混ぜ合わせていく音。大量の死人たちが巨大な肉塊へと変貌していく。
短時間で集まった死人たちは一つの肉塊となった。だが、見た目は綺麗なものとは遥かかけ離れており、所々から手足が飛び出て、頭髪があちこちからはみ出ており、死人たちの顔が張り付けられているように外を見ている。
巨大な肉塊は蠢き、ぶちぶちと筋繊維を引き千切る音を立てながらいくつもに分裂していく。
分裂した肉塊から肉体の一部が伸び、それが手足などの部位を形成。人形〈ゴーレム〉の姿となった。
大量にあった死体も今では五体のゴーレムとなっていた。
「おえぇぇぇ……」
その姿にエスタは今にも吐き出しそうな声を洩らす。ゴーレムとは土、金属、水、木などの形あるものから火、雷、風といった形の無いものを使う場合もあるが、その中でも人を使ったゴーレムは見た目的に倫理的にも最悪の部類であった。
体中に付いた顔がギョロギョロと目を動かし、丸太のように太い手足からは材料となった死人たちの手足が突き出ている。そして何よりもその身から放つ悪臭。腐った血や肉、臓物のニオイはそれだけで病に冒されそうになる。
人の継ぎ接ぎで出来たこのゴーレムにはまず嫌悪感しか抱かないだろう。
「吐くなら見えない所で吐いて下さいね。これ以上気持ち悪いものは見たくないので」
「――吐くときは貴方の顔にぶちまけてあげますよ」
「そういう真似は需要のある方にして下さい。きっとお金が貰えますよ」
こんな状況でも互いに謗ることを止めない二人。尤も互いの顔は見ず、ゴーレムと剣の竜に注意を払って警戒は緩めていない。
地面を窪ませながら剣の竜に向かっていくゴーレムたち。材料に人を使っているせいか、その動きは滑らか且つ素早いものであり、嫌悪感を抱くが人の動きそのものであった。
迫るゴーレムたちへ、死人たちを薙ぎ払った時のように尾の剣を振るおうとする竜。その動きに反応し、並んで歩いていたゴーレムの一体が斬撃の軌道を遮る形で前に出る。
高速で振るわれたそれを避けることなく胴体で受ける。そのまま両断するかと思われたが、ゴーレムの胴体を三分の二程裂いた所で刃が止まった。
腐った死体を材料にしているせいで脆いと思われがちだが、圧縮され、固められた人間の肉は相当の頑丈さを持っており、衝撃への耐性、そして今のように斬撃への耐性も兼ね備えていた。
胴体に突き刺さる尾を抱き締めて動きを止めるゴーレム。
その間に接近した他のゴーレムたちが、動きを止められている剣の竜の体を殴る、蹴るなどして攻撃を加えていく。
一発一発が重い打撃音を出すが、剣の竜の鱗もその打撃に耐えられる程の硬度を持っており、ゴーレムたちの攻撃を集中して受けても鱗一枚割れはしなかった。
想像以上に頑丈な剣の竜。しかし、一方的に受け続ければどうなるかは分からない。仕掛けている相手はおよそ疲労などと言う言葉とは無縁の存在である。
剣の竜は何度か尻尾をうねらせて抜こうとするが数体で押さえつけられている為抜くことが出来ない。
すると剣の竜が短い咆哮を上げた。痛みによる苦鳴とは思えない、何かの前兆ではないかとジンとエスタの勘が囁く。それを肯定するかのように剣の竜の喉が赤く光り始める。
尾を突き刺しているゴーレムに向け、大きく口を開く。どれほどの高温に達しているのか口を開けた瞬間、そこから炎が噴き上がった。
そして、吐き出される赤色の粘液。ゴーレムはそれを頭から被ってしまった。
ジンたちは、それを始めただの粘液だと思っていたが、すぐに思い違いだということを気付かされた。粘液を被ったゴーレムが燃え始める。元から赤いのではない。高温によって赤く染まっているのだ。
「よ、溶鉄!」
高熱を発し、粘るようにして垂れていくそれを見て、エスタはそれを溶かした鉄だと判断した。
ゴーレムを燃やしながら垂れていく赤熱した粘液。ある程度までゴーレムを包み込むと、一瞬だけ膨れ上がった後爆発した。
後に残るは上半身を爆砕されたゴーレムだけ。
ジンとエスタは唖然とするしかない。尾の剣ですら厄介なのに更にあんな能力まで持っているなど悪夢でしかない。
ゴーレムが一体機能しなくなったことで尾を拘束している力も緩み、剣の竜が先程のように尾を強く揺さぶると他のゴーレムたちの手が離れ、突き刺さっていた胴体を裂きながら尾を引き抜く。ゴーレムを斬った尾は血と脂によって汚れており、明らかに斬れ味は落ちている様子であったが、例え斬れなくなったとしても鈍器として十分脅威である。
