「はあー。これは立派なもんだねー」
目の前に置かれた霜が張り付いている大きな死骸を見て、少年――エン・ドゥウは感嘆の声を出す。
赤い鱗に大きな翼を持ち、嘴の様に曲線を描きながらも鋭い先端を持つ口には凶悪な牙が並んでいる。死んだ直後に氷漬けになったらしく瑞々しさが残っており、眼窩に残っている白く濁った眼球も今にも動き出しそうであった。
「ええ。これを手に入れるのに色々と手助けをしてもらいました。特に、ヴィヴィ殿とディネブ殿には感謝し切れません」
その隣に立つエクスが、これを手に入れる為に尽力した者たちの労を労う。
「ヴィヴィ君が? 未だに若いねぇ、彼は」
「あんたに若いなんて言われても皮肉にしか聞こねぇよ、爺」
更にその隣に並ぶエヌが悪態を吐くが、エン本人はそれを笑って流していた。
「寒いからってエン・ドゥウ様に八つ当たりは良くないよ、兄さん」
「別にしてねぇよ」
白い息を吐きながら兄を窘めるエム。
エムの言う通り彼らの居る場所は、氷漬けの竜の死骸を保存する為に魔術によって低温を維持されていた。エクスらが厚着をしなければ短時間も居られない程の極寒。だというのにエンは普通の薄着であり、それどころか吐く息が全く白くない。
(やっぱり人間じゃないな、この爺)
再度隣にいる人物を人外だと認識する。
「それで、この子をどうしたいんだい?」
躊躇せず氷漬けの死骸をペタペタと触りながら本題に入る。
「貴方にしか出来ないことです。――この竜の肉体を蘇らせてくれませんか?」
死体の蘇生。動かすだけならば二流、三流の死操術師でも可能である。しかし、彼らが望むのは生前の再現。失っているであろう竜の機能全ての復活。これ程の巨体、それも未知の竜にそれが出来るのは世界広しと言えど、生命に関して知り尽くしているエン・ドゥウしか出来ないことであった。
頼まれた内容が予想の範囲内であったのか特に驚いた様子は見せない。
「肉体を蘇らせる、か。流石に中身〈たましい〉まで蘇えらせる、何てことはしないか」
「こんな奴を完全復活させても得なんてあるかよ。ただでさえ多いのにこれ以上敵を増やせるか」
「まあ、そうだね」
口振りからして、やろうと思えば出来るという可能性を匂わせる。
「で? 体だけ蘇らせてどうするんだい?」
「初めはこの竜の鱗や骨、皮を使用し武器や防具を開発しようとしましたが、どうにも技術や知識不足で頓挫してしまいました。技術を確立するまであとどれほどの期間が必要になるかは分かりません。我々はそこまで待っていられない。ならばいっそのこと、この竜を兵器に転用しようかと思っています」
生物を兵器に変える。聞く者がまともな倫理観の持ち主ならば生命を冒涜するような行為に怒り、あるいは嫌悪を感じるだろう。
だが、生憎とだがこの場に於いてはまともと呼べる者は居なかった。そもそもな話、まともならば抗うという選択など出来ないだろう。
「成程ね」
エクスの言葉をその一言で流し、再び目の前の死骸を触り始める。
「それで? 出来るのか、出来ないのか? やるのか、やらないのか?」
答えを言わないエン・ドゥウに対し、エヌが露骨に苛立ってみせる。何事も有限であると思っているエヌにとって曖昧な反応ほど時間の無駄且つ腹立たしいものはない。
「そうイライラしないでよ、エヌ君。やるよ、やるやる。だから今こうやってこの子の体を調べているんだよ」
エン・ドゥウの術の一つに、死体から過去の映像を見ることが出来るというものがある。手で直接触れることでその相手の生前を、それの視点から見ることが出来るのだ。
触れた瞬間からエン・ドゥウの脳内にこの生物の生前の行動が映し出される。
吐き出される火の玉によって焼き尽される面長で四足の大人しそうな竜らしき生き物。
空から強襲によって爪で裂かれる二足で立つ青色の蜥蜴。
空中にて激しく炎を打ち合う、同じ姿ではあるが異なる青い鱗を持つ竜。
「成程成程。色々とやんちゃしていたみたいだね、この子は」
映像を見ての感想は年寄り染みたものだった。尤も見た目のことを考えなければ年相応の感想とも言えたが。
「出来るよ。この子の肉体の蘇生。君たちの言っていた兵器の転用にはピッタリかもしれないね。炎を吐くみたいだし」
エン・ドゥウの言葉にエクスたちはそれぞれの意見を交わし始める。
「炎を吐く――戦わせるよりも砲台として使用した方が良いみたいですね」
「蘇らせた体を壊すリスクを考えれば、そう割り切って使った方が良いってことですね」
「そうなると移動の手段などを考える必要があります。やっぱり転送魔術は勿論ですが、これそのものを運ぶ車も容易しないと。自力で歩かせるのも有りかもしれませんが、替えが効かない現状、肉体を痛めることは避けたいですし」
既に目の前の亡骸をどう扱うのか三者の中で凡そ形になっていた。
三人の会話を背中で聞きながら、エン・ドゥウは目の前の竜の死体を複雑そうな表情で見つめていた。
彼らはこれによって一筋の希望を手に入れたと思っているのかもしれない。しかし、エン・ドゥウは知っている。
もし、この竜が彼らと同郷のものならば、その一筋の希望はあまりに儚い光であることを。
彼の記憶は、遠い昔へと遡る。
◇
当時、世界は七つの大国による戦争が起こっていた。
日々どこかで争いが起き、血が流れ、屍が重ねられていく。
小国はどこかの国に属することを強制され、それを断れば地図からその名を消す。今振り返って思えば、地図職人にとっては楽な時代だったのかもしれない。何せ地図に記す国の名が七つで済むのだから。
終わりの見えない不毛な戦争。このまま行けば人の時代は終わり、人が滅ぶのは間違いなかった。だが勘違いをしてはいけない。七つの国は決して人々を滅ぼすことも不幸にすることも望んではいない。戦争の切っ掛けなど分からないが、最初にあったのは間違いなくこの世を良くしたいという善意であった。
ただ惜しむらくは、七つ国はこのように考えていたのだ。
『自分たちが統治すればより良い時代になる』と
自分たちが最も優れているという自負の下、戦争は加速度的に技術を飛躍させ同時に被害を拡大させる。
