MH ~IF Another  World~   作:K/K

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惨劇の終わり

 ソレが目を覚ましたのはある意味で必然であった。

 ソレはいつもの様に森の中にいた動物たちを喰らい飢えを満たした後、その後からやってくる睡眠欲に身を任せて骨や木の枝で出来た自分の住処で微睡んでいた。

 だがソレは眠っていていても不穏な気配を感じ取ることを怠ってはいなかった。

ソレは鱗越しに感じる別の存在の殺気を敏感に察し、閉じていた眼を開く。

 この森の中を気に入っている故、そして自分の縄張りの中に入ってこなかった為、その殺気を放つ存在とはことを構えることは無かったが、どういった訳かその殺気がこちらの縄張りに向かって迫ってきている。

 どういった理由でこちらの縄張りに侵入してこようとしているのかは分からない。だが傲慢にも踏み込んでくるのならばそれ相応の対応をするだけと考え、それを縮まっていた体を開き始める。

 深緑を彷彿とさせる緑の鱗、斑の紋様が浮かぶ巨大な翼、無数の棘を生やし凶悪な拷問器具を連想させる尻尾、そしてそれらを収める巨体。ソレは閉じていた翼を広げ、その場で大きく羽ばたく。翼が大きく上下する度に砂埃が舞い上がり、その風圧によって周囲の木々の枝が激しく揺さぶられ、先にある葉を落としていく。

 ソレが数度羽ばたくとその巨体は数十メートルの高さまで飛翔し、そのまま飛び去って行く。

 狙うはソレの視線の先に居る侵入者。

 

 

 

 

 ビートのワイバーンの身を張った時間稼ぎにより何とか獣から逃げる隙を得た二人は、深い森の中を全力で駆け抜けていった。

 常人の倍近い速度で走る二人。彼らは冒険者がよく使用する基礎魔法である『強化』の術式が刻まれたブーツを着用している。『強化』とはその名の通り身体能力を上げる魔法であるが、比較的簡単かつ少量の魔力でも発動出来る手頃の魔法である為、冒険者間で広い普及率を持っていた。

 その『強化』で得た脚力で疾走するものの、二人の表情から一向に負の感情が抜けない。

 一方はつい先程身内に等しい程の愛情を注いでいたワイバーンを失い、怒りと悲しみが混在した表情をしており、もう一方は常に背後を気にし、いつ来るかも知れない獣の恐怖に焦りを浮かべていた。

 

「――まだ大丈夫か?」

 

 走りながらも肩を担いでいる隣の冒険者に声を掛けるビート。まだ相棒を失った感情が消え失せた訳ではないが、相手を気に掛ける心も失った訳では無い。寧ろ、誰かのことを無理矢理でも考えなければ心が押し潰されそうであった。

 

「へへへ……ルーキーが気にする程じゃねぇよ」

 

 強がって笑うが、その顔色は蒼白く生気が抜けてきている。流れていく血は止まる筈も無く、心なしか量が増えている気さえあった。

 腹部にあの獣が放った棘を突き刺している状態で走っているのだから無理も無い話であったが、あの獣がこちらを狙っている以上全力で動かない訳にはいかない。

 動き続けても命が縮み、立ち止まれば命を失ってしまう最悪な状況。この事態をどうすればいいのか、ビートは頭を兎に角働かせた。

 息苦しくなり、どんどんと体力が失われていく現状をどこか客観的に判断しながら隣で苦渋に満ちた表情をしているビートを、冒険者は横目で見ていた。その顔からいかにしてこの現状を脱しようかと苦悩しているのが手に取るように分かる。

 冒険者はそんなビートの様子を見て小さく笑う。恐らくビートは怪我人である自分を含めて二人でどうやってこの危機を乗り越えようかと考えていると推測した。そしてその前提が間違っていることも理解している。あるいはその選択が浮かび上がってこないことが、冒険者としての日の浅さの証明なのかもしれない。

 