未だに殴り続けているゴーレムに頭部を叩き付けて突き飛ばしながら、抜けた尾で地面を擦る。すると尾と地面の間に激しい火花が散り始める。
その場で体を丸めるように身を捩り、力を溜めると擦りつけていた尾を弾くようにして斬り上げる。火花は大きな螺旋を描く炎をと化し、射線上に立っていたゴーレムを焼くと共に木に叩き付ける程の勢いで吹き飛ばした。
「火の精の加護でも受けているのですか? あの竜は……」
溶けた鉄を吐くだけでなく、魔法剣士のように剣撃から炎を生み出す様を見て、思わずそう呟いた。規格外の体格や力だけでなく多彩な技。理不尽の一言に尽きる。
死操術師の方もジンらと同じ心境らしく、次々と見せる圧倒的力に口を半開きにしている。だが、すぐに意識を戻し、高笑いを上げる。それは自らを鼓舞させる為のように見えた。
「くく、ははは、はははははは! まさかこの様な場所で私の本当の切り札を出すことになるとはな!」
半ば自棄を起こしている死操術師は、怒りを織り交ぜ殆ど絶叫に近い声で詠唱を唱え始める。すると空中に魔法陣が浮かび上がった。
「滅しろ! 化け物め!」
叫ぶと同時に魔法陣から現れるのは船の舳先。続いて所々に穴が開いた船体と破かれたマストが現れる。マストの頂上には穴が開いたせいで半分になった髑髏のマークが描かれていた。
船は魔法陣から出ると、そのまま落下せず船底に青白い靄のようなものを出して、その上に乗り宙に浮いていた。
「海賊船!?」
一目見た印象はそれであった。
「いえ、違いますね」
だが、それをジンは否定する。するとその直後、漂ってくるニオイ。エスタは最初に嗅いだとき海のニオイと錯覚したが、ニオイの密度が濃くなるにつれて別のニオイも混ざっていることに気付く。何かが腐っている腐敗臭。しかもこの腐敗臭は記憶に新しいものであった。そのニオイにエスタは鼻を押さえる。
「あれは幽霊船ですよ」
ジンが船底に漂う靄を指差す。エスタが靄に目を凝らすとすぐに呻いた。
漂う靄かと思われたそれは無数の人間の顔の集まりであり、絶えず蠢いていた。どれもが苦悶に満ちた表情をしており救いを求めるように声なき声を上げている。
「本当に性根は三流の悪党の分際で、腕だけは一級品のようですね。いや、外道だからこそこの術と相性が良いのかもしれません」
褒めつつも貶しながら、宙を走る幽霊船に嫌悪の眼差しを向ける。
物に魂を宿らせる方法は然程難しいものではない。宿らせる対象に宿らせたい者の一部を埋め込めばいいだけである。
だが死操術になると話は変わってくる。この術の外法と呼ばれる所以は、操る魂に対し道を外れた行いをする点にある。逃れられない苦しみ、痛みを延々と与え続けることによって魂を怨みと憎しみに染め上げ、それを力へ変える。
今、目の前の幽霊船こそまさにその外法そのものである。船自体に救われぬ魂を縛り付け、それが放つ力によって自在に動いている。
エスタは気付いてはいないが、恐らくあの船の中には隙間も無く埋め尽くされているであろう。
幽霊船に縛られている魂たちの骸が。
「くふ、くはははははは! これこそ我が最大の切り札! その力は例え竜種であろうと葬ることが出来よう! 私に恥をかかせ続けた忌々しい存在よ! ここで呪い殺されよ!」
死操術師の言葉を号令にして、船体を突き破りながらいくつもの砲塔が現れる。その砲口全てが剣の竜へ向けられていた。
砲塔から砲撃が放たれるが、それは普通の砲撃とは大きく異なるものであった。炸裂音の代わりに絶叫のような声が響き、放たれたのは砲弾ではなく人の顔が集まって出来た半透明の球状の物体。
得体の知れないそれを受けるのを避け、剣の竜は大きく後退する。外れたそれは地面に着弾。地面を抉るなどの破壊は無かったが代わりに火柱のように地面から伸び上がり、それぞれの顔が怨嗟の言葉を吐き続ける。
「うぷっ……」
聞いているだけで魂が穢されそうな声に影響を受け、エスタは吐き気を覚える。
幽霊船から放たれたのは捉えている怨霊を砲弾とした高密度の呪いである。声を聞くだけで呪い等に耐性を持っている教会の人間に影響を与えるとなれば、直撃すれば一瞬にして魂を呪い尽し即廃人となるであろう。
「撃て撃て撃て撃てぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
口角泡を飛ばしながら幽霊船に指示を飛ばす死操術師。幽霊船の砲はすぐに向きを修正し、追撃の砲撃を剣の竜に放つ。