日々積み上がっていく人の業。誰もそれを気にすることなく、気にしたとしても誰もそれを止める術を持たない。
やがてそれが限界に達した時、それは起こった。
あるいは起こるべくして起きたのかもしれない。
◇
「――よ。――よ。返事をしなさい」
名を呼ばれ、読んでいた本を閉じる。十にも満たない少年が読むにはその本は分厚く、表紙には難解な言葉が記されていた。
「何ですか? 父上」
返事をし、自分が何処にいるかを報せる。それから間も無くして壮年の男性が姿を現した。整えられた口髭に精悍な顔立ち、身なりの良さから一目で上級の暮らしをしている者だと分かる。
「また本を読んでいたのか?」
「はい。久しぶりに新しい本を見つけたので」
少年の読んでいた本に目を落とす。その本を手に取った。
「『既存の魔術と新しい魔術の融合による新たなる法則の発見』か。本を読むのは結構だが、あまりこういう本を読むのは感心しないな。これは理論だけ先行した空論の面が強い」
「その荒唐無稽さが面白いんです」
苦言を呈する父。少年は純粋な笑みを浮かべているが言葉に底意地の悪さを感じさせる。
「これでもお前にとっては良い暇つぶしか」
ため息を吐きながら持っていた本を少年に手渡す。
「それで何か御用ですか?」
「宮殿で新たな魔術の実験を行うらしい。……そこにお前も立ち会ってもらいたい」
用事を口に出す際、ほんの少しだが父は表情を曇らせた。些細な変化であったが少年はそれを見逃さない。こういう表情をするときは決まってそれが父にとって不本意なことだと分かっていた。
「そうですか」
嫌な顔一つせずに少年は立ち上がる。
「すまんな」
「いえ。ここに住む者の義務ですから」
少年たちがいる国。それは遥か昔から魔術の研究、研鑽を積みながら歴史を紡いできた魔術国であった。この国に住む者全てが魔術師でありそれを誇りにしていた。
故にその考えが自分たちを苦しめていることになっているが。
「……お前にはもう少し子供らしい生き方をさせたい」
「戦争が終われば出来ますよ。……きっと」
明るく言うがその表情に陰が見える。
少年は口ではそう言っているものの今起こっている事の先に明るい未来など見ていない。
魔術に対する絶対的信奉。それを扱う自分たちは神の代行者あるいは人を導く為に生まれた上位者。この国に住む者たちの殆どがそんな選民思想に侵されている。
だからこそ選ばれた自分たちが導く為に戦争を起こす。しかし、現実は彼らが思っているよりも単純なものでは無かった。
「新たな魔術など研究して一体何になるというのか……そんなことよりも一刻も早くこの戦争を終わらすのが先だと言うのに」
「きっと勝って終わらせたいのでしょう。上の方々は」
戦いは勝って終わらなければ意味が無い。戦後の主導権を握る為に。それ以外の和平や停戦は全て妥協。それがこの国を動かしている者たちの総意であった。
「また不要な血が流れるな……」
「勝つ為に必要な血、とでも思っているのでしょうね」
国の先を思い、憂う父とは対照的に大人びたとも冷めているとも言える態度の少年。
「お前が大人になる前に一度でも良い、平和な時代を見せてやりたいな」
「僕も願っています。一日中本が読める日を」
父は疲れている顔に微笑を浮かべ、少年の頭を撫でた。
◇
国の中央に位置する場所に建てられた大きな建造物。周囲には何十人もの警護が立っており厳重に警備している。
ただ纏っているのは一般的な番兵が纏うような金属の鎧ではなく一目で魔術を扱う者だと分かる裾の長いローブであり、手には槍や剣ではなく杖が握られていた。
一見すれば貧弱そうに見えるが、この格好全てに魔術の加護が施されており纏うローブは槍の穂先や剣の刃を通さず、矢など触れることなく弾いてしまう。
「許可証を」
父と少年は大きな扉の前に並んで立つと、扉の前にいる警備に掌に収まる程の金属の板を見せる。その板には何行か文字が刻まれていた。
渡された金属板に目を滑らせる。その途端、警備の顔色が変わった。
「し、失礼しました!」
先程よりも真っ直ぐ背筋を伸ばす警備。彼と父とでは天と地ほどの身分の差がある。
警備が手を振ると扉が自動的に開き始める。
扉に向かって歩く父。その後ろに少年が付いていく。
少年たちが歩き去って行くのを見てから、番をする魔術師の一人が先程親子を止めた魔術師に走り寄り、その脇に軽く肘鉄を飛ばす。
「いてっ。何をするんですか?」
「馬鹿野郎。ここを警備するなら出入りする人間の顔を覚えておけって言っただろうが」
喋り方で二人の上下関係が分かる。
「いやー、ボク入って間も無いもんで……」
「前以って調べておけって何度も言っただろうが。冷や冷やさせやがって。これだから卒業してない奴は……」
反省の色を感じさせない態度に、先輩魔術師は表情を歪める。最後の愚痴は後輩魔術師に聞こえないぐらい小さなものであった。
「まだあの方だから良かったものの……あの方以外だったら何されていたか分からなかったぞ、俺もお前も」
「ええ……まさかー」
「ただでさえ戦争で苛ついているんだ。そこに更に苛つくことがあったら簡単に爆発するぞ? 比喩抜きでな」
後輩魔術師の目の前で握っていた拳を開いてみせる。それを見て彼の顔色は面白いぐらい簡単に変わった。
「分かったらもっと真剣にこの仕事に取り組めよ?」
「は、はい!」
◇
門を潜り、長い廊下を歩き、その廊下の先にはまた扉があった。限られた者にしか開くことが出来ない強固な魔術が施されている。当然、少年の父はその限られた者の一人である。
少年の父が扉に触れる。短く何かを呟くと閉じていた扉が自動で開いた。
扉の先には地下へと続く階段と僅かな灯りのみ。二人はその階段を下りていく。
最初は日の当たらない所特有の冷たい空気と湿気ったニオイ。だが、段々と階段を下りていくと徐々にその空気の中に複数のニオイが混じっていく。
甘さ、刺激、形容し難いニオイ。どれもが魔術関連に使用される道具や材料のニオイであり、少年の鼻腔がそのニオイに触れる度にどんなものを使っているのか頭の中に像として浮かんでくる。
