MH ~IF Another  World~   作:K/K

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久しぶりの投稿となります。


喰らうモノ(前編)

 とある街の話をしよう。

 その街は最初小さな小さなとても小さな村であった。これといった目ぼしいものもなく地図に載る価値も感じさせない名も無き小さな村。

 その小さな村で起こった変化の切っ掛けは些細なことであった。

 

『最近、害獣が多いから村の周りを柵で囲もう』

 

 その村の長の一言により、村の者たちは協力して村の周りを柵で囲んだ。幸い小さな村だったので特に時間も掛からなかった。

 これにより害獣の被害が少なくなると作物が安定して収穫出来るようになり村は潤った。

 村が潤うとその評判を聞きつけて別の村から移住してくる者がいた。その村はその者たちを歓迎し、村は少し賑やかになった。

 人が増えると新たな土地を開拓することとなる。人が増えていたので土地の開拓にも然程苦労することはなかった。新しく拓いた土地には当然柵が置かれる。

 土地が広がれば作物の収穫量も増え、それによって村は豊かになり、更に村人も増えていく。

 すると、今度は別の村から妬みや恨みを買うこととなった。ある村は発展するこの村に嫉妬し、ある村は村人を奪われたことでこの村を憎悪する。

 どれもこれも逆恨みであったが、放っておけば血が流れることを察して村の長は言う。

 

『もっと頑丈な柵、いや壁を作ろう』

 

 その声に村人たちは同意し、村は石造りの壁に囲まれることとなった。

 石壁は襲撃してきた村人たちの武器などを弾き、見事に彼らを返り討ちにする。そして、敗れた村はその村の一部となった。

 それを何度も何度も繰り返していった結果、村は大きな街となり囲っていた壁は聳え立つ外壁へと変わった。

 ある者は言う。『この壁の厚みこそがこの街の歴史を物語っている』と。

 最初は地図にすら載っていなかった小さな村。だが、気付けば地図に載るのが当たり前となり誰もがその名を知る大きな街。

 この街に住む者は、繁栄が延々と続くと誰もが思っていた。

 だからこそ、この先に待つ未来など誰も予想など出来ないだろう。

 この街が地図から消える、などという未来は。

 

 

 ◇

 

 

 人々が賑わう街を駆け抜けていく二人の小さな子供。街の人々はそれを迷惑がることなく微笑ましく見ている。

 

「遅い、遅いぞー!」

「待ってよー! 兄さーん!」

 

 同じ背丈、よく似た容姿。二人の子供は歳の近い兄弟であった。しかし、性格は全く異なるもの。兄は活発で積極的なのに対し、弟は控えめで消極的であった。事実、兄の方は周りの目など一切気にすることは無かったが、弟の方は注目されることを恥ずかしがっている。

 

「今日がお父様の御帰りになる日ですか、坊っちゃんたちー!」

 

 街人の一人が通り間際に声を掛ける。

 

「そうだ! だから僕たちが最初に出迎えないといけない!」

「そ、そうです……」

 

 溌剌とした声の兄。弟の声は最後の辺りが消え掛けていた。

 この兄弟らは貴族の子たちであり、彼らの父は領主であると同時にこの村の長を祖とする高名な貴族であった。

 常に街の人々のことを第一に考え、高慢ではなく謙虚。それでいて皆を導く力に優れており、街を発展させたのも兄弟の父の力が大きい。故に兄弟は勿論のこと、街の人々の誰からも尊敬されていた。

 そんな兄弟の父が王国への出張から本日戻って来る。本来ならば屋敷で帰りを待つものだが、我慢出来ずに兄が弟を引っ張り出して門の前に迎えに行っているという訳だ。

 この街の代名詞となっている巨大な外壁近くまで来る。魔法と技術によって隙間なく埋め尽くされ、固められた石造りの壁は高く厚い。城を守る城壁以上の頑丈さを誇っており、この壁が出来た時から外敵の侵入を一度たりとも許していない。

 当然、空から来る魔物も存在するが、壁の上には対空用の兵装が揃えられており、侵入する魔物が居れば瞬く間に空中で矢によって穴だらけになるか大砲で粉々になるかのどちらである。