最初のうちは回避していた剣の竜であったが、砲撃の数に徐々に逃げ場を狭まれていく。
そして、その時は来た。
一発の呪いが剣の竜の胴体に直撃する。それによって止まる足。動きが止まった隙を狙い雨のように呪いが降り注ぐ。
「ふはははははは! 呪われろ! 壊れろ! 穢れろ! 後悔しろ! この私を敵に回したことを!」
初めて損傷らしき損傷を与えたことに死操術師は高揚し、意気揚々とした声を上げる。
だが、この時死操術師は勿論のことジンやエスタも思い違いをしていた。
「ははははははは――はっ?」
降り注ぐ呪いの中で剣の竜は身悶えすることなく動き始める。幾百の怨念は剣の竜にとって足を止める障害にすらなっていなかった。
彼らは知らない。弱肉強食の世界に身を置いてきたモノにとって、たかが死者の声がどれほど無意味なものかを。根本的な精神の構造が違う。彼にとって脅威となるものは自分よりも強い存在、即ち生あるモノのみ。
彼らは知らない。彼が自らの力を高める為にどれだけの生を糧にしてきたのか。その剣でどれだけの死を積み重ね、どれだけ流れる血で自身の剣を磨いてきたのかを。
生きたモノへの恨み、憎しみ、死んだモノの声など羽音にも劣る雑音。耳を傾けるだけ無意味。ただ耳障りなだけに過ぎない。
故に剣の竜は怒る。しつこく不愉快な音を聞かされることに。
この音の源を断ち切らねばならない。
咆哮。
音がまるで暴力のようにジンらに叩き付けられる。生物としての本能がその一声を耳に入ると同時に、神経が細胞に恐怖を伝播させ、それにより屈服し許しを乞うように身を縮めさせようとする。
特殊な訓練を受けているジンとエスタすら反射的に体を丸めてしまいそうになるが、意図的に恐怖を遮断させる術を心得ている為寸でのところで耐えることが出来た。一方で死操術師は、その咆哮に耐え切れず頭を抱え、その場でしゃがみ込んでしまっていた。
何より最も影響を受けていたのは剣の竜に纏わりついてした死霊、怨霊たちである。何も守るものが無い剥き出しになっている魂に圧倒的恐怖をぶつけられた瞬間、苦しみ、恨む顔らがどれも恐れに染め上げられ、散り散りになって消えていってしまった。
見ようによっては囚われの魂が浄化されていったようにも見えるが、少なくとも消える直前の表情は決して救われた者がする表情ではない。
咆哮を上げた剣の竜の全身に光る、張り巡らされた血管のような筋。口からは黒煙が吐き出され、風に乗って運ばれたそれは煤のような焦げたニオイがした。
剣の竜はその尾を地面に叩き付けるように擦る。それも一度だけでなく二度、三度と。
青みがかっていた筈の剣の尾が、擦る度にその色を変えていく。その際に巻き起こる風がジンらの顔を撫でる。
最初は温く、次に暖かく、最後に熱く感じる。
擦り終えた尾は燃え盛る炎と同じ紅蓮色に染め上げられていた。同時に纏わりついていた血と脂が高熱によって焼き尽くされている。
火とは古くから穢れを清め浄化の力として考えてられていた。事実、怨霊化した魂などは火やそれが放つ光などを嫌がる傾向にある。だが剣の竜が宿した炎は清めるなどという生易しいものではなく、浄化、救済という優しいものでもない。
爛々と橙色に輝くそれは万物を断ち切る力を剣の形に押し固めたようであった。
剣の竜の眼光が空を飛ぶ幽霊船に向けられる。その目に恐怖と同時に悪寒を覚えた死操術師は、慌てて幽霊船をもっと高い場所に移動させようとするが、判断した時には既に手遅れであった。
剣の竜が立っていた位置から数歩下がる。そして、力を込めるように前傾姿勢となると元いた位置に向かって跳んだ。地面から一メートル程離れた低く短い跳躍であったが、その僅かな跳躍の時間に空中で尾を真上に上げながら体勢を百八十度回転。
天を突くようにして持ち上げられた剣の尾。赤く滾るそれが夜の闇の中で掲げられる光景は、まるで夜の闇が裂かれているように見えた。
跳躍が最高点に達し、落下し始めると持ち上げられた尾もまた振り下ろされる。
巨体の半分の割合を占める長い剣の尾は、地上から十数メートル上に停滞している幽霊船の胴体部へとその刃先を埋めた。
木で出来た胴体部は刃に触れると燃え上がり、隙間から死霊たちの絶叫が溢れ、夜の空に木霊する。
アツイ! イタイ! クルシイ! タスケテ! ダレカ! ダレカ! イヤダ! ヤメテ! ヤメテクレ! アアアアアアアアアアアア!