長い階段の末、彼らを待っていたのは広々とした空間であり、その中央には魔法陣が描かれ、その周囲にローブを着た者たちが並んで立っていた。
全員少年の父と同じ位を持つ者たちである。
「ようやく来たか」
その中の一人が少年の父に声を掛けてきた。年は父とほぼ変わらない筈だが、肥えた胴体。それに反し細い手足。後退した前髪のせいで父よりも一回り老けて見える。この中でリーダー格に当たる魔術師である。
「今日も実験か?」
ウンザリとした態度を隠さず父が問う。
「如何にも。一刻も早くこの戦争を終わらせる魔術を完成させなければならない」
さも当たり前のように言う肥えた魔術師に、父は溜息を吐いた。隣にいる少年もまた溜息を吐かなったものの似た様な心境である。
「あの愚か者たちには早急に魔術による裁きを下さねばならない」
「鉄や火薬などといった外法などに頼る者たちの末路など滅びに決まっている」
「嘆かわしいことに戦いに出た魔術師たちは、これに押されているというではないか。やれやれ、魔術師の質も落ちたものだ」
口々に好き勝手を言う他の上位魔術師たち。
父も少年もその言動に強い嫌悪を覚えた。現実を見ているものならばそもそも魔術一つだけで戦争に勝つことなど無理に等しい。どんなに凄まじい魔術を扱おうが所詮は人。消耗もするし疲労もする。
砲撃や矢を絶えず撃ち込まれれば魔術師など呆気無く死ぬ。
それでも戦争を続けられてきたのは、優秀な魔術師たちが戦いの前線に送られ続けたからに過ぎない。
若く優秀な魔術師たちが死地へと送られる中、国に残るのは少年の父のような、居なくなると本当に困る支柱的存在である魔術師。実力は高くないが保身と口が上手い魔術師たち。そして、実力の低い未熟な魔術師たち。
目の前の魔術師たちは、その保身に長けた者たちである。
戦況を理解出来ず文句を言う姿は醜悪であったが、残念なことにこの考え方は典型的な魔術師のものであり、この国に於いては少年やその父の考え方の方が異端であった。
「だからこそ我々が一刻も早くこの戦争を終わらせる魔術を生み出さなければならない」
魔術師たちの愚痴は肥えた魔術師のその一言で締められた。
彼らがここに集まる理由、それが新たな魔術の創造であった。過酷な戦争を瞬く間に終わらせる夢のような魔術。浪漫溢れる試みだが、結局のところ夢想で終わらせることを現実で行うという愚行である。
少年の父は、すぐにでもこんなことを止めてもっと現実的なことをしたかったが、これを拒否するとただでさえ余裕の無いこの状況で彼らは徒党を組んで嫌がらせや足を引っ張る行いをしてくる。不本意であったが彼らに対するご機嫌取りをしなければ、為したいことも為せなくなるのだ。
「さあ、始めるとしよう。来たまえ」
誰かを呼ぶ。現れたのは長身痩躯の男性だった。視点が常に定まらず、右往左往してしきりにこちらの顔色を窺っており、全身から卑屈さを放っていた。
「ほ、本日はお招き頂き#$%&#」
徐々に下がっていく声量のせいで後半何を言っているのか聞き取れない。
少年の父は男性の弱弱しい態度に強い不安を覚えるしかなかった。
「彼は新たな転送魔法陣を開発した。これさえ成功すれば、その気になれば大陸の一角、海の一部といった大質量のものさえ相手側に送ることが出来るのだ」
「は、はい。そ、そういうことです」
男の言葉を引き継いで魔術師が説明する。
「そうですか。それは凄い」
特に関心を惹かれる様子も無く社交辞令で返す少年の父。
「そして、その魔法陣がこれだ」
床に描かれた巨大な魔法陣を指差す。
「ではいつもの通り『記憶』しておいてくれるかね?」
「分かった。――いいか?」
父の問いに少年は首を縦に振った。
少年は床に目を向け、円形に描かれた魔法陣の中にびっしり書かれた文字をその眼に映す。少年の頭の中にその文字が見たまま刻まれていく。
一度見たものを完璧に記憶することが出来る。それこそが少年の特異な能力であり、この場に呼ばれた理由である。紙など記録に残る物が発生せず、それ故に外部に洩れることなく秘匿される。逆に情報が必要ならば少年に聞けばいい。この能力を知る者はごく一部の者たちだけであり、この国にとって少年の存在は無くてはならないものであった。
他人がこの能力についてどう思っているかは知らないが、少年は内心ウンザリしている。いくらどんなものでも記憶出来るからと言っても、少年も記憶に残したいものもあればそうではないものもある。
今、目の前で記憶している魔法陣がそれである。全体的に見て、非常に癖のある文字で書かれており見辛い。あまり品の良い字ではなく、凝視していると目の奥に鈍い痛みを覚える。
膨大な量の記憶から、魔法陣やそれを構築する文字や記号を見るとその人物の内面が透けて見えてくることがある。この魔法陣からは、凄まじいまでの虚栄心や承認欲求、他者への不満が感じ取れた。というよりも、少年にはこの魔法陣の書き方に既視感を覚える。その既視感を辿るとすぐに答えに行き当たった。
少年が先程まで家で読んでいた本の内容。つまり、あそこに居る魔術師は、あの本の著者ということである。
あの魔術師は弱弱しい外見だが、内面には溶岩の如き劣等感が煮詰まっている。
そんな感想を抱きつつ、魔法陣に目を走らせる。
(……ん?)
ある箇所で目が止まる。書かれた文字の中に一つおかしな点を発見した。読んでいた本の内容と照らし合わせると明らかな誤字である。このままでは、術が発動するか分からない。
(……)
刹那の間考えた後、少年はこれを見て見ぬふりにすることとした。
指摘して激昂されるのも面倒であり、発動しなければしないで後の仕事が減るだけである。
「――全部覚えました。もう大丈夫です」
何食わぬ顔で暗記したことを告げる。
「では始めるとしよう」
少年の報告を聞き、魔術師たちは魔法陣を囲む。
今回の目標は、この魔法陣を使用し指定箇所の一部を切り取ってこちらに送るというものである。
少年の父もその輪に並び、魔法陣に魔力を送り始める。
(何が起こるかな?)
