交響詩篇エウレカセブン パラライゼッド・オーシャン 〈B303 デビルフィッシュ開発秘話〉 作:オンドゥル大使
「コーヒー。お代わりいりますか?」
ソニアにそう尋ねられ、モリタは少し迷ってから頷いた。研究室ではコーヒーの香ばしい香りが漂っている。気にならない程度の音楽がかかっており、研究のためにリラックスした頭にするのには最適だった。コーヒーメーカーからコーヒーを抽出し、カップを手渡される。仄かに暖かいコーヒーと運ばれてくる芳しい香りに、モリタは、「そういえば」と口を開く。
「彼は、トラパーの匂いが分かると言っていたな」
「彼?」とソニアは聞き返したが、すぐにある人物を思い浮かべた。
「ああ、彼ですね」
「トラパーの匂いってのは、どんなのだったんだろう」
「辞める前に聞けばよかったじゃないですか」
「うん。そうなんだけど、こういうことは今更に感じてしまうものなんだ」
ソニアは額にかかった前髪を払い、「我々、研究者は」と言った。
「間違っていても、間違っているという言葉を持たない。正解か、不正解かを判断するのは研究者じゃないから」
「でも、研究者がそれを考えないわけにはいかない。考えない研究者ってのは機械と同じだからさ」
その時、研究室の扉が開いてグレッグが顔を出した。相変わらずキャンディーを舐めている。また太ったようだ。
「ジエンドのアーキタイプはどう?」
モリタが尋ねると、グレッグは破顔一笑した。
「なかなかいい感じだよ。デビルフィッシュのデータが生きている」
「デビルフィッシュ、か……」
その名を苦々しくモリタは口にする。デビルフィッシュの暴走事件によってKLFライダー三名が死亡。うち一名はペインターだった。彼はパイルバンカーにコックピットごと貫かれて死んでいたが、それより前のデビルフィッシュによるマニューバに耐え切れずに死んでいたと推測された。
「デビルフィッシュ量産計画は頓挫。スピアヘッドも量産には回されず。結局、モンスーノの強化量産と、新型の開発に当てられることになったわね」
ソニアの言葉にモリタは弱々しい笑みを浮かべた。二人の才能あるKLFライダーが命を賭して戦った挙句がこれでは、顔向けができそうにない。
「デビルフィッシュはトレゾアで封印。代わりに同フレームとアーキタイプを用いた新型が開発、か」
「ぼくは満足だけどね。ジエンドは素晴らしいKLFになる」
グレッグが口にしている「ジエンド」というのが新しい機体の名前だった。ニルヴァーシュタイプジエンド。世界で最初に見つかったアーキタイプと同じ名を冠しているのは皮肉以外の何者でもない。
「人型マシーン黎明期の負の遺産の遺伝子を受け継ぐ機体の名前が『終焉』とは、まったく、冗談きついな」
「ぼくは開発できればいいよ」
「その代わり、ベアの小熊ちゃんは逃げ出しちゃったけどね」
ソニアが笑い出した。ミーシャのことだ。ミーシャはあれから程なくして軍をやめ、ゲッコーステイトと呼ばれる反政府組織に寝返った。グレッグとも籍を外したらしい。グレッグは少し気後れした様子の顔をしたが、やがて笑みを浮かべた。
「ぼくの小熊ちゃんはきっと戻ってきてくれるよ」
「知らないわよ。ドクターベア。まずはその肥満体を治すことね」
ソニアが笑って、身を翻す。グレッグは腹の肉を摘んだ。服の上からでも分かるほどに、腹が出っ張っている。
モリタは機器に向かいながら、一つ嘆息をついた。
「どうしているのかな、彼は」
「彼? 誰のことだい?」
「鼻がよく利く彼さ」
モリタはそう言って窓の外を眺めた。砂礫の大地の中、パイルバンカーが墓標のように立っている。真実、あれは墓標だった。画家という名を冠した男と、豚という名を持った男の。
甘い、と彼は感じた。
オープンカーで走っていると、トラパーの匂いがむせ返るように感じられる。彼は車を停めて、近くのカフェテリアに向かった。店員がほどよく無愛想なカフェで、注文を取りにきたウェイトレスはにきび顔でむっとしているかのように唇を引き結んでいる。コーヒーとトーストを注文すると、ウェイトレスはつかつかと歩いていった。しばらく出された水を飲みながら窓の外を眺めていると、不意に声がかけられた。
「軍の方ですよね」
そう言ったのは二十代半ばの女だった。黒い髪を肩まで伸ばしており、切れ長の眼が涼しかった。彼は頷いた。
「相席していいかしら。軍の方って普段見なくって」
「どうぞ。俺なんかでよければ」
「では、お話を聞かせてください」
女がメモとペンを鞄から取り出す。どうやら記者らしい。厄介な相手に捕まったものだと思った。
「まずはお名前をお聞かせください」
ここであしらうのも面倒なので、彼は本名を発しようとしたが直前でいい考えを思いついた。何も馬鹿正直に答えてやる必要はない。
「俺は軍を辞めたんだ。もう関係ないよ」
先ほどの頷きと矛盾するが、それくらいは言ってやってもいいだろうと感じた。
「それでも、お名前を」
しつこいな、と感じたが、彼は追い払う気も持てずに本名を言おうか迷って、口を開いた。
「――ピッグ」
「え?」と記者の女の顔が硬直する。何を言ったのか理解できなかったのだろう。彼はもう一度言った。
「ピッグ、ってのが俺の名前」
呆気に取られている記者の女の表情を見て、彼は少し気分がよくなった。こうやって誰かを化かしてやるのも悪くない。
開け放たれた窓から風が流れ込んでくる。今日のトラパーは甘い。デザートのようだ、と彼は思った。
完
あとがきをもって完結とします。これまでありがとうございました。