田中琴葉への頼みごと   作:パンド

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『噂笠』
『噂笠』其ノ壹


 

 誰かを、好きになることは大切だ。

 その感情のために、人は時に自分の限界すら超えるのだから。

 だから、人を好きになることは大切だ。

 しかし、それと同じくらい……いや、実はそれ以上に大切なのは。

 

 ──自分を、自分自身を、好きでいることだ。

 

 そんなことを考えながら、田中琴葉は思い出す。

 高校三年生の、あの一年を思い出す。

 高校生活最後の一年を、アイドルとしての最初の一年を、不思議で不可思議な経験ばかりした一年を。

 大変な目にあったけれど、苦しいことも悲しいこともあったけれど、確かな意味のあった一年間を思い出す。

 神に覆われた高坂海美を。

 蟻に噛まれた周防桃子を。

 鳥に奪われた馬場このみを。

 狐に懐かれた北上麗華を。

 貝に挟まれた自分自身を。

 摩訶不思議な体験を共にした仲間たちと──そして、彼女があの一年を思い出すとき、欠けてはならない人物を思い出す。

 あの偏屈で捻くれ屋で胡散臭い、妖しげな国語教師を。

 大したことなど知りはしない、妖怪じみた先生を。

 ぶっきらぼうで思いやりに欠けている、そのくせ思い出には欠かせない恩師を思い出す。

 彼がいたから、彼に出会ったから、自分は今の自分でいられる。

 たとえ頼り甲斐がなくても、時には頼みを断ることがあっても。

 自分らしく、『本当の私』でいられる。

 

 田中琴葉で、いることができる。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

「じゃあ、よろしく頼むよ田中」

「はい。出来る限りのことはしてみます」

「ははは、君は本当に頼り甲斐のある生徒だ」

 

 言うだけ言って、担任の教師はいそいそと去っていった。いかにも重荷から解放された人の背中だなと、彼女は思った。

 自分に頼めば、なんでも解決すると本気で思っているのだろうか。

 だとすれば、それは些か過大評価で、自分を大きく見過ぎていて、付け加えるなら結構無責任な話だ。

 確かに彼女はクラスの委員長で、ついでにあだ名も委員長で、長髪カチューシャに落ち着いた態度と、いかにも委員長然とした委員長らしい雰囲気の持ち主ではあったが、だからといってクラスの問題を全て解決できるわけではない。

 解決できるわけではないのだから、あんな頼みは断るべきなのに。

 

 彼女──田中琴葉は頼まれると断れない性格だった。

 

 昔からそうなのだ。

 どれくらい昔か、なんてのは思い出せないけれど、彼女は頼みごとにめっぽう弱かった。

 過去に通っていた習い事も、運動会の応援団長も、合唱コンクールのソロも、両親や先生や同級生に頼まれたからやってきた。

 それは高校生なっても、高校三年生になっても変わらない。

 クラスの委員長だって頼まれた立場だし、思えば演劇部へ所属していた頃に部長を務めたのだって周りからの声があったからだ。

 自分には自主性がない──わけではない。と田中琴葉は自負している。

 学芸会で主役に立候補したのは自分の意思だし、演劇部にだって演じることが好きだからこそ好きで入った。

 そして何より、今の仕事を選んだのは他の誰でもない自分自身だ。

 自分が、田中琴葉が選んだからこそ、今の彼女がある。

 それを思うと、琴葉の心に力が入る。

 気合が入る。と言ってもいい。

 ただし、それがあったとしても、気合があったとしても。

 あんなことを頼まれたって、どうもこうも仕様がないというのが、琴葉の正直な気持ちであった。

 きっと、担任はこれから事あるごとに彼女へ進捗を確認するだろうし、問題が大きくなれば責任の一端を問われかねない。

 田中琴葉は責任感の強い生徒だ。

 それは事実であるけれど、担任もそう見ているから頼んだのだろうけれど、琴葉だってできることなら責任を持って解決したいけれど。

 やはりこの案件は荷が重いし、先を思うと気が重くなる。

 ……このままじゃダメだと、琴葉はいったん気持ちを切り替えることにした。

 

