「うああああああああああああああああ!」
仲間の絶叫を聞き、ネイたちは慌てて振り返る。見れば離れた場所に居るレオ。彼が掲げる松明によって白く長い得体の知れないものが闇の中から浮かび上がっていた。
「な、何ですか、あれは……?」
リヨナが声を震わせる。未知の存在への恐怖からくるものであったが、ネイもまた恐怖に震えていた。だが、彼女の恐怖は未知の存在に対してのものではない。
白く長い筒のようなものの先端が大きく膨れ上がっている。その膨らみが上に向かって移動していた。冒険者としてそれなりの実戦を熟してきた筈のレオの見たことも無い激しい取り乱し方、いなくなっているローグの姿。その二つを照らし合わせ、出てきた答えが頭を過った瞬間、胃が裏返ったかのような嘔吐感を覚え、その場で前屈みになってしまう。
悪夢のような光景だった。
遠くから見ているネイですらこうならば、間近で、それも身内であるレオであったのならばどうなるのか。
絶叫を上げ続けるレオの思考は白く焼き尽くされていた。ただ、ただ声を上げることしか出来ない。
実の兄が喰われたという事実を受け入れるには、あらゆる感情の量がレオの許容を超えてしまっていた。
叫ぶレオの前で呑み込まれたローグがゆっくりと昇っていく。
白く、弾力の有りそうな表皮にはいくつもの血管が透けて見える。そして、呑まれていくローグの姿もまた皮膚越しに見えた。否、見えてしまっていた。
半狂乱のレオは、呑まれていくローグと目が合う。いくら透けているとはいえ、ローグの姿は鮮明に見えている訳ではないので只の錯覚にしか過ぎないが、この時のレオにはそう映っていた。
――レオ……レオ……
こうなってしまったのなら次には聞こえない筈の兄の声が聞こえてくる。
――助けてくれ……苦しい……助けてくれ。
救いを求める兄の声。レオが自らの内に生み出した幻聴にしか過ぎないが、聞こえてしまったのなら、最早レオの選択は一つしかない。
「兄貴を返せぇぇぇぇぇぇ!」
絶叫がそのまま怒声へと変わり、手に持った鉄棒を筒状の物体の側面に叩き付けた。鉄棒を叩き付けられた箇所が鉄棒の形に凹むが、すぐに元の形へと戻り、その弾力性で鉄棒を押し返す。
返ってきた手応えにレオは違和感しか覚えなかった。骨などの芯に全く届いていない。液体でも殴りつけたような手応えの無さ。あれほど燃え盛っていた憎悪や怒りから一瞬我に返ってしまう程不可思議な感触。
だが全く無意味に終わった訳では無い。下に向かって垂れていた筒が、その先端を持ち上げるという動きを見せた。
正面から見せつけられた顔にレオは言葉を失う。
目が無い。鼻が無い。耳が無い。唯一あるのは顔の幅一杯に広がる赤い唇だけ。白い肌と対照的な色合いのせいで唇だけが嫌に鮮やかに見えてしまう。
閉ざされていた唇が開く。糸を引く唾液。それに濡れて光る剥き出しの歯茎とそこから生える不揃いの牙。その奥では唇と同じ赤い舌がうねっていた。
なまじ人と近い構造をしている為、生理的嫌悪が凄まじい。怒りで震えていた筈の身体から嘘のように熱が消え、本能を揺さぶるような怯えによる震えが、怒りの震えを上書きする。
見たことも無い生物。味わったことも無い恐怖。レオには目の前の生物がこの世のものとは思えなかった。
「このっ……悪魔がっ!」
まるで御伽噺や小説に出てくる悪魔を連想させる。
異形の姿に呆然としていたレオであったが、すぐに我に返り、手に持っていた鉄棒を異形の頭――と思われる部分――に叩き付けた。
やはりというべきか叩き付けた鉄棒は、異形の身体にめり込むがそれだけ。叩き付けているというよりも身体に沈み込んでいるようであった。
異形が軽く頭を振ると鉄棒が弾かれる。そして、そのまま頭ごと長い首を天井に向かって持ち上げたかと思えば、一気に加速をつけて振るう。
しなった首から放たれた一撃が、レオの胴体を強打。咄嗟に鉄棒を間に構えるが、それごと胴体に押し込まれる。体の内側から何本も骨が折れる音を聞いた次の瞬間には壁面に後頭部を打ち付け、意識が途切れた。手元から曲がった鉄棒と松明が転がっていく。
倒れたレオに白い悪魔は天井にぶら下がったまま口を近付けていく。しかし、突如として伸ばしていた首を縮めた。
