アイドルになれて良かったと、田中琴葉は自分を選んでくれたプロデューサーに心から感謝した。
アイドルになってから前にも増して体力が付いたし、効率的な体の動かし方も習えた。
その成果もあって、しばらくは全速力のまま走っていられる。
ありがとうプロデューサー、あなたのおかげで私はまだ生きています。
「はぁ、はぁ──あああぁっ!!」
走る、震える足にムチを打ってひたすら走る。
後ろを振り向く余裕など微塵もないが、雰囲気で分かる。
あの正体不明な球体は、触れたものをドロドロに溶かしてしまうぼんやりとした球体は、執拗に自分を追いかけている。
アレの正体がなんなのか、琴葉には皆目見当がつかない。
触れたらマズイというのは、下駄箱を思い返せば明らかであったが、それ以外の情報が全くといって良いほどない。
学校から出られない事実と関係しているのか。
校舎から人気が感じられず、こうして走っていて誰とも会えないのは──つまり、つまりアレが、触れたものをドロドロに溶かすあの球体が、他の人たちを下駄箱と同じように。
「……うぅ、うあぁっ!!」
想像しただけで、涙が溢れそうになる。
動悸が激しくなり、身体中から嫌な汗が止まらない。
それでも、琴葉は走り続けた。
生きるために、生き延びるために走った。
どうすれば逃げきれるのか、そんなことは分からない。
けど、このまま死んでしまうなんて、何も出来ずにただ死ぬなんて、彼女にはとても耐えられない結末だった。
こんな、なんの前触れも現れた意味不明な球体に、ドロドロに溶かされて死ぬなんて。
アイドルになったばかりで、アイドルにしてもらったばかりで、これから仲間たちと一緒にやりたい事も沢山あって、なりたい未来が沢山あるのに。
(考えて……考えて田中琴葉。本当に、本当に前兆はなかった?)
田中琴葉は考える。
球体と出会う前に、何かおかしな、いつもと違うことはなかったか。
この事態を予見させる出来事はなかったか考える。
2週間前から流行り始めた謎の噂。
壊れ始めたクラスの関係。
琴葉に問題を背負わせた担任。
資料運びを頼んできた追釜先生。
見た目は妖しくて、不気味な国語教師に頼まれて、視聴覚室にダンボールを運んだ。
道中では彼が相談に乗ってくれて、イメージが変わった。
特に何事もなく視聴覚室に着いて、追釜とはそこで別れた。
それだけだ。
(いや、違う。それだけじゃない、追釜先生は何かを言っていた)
確かにそうだ。
追釜は琴葉に、別れ際の挨拶……というか、よく分からない話をしていた。
それこそ唐突に、後ろの球体が現れた時のように。
彼は、追釜大知は、そう。
『視聴覚室は何かから逃げるにはうってつけの場所だと、今はこちらを覚えておけ』
こんなことを、言っていた。
まるで、こうなることを予知していたかの如く。
溺れた狐は藁にもすがる。というが、琴葉はまさしく藁にもすがる思いで廊下を駆け抜けた。
視聴覚室へと、全速力で。
残りの体力を使い切る勢いで、思い切り。
階段を駆け上がり、廊下を走り突き当たりを左に曲がって、『視聴覚室』のパネル目指してラストスパートをかける。
背後ではドロドロに溶かされて、支えを失った棚が、廊下へ崩れる音がした。
ここまでキープしていた距離が、詰められつつある。
(お願い、間に合ってっ。お願いだからっ!!)
