「はあ……」
窓枠に頬杖を突きながらティナは溜息を吐く。何度目か数えるのも面倒な程それを繰り返していた。
「姫様。少し横になられた方が……」
「眠れないわ。今の私は」
心配し、休むよう促してくるケーネの言葉を、ティナはにべもなく却下する。
「早く出発出来ないの?」
少し苛立った口調でティナは現状を聞く。
「何分予定よりも早く行軍したせいもあって、兵たちは皆疲労しています。それにこの間のこともありますので動揺もまだ残っています。――兵も命を落としているので。暫くの間は補給や休養で動けないかと……」
「そう言って何日もこの町で足止めしているじゃない!」
苛立った声は荒立ったものへと変わる。
「その間にもしあの時の怪物がまた現れたらどうするの! オーは居ないのよ!」
「まだオー様が死んだと決まった訳ではありません」
「でも! だって! 何も――」
そこまで言ってティナは言葉を呑み込んだ。
「……ごめんなさい。八つ当たりだったわね。こんなことしても何の意味が無いっていうのに……。私だけが焦っている訳じゃないのにね。兵士たちにはきちんと休むように伝えておいて。結局、私は兵たちが居なければなにも出来ないっていうのに」
感情を昂らせた自分の醜態を客観視してしまったのか、別人のように気落ちする。
「姫様の気持ちは御理解出来ます。……私も不安で仕方ありません」
オーとケーネの付き合いは長い。彼女の人生の記憶の三分の二にはオーと共にあった。血は繋がってはいないが、ケーネにとっては人生の師であり、祖父のような存在である。だが、ティナとオーの付き合いはケーネよりも更に長い。
ティナが生まれたときから常にオーは側に居た。国を治める立場で多忙な父母や近隣諸国との政治で忙しい兄や姉たちよりも一緒に時を過ごした。立場の為、声を大にして言えないがティナにとってオーは育ての親である。
そんな身内よりも強い絆で結ばれたオーが生死不明の状態とあれば、精神的にまだ大人に達していないティナが焦り、不安になることはおかしくない。当然と言える。
「……ケーネ」
「はい」
ティナは無言でケーネの胸に顔を押し当てる。ケーネはそんな彼女を優しく抱き締める。昔からティナが泣きたくなったときや傷付いたときは、今のようにケーネが慰めていた。
しかし、今回ばかりはケーネも泣きたい気持ちであった。感情を何とか制御出来たのは、偏に年の功であろう。
ケーネはティナを抱き締めながらも、ティナの頭に額を当てる。彼女の体から漂う花の香りが、心の悲しみを少しだけ和らげてくれた。
◇
それなりの規模の町には、いざという時の為に兵士が休めるよう兵舎が置かれている。が、そこで休められる兵士の数は決まっているので収まり切れなかった兵士たちは、国営の兵舎よりもワンランク下がる個人が経営している宿屋に泊まり、更にそこにも入り切れなかった者たちは、町の外で野営となる。
実地訓練という名目でこの野営となるのは大概が新兵たちであった。
町から少し離れた森の近くで軽鎧を纏った新兵たちが、寝床となるテントを張る光景が見られる。
「はあ……羨ましいよ。上の連中が」
新兵の一人が焚き火をしながら同期の新兵に愚痴を溢す。
「そういうなよ。兵になる前から分かってただろう? こういう損は俺たちに回ってくるって」
慰めるように肩を軽く叩く。
「ここじゃ何にも楽しめるものなんて無いっつーの。町の中じゃ、今頃酒や女で愉しんでいるかもしれないんだぜ? 俺らのやることなんてテントを張るのと火の番ぐらいだ」
乾いた枝をへし折り火の中に放る。
町に寄る兵士がやることと言えば新兵が言ったように酒を飲んで陽気になり、女と戯れて嫌なことを忘れるのがお決まりであった。
「……今回はどうかな? 死人が出ているしな。流石に羽目を外さずに自重するだろうさ」
「あれのことか……。お前は見たのか? 俺は前の列に居たから見ていないだが……」
「俺は、直接は見ていない。見ていないが……死んだ奴なら見た。……あんな死に方はごめんだな」
脳裏に死んだ兵士のことを思い出す。あまりに強い一撃で、詳細は省くが本来ならば収まっている筈の体の内側の色々なものがはみ出てきていたという有り様。
「オー様には感謝しないとな。あの人が一人で引き受けてくれたおかげで犠牲も最小で済んだし、その犠牲になった奴もちゃんと墓に入れてやれた」
「凄いじいちゃんだよなー」
「気安く呼ぶな。俺たちとあの人じゃ、天と地以上の差があるんだぞ」
「へいへい」
咎められても大して反省した様子もみせず、新兵は枯れ枝を火にくべる。
そのとき、肩に何が落ちる。見ると白い液体に粒上の固形物。
「うへえ!」
新兵は顔を顰める。肩に付着したのは鳥のフンであった。
「ははははは! 気安く呼んで罰でも当たったか?」
「うるせえよ。くそっ。何か拭くもんは無いか?」
「ほらよ」
擦り切れたボロ切れが投げ渡される。ボロ切れも薄汚れていたが、無いよりもマシである。
「ったく。ついてねぇなー!」
文句を言いながら、フンで汚れた箇所を拭う。
「はははは! 俺も気を付けないとな!」