その直後、さっきまで口があった場所を、松明の光を反射し銀色に輝く物体が通過した。輝くは狩猟鉈。それを振るうはナハである。
レオが殴り掛かったと同時に走り出していたナハであったが、一歩及ばずレオを助け出すことは出来なかった。
狩猟鉈を突き付けた状態で両者の間に割って入る。
相手の動きを警戒しつつ、倒れているレオの様子を耳で探る。身動きする音は無かったが、呻き声は聞こえた。まだ生きている証拠である。
だが。だからといって安心は出来ない。ナハたちから見て、一瞬姿が消えて見える程の殴打を受け、頭も強く打ち付けている油断のならない状況。ましてや、目の前には得体の知れない悪魔の如き生物もいる。
レオを救うのも、ナハ自身も生きて切り抜けるのも至難の業と言えた。
白い悪魔が身を丸める。すると体を振って地面に向かって降りる。その際、素早く体勢を変えて足から着地し地響きを洞窟内に響き渡らせた。
ナハの松明の明かりによってその全体がようやく露わになり、離れた場所で見ていたネイ達もその姿を捉える。
口しかない頭部から下は凹凸の無い丸みを帯びた胴体。その胴体からは左右対称の翼が伸びており、体を支えるのは指先が丸く膨らんだ二本の足。
部位だけ見ると竜や飛竜〈ワイバーン〉を彷彿とさせるが、全てを一つとして見ると全く似ていない。これを竜に似ていると評するのは、竜たちにとって最大級の侮辱になるだろう。
キュアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。
地面に降り立った白い悪魔の最初の行動は咆哮であった。口から放たれているから咆哮と称したが、音そのものは竜の咆哮とはかけ離れたものであり、断末魔の悲鳴あるいは金切り声を混ぜた絶叫といったもの。
ネイやリヨナがその声を耳に入れた途端、あまりの不快音に全身の鳥肌が立ち、背筋に今まで経験したことがない程の悪寒が走る。丸一日も聞いていたら正気を失ってしまいそうになるこの音から、少しでも逃れるように両耳を塞ぎ、体を小さく丸める。
痛みに苦しむレオも白い悪魔の叫びに堪らず体を縮こませる。骨や内臓から激痛が襲ってくるが、それでも止まらない。生物としての本能的行動であった。
唯一、ナハのみが白い悪魔の声に耐えていたが、それでも苦痛に耐えるように眉間には深い皺が寄り、額からは幾筋もの汗を流している。
自由を奪う声の中でもがくようにナハは踏み出し、振り翳した鉈を白い悪魔の頭部に向け振り下ろす。
ナハの動きに気付いた白い悪魔は叫ぶのを止め、頭を僅かにずらす。狙いである頭部からは外れたが、鉈の刃は白い悪魔の首に叩き付けられた。
しかし、当たると同時にナハは舌打ちをしてすぐに鉈を抜く。そして、服の内側から瓶を一つ取り出すと、後ろに飛び退くのに合わせて白い悪魔に向けて放った。
投げられた瓶は白い悪魔に当たるが、弾力性に長けた皮膚に弾かれて地面に落ち、割れる。
割れた際に中身が零れ出す。地面に突っ伏していたレオの鼻に、獣と皮脂が混じったニオイが入ってくる。
地面に何が零れたのか理解しかけた時、いきなり襟首を掴まえられ、引っ張られる。首を絞められる苦しさと体を強引に動かされたことで起こる激痛に、思考が中断された。
白い悪魔は、相手が逃げるのを感じ、追いかけようと一歩踏み出す。するとペチャリという異音が足元から聞こえた。音からして瓶の中に入っていたのが液体だったのが分かる。
白い悪魔は濡れた足元を気にすることなくそのまま歩を進めようとするが、その足元に向かってナハは松明を放り投げた。
暗闇の中で光の残像が放物線を描き、白い悪魔の足元に落ちると同時に暗闇が一気に明るくなる程の炎が起きる。
突然の炎上に驚いたのか、白い悪魔は進むのではなく後退。炎から距離を取った。
ナハが投げたのはランプなどの燃料に使用される獣油である。特殊な加工をしているので通常の獣油よりも激しく燃える。主に外で火を起こす際に使用している物であった。
相手が怯んでいるうちにナハはレオを引きずりながらネイたちの下に戻る。
ネイはレオの容態が気になったが、今は確認している時間も惜しい。
