海美とプロデューサーを見送ってから一夜が明け、火曜日。
放課後になると琴葉は再び視聴覚室を訪れてた。
それは勿論、件の妖怪事について追釜に尋ねる為である。昨日の話ぶりからして、まともな情報を得られるかは正直自信が無かったが、それで引き下がる琴葉ではない。
頑張って根気強く聴いていこう。
そう気合を入れて、彼女は扉を開いた。
扉を開くと、そこには頭に雑な包帯を巻き、頬や首筋に湿布を貼り付けた追釜がいた。
デジャヴ、であった。
「えっと……大丈夫なんですか?」
「あぁ、田中か。無論無問題だ、心配には及ばない」
ちっとも無問題には見えないお加減であるにも関わらず、追釜は平常運転だ。
今日こそは根掘り葉掘り聴こうと意気込んで来たのは良いが、出鼻をくじかれてしまった。
「でも、その……病院に行かれた方がいいんじゃ」
包帯は明らかに素人が巻いたもので、強いて言うなら追釜本人が巻いたものだろうし、彼が然るべき医療機関で治療を受けていないことは明らかだった。
しかし、追釜はあくまで無感情に。
「気にしてくれるなよ。本業では良くあることだ」
「本業って、それじゃあまさか」
この返答は、琴葉の危機感を煽るには十分過ぎた。
本業。というのは、昨日渡された名刺に書いてある『妖怪事』を指しているはずで、仮にそうであるのなら、再び妖怪が現れたという話になってくる。
あの化茸のような、危険極まりないこの世の理の外にいる存在が。
「で、でも。追釜先生がここに居るってことは、もう退治されたんですよね?」
「いや、それが取り逃がしてしまってな。次で止められると良いのだが」
「追釜先生でも、苦戦するような妖怪なんて……」
自分がごく自然に『妖怪』という単語を使っていることに多少の動揺を覚えつつ、琴葉の表情は深刻さを増していく。
思い出されるのは、あのおかしくなった校舎での一幕だ。あれだけの暴風で、教室ごと噂傘を吹き飛ばした追釜を以ってして、倒し切れない妖怪が、この街にいる。
それはとても、途轍もなく危険な事実なのではないのか。
そんな琴葉の顔色から、彼女の心情を察したのか、追釜は新たに湿布を貼りつつ話し始める。
「一つ、勘違い──いや、思い違いを正しておくとだ。暴力で解決する『妖怪事』なんてものは、実に少ない」
「そういうものなんですか?」
「そういうものだ。力尽くで解決しようしたところで、大抵はロクな結果にならん」
そもそもにおいて、暴力による妖怪事の解決は、根本的な解決に至らないケースが多いと追釜は語る。
「私が今もこうしてこの部屋に居を構えていることが、その証左だ」
「……噂笠」
「その通りだ。本体は私が霧散させたが──胞子が、この校舎には残留している」
「じゃあ、後始末っていうのは」
「あぁ、残った胞子を活動不能に追い込む為の処理だな」
だから、追釜は事件が終わった後も視聴覚室を根城としている。それが必要な処置だったからだ。
「今回の件についてもそうだ、力任せに終わらせたところで、事態は悪化する」
それが分かっているからこそ、追釜は決着を先延ばしにしていた。
あの──体に十字を背負った少女との決着を、強引に引き剥がそうとすれば、少女の方もただでは済まないと知っていたから。
「ところで田中、今日はなんの用事だったんだ」
問われて、琴葉はすっかり忘れていた用事を思い出す。
そうだ、そうだった。
そもそも、彼女が追釜を訪ねたのは、彼に聞きたいことがあったからで。
包帯姿の追釜に気を取られて、またもや時間切れになるところであった。
「私、その……妖怪事について、ちゃんと話を聞こうと思ったんです」
「──ほう、そいつはまた何故なんだ?」
「え、何故って……」
質問に質問が返ってきて。
けれど、琴葉はその質問に答えることが出来なかった。
追釜に問い返されて、ふと思ってしまったからだ。
(……私、なんでそんな妖怪事に関わろうとしているんだろう)
知らないままでいたくないと、昨日は思った。なにも知らないまま、ただ50万を渡されて、それで終わりだなんて自分には受け入れられないと。