笑いながら上を見上げる。すると、笑い顔は消え、訝しむ表情となる。
同期の急な表情の変化に、新兵は思わず尋ねる。
「どうした?」
「――上」
空を指差すので、その指につられて空を見上げる。
「何だありゃあ……」
青を埋め尽くす程の鳥の群れが空を渡っている。
「こんな時期に渡り鳥か……?」
「いや、違うだろ……」
すぐにその言葉は否定される。同じ種類の鳥で形成された群れでは無く、種類を問わず大小様々な鳥たちが一斉に飛翔していた。
「お、おい! あれ!」
「うお……ワイバーンも……」
鳥たちの群れに混じって大きく翼を羽ばたかせるワイバーンの姿。注意して見れば、ワイバーンだけでなく翼を持つ様々なモンスターも群れの中に混じっている。
異種の大群が次々に頭上を通過していく。
「何であんな大移動を……」
「住処を追い出されたとか?」
「あんな一斉に逃げ出す奴なんているのか?」
「そんなの俺が知る訳ないだろうが……」
モンスターたちの空の大移動。見ている側に言いようの無い不安と不吉さを与える。
「……なあ」
「何だよ?」
「……すげえ嫌なこと考えたんだけど」
「だから何だよ?」
そこで彼は唾を呑み込み、乾いていく喉に一時的な潤いを与える。
「あんだけのモンスターが空を飛んで逃げるんなら、飛べない奴らも逃げるよな?」
「まあ、そうだろうな」
「地面を走ってさ、一直線に」
何が言いたいのか分かってくる。
「あの鳥たちの進路方向に俺たちや、町が有るんだよな」
「まさか……」
カタン、という崩れる音に驚いて反射的にその方向を見る。積んであった枯れ枝が崩れる音であった。
大袈裟に反応してしまったことに、二人とも内心で恥ずかしがりながら落ちた枯れ枝を積まれた山に戻す。
「何だよ、ビビッてんのか?」
「お前もだろうが」
互いに茶化し合う。胸の中に棲みついた恐怖を紛らわせる為に。
再びカタン、という音が鳴る。積まれた山から枯れ枝が転がり落ちる。
またかと思い、その枯れ枝を山に戻そうしたとき、積まれた山が一斉に崩れた。
地面を転がる枯れ枝が、新兵の爪先で止まる。その枯れ枝は何もしていないのに細かく震えていた。
新兵たちの顔からゆっくりと血の気が引いていく。そして、恐る恐る地面に顔を近付け、大地に耳を当てた。
絶え間なく聞こえる地鳴り。無数の足音が重なり、巨大な音と化す。
「誰かー! 誰か警鐘を鳴らせ! 隊長たちに報せろ! 凄い数のモンスターがこっちに向かって来てるぞ!」
◇
カーン、カーン、カーンという激しい鐘の音が急に聞こえティナたちは驚く。
「な、何事!」
「すぐに聞いてまいります!」
ティナたちが居るのは兵舎から少し離れた場所にある貴族専用の建物である。数分もせずに往復出来る距離のため、ケーネは急いで兵たちに事情を聞きに行こうとする。
「よろしいでしょうか!」
その前に建物周りを護衛していた兵士が扉の前で声を張り上げる。
「何があったのですか? この鐘は?」
扉越しにケーネが問う。
「詳しい事情はまだこちらに伝わっておりません! 今確認している最中です! どうやら鐘は野営をしている者たちが鳴らしているようです!」
「野営……何か森付近であったのでしょうか……」
「確認が終わるまで姫様たちはここで待機を!」
「分かったわ。貴方たちも気を付けてね」
「はっ!」
慌ただしい足音が扉から離れていく。
「急な警鐘……まさか、あの時の怪物が私たちを追い掛けて……?」
「まだ分かりません。兵たちが情報を持って来るまで今は待ちましょう」
震えるティナをケーネは抱き寄せる。ケーネの暖かさを感じ、ティナの震えは少しだけ治まった。
◇
野営周辺では兵士たちの怒号が行き交っており、殺気立っている。
「おい! 隊長たちは呼べたのか!」
「今行っている最中だ!」
「偵察しにいった奴らは!」
「まだ戻っていない!」
「早くしないと間に合わないかもしれないぞ!」
「うるせえ! 喚いてないで準備しろ! 戦いのな!」
警鐘を鳴らして数分の間に、兵士たちは装備を整え、偵察班を編成して様子を見に行かせた。
「思い過ごしだったらどうする?」
「俺たちが隊長たちにぶん殴られるだけで済む。――でもな、入隊した時に嫌でも覚え込ませられただろう? 『少しでも異変を感じたら即皆に伝えろ! 後のことを考えて動かない方が問題だ!』ってな」
確証が有る訳では無い。それは今確認している。思い過ごしなら思い過ごしで会った方がいい。ただ、前兆と呼べるものを見せつけられたせいで嫌な方向で予感はしていた。
「でんれーい! でんれーい!」
偵察に向かっていた兵士の一人が血相を変えて戻って来る。汗だくの顔に、着ている筈の鎧や武器が全てなく衣服だけの姿。
その姿を見ただけで兵士たちは悟った。装備を全て捨て、身軽にならざるを得ないほどの緊急事態。
「か、数は不明! 途轍もない数の、モ、モンスターたちがこっちに、む、向かって来ている!」
「距離は!」
「距離は――」
倒れる音。折れる破砕音。それも一つや二つのではなく無数。森の木々が蹂躙されていく音が、偵察の兵士が走って来た方向から追い掛けるように聞こえてくる。