引き摺られているレオの両足を掴み、体を浮かせる。不格好だが、兎に角一分一秒でも早くあの怪物から離れないといけない。
「逃げるよ!」
その言葉を合図にネイたちは駆け出す。背後がどうなっているか気になるが、今はまずこの洞窟から出ることが先決であった。
真っ直ぐ続く道を全力で走る。いつ襲い掛かって来るか分からない重圧に耐えながら。暗闇の中でポツリと輝く松明の炎だけが唯一緊張を少しではあるが和らげてくれる。
「……適当な間隔で松明を捨てるよ」
だが、同時にこの灯りこそが敵に位置を教える格好の印でもあった。
僅かの間だが、ネイたちは白い悪魔の顔を見ていた。最も印象に残ったのは、その顔に眼が無いことである。悪魔以外にも眼が無い生物は存在する。生きる過程で不必要として光を捨てた代わりに、ほんの少しの熱を探知する程の敏感な触覚や、湖に数滴垂らされた血ですら嗅ぎ付ける嗅覚を得ている。この盲目の悪魔もその類の可能性があった。尤も本当に悪魔ならば何処かに目でも隠しているかもしれないが。
松明が放つ熱。感知するには十分過ぎる目印であった。恐怖はある。自分の手すら見えない黒一色の世界の中で、あの白い悪魔と命懸けの追いかけっこをしなければならない。しかし、今は少しでも助かる確率を上げる為に敢えて危険を冒す。
ネイの言葉にリヨナは反論することなく、案を受け入れることを示すように手に持っていた松明を放り棄てる。
残りの松明は一本だけ。一気に心細い灯りとなる。
そこから先へ先へと走るネイたち。自身の松明をリヨナに手渡し先導を任せる。
十分以上走り続けたとき、ある変化が起こる。
激しく燃えていた筈の松明の灯りが徐々に小さくなってきたのだ。
「早過ぎる……!」
小さくなる灯りを見て、リヨナは悲痛な声を上げた。実際にリヨナが言っているように松明の灯りが切れるのは早過ぎた。特殊な物質を燃焼させているので少なくとも半日は持つ筈である。仮にあの白い悪魔に襲われなかったとしたら、洞窟の前半部でネイたちは暗闇の世界に放り出されることになっていたであろう。
最早虫すら寄って来ないほど小さな光となった松明を八つ当たり気味に壁に投げ付ける。壁にぶつかり地面を転がる松明。その小さな灯りは消え、辺りは完全な暗闇に呑まれる。
白い悪魔の為の場が完全に整った。
右も左も足元すら何があるのか分からない。この中を全力で走ることすら恐怖だというのに、あまつさえ追っ手すら居る。
状況は最悪である。
「げほっ!」
運んでいるレオが苦しそうに咳き込む。走る度に揺らされているので傷ついた彼の体には絶えず痛みが襲い掛かっているのであろう。
一定の感覚で咳き込んでいたレオであったが、段々とその間隔が短くなっていく。
「げほっ! げほっ! かはっ!」
最後の咳に水を含んだ時のような音が混じっていた。最悪だと思っていたこの状況、まだ先があるらしい。
「どうやら、折れた骨が、刺さったみたいだ、ははは」
自分の状態を冷静に分析し、力無く笑う。あるいは諦観の笑いなのかもしれない。
「大丈夫! 大丈夫だから! ここさえ抜ければすぐに治せる!」
必死になって励まそうとするネイ。
「ありがとよ……でも、ダメだ」
応える声には、今ある苦しみは感じさせない吹っ切れたものがあった。だからこそネイたちは悟ってしまう。レオが既に自分の命を諦めてしまっていることに。
ネイとナハに回していた腕が外れ、今までの重みが二人の肩から消え、地面に倒れる音がする。
「ダメだよ! レオ!」
勢い余って前に出てしまったネイがすぐに戻ろうと振り返る。しかし、辺りは暗闇。足元すら見えない。倒れているであろうレオの姿を一瞬で見失ってしまった。
「ナハァァァ! ネイたち連れて先に行けぇぇぇぇぇ! こんな俺でも少しだけ時間稼ぎは出来るっ!」
重傷を負った体から放たれているものとは思えない程の大声量。敢えて大声を出し自分に惹きつけさせようとするレオの自己犠牲にネイの双眸から涙が溢れ出す。
「ダメだって! そんなこと出来ない!」
レオを助けようとネイが駆け出そうとするが、その手を誰かが掴んで止める。
ネイを止めたのはナハであった。
「ここで戻ったら彼の決意は無に帰す。彼の魂まで殺すのか?」
