慌ただしく人が行き交っている。皆がせわしなく手を動かし、口を動かし、各々の役目を果たそうとしている。時間に追われているのか僅かの間でも惜しむように休まず働く彼等はしかし何処か充実した顔を見せていた。
「ここの強度はどうだ?」
「事前にしっかりと確かめておりますよ」
「組み込んだ後も細目に試しておけ。改良できる内に欠点を洗い出すのだ」
「趙が決めた期日は迫っておりますが……」
「分かっている。しかし実際に組み立てて駄目だったでは話にならん。最低でも予め指示しておいた試験は絶対に行え」
「承知しました」
人々は兵士もいるがそれ以上に工人たちが多かった。彼等はそれぞれ小集団ごとに何かを作り、もしくは組み立てている。その中でも中心におり集団の長に話して回っている男がいた。彼の名は呉鳳明。魏の将である。
「出来れば壊れるまで試したいがな」
「そこまでしなくても大丈夫だろう。現地での組み立て易さも踏まえて、よく考えられている」
懐かしい声に振り向いた。
「見事なものだな、鳳明」
「先生。……どうですか? 調子の方は」
「あぁ、存外悪くない」
先生と呼ばれた男は少しだけ伸びをして息を吸った。男の目は映るものに現実感を感じていないようで、それがまた男の存在そのものを何処か浮世離れしたものに見せていた。
「私と凱孟は感謝しているよ。あそこで退屈したまま死ぬと思っていたからな」
「感謝は王に」
「あぁ、そうだな。14年前は乱世に生まれたことを嘆いていた軟弱者が、存外大きくなったものだ。やはり人間というのは追い詰めねば本質が分からんな」
クツクツと笑う男の言葉に周囲の者は顔を引き攣らせた。師特有の選ぶことのない人を食った言葉に懐かしさを覚えつつ、それを無視して鳳明は聞いた。
「魏の現状は?」
「聞いている。中々に楽しいことになっているな」
「えぇ。その上でこれらをどう思いますか?」
「どうと言われてもな……」
周囲をぐるりと見渡し、一点で目を止めた。まだ土台しか出来ていないそれを眺め始めた。じっくりと見るその目には建設後の姿だけではない、凡人には映らぬ何かが映っているのだろう。その姿に鳳明の周りの者も何も言えなかった。
少しの間を開けて向き直ると元から柔和そうな顔に更に笑みを深めて言った。
「この中華でお前位なものだろうさ。これを実現し、運用できるのは。まぁ存分に名を上げてくればいいさ」
「ありがとうございます」
及第点には間違いなく達しているだろう言葉に鳳明は内心安堵を感じていた。決して自信が無かったわけではないが、中華の歴史でも数える程の、間違いなく史に名を残す大戦の前に師の言葉を聞けたのは僥倖であった。
「折角の戦ですが先生は来られないのですね」
「お前も同意しただろうに。大勢を割く分、守りは少数になる。私を含む経験の多い者が重要拠点に入らねば」
「廉頗殿を含め誰か一人はごねると思っていたので」
「皆古い人間だからな、連合軍など信頼していないんだよ。それに手柄を横取りして若者に嫌われたくないのさ」
これから始まる大戦の為の盟。それをまるで信頼していない目の前の男に鳳明はある種の感銘を受ける。経験の浅い自分には分からない感覚だ。
鳳明は遠征の前に王に策を献上した。どう考えても盟を破る利点などないが、万が一に備えて守備を強化するためにこの男たちを解き放つ策だ。廉頗の立ち合いの下でという意外なほどあっさりとした条件で受け入れられたその策は、牢から放たれ次第殺気を飛ばし合って介子坊と凱孟が素手で殴り合い始めるという問題があったものの、なんとか三大天廉頗との協力体制の構築も上手くいった。
王からの現状の説明を聞いているのかいないのか、腫れた顔で酒を飲み交わせば三大天と魏火龍七師という物騒な関係だった彼等はなぜだか直ぐに意気投合した。酒の勢いそのままにこれまた物騒な魏の未来について(率直に亡国の危機にあるという言葉で王の顔面を蒼白にさせながら)彼等は勝手に話し合い、将の格という点で反論できる者がいないことをいいことに軍議をすっばして今の形に収まった。
『儂らは守りについていてやるからお前の名を中華に知らしめてこい』