男。女。子供。老人。あらゆる声が混じった叫び。死して囚われたモノたちが救いを求め縋るように叫ぶ。
だがそんな声に剣の竜は微塵も揺るがない。そもそも最初から彼の行いは救いでは無い。ただ断つ。ただ斬る。ただ屠る。自分の行く手を遮るモノ、即ち敵を。
刃が胴体部半ばまで到達する。跳躍も終わり地面に両足が接着し、力を込められる体勢になった瞬間、船一隻を尾一本で空から地面に引き摺り落とす。
剣の竜の剛力に船体が悲鳴の如き軋みを上げながら地面へと叩き付けられる。
体が浮き上がるのではと思える程の振動がジンらの足元へと伝わり、視界が遮りそうになる程の土煙が舞う。この状況下で剣の竜から視線を逸らすことは死に等しい。目を凝らし、邪魔な土煙越しに剣の竜の動向を窺う。
地面に叩き付けられた幽霊船は見事に両断され、その中身を外へ零す。中身については悍ましいの一言であった。最初は何か分からなかったが、その色とニオイから何かすぐに理解する。船体の中に限界まで納める為であろう。彼らは原型を留めない程に『加工』されていた。
だが哀れな犠牲者たちのなれの果てに慈悲の心を向ける余裕は今のジンたちには無い。既に剣の竜が動いているからだ。
幽霊船を真っ二つにした剣の竜は、尾を引き抜くとそのまま体を丸め、尾を口の前に持って来る。未だ灼熱を帯びた尾に躊躇いなく噛み付き、牙を立てた。
その行為を見た時、ジンとエスタは胸元に冷たいものが通り抜けていくような錯覚を覚える。彼らが立つ位置は、幽霊船を挟んで剣の竜の向かい側。距離は十分に取っていると認識しているが、体が震える。
ジンは聖書から十数枚紙片を破り取っていた。冷静な判断からくるものではない。気付けば握り締めていた、という本能的な行為であった。
剣の竜は尾に噛み付いた構えから尾を振り抜こうとする。当然、牙で止められている尾は動かない。力は解放を求めるがもう一つの力がそれを阻む。その拮抗は牙の隙間から飛び散る火花という形で現れていた。
発せられない力が尾の中で蓄積されていく。
爆発寸前の力。それを前にして舌を噛まず、もつれることもせずに詠唱を唱えられたことは奇跡だと思いながら、ジンは力を込めた紙片を目の前に放る。
紙片は空中に張り付き、そこから白い光を出して他の紙片と繋がり、ジンたちの前に障壁を創り上げた。
紙片の結界は竜種のブレスすら防ぐほどの防御力を誇る。これで何とか守りを固めようと考えたジンであったが、結果的にこの判断は浅慮と言えるものであった。
金属が擦れ合う音が断絶せずに聞こえる。それが剣の竜が力を溜めていることを示すものあったが、それがまだ聞こえているうちは――
音が消え、世界が朱い線によって裂かれた。
――少なくともエスタにはそう見えた。
剣の竜の牙が刃から離れた瞬間、解放された力は剣の竜の巨体を振り回しながら進み、前方にある両断された幽霊船を更に真横に斬り裂きながら吹き飛ばす。残骸と化した幽霊船は四散し、辺りに散っていく。
救われない魂の哀しみも、苦しみも、嘆きも、恨みも、怒りも、穢れも、後悔も、執着も、諦めも、弱さも、強さも、抜けば断ち切る鉄火の刃。
幽霊船を斬り飛ばした剣の竜。しかし、その動きはまだ止まらない。船の残骸を踏み締め、旋回しながら振るわれる刃。その先端がジンの張った結界へと届く。
切っ先が結界に触れる。抵抗は刹那。破壊は瞬く間であった。
刃が結界へ沈み、斬り裂く。あろうことか只の力技で術による結界が裂かれていっているのだ。それは理をも超える力であった。