「今すぐ町に向かうぞ! 姫様と町人たちを避難させろ!」
「急げ! 急げ! 時間が無いぞ!」
最低限の荷物を持って兵士たちは町に向かって駆け出す。背後から聞こえる倒木の音は更に近くに聞こえ、倒木の音に混じって獣の鳴き声も聞こえてくる。
脅威がすぐ側まで接近していた。
町の入口まで来ると、警鐘を聞いていた町に待機をしている兵士たちが彼らを待っていた。
「何があった?」
他の兵士たちと比べ、作りの良い鎧を纏った兵士――彼らの隊長が事情を聞いてくる。
「この町に向かってモンスターの大群が押し寄せて来ています! 今すぐに町人たちの退避を!」
「何だと……確かなのか?」
「この目で見てきました! 悠長なことを言っている暇は有りません! すぐに緊急避難を!」
本来ならモンスターが町に向かってくることは稀有である。そういった危険なモンスターたちが生息する場所にはそもそも町など作らない。それに襲われないように町の周囲にモンスターが避けるニオイを撒くなどの対策をしている。
それを無視して襲ってくるということは、見えないところで何かが起こっているのかもしれない。
「すぐに町の者たちに声を掛けろ! 安全な場所を確保しろ! 姫様もすぐにここから離れさせろ! 動け! 動け! 一秒も無駄にするな!」
隊長の判断は迅速であり、兵士たちの行動も迅速であった。
すぐに避難誘導をする者、避難場所確保に動く者、ティナの護衛に向かう者と指示されずに分かれ、それぞれが役目を果たす為に動き出す。
安全な場所を発見し確保することは簡単であった。町から少し離れた場所に丘があり、町人たちは全てそこに避難させることが決まる。
問題は町人たちの避難であった。言うことを素直に聞く者たちが大半であったが、兵士たちの言葉に素直に従わない町人たちも存在する。
「急に何だよ。家を出ろってさあー」
あからさまに不満気な表情をする中年の男性。
「だからモンスターの群れがこっちに向かって来ているって言っているだろうが!」
言うことを聞かない中年男性に兵士が怒鳴りつける。すると、ますます意固地になったのか、兵士の言葉を鼻で笑う。
「俺が今までこの町で生きてきて、そんなことは一度も無かったんだがなー」
「知るか。なら今日が初めてだ。記念日にでもしておけ」
「なら荷物を纏めさせてくれよ」
「ダメだ。置いて行け」
「なんだそりゃあ! ちょっと横暴じゃないかぁ?」
嚙みついてくる中年男性に、自然に剣の柄へ指先が伸びていく。暴力で脅したくは無いが、一刻を争うときにごちゃごちゃと文句を言う相手には剣を抜くときの滑りが良くなる。
民と兵士の関係は良くも悪くも無い。守ってくれる存在ということで一定の敬意を見せる者も居れば、国の暴力の象徴として敵意を向ける者も居る。
今回の場合は後者であるが、更に町に突然来た余所者ということで、そこに警戒心も加わっている。
「いいから。お前と喋っている暇は無いんだよ。とっとと指定された避難場所に向かえ」
「この野郎……!」
自分よりも若い兵士の上からの言い方に、中年男性の顔が怒りで赤く染まっていく。
「言っとくけどな――」
そこから先の声は、兵士には届かなかった。咆哮が中年男性の声を掻き消す。町の外から放たれているというのに、空気を伝わって兵士たちの体を震わす。
「な、何だよ……」
さっきまでの怒りが面白いほど簡単に萎んでいく。人の怒号など野生の持つ本物の叫びの前には、この程度のものである。
「ああもう! 時間切れだ! 来い!」
兵士は中年男性の服の襟元を乱暴に掴むと、家の中から引き摺り出す。文句を言いたげな顔をしているが、首が締まって声が出せない様子であった。
中年男性を家から無理矢理出した兵士は、声のした方をすぐに見る。
目を凝らした先にいるのは、群れ為すモンスターたち。
しなやかな体躯に長く伸びた四肢。突き出た口吻に頭に二本の角。
兵士は、知識としては有るが咄嗟にそのモンスターの名前は出てこなかった。ただ思い出せたことが二つある。
一つ目はこのモンスターは草食であること。人を襲うことは無い。
二つ目は、このモンスターは人なんかよりも遥かに足が速いことである。
「逃げるぞ! 立て!」
「ああ? う、おおおお!」
中年男性も、モンスターの群れに気付き、慌てて駆け出そうとしてこける。
「何やってんだ!」
鈍臭い男の服を引っ張って立たせようとする。
「うああああああああ!」
「いやああああああ!」
男女の声が混じった悲鳴が聞こえる。
兵士は見た。モンスターの群れの前を走って逃げようとする数名の男女を。兵士の避難が間に合わなかった町人たちである。
必死になって走る。文字通りの足搔き。しかし、それも僅かな抵抗。
この時になって兵士はもう一つ思い出した。人の走る速さが十だとすれば、あのモンスターが走る速さは三十である、と。
モンスターたちの無慈悲な蹄音が、悲鳴ごと町人たちを巻き込み、蹄の蹂躙によって二度と叫べないように砕く。
温厚な筈のモンスターたちが情け容赦なく町人たちを踏み殺す姿に戦慄を覚える。が、その戦慄にいつまでも浸っている訳にはいかない。動かなければ自分たちも町人たちと同じく地面と一体と化す。