それは廉頗を始めとした自分以上の戦歴と格を持つ将の総意だった。これからの乱世を駆ける、新たなる柱となる人間が魏には必要不可欠だと。
それに対して鳳明は自負と自信を持って是と唱えた。これに失敗すれば魏には碌な人材がいないことを天下に晒し、魏の未来が翳るという裏の意味も踏まえての言葉だ。
本来ならば三大天や七師の彼等が出るべきなのだろう。だが失敗のリスクを抱えてでも彼等は鳳明を担ぎ、後ろに控えた。実の所三大天や七師を復活させた以上、鳳明が指揮を執っての出陣には反発があった。先の事を踏まえても、信頼できる実績を持つ彼等をいかせるべきだと言う声は当然だが、それを抑えたのも彼等だった。
一緒に行けば鳳明の名ではなく、自分たちの名が通る。それでは意味が無い。これからの魏の為にこそ鳳明をいかせるべきだと。
それに対して王は廉頗らの言葉を信じ、新世代の雄として鳳明を選んだ。無論、師たちが意図を汲んで乗ってくれたとはいえここまでの事は鳳明の考え通りである。
「この戦で名を上げ、この魏を守って見せます。父に恥じない様に」
だがそれは退路がない道。失敗すれば自刎だけでは済まされない。この連合軍が成功しようがしまいが、自分の失態だけは許されない。その重責を鳳明は自身の才覚を信じることで背負っていた。
そんな弟子の姿に師は声をかける。
「フッ。少なくともこの方面ではもうお前に追いつけぬだろうな」
鳳明が持っていた設計書を手元から取って見る。それに反応して目を向けた鳳明に目を合わせた。
「お前は最強の教え子だよ、鳳明。後は教え損ねた事を教え、経験を積めば数年で私を超える。それだけの才覚がある」
「ご冗談を……」
「だから少しだけ助言をしておこう」
「ありがたく」
内心で師の言葉に同意しつつも、鳳明は未だ足りぬ自分への教えに耳を傾けた。
「戦をするのは人だよ。指揮を執る武将も前線で剣を交えるのも人だ。いつも忘れそうになるがな」
「はい」
「お前や私のような武将こそ、合理さを捨てることを学ぶべきだ。人は合理的に動かぬものなのだからね」
今更そのようなこととは思わない。いずれ超えるにしても師の経験は圧倒的であり、そして将としての自分を最も形作った者の言葉である。この忠告は師が今の自分に足りないと思ったことであり、それはつまり自覚できていない自分の未熟な面であると鳳明は受け入れた。
「ありがとうございます。先生」
「人は感情で動く生き物だ。自分は例外だと思わない方がいい。加えて殆どの人間が言う戦争などというものにおける信頼とは情のことだよ。別に愚かなこととは思わんがね」
「はい」
「そして自覚しているだろうがお前には駒がいない。強さと情を併せ持つ駒のことだ。それは私であれば乱美迫であり廉頗でいう四天王。こればかりは内から見出すのが一番なのだがな」
「えぇ、そうですね」
鳳明には廉頗や師である彼に比べれば切り札と呼べる駒がいない。自分の部隊は自身の戦術を仕込んだ魏軍の中でも精鋭であるが、それでも特に武に優れた一騎当千と言える者はいない。最もそう簡単に手に入れば苦労はしないのだが。
「まぁどうしても見つからなかったら私が用意してあげよう。函谷関で手柄をあげたお前への祝い品としてね」
「それはありがたいですね。ちなみにどのような者か聞いても?」
「気が早い奴だな。もう自分の物のつもりか」
「私が手柄をあげるのは確定事項なのでしょう?」
「ククッ、まぁいいだろう。古い一族だ。前線にいる者ならば知っている者はいる。魏の龍とも呼ばれ、特に馬を扱わせれば魏でも頂点だろうな」
「それは知りませんでした」
「将ではないし士族としては格が低いからな。しかしあれは素晴らしいぞ。私が投獄される前の戦で乱美迫とも渡り合っていた。苦労させられたがお陰で知ることができた」
「素晴らしいですね。是非欲しい」
「騎兵故につまらん攻城戦で連れて行っても仕方ないからな、お前が帰ってきたら引き合わせよう」
「えぇ、楽しみにしています」
戦の後の楽しみが増えた。そう言って師と笑いあったことで自分の緊張が過ぎていたことを鳳明は自覚した。存外この様な機会には気を張る性分であったと知らぬ自分の一面に苦笑する。
そうして用は済んだとばかりに帰っていく師を声をかけて止める。先程の言葉でふと思ったことを尋ねてみた。