結界が裂かれていく光景がジンにはひどくゆっくりと見えた。要となっている紙片が力に耐え切れずバラバラになり、他の紙片への負荷が増すと連鎖して破れ散っていく。それを見ていたジンは、自分はここで死ぬというのを確信した。してしまったのだ。
灼熱の刃がジンを二つに裂く――直前、後ろから押し倒され地面に顔から着地。首筋に刃が通り過ぎていった時の熱を感じる。
痛みや怒りよりも自分が助かったことをどこか呆けた気持ちで実感し、目線を落とすと腰に抱き着いているエスタの姿を見つけた。
彼女に助けられたらしい。
エスタは朱い線が見えたと同時に、ジンに飛び掛かっていた。身に染み付いた本能的行動。ジンが術者として無意識に動いたように、エスタは戦う者として無意識に動いていた。
そして、この行為は結果的に正解であった。
解き放たれ、船が完全に破壊され、結界が破壊されるまでの一連は一瞬の出来事だった。
「はぁ! はぁ! はぁ!」
心臓の鼓動が今まで体験したことがない程早く鳴る。このまま止まるのではないか、と思ったがそれはそれで救いのある終わり方だとジンは考える。少なくともこの恐怖から逃れることが出来るからだ。
頭上を通過した尾が徐に持ち上げられる。このまま叩き付けられるかと思ったが、そうはせずに剣の竜は再び口の前まで尾を持ってくる。
灼熱を帯びていた筈の尾の刃は、すっかりと冷えており、煤を纏った刃からは輝きが失われていた。
明らかに斬れ味が落ちていると思ったが、剣の竜はそれに牙を立てるとそれを滑らし、あろうことか尾を研ぎ始める。
鍛冶師が竜にでも転生したのか! と叫びたくなるが、気まぐれとはいえ僅かながら時間に猶予が出来た。一秒でもあればこの場から逃げ出す準備に取り掛かれる。
結界を張る時に意図的に一枚だけ手元に残していた紙片。それを使えば――
(あ、あれ? こ、これは?)
折ろうとした指先が激しく震えていることに気付く。指だけではない、手も腕も震えている。ジンはこの時初めて自分の全身が震えていることに気が付いた。
(は、早く、動かさなければ! 早く! 早く!)
焦ろうとも指は上手く動かない。
彼は見て見ぬ振りをしているが、彼は既に剣の竜の恐怖に呑まれていた。
僅か数十センチ上を通過していった刃。耳に残る風切り音。体に触れていった風圧。肌の表面を炙っていった熱、その僅かな情報でジンは剣の竜の恐ろしさを、絶望的な差を十二分に感じ取ってしまった。
彼が臆病だからではない。教会の名の下に戦ってきた者だからこそ、多くの経験を得ているからこそ理解してしまう、勝てないという事実。
彼の魂〈こころ〉は、既に剣の竜によって斬られていたのだ。
心と体が斬り裂かれている故に体が上手く動かない。どんなに気を確かに持とうとも裂かれた傷は深く、繋がらない。
剣の竜は、その間にも刃の汚れを研ぎ降ろしていく。激しく散っていく火花から何度も研ぎ直す必要が無いことは明白であった。
研ぎと共に削られていく時間。狭まる可能性。消え行く命。だが、それでもジンは恐れに打ち勝てない。震える指先で紙を折れない。
その時、腰にしがみついていたエスタが一層強く抱き締めてきた。
(こんな時に……)
掴む手から伝わってくる震え、自分と同じ恐れを抱いているのが分かる。
(――全く)
同時に感じるエスタの熱。自分以外の命がここにあるという証。
(馬鹿らしい上に――)
思い返せば彼女が飛び掛からなければあの斬撃で死んでいた。非常に不愉快な話ではあるが、彼女に一つ借りが出来ているということである。
(腹立たしい!)
彼女に借りを作ったままでは死ねない。このまま死んだら彼女なんぞに借りを作ったという不甲斐無さから死霊へと堕ちてしまう。
(全く腹立たしい!)
