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ギターの音がイヤホン越しに耳を打つ
日菜が突然出してきたクイズの後、お互いに特に喋る事もなくお互いの作業に没頭していた。日菜は初めて2日とは思えないような上達を遂げたギターの練習に、俺は明日提出しなければいけない課題に、電話を繋げたままで勤しんでいる。
2週間ほど前に存在を知った、中谷先生の化学の課題だ。異様に覚えることが多い無機化学の知識を嫌々ながらも詰め込んでいく。そこにBGMのように流れてくるギターの音と日菜の独り言、その音が 少しだけ作業に対する意欲を与えてくれているような気がした。
「ねぇ」
そして突然、日菜が話しかけてきた
「また、お姉ちゃんに嫌われるのかな」
少し震えた声で日菜が俺に問いかけてくる。
ギターの音が、不安を隠すようにその声の上に覆いかぶさっていた。
「多分な」
そして俺は遠慮もせずに思った事を言った。
きっと、氷川紗夜はまた日菜を疎むだろう。
また比べられる事を酷く嫌うだろう、でも
多分、日菜がギターを始めない事には氷川紗夜の劣等感はどうやっても拭えないと思う。
氷川紗夜の事をよく知っている訳では無いが。友希那と日菜から聞いた話で、ある程度の人物像は掴んでいる。
そして、氷川紗夜がギターに没頭する理由も確証はないが掴んでいる。
「でも、このままじゃダメなんだろ」
もし『このまま』日菜が姉の嫌がる事を避け続けていたら、一生氷川姉妹の確執は残り続けるだろう。『嫌悪』という感情は時間が解決してくれるものじゃない。ましてや放置して治るような、そんな擦り傷のような物でもない。
このまま日菜がギターを始めず、姉と距離を取り続ければ衝突を起こすことは無いだろう。でも、氷川紗夜はきっと『もし日菜がギターを始めたらまたすぐに抜かれてしまう』という、ifの悪感情に首を締められ続けるだけだ。
結局 ギターを日菜が始めない限り、同じ土俵に立たない限り『氷川紗夜が日菜を超える』事は出来ないのだ。
だから、俺は宇田川の提案に乗ったのだ。
そして、日菜も賛同したのだ。
「うん......そうだよね」
日菜が、沈黙混じりに肯定の返事をする。
湿っぽい空気が、お互いの部屋に流れている。
4月の、0時に差し掛かる手前の夜空が カーテンの隙間から見えた。
この薄皮のような壁の向こうには、数キロ先には今俺と電話で繋がっている日菜が居る。その事実が、漠然とした違和感を与えた。
今 こうして話しているのに、実際にはもっとずっと遠い場所に居るという事が、今更ながらに不思議だった。
「そういえば」
そんなリテラリーな気分に浸っている俺に、日菜が話しかけてくる。
「想くんが好きなバンドって、名前なんだったっけ」
さっきまでの不安な声よりもずっと明るい、さっきまでの鉛のような雰囲気よりもずっと軽い、日菜の声に 少しだけ安心する。
「あぁ、『King Gnu』ね」
その声に 握っていたペンを机に放り出しながら、凝った身体をほぐすように気の抜けた声で返事をすれば「そうそう、それだ」なんて軽い調子の声が返ってくる。
友希那やリサ、葛飾達とは少し違って 浅い関係値だからこそのこの 気の置くことがない関係が、心地良ささえ感じさせた。
お互いに過剰に遠慮をしたり、お互いに過剰に意識をするような事のない、この距離感が 身体を弛緩させた。
「今日そのバンドの歌、聴いてみたよ」
ギターの弦を1本づつ弾いて、音を確かめながら言う。なんもないふうに言った日菜とは対照的に、俺の心はかなり弾んでいた。
自分の好きなものを誰かと共有できる、それだけで高揚している自分の単純さに苦笑を隠しきれなかった。
それと同時に、氷川紗夜の事が頭に浮かんだ。
日菜がギターを始めることに辟易するだけ、そんな冷たい感情だけで、果たして他には何も感じないのだろうか。
好きなバンドの興味を持ってくれた事に素直に喜んでいる俺のように、氷川紗夜も日菜がギターを始める事を望んでいる部分もあるんじゃないのだろうか。
そんな憶測を立てている間に、弦の音を確認し終えた日菜がギターを弾き始めた。
1音づつ確かに聞こえてくる澄んだ弦の音と、弦とその上を走る指とが擦れて鳴る音が、鼓膜に届く。
ほんとに、日菜は何でも出来るんだな。
素直にそう思った。それほどまでに洗練された、物悲しささえ感じさせるその表現力に、心を溶かされた。
『晴れた空公園のベンチで1人、誰かを想ったりする日もある』
空気を多分に含んだ、少し掠れた日菜の歌声と共に流れるアコースティックギターの弦の音。その両方で、何故か泣きそうになった。
『世界がいつもより穏やかに見える日は、自分の心模様を見ているのだろう』
なぜ日菜がこの歌を選んだのかは分からない。ただ単に俺が言っていたバンドを調べて、たまたま出てきただけかもしれない。
でも、
それでもこの曲は、
今の日菜にぴったりだと、思えてしまった。
『吐き出せばいいよ、取り乱せばいいよ。些細な拍子に踏み外してしまう前に』
優しい、それでいて哀しい、そんな歌詞を一つ一つ歌い上げる日菜の事を、憐れんでしまう。
まるで自分の事のように歌うその声には 澄んでいるようで、鉛のような質量があるように思えた。
『愛を守らなくちゃ、貴方を守らなくちゃ、消えそうな心の声を聞かせて』
息継ぎで聞こえる日菜の空気を吸い込む音でさえ歌の一部と思えてしまうほど、聞こえてくる音全てが芸術品のようだった。
弦が震わせる空気、日菜の喉から震える音、全てに意味があるように思えた。
『ぽっかりと空いたその穴を、僕に隠さないで見せておくれよ』
この歌を氷川紗夜が聴いた時、いったいどう思うのだろう。そんな事が過ぎった。今、日菜は何を考えながら歌っているのだろうか。
姉の事だろうか、自分の事だろうか。
でも、きっとそのどちらかだと 根拠のない確信がそう告げていた。
『貴方の正体を、貴方の存在をそっと包み込むように。僕が傷口になるよ』
その声と同時に、時計の針が真上で重る。
カーテン越しに見える かけた月が、死にたいぐらいに綺麗だった。
https://twitter.com/2Jrp71n98IkWeNw?s=09
日菜の歌った曲は「The hole」です。
隠月は琵琶の音を鳴らしてる空洞の部分の名前です。
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