すぐにでも反論したかった。声が喉まで出掛かる。だが、それ以上出ることは無かった。心の何処かでどうしようもないと受け入れてしまっている自分がいるからだ。
「早く行けぇぇぇぇ!」
血を吐くようなレオの叫び。それを聞いてしまったらこれ以上戻ることは出来なかった。ナハにされるがままネイの体は引っ張られていく。
「……それでいい」
遠く離れていく仲間たちの足音。それとは逆に近付いて来る悪魔の足音。ペタペタと張り付いては引き剥がされていく音。それが天井から聞こえて来る。
やがてその足音が頭上で止まる。
「来いよ、悪魔!」
吼えると同時に武器を構える。せめて傷一つでも負わせてやろうと意気込む。
そのとき、腹の上に何かが落ちた。衣服が濡れていく感触。最初は水滴かと思っていた。
「っ!」
冷たかった感触が徐々に痒みへと変わり、それが熱に変わる。
「ぐああ!」
そして熱は痛みを伴ったものへと変わった。明らかに普通の液体では無い。感覚からして強い酸性を帯びた液体である。
一体それが何なのか考えるよりも先に、レオの全身を砕くような重圧が圧し掛かる。
体の中にあるものが纏めて口から飛び出しそうになる衝撃。
全身に張り付く様なブヨブヨとした感触。白い悪魔の全体重をその身に受けたレオは虫の息であった。
抵抗など一切出来ずただ己の死を待つだけの状態。
その時はあっさりと訪れた。
暗闇を照らす青白い光。爆ぜる音と共に光が強さを増していく。その光は白い悪魔を中心として放たれていた。
それが何の光かレオが理解する前に輝きは最高点に達する。
枝分かれしたかのように伸びる光。爆ぜる音は爆音と化して洞窟内を駆け抜ける。
天から降り注ぐ雷光。それを同じ光が白い悪魔から放たれていた。
雷の一撃はレオの身を電光の速度で駆け抜け心の臓を破壊し、体の内側を徹底的に焼き尽くす。
体の内外から白煙を昇らせ、レオは屍と化した。
自然が起こす奇跡をその身一つで起こす。神の御業あるいは悪魔の所業か。
それを諮る者はこの場に居ない。
◇
仲間を置いて逃げるネイたち。暗闇の中明かりも無い状態で走り続ける。やろうと思えばリヨナが魔法で熱の無い灯りを灯すことも出来るが、目が無いからといって僅かな光を感知出来ないとは限らない。出来る限り目印となるものを無くしたかった。
洞窟内に轟音が響き渡る。そのあまりの音量にネイとリヨナは跳び上がりそうになった。
「ら、落雷!?」
何故こんな場所でと疑問に思うも、それを考える時間を二人に与えないようにナハは二人の手を引いて暗闇を駆ける。
まるで見えているかのように淀みの無い走り方で先導するナハ。ネイとリヨナは躓かずに走るので精一杯であった。
時間の感覚が分からなくなる闇の中でどれだけ走ったのだろうか。ネイたちはナハに引っ張られて地面に座らせられる。
ネイは背中に硬い感触を覚えた。手で触ると凹凸があり、かなり大きい。初めは岩壁かと思ったが、手を目一杯伸ばすと縁に触れることが出来た。落石かあるいは元からあった岩の陰に隠れているらしい。
「どうしたの?」
「ニオイを消す」
そう言われネイとリヨナは自分たちの体に鼻を近付ける。洗濯してもらった時に付いた石鹸の香りと松明の煙のニオイが混じり合い一種独特のニオイとなっていた。この洞窟内でこのニオイは浮いており、まさに探してくれと言わんばかりのものである。
「このニオイが有る限り奴は追い続けて来る」
そう言ってナハはネイの胸元に何かを投げつけた。胸元に冷たい感触が広がっていくと同時に青臭さと土が混ぜ合わさったニオイがする。
「これは?」
「苔だ」
一言返されただけであったがすぐに真意は分かり、手探りで周囲を探す。ゴワゴワとしたものを見つけるとすぐにそれを毟り取り、衣服だけでなく顔などに塗りたくる。
石鹸と煙のニオイが苔のニオイで上書きされていく。元からある苔のニオイならば洞窟内に紛れることが出来る。
体のニオイを消す作業をしていく中でナハは独り呟く。
「精霊の声が悪魔から聞こえない。あれはこの世の理の物ではない。未知の理を宿したもの。故に悪魔と呼ぶのが相応しいのかもしれない」
この世のものではない。確信を持ってそれを言うナハ。