少年は、離れた場所でそれ眺めていた。魔法陣は精密なものである為、十中八九失敗すると思っていた。
だが、少年は知らない。この世には奇跡に等しい偶然があることを。
偶然その日が、隣り合う世界と最も接近する日だった。
偶然発動させた術が、隣り合う世界に干渉する力を含んでいた。
偶然術の考案者がこの世など滅んでしまえばいいという破滅願望を持っていることを。
偶然書かれた誤字が術に攻撃性を与え、隣り合う世界との壁に僅かな傷を付けた。
偶然その小さな傷の向こう側に途方も無い力を持った存在が居たことも。
そして、奇跡というものが必ずしも人々を幸福にするとは限らないことを。
少年も誰も知らない。
◇
多くの人々が溢れかえる道。それを挟むように様々な店が並ぶ。どの店も活気づいており、常に人々の声が絶えない。
ここは七つの国の中で商業、工業が最も栄えた国。
戦争という血生臭いことを行っていても未だ日々の営みが萎えることはなく、まるで最初から無かったかのようにどの人々にも生気があった。
「ん?」
何かが裂けるような音が聞こえ、誰かが空を見上げる。周囲の人たちもまた同じように空を見上げていた。
「なんだあれは?」
空に走る一筋の亀裂。それを見て、人々はざわつき始める。
「何だ? どうした?」
「あれを見てみろ。あれを」
「兵士さんたちを呼んだ方がいいんじゃないかい?」
「私らに見えるんだ。とっくに向こうも気付いている筈さ」
「――なんか大きくなってないか?」
誰かが指摘した通り、空の亀裂は初めは徐々に、段々と亀裂が生じていくのが分かる程早くなり、最後には途方も無い長さとなる。
「何か……何か、不味くないか?」
言葉に表せない不安が自然に湧いてくる。亀裂の向こう側に想像も付かない恐怖を感じた。
あれほど賑やかであった道は今や静まり返り、誰もが空を凝視している。
「――は?」
空が急に暗くなった。
何故、と考えた者たちはその答えを知る前に圧殺された。
それに危機感を覚えた者たちもまた逃げ遅れ、発生した衝撃により壁や地面に原型を留めない勢いで叩き付けられて死んだ。
少し離れた場所でそれを見ていた者たちは、舞い上がった瓦礫や破片を頭上から浴びせられ半分が死に、もう半分は重傷を負った。
更に離れた地点で見ていた者たちは、急に起きた大地が割れる鳴動、大量に巻き上がる土煙を浴びせられ視界を塞がれ混乱する。
国を囲む壁の上から亀裂を見ていた兵士たちは、その裂け目から途方も無い怪物が産み落とされるように降ってくるのを見た。
死。轟音。混乱。平穏はほんの数秒で完全に粉砕される。誰かが痛みで叫び、誰かが助けを呼んで叫び、誰かがただひたすら叫ぶ。
阿鼻叫喚の地獄。しかし、それすら序章に過ぎない。
何千もの叫びが全て消え失せる程の咆哮が、土煙の中で放たれる。
近くでそれを聞いた者たちは意識を一瞬で断たれ、離れた聞いた者たちは恐怖で萎縮する。
土煙が全て晴れ、その中から現れたモノに恐怖は更に重なる。
長く伸びた口に均等に並ぶ鋭い牙。それを挟むようにして生える二本の一際大きな牙。後頭部と思わしき場所から一対のヒレが生え、その全身は橙、黒、白の色が散りばめられた鱗で覆われている。
一見すればドラゴンと酷似しているが、決定的に違うものがある。それはその体格。
大きい。あまりに大き過ぎる。巨大な頭部から下の胴体は太く、長く、小山すら覆い隠せそうなほどであった。
近くで見た者たちは、あまりの大きさにその全長を視界に収めることが出来ず、居る位置によっては突然壁が降って来たと思っている者すらいる。
遠くで眺めている者は、周りの建物が一瞬にして縮んだのではないかと錯覚、あるいは現実逃避をする。
巨大な生物は、周囲で立ち尽くす人間たちの姿を視界に捉える。琥珀色の瞳が怒りの色に染まった瞬間、圧倒的力による蹂躙が始まった。
頭部を持ち上げ、開口する。紅蓮の光が零れたかと思えば、巨大な火球が放たれ、呆然と見上げていた街の人々に着弾。炎に全身を焼かれ、衝撃によって砕かれる。
繁栄した街が、それを築き上げた者たちと共に破壊されていく。
誰もが混乱し、逃げ惑う。
北へ向かった者たちは多少幸運であった。巨大なドラゴンから逃れる可能性が少しだけ上がったからだ。
南に逃げた者たちは不運であった。逃げた先には必ず待ち構えているものがあるからだ。城壁の様に横たわるドラゴンの胴体。そびえ立つそれはどんな絶壁よりも容易く希望を砕く。不運はそれだけでは終わらない。ドラゴンが体を微かに揺らしたとき、その体から鱗と同じ色の粉が撒き散らされる。
それが何か認識する時間など逃げ惑う者たちには無かった。粉が宙を漂い数秒経過すると爆発し、それに巻き込まれ命を消し飛ばされる。
ドラゴンが移動するだけで圧殺される命。移動の度に撒かれる粉の爆発によって消える命。吐かれた火球によって滅せられる命。
全ての命が塵芥の如く消えていく。
だが、ドラゴンは容赦無く蹂躙し続けていく。腹の底から湧く怒りによって目の前に映る矮小な命を潰していく。
理不尽な所業。しかし、そのドラゴンもまた同じく理不尽な目にあっていた。
突如、前触れも無く見たこともない場所に無理矢理連れて来られ、放り投げられた。これに怒らない訳が無い。
だから壊す。目に映る全てを。怒りのままに。
この怒りは、彼らと共通するものであった。
◇
空。それは蒼く続く果てしなく、遠いもの。
数百年前、とある一族は、安住の地を彷徨い求めた末に誰の手も届かない空に手を伸ばし、それを唯一手にした。
雲を大地とした空の国は、少しずつ民を増やしながら誰からの侵略も許すことなく降り注ぐ太陽の煌めきを独占し、平穏に過ごしていた。
だが、数百年という時間は彼らに平穏を与えると同時に、小さな歪みも与えた。
歪みは民が増える度に徐々に大きくなり、大地で争いが起きればまた大きくなっていく。
地上を見下ろす我々こそが真に地上を制するべきなのではないか
やがて歪みは彼らに一つの解答を与える。
この日を境に彼らは天空人と自らを名乗り、空を制する自分たちこそが大地を統治するのに相応しいと戦乱の中で名乗りを上げる。
当然各国は反発するが、空に住む彼らを攻める手段は無く、天空人の方は雲を自在に操り、それを移動手段として神出鬼没に現れては空から魔法や兵器を降らせていく。