指先の震えが止まったことも、生きる気になったことも、単純な自分の何のかもがジンには腹立たしかった。
尾を研ぎ終えた剣の竜が地面に伏しているジンたちに鼻先を近付けていく。ある程度まで近付けると、敵と判断したのか牙が並んだ口腔を見せる。
ジンは目の前に突きつけられた牙を真正面から見ながら、右手に持っていた紙片に左手を一閃させると、長方形の紙片が一瞬にしてその形を変わる。
完成したそれを素早く上に向かって放り投げる。投げられたそれは高く上がり、丁度剣の竜の目線の高さの位置にまで上がった。
直線が鋭くジグザグに折れ曲がった形。すなわち稲妻の折り紙。
「あなたにプレゼントです、お嬢さん」
ジンが気障な台詞を吐くと同時に、夜の闇が真っ白に染め尽される閃光が奔り、四方八里に雷鳴が轟く。
間近でそれを受けた剣の竜の眼は灼かれ、耳は轟音によって麻痺させられる。
視覚と聴覚を封じられた剣の竜は身を捩り、その場で暴れ始めた。
尾を無茶苦茶に振り回し、狙いなど一切定めていないが、それでも触れればただでは済まない。
ジンは、エスタを腰に付けた状態で素早く立ち上がり、尾が近くの大木を薙ぎ倒している瞬間を狙って離脱する。
走り出す際にエスタの服の腰部を掴み持ち上げる。その際に悲鳴を上げられたが無視した。
その時、視界の端に死操術師が身を翻して走り去る姿を捉える。手持ちを全て出し切り通じなかったのでこれに便乗して逃げるつもりらしい。
ジンは、懐から聖書を取り出す。
「ああ、目が……」
「何時まで運ばれているつもりですか?」
チカチカする目を擦るエスタ。前置きも無くジンが力を使ったせいで、エスタも光を見てしまい視界が一時的におかしくなっている。
光が点滅し、網膜に点々として残るが見えないこともない。涙を流しながら何度も瞼を瞬かせた彼女が最初に見たのは、懐に聖書を戻しているジンの姿であった。
「いい加減一人で走って下さい。重いんですよ」
「失礼なっ!」
相変わらずの憎まれ口に気を害しながらも、助けられた手前強く出ることが出来ない。
さっさとジンにしがみついていた両手を離すと、ジンも服から手を離し、エスタは地面に着地と同時にジンと並走する。
「あの竜は?」
ジンが答える代わりに後方から剣の竜の咆哮が聞こえてきた。声の大きさからして大分距離が開いている。
「死操術師はどうしました?」
「逃げました」
「はあ!? そんな簡単に!」
「でも、まあ、多分問題無いと思いますよ?」
「どういうことですか?」
「それは――」
言い掛けたジンはそこで急停止する。エスタは、立ち止まったジンを咎めようとしたが、彼女もあることに気が付いて足を止めてしまった。
「あの子が――!」
◇
ほぼ同時刻。
死操術師は、ローブを激しく揺らしながらはただ走り続けていた。突き出した木の枝にローブが引っ掛かって裂けても、顔に蜘蛛の巣が張り付いても、全身を汗で濡らしながらも、脇目も振らずに逃げ続ける。
こんな筈では無かった。その言葉が逃げる彼の頭の中でぐるぐると回り続ける。
いつものように材料となる死体や魂を集め、それによって自らの術の精度を高めて力を付け、いずれ魔術の歴史に自分の名を刻み込む。それが当たり前のことだと思っていた。
だが、結果として彼は今、無様に逃亡している。
培ってきた技術も高めてきた魔力も溜め込んできた戦力を全て注ぎ込んでも、あの剣の竜には勝てなかった。そのせいで逃走の為の魔力も無くなってしまい足を使って逃げる羽目に。
しかし、魔力が無ければ彼は中年の男性とほぼ変わらない体力。寧ろ研究ばかりしていたせいで体力も筋力も並以下と劣っている為、限界はすぐにやってきた。
足がもつれ、右足で左足の踵を蹴ってそのままつんのめり、森の湿った土に顔から突っ込んでしまう。
口に入った土を吐きながら急いで立ち上がろうとする。
「がっ!」
悲鳴が上がった。右足首に鋭い痛みが走ったからだ。転倒の拍子に痛めてしまったらしい。
「あまり無理して立たない方がいいよ。きっと捻挫している」
頭上から声を掛けられ、ビクリと全身を震わせながら、死操術師は上を見上げた。
地上から数メートル程の高さにある木の枝に誰かが腰掛けているが、暗闇のせいではっきりとした姿は見えない。ただ、声の高さからして少年だということが分かる。
「な、何者だっ!」
「そう怯えなくていいよ。僕は君に危害を加えるつもりはないから」
声を上擦らせる死操術師に対し、宥める少年の声は年不相応の落ち着きがあった。
「本当だったら関わらないつもりだったんだけどね。でも、エン・ドゥウなんて名乗っているからどんな人か気になって、気になって」
「そ、そうだ! わ、私は偉大なる魔術師、エン・ドゥウだ! こんな場所で! こんな目に遭うなど間違っている!」