(来月はライブもあるんだし、お客さんにこんな顔を見せちゃダメ)

 

 それに、あの何だかんだで世話焼きな友人たちにだって、会う時は笑顔でいたい。

 琴葉が壁にかかった時計を見ると、もうじきに下校時刻へ差し掛かろうとしていた。

 今日は仕事仲間とプライベートな約束があるのだ。

 と、こう言えばプロフェッショナルな感じがするが、実際のところは友達と待ち合わせて映画を観る予定、になる。

 待たせてはいけない、と琴葉は一回玄関へ向かおうと一歩を踏み出した。

 踏み出して、しかし二歩目を踏み出す前に、彼女は足を止める羽目になった。

 

 ダンボールが、こちらに向かって来ていた。

 より正確には、三段に積まれたダンボールが向かって来ていた。

 さらに詳しく言うのなら、三段に積まれたダンボールを抱えた男性が琴葉の方へと向かって来ていた。

 三段に積まれたダンボールは男性の顔を隠していて、前など見えていないはずなのに、男性は横から覗いて前方確認なんてする訳でもなく、淡々と步を進めていく。

 その姿が、なんだか異様で、異質で、不可解で、琴葉は自然と一歩後ろへと下がっていた。

 やがて男性は彼女の前を横切り、横切る途中で足を止めた。

 ちょうど、横向きのまま琴葉の正面に立つように。

 そしてぴったり90度、男性の首が回わった。

 グルリと、まるで機械か絡繰かのごとく。

 当然ながら、当たり前のように、琴葉と男性の視線がぶつかって。

 

「そこの女学生、資料運びを手伝ってはくれないか」

 

 彼は気だるげに胡乱げに、たまたま目が合ったからだと言わんばかりに、抑揚のない声で頼んできた。

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 追釜(おいがま)大知(たいち)は四月に赴任してきた国語教師だ。

 あだ名は『ガマ妖怪』『ガマ先』などなど。

 名前の釜とカエルを意味する蝦蟇をかけて付けられたあだ名で、その名の通り彼はどこか妖怪じみている。

 顔色は常に悪く青白く、それこそカエルのようで。

 身体はヘビのように細身で、縦に長い。

 若白髪の混じる黒髪は無秩序に、ボサボサに好き放題伸びていて、どこか鳥の巣を思わせる。

 おまけに表情らしき表情を浮かべることがなく、常に壁を見るような目で人を見る。

 そんな妖怪じみた、妖怪のような風貌の先生である。

 そして田中琴葉は、頼まれたら断れない高校三年生女子は、追釜大知と二人資料運びの真っ最中というわけであった。

 

「しかし、話に聞いてはいたが田中、お前は本当に頼まれたら断らないのだな」

「えと、そんなこともありませんよ。追釜先生の荷物、多くて大変そうだなって思っただけですから」

 

 嘘だった。

 琴葉は、できることなら今すぐにでも校舎を後にしたかった。

 友達との約束があるし、生徒の大半が思っているのと同じく、彼女もこの追釜という男性教師を苦手としていたからだ。

 何を考えているのか分からない、この父親と同年代くらいの先生が、先生だけれど不気味な雰囲気を持つこの人が。

 琴葉は決して、人を見た目や肩書きで判断するタイプの人間ではない。

 だと言うのに、4月に初めて見た時から、2ヶ月が経過した今でも、彼女はろくに会話もしたことがない追釜を怖がっている。

 それだけ、追釜大知という人物には近寄りがたいものがあった。

 

「……そうか。それにしては何やら思い悩んでいた様子だったが、他にも頼まれごとをされていたんじゃあないのか」

 

 本当、そこまで察していたのなら放っておいて欲しかった。

 平坦でのっぺりとした声に尋ねられながら、琴葉は内心げんなりとしていた。

 こちらとしては早いところ友人の元へ駆けつけたいというのに。

 頼みごとをされて悩んでいる相手に、更に上乗せでものを頼むだなんて、この人は普通に嫌な人なのでは、とすら思えた。

 すると追釜はしばし考え。

 