 歴史と伝統を重ねてきた壁にある重厚な門がゆっくりと開いていくと、向こう側から兵が乗った何頭もの馬に囲まれた数台の馬車がやって来る。

 馬車が見えると街の人々は足を止めて、口々に出迎えの声を上げた。

 

「父上ー!」

「ち、父上……」

「おい! もっと腹から声を出さないか! それでは父上には届かないぞ!」

「ち、父上ー!」

「そうだ! それだ!」

 

 街の人々に負けまいと兄弟は父を呼びながら大きく手を振る。すると、双子たちの前で馬車が止まる。

 扉が開くと髪と口髭を整え、仕立ての良い服装の壮年の男性が顔を出す。

 

「おお。お前たち。迎えに来てくれたのか」

「はい! 息子として父を出迎えるのは当然です!」

「そ、そうです……!」

「家で待っておれば良いのに。さては言い出したのはお前だなぁ? ──全く、やんちゃな兄を持つと弟としては苦労するな?」

「そ、そんなこと無いです……に、兄さんと居ると毎日が楽しいです……」

「だ、そうです父上!」

「はははははは。そういうことにしておこう」

 

 兄弟は父の馬車に乗り込み、我が家へと向かっていく。

 商店が並ぶ道を少し行った先にある大きな屋敷。それが彼らの家であった。

 

「御帰りなさい」

 

 清楚なドレスを纏った黒髪長髪の妙齢の女性が侍女と一緒に待ち構えていた。女性は兄弟の母であり、その美貌と優しい性格から兄弟の父と同じく街の人々から慕われている。

 

「お疲れでしょうに。すぐに湯の準備をさせます」

「ありがとう。だが、その前に確認しておきたいことがある」

「……例の行方不明者事件のことですね」

「ああ」

 

 父は真剣な表情となり母は表情を曇らせる。さっきまで父の帰宅にウキウキしていた兄弟も、二人の様子に顔を見合わせて困った表情となった。

 行方不明事件というのは、ここ数週間の間に起こり街を悩ませている事件である。

 最初の被害者は別の街に買い出しにいったこの街の住人であった。予定の日に帰らないのを不審に思い、探索をするとその住人は馬車ごと行方不明になっており、見つかったのは馬車の破片のみであった。

 魔物に襲われた可能性が高く、兵士たちが周囲を探索したがそれらしい魔物は見つからず、空振りに終わってしまった。

 次の被害者はこの街から帰る商人一行であった。腕の立つ冒険者たちを揃えていたが、彼らもまた何処へと消えてしまった。

 流石に見過ごすことが出来ず、他の街と連携して捜索部隊と討伐部隊を編成し、徹底的に探すこととなった。

 犠牲者となったのは討伐部隊であった。数十名で構成された武装兵士たちは跡形も無く消え去ってしまった。

 以来、度々この街を出入りしている者たちが行方不明になっている。行方不明者の探索も怠っていないが、その探索者が行方不明になっていることもあり捜索難航していた。

 

『あの街に行くと悪魔に攫われる』

 

 そんな噂も段々と広がってきており、外の者たちも街に近付かなくなり始めていた。兄弟の父が国へ出張したのも、噂の誤解を解く為と国の力を借りて行方不明事件を解決するのが目的であった。

 この街の長い歴史の中で大きなトラブルが無かった訳ではない。いずれは解決出来る問題ではあろう。とはいえ父が領主となって初めての大きな問題である。ここできちんとした手腕を見せなければ住人の心が離れてしまう可能性もあった。

 生真面目な父は代々受け継いできたものを自分の代で絶やす訳にはいかず、休む間も惜しんで事件解決に心血を注いでいた。

 溜まっている報告書を確認する為に自分の書斎へ向かっていく父の背中を、心配そうに見ることしか出来ない兄弟。

 そんな二人の心情を察して母は二人を後ろから抱き締めた。

 

「何も心配ありませんよ。貴方たちの父上は強い御人ですから」

「……母上。僕は早く大人になりたいです。早く大人になって父上のお役に立ちたいです」

「ぼ、僕もです!」

 