「最初っから選択は一つしかないぜ……新人」

「何だって? もう少し大きな声を出してくれ」

 

 ぼそりと洩らした言葉を聞き逃さず、ビートは聞き返す。

 

「――いいか、ルーキー。 今から俺の言うことを良く聞け。この危機を抜け出す最後の賭けだ」

 

 真剣な表情で話しかけてくる姿を見て、ビートは口を強く結びその言葉に頷いた。

 

「じゃあ、話すぞ?」

 

 

 

 

「――どういうことだ?」

 

 受付嬢の前でワイトはぽつりと言葉を洩らす。

 

「で、ですから、既に編成されて、げ、現場に向かっています」

 

 無表情で怒鳴っている訳でもないワイト。しかし、その全身からは隠しようも無い殺気立った気配を放っており、それに触れた受付嬢は傍から見ても哀れに思える程震えていた。ワイト自身には脅かす気など毛頭無いが、聞かされた内容に感情の高ぶりを抑えることが出来ない。

 

「もう一度聞く。私は確かにあの森への派遣を当分の間、禁止すると仮申請した筈だ。調査する為の人材が揃うまでの間な」

 

 その人材に目途が立ち、調査する人材の名簿を持って申請の更新をしようとしたワイトであったが、名簿を受け取った受付嬢から出てきた言葉は予期せぬものであった。

 

『あれ? ワイト様、この森の調査の人員はもう決まっていますし既に調査に向かっていますよ?』

 

 受付嬢の言葉を聞いた瞬間、不覚にもその場で数秒程棒立ちになってしまう。だがそれは無理も無かった。自分の知らぬ間にことが進んでいたのだから。

 

「そ、それが別の方が新たな申請書と参加者名簿を持ってきたので……手渡された時点で既に、ぼ、冒険者の方たちは送られていた状況で……」

 

 声を震わせ、ワイトの顔色を窺いながら受付嬢は慎重に言葉を選びつつ経緯を話す。話を聞いたワイトの表情がますます険しさを増したのを見て、受付嬢は更に震え上がった。元より穏やかな気質であるワイトであるため、ここまで怒りを見せるのは珍しく、それがより恐ろしさを際立たせる。

 

「申請書と名簿を見せて貰おうか……」

「は、はいっ!」

 

 受付嬢は慌てた様子で整理されている書類の束を漁り、その中から必死になってワイトの要求した文書を探す。

 その姿を見てワイトは、彼女を必要以上に怯えさせてしまったことを内心悪く思うが、今はそれについて謝罪している余裕は無く、一刻も早く自分以外が提出した申請書の中身を知りたかった。

 

「こ、これです」

 

 数十秒後、受付嬢から申請書と参加者名簿が手渡される。それを受け取るとその二つに目を通し、数分後眩暈のような感覚を覚えた。

 まず申請書の方にはワイトがエイスたちから得た情報について一切記載されておらず、適当としか言い様の無い無駄に長く回りくどい文章で中身が無い。要約したとして『何となく危険であるから調査する』という具体性の無い酷いものであった。

 そして参加者名簿には当然、参加する冒険者たちの名前と冒険者として活動してきた年数が記載されているが、その年数を見てワイトは目を疑う。

 最年長だとしても二年半、一番浅い年数で一年未満というほぼ新人のみで構成されたメンバーであった。

 その名簿を掴む手に無意識に力が込められ、用紙に皺が出来ていく。これまで杜撰な管理などを色々と見てきたが今回はその中でも特に酷く斜め上を行く。またエイスたちの情報も事前にあってか笑えない状況であった。

 無言で立ち尽くすワイトの姿を見て、誰も声を掛けることが出来なかった。全身から溢れ出る鬼気によって口を噤む。普段は冒険者たちの雑談で騒がしいギルドの一階も、ワイトの存在によって別世界のような静寂を保っていた。

 

「この印……」

 

