姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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17 知らない

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 時は少し遡ってゴールデンウイークがちょうど終わった頃。言い換えれば学生たちが休みの間にどんなことをしたかを話し合ったり、あるいは休みが終わってしまったことに落胆しているような頃のことである。

 

 

 学年が変わって一ヶ月が経ち、新しいクラスメイトたちとも打ち解けはじめたにもかかわらず、八雲の心中はあまり穏やかとは言えないものだった。突然アメリカへと旅立ってしまった姉のことが心配だというのもあったし、また気が付けば八雲にとって意味に多少の幅はあれど特別な存在である拳児がいなくなってしまったことも原因のひとつである。しかしそれ以上にこの春から同居しているサラ・アディエマスが口を開けば大阪に行けだのなんのとまくしたててくるその剣幕に参ってしまっていた。

 

 決して八雲はサラの意見に反発しているわけではない。それどころか会って話をしたいと考えているのは彼女の偽らざる本心でもある。それでも八雲が二の足を踏んでしまうのは、一年生のときの仲良しグループがこの話を肴に盛り上がるときに必要以上に過激なところまで話を進めてしまうことと、自分が会いに行けば拳児がひとつの目的に向かって進んでいるのを邪魔してしまうことになるかもしれないと思ったからであった。

 

 当然それは八雲の勝手な判断であり、実際にはふたりが顔を合わせたところで何も起きないのが関の山だろう。冷静に自身と向き合うことを知った八雲ならば、拳児が苦い反応を示さないだろうことは容易に推測できるはずであった。あるいは彼女は無意識のうちにそれを言い訳にしているのかもしれない。周囲が彼女に見ている像とは違って、八雲は強い人間というわけではなかった。

 

 そういった、どう解決していいのかわからない思いを抱えて過ごしていた日の昼休みに、彼女の携帯電話がメールの受信を知らせる音を立てた。メール自体は驚くようなものでもないが、時間が不思議だった。今は昼休みで、仲の良い友達はみんな揃っている。もちろん彼女たち以外にもメールを送ってくる人物がいないわけではないが、その人たちも大抵は放課後に送ってくる。疑問が頭を離れることはなかったが、とりあえず八雲は内容を見てみることにした。

 

 その内容は “メルカドで待ってる” という実に端的なもので、送り主も併せて考えれば何について話をするのかはひどく明白だった。

 

 

 喫茶メルカドはそのスイーツのメニューの豊富さと、高校生をメインターゲットに据えているとは思えないほどのクオリティのコーヒーが売りの喫茶店である。立地のこともあって、客の大半は矢神高校の生徒だった。多くの女子生徒の帰宅時のとりあえずの選択肢の第一候補であるためか、夕方以降は客足が途絶えることはまずないと言っていいだろう。店長の趣味が少し変わっており、アルバイトの子たちに季節にあった制服を渡すことでも知られている。

 

 落ち着いた内装と、それにマッチするよう選び抜かれた調度品たち。その中にはマホガニー材の高級テーブルなどもあるという。以前そのテーブルを使って腕相撲が行われ、それで腕を折った人がいるという噂も流れたが、真偽のほどは定かではない。そして今、その店内で、矢神高校の誰もが認める二大美女が向かい合って座っていた。

 

 

 「このあいだ」

 

 カップを二度ほど口に運んでから、愛理は視線を下に外したまま口を開いた。何でもないはずのその仕草は憎いくらいに映えていた。どこがどう美しいというのではなく、なにか全体として場の雰囲気を支配するような、どちらかといえば神秘性に近いものだった。その彼女は声を発したかと思えば、どうしてか一拍置いた。

 

 「このあいだ大阪に行ってきたわ」

 

 八雲は口を開かない。おそらくまだ愛理の話が終わっていないと判断しているのだろう。視線を外さず、コーヒーにも手を付けず、ただじっと黙って待っていた。

 

 「本気で麻雀の監督やるみたいね、播磨(ヒゲ)

 

 ある意味でいえば確認するまでもないことだった。やるとなれば周囲がどうだろうとやり抜く。播磨拳児とはそういう男である。拳児のことを知る者は、麻雀雑誌に載っているのを見た瞬間からこうなることはわかっていたと言ってもいい。八雲が愛理の発言に驚かないのもそういった背景があるからだった。コーヒーから立ち上る細い湯気が八雲の鼻腔をくすぐった。

 

 元来、八雲は口数の多いほうではない。芯こそしっかりしているものの、生来の内気な性格と、姉の勘所だけは押さえる不思議な鋭さのおかげでそこまで自己を主張することなく育ったことに起因する。それ以外にもさまざまな要因が絡まって今の八雲を形成している。それ自体は人が成長するうえで誰しもが同じ道を通るものだが、その結果は千差万別ということだ。

 

 愛理と八雲という名前を出せば、矢神高校の生徒はすぐさま播磨拳児の名前を連想するが、実はその二人の間に小さな齟齬があることを知る人間はいない。彼女たちは明確にぶつかったことなどないし、何より二人は同じ土俵に立ったことがなかった。彼女たちのステージは常に少しずつずれていた。どちらかといえば愛理は拳児を手段を問わずに奮い立たせ、また八雲は拳児の支えであり続けた。言わずもがな当の本人はそんなことには気が付いていない。