 健気に将来の夢を語る兄弟を愛おしそうに抱き締める母。母は二人の中に後の代を照らす光を見た。

 

「さあ、貴方たちも夕食にしましょう。今日はご馳走ですよ」

 

 母はそう言って兄弟の手を引いて屋敷へと戻る。

 今は苦難の時なのかもしれない。しかし、同時にこの苦難の先には幸福な未来が待っている。兄弟たちはそう信じていた。そして、この輝かしき日々がいつまでも続くと心の底から信じていた。

 だからこそ兄弟たちは思い知らされるのだ。少し先の未来に永遠など無く、幸福も無く、ただひたすら見通すことの出来ない闇が広がっていることに。

 

 

 ◇

 

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 

 その日の朝、凄まじい音と共に兄弟がベッドから跳ね起きた。

 

「な、何だ! 何の音だ!」

「ば、爆発? 何かが爆発したの?」

 

 弟が言うように爆音としか思えない巨大な音。しかし、何故かその音を聞いた兄弟は全身に鳥肌を立て、冷たい汗を流し、その冷たさのせいか体を細かく震わせていた。

 

「と、兎に角着替えろ! 何か事故があったのかもしれない! 早く着替えて父上たちの元へ行くぞ!」

「う、うん!」

 

 すぐに寝間着から最低限見せられる格好へ着替える。普段はもっと着飾っているが従者たちが現れないので時間を優先してある程度省く。

 急いで部屋の外に出ると屋敷内は混乱状態になっており、父が大声で指示を飛ばし、使用人たちがその指示に従ってあちこちに走り回っていた。

 兄弟は急いで父に駆け寄る。

 

「何があったのですか!」

「詳しくは分からない。だが、正門で何かが起こっている。兵士たちも慌ただしい。私も向かわねばならない」

 

 危うい場所に父が向かう。その言葉で兄弟は心臓が縮み込む思いであった。

 

「ち、父上……! い、行かないで下さい……! 嫌な予感がします……!」

 

 弟が父の服を掴み、行かないよう懇願する。しかし、その手は兄によって引き離された。

 

「止めろ! 父上はこの街の主として役目を果たそうとしているんだ! 泣き言を言うな!」

 

 兄の鋭い声に弟は今にも泣き出しそうになる。

 

「私の事を思ってのことだ。そう怒鳴るものじゃない」

 

 兄を窘めながら父は二人の頭に手を置く。

 

「私に万が一のことがあれば、これを持って何処のでもいい、ギルドへ行け。きっとお前たちの力になってくれる」

 

 父はそう言って付けていた指輪を外し、兄へ渡す。決して豪華な指輪ではなかったが、一族の紋章が入った代々伝わる由緒ある指輪である。

 手渡されたそれには僅かに父の温もりが宿っていた。だが、すぐに金属の冷たい感触へ戻る。その変化は弟ならず兄にも不吉な予感を与えた。

 しかし、それは父も同じ事であった。兄弟が感じた不吉な予感を父もまた感じていた。だが、街の代表として逃げることは許されない。だからこそ父は兄弟に指輪を託したのだ。

 

「すぐに皆で裏門へ行け。あそこは狭い。早く行かねば人の壁で通れなくなる」

 

 裏門とは正門が何かあった時の為に用意された非常用の門である。住人たちは誰もが知っている。ただし、あまり目立つ箇所に設置しておらず、父が言ったように正門に比べたら遥かに小さい。混雑するのはまず間違いなかった。

 

「父上……ご無事で」

「御帰りを待っています……」

「ああ。行って来る」

 

 父は従者を何人か引き連れて正門へ向かう。

 兄弟が見送るその背中。小さくてなっていく背中。何故だろうか。父の背がもっと遠くへ行ってしまう気がしてならなかった。

 

 

 ◇

 

 

「い、一体どうしたんでしょうか? この街で何が?」

「私は十年この街に住んでいますが、こんなことは初めてです!」

「だ、大丈夫ですよね?」

「心配するな。まずは状況を確認する。お前たちは避難をするのだ」

 

 不安がる住人たちを宥めながら正門へ行く父。

 その耳にある音が入って来る。

 