「あ、ああああ!」
顔見知りでもいたのか、中年男性の口から裏返った悲鳴が聞こえる。兵士は悲鳴を上げ続けている中年男性の腕を掴み、道脇へ力任せに放り投げる。
無様な悲鳴と姿で顔面から地面に倒れ伏す中年男性。距離が足りなかったのでついでに散々手を焼かせてくれた恨みを込めて尻を蹴飛ばした。
ぎゃっという短い声を出しながら道脇に入っていく。兵士もすぐに後を追って道脇に身を隠す。
足の速さからして逃げきれないと判断した兵士は、モンスターたちが一直線に走っているのを見て、一か八かここでやり過ごすことを決める。
家と家との間にある短い通路。ここにあのモンスターたちが入ってくるかは運命次第である。
足音が地崩れのような轟音となって迫って来る。戦争の経験は無い兵士は、かつてない恐怖と重圧に全身が冷や汗で濡れていくのが分かった。中年男性など地面に蹲って頭を抱え、腕で耳を押さえながら見事なまでに現実逃避の構えをとっている。
間もなくして騒音の濁流が側を通過していく。舗装された道が踏み砕かれる音。剥き出しになった地面を踏み付けて均す音。モンスターたちの息遣いと鳴き声。そして、時折混じる人の悲鳴。
全てが合わさって出来上がったそれは、ただひたすら人の心を削り落としていく。
長い時間この音の中で晒されれば、人は確実に恐怖で発狂するだろう。
時間にすれば数十秒の出来事であった。だが、その音の中に囚われていた者たちにはその何倍もの時間に感じられたであろう。
騒音が遠ざかり、兵士は道の脇から顔を出す。走り去って行くモンスターたちの群れの背。ここでの惨劇は終わったが、行く先には再び惨劇が起ころうとしている。新たな悲鳴がそれの予兆であった。
しかし、今は取り敢えず生き残ることが出来た。兵士は道脇から出る。
モンスターたちが踏み荒らした場所を見る気にはなれなかった。どんなものがひろがっているのか、見たくも無いし想像もしたくない。
「はあ……」
流れ出る冷や汗を拭い取る。
「おい」
未だに縮こまっている中年男性に声を掛ける。しかし、完全に自分の世界に閉じこもってしまったせいか、兵士の声は届かない。
「おい! 今のうちに安全な――」
その声を妨げるように、兵士と中年男性の間を何かが家の壁を突き破り、地面を砕く。
地面を砕いたのは、子供程の大きさのある岩であった。
「な、に……?」
再び聞こえてくる足音。今度は先程のモンスターたちのように軽快なものではなく、一足一足が重く響き渡るものであった。
心底見たくはないが見なくてはいけない。意思に反して硬直する首を動かし、岩が飛んできた方を見る。
先程のモンスターと同じく四足であるが、足も体も太さも大きさも違うモンスターたち。
盾のように平べったく広がった頭部。頭部の下には掬い上げる為に弧を描いた角が無数に並んでいる。
その特徴的な頭部を使用した戦い方が、盾を用いた人間の戦い方に似ている為にシールドバッシュと呼ばれているモンスターたちである。
先程のモンスターと同じく草食性だが、気性は激しく自分たち以外の生物は全力で排除しようとするモンスターである。
群れの先頭を走るシールドバッシュたちは、荒らされた地面を後ろの仲間たちが走りやすくする為に掃除する。
その掃除方法は、頭部を地面に向けて傾け、瓦礫や岩などを掬い、強靭な首の力で投げ飛ばすというものである。
「う、おおおおおお!」
兵士は中年男性のことを放って走り出す。いくら上からの命であっても自分の命は惜しい。そもそも、上から雨のように降って来る瓦礫や岩を防ぐ手段など持ち合わせていない。
砲撃のように残骸が降り注ぐ。その残骸の雨の後、誰が生き残ったのか確認出来る者などこの場には居なかった。
◇
目まぐるしい。
ティナが現状を言い表すのならその一言であった。
待機をしていてくれと言われて数分後に避難するように言われ、荷物も持たずに兵士に護衛されながら建物から出る。
そして、彼女は見た。町がモンスターたちの大群によって破壊されていく様を。
中には町人や兵士が群れの中に飲み込まれていく光景もあったが、ケーネが咄嗟に目を隠してくれたおかげで最後まで見ることはなかった。ただ、絶望に満ちた最期の声は塞ぐことは出来なかったが。
モンスターたちの群れに近づかない為に、遠回りとなるが安全なルートで避難場所を目指すこととなった。
いきなりのことでティナはドレスという長い距離を移動するのに向いていない格好だったが、文句一つ言わずに兵士たちの言うことに従う。
モンスターたちの声を遠くに聞きながら、民家を壁にして避難するティナ一行。
危険なモンスターたちと遭遇することなく順調に避難場所へ向かっていた。この時までは――
カチカチカチカチ。
地面を引っ掻くような足音。それを聞いた兵士たちは一斉に剣を抜く。ケーネもティナを守る為に自分の後ろに回す。
足音。それも複数。それが曲がり角の向こうから聞こえる。
数名護衛に残し、残りの兵士たちが曲がり角の向こうに出る。
「これは……」