圧倒的優位な戦況は、彼らに優越感と自分たちは正しかったという慢心、傲慢さを生み出させる。
この優位は絶対に変わらない。そう彼らは確信していた。この日までは――
「うああああああ!」
絶叫を上げ、男が飛ばされる。飛ばされる先には分厚く、そして渦巻いている灰色の雲。その中に呑み込まれ、悲鳴ごと消え去ってしまった。
だが、その最期を見届けた者は誰一人居ない。そんな余裕などこの場に居る者たち誰もが持ち合わせていないからである。
痛みすら感じるほど激しく降り注ぐ豪雨。何かに掴まっていないと吹き飛ばされてしまうほどの暴風。
暴力に等しい嵐に彼らは蹂躙されていた。
雲よりも高い場所に住む彼らが嵐に遭うなど本来ならば在り得ないことである。天候の上に立つからこそ天空人と名乗っている。
しかし、その在り得ないことが起きてしまった。アレが嵐と共に現れたことで。
嵐すら霞む咆哮が響き渡る。直後、直線状に束ねられた何かが風を、雨を斬り裂き、雲の大地に突き刺さった。
それは雲の大地を貫き、下まで達すると縦に、横にと動き、大地を切り分けていく。
大地に描かれた線。その線と線とが繋ぎ合わさったとき、その内にある建物、人、物が空から切り離される。
「きゃああああああ!」
「誰か! 誰かぁぁぁぁぁ!」
救いを求める声も暴風で掻き消され、絶望に満ちた顔も豪雨で覆い隠される。
彼らは思い知らされる。天空の真の支配者を。神に等しいその存在を。
荒れ狂う暴風の中、それはまるで微風の中に居るかのように静かに、そして揺らぐことなく空の大地に降りてきた。
後方に向かって生える冠のような黄金の角。白と黒が入り混じった甲殻。全身に生えているヒレはまるで衣を纏っているかのようであった。
その姿はドラゴンに似ていたが、その身から放たれる神々しさと威圧感はドラゴンの比では無い。
空の大地に降り立ったそれは、決して地面にその身を着けようとはせず、宙に浮き続けている。まるでこの大地が不浄のものだと言わんばかりに。
現れたそれに危機的状況だというのに天空人たちは目を奪われる。まるで神が降臨したかのような光景。
ならば神は何をしに降り立ったのか? その答えは現状からすぐに察せられる。自分たちを天の支配者だと勘違いし、自惚れた者たちに罰を与える為である。
神がその長く伸びる胴体を捻じり上げる。すると、荒れ狂う風が、雨が、神の意に操られるかのように一点に集い始めていく。
それだけではない。人々もまた集う力に引っ張られ、神の下へと引き寄せられていく。
何かにしがみつこうと、必死になって走ろうとも、抵抗を嘲笑うかのように引き寄せる力はそれらを上回る。
引き絞る力はやがて解放され、ドラゴンはその身で螺旋を描く。
描かれた螺旋に沿うようにして解放された力は渦巻き、瞬く間に全てを飲み、砕く竜巻へと変貌する。
竜巻の唸る音がまるで怪物の咆哮を思わせ、竜巻は引き寄せていた者たちを次々にその中へと引きずり込んでいく。
それだけに留まらず、竜巻は地面と化した雲すら取り込み始め、どんどん巨大化していく。
呑み込み、砕き、破壊する。やがてそれが限界を迎えたとき――
地上。強い風と雨に晒されるとある民家。中では板などで内側から補強し何とかこの嵐を耐えようとしていた。
補強の為に張った板の僅かな隙間から、その民家に住む子供は外を見る。初めて経験する嵐に恐れよりも、外がどうなっているかという好奇心が勝っていた。
木々が真横になるまでしなり、地面は全て水浸し。その上を空の桶が勢い良く転がっていく。
ふと子供は空を見上げる。そこには先程までの光景が全て忘れてしまうほどものがあった。
「お母さーん! 見て見て!」
それが何を意味するのか分からず無邪気に呼び掛ける。
「お空が落ちてくるよー!」
◇
人を人たらしめるものは何か?
その問いに対し一人の人間はこう答えた。
『それは法だ』と。
争うことも傷つけ合うことも獣でも魔獣でも出来る。ただ、自らの生き方に法という制限を与え、己を律することが出来るのは人にしか出来ないことである。
故にその答えを出した者は、絶対的な法を作り、法によって全てに判決を下す王国を築いた。
全ては人々の幸福を考えて。
だが、時間が経てば原点にあった思いは徐々に薄れていく。
法を絶対視するあまり、それを神と同等と考えてしまい、法の名の下にこの世の全てを管理しようとする者たちが王国の中に現れた。
最初は少数。しかし、時が過ぎていく内に三分の一に。やがて半数。最後に多数と化す。
多数と化した時点で王国は全てを法の中に収める為に戦いを始める。
属する者たちには慈悲を。敵対する者たちには裁きを。
全ては法によって築かれる理想郷を信じて。
「うるあああああああああ!」
獣の咆哮が白亜の王国で木霊する。おかしなことにその獣には毛皮も鋭い爪も牙も尾も無い。まるで人のような姿。だが、その行いは人のものではない。
倒れ伏した同族に跨り、奇声を上げながら何度も殴打するその姿に何の理性も知性も無い。
こんな者が人である筈がない、と見る者が居れば叫んでいただろう。
だが、その人物も、そしてそれが跨っている者も間違いなく人であった。
「あああああああああああ!」
「がああああああああああ!」
「じゅらああああああああ!」
見れば所々で同じような光景が繰り広げられている。
老人が子を殴り殺し、女が男の喉元に喰らい付き、子供が手に持つ刃で母を刺す。誰もが自らの行っている行為に疑問も躊躇も無い。
狂気。その言葉だけで誰もが動いている。
法の下に生きていた者たちは、それが何なのかすら理解出来なくなっているほどの狂気に身を任せ、ただひたすらに殺し合う。
ほんの少し前まで彼らは人であった。ならば何が彼らを獣以下の存在へと堕としたのか。
異変。それは、この白亜の王国が黒い闇に覆い尽くされたときから始まった。
太陽が落ちて生まれる闇とは違う。極小の黒い粉のようなものが王国全て覆い尽し、日を遮り、闇を作り出した。
闇を生み出す粉を吸い込んだ者はたちまち理性を失い、周りの者たちに襲い掛かる。極短時間でそれは国民全てを蝕む。
最早、誰一人としてまともな思考が出来る者は居ない。かつて法と理によって管理されていた王国は、狂気と暴力によって崩壊していく。