 目に止まったのは文書の最後に押されている申請者を示す赤いインクで押された印。幹部が個々で所持している印であり、当然一人一人印の形は違う。書類を申請する為には必需となるものであり、書類の作成者は必ずこの印を押さねばならず、印の無い書類は誰であろうとも受付嬢は受け取らない決まりになっている。

 この書類に押されている印の形を見てワイトの頭にある貴族の姿が浮かぶ。全ての幹部が所持する印の形を記憶しているワイトにとって造作もないことであった。

 しばらく黙っていたがやがて書類から目を離すと受付嬢の方に顔を向ける。

 

「すまないが緊急事態の為、特別措置を取らせてもらう。書類等は後で提出する。構わないかね?」

「え、ええ! はい!」

 

 首を縦に振るのを見て、ワイトは急いで現場へ向かう為の準備を始めようとする。急遽の為用意できる人材、人員共に不十分であるが、それでも現場まで足を運ばなければならない事態であった。

 今すぐ対応できる可能性がある冒険者たちの名前を頭の中で素早く並べ、それらに連絡をしようとしたとき、二階から降りてくる足音が聞こえてきた。

 

「おんやぁ? どうしたのですかな、ワイト殿? 血相を変えて」

 

 足音と共に只でさえ精神的にあまり余裕の無い状況で更に神経を逆撫でする声。ワイトは目線だけを声の方に向ける。

 

「天下に響くワイト殿がそのような余裕の無い態度をとっていると他の者たちに示しがつきませんぞぉ」

 

 姿を見せたのはことある毎にワイトに突っかかってくる貴族の幹部であった。その癖こちらが少しでも強気に出ると拍子抜けするほど腰が引けた態度になる為、正直相手すること自体徒労と思っている人物である。

 だがこのときばかりはその人物に正面から向き合わなければならなかった。この人物こそ、ワイトが本来依頼する筈であった調査を先走って独断で先行した人物であるからだ。

 

「……随分と勝手な行動をしましたね」

 

 静かな言葉であったが、それを端で聞いていた冒険者たちは心底震えあがった。ギルドの依頼の最中何度か命の危機などを経験している故に鍛えられた感覚が、ワイトの言葉を聞いた途端に最大限の警鐘を鳴らし始める。それほどまでワイトの言葉には重圧が秘められていた。

 

「いやいやぁ、差し出がましい真似をしましたが、何分ワイト殿は色々とお忙しい身。ですから少しでもその重荷を減らそうとしたまでですよぉ。同じ、ギルドの、幹部として!」

 

 どこかしてやったりというにやついた表情を浮かべ、自尊心溢れる態度で喋る幹部の姿に、他の冒険者たちは声にならない悲鳴を上げていた。それほどまでに幹部の態度は命知らずであった。

 死線を掻い潜ってきた冒険者すら恐怖を覚える重圧を放つワイトを前にして、その幹部は特に動じることなくいつも通りに接する。傍から見れば肝の据わった神経の太い人物のように見えるが、実際は危険や命の危機などという言葉が遥か彼方にある絶対安全な温室で育った者特有の鈍感さであった。危険から遠ざかって育った故の危機管理能力の退化。恐らくこの人物は、刃物や鈍器などの見て分かる直接的な危険にしか反応しないであろう。

 

「……の決まりはご存じで?」

「はい?」

 

 呟くワイトの声を聞き取れず貴族の幹部は聞き返す。

 

「未知の地及び生物の探索、調査においての決まりはご存じで?」

 

 いきなり振られた内容に、貴族は質問の意図が理解出来ないのか目を瞬かせていた。

 

「いきなり何を――」

「質問を返すよりも先に答えて頂きたい。未知の地及び生物の探索、調査においての決まりはご存じで?」

 

 有無を言わさぬワイトの言葉。このときになってようやく重圧の片鱗を感じたのか、にやついた表情を引っ込める。

 

「えー、それは……」

 

 聞かれたことに対してすぐに答えることが出来ず、しどろもどろな様子になる。目が泳ぎ続け、口が開いたり閉じたりする様子は、誰の目から見ても答えを知らないと体で表現しているのが分かる。