ガタンッ!! と、扉を壊しかねない勢いで開き、琴葉は視聴覚室に転がり込んだ。
もう限界だった、これ以上は走れない。
仮に追釜がこの件には全く関係していなくて、あれが助言ではなく戯言だとしたら、自分はここで溶けて死ぬ。
そして、肩で息をする琴葉へと。
「どうした田中、下校時間はとっくに過ぎているぞ」
彼女がやって来るのを待っていたように。
廊下で話しかけられた時と、なんら変わらない平坦な声で、追釜大知はそう言った。
■ □ ■
よかった、生きている人間に出会えた。
琴葉は心底ホッとした。
ホッとして、今はそれどころじゃないことを思い出した。
「っ追釜先生!! 大変です、校舎の人が消えてしまって、私たち閉じ込められて、それに──」
「そのようだな。異界化で次層がズレ、やつは胞子でお前を追いかけ回しているようだ……おい、田中」
淡々と、機械的に、抑揚のない語り部だった。
彼女の鬼気迫る声に、彼は一ミリも動じていないようで、台本を読み上げるように琴葉へ声をかける。
声をかけられて、琴葉はようやく、視聴覚室の様子がおかしいと気がついた。
視聴覚室に置かれていたはずの机や椅子は、部屋の後方に山と積まれ、作られたスペースに追釜はしゃがみ込んでいる。
彼は手に持った筆を滑らせて、部屋の床にいくつもの模様を描いていた。
すると追釜はそのうちの一つ、直径1メートルほどの円を指差し。
「お前は円の内側にいろ、そこなら安全だ」
「あ、安全って。追釜先生、アレは本当に危ないんですっ!!」
「おいおい、お前は私の言葉を頼りにここへ来たのだろう。だというのに、この言葉は信頼しないのか」
それを言われると、琴葉は反論できなかった。
追釜の言う通りだ。
他にあてがなく、追釜の言葉頼りに視聴覚室へ逃げ込んでおいて、そこで待ち構えていた追釜の話に耳を貸さないというのは、筋が通らない。
言われるがままに、琴葉は円の中へと踏み入る。
それと同時に、ドロドロと扉を溶かして、輪郭のぼやけた球体が室内へ侵入した。
出かかった悲鳴を飲み込んで、琴葉は追釜を見やる。
球体を見ても、彼の顔色はあらかじめ描いてあるかのように変わらない。
やがて球体はある一点、つまり琴葉のいる円に狙いを定める。
いくら安全とは言われても、球体が今までに溶かしてきたものを思うと、彼女は背筋に氷柱を差し込まれたようだった。
「お、追釜先生。あの本当に大丈夫なんですか?」
「あぁ、私の目を見てみろ。これが嘘をついている人間の瞳に見えるのか」
「半目じゃないですか!!」
半分しか信じられない目ですよね、と。
そんなツッコミを入れている間に球体は速度を上げ、一気に琴葉の元へと突っ込んできた。
恐怖に押され、思わず目をつむる。
あの下駄箱や棚のようなドロドロの液体にされるのかと、喉の奥がキュッと閉まる。
しかし、いつまで経っても五体は満足で感覚もしっかりしている。
彼女が恐る恐る、まぶたを開くと。
球体は依然としてそこに在った。
けれど、そこに在りはするけれど、球体はその場から動かずにいた。
見てみれば球体の下、つまり視聴覚室の床に、球体を囲む形で正方形が描かれており、閉じ込めているようだった。
「捕獲完了だ。おかげさまで予定通りといえる、礼を言うぞ田中」
追釜に感謝されても、琴葉はちっとも実感が湧かなかった。
現実が分からなくなっていた。
円の内にいるのだが、蚊帳の外だった。
とりあえずの危険は去ったようだが、球体は床に描かれた正方形から抜け出せないようだが、追釜に問いただしたいことが山ほどある。
しかし、琴葉が質問をしようと口を開く前に、追釜の顔がズイっと迫ってきた。
彼は琴葉の五体を確認すると。