そこに居たのは複数の虫と思わしき生物であった。思わしきというのは、彼らの知る虫とは比べものにならない程に大きいからである。犬ほどの大きさがある虫は、全身を黒い外骨格で覆い、足は既存の虫と同じく六本脚だが、一番後ろの脚は前の二本より倍以上長く、関節部を頂点として鋭角に曲がっていた。
頭頂部と目と目の間から角が突き出しており、兵士たちは自分たちが知る虫を掛け合わせたような姿だと思った。
「虫、か?」
「気持ちが悪い……早く追い払おう」
かなりの大きさが有る為、嫌悪感を覚えた兵士の一人が剣で虫たちを追い払おうとする。
するとその内の一匹が、背の甲殻を広げ、中から出した薄羽を羽ばたかせながら後ろ脚で地面を蹴る。
そして、兵士の体にぶつかる。
「うっ」
呻きながら後退する兵士。
「おい。虫相手に良いように――」
言葉は続かなかった。後退する兵士の胸に大きな穴が開き、そこから血が流れ出ている。支える暇も無く、兵士の体は崩れ落ちた。
「なっ!」
量産品とはいえ鎧すら貫通する虫の角に、兵士たちは驚くしかない。
「この!」
仲間がやられたことに怒り、虫に向けて剣を振り下ろす。背に叩き付けた一撃目で関節部から体液が流れ、二撃目で胴体から首が外れ、耳障りな鳴き声を上げながら脚だけがもがくように動く。
思いの外簡単に倒せることが分かり、仲間の弔いのこともあって戦意が高まる。
すると、視界の隅で虫がこちらに向かって飛び掛かろうとするのを捉える。
上体を反らした直後、角を突き出した虫が通り過ぎていく。完全に避け切れことは出来ず、首に薄羽が当たったが、その兵士とっては大したことで無かった。
着地した虫を背後から叩き潰そうとしたとき、足元に赤い点が広がる。赤い点、間違いなく血であった。ならその血は何処から流れ出ているのか。
目線を落とすと再び血が垂れるのが見えた。血の軌跡を追って震える指先が上に向かって伸びていく。
指先が首筋に触れたとき、ぬるりとした感触が伝わってきた。
「お、おい」
仲間が血相を変えてこちらを見ている。その蒼ざめた顔を、もっと蒼ざめた顔が見返していた。
羽が掠っただけ。その程度の筈なのに、兵士の首は裂け、そこから大量の血が流れ出している。
大量の失血で首を斬られた兵士は倒れる。
仲間が呆気無く死んだことに、兵士は数秒間だけ呆けてしまった。戦い中で思考に空白を生むことは死を意味する。今の彼には無数の羽ばたきの音は届かなかった。
「だ、大丈夫なの?」
曲がり角の向こうに兵士たちが向かって少し経つが、まだ誰一人戻って来てはいない。
護衛の兵士たちも、この事態に落ち着きが無くなっていく。
「――信じて待ちましょう」
本当ならばこんな悠長なことを言う余裕など無い。しかし、焦りは連鎖する。その連鎖を断つ為には誰かが冷静に振る舞う必要がある。その役目をケーネは自ら買って出た。
すると、曲がり角から長く伸びる影が地面に映る。背格好からして兵士の影であった。
影の主である兵士が曲がり角から現れ――そのまま倒れる。その背には角を突き刺した虫が三匹、脚を蠢かせていた。
「い、いやあああ!」
目の前の無惨な兵士と、巨大な虫からくる生理的嫌悪感にティナは悲鳴を上げてしまう。
兵士たちが構える。しかし、それよりも早く動く者がいた。
ケーネは足元に転がる小石を数個拾い上げ、その石に息を吹き掛けた後に虫たちに向けて投げ放つ。
凹凸のある小石は投げられている中で鋭角状の形に変化し、虫たちに突き刺さる。
キィィィという鳴き声を上げる虫。ケーネがもう一度短く息を吐くと、刺さっている石が破裂し、虫たちをバラバラにする。
「姫様、大丈夫です。――確認を」
ケーネに促されて兵士たちは倒れた兵士に駆け寄った。しかし、ケーネの方を見て首を横に振る。既に息絶えていた。
「……早くここから離れましょう」
泣きそうなティナを抱き締めながら先に進むように言う。仲間の遺体を置いていくことに一瞬だけ名残を見せる兵士たちだったが、すぐにケーネの指示に従った。
周囲を警戒しながら曲がり角の向こうに行く。そこには先程の兵士と同じくあの虫に殺害された兵士たちの死体と虫たちの死骸が転がっていた。
ケーネはティナの目を死体が見えないように遮る。しかし、漂う血のニオイは隠すことは出来ず、ティナは血臭に顔色を悪くさせていた。
絶えず聞こえる破壊の音。悲鳴、苦鳴、絶叫、怒声。獣の叫ぶに人の叫び。ついさっきまで平穏であった町は地獄の底のような混沌に満ちていた。
「一刻も早く抜け出しましょう。ここはあまりに危険過ぎます」
それにティナに見せたくも無いものを多く見せてしまう、と心の中で付け加える。オーがいなくなったことで精神的に弱っているティナに、これ以上心が傷付くものを見せたくは無かった。
「――そうですね。早く行きましょう」
兵士たちも他の仲間の安否が気になるが、与えられた使命を全うする義務がある。ここでティナに万が一のことがあれば、仲間の犠牲が無駄になってしまう。
「ここから――」
思わず膝が折れそうになる振動。突如として近くにあった民家が崩壊する。
ゴオオオアオオルアアアオオオオ!