「この世のものではない、って……ならば本当にあれは召喚された悪魔なのですか?」
「ただ悪魔としては俗過ぎる。声が完全に聞こえた訳では無いが、どういう意思を持っているのかは凡そ察せた。――否、あれは本能と呼ぶのが正しい。『喰う』と『増やす』という単純であり当然の本能だ」
悪魔の見た目をしているがあるのは獣と変わらない本能。だからこそ厄介であった。少なくとも話し合いなどでは解決出来ない。
「これが流れか……身を委ねた先にあったのは暗黒。結末はもう見えない。流れを不明確にするあれは異分子なのだろうか……分からない、分からないな」
普段は口数の少ないナハが、あの白い悪魔に襲われてから饒舌になっているのが分かった。常に冷静であった彼も今の状況に緊張あるいは恐れを抱いているのかもしれない。
その時、来た方向から微かな物音が。
誰もが一斉に口を閉ざし、息を殺す。あまりに小さく聞き取り難かったがどうやら音は天井から聞こえてくる。
ペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタ。
どんどんと近付いてくる足音。音が近付くにつれて心臓の鼓動も速さを増していく。身動き一つとっていないが、自分の内で鳴る鼓動音で位置がばれるのではないかと思える程うるさく聞こえた。
天井から聞こえた音が止まる。すると大きな音と共にネイたちの体が揺れた。天井から地面に降り立ったらしい。
着地した白い悪魔はその場から動かずしきりにニオイを嗅ぎ始める。途中まであったニオイがここで消えたのを感じ辺りを探っている様子であった。
雑音の無い洞窟内で白い悪魔が探る音だけが嫌という程聞こえて来る。
その音が聞こえる度に何か自分たちはミスを犯していないかという疑心暗鬼に囚われる。今すぐにでも走って逃げ出したい衝動に駆られるが、それをすれば間違いなく餌食となる。
早く何処かに行ってくれと強く願う。
その願いが通じたのか白い悪魔がニオイを嗅ぐのを止めた。
こちらを見失ったのかと安堵した瞬間――
キュアアアアアアアアアアアアアアアアアアア。
――白い悪魔が咆哮を上げる。
全身の筋肉が萎縮する精神を削る悍ましい絶叫。獲物を取り逃がしたことへの怒りの現れかと思えた。
「――見つかった」
「え?」
断言するナハにネイは虚を突かれた思いであった。ニオイという目印を消し去ったというにもかかわらず、何故あの悪魔に自分たちを見つけることが出来るのか。
「音で視られたか」
ぼそりと呟くナハの言葉の意味を二人は深く聞くことは出来なかった。止まった足音がこちらに向かって迫ってきているせいで聞く暇など無かった。
生物の中では特殊な音を出し、それを物などに当てその反響で形を探るものが存在する。白い悪魔はネイたちのニオイが消えたと判断すると咆哮を洞窟内に反響させ、音で探ることに切り替えたのだ。
そして見つけた。岩陰で身を潜める三人の姿を。
白い悪魔が助走をつけて飛び掛かるのとネイたちが岩陰から飛び出したのはほぼ同じタイミングであった。
さっきまで立っていた岩が倒れる音を聞き、ナハの言う通り自分たちの居場所が完全にばれていたことを思い知らされる。
逃げなければならない。だが一体何処に? 未だに出口が何処にあるのかすら分からないというのに。
その時、微かに頬を撫でるものをネイは感じた。勘違いかと思える程の微風。しかし、この状況ではそんな些細なことでも縋るしかない。
「ナハッ!」
「私も感じた」
思っていることを先回りして答えると、ネイの手を掴む。そして、ネイもまだ近くにいるリヨナへと手を伸ばした。
◇
悪魔と呼ばれたソレは、自分から離れていく複数の足音の方向を正確に見ていた。
足音が向かう先には、それが出入りに使用している穴がある。そこに辿り着けば逃げられる可能性があった。
走っても飛び掛かっても既に届かない距離にいる獲物たち。だが、ソレに焦りなど無かった。
自分の間合いの中で足掻く獲物たちに焦る必要など無い。
ソレは獲物たちに向け、口を開く。乱杭歯と赤い歯茎が剥き出しとなり、歯の隙間からこぼれ落ちる唾液が地面に落ち、一瞬音を立てて岩を溶かす。