それは自分自身が事件の当事者で、被害者でもあり、ことの真相を知らなくてはならないという義務感があってのことだ。
であれば、今の琴葉は。
「お前が妖怪についての見識を深めたところで、なにか意味があるようには思えないが」
追釜の言うとおりだ。
彼には力があり、妖怪事の請負人である。
妖怪事に関わるプロとして、必要な知識や経験を持っているのは当たり前のこと。
けれど琴葉は、田中琴葉は一般人だ。
偶然、たまたま妖怪事に巻き込まれただけで、本来妖怪について知るはずもなかった一般市民である。
力も、知識も、経験も、何もない。
「でも私は……一度知ってしまったら──」
「知らずにはいられない、か。普通なら、一度妖怪に遭遇した者は、二度と会うまいと避けるものだが……お前は本当に分からんヤツだ」
そう言って、追釜は元々半分閉じかけていた目を瞑り、数秒だけ考えると。
仕方なさそうに、しょうがなさそうに、琴葉へ言葉を投げかけた。
「もし……もう一度だ、田中」
「……追釜先生?」
もう一度、なんなのだろうと琴葉は追釜の二の句を待つ。そんな琴葉に、彼はゆっくりと、身体の芯に響くような声で告げる。
「もう一度お前が妖怪に出会ったのなら、その時は──」
また、ここに来なさい。
■ □ ■
田中琴葉は現役の女子高生であると同時に、現役のアイドルでもある。
琴葉の職場、765プロライブ
(もう一回妖怪事に出会ったら……か)
アスファルトの道を進みながら、琴葉は先ほどの言葉を思い返していた。つい1時間ほど前に、追釜大知からかけられた言葉を。
18年間生きてきて、"初めて"遭遇した妖怪。
あんな存在に、二度も会うことが果たしてあるのだろうか。
というより、出会ったとして。そして、追釜から話を聞けたとして。
自分はいったい、どうしたいのだろう。
結局、その答えを見つける前に、琴葉はシアターの裏口に着いてしまった。
今日はまた一人でレッスンを受ける予定なので、まずは事務室へ顔を出そうとドアを開けた。
「あ、琴葉!! ええところに、琴葉からも言うたってや〜!!」
「な、奈緒ちゃん?! どうしたの? そんなに慌てて」
すると、ちょうどドアの向こう。廊下に続く玄関でスマホを弄っていた──今のところは自称大阪の一番星、横山奈緒が琴葉へ縋り付いてくる。
「どうもこうもヘチマもあらへん、海美が来とるんや!! 琴葉とレッスンするいうてな!!」
「海美ちゃんが? でも、あの怪我で動けるわけが……」
彼女が見ているこちらが痛ましく思うほどの怪我を負ったのは、つい昨日のことだ。
医者からも数日は安静にしているように、と釘を刺された海美が、なぜシアターに。
「あ〜、それなんやけど。なんや私もわけが分からんくて……様子がおかしいのは確かなんやけど」
「まって、どういうことなの? 奈緒ちゃん、わけが分からないって」
「実際見たほうが早いと思うわ。悪いんやけど琴葉、海美のこと任せても構わへん? 一応プロデューサーさんには電話で知らせたんやけど、私これから外に出ないとあかんくて……このとおり!!」
両手を合わせて勢いよく頭を下げながら、申し訳なさそうに片目の上目遣いをする奈緒。
そして琴葉は、頼みごとを断れない彼女は。
「分かったわ、海美ちゃんには私から話してみる」
「おーきに、ほんまおおきにな琴葉!! あの聞かん坊のこと、頼んだわ!!」
言うが早いか、よほど急いでいたらしく、奈緒は駆け足で去って行ってしまった。
(海美ちゃん……どうして)
またもや、嫌な予感が琴葉の脳裏を過ぎる。
ここへくる直前に、追釜とあんな話をしたからだと自分に言い聞かせながら、彼女はレッスンルームへ急いだ。
自分の思い違いだ。
きっと彼女のことだから、元気が有り余っている海美のことだから、無理をして来たに違いない。
だから、自分がちゃんと言い聞かせて、家に返さなきゃ。
そう意気込んで、琴葉はレッンルームへの扉を開く。
はたして。
「こっとはぁーーっ!! 昨日はごめんね、私もう大丈夫だよ!!!!」
そこには、高坂海美がいた。
当たり前のように、当然の如く。