「お前は俊足だな、どうやら保険は無駄になったようだ。まぁ保険というのは、使わずに済むならそれに越したことはない」
「あの保険って、追釜先生はいったい何の話を……いえ、そもそもこれはどういう事なんですか?!」
見るからに、明らかに、追釜は今校舎で起こっている怪奇現象の当事者だ。
当事者で、介入者だ。
閉じられた校舎、消えた人々、謎の球体。
これらのことを把握した上でアクションを起こしている、そんな口ぶりだった。
一応の安全が確保されたからか、琴葉の中では、事件に向かい合う気持ちが恐怖を上回り始めていた。
だが追釜はそれどころではないと言わんばかりに。
「それは今話すことではないな。田中、死にたくなければ円から出るなよ。こいつは単なる胞子で、謂わば端末だ」
「これで、終わりじゃない……?」
「あぁ、そうだ。今から胞子を媒体に、本体を引きずり出す」
追釜が球体を囲む正方形の、その手前に描かれた、小さなひし形に手を置く。
すると球体はボコボコと形を崩し始め、やがて完全に霧散してしまった。
床には球体を形作っていたのであろう粉が散らばり、そして追釜は言った。
「そら、お出ましだ」
正方形の模様が薄れ、それと反比例するようにしてナニカが実体化している。
田中琴葉は思い出す。
追釜大知の言葉を思い出す。
彼は球体を『胞子』と呼んでいて、また『端末』とも呼んでいたことを思い出す。
ならば、球体が胞子で端末ならば、その『本体』に当たるのは。
「なに……これ」
巨大な茸が、そこには在った。
直径4メートルはあろうかという、毒々しい赤紫色の笠を広げて、悠然と。
■ □ ■
「『噂笠』──名前の通り笠を広げて噂を広げて、人の輪に不和を生む妖怪だ」
まるで一般常識を説くような口調だった。
非現実的な存在を、現実のものとして定義している語り口だった。
妖怪という言葉を、琴葉はその意味を咀嚼する。
自分は実在する妖怪に襲われたのだと、ここへ来るまでに起こった事実を思い出し、今目の前に現れたオバケ茸を確認し、認識する。
「ここ2週間、田中のクラスに噂をばら撒いていたのは、こいつだ」
「こ、この茸が噂を?」
「そういう妖怪だからな。人間関係の亀裂から生じる、一種のエネルギーを啜っている。そういう、化け物だ」
だから、人と人との関係を壊すために噂を広げる。
真偽に関わらず、欺瞞の胞子を撒き散らす。
この茸が、噂の大元であり諸悪の根元。
退治すべき化け物なのだと、追釜は断言する。
「ちなみに人間を直接襲うタイプではないが……腐食性のある胞子を操る、再三にわたるが絶対に円から出るな」
「だったら、追釜先生も円の中に入った方が良いんじゃ……」
「お前は分からんヤツだな、この状況で私の心配か。だがまぁ、無用な心配だ」
などと話しているうちに、噂笠は広げた笠を震わせ、無数の胞子を漂わせる。
握りこぶし大の球体が拡散され、室内に積まれていた椅子を溶かし始めた。
対して追釜は、胸ポケットから一本の万年筆を取り出し、ただ握り締めるだけだ。
けれど、その格好があまりに熟れていて、琴葉の目には彼が武器を構えているような、そんな錯覚を受けた。
「こいつが姿を現した時点で、もう終わっている」
その言葉を合図に、胞子が雪崩れ込んでくる。
触れたものをドロドロに腐らせ溶かす、悪夢の球体が飛んでくる。
「追釜先生っ!!」
こんな状況でも、こんな状況だから、琴葉は追釜の身を案じて叫んだ。
それが、田中琴葉という少女の在り方だったから。
そして琴葉は見た。
追釜の握る万年筆からインクがほとばしり、しかし其れ等が重力に逆らいある形を模すのを。
黒々としたインクが作り上げた、それは。
「……鎌?」
それは、草刈りに使うような手持ち鎌だった。
刃の箇所は、黒々としたインクによって形作られており。