今まで一際大きな声が響き渡る。声は近い。すぐ側から聞こえた。
全員一斉に声の方を見る。崩壊して巻き上がる土埃を突き破るようにして姿を見せるのは、全身に黒味がかった青い体毛を生やし、猫のように立った二つの耳、獣特有の姿であるが、竜種の特徴である鱗も体毛で覆われていない箇所に生やしている。前肢は翼と一体化しており、その翼は鈍い輝きを放っていた。
彼女たちは知らない。目の前の獣のような竜が、ナナ森という場所で何十人もの冒険者を屠るという惨劇を起こしたモノだと。だが、その身から漂う死臭だけで彼女たちの本能が今まで体験したことが無い程の警鐘を鳴らす。身が竦み上がり、恐怖の声すら上げることが出来ない。
故に動けたのは一手出遅れてからであった。
土埃から現れた獣は、まず手始めに獲物に噛み付く。
「ぃああああああああああ!」
一番近くにいた。ただそれだけの理由で標的にされた兵士の一人は、鎧ごと胴体に牙を突き立てられ絶叫を上げる。獣はそのまま兵士を持ち上げ、弱らせるように何度も頭を左右に振る。
突き立てた牙はより深く刺さり、傷口を抉る。獣が頭を振る度に血が辺りに撒かれた。
兵士の絶叫を聞かされ、硬直していた体がようやく動く。
「行き、ますよ!」
誰もケーネの判断に異を唱えなかった。目の前の獣に対し、自分たちがあまりに無力であることを悟っていたからである。
ケーネはティナを抱きかかえ、絶叫する兵士を残して逃げ出した。
兵士の叫びが聞こえる間、彼女たちはひたすら心の中で犠牲になった兵士へ謝る。
やがて、その絶叫が途絶えたとき――
「うあっ!」
兵士の一人が転倒する。背中に何か重いものが衝突したのだ。
「つつっ――うわあああ!」
転倒した兵士は思わず叫んだ。背中に当たったもの、それは食い千切られた兵士の上半身だった。生気を失った瞳が、兵士を見つめる。まるで見捨てて逃げたことを恨むかのように。
恐怖に呑まれる兵士。だが、その恐怖の時間も唐突に終わる。
獣がその場で跳躍し、離れていた距離を一気に詰めると着地と同時に地面に転んだ兵士をその前脚で踏み潰す。
陥没する地面と足の間から血が染み出してくる。誰がどう見ても即死であった。
ティナは最早叫ぶ言葉すら出ない程に怯えていた。いっそのこと気を失ってくれた方が、どんなに彼女の為か、とティナを抱えるケーネは思う。
残された兵士はあと一人。
「は、早く、ひ、姫様たちは、お、お逃げを……!」
ガタガタと奥歯を鳴らしながらも、使命を全うしようとする兵士。たった一人で獣に立ち向かうとする。震えながら構える剣は、獣に備わっている刃翼と比べたら哀れなほど頼りない。
剣を向けられた獣が唸る。その重低音だけで兵士は心が折れそうになった。だが、全てを捨てて逃げるような臆病者にだけはなりたくないという気持ちが、一線を超えさせない。
「うああああああ!」
裏返った声で恐怖を振り解く為の叫びを上げながら兵士は獣に斬りかかる。
獣もまたそれを迎え撃つ為に、前脚を振り上げ――いきなり民家の壁から生えた石柱によって胴体を突かれて吹き飛ばされる。
「はあ……間に合ったか……。寿命が縮んだのう」
「はっ! 縮むほど残っているのか?」
「喧しいわ」
ティナたちと獣を挟んで反対側に立つ二人の人物。
聞き慣れた声。その声を聞いただけでティナとケーネは涙を流す。
「オー!」
「オー様! ご無事だったのですね!」
「ほっほっほ。姫様とケーネの花嫁姿を見るまでは死ねないと決めておりましたからな」
編まれた白髭を撫でながら、オーもまたティナたちの無事を喜ぶ。
「はいはいはいはい。感動の再会はそこまでにして、とっとと逃げてくれないでしょうかねー。そこの漏らしてそうな兵士君、姫たち連れてあっちに向かえ。ギルドの冒険者たちが来ている」
顔半分に傷を負った男――ヴィヴィは小馬鹿にしたような口調で向かうべき方角を指差す。
「姫様を前に無礼な奴じゃのう」
「生憎、私はこの国出身じゃないのでね。他国の姫への礼儀作法なんぞ知らん! というか早く動けっ! 向こうはもう動くぞ!」
話している最中にヴィヴィの言葉は怒声に変わり、彼の言ったように突き飛ばされた獣が動き始める。
「――なので姫様方はお逃げを。なあに、今度は待たせませぬ」