「礼といってはなんだが、私で良ければ話を聞こう。これでも、田中の倍以上は生きているなのでな」

「追釜先生に、ですか?」

 

 意外というか、想定外だった。

 悩んでいるなら相談に乗るぞ、と。

 教師が生徒にかける言葉としては、ごく普通でありふれたはずの文句を言われたことが。

 追釜の口から出ただけで、どうしてこうも意外性のある言葉に聞こえてしまうのか。

 田中琴葉は考えた。

 追釜大知が不穏な空気をまとっていること、自身が彼を苦手としている大前提を忘れて、この現状について考えてみた。

 これはもしかして、もしかすると。

 

「あぁ。私は大したことなど知りはしないが、なにか分かるやも知れない」

 

 自分が悩んでいたことに気がついて、資料運びを口実に相談を受けてくれようとしているだけなのでは。

 仮にそうなら、琴葉は今の今までとんでもない勘違いをしていたことになる。

 琴葉はチラッと、横目に追釜の顔を伺う。

 彼はいつも通りの、ともすれば寝不足にも見える虚ろな表情をしていた。

 やっぱり、なにを考えているのか分からない人だ。

 しかし事の真相はさておき、聞いてくれるというなら話すだけ話そうかなと、琴葉は決めた。

 

「最近、ここ2週間くらい、不思議というか……その、おかしな噂がクラスで流れているんです」

「噂、か」

 

 追釜のあっさりとした相槌に、琴葉は話を続ける。

 

「はい。追釜先生は『噂話』と聞いたときに、どんな話を思い浮かべますか?」

「ふむ。学生の噂話だとするのなら……そうだな、誰が誰のことを好いているだとか、逆に嫌っているだとか、そういう人間関係についての話が広がるんじゃないか」

 

 追釜の答えは、おおよそ琴葉の予想していた通りのものだった。

 高校というのは大勢の、それも年頃の男女が生活する場だ。

 当然、惚れた腫れたの話が出てくる。

 A組のあの子は誰々が好き、とか。

 B組の何々くんはあの子と付き合っている、とか。

 C組とD組のあの二人が別れた、とか。

 そんな噂が、友達から友達へ、クラスからクラスへと、気がつけば広がっていく。

 それ自体は、おかしなことでも不思議なことでもない。自然なことで、自然のことだ。

 なのに、と琴葉は本題に入り始める。

 

「今流れている噂は、そうじゃないんです」

「そうじゃない、な。そうじゃない噂とは、一体どんな噂なんだ」

「例えば、A組のあの子は誰々が好き、」

「それだけか?」

「だけど本当は他の人が好きで、その人のことは本命を隠すための嘘、」

「……それだけなのか?」

「というのもフェイクで、A組のあの子はもう2年生と付き合っている。とか、こういう噂がいくつも──それも、私のクラスにだけなんです」

「そいつは、凄いな」

 

 追釜の言う通り、凄い話だ。

 凄くて、あり得なくて、気味の悪い話だ。

 もはや噂話の域を大幅に超えている。

 あの子は二重に予防線を張っているけど2年生に本命がいて実はもう付き合っている、なんてレベルの掘り下げられた噂が短期間で拡散されているのだ。

 確かに、明らかに、明確におかしい。

 まるで誰かが生徒の個人情報を調べて、意図的に拡げているようではないか。

 それが琴葉のクラスにだけ起こっているという事実が、これは人為的なものだと思わせる要因になっていた。

 

「それで、クラスの雰囲気というか、皆んなの仲が拗れてしまって」

「委員長の田中が、解決を頼まれた。と」

「……はい、その通りです」

 