誰もが暴れることしか考えられない。だからこそ気付かない。暗い闇に染まった空に浮かぶ黄金の光に。
太陽の輝きとも月の輝きとも違う、それ自身が放つ眩い黄金の輝き。
しかし、目を奪われる煌きの下で理性を奪われた者たちの壮絶な殺し合いが繰り返される。その輝きが狂気を生み出しているかのように。
それは災禍の輝き。
だが、それを理解出来るほどの知性を持った者は、既にこの国には残されていなかった。
◇
大きな山を、丸ごと使って創られた国がある。山の中央に街が栄え、それを守るようにして天然の防御壁に囲まれており、敵対者の侵入を拒む。
過去に四つの国に七度攻められながらも決して陥落されることなく、逆に攻めてきた国を疲弊させ追い返した。
難攻不落。その言葉はこの国にこそ相応しい。
しかし、絶対とも呼べる守りを持つ国は、今圧倒と呼ぶに相応しい脅威によって危機に陥っていた。
「大砲を! もっと大砲と砲弾を!」
防御壁の上で、国を守る兵士が叫ぶ。その声にせかされて砲弾を持って兵士が走り寄ってくるが、突如として転び、鉄の弾が地面を転がっていく。
しかし、叫んでいた兵士はそれを咎めない。そんな余裕すら無い。必死の形相で大砲にしがみつき、何とか踏みとどまっている状態の彼。
一体何に耐えているのか。その答えは転がっていく砲弾が示していた。
轟音が響く。すると転がっていた砲弾が轟音に合わせて何度も跳ねた。
まともに立っていられない程の揺れ。それが兵士たちから自由を奪っていたのだ。
「早く! 早く砲弾を――」
急かす声。だが、残る言葉は破砕音によって掻き消される。
倒れていた兵士は、転がる砲弾を何とか拾い上げ、顔を上げる。
「あっ」
最初は大木が根を下ろしている様に見えた。太い根が大砲ごと兵士を押し潰し、そこから更に太い幹が続いている。
だが違う。根に見えたそれには鋭く、太い爪が生え、根から幹にかけて鱗が連なっている。
それが大きな手であった。しかし、常識がそれの認識を拒ませる。腕だけでこれほど大きいのならば本体はどれほどの大きさだというのか。
その答えは、腕の主からすぐに教えられる。
「来たぞぉぉぉぉぉぉ!」
別の兵士が叫ぶ。
見上げたその先にあるのは、鋭い刃が連なる巨大な胴体。人が縦にどれだけ並べられるのか分からない程に太い胴体が捩じれながら城壁にその体を押し当てる。
途端、触れた箇所が抉り取られていく。この巨体には岩がまるで焼菓子のような脆さへと成り下がってしまう。
巨大な胴体はその兵士側だけにではなく、反対側にも右側にも左側にも見え、国を囲んでいる。巨大なだけで無く、途轍もなく長い。
城壁が抉られる度に、山にその巨体が押し当てられる度に立っていられないほどの揺れが国全体を襲う。
「化物めぇぇぇぇ!」
圧倒的存在を前にしても気力を失わず、大砲で果敢に反撃する兵士たちも居た。だが、決死の思いで撃ち出した砲弾も、鱗に直撃させても突き破ることが出来ず、逆に鱗の硬さに負け潰れてしまう。
絶望的なまでの力の差。兵士たちの戦意は見る見るうちに萎んでいく。
だが、相手は手を緩めることなど無かった。
捩じりながら動いていた胴体が、その動きを止める。
大樹のような手が、もう一本城壁に振り下ろされた。
頭上から迫る膝を屈しそうになるほどの重圧。その重圧に身を震わせながら、兵士たちは上を見上げた。
その瞬間、兵士たちは自分たちの心が折れる音を聞いた気がした。
胴体よりも更に密集して生える刃。首や胴体の区切りなく長く伸びた頭部は、蛇と酷似したものであり、実際赤い目に縦に裂けた形の瞳孔、先の割れた舌を口から出し入れしている様子は蛇そのもの。
しかし、いくら蛇に似ていようと何の救いも無い。化物、怪物という言葉など生温い伝説と呼ぶに相応しい巨体。
この国の方がこの蛇よりも大きい筈だというのに、蛇が放つ存在感はこの国を矮小な存在に変えてしまう。
兵士たちは誰も構えることはしなかった。目の前の存在に何をすればいいのか分からない。何一つ考えが浮かばない。
兵士たちの前で蛇はその口を大きく開く。上顎と下顎がほぼ直角に開かれ、口中の連なった牙が露わになる。
蛇の口内に蒼白い炎のような光が溢れ出る。
その光が何なのか。兵士たちが知ったとき、彼らは蒼白い光によってこの世から消え去っていた。
間も無くして国中の者たちは、大きな折れる音を聞いた。
それは、この国が山ごとへし折られた音であり、難攻不落という誇りが折れる音でもあった。
◇
最強とは何か?
それを考え追求した国があった。
その国が最強に対して出した答えは、質と量の両立である。
数が多くても烏合の衆では役に立たず、質が良くとも数が上回れればいずれ負ける。
故に国は多くの兵士を備え、同時に質を高めさせる為の訓練を行わせた。
訓練だけに留まらず、優れた武具も兵士たちに与えた。死ににくい兵士を生み出せば、後の質の向上に繋がることが分かっているからである。
やがて国は唯一無二の軍事国家となった。
だが、軍を維持するには多くの資金が必要になってくる。その為に他国と戦争し、勝ち、あらゆるものを奪い取り、やがて吸収する。
これを繰り返した結果、常に戦争をしなければ成り立たない国と化してしまった。しかし、国民はそれを嘆かない。そうならないように幼い頃から今の形こそが幸福であると教え込まれているからだ。
戦争は幸福の為の過程であり、手段である。それこそがこの国の総意。
それが揺るぐことのない真実であった。
その日までは――
天を震わせるような咆哮が国中に響き渡る。
その咆哮を耳にした誰もが恐ろしさに身を縮ませ、赤子同然と化す。
咆哮を上げた主は一頭のドラゴンであった。
光を吸い取ってしまいそうな漆黒の肉体には逆向きに生えた鱗が生え揃っており、更にそのどれもが刃の鋭さを備えていた。
その巨体を四肢によって支え、背には一対の翼。ドラゴンの頭部には、重なって出来たであろう王冠の如き角が前方に突き出すように生えている。
そのドラゴンの大きさは、決して大きいものではない。このドラゴンと同程度のドラゴンを何度も倒した経験を兵士たちは持っている。
だが、その内に秘めた力は並のドラゴンの比では無い。
ある兵士は、焼き尽された死体となり、ある兵士はその肉体を三つに分割され、ある兵士はその体に蚯蚓腫れのような火傷を残して死亡し、ある兵士は氷の彫刻と化していた。
