「なぜ、日菜にギターを始めさせたのですか」
重く沈んだその言葉が耳を暖簾のようにくぐって、ゆっくりと頭の中に入っていった。染み入るようなその言葉が耳の中を伝いながらどんどんと奥へと浸透していく。
目の前の友希那が、さっきまでまっすぐ氷川紗夜に向けられていた視線を俺の方にズラした。「呼ばれてるぞ」とでも言いたげなその瞳が俺の事を貫いていた。
その視線の移動に気づいた氷川紗夜が俺の方を向いた。肩に置かれていた右手を離し、胎の中を隠すように腕を組む。その動作を見て、俺は腹を括った。
「日菜にギターを勧めたのは、俺だ」
正確に言うなら宇田川だけど、割愛する。結局最後の後押しをしたのは俺だし わざわざ付け加える程じゃない。
俺の言葉を受けて、より一層顔を顰めた氷川紗夜。その表情は、見るだけで人の心を締め付けさせるような そんな「痛み」があった。
「......あなたが?」
訝しむような顔を浮かべながら言ったが、口に出し切った途端にどこか合点のいったような表情に変わる。
「じゃあ、あなたが日菜と電話を?」
腕を組みながら、さっきよりはまだマシな(常識的に考えたら嫌われてるような)表情で言った。そして、その言葉を聞いた友希那が視界の隅でこちらを睨んでいた。
その友希那の表情から逃れるように氷川紗夜の方を真っ直ぐに見て頷いた。視界から消えた友希那が、俺に聞こえるように大きくため息をついてくる。
「あぁ、気にしないで頂戴。こっちの話だから」
ため息をついた友希那を怪訝そうに見つめる氷川紗夜。話の腰を折ってしまった事に対して謝罪をしながら、俺への追求の視線を緩めない友希那。
葛飾から『奪ってみせる』とまで言い切った友希那が、新しく明らかになった日菜という人物に苦悶している姿を見ながら。またひとつ重くなった心中を担ぎ直して氷川紗夜の方を見る。
「俺も、質問があるんだけど良いか?」
少しだけ、目を丸くした氷川紗夜
けれども、すぐに了承の意を表明する頷きが返ってきた。その無口の了承に感謝の言葉を言いながら、少し前かがみになって質問をする。
「氷川は、日菜がギターを始めた時どう思ったんだ?」
その俺の質問に、少しだけ氷川紗夜がたじろぐ。狼狽、という程のものでは無いのだけれど 氷川紗夜は少しだけ俺の問いに窮するような素振りを見せた。
「どうって...特に何も思いませんでしたよ」
さっきまでこちらを見ていた視線を下に向け、床を見ながらそう言う。他人でもわかるほど、氷川紗夜は嘘を吐いていた。
「ほんとに、何も思わなかったのか?」
もう一度、確かめるようにそう聞く。
その繰り返しの問いに腹を立てたのか、氷川紗夜はさっきのようなミニマムな狼狽ではなく、少しヒステリックな様子でこちらをキッと睨みつけた。
「そんな事より、私の質問に答えてください」
『なぜ日菜にギターを始めさせたのか』という氷川紗夜の質問を、もう一度脳内で反芻させる。
日菜にギターを始めさせた動機を気にしている時点で、日菜がギターを始めた事について何も思わなかった筈は無いのだけれど、敢えてその矛盾点は追求しない。きっと、追求しても今のヒステリックな彼女に何を言っても無駄だろうと判断した。
そして、ゆっくりと息を吸い込んで もう一度氷川紗夜の顔を見る。その紅潮した頬が、彼女の必死さを物語っていた。
「日菜がさ、言ったんだ」
月曜日の夜の事を思い出しながら、さっき吸い込んだ二酸化炭素と一緒にその言葉を吐き出した。
「『今のままじゃ、ダメなんだ』って」
あの時の潤んだ声を、まだ覚えている。
初めて日菜と会ったその日の夜に聞いた 見えない言葉を、噛み締めるように言った。
「初めてあいつと会った日に聞いたんだぜ?」
渇いた笑いを浮かべながら、氷川紗夜にそう問いかける。その俺の言葉を、黙って氷川紗夜は聞いていた。
「初めて会ったやつに相談するぐらい、アイツ悩んでたんだぜ?」
今度は、笑わずに言った。
窘めるみたいに、確かめるみたいに、問いかけた。また黙って、氷川紗夜は聞いていた。
「......これでわかっただろ。なんで俺が日菜にギターを勧めたのか」
両手を組んで、組んだ手を体の前に伸ばして氷川紗夜の返事を待つ。下を向いたままで、彼女の表情は見えなかった。
その横で俺の事を見ている友希那の顔は、どこか 少しだけ悲しげだった。
「......さっき、日菜がギターを始めた時」
しばらくの沈黙の後、絞り出すように氷川紗夜が言った。まだ、彼女は俯いたままだった。
「特に何も思わなかったって言いましたけど」
ゆっくりと、そう呟いた。
ステージから聞こえてくる演奏に負けそうになりながらも確かに聞こえてくるその声は、壊れてしまいそうなぐらいに朦朧だった。
「本当は私」
ゆっくりと首を上げながら言う。
僅かに見えるその表情は、
「少しだけ、嬉しかった」
笑っていた。でも、その笑顔は純粋な喜びから来る曇りのない笑顔ではなかった。不純物の混じった苦しそうなその笑顔は、見ているだけで心が締め付けられるような顔だった。
「でも、それだけじゃなかった」
ふっと、その笑顔が なりを潜めた。代わりに氷川紗夜の顔に浮いてきたのは 醜く歪んだ、歪な表情だった。
「それよりも、もっとずっと妬ましかった」
歯を食いしばるように歪んだ口元が、ぐいっと持ち上げられたその頬の筋肉が、彼女の顔を醜いものへと変えていた。
俺と氷川紗夜と友希那の3人の後ろでは、リサ達が楽しそうに喋っている。その楽しげな雰囲気と混じったこの淀んだ空気は、酷く歪んでいた。
「......ごめんなさい、少し外します」
そう言って氷川紗夜が身をよじった
俺は、この場から逃げようとするその姿を引き留めようと体を動かした。けれども、その俺の動きを友希那は制止した。
「想、どうするつもりなの」
友希那が俺に尋ねる。その言葉を聞いている間にも、氷川紗夜はこの場から離れて行ってしまう。
「どうするつもりって、そんなの..」
「行っても、どうしようもないでしょう?」
俺の言葉に覆いかぶせるように、友希那は言った。
確かに俺は、友希那を納得させるほどの理由を持ち合わせていなかった。
もう視界には、氷川紗夜の姿は無かった。
「でもさ」
俺と友希那の2人だけが、重たい空気の中に取り残されていた。その重たい重力に引っ張られた、人混みの中に出来た2人だけの空間の中で俺と友希那は視線を交わしあっていた。
「ここに居ても、どうしようもないだろ」
前までの俺なら、こうやって友希那に対して強く言えなかったかもしれない。でも、今の俺は違う。
日菜の為にも、どうにかしなきゃいけない。
「......わかったわ、止めても無駄みたいね」
また、さっきみたいに腕を組みながらため息を吐く。4組目のバンドの演奏が終わったみたいで、拍手の音が周りから聞こえてきていた。
その音に混じりながら、その熱気に混じりながら、友希那は微かな笑みを浮かべながら言った。
「いってらっしゃい」
好きなのはこの中だと...
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湊友希那
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今井リサ
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葛飾麗奈
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氷川日菜