追釜が、黙ってインクの鎌を振り下ろす。
それだけ、たったそれだけだ。
たったの、それだけだった。
当たり前の物理現象として、ヒュンっと小さな風切り音が鳴って。
──荒れ狂う暴風が、全てを吹き飛ばした。
冗談みたいな光景だった。
迫っていた大量の胞子も、その胞子を飛ばしていた巨大な茸も、山と積まれていた椅子山も、何もかもが風に飲まれていく。
それは、視聴覚室の壁も例外ではなかった。
メキメキと数秒耐えた壁は、最後には壁材とコンクリートを撒き散らしながら、風の進路から消し飛ばされた。
後に残されたのは、壁一面を失った視聴覚室と、いつのまにか普通の万年筆に戻ったそれを胸ポケットにしまう追釜と。
「えぇ、う、あっ…………」
眼前の事実に口が開けず、絶句する琴葉だけだった。
加えて言うなら、彼女の驚きはまだ終わっておらず。
彼女の目の前で、残された校舎が淡く光り始める。
すると、追釜は風の件には一切触れずに、無表情に無感情に切り出した。
「『噂笠』が消えれば、やつの形成していた世界も消える。当然の帰結だ」
視聴覚に残されていた壁が、窓が、天井が、光の粒子と化して消えていく。
「世界が、消えるって……」
「つまりは、元の世界に戻るという意味だ。普通の校舎に、普通の人間が集まる、普通の世界に帰るんだよ」
そんな、色々と突っ込んで掘り下げたい発言に触れる間もなく。
やがて琴葉と追釜の立つ床も光に包まれ、琴葉は平衡を保てなくなり、意識が朦朧とするのを感じた。
それでも、せめてこれだけは知りたいと、琴葉は言葉を絞り出そうとする。
「追釜……先生、貴方は、いったい──」
続きを言うだけの時間は、すでになかった。
だが、完全に感覚がなくなる、その前に。
「あぁ、不本意とはいえ、田中の問題でもあるとはいえ、素人を巻き込んでしまったからな……これは迷惑料だ、何か美味いものでも食べに行きなさい」
ぶっきらぼうな、棒読みな追釜の声を、彼女は聞いた。
■ □ ■
今日はなんだか、おかしな日だった。
そんな風に、田中琴葉は今日という1日を振り返る。
寝間着姿で、ベッドに横たわりながら振り返る。
クラスに蔓延するおかしな噂の対処を、担任の先生に丸投げされて。
帰ろうと思っていたら、妖怪じみていると噂の国語教師、追釜大知に資料運びを頼まれた。
そして追釜先生から相談に乗ってもらい、力になるとも言ってもらった。
案外いい先生なのかな、と思った。
そのあとは友人との待ち合わせに間に合わせようと玄関に急ぎ……確か、何事もなく校舎を出た、はずだ。
どうも、この辺りが曖昧で、頭の中に靄がかかっているようだった。
結局、間に合わせには遅れてしまい、映画の上映開始時間にギリギリ滑り込む形になってしまったのだが。
(恵美とエレナには、今度埋め合わせをしないとね。そうだ、駅前にできたカフェで何か美味しいもの、でも……)
と、そこまで考えて。
あれこれ何処かで聞いた気が、と琴葉の脳裏に不思議な光景がよぎった。
吹き荒れる風、消し飛ばされる茸の怪物。
そして、気だるげに声をかけてくる追釜大知。
琴葉は、ゆっくりとベッドから降り、鞄を開く。
無意識にというか、開けなきゃいけない気がしたのだ。
果たして、中身を探ればそこには見覚えのない、厚みのある封筒が入っていて。
封を切ると、そこには。
紙の束が、入っていた。
日本の歴史的人物の顔が印刷されており、様々なものとの取引使える、そんな紙束が入っていた。
ざっと見ただけでも、30枚は軽く超えている、紙の束だ。
つまるところ、有り体に言えば。
──万札が、それはギッシリと詰まっていた。
その晩、田中夫妻は娘の大声に驚き彼女の部屋へと駆けつける羽目になったが、琴葉は頑として理由を語ろうとはしなかった。