全て一頭のドラゴンによって行われたものである。
兵士たちが武器を構え、果敢にも突撃する。
ドラゴンの体に紫電が走ると天に向かって吼える。すると空から雷が降り、突撃してきた兵士たちを貫いた。
一瞬にして数十の命が散る。
ドラゴンの体に再び変化が起きる。黒い体表に赤い線が血管のように伸びると、ドラゴンの口から灼熱の火炎が吐き出された。
辛うじて落雷から逃れた兵士たちがこれに呑まれ、炎の渦に閉じ込められその身を焼かれる。
火、雷、氷を操り、屈強な兵士たちを容易く屠っていくドラゴン。勿論、ドラゴンの対象は兵士たちだけでは済まない。国民すら容赦無く葬っていく。
最強と信じていた力が、更なる最強によって蹂躙されていく。
あってはならない惨劇。起こってはならない悲劇。だが、一つだけ救いがあるとすれば――
今日、この日戦いの輪廻が終わる。
◇
歴史というものは過去から今に伝えられていく思いである。
亡き先人たちの想いを引き継ぎ、後の世に伝える。これほど誇らしいことがあるだろうか。
あらゆる国の中で、最も歴史の古い国。かつて栄華を極め、世界の殆どをその手中に収めた大国でもあった。
しかし、時が進めば全てが変わっていく。かつての大国も、今では一つの国に過ぎなかった。
歴史の語り手として、正しい歴史を知るこの国の者たちは、今置かれている自分たちの状況を甘んじて受け入れることが出来なかった。
かつて全てを支配した者たちの一族。故に全てを治める正統な資格が自分たちにはある。
皮肉にも紡がれた歴史は、彼らに誇りと共に野心も与えてしまった。
しかし、生まれた野心も繋がれた歴史も終わり、途切れる日が来る。
だが、その日はあまりに唐突であった。
「ああ、ああ……」
老人は目の前で繰り広げられる光景を、その老いた眼で見ていることしか出来なかった。
伝統ある建造物も、先人が彫り出した石碑も、長い歴史を収めた書物も、ある厄災によって失われていく。
正確に言えばそれは生物であったが、それの行いは厄災そのものであった。
視界に収め切れ無い体格に、山肌を彷彿とさせる凹凸のある外皮。胸の中央には太陽を収めているのではないかと錯覚するほどの橙色の核を持っており、そこから体全体に血のように橙の光を巡らせている。
ドラゴンのような姿だが翼は無く、代わりに一対の山のような突起。その突起の先端からはマグマらしき炎の塊が噴き出していた。
ドラゴンが歩く度に、その身から放たれる熱で周囲の物が燃え始め、落下する溶岩は呑み込んだ全てを焼滅させていく。
まるで生きた火山であった。
ただ進むだけで、あらゆるものが灰塵と化していく。
伝統が、歴史が、未来に伝えるべき知識が全て大地へと還る。
老人はそれを見て悟る。自分たちは長く存在し過ぎたのだと。
長く続いた歴史をゼロに戻す為に、神から使者が送られてきたのだと。
全てが還る。人も、物も、歴史も、灼熱の大地の中に還っていく。
後に残るのは美しさすら感じさせる灼熱の平野のみ。
◇
『……』
魔法陣に魔力を流し込んでも何も起きず、場に居心地の悪い空気が流れる。
「失敗、か……」
皆が考えていることを、少年の父が代弁した。
「こ、こんな! こんなことが!」
魔法陣の作成者はただでさえ悪かった顔色を更に悪くしながら、ヒステリックに叫んだ。
「な、何かのま、間違いです! こ、これは! 何かの!」
必死に弁明するが周りの上位魔術師たちの視線は冷めたものであった。
(まあ、実際に間違っていたんだけどね)
間違いを黙っていた少年であったが、その魔術師の狼狽ぶりを見て流石に可哀想に思えてきた。
「時間の無駄であったみたいだな?」
肥えた上位魔術師の言葉にびくりと体を震わせる。
「もう一度! もう一度だけ機会を! こ、今度こそは必ずせ、成功を!」
「我々は暇ではないのだよ」
突き放す言葉に、最早死人に等しい顔色となる。
「もう一度だけ!」
「分かった」
見兼ねたのか少年の父が、その頼みを了承する。
「勝手なことをしないでもらえるかな?」
「あと一回ぐらいならば、暇の無い我々でも大丈夫でしょう?」
皮肉に聞こえる言い方に、上位魔術師たちは顔を一瞬顰めるが少年の父の実力を知っている為に強くは出られなかった。
「……あと一度だけですぞ」
「あ、ありがとうございます! ありがとうございます!」
何度も頭を下げ、礼を言う。
父が再実験を許したのを見て、少年は間違っていた箇所をこっそりと修正しようとし――
「ん?」
――足を止める。
魔法陣の上にいつの間にか別の魔法陣が浮かんでいた。地面に描かれた魔法陣と同じ文字が描かれている。
失敗したかと思われたものが時間差で起動しているようであったが、少年は何か違和感を覚えた。
この魔法陣は転送する為の魔法陣である。もし、この宙に描かれた魔法陣が本来転送先に現れるものならば、一体何が送られてくるのだろうか。
「あ、あれ?」
時間差で成功したことに喜んでいた魔術師であったが、作った張本人である彼も魔法陣に違和感を覚えていた。
「ち、違うぞ? ど、どういうことだ? こ、この感じは……? 向こうから、何かが来る?」
描かれた魔法陣が激しく震え始める。やがて、その魔法陣から――
◇
「え……?」
見渡す限りの大地。ここに自分が前触れも無く立っていることに気付き、戸惑いの声を洩らす。
さっきまで魔法の実験の為に地下に居た筈なのに何故自分はここに居るのか。
前後の記憶が無い。完全な記憶力を持つ少年にとって在り得ないことであった。
思い出そうと記憶を辿る。
「痛っ!」
途端、針を刺されるような痛みが少年の脳内に走った。思い出すのを拒むかのように。
「父上! 父上ぇぇぇぇ!」
父を呼んでも返事は無い。この広い大地に少年ただ一人であった。
「戻らなきゃ……」
一刻も早く国に帰らなければならない。何が起きたのか知る為に。
少年は丸一日掛けて周囲の地形を調べた。そして、脳内に記憶した地図と照らし合わせて自分が今何処に居るのかを調べ出す。
記憶ある地図だと少年が居る地点は、国から数十キロ離れた場所であった。
乗り物を使えば一日か二日で辿り着けるが、生憎そんなものは無い。
少年は歩いて目指すことにする。誰かが通り掛かるのを待つなど悠長なことなど出来なかった。