昨日まで巻きつけていた包帯は解かれ、湿布も剥がしたいつも通りの姿で。元気に飛び跳ねる、高坂海美がそこにいた。
そんな海美に、すっかり元どおりになったはずの高坂海美に。
琴葉は、震えを押し殺した声で問いかけた。
「海美ちゃん……怪我は、どうしたの?」
「あんなの、ぐっすり眠たら治っちゃった!!」
どこも痛くないと証明するように、海美の体がステップを刻む。
今までの、どんな海美より速く鋭いステップを。
「奈緒ちゃん、心配してたよ。海美ちゃんの様子がおかしいって」
「あはは、なおーも琴葉も心配性だなー。見て見て琴葉っ、このターン!!」
キュッと、レッスンルームの床が鳴る。
海美がターンをするたびに、完璧なターンを決めるたびに。
「じゃあ、海美ちゃん」
「ん? どうしたの琴葉、まだなにか気になる?」
こんなにも素晴らしいステップと、文句の付け所のないターンができる自分に、まだ疑問があるのかと海美は首を傾げる。
そして、震える手で必死に、琴葉は海美を指差した。
否、海美自身をでなく、正確には。
「──その、十字の痣はなに?」
彼女の体を覆っている、十字の痣を。
琴葉には、最初から見えていた。
昨日見たときには首筋に一つあっただけの痣が、今はこうして海美の全身に広がっているのを。そしてそれが、今は薄らと桃色に発光している事実を。
琴葉は驚愕し、しかし同時に疑問にも思った。
なぜ、横山奈緒はこんな状態の海美を琴葉へ任せようと思ったのか。
身体中に十字の痣ができていて、しかも光っているなんて、明らかな異常を琴葉へ伝えようともせずに、どうして。
そして、そんな琴葉の疑問へ答えるように。
いつの間にか、床を鳴らすターンの音は消えていて。
彼女は、体に十字を背負った少女は、ピタリと静止した姿勢のまま。
「あ、なんだ。見えてるんだね、琴葉にも……ちょっとビックリ、2人目なんて」
「……あなたは、誰なの?」
声が、震える。
まさかと思った。
そんな馬鹿なとも。
自分が感じた小さな違和感が、嫌な予感が、こうも最悪な形で実現するだなんて。
けれど現実だ。
現実として、彼女目の前には。
「私は、私だよ? 琴葉もよく知ってるじゃん、ダンスが得意で、体が柔らかくて、お姉ちゃんのことが大好きな、高坂海美だよ?」
高坂海美の姿をした、別の誰かがいる。
別の誰かが、異なるなにかが、海美の体で琴葉の前に立ち、海美の顔で笑い、海美の声で語りかけてくる。
「だから琴葉、レッスンしよう? 完璧なライブにするために、私と一緒に──」
「違う」
琴葉は彼女のセリフを遮って、そう断言した。
違う、あなたは違うと。
断じて、高坂海美ではないと。
あぁ、きっと今の自分は酷い顔をしているに違いない。顔を青くして、額には汗をかいて、唇も無様に震えているんだろう
それゆえに、田中琴葉は言わなくてはならなかった。
「海美ちゃんは、高坂海美は……あなたじゃない。海美ちゃんは休むように言われて無理をする子じゃないし、誰かの心配を蔑ろにするような子でもない」
高坂海美は、プロデューサーの指示を無視したりしない。
いつだって優しい彼女は、奈緒に心配されたことを軽んじたりは決してしない。
それに。
「それになにより、今みたいな顔をしている私を見て、放って置いてくれる人じゃない……っ」
「…………」
だからあなたは違うんだと、琴葉はそう突きつける。
すると、突きつけられて、突き立てられた海美は──否、高坂海美の形をした彼女は、それまで浮かべていた笑顔を消し去り、感情のこそげ落ちた顔で、ただ一言。
「じゃあ、貴女は要らない」
目の前に、海美がいた。
拳を固めて、琴葉の頭を打ち抜こうとする海美が。
数メートル離れていたはずの距離が、ゼロになっている。
琴葉は、瞬き一つしていなかった。
つまり彼女は、瞬き一つ以下の時間で、その距離を詰めたということで。今の彼女には、それだけの力があるという証拠で。
当然、反応など間に合うはずもなく。
自分はこれから死ぬのだという覚悟を決める暇もなく。
琴葉は、彼女の振りかぶった拳を、ただ呆然と眺めることしかできなかった。