すると、その言葉を聞いて少年は鈴の様な声で笑う。
「何が、何が可笑しい!」
切迫している状況下で、少年の笑い声は死操術師の余裕を容易く剥ぎ取る。
「あはははは。ごめん、ごめん。奇遇だなって思って。だって僕も『同じ名前』だから」
「……え、あ?」
少年が最初言っていることが理解出来なかった。一秒、二秒と呆然とした後、走ってかいた汗とは違う、冷たく重い汗が全身から噴き出る。
「いや! 馬鹿な! 嘘だ! そんな筈は! そんな筈は!」
突き付けられたことを全力で否定する。認める訳にはいかない。認めてしまえば更なる窮地に追い込まれることとなる。
「嘘か本当かは君が決めていいよ。どっちにしろ、いいじゃないか。世の中エン・ドゥウと名乗る人はたくさんいるんだ。一人ぐらい増えたって大したことじゃないよ」
皮肉を混ぜた冗談。笑えなどしない。死操術師は、その声を聞く度に心臓が潰されて行く様な緊張を強いられていた。
嘘だと願いたい。だが、エン・ドゥウは命を統べる術を極め、死者の蘇生は勿論のことだが自分自身を不老不死に変えたという伝説もある。
もしかしたら。そう考えてしまった時点で、ただでさえ罅割れている心に、それが恐怖となって染み込んでくる。
「わ、私をこ、殺すのか? 勝手に名乗った不届き者として!」
「最初に言ったじゃないか。僕は君に危害を加えないって。それに――」
木々が激しく擦れ合う音。落ちた枝が纏めて折れる音。そして、耳にこびりついているあの咆哮。
「それは彼、いや彼女かな? まあ、どっちでもいいか。兎に角向こうの役目だから」
「馬鹿な! 何故!」
剣の竜が自分の後を追って来ている。あの閃光と爆音で視覚も聴覚もまともに使えない状態であったというのに、正確に自分を追って来たことが理解出来なかった。
「それ、お洒落だね」
闇の向こうから指を差される。何を言っているのか分からず、指差した方に目を向け、死操術師は驚愕した。
ローブの裾に突き刺さる紙で出来た一輪の花。慌てて抜き取ろうとするが、ローブに根付いた様に取れない。紙の花だというのに、花からは甘く、濃い芳香が放たれていた。
視覚も聴覚も使えない状況で剣の竜が辿ったのはニオイ。あの場には死体による腐敗臭と血のニオイが満ちていた。その中で紙の花のニオイは逆に浮き、更に移動していることから剣の竜の注意を引き付けた。
「教会の狗どもめぇぇぇぇぇ!」
ありったけの憎悪を込めて叫ぶ。夜に吸い込まれて消えていく声は、死操術師に無駄だと告げているかのような無情さがあった。
「でも別におかしいことじゃないよね?」
激昂する死操術師にとって少年の声は冷水のようであった。
「君だって力にモノを言わせて好きにやってきたじゃないか。まあ、その行為自体は否定しないよ。それは人の性の一つだから。でもね、世の中には順番というものがあるんだ。好きにやっていた君が今度は好きにされる側になった。そういう順番」
少年の諭す声が恐ろしい。突き放す訳でも宥める訳でも無く淡々と言葉を重ねている。
「だからさぁ、今起こっていることも受け入れようよ」
「ふざけるなぁ! 私は! 私は! こんな所で死ぬ器ではない!」
「それは僕じゃなくて向こうに言おうか」
今起きている現実を否定しようと叫ぶが、少年の対応は至って冷静であった。
「じゃあ、そろそろ僕は行くよ。巻き添えには遭いたくないしね」
「待て! 待ってくれ! あ、あんな怪物なんて相手に出来るか!」
「大丈夫、大丈夫。僕が昔見た『彼ら』に比べれば、まだ勝てる可能性があるから。頑張ってね。エン・ドゥウさん」
少年の体が闇に溶けるようにして消えてしまった。
少年が居た場所を呆然と見上げていたが、背後に聞こえる足音で我に返りすぐに逃げようとする。が、鋭い痛みが足首に走り前のめりに倒れてしまった。
それでも地を這い逃げようとする死操術師。
足音は段々と近付き、地面の振動が体に伝わってくる。
「私はここで死ぬような存在じゃない、そんなちっぽけな存在じゃない」
ブツブツと自分が如何に高尚な存在かを自分自身に言い聞かせる。傍から見れば現実逃避にしか見えない。
その間にも接近してくる足音。少しでも遠くへ逃げようと泥まみれになりながらも前に進む死操術師。
ふと、急に足音が止まった。
死操術師は、つい背後を振り返ってしまう。
そこで彼が見たのは、自分に向かって振り下ろされる巨大な刃であった。
◇
「はあ……ようやく帰って来られましたね」
「疲れました……」
薄汚れた格好をしたまま食堂の席に座るジンとエスタ。食堂に入った際に店主が一瞬顔を顰めたのが見えたが、金に物を言わせて黙認させた。
「大丈夫? お兄さん。お姉さん」
「……貴方は元気ですね」
二人の正面に座る少年を見て、エスタは羨望とも妬みとも呼べる視線を向ける。