 

「あ、あはははははは! いやいや! どうもド忘れをしてしまったようですなぁ! いやー覚えている筈でしたが、いざ聞かれるとすんなり出てきませんなぁ! 失敬失敬!」

 

 幹部の口から出てきたのは言い訳にしてはあまりに陳腐な言葉であった。

 

「結構。申し訳ないが私はこれから私用で忙しいので失礼する」

 

 その問いが何を意味するのかは聞いたワイト自身にしか分からないものであったが、ワイトが幹部を見る目は冷たく、どのような感情を秘めているのか窺えない。

 

「そ、そうですか! 足止めして申し訳ないですなぁ! 私も、ヒっ!」

 

 あっさりと退いたワイトに幹部は露骨なまでにホッとした様子であったが、去り際に向けられたワイトの視線に言葉を詰まらせ引き攣った声を洩らす。

 

「規則を創る側の人間がそれを自ら破るという罪、いずれ罰という形で降りかかることを肝に銘じておいてもらいたい」

 

 それだけ言い残すとワイトはギルドの外に向かって行った。その背後にはようやくワイトの恐ろしさを理解し、腰を抜かしている幹部の無様な姿があった。

 ギルドの外へと出たワイト。そこには数人の男女がおりワイトが出て来たのを見て近寄って来る。ワイトのことを待っていた様子であった。

 

「悪いが緊急の用事が出来た。すぐに準備をして出掛けてくれないか? 私と一緒に」

「何か、嫌なことでもあったんすかぁ旦那? 眉間にこれでもかってくらい皺がよってますよ? ふぐっ!」

「この礼儀知らず」

 

 リーダー格と思わしきバンダナを巻いた青年が茶化す様に言うが、隣に立つ金髪の女性が戒める様に脇腹に肘鉄を当てた。

 

「今からすぐにナナ森へ向かう」

「それって俺らが調査に向かう筈の森っすか? まだ全員集まってませんよ?」

「分かっている。だが事情が変わった。あの森には別の要請で動いた冒険者たちが現在調査している筈だ。……人数は20人、最長経験者は二年半、勿論上級ランクの冒険者はいない」

 

 ワイトの言葉に、その場にいる全員が性質の悪い冗談でも聞いたかのように目を丸くしポカンとした顔となる。

 

「調査に必要な人数、経験年数、クラスどれも基準を満たしていないということですか?」

「そうだ」

 

 金髪の女性の言葉に、ワイトは苦み走った表情で頷く。

 

「失礼は百も承知で言わせてもらいますが、その依頼を出した人物は馬鹿ですか?」

 

 金髪の女性はこの場にいる全員の気持ちを代弁する。

 

「何も言えないな」

「それで旦那が尻拭いって訳ですか? かぁー! やっぱ上の奴には碌なのいねぇー!」

 

 バンダナの男は額を押さえて天を仰ぎながら毒吐く。しかし、この場でバンダナの男を咎める者は誰も居なかった。

 

「色々不十分で行く。正直、無理強いはしない。あくまで私個人の依頼だ」

「旦那にゃあ色々世話となってるんですぜぇ? 水臭いことは無しで行きましょう」

 

 あっけらかんとした男の態度に、ワイトも少し気持ちが和らいだのか小さく微笑んだ。

 

「エッジ――とワイト様じゃないですか、どうしたんです? こんなに集まって」

 

 バンダナの男をエッジと呼んだのは、ギルドへとやってきたゼトであった。他にもエイス、シィ、エルゥもいる。

 

「ゼトか、どうした御一行様でピクニックにでも行くのか」

「それはこっちの台詞だ。こんな多人数で、何かあったのか?」

 

 ワイトの姿を横目で気にしつつゼトとエッジは軽口を言い合う。それは長年見知っている顔だからこそ出来るものであった。

 

「あの、どうかしたんですか?」

 