ソレの体内にある特殊な袋によって生み出された力がソレの喉をせり上がる。青白く輝く雷の力。それが口内で留まり空気を焦がす。
短い尻尾の先端が円形状に開き、地面に向かって伸びる。円形の先端がしっかりと地面に吸着すると同時に両前足を地面に着け体勢を固定させた。
地面に叩き付ける勢いで振るわれる首。顎が地面に接地した瞬間、限界まで溜め込まれた雷は爆ぜた。
口内から飛び出した雷は球体となり、三つに分かれて地面を走る。これこそがこの悪魔が放つ雷の吐息である。
電光の速度で地表を滑っていき、その内の一つが獲物に直撃した。
倒れ伏す音。生き残った獲物が何か喚いているが、その声も遠ざかっていく。
ソレは倒した獲物の側に寄り、ニオイを嗅ぐ。もし、この悪魔の感情を読むことが出来るのであれば不機嫌と称する感情であろう。
死んでいる。焦げ臭いニオイの中から確かに命無きもののニオイが混じっていた。
ソレはいつも通りに狩っている筈だが、ここに来てからというものすぐに獲物が死んでしまう。
本当ならば半死半生が望ましいが新鮮ということには変わらない。
アレらの腹を満たすことが大事である。
倒れた死体を頭で叩く。死体は岩壁付近に飛ばされた。
岩壁にはいくつもの亀裂があり、その亀裂からウゾウゾと何かが這い出て来る。
足は無く鰭のような小さな手を生やした白い筒状の生物。目が無く赤い歯茎とそこから生える乱杭歯は、ソレの顔そっくりであった。
亀裂から何匹も這い出て来るソレの子らは、与えられた餌に群がり食していく。
子らに食事を与えることが出来たが、まだ足りない。
与えるべき獲物はまだ二つ残っている。
◇
またもや仲間を失った。差し伸ばした手を取ることなく青白い光の球をその身に受けて。光の球に触れたとき、一瞬リヨナの体が闇の中で浮かび上がった。背骨が折れるのではないかと思えるほど仰け反り、声を上げることなく倒れ伏した。
まだ生きているかもしれないという浅い希望を抱くことすら出来ない。光の無い闇一色の空間は、心の中も暗く染め上げていく。
今自分たちに出来ることがあるとすれば一刻も早くここから出て、ここで起きた惨劇を皆に報せることであった。
微かな風を感じた方向に向かって確証も無く走り続ける。その間ナハとネイは互いに無言であった。会話することが出来ない程精神的にも体力的にも消耗していた。
一体あとどれくらいこの暗闇の中を彷徨えばいいのか。そう思いながら壁伝いに曲がる。
「……あっ」
曲がった先にあったのは暗闇を引き裂く光。その光に向かってネイは思わず駆け出す。
ようやく見つけた外への出口。暗闇に慣れた目には外から注がれる光は、目が痛くなるぐらい眩しい。
ようやくこの悪夢のような場所から解放される。その思いだけで光の下に向かい――
「……え」
――絶望する。
光は頭上遥か上、数えるのが馬鹿らしいぐらいの高さにある穴から降り注いでいた。周りには垂直の岩壁。凹凸はあるものの素手ではとてもじゃないが登ることなど出来ない。仮に登ったとしてもあの悪魔に追い付かれる前に登り切ることなど不可能であった。
外と繋がっているというのに。光に触れることが出来るというのに。突きつけられた現実はあまりに無情。ネイはその場で崩れ落ちるように膝を突く。
「もう……ダメかもしれないね……」
立て続けに仲間を失い、悪魔から逃れられない現状に諦め、弱音を零す。
「……いや、全てが終わった訳では無い」
ナハは、静かにそれを否定する。
その言葉に、ネイは縋るようにナハを見た。
「最後の犠牲を払えば一人だけだがここから逃れられる。……逃れられるのは君だ」
ナハが自らを犠牲にするという宣言に目を見開く。
「運命の糸は私よりも君の方に絡み合っている。辿れるのは君しかいない。避けようの無い暗闇の中で君の運命だけが唯一見えた」
「ど、どういうこと? それに自分が犠牲になるって……!」
「あまり時間が無い。重要なことだけ言っておく。今からひたすら壁伝いに走れ。止まるな。真実を探せ。この三つを守ればきっと君の未来が繋がる」
これ以上話すことは無いと言わんばかりにナハは狩猟鉈を引き抜く。するとそれを合図にしたかのように来た道から張り付くような足音が聞こえてきた。
