『迅麻疹』其ノ壹
少女は、憧れていた。
あの人のようになりたいと、そう願っていた。そう望んで、そうあろうと努めてきた。
幼い頃から、あの人の背中を見て育った少女にとって、いつか並んで立つことが夢だったから。
別々の道を歩き始めた今でも、ジャンルは違えど、あの人は少女にとって、羨望の的だった。
あの人のように動ければ、どれだけ素晴らしいのだろう。
自分にもあんなに早くて正確無比なステップができたら、自分にもあれだけの鋭いターンが決められたなら。
そんなこと表には出さなかったけれど、無意識のうちに、少女の裏にはそういった気持ちが溜まっていって。
憧れて、焦がれて。
どうしようもなく、浮き彫りになる。
少女の憧れは、止まらない。
■ □ ■
──田中琴葉は、早く明日に、月曜日にならないかと切に願った。
こんなにも休日が早く終わって欲しいと思ったのは、琴葉にとって初めての経験だった。
彼女にとって土日休みというのは、子供の頃は友人と思い切り遊べる日で、部活を始めてからは演劇の練習に打ち込める日で、アイドルになってからは、今こうしているようレッスンに励む日であったからだ。
しかし、金曜日の放課後に起きた、自分の経験したあの摩訶不思議な体験を、大事件を思い出すと、琴葉は居ても立っても居られなかった。
それになにより恐らくは追釜大知が、カバンに忍ばせたのであろう札束を……50万円のことを考える。
1日でも早くあの胡散臭い国語教師から、事の真相を聞き出さなければと考える。
なんて、余計なことを考えていたせいか、ステップを踏んでいた足がもつれてしまい──。
「っとと!! 琴葉、大丈夫?」
「う、うん。ありがとう海美ちゃん、捻ったりはしてないよ」
崩れかけた体勢を、支えてもらい立て直した。
幸い、直ぐにカバーしてくれたおかげで大事にはならなかったが、今はレッスンに集中しなければと反省する。
自分のミスで相方に迷惑をかけるわけにもいかない。
けれど、茶髪と笑顔の眩しい相方──高坂海美は琴葉の手を引いて。
「そっかー良かったっ!! でも、念のため休憩しよっ。私も喉乾いちゃったし!! もうカラッカラ!!」
「あはは、ごめんね私のせいで……」
「気にしない気にしなーい!! それより琴葉、これ美奈子先生に教えてもらった特性ドリンクなんだ!! 一口あげるよ!!」
彼女のこういうところが、琴葉は大好きだった。
常にエネルギッシュな海美は、自由奔放に見えて周りをよく視ている。
とっさに、バランスを崩した自分を支えることが出来たのだって、踊りながらもこちらを気にかけていたからだ。
それでいて、気を使わせないように明るく接してくれる。
高坂海美は、そういう女の子だ。
琴葉は受け取ったペットボトルから一口飲むと。
「美味しいよ海美ちゃん、なんだが元気になってきちゃった」
「でしょー?! 元気な曲の練習だもんね、公演まで元気100%で頑張ろう!!」
満開の笑顔に釣られて、琴葉も思わず笑みをこぼす。
来月の公演で、彼女は海美とのデュエット曲を披露するのだ。
格好の悪いところは、見せられないし、見せたくない。
海美の隣に立つアイドルとして相応しい自分でありたいと、琴葉は思う。
「海美ちゃんは今日も元気一杯だね。私も頑張らなきゃ」
「じゃあ二人で元気に頑張ろうね、琴葉!!」
メラメラと目が燃えているようだ。
昨日も一緒にレッスンをしていて思ったが、昨日今日と海美の気合の入りようは凄まじいものがあった。
なにか嬉しいことでもあったのだろうかと、琴葉は尋ねてみる。
「ふふっ、昨日からいつも以上にやる気一杯だよね。なにか良いことあったの?」
すると、海美はここ2日の自分を振り返ったのか、やや頬を赤らめながら。
「えーっとね、お姉ちゃんが帰ってきてるんだ」
「海美ちゃんのお姉さんって……あの、バレエダンサーの?」