 皆んなが皆んな、互いに互いにを疑いあって、犯人は誰だと目を凝らし耳を澄ませている。

 ギスギスとしたあの空気を思い出すだけで、琴葉は頭痛がしそうだった。

 幸い色恋沙汰に縁もゆかりもない琴葉自身の噂は今のところ流れていないが、それだって時間の問題に思えたし、万が一を考えると気が気ではない。

 一通り話し終えて、琴葉は再び追釜の顔を伺ってみる。

 果たして、この妖しげな教師は琴葉の抱える問題をどうするつもりなのか。

 待つこと数秒、追釜はため息をついて。

 

「うむ……すまない田中、どうやら私では力不足のようだ」

「そう、ですか」

「いかんせんご覧の容姿なのでな、生徒と話す機会もなく噂の類には疎いのだ。期待に添えず、申し訳なく思う」

「い、いえ、そんな。話を聞いてくださっただけでも十分です」

 

 あまりに申し訳なさそうに謝られて、琴葉は素直に驚いた。

 この人見た目が妖しいだけで実は良い先生なのではと、そんな風にさえ思った。

 相変わらず平坦で起伏のない喋り方だけれど。

 根が真面目で心優しい琴葉からすれば、今の追釜は自分の担任よりも先生らしく見えたのだ。

 

「しかし大変だな、そんな噂話のもみ消しを頼まれるとは」

「……私も、今の状態でいいとは思っていませんから」

 

 この2週間で、彼女のクラスはすっかり変わってしまった。

 なんとかしたいと思う、けど何をすれば良いのか分からない。

 こんなこと、普段学校に居ない人には相談できない。

 両親や仕事仲間、それに自分を今の居場所へ連れてきてくれたあの人にだって、話せない。

 琴葉の暗い表情に、追釜はやはり事務的な口調で話す。

 

「もし、もしもの話だが。担任に急かされるようなら言いなさい、口添え程度なら私にも務まるだろう」

 

 正直、ホッとした。

 味方になってくれるのだと気がついて、琴葉は安堵した。

 我ながら単純だとも思ったが、それほどまで彼女は精神的に追い詰められていたのだ。

 クラスメイトは目をギラつかせ、担任は自分に丸投げ、そんな中で頼っていい大人が学校にいるのだと、少し気が楽になった。

 

「あの、ありがとうございます。追釜先生」

「構うことはない、必要なことだ」

 

 ぶっきらぼうに彼は言う。

 それがなんだか、優しさの裏返しに見えて、琴葉は笑ってしまいそうだった。

 心なし、足取りも軽くなる。

 話せてよかったと、琴葉はこの数分を振り返る。

 確かに追釜は妖しい風貌で、話し方も親しみを感じるものではないが、話してみれば生徒の力になろうとしてくれる立派な先生だ。

 今日まで見た目見かけで避けてきた自分を、恥ずかしくすら思った。

 

「よし、ここだ。ここに置いてくれ」

 

 話しているうちに、二人は目的地へ着いていた。

 扉の上から、廊下へ突き出るパネルには『視聴覚室』と刻まれている。

 琴葉は任されていたダンボール箱を置いて、制服のシワを正す。

 

「助かったよ田中、礼を言う。引き止めて悪かった」

「い、いえ。私の方こそ話を聞いてくださって、ありがとうございます」

 

 すると、追釜は半開きの目で琴葉を見つめ、こう言った。

 

「頼り甲斐があるというのも、考えものだな」

「えと、追釜先生?」

「いや、気にするな。これは今する話でもない……視聴覚室は何かから逃げるにはうってつけの場所だと、今はこちらを覚えておけ」

「は、はぁ。分かりました」

「あぁ、時間も時間だ。気をつけて帰りなさい」

 

 急に視聴覚室に逃げ込む話をされても、意味が分からない。

 追釜は優しいところもあるけれど、やはり変なところがあるのだなと琴葉は再認識した。

 と、言われて時計を見てみれば、時間はしっかり進んでいて、今から急いで待ち合わせにギリギリ間に合うか、というタイミングであった。

 

「あ、もうこんな時間っ。し、失礼します、追釜先生」

 