「これは……大砲の音だと……?」

 

 正門付近から聞こえる轟音。それは間違いなく大砲が発射された音であった。しかも一度では終わらずに合間を潰すように連続して砲撃が行われている。それが必要な外敵が迫っている証でもあった。

 正門へ近付くごとに兵士たちの必死な声が聞こえて来る。一切の余裕が無くどの声も恐怖で震えていた。

 

「くそっ! 何だあいつは!」

「撃て! 兎に角撃ち続けろ!」

「チクショウ! 足止めにもなりゃしねぇ!」

 

 砲撃が絶えない。つまり敵は砲撃程度では倒すことの出来ないもの。

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 

 それが聞こえたのは二度目であった。この場に居る全ての者。戦う兵士、逃げる住人、現状に翻弄されて右往左往する者、それらが体を硬直させ身動き出来なくなる。

 

「こ、これは……鳴き声、だと言うのか……?」

 

 まともに動かない舌で何とか言葉を出す。咆哮一つであらゆる者を恐怖で縛り付ける魔物など聞いた事が無い。

 同時にこの咆哮によって砲撃という兵士たちの細やかな抵抗も止まってしまう。

 故に──

 

「離れろぉぉぉぉ! 突っ込んでくるぞぉぉぉぉぉ!」

 

 壁の上に立っている兵士が生命を振り絞るような叫びで警告を飛ばす。

 誰の目も正門へ集中する。同時に重い足音が近付いて来るのが分かった。重厚な正門に対し未知なる存在が放つ初撃。

 凄まじい衝突音と共に巨大な門が吹き飛ばされる。その光景に誰もが啞然とした。守護の象徴とも言える正門がたったの一撃で破壊されたのを見て、悪い夢を見ている気持ちになる。

 しかし、その直後に起こった惨劇に悪い夢ではなく悪夢よりも酷い現実であることを思い知らされた。

 まず破壊され、飛んできた正門に兵士たちが巻き込まれた。断末魔の叫びも無く正門の下敷きになり圧死する。

 次に正門が破壊されたことにより、その衝撃で壁上に居た兵士たちが次々に壁から落ちていく。

 

「うああああああ!」

「あああああああ!」

 

 高所からの落下により助かる者は居らず、落ちた兵士たちは残骸の一部と化した。

 正門の破壊の影響は壁にまで及び、正門付近の壁に亀裂が生じたかと思えば崩壊を始め、積み上げられた壁は瓦礫となって突破された正門跡を埋め尽くしてしまう。

 壊れても尚この街を囲もうとする光景は皮肉にも質の悪い冗談にも思えた。

 それら全てのことがほぼ同時に起きていたが、誰もそのことに意識を向けることが出来なかった。

 それを生み出した惨劇の主から意識も目も背けることを許されずにいた。

 暗緑色の鱗が覆う全身。その体には数え切れない棘が生えており特に口周りに集中している。

 見上げる程の巨体を支えるのは二本の足。体型に比べれば細く見えるがあくまで本体と比較したからであり、実際は成人男性よりも巨大である。それに反して前肢は異様に小さく、地に着かない程短い。

 胴から伸びる尾には先端まで棘が連なっているが注目すべきはその尾の太さであり、胴との境目が分からないぐらいに太く、長い。

 全く未知の魔物。強いて似ている魔物を挙げるとすればドラゴンに近いだろうが、ここまで巨大で恐ろしいドラゴンなど彼らの記憶には無かった。

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 

 その未知のドラゴンは口を開け、咆哮を上げる。正面から見れば巨体が隠れてしまいそうなぐらいに開かれる大口。上顎と下顎を繋げる赤い皮膜が限界まで伸び、その皮膜は首らしき辺りまであった。

 未知のドラゴンは大口を開けたまま、咆哮によって動けない兵士たちを纏めて数人も喰らい付き、顎を閉じて鎧ごと咀嚼し出す。

 ものの数秒で嚥下してしまう未知のドラゴン。兵士のたちの装備を吐き出すことなく飲み込んでしまった悪食っぷりは現実離れしていた。

 未知のドラゴンは口を開く。だらりと滴る唾液。そして、言葉が通じなくとも伝わって来る飢餓感。未知のドラゴンの目に映る全てのものが捕食対象であることを恐怖と共に理解させられる。