無事だと知った直後に、すぐさま危険の中にオーを置いていかねばならない。だが、ここに居てはオーたちの足手纏いになることは十分分かっていた。
「――待っているわ」
ティナはその言葉だけ残し、ヴィヴィが指した方向に向かう。
「やれやれ。姫様を見つけたと思ったら、とんだオマケがついていたのう。あの『砕竜』と同じ類か? 似たような気配がする」
「やれやれと言いたいのは私の方だよ。姫の居場所を探したらついでに貧乏くじを引かされた気分だ。真面目は損だ! 命懸けの戦いを何度もするなど、馬鹿らしいというか阿呆らしい――右っ!」
愚痴るヴィヴィの鋭い声が飛ぶ。オーが杖で地面を突く。右側に何重にも重なった土壁が現れると、地面を蹴って右側から攻めてきた獣の刃が土壁に突き刺さり、貫通する。
「密度が足りないぞ! 密度が!」
「咄嗟ではこれが限界だわい。相手が速過ぎる」
「老いたか? って壁張れ! 何か飛んで来る!」
獣が長い尾を持ち上げ、掲げるとその先端を揺らし始める。すると、尾から棘が隆起し、無数の棘が放たれる。
ヴィヴィの未来視によって事前に知らされていたオーは、自分たちの前方に土壁を地面から生やす。
放たれた棘は土壁を貫き、オーたちから数十センチの所で勢いを殺されて止まる。
「すぐに突っ込んで来るぞ。――手痛いのを食らわしてやれ」
土壁の向こうで、獣が四肢に力を込めると、直線ではなく右、左と切り返して相手を惑わすように動きながら接近してくる。
「左から来る。ごー、よん、さん、にー、いち――」
来るタイミングを数えるヴィヴィ。ぜ、と言い終え前に獣は土壁を突き破り、刃翼を振り上げながら現れ、ドンという鈍い音が響いた。
飛び掛かる獣に対し、土から生えた巨大な拳がその腹に重い一撃をねじ込んでいる。相手の勢いをそのまま返した反撃にさしもの獣も呻く声を出しながら、地面を接近したときと同じ速度で転がっていく。
転がった先で立ち上がろうとするが、獣の周囲に無数の土の手が現れ、獣の体を掴んで拘束する。
「――それでどうする?」
「ギルドが、とっておきを用意したらしい」
「とっておき? 何じゃそれは?」
「まあ、見てのお楽しみということで」
知っているような口振りでニヤケ面となるヴィヴィ。
「そのとっておきをここまで運んでくるのか?」
「――いや」
バキリ、という音と共に獣を拘束していた手の一本が獣の力に負けて折れる。
「私たちで誘導する。既に準備をしてある」
「――最初から想定済みか」
一本、一本と土の手が折れていく中で、拘束された獣の目の周りが赤い光を放ち始める。
「おー、おー。怒っている、怒っているな。怒っているが――どういうことだ?」
ヴィヴィは獣の怒りに対し、首を傾げた。怒りの感情の中に別の感情が混ざっているのを彼の目は見抜いていた。別の感情、それは――
「おい! いつまでも見つめてないで行くぞ! そのとっておきの場所まで案内せい!」
「はいはい。怒鳴られでくれ。親以外に怒鳴られるのは嫌いなんだ」
「この甘ったれめ」
◇
「もうじきか……」
町のとある一角でエヌはその時を待っていた。エムやエクスは居ない。万が一のことを考えて二人にはギルドで待機してもらっている。
彼の周囲には冒険者たちが待機していたが、その目はあるものに釘付けになっていた。
荷車ごと鎖で縛られた竜の死体らしきもの。らしきと表したのは、その竜が一切動くことも鳴くこともしないこと。しかし、一切の腐敗臭は無く、生きているように瑞々しい鱗が連なっていることから、死体かそうでないか曖昧であった。
「まさかぶっつけ本番になるとはね」
エヌの側で少年――エン・ドゥウが苦笑する。
「失敗したらどうする?」
からかうようにエン・ドゥウがエヌに聞いてくる。
エヌはそれを鼻で笑った。
「俺を含めてこの場にいる連中が死ぬだけの話だ。後は地獄で、てめえのことを無能と叫び続けてやるよ、爺」
「あはははは。責任重大だね」
エヌの嫌味もエン・ドゥウは笑って流す。
「まあ、全滅してもてめえだけは生き残るだろうな。そん時は、これを絶対にギルドに持ち帰れよ?」
エヌは荷車を爪先で軽く蹴る。
「分かっているよ。エヌ君は真面目で頑張り屋さんだねー」
「うっせえよ」
事情を知らない他の冒険者たちは、エヌとエン・ドゥウの会話を冷や冷やしながら聞いていた。エヌに対してこんな口の利き方が出来る者など殆どいない。