海美の姉は、プロバレエダンサーだったはずだ。
確か海美自身、昔はバレエを習っていたと、琴葉は記憶していた。
尋ねられた海美は、燃えていた目を一転キラキラと輝かせると。
「そうなの!! すっごいダンスが綺麗で、私のダンスも見てもらったんだ!! でもお姉ちゃんはもっと凄くて!!」
「海美ちゃんより凄いって、流石だね……」
海美は文句なしに765プロトップクラスのダンサーだが、やはり年季の違いというか、高坂姉の実力はそれを上回っているらしい。
さぞかし心技体に優れた人なんだろうなと、琴葉は想像する。
ただ、想像はするが、憧れもするが、自分が行き着きたい場所がそこかと問われれば、どこか違うようにも思えた。
「私達も、私達なりのパフォーマンスを完成させようね」
「うん!! お姉ちゃんに負けないくらい、私頑張るよーっ!!」
対抗意識というよりは、強い羨望からくる、自分もあぁ成りたいという感情なのだろうか。
なんにせよ、海美が姉をとても慕っていることは間違いなく。
残りの休憩時間中、琴葉は海美のお姉ちゃんトークに付き合うのだった。
■ □ ■
日曜日の夜ともなれば、学生の半分程度は明日からの学校に辟易とし、社会人の大半は迫りくる月曜日に鬱蒼な気持ちを隠せない。
そんな日曜の真夜中に、追釜大知は一人河川敷を歩いていた。
川の流れる音に、河岸の石を踏む音を混ぜながら、目的地へと進んでいく。
「まぁこの場合、目的地というよりは、目的人と呼ぶべきか」
「……おじさん、誰?」
追釜が声をかけると、返ってきたのはそんな言葉だった。
目的人。目当ての人。
追釜が目的としている相手。
それは少女だった。
少女が一人、深夜の岸辺に立っていた。
それだけでも景色から浮いているというのに、パステルピンクの寝巻き姿が、より一層違和感を加速させる。
「おじさんとはご挨拶だな。私は追釜大知という、近隣の高校に勤めている教師だ」
「──へぇ。センセイ、なんだね」
「そうなるな。なので深夜に一人で徘徊している未成年を、家に帰しに来たというわけだ」
さもそれが当然のことのように追釜は言い、確かに教師が深夜徘徊をしている生徒に帰宅を促すというのは、至極当たり前のことではあったのだけれど、言葉のニュアンスに本来あるべき『心配』だとか『叱咤』はまるでなく、それこそ茶番を演じているようだった。
そう、茶番。
教師が生徒へ話しかけている。という茶番を。
「嫌だよ、嫌に決まってるよ。こんなに気持ちがいいのに、こんなに思い通りに身体を動かせるのに、どうして大人しくしていなきゃならないの?」
「ほう、想定よりも進んでいるとなると……よほど憧れが強かったと見える」
「センセイ、なんの話をしているの?」
「その痣の話をしている──といっても、この進行度だと、もはや自意識も気薄なのだろうが」
痣。
不思議な形の痣。
十字に見えるの痣が、寝巻きの隙間からのぞく少女の体を、覆い尽くしていた。
「なぁんだ、見えてるんだね。知ってる人なんだ。この痣──私のことを」
伸ばされた茶髪を夜風に靡かせて、少女は獰猛な笑みを浮かべる。
その顔に、十字の痣を受けながら。
ごく自然な動作で、追釜は胸ポケットから万年筆を取り出す。
それを見て、ただの万年筆に見えるそれを視て、少女は腰を落とし構えをとった。
空気が変わる。
茶番から、本番へ。
教師が生徒へ話しかけている。という茶番から。
妖怪事の請負人が妖怪変化へ向かい合う。という本番へ。
「私は大したことなど知らないが、今のところ自由に動けるのは深夜帯のみだというのは知っている……まぁなんだ、拒絶される前に、一応出ていくことを勧めておこう」
「ふふっ、やってみてよ、やってみなよ!! この子の憧れは、そう簡単には止められないんだからっ!!!!」
直後、真夜中の川辺で、二つの影が激突した。