 エイスがワイトの顔を見ながら恐る恐るといった様子で尋ねた。事情は知らないが何となくワイトが焦っているような雰囲気を感じ取っていた。

 ワイトは答えず、暫しエイスたちをじっと眺める。その視線が何を意味するか分からない為、少しの間エイスたちは緊張で身を固めていた。

 

「……君たちは、これから依頼があるかね?」

「え! いや、無いですが……」

「よければ私の依頼に付き合って欲しい」

「ワイト様の依頼ですか?」

「これからあの森に行く」

 

 その言葉にエイスたちは息を呑んだ。

 

「君たちにあの森へ入れとは言わない。入る人間は決まっているからね」

「なら僕たちは何を?」

「万が一のときの為に君たちには――」

 

 

 

 

 思いの外しつこく喰らい付いてきたワイバーンを振り払い、獣は逃げた獲物たちを追う為にその場から駆け出す。

 走りながら獣の嗅覚は去って行った獲物のニオイの跡を追っていた。獣自身が放った棘によって出来た傷から流れ出る鮮血の濃いニオイが、例え相手が離れていようと目印となって獣を正しい方向に導いていく。

 森の奥に進んで行く獣。辿っていた血のニオイはどんどんと鮮度を増していき、獲物たちに近付いていることを示している。やがてニオイはある場所に留まり、そこから周囲に血のニオイをばら撒いていた。

 そこにあるのは大きな樹木であり、獲物のニオイはその陰から漂ってくる。

 獣が樹木へ一歩ずつ歩みを進めていくと、木の陰から獲物のものと思える哄笑が上がった。

 

「ははは、あははははは! こうも簡単に引き寄せられるなんてなぁ! 意外と単純じゃあないか!」

 

 木の陰、そこにはビートと一緒にいた冒険者が木に背をもたれさせて座っていた。周りにビートの姿は無く独りである。

 男の腹部には刺さっていた筈の棘が無く、それによって塞き止められていた血が大量に流れ座っている男の周囲の土は赤黒く変色していた。

 その血の量と死人に近い顔色は、間もなく男が事切れることを如実に表している。だがそれでも男は笑い続けた。

 

「ははははははは! はははははは! あはははははは!」

 

 正気を失ったから男は笑い続けているのではない。正気故に足下まで迫ってきた死の恐怖に怯えない為に、自らを鼓舞する為に笑い続ける。

 獣は何故、男が笑うかなど理解出来ないし、もとより理解する気など無かった。ただ一匹がここに留まり、もう一匹は別の方へと逃げたという認識しかなく、速やかにこの一匹を葬ることのみ考え即座に行動に移る。

 獣は前脚を振り上げ、その刃を樹木へと向ける。

 

「はははははは……ははは……」

 

 木越しでも獣が何をしようとしているのか感じ取ったのか、男の笑い声は徐々に小さくなり、やがて――

 

「うくっ! うう、うううう……」

 

 ――嗚咽へと転じる。

 最期の最期になって男の胸中には迫る死による恐怖、そしてある心残りによって満たされてしまっていた。

 獣が木に向け、その刃を振り下ろす。

 

「――おふくろ」

 

 最期に呟いた声を消し去る様に斬られた樹木は音を立てて倒れていった。

 

 

 

 

「はあ! はあ! はあ!」

 

 同時刻、ビートは手に男から渡された二つのものをしっかりと握り締め、森の中を全力で走り続けていた。

 息を吸う度に肺が痛み、喉の奥から鉄のニオイがするがそれでも進む足から力が抜けることは無かった。

 額からは体の内に篭った熱により汗が滝の様に流れる。そしてその双眸からも同じく流れるものがある。

 ビートは走りながらも頭の中ではずっと男と別れた際の会話が延々と繰り返されていた。

 

『置いて行けって言うのかよ!』

『少しでも生きる可能性を高める為だ。――ここからは別の道を行く』

『なら俺でも!』

『こんな死に掛けの奴と、目立った傷の無い奴、どちらが生き残る可能性が高いかガキでも、分かる』

 