「あー。来るね」
エン・ドゥウが誰よりも早くそれに気付いた。
先に見えたのは、地面を跳ねるようにして移動するオーとヴィヴィ。その後ろを猛追する獣の姿。
獣を見た途端、冒険者たちがざわつく。
「来たか……準備だ!」
「じゃあ、いこうか」
エン・ドゥウが竜に触れる。エン・ドゥウの手から竜に魔力が流し込まれたとき、今まで微動だにしなかった竜が首を持ち上げる。
白く濁った眼を開け、弛緩したように顎を開く。
「お前たちも準備しろ!」
エヌの言葉で冒険者たちはざわつくのを止め、事前に言われ通りに動き出す。
荷車の車輪に車輪止めを置き、十数人の冒険者たちが荷車の端を押さえる。
「ギリギリまで引き付けろよ……」
少なくとも十メートル以内まで近付けたい。
距離が段々と狭まってくる。獣の重圧とそれを迎え撃つ緊張で、一部を除いて誰もが心臓の鼓動を限界まで高めていた。
あと三十メートル。オーたちと獣の距離も縮まっていく。
あと二十メートル。汗を流しながら獣を誘き寄せるヴィヴィとオー。
そして、残り十メートルを切ろうとしたとき、獣が竜の存在に気付いて左右どちらかに動こうとする。
固定されている為、方向転換が難しい。ここで移動されたら確実に狙いが外れる。
獣が片足を軸に横移動しようとしたとき、その動きが硬直した。
ヴィヴィの眼から放たれた魔術が獣の動きを一瞬だが停める。
これこそ最大の好機。エヌは叫ぶ。
「撃てっ!」
竜の口内から火の粉が零れ落ちると、竜の喉が蠢き、その奥から灼熱を纏めた火球が放たれる。
火球が放たれときの反動を、冒険者たちは体を張って受け止める。
獣の肩に火球は着弾し、燃え上がらせる。
「二発目っ!」
再び放たれる火球。狙う箇所も着弾した箇所も同じ。獣を包む炎が更に大きくなる。
「三発目っ!」
三発目の火球が獣に着弾したとき、ヴィヴィの魔術も切れ、獣が着弾の衝撃で地面を跳ねるように転がっていく。
獣は身を捩りながら地面に体を擦りつけ、引火した火を消そうとする。
そのまま火と格闘する光景を、誰もが緊張した顔で見つめていた。
獣が体を起こす。冒険者たちは一斉に武器を構える。
着弾した箇所は、体毛も鱗も焼け落ち、赤黒い肉体が露出している。一部など炭化していた。
獣はしばらくの間エヌたちを睨んでいたが、やがて大きく跳び上がり、翼を広げて何処かへ飛んでいってしまった。
逃げた。皆が共通して思う。
「まあ、初めてにしては上々だ」
エヌのその言葉をきっかけにして、冒険者たちから歓声が上がった。
エヌも表面上は冷静であるが、内心ではあの未知の敵に対し一矢報いたことへの喜びがあった。
苦難はあった。犠牲もあった。だが、その長い積み重ねによって自分たちはようやく力を手に入れることが出来たのだ。
「これからだな」
喜びに浸らないように、自分を戒めながらエヌは後始末の指示を冒険者たちに出す。
「おい、おい、おいおいおいおいおい!」
喜びの余韻を壊すヴィヴィの声。
「嘘だろっ! 何だこれはっ! ふざけてんのかっ!」
頭を掻き毟りながら取り乱すヴィヴィに皆が瞠目する。
「ど、どうしたんじゃ?」
オーが心配した様子で声を掛ける。すると、ヴィヴィは顔を左右に振り、何かを探し始め、避難場所である丘を指差す。
「――見れば分かる」
エヌたちが丘の上に辿り着いたとき、そこでは誰も彼もが口を開けて呆然としながらある一点を見つめていた。
その視線の先をエヌたちも見て、そして絶句する。
山が動いていた。
いや、もしただの山であったのならどれほどマシであったか。
茶褐色の棘を生えた甲殻と思わしき背。長く伸びた尾。その尾と同じぐらいに長く伸びた首。その首の先は竜によく似ており、鼻先から角を生やしている。
生きている。命がある。生物だというのに、既存の概念を全て打ち壊すほどの圧倒的巨体。
その姿を見た時、全てを悟る。今回の異変は、この巨大な存在から逃れようとして起こったのだ。あの獣ですら。
「あーあ……」
エヌはその場で仰向けになった。
長いこと費やしてきたことに一筋の光が見え、やっと報われようとしたときにこれである。
思わず本音が零れ出る。
「少しは加減しろ……」
今年最後に投稿出来ました。
前から言っていましたが、次で本筋の話は最終話となります。