「もしかして先生たちがこの戦に参加しなかったのは魏が攻城戦を務めるからですか?」
「さぁ? ただ攻城戦は退屈で面白みがないと古い人間は考えがちだ。お前は違うみたいだが」
カラカラと笑いながら去って行く。あぁ、これは確かに合理的に動かない人間だ。きっとこれからこの曲者共の扱いに自分は頭を抱えることになるだろう。
外様の廉頗、投獄者の魏火龍たちは影響力は強いものの、その立場上役職は高くない。魏国の軍官の頂点はこの戦の後は自分になる手筈になっている。それはつまり、彼等を動かすのも、面倒を見るのも自分だということ。
成程。先程の助言の真意を理解して鳳明は大きく息を吐いた。
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【りあすぽいらー】
「な、なんですかい隊長それは」
【空気抵抗を減らして安定性や負の揚力を得られるの。あと恰好良い】
『うぉおおお! カッケェー!!』
外からの歓声に足を止める。今日も我らが隊長は元気そうでなによりだ。
「はぁ。まいったわいな」
隊長は今や秦国でも名高い名将である。農民出身だというだけで民間人受けするが、それに加えて女であるが凄まじい武力を持ち、そして天に愛されているが如き采配で軍を勝利に導く。その姿は正しく天女。天女って言葉に違わず姿形も愛らしいとの噂。実際可愛い、それは同意、ホント可愛い。年々その顔だけでも美人になって大人の魅力が上がってる気がする。でもカッコよさでは副官の方が上だと私は思ってる。そんな二人がお似合いだわさ。好き。この部隊で良かった、毎日が目に優しいの。
ゴホン。えーそんな天女将軍様の玲鵬隊はそこら中何処に行っても話題にされている。まぁ、ちょっとだけ悪評もあるがそれは噂の波に飲まれてる。人は皆信じたいものを信じるものだし。
「た、隊長! 車輪にこれつけましょう、鉄製の専用の輪です!」
【ほいーる。いいよ】
『うぉおおお! カッケェー!!』
隊長は今も隊員たちと交流を図っている。一見遊んでいるようにしかみえないがアレが隊長の仕事なのだと思うことにしている。
ちなみに隊長の一日は天からの使命とやらが無い限りは割と好き勝手やっている。いつでもどこでも発生する交信は置いておくとして、基本的にはそこら辺や領地の町をほっつき歩いたり、色んな人の所に顔を出したりしてブラブラしている。それと一日に一度は粋面様の元に適当に雑談しに絡みに行く。仕事をしている時でも良く来るが、私はそれを見るのが好きだし粋面様の下にいるのも好きなので邪魔はしない。というか粋面様は放っておくと仕事しすぎなのでアレは良い事なのだわさ。確信。
まぁそんな隊長も遊んでばかりでもなく、馬や武芸などの個人的な鍛錬をしたり隊の訓練にも良く顔を出している。吹っ飛ばされる隊員は最早名物だ。そして最近はちょくちょくやっていた勉強が身を結んだのか稀に書類仕事も行うようになった。いや、今まで投げっぱなしだったのもおかしいのだが。
まぁそんな訳で今外でやっている、昔魏の戦で捕らえたという戦車の修復と改造も多分彼女の趣味の一つだ。割と昔からちょくちょく一人で暇なときに行っていたらしいのだが、最近は兵たちも一緒になってやっているらしい。訓練の時間にやることなのかはしらんが。
まぁそれも彼女の言う使命なのかもしれないから邪魔をする者はいない。喜んでる隊長は可愛いし……あ、粋面様に邪魔するなって放り出された。じゃあ天は関係なかったんだ、アレ。
ゴホンゴホン。実際なんやかんやで隊長の言うことは結果的に殆どが良い方向に進むんだから、基本彼女のやりたいことは好きにさせるべきという諦観はこの隊共通なのである。
そんな隊長の直近の使命は荒らされる治水事業を収めること。国のそれはそれは偉い人から依頼されたそれをなんともあっさり解決し、隊長の名は渭水全域、引いては咸陽にまで響き渡り、本来事業を始めた工人の名を取って鄭国渠と名付けられる筈だった渠は現在我が隊の名で呼ばれている。凄い。