 やや急ぎ足で、琴葉は視聴覚室を後にする。

 彼女は焦っていたし、頭の中ではすでに間に合うか否かの計算が始まっていた。

 たがら気がつけなくても、それは琴葉の責任ではない。彼女が去る後ろ姿を見て、追釜が呟いた言葉を聞き逃しても、それは仕方のないことだ。

 

 

「さて、あとは食いつくのを待つとしよう」

 

 

 

 ■ □ ■

 

 

 

 なんとか、約束の時間には間に合えそうだった。

 視聴覚室から西階段を二階降りて、廊下をまっすぐ進み、突き当たりを右折してまた直進、そして玄関に到着。

 靴を履き替え、扉に手をかけて──。

 

 あれ、おかしいなと、琴葉は思った。

 扉が、開かない。

 誰かが鍵を閉めたのかと確認してみても、施錠はされていない。

 なにかが引っかかっている様子もない。

 誰かが抑えているわけでもない。

 なのに、それなのに。

 ガラスの扉はピクリともしない。

 

「なんで、こんな……これじゃあ他の皆んなも──」

 

 出られない。

 そう言おうとして、誰かに現状への共感を求めようとして、田中琴葉は気がついた。

 というか、そもそも。

 この玄関に、自分以外の人間がいないことに。

 いや、それ以前に。

 自分は追釜と別れてから、一度でも誰かとすれ違ったか?

 

(……おかしい、あり得ない)

 

 この時間の玄関に、他の生徒も先生すらも居ないのはおかしい。

 3階にある視聴覚室から、ここまでの道中で誰とも会わないなんてあり得ない。

 掃除を済ませた生徒に部活動を頑張る生徒、生徒会の面々に先生たち。

 この時間帯に居るはずの人の、姿も声も、なにも感じ取れなかった。

 これではまるで、この校舎に自分一人しか居ないみたいじゃあないか。

 そう思った瞬間、そう思ってしまった瞬間、琴葉は今更ながら、自分が冷や汗をかいているのだと自覚した。

 バカな話だと、自分に言い聞かせる。

 たまたま、偶然そうなっただけで、自分が変に意識しているんだと説き伏せる。

 だけど、どんなに説得しても、分からせようとしても。

 校舎にあるべき音は聞こえず、自分の心臓が独りでに高鳴っているばかりだ。

 普段生活しているはずの校舎が、今は自分を閉じ込める檻のように思えてくる。

 

「そ、そうだ携帯。携帯で連絡をとればっ」

 

 カバンから携帯を取り出し、今も学校内で演劇の練習をしているであろう友人にコールする。

 頼むから、繋がって。

 そう願いながら数秒が経過し。

 コール音が止まった。

 止まったということはつまり、電話が通じたということだ。

 あぁなんだ、やっぱり自分の勘違いだったんだ。

 学校中から人が消えて、自分一人が閉じ込められるなんて怪奇現象、あるはずがない。

 そういうのは創作の中の出来事で、創作として楽しむものだ。

 現実じゃない、リアルに起こることなんかじゃない。

 そう安心して、友人に声をかけようと──。

 

「ウ シ ロ ダ ヨ」

 

 少年のような、少女のような声だった。

 まるで中高生が、噂を囁くような、そんな声だ。

 声に釣られてゆっくりと、琴葉は後ろを、つまり下駄箱側へと振り向いた。

 球体が、そこにはあった。

 直径2メートルはある、表面は何だかぼんやりとしていて、色は薄茶色で薄汚れた棉の塊みたいだった。

 呆然とする琴葉の前で、球体はゆっくりこちらへ進み。

 

 球体に触れた下駄箱が、グズグズに腐り溶けて崩壊した。

 

「────ぁ」

 

 琴葉は、声を失った。

 携帯を持つ手が震えて、強張って、動かし方が分からなくなる。

 溢れる唾が、うまく飲み込めない。

 浅い呼吸が連続して、心臓が締め付けられているかのようだった。

 分からない。訳が分からない。

 自分の目の前で起こった現象が、なに一つとして分からない。

 ただ一つ、彼女にも分かる確かな事実は。

 

 逃げなければ、次に溶かされるのは自分だということだ。

 

 

 

 

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