あの悪魔が追い掛けてきたのだ。
逃げ道は頭上の穴のみ。行き止まりに追い詰められた。
死の恐怖に震えるネイ。そのネイの前にナハが立つ。
「言った筈だ。あと一人犠牲になれば君だけはここから出られる」
「そ、そんな……」
「話し合う余地は無い。これは運命の流れだ」
闇の奥から徐々に白い悪魔の姿が浮かび上がってくる。悪魔がある距離まで近付いたとき、ナハは走り出していた。
一直線に悪魔へと向かう。悪魔は口を開き、ナハに噛み付こうと首を振るう。するとその動きにいち早く反応し跳び上がり、そのまま悪魔の背に跨り、狩猟鉈を突き刺した。
ブヨブヨした表皮にめり込む鉈の先端。強い弾力が跳ね返そうとするが歯を食い縛り必死の形相で鉈を押し込む。
弾力性に富んだ皮がやがて限界に達したとき、表皮を突き破ってその奥にある肉に食い込んだ。
初めて損傷らしい損傷を受けた悪魔が絶叫の如き咆哮を上げながら暴れる。負わされた傷から血が溢れ、暴れる度にそれがまき散らされていく。
「行けっ!」
白い悪魔の上で抵抗するナハが、ネイが今まで聞いたことが無い程の大きな声を飛ばす。
また仲間を置き去りにして逃げる罪悪感からネイの足は上手く動かない。
「……早く行くんだ。これまでのことを無意味にしてはいけない」
一転し、静かな口調で諭すナハ。その言葉にネイは強い願いを感じとった。
「う、ぐぅ……! うぅ!」
ネイは涙で顔を濡らしながら暴れる悪魔の隙を掻い潜って来た道に向かって駆け出す。
ネイが暗闇の中に消えていくのを見て、ナハは肩の荷が下りたように少しだけ微笑んだ。
「この世ならざるもの。私はきっとお前には勝てないだろう」
自らの死を悟りながらもナハは鉈を更に押し込む。血がより激しく噴き出す。
だが、振り落とそうとする悪魔もただ暴れるだけでは無かった。悪魔の白い表皮に青白い光が走る。
ナハは咄嗟に鉈から手を離し悪魔から飛び降りるが、悪魔の放つ茨のような光は遅れたナハの足に絡みつき、毒のような熱でナハの体を内側から蹂躙する。
声すら上げることが出来ず体の至る所が焼け爛れた状態で地面に落下したナハ。
彼にとって最大の不運があるとすれば直撃を避けてしまったことだろう。あと数秒逃げるのが遅れていたら痛みも無くこの世から去ることが出来た。
指一本動かせない状態で倒れたナハに悪魔は顔を近付ける。ナハのニオイを嗅ぐと、彼の腕に噛み付き、そのまま引き摺り始める。
動けないので抵抗することも出来ずされるがまま洞窟の暗闇へと引き摺り込まれた。
しばらくの間、連れられていたがやがて何処かへと放り投げ捨てられる。
光一つ無い中、ナハは感じていた。漂う死臭と自分に向けられる複数の気配を。
何かが這い出て来る音がした。数は十を超えている。それは白い悪魔の気配とよく似ていたが、大きさはかなり小さい。
(子、か……)
感じ取ったものからナハはそう判断した。
悪魔の子らがナハへと近付き、鋭い牙を突き立て血を啜り始める。
ナハの一族にとって野生の動物に食されることもまたこの地に還ることとされ、埋葬方法の一つとされていた。だが、この世ならざるものたちに食われるのであれば話は別である。きっと自分の魂は永遠に囚われ続けることになるだろう。
だからナハは別の選択を選ぶ。
「お前、たちが……何の目的をもって……彷徨い出てきたのかは……私にも、見えない。……だが、覚えておけ。いつか、お前たちが伸ばした糸を手繰り寄せる者が、現れる……。それはきっと、お前たちを滅ぼす者だろう……」
最期に見えた運命の一片。きっと伝わることは無いだろうと思いつつも呪詛のように残す。
「骨は水に……灰は風に……魂は土に……」
悔やむべき人生では無い。恐れることも無い。今ある自分を還すだけのことだ。
「命は……炎に」
最期の言葉を紡いだ瞬間、彼の体に刻まれていた術が発動し炎に包まれる。
自らの人生の終わりを悟ったときの為に施される自決用の術式が、彼の血を啜っていた悪魔の子らを纏めて焼く。
慌てて炎を消そうとする悪魔であったが、炎は一瞬で高熱に達しナハたちを焼き尽くす。
ほんの数秒間の炎上であったが、炎が消えた後には欠片一つ残らず、焼け焦げた跡だけが地面に刻まれるのみ。