 

「逃げろっ! 早く逃げろ!」

 

 すぐに逃げるよう父は叫ぶ。あれはドラゴンに非ず、あれは悪魔。全てを貪り尽くそうとする貪欲なる悪魔である。

 次の瞬間には悪魔は大口を開け、下顎で地面を削りながら地を舐めるようにして兵士たちに噛み付く。

 そして瞬く間に食し、次なる獲物を狙って捕食を開始する。

 十を超える人間を食べても満足するどころかますます飢える悪魔に、誰もが慄いて裏門を目指して逃げ始めた。

 

「う、うわああああああああ!」

「化け物だぁぁぁぁぁ!」

 

 逃げる人々の中には兵士も混じっていたが、誰がその行為を咎めることが出来ようか。あのような光景を見れば誰でも心が恐怖で折れてしまう。

 すると、悪魔は両足で地面を蹴る。巨体から予想も付かない軽々とした跳躍を披露し、逃げる人々の頭上を越え、或いは足先で薙ぎ倒しながら先回りして着地。振り向き様にその尾で近くに居た何人かを吹き飛ばす。

 攻撃の意図すらない振り返りだけで、数人が壁に叩き付けられて呆気無く絶命する。

 そして悪魔は食う。喰う。捕食(くう)。己の飢えを満たす為に人々を喰らい続ける。

 終わりの見えない暴食により街の人々や兵士たちが無惨に死んでいく。叫ぶ言葉も祈りも許しを乞うことも最期に想い人を恋しがることもさせず一切の躊躇なく嚙み砕き、その胃に流し込む。

 悪魔は人々が最期に見せる行動に何も反応しない。無惨な最期をスパイスにして暗い愉悦を味わうような下卑た感性は無く、ただ生きた命を腹に詰め込んでいくという作業のような行動。故に無慈悲。悪魔は己の為に散った命に何も思わない。

 

「うわぁっ!」

 

 人を食う悪魔の口から飛び散った唾液が一人の男の腕に掛かる。

 

「ひぃ! ひぃぃ!」

 

 肌に付いたそれを必死で拭い取ろうとする男。悪魔の唾液など汚らわしいものでしかない。

 

「あ、あれ……?」

 

 透明な筈のそれが段々と薄紅色に染まっていく。そして、その色がどんどんと濃くなっていく。

 慌てて拭うとし手に力を込めるとずるりと腕から何かが剥がれ落ちた。

 

「あ……? ああ……?」

 

 見覚えのある肌色。それが段々と赤くなっていく。そして、それに重なるように付いている細長いもの。

 

「あ、あれって……」

 

 男は自分の腕と手を見た。そこにあるべき皮も肉も無く、あるのは白い──

 

「う、あああ──」

 

 悲鳴は頭上から被ってきた悪魔の口の中で木霊することなく噛み潰された。

 

「地獄だ……地獄がこの世に現れた……」

 

 目の前で繰り広げられる光景に父は呆然とした様子で譫言を洩らす。

 だが、そう考えると妙に納得してしまう。悪魔が居るのならそこは地獄そのもの。

 父が見ているのに気付いたかのように悪魔が父の方を向き、息を吸い込み始める。

 悪魔から逃れる術は無い。最早、助かることは叶わないと悟った父が最期に行ったのは、息子たちと妻が無事に生き延びることを祈ることであった。

 悪魔が吸い込んだものを吐き出す。黒い気体に赤雷が生じ、さながら雷雲であった。

 雷雲に呑み込まれる寸前まで父の祈りは途切れることは無かった。

 

 

 ◇

 

 

 案の定というべきか裏門への道は人々の混雑によって一向に進まなかった。砲撃や何度か聞こえた恐ろしい咆哮のせいで、どうしても我先にとなってしまいそれが返って道を詰まらせる。

 

「最悪だ……」

 