 男はそう言うと腹部に刺さった棘に掴み、ビートが止めるよりも先に一気に引き抜く。それにより傷口から洩れる血が一気に溢れ出す。

 

『くっ! ――これとお前の証言が揃えば、少なくともここで、死んでいった奴らの死が無駄じゃ、無くなる……持って行け』

 

 棘を手渡そうとするがビートは躊躇し、手を伸ばさない。

 

『取れ! お前にしか、出来ないんだよ!』

 

 その剣幕に押され、ビートは納得し切れない表情ながらも棘を受け取った。

 

『それで、いい……ガキは素直に大人の言うこと聞くもんだ……』

『何が大人だよ……あんただって俺とそんなに齢、変わらねぇじゃねぇか……!』

 

 ビートよりも二、三歳上程度にしか見られない、まだ幼さが抜けきらない顔付きで男は小さく笑い、懐に手を伸ばすと服の内側からある物を取り出す。それは削った木で出来た素朴な飾り物であった。

 

『もし、生き延びたらこれを俺の親に渡してくれ……それとゴメンとも……』

 

 男はビートの返答を聞かず強引にそれを押し付けると、ビートから離れ別の方向へと走り出していく。重傷を負った身とは思えない勢いで走り去る後ろ姿。それは微かに残る命を燃やし尽くすような文字通りの必死の走りであった。

 小さくなっていく男の背に掛ける言葉が見つからず、今にも泣き出しそうな顔をしていたビートであったが、堪えるように奥歯を噛み締めると去って行く男に背を向け走り出すのであった。

 そしてそこからどれほどの時間が経過したのか分からないが、ビートは宛ても無く森を彷徨い続けている。

 今、自分が森の奥に進んでいるのか外に進んでいるのか分からない。地図も方位磁石も空から落とされた際に紛失している。

 食料も水も微量しかなく空腹と喉の渇き、そして疲労に耐えながらビートはひたすら走り続けていた。

 が、やはり体は正直なのか疲労、そして馴れない道を走り続けてきたことで蓄積したダメージで膝が急に折れ、その場で躓き転倒してしまう。

 すぐに立ちあがろうとしたとき、彼の耳に不吉な音が入り込んでくる。

 木々の枝がへし折れる音。近くではないが遠くからでも無い。

 

(――ただの折れる音だ。きっと他の動物が折ったか何かしたんだ。きっと、恐らく)

 

 自分にとって都合のいい想像を並べている自覚はあった。だが現実はその都合を冷徹に打ち砕く。

 折れた枝の音が無数に重なって近付いて来る。それに強い既視感を覚える。音はぶれることなく一直線にビートへと向かっていた。

それは明らかにあの獣が自分の存在を見つけたという証。心臓も血も凍りつくような寒気が全身に走る。

 震える手を動かし立ち上がろうとするビート。その前を塞ぐようにして獣が木から飛び降りる。

 獣の瞳がビートに照準を合わせる。

 恐怖からビートは呻き声一つ出すことが出来なかった。震えが止まらずただその場で立ち尽くしてしまう。

 終わった。そう心の裡で確信してしまう。死んでいった者たちへの詫びの言葉も思い浮かばず、その犠牲に報いることも出来ず、ここで自分も犬死すると諦めてしまった。

 獣が前脚を引き、斬撃の構えをとる。

 それをどこか他人事のように見ていたビートであったが、次の瞬間、あることで無理矢理正気に戻される。

 

ゴアアアアアアアアアア!