少年を連れて来なかったのが分かったとき、ジンとエスタは探す、探さないかで意見を衝突させたが、間もなくして茂みの中から少年が姿を現した。
少年曰く、怖くなって先に逃げ出してしまったらしい。
状況が状況な為、その場でとやかく言うことは無く少年を連れて一目散に逃げ出し、村に戻って来た時には日が昇っており、緊張と疲労から空腹を覚えた二人は少年を連れて今に至る。
「ここはキノコ料理が美味しいんだよ」
「そうですか。店主」
店主を呼ぶと、メニューからキノコ関連の料理を適当に三人前ずつ頼む。
テーブルに置かれた水で喉を潤し、生還を実感するジンとエスタであったが、いきなり席の余った椅子が引かれ、そこに誰かが腰を下ろす。
「ここに居たか。探したぞ」
そして、詫びなどなくいきなり話し掛けてきた。その失礼な態度に抗議しようとするも座っている人物を見て、言葉を失う。
「あれ、エヌ君? どうしたの?」
「手を貸せ、爺」
唖然とする二人とは反対に少年は親し気に話し掛け、エヌは邪険に返す。
「な、な、な!」
「……ギルドのお偉い方とここで会うとは思いませんでしたよ」
冒険者ギルドの幹部の中で莫大な財力を以ってナンバー2と謳われている大幹部エヌ。それほどの大物がこの田舎町に現れとは夢にも思っていなかった。
「急だね。何か良いことがあったのかい?」
「四の五の言わずに手伝え。こっちに色々と借りがあるだろうが」
「うーん。それはそうだけど……」
困惑する二人などまるで眼中に無い様に話を進めるエヌ。
「ちょ、ちょっと待って下さい。いきなりきて何なんですか?」
「黙れ。五月蠅い。失せろ。消えろ。教会の飼い犬どもに一々説明する理由なんて必要か? 話す前に気付けないのか? ああ、すまん。そんな頭が無さそうなのは見て分かるな。見落としていた」
出会って一言目が罵詈雑言。いきなりのことにエスタは、ポカンとしてしまう。
「やれやれ。流石は冒険者ギルドの幹部。言動が粗野でいらっしゃる」
「犬に礼儀なんて見せたら馬鹿だろうが? 分かるか? 男娼みたいな面したてめえ」
無言でジンは立ち上がる。するとエヌもまた立ち上がり、互いに殺気立った視線をぶつけ合う。
「私が礼儀を教えてあげましょうか?」
「はっ。教えられるのか? 躾けられる側だろうが、お前らは」
「はいはい。兄さん。いきなり喧嘩腰はダメだよ」
そんな二人の間に割って入る人物。その人物にジンとエスタは更に驚く。
エヌと同格の大幹部エム。あらゆる情報を網羅し、全ての情報は彼に集まるとまで言われている。
「ごめんなさい。ジンさんとエスタさん。兄さんは人見知りが激しいので」
エヌに変わって謝るエム。だが、その言葉に二人は戦慄する。名乗っていないのに名前を知られていた。噂通りなら恐らく名前以上の情報も既に掴んでいるだろう。
「ご無沙汰しています」
「エム君も来たの? かなり大事なことが起きているのかな?」
少年に頭を下げるエム。二人の来訪に、少年は次第に事の重要性に気付き始める。
「長い時間を掛けてきたことで得た転機。これを大切にしたいと思っています」
コツコツと杖を突きながら現れた人物。もうこれ以上驚くことは無いと思っていたジンとエスタは、頭を殴られたかのような衝撃を受ける。
数多のギルドの頂点に立つ人物。王族よりも名と顔を知られているとまで言われた男、エクス。
ギルドの頂点たちが今この場に勢揃いしている状況は、悪い夢でも見ているかのようであった。
「エクス君まで来るなんて……よっぽど大事なことなんだね」
微笑を消し、年不相応な表情を見せる少年。
「ええ、出来ることなら――」
エクスは、一瞬だけ横目でジンとエスタを見た。
「ああ、そうだね。場所を変えよう」
「ありがとうございます。御二方、ここの代金は私たちが支払いますので、どうぞごゆるりと」
「え、いやちょっと待って下さい!」
「じゃあね。お兄さん、お姉さん」
少年が腕を掲げ、パチンと乾いた音を鳴らすと――
「……何で立っているんですか?」
「……そういう貴方こそ」
二人は揃って席に着く。
与えられた死操術師討伐の任を終え、祝勝を兼ねてこの食堂に食事をしにきていた。それは間違いない。だというのに何故か言葉に出来ないモヤモヤとした違和感を二人は覚えていた。
「はい。お待ち」
そこに店主が現れ、注文していた料理が席に置かれていく。しかし、二人はすぐに料理に手を付けず、並べられた料理を凝視する。
「……何で三人前何ですか?」
「さあ?」
三つずつ置かれた料理に二人揃って首を傾げるのであった。
ようやく後編を投稿しました。
次の話は、また本編に関わらない話となります。
MHXXも発売されて、新モンスターをどうしようかなーと悩んでいます。