そうして此度の活躍で隊長は5千人将になった。感謝の手紙と引くほどの謝礼のお金と共に先日その証が送られてきたのだ。もうなんだか、成り上がりものの御伽噺でも駄目出し間違いなしだ。ここまで来ると頭がおかしくなりそうで笑えて来てしまうが、その送り主の名を見るだけで加えて吐きそうにもなる。
だってこれ、御名御璽の印なんだわさ。あぁ、隊長が首突っ込んだ件って大王派閥の事業だったんだ。
全てを察して私は一日休みをもらって寝込んだ。察したのか黒ちゃんと粋面様が見舞いに来てくれた。嬉しかった。
そして直ぐに他所からのお祝いの品が色々届いた。地方の豪族や商人なんかをはじめ、王騎軍の干央軍長からも届いた。娘と嫁と一緒に選んだとかで見栄えのいい服だった。クルクルと回ってお披露目する隊長は可愛かった。録鳴未軍長から届いた軍学の書は部屋に放り投げられていたが、蝸牛の速度で読み進められている形跡があった。突撃陣形以外の陣形が発せられるも近いかもしれない。願望。
まぁそれはいいとして、問題は私の真の主である蒙恬様の贈り物である。今回の贈り物は5千人将という節目なのかそれはもう豪華に、軒車とそのぎっしりと詰まった中身丸ごと送って来た。流石は名家。しかし問題なのはその中身というか今私の手にあるこの書だ。
「やぁ、冷。今日は気持ちが良い天気だよ。外で歩くのも良い日だ」
「す、粋面様……」
思わぬ人からの声で体が固まる。いつもはその顔を見るだけで幸せになる人だが今はマズイ。ただでさえ腹芸は得意でないのに碌に言葉が出てくる気がしない。とにかく場を離れなければ。
「あ、あの…」
「大丈夫、顔色が悪いよ」
自然に近づいては頬に手を添え、しっかりと顔を見られる。近い、近いだわさ! 至福! あぁ、もういつもならその手に喜んで寄りかかるが今はとにかくダメ! ダメったらダメだわさ!!
「いつも気を配ってくれて心配ばかりしてくれるけど、そういう優しい子って自分のことは後回しにしてしまうからね。ちょっと座ろうか」
自然に手を引いて近くの椅子に座らせられる。軒の陰下で涼しく、訓練中なのか人が居ない。もうなんだろう。こういうことが自然に出来てしまうこの人って大層な遊び人なんだと分かる。そういうのって分かっちゃうけど好き。
「最近は色々あって忙しかったからね。全く玲守の思い付きには困ったものだよ。まぁ後始末は慣れたけどさ」
「ひゃ、ひゃい」
「でも冷はこういう仕事ができる数少ない人だからあんまり無理しちゃだめだよ」
「ふひゃい!」
「流石に領地関係は蛇殿や冷たちには敵わないから、俺が無理させちゃってる所もあるかな。ゴメンね、冷」
覗かなくていいから! 心配してくれてるのは分かるけどそれ駄目なやつだから! あ、その顔駄目!! その声も、女の人にしては少し低くて落ち着けて、体に響くような声も今はダメだから!! というかその声狙って出してるの? ずる過ぎる、いつもならいつまでも聞くけど今はホント駄目だわさ……
「……」
「うーん、困らせるつもりはなかったんだけどなぁ。まぁいいか」
何がいいのだろう。いえ、粋面様ならなんでも良いんですけど。いや、ダメか。もう何を言ってるんだわさ、私は。
「ねぇ、冷」
「耳元は駄目だわさぁ……」
「ごめんごめん。じゃあちゃんとこっち向いて」
仕方なく正面から見てはいけない顔を直視してしまう。すると私の好みに的確所か私の好みがすり寄っていくような顔に、それに相応しい切れ目の目。その引き込まれるかのような目を見た瞬間分かる。
あ、これ真面目な話だ。でも蕩けちゃう。好き。
「冷には凄く助けて貰ってる。戦場でも文官の面でも。でもお礼は言わないよ、命を預け合って助け合う戦友ならそれは当然のことだしね」
「も、勿論だわさ」
「だから言いたいことは別のことでね。わたしは冷の選んだことならどんなことでも受け入れるつもりではいるんだよってこと」
「それは……」
「冷が自分がやりたいことをやって欲しいと思う。難しくはあるけれど、やらなきゃいけないこととやりたいことが同じだったら私は嬉しいよ」
「……」
「でも受け入れるってことは許すってことはまた違う話であって……冷が此処に留まるのならわたしもこれから本気になるよ」
「え?」
粋面様の目がすぅっと細まって私の顔に近づいて……ファ、ファファファのファッ!?