 

 何かが爆発したかのような轟音。だが紛れも無くそれは生物の咆哮であり、頭上から聴覚を殴りつけるように入り込んでくる。

 その直後に獣へと降り注ぐ複数の火球。獣は素早くそれを避けるが、ビートは着弾した衝撃で数メートルほど吹き飛ばされた。

 うつ伏せの状態から顔を上げたビートが見たのは、獣と変わらない大きさをもつ緑のワイバーンであった。

 緑のワイバーンはその巨大な翼を掲げ、明らかな敵意を獣へと向ける。獣もまたその敵意に応える様に身を低くし、いつでも飛び掛かる姿勢になる。

 

「う、うああああああああああああああ!」

 

 ビートの恐怖は遂に臨界に達し自分でも理解出来ない叫びを上げ、その場から一秒でも早く逃げる為に訳も分からず走り出す。幸い緑のワイバーンと獣の意識はお互いに向けられた為、ビートの絶叫は雑音以下にしか聞こえず目すら向けられない。

 あまりに生物として格が違う為に辛うじて逃げ出すことが出来た。

 

「あああああ! うあああああ! ああああああ!」

 

 ただひたすら叫びながらビートは逃げる。背後で何が起きているかなど恐ろしくて見たくも無いし聞きたくもなかった。

 

「ああああああああ!」

 

 逃げながら急に出てきた何かにぶつかり倒れそうになるが、その何かに腕を掴まれ転倒を免れる。だがパニックを起こしているビートはその腕に纏わりつくものを振り払おうと、乱暴に振り回した。

 

「あああああ! ああああああ!」

「――け! 落ち着け!」

「ああああ! ――ひ、と?」

 

 そこでようやく自分の腕を掴んでいるのが人の手であることに気付く。よく見れば、周りには掴んでいる男性以外にも数人居た。

 

「他に、君以外に誰も居ないのか!」

「み、みんな……し、死んだ」

 

 ビートの言葉に男は強く唇を噛む。

 

「ワイトの旦那ぁ! 早くここからずらかりましょう! キユウの老いぼれじじい! 転送の準備はまだか!」

「慌てんなクソガキ。あと一分待て」

 

 バンダナの男がキユウと呼んだ杖を持つ小柄な老人を罵声混じりで急かす。キュウは瞳を閉じたまま杖に額を当て何か呟き続けつつも罵声を返す。

 

「え? え? 何アレ? 何アレ! うわ! 怖い! やだやだやだ!」

 

 片目を閉じている金髪の女性が急に怯え始める。

 

「アル! 何が見えた!」

「うわっ! うわっ! 命が大きすぎる! 本当に生物? 怖い、泣きそう!」

 

 金髪の女性――アルはエッジの言葉を無視し独り混乱している。

 

「だから! 何が見えてんだよ!」

「来た! やばいこっちに来た! 二匹まとめてこっちに来た!」

 

 何が来たかと問おうとしたエッジ。だがそれを遮るように、周囲の木々の葉が揺れる程の二つの重なった咆哮が聞こえる。

 

「――じじい! まだか!」

 

 咆哮に危険なものを本能的に感じ取ったのか、エッジは更に急かす。

 そのとき木々がへし折れる音が聞こえてきた。それも一本や二本ではなく何本も続けざまに折れていく音。その音は確実に近づいてきていた。

 

「やばい、来た」

 

 アルの言葉通り、折れた数本の木が吹き飛ばされて、ワイトたちの周囲に落ちる。そして現れたのはもつれ合う二匹の巨大な生物。

 緑のワイバーンは黒い獣の腕に噛みつき、獣はワイバーンの脚に牙を突き立てている。

 

「これが――」

「跳ぶぞ! 近くに寄れ!」

 

 ワイトがその光景を目に焼き付けているとき、キユウは合図を出す。すると彼を中心にして円形の光が生み出され、その内にいるワイトたちの身体が光に包まれたかと思えば、次の瞬間には姿を消していた。

 犠牲者数十九名、生存者一名。犠牲者内、経験年数一年未満の冒険者十五名。二十歳未満十四名。多くの若い命を散らし、後に『ナナ森の惨劇』と呼ばれる事件はこうしてギルド幹部と上級クラス冒険者たちの介入により最後の生存者を救出したことで、その幕を閉じた。

 

 




今後とも新しい竜が追加されていく予定です。

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