 兄は思わず愚痴を零す。さっきから脱出が遅れている。これでは父や兵士たちが何の為に頑張っているのか分からない。

 いっそのこと貴族特権を行使して脱出しようかとも思ったが、それを実行する程兄は浅慮ではない。周囲も苛立ち、殺気立っている状況でそんなことを言えば自分たちに苛立ちの矛先が向けられる。

 

「大丈夫ですよ。きっと貴方たちの父が解決してくれますからね」

 

 母が二人を慰めるが母本人もまた顔色が悪く、心の裡では不安と葛藤しているのが分かる。

 

『はい……』

 

 兄弟もそれが分かっていたので母に心配を掛けまいと大人しくする。

 こんな混乱は一時的なもの。これも過ぎれば元の日常が戻って来る。この時まではそう思っていた。

 

「うわあああああああ!」

「きゃあああああああ!」

「ひぃああああああああ!」

 

 絶叫が後ろから聞こえてきた。何が起こったのかと振り返ろうとした時、突然人の波に襲われて母と離れてしまう。

 

「なっ!」

 

 左右へと分かれ、引き離される母と兄弟。直後、引き裂かれた人波を喰らい進んでいく悪魔が現れた。

 悪魔はそのまま掬うようにして人々を喰らい続け、最後には唯一の脱出口であった裏門に全身でぶつかる。

 逃げようとしていた人達はその体当たりで裏門を詰める肉の栓となり、追い打ちを掛けるように周囲の建物が崩れて完全に塞がれる。

 

「な、何あれ……?」

 

 弟は味わったことの無い恐怖に震えながら捕食する悪魔を見た。悪魔は目に映る者たちを片っ端から喰らっていく。

 

「に、逃げるぞ……!」

 

 兄は恐怖で震える体を使命感で突き動かし、弟の手を引っ張ってここから離れようとする。

 

「は、母上がまだ!」

 

 言われて兄は正気に返る。恐怖で一刻も早くここから逃げようと思っていたせいで、大事な母のことを失念していた。

 急いで母の姿を探す兄弟。幸い母はすぐに見つかったが、人波に呑まれたせいで地面に伏せている状態であった。

 急いで助けようとし、その場から一歩踏み出す。次の瞬間、横たわる母に悪魔の大口が覆い被さっていた。

 

『えっ……?』

 

 意味が分からない。悪魔が母を食べた。嚙み砕いた。吞み込んだ。それで終わり。終わり? これで? だって母はさっきまで、永遠のお別れ? こんなに呆気無く? こんなに突然に? こんなに理不尽に? 何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で。

 事態に頭が追い付かず、現実が曖昧になって何も考えられなくなる。

 そんな兄弟の心情など関係無く、食欲を満たす為に悪魔は兄弟たちを次なる餌にしようとした──

 

 グオァァァアアアア! 

 

 ──新たな咆哮が頭上から聞こえ、悪魔が空を見上げる。

 地面を砕きながら降り立ったそれは、悪魔を前にしてもう一度咆哮する。

 漆黒の体には全身余すことなく棘を生やし、己を支える四肢にも棘、空を駆ける両翼にも棘、尾に至るまで棘が生え尽していた。

 頭部には左右に伸びる四肢よりも太く白い角。先端のみが黒く染まっている。

 その姿もまた悪魔を連想させる。貪欲な悪魔に対峙する漆黒或いは棘の悪魔は、悪魔に相応しい凶相で牙を剝いて威嚇する。

 強い力が強い力を招き寄せ、この地にて二匹の悪魔が出会ってしまう。

 片や命ある身でありながら、底知れぬ食欲と恐暴さによって厄災に成ろうとしている(イビルジョー)

 片や厄災に生ある物の姿を与えた存在ながら、その厄災すらも喰らう(ネルギガンテ)

 二匹は出会った瞬間に相手を喰らうことを決めた。視界を広げれば目の前の相手よりも遥かにか弱く、喰らい易い存在がいるにも関わらず。

 だが、そんなことは両者にとっては些細なこと。命が在る。だから喰う。それのみ。

 

 ゴバアアァァァァァァァァァァ! 

 グオァァァアアアアアアアアア! 

 

 この二匹は(いのち)ある限り喰らい続ける。

 




続きはゴールデンウイークが終わるまでに投稿したいですね。

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