幸いにも少年は、初歩的な魔術が扱えた。火を出し、水を出すことが出来る。
火により獲物を狩って食料とし腹を満たし、水の魔術で喉を潤す。
子供の足では一日に進める距離はたかが知れており、更には食料を確保する時間も必要であった。
少年が故郷に辿り着いたのは、見知らぬ場所に飛ばされて一週間ほど経ってからであった。
「あれが……?」
故郷を目視したとき、初めは冗談に思えた。仕方のないことだろう。全て焼け落ちて、廃墟と化している場所と少年の記憶の故郷は重ね合わなかった。
「嘘だ……」
呆然としながら少年は廃墟の中に入っていく。
中には無事なものなど何も無かった。全てが破壊され、炎で焼かれ、黒く染まっている。
「こんな、何が起こって……あう!」
足に何かが引っ掛かり、少年は転倒する。少年が足元を見る。黒く焼け焦げた塊。良く見れば、見覚えのある形をしている。
「うっ!」
それが人だと気付いた瞬間、少年は嘔吐していた。
見渡せば同じようなものが至る所に転がっている。
漂う焼け焦げたニオイは人が焼けたニオイ。肌に纏わりつくような空気は、焼けた人の脂が混ざり合ったもの。
不幸にも完全な記憶力を持つ少年は、それら全てを記憶してしまう。
胃の中のものが無くなるまで吐いた少年は、口を拭いながら立ち上がる。
ここで折れる訳にはいかない。まだ父を見つけていない。
勇気を奮い立たせ、実験を行った建物を目指す。
「ああ……」
目的の場所に着いた少年の口から出たのは、絶望の声であった。
荘厳な建物は潰れていた。それだけでなく、大きく凹むように潰れているのだ。それは地下も完全に潰れている何よりの証拠であった。
「一体何が、何が起きたんだ?」
問いてもその答えをくれる者は誰も居ない。
――否、一人だけ存在した。
「思い出せ……! 思い出せ……!」
少年だけがあの時何があったのか全て見ている。
意を決し、あの時の記憶を蘇らせる。
その途端、針を刺すような痛みが走る。構わず記憶を辿る。
針は釘に変わり、釘は剣と変わり、その度に痛みが増していく。
「うぐ! うああああ!」
地面を転がりながら、その痛みに耐える。
貫く痛みが、彼の脳内から記憶を抉り出そうとする。
「ああああああああああ!」
――何だあれは?
――ドラゴン?
記憶の断片が蘇ってくる。
――お、大きい! こ、このようなドラゴンが存在したとは!
――素晴らしい! これほどの存在が召喚されるとは!
歓喜の声。だが、それはすぐに絶望の声と化す。
――うああああああああ!
――逃げろ! 逃げろぉぉぉぉぉ!
――ま、魔術が! い、一切効かぬ!
逃げ惑う魔術師たち。絶望は加速する。
――と、扉が!
――誰か! 誰かここを開けろ!
――来る! 奴が来る!
声が一つ一つ消えていく。
――ここまでか。せめてお前だけは!
――逃げろ。お前が生き延びてここであったこと全てを伝えろ!
――奴は逃さん。この地下ごと押し潰す。
――遠くへ。危険の無い遠くへお前を飛ばす。
――お前の成長を見届けられなかった父を許せ、エン。
最後に思い出したのは、少年の名を呼び、微笑む父の顔。
「思い、出した……! うあああああああああ!」
忘れていたのではない。自ら封じていたのだ。父の死ぬ間際の顔を。
あの黒いドラゴンの恐怖を。
魔王の如き四本の鋭角。黒よりもなお黒いその姿。
全てを黒く塗り潰す次元の違う強さ。
思い出しただけで、心が恐怖で壊れそうになる。
「うあああ! ああああああ! ああああああああああ!」
内に溢れ出る恐怖を叫びに変え、地面の上で身悶える。何度も、何時間もそれを繰り返し、やがて喉が枯れ果てたとき、少年は立ち上がった。
「……伝えなきゃ。誰かに。このことを……」
幽鬼のように力無く立ち上がり、ふらつきながら少年は歩み始める。
少年の第二の人生は、黒く塗り潰されたこの場所から始まった。
◇
「……さっきから何ボーっとしてんだ、爺。ついに耄碌したか?」
千年ほどの過去へ思いを馳せているエン・ドゥウに、エヌが憎まれ口を叩く。
「もう。失礼だよ、兄さん」
「けっ」
エムが咎めてもエヌは反省した様子は無い。
エン・ドゥウは、それを見て小さく笑う。
「どうかしましたか?」
「いや、この時だけは平和だな、と思って」
「寝言は寝て言え。外には訳の分からん奴らがうじゃうじゃしているし、あんたの目の前にも平和とは無縁の奴が居るっつーのに」
氷漬けの竜を顎で指す。
「まあ、ごたごたしていた昔に比べれば、ね」
故郷を去ってから分かったことだが、敵対していた国も謎の生物の襲撃を受け、壊滅状態となっていた。
その国の文化、文明は全て跡形も無くなり、各国がそれを独占していたせいもあって、あらゆる技術が数百年後退してしまった。
国を滅び尽くすまで暴れた強大な生物が何処に消え去ったのか、今でも謎である。
あの黒いドラゴンのように召喚され、術の効果が切れて元の場所に戻ったのかもしれないというのが、エン・ドゥウが憶測で出した答えである。
しかし、時が進み、あれ程の脅威では無いが未知の生物たちが姿を見せ始めてきた。
彼らを見た時、エン・ドゥウは彼らが黒いドラゴンと同じ場所から来たと直感した。
今はまだ大丈夫だが、いずれは――
「事は急ぐに越したことはないね」
その日が来るまでに力を蓄えなければならない。
あの時の惨状を繰り返さない為に。
少年――エン・ドゥウが廃墟と化した故郷から立ち去って間も無くした頃、瓦礫と化した建造物の上に歪みが起きる。
大人の掌ぐらいの大きさで、揺れる水面のような歪みから何かが地面に落ちた。
地面に落ちたのは一匹の蟻であった。
蟻は触覚を動かし、その体には見合わない立派で頑丈そうな顎を数度動かすと何事もなかったように何処かへ向かって這っていってしまった。
世界はまだ繋がっている。
久しぶりの投稿となります。今年中に本編終わらせたいと書きましたが無理そうな感じです。
この話では古龍を七頭出しましたが、他にもゴグマジオスや、ミラボレアスと一緒にミラバルカン、ミラルーツを出そうと考えましたが止めにしました。収拾がつかなくなりそうだったので。
とりあえず本編にこのクラスの古龍を出したら、こんな感じで一方的に終わってしまうと思って下さい。