「絶対に逃さない。冷が心も体もこっちに来るように全力を尽くすから。覚悟してね」
粋面様が去ってから私が再び動き出したのは日が落ちかけてからだった。あぁ、本当はやること色々あったのに……
バレてるなぁと思ったけど、やっぱバレバレだったか。まぁ建前で隠してるだけだったけど。じゃあもういいかな。
同じ様な蛇殿にも探りを入れて、色々聞くついでに相談もしよう。あの人もこちら側とはいえ、ちょっと違う立ち位置の人だけど一線引いてる感じだから色々聞いてくれると思うし。まぁとりあえず明日だわさ、今日はもうまともに頭が動く気がしない。
「隊長、連れてきました! 町一番の彫り物師です!」
「この車体に天の彫刻を入れたら完成ですよ!!」
【計画禰……最速伝説がはじまる】
また隊長達が集まってきてる。あの人、本当何考えてるんだろう。あの人の思い付きのお陰で私たちみたいな人間は慌てふためいてるだわさ。ていうかぶっちゃけあの人なにも考えてないでしょ。そう皆思ってるけどやることがでかいことに繋がりすぎてとてもそうは思えなくなる。訳わかんない、皆そう思ってるだわさ。あの人が何するか、もしかしたら物凄い謀略に繋がるんじゃないかとビクビクしている人間がどんどん増えている。私もそうだ。
もう…ほんと……どうすればいいんだろう。
蒙恬様から届いた『各自の判断に任せる』という旨の書が今私の手の中にある。蒙家の立ち位置はもう示された。きっとこれは蒙恬様の優しさ。そういう人だ。勿論今のまま此処にいて蒙恬様に報告を続けるだけでも問題ないんだろうけど。私へ自分の心の逃げ道をくれた、そういう甘すぎる人なんだ。……実際黒ちゃんは遠慮なく甘えるつもりみたいだし、その方が良いって言ってたけど。
しかし蒙恬様への貢献を考えるなら戻って楽華に行った方が役に立つ。それは間違いないし、黒ちゃんも分かってる。それでもこちらを選んだってことはきっとそういうこと。あぁでも黒ちゃんは私に気を使ってるだけで、本当は昔から私の手を離れてる子だからなぁ……
【行くぞ! 咸陽城不思議旅行出発!!】
『うぉおおおおおおお!!』
あ、戦車直ったんだ。良かった、ちゃんと走ってる。てか時間かかっても修理は殆ど一人で終わらせてたみたいだし、あの人頭がアレだけどきっと地頭は凄く良いよね。荘子の例え話なんかも直ぐに理解してるし、粋面様や蛇殿から身に付けさせられた教養も一度で覚えてる。ただ折角覚えたソレを何故か使おうとしないだけで。多分、生まれや何かの機会に恵まれていれば、何かが間違っていればその道でも天命を受けたかのような才能を発揮出来たんじゃないかな。流石に言い過ぎな気がするけど、喋っていると時折そんな気にさせられるんだわさ。
「それこそ天命か。私も欲しいだわさ」
できもしなかったもしもの話なんて意味が無く、今を生きるしかない。私は恩を返す為に生きたかった。でも最近は恩を受けてばかりで、まるで返すことができない。大切な人が増えて、力になりたい人が増えて、守りたいものができて。それなのに目の前にはやらなければいけないこと、自分で考えなければいけないことが沢山で……
「あぁ、そうか。私いま幸せなんだ」
ふと、気付いてしまった。どんな道を選んでも私は後悔しないということが分かってしまった。なんて贅沢なんだろう。選ぶことなどなく、必死に助けを求めて他者に縋りついていたあの日々では考えられなかった。私はなんて恵まれた出会いをしているのだろうか。
部屋に戻ったら思わず笑ってしまった。なぜだか涙が止まらなくって、やってきた黒ちゃんを抱きしめても止まらなくって、私はずっと笑って泣いていた。それこそ日が落ちてから出ていったせいで迷子になった隊長の捜索が始まるまで。