少しの間の後、白い悪魔は悲鳴のような咆哮を延々と上げ続けた。
◇
暗闇の中、壁伝いに先の見えない道を走る。涙はとうに枯れ果て、それでも絞り出そうとするかのように目の奥が痛む。
途中何度も転倒し、その度にこのまま死んでしまいたいと思ってしまう。だが、物音一つしただけで体はバネ仕掛けのように起き上がりそのまま駆け出す。
仲間が死んだ哀しみよりもあの悪魔に襲われる恐怖の方が上回っているからこその反応であった。
自分が浅ましい人間であることを嫌でも思い知らされる。
背後あるいは頭上からの残像のような恐怖に怯えながら、走り続ける。
「あっ……」
暗闇の奥に小さな光が見えた。
疲労する体を動かして、その光を求めるように走る。
光を潜った時、刺すような閃光に思わず目を瞑る。しばらくの間瞼越しに光を感じていたが、やがてゆっくりと瞼を開ける。
目の前には緑の森が広がっていた。
助かった、という言葉が浮かんだがそれ以外の感情が湧いてこない。失ったものの大きさに生還の喜びなど消し飛んでしまう。
全て夢であってほしかった。只の悪夢であってほしかった。だが、草木のニオイ。風の感触。降り注ぐ太陽の熱。五感を刺激するもの全てが現実だと言ってきた。
ふと足元に目を向ける。そこには複数の足跡があった。見覚えのある足跡。周りの景色も同じく見覚えがある。
そこで、ここが自分たちが最初に入った入口であることに気付く。
ならばこの道を戻れば――
最後の力を振り絞って森の中を進む。
そう長くない距離の筈なのに、何十キロも歩いて来たように感じながら目的の場所に辿り着き、目の前の扉を叩く。
「はーい……え! ど、どうし――たんですか?」
扉を開けた宿屋の娘は、ボロボロのネイの姿を見て驚き声を詰まらせながらも介抱しようとしてくる。
素直に宿屋の娘の肩を借り、宿屋の中に連れられると入口付近にある椅子の上に座らせられる。
「ちょっと待ってください」
そう言って一旦娘は姿を消すと、水の入ったコップを持って現れる。
「どうぞこれを飲んで下さい」
ネイの手にコップを握らせる。
すぐにでも飛びついて飲み干したかったが、疲労し切った体は中々動かない。
「ありが、とう……」
取り敢えずまだ動く舌を使い、礼だけは言う。
「私、お父さんを呼んできますね」
娘はそう言って宿屋の外に出ていく。
少し間脱力しながらも今後のことを考える。まずはギルド本部にこのことを話さなければならない。そして、戦力を集めあの悪魔を討伐するか、二度と出られないようにあの洞窟を塞いでしまうか。
自然と手に力が込められる。冷たい水をコップ越しに感じ、疲れている頭に少しだけ喝が入り、ようやく悪夢が終わったことを実感した。
そんなことを思いながら渡された水を飲む。
今は少しでも体力を回復しなければならない。
命を落とした仲間たちの為に――
一刻も早く――
あの悪魔への――
対策を――
策を――
たいさ――
たい――
い……
……
「――え?」
頬への冷たい感触で眼が覚める。いつの間にか眠っていたらしい。
だが、おかしい。目覚めた筈なのに目を閉じているように暗い。
「……何で?」
夢を見ているのかと思った。
「どうして……?」
最悪の悪夢を。
「ここは……」
ありえない。あってはならない。
「あの、洞窟……?」
必死になって逃げ出した筈の洞窟にまた戻ってくる筈など無い。
「ね、ねぇ? う、嘘だよね? わ、私、夢を見てるんだよね?」
認められない現実に居ない誰かに話し掛ける。
「これは、全部、夢だよね?」
夢か現実か。その答えを教えてくれる
ペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタペタ。
取り敢えずバッドエンドから投稿しました。こんな感じのラストですけど女性に酷いことをして興奮する趣味はありません……本当ですよ
もう一つのエンドは近いうちに投稿します。
因みに登場キャラの名前は
ネイ→NEI→NIE→贄
リヨナ→リョナ
ローグ→グロ
レオ→REO→ERO→エロ
ナハ=ニク→ナハNIK→十八KIN→十八禁
という感じでつけました。前の死亡フラグ以上に酷い付け方ですね。