 

 「……あの、元気そうでしたか」

 

 「そうね、拍子抜けするくらいいつも通りだったわ」

 

 そう言って愛理はもう一度カップを口元へと運んだ。陶器の立てる音でさえも彼女の存在を引き立てるために存在していると勘違いしてしまいそうだった。八雲もやっとコーヒーを口にして一つ息をつく。今でもたまに八雲は愛理の強さがうらやましくなることがあった。

 

 「そうそう、調べたらわかったんだけど、麻雀のインターハイって毎年東京でやるみたいね」

 

 「あの、どうして……?」

 

 「さあ? 知らないわ。ただの独り言だとでも思ってちょうだい」

 

 これまでと違ってカップをぐい、と傾けて一気に飲みほし、愛理はテーブルから立ち上がった。木製の筒を斜めに切った置物から伝票をさっと摘まみ上げて足早に歩きだす。八雲が自分のコーヒー代を出そうとそれを止める隙もなかった。八雲のカップには、濃い色をした薫り高い液体がまだ残っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 体育の授業は教員の人数と、ほかの授業のコマ数との関係で二クラスが合同で行うことになっている。それのおかげで拳児の肉体のスペックを知る生徒は多い。もちろんそれは他クラスはおろか他学年にも噂になって伝わっており、尾ひれがつきについた結果、一年生の間ではグランドピアノを片手でやすやすと持ち上げるという訳のわからない認識が広まってさえいる。

 

 拳児はその手の噂には一切興味を示さない。というよりも恭子と由子のふたりの目からは自身が耳目を集める存在であることに自覚がないように見えた。普通であれば舞い上がったり挙動不審になるものなのだが、どうにも普通という物差しでは播磨拳児という男を測るのは不可能であるようだった。その点では拳児と洋榎は似ているということで恭子と由子は一致しているのだが、これはまた別の話である。

 

 さすがに噂ほどとはいかないが、拳児の運動能力は明らかに常軌を逸していた。単純な走るとか跳ぶとかの運動では平気で陸上部を超える記録をたたき出してもいる。そのほかの一般的な男子に人気のスポーツでも恐ろしいまでの対応能力を見せている。間違いなくその動きは体の使い方というものを理解しており、日常的に運動かあるいはそれに近いものを行っていたことを感じさせた。

 

 そしてその日はやってきた。拳児の所属する二組と、体育を合同で受ける一組が震え上がることになった伝説の授業が行われた日である。

 

 

 「な、播磨は泳ぎは得意なんか?」

 

 二ヶ月という日数と麻雀部三人組のおかげでだいたいのクラスメイトは拳児に対して怯えることなく接することができるようになっていた。それでも気の弱めな級友たちは未だに近づこうとさえしないのだがそれは仕方のないことだろう。それよりも普通に接してくれるクラスメイトに拳児は感謝をするべきなのだが、そんなことを彼に期待するだけ無駄というものである。

 

 「そーいやしばらく泳いでねえな」

 

 相変わらずサングラスをかけたまま、どこのかはわからない牌譜に目を通しつつ、拳児は近くに座っている男子の質問にずれた返答をする。ときおり手元のメモ帳になにかを書きつけているようだ。

 

 男子生徒がなぜこんな質問をしたのかといえば、何を隠そうそれは本日から体育が水泳の授業になるからである。拳児からすればそんな面倒くさい授業などサボってしまいたいのが本音ではあったが、従姉から卒業することを厳命されている以上はそれが叶わない。だからきちんと学校指定の水着を買ったのだが、これほどその姿と学校のプールサイドという場所が似合わないだろう人間もなかなかいない。六月の中旬に入ったばかりだというのに、その日はどうしてか気持ちいいくらいに晴れ渡っていた。

 

 二時間目の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時に、二組の全員が一斉に動き出した。それにはやはり原因があって、体育教師が妙に時間に厳しいというわりとありがちなことがそれにあたる。普段の体育であれば更衣室にのんびり行ったところでそれほど遅刻を気にすることはないのだが、水泳となると話は別だった。女子は水泳専用の更衣室があるのだが着替えに手間がかかる。男子は着替えにそれほど手間はかからないが、なぜか更衣室がプールから遠い。したがってどちらも急がないとならないのである。さすがに姫松で二年間も過ごしてきた彼らはその辺りのことを熟知しており、やさしいクラスメイトから急いだほうがいいとだけ聞かされた拳児も、とりあえずその助言に従うことにした。

 

 

 それぞれが雑談に興じていた和やかな時間が、ある一瞬を境に変わり始めた。小さなざわめきが次第に伝播していって、すべての視線がプールサイドの入口へと集まっていく。

 

 まるで彫刻のような肉体だった。無駄の無い引き締まった筋肉が分厚く体を覆っている。器具を使ったり歪なトレーニングをしては決してたどり着けないようなその肉体は、これまで彼がたたき出してきた体育の授業での異常とも言っていい成果を納得させるのに十分な説得力を有していた。広い肩幅を支える僧帽筋から連なる発達した三角筋、厚みのある大胸筋の下を支える外腹斜筋は見事に引き締まっている。上半身と釣り合うように盛り上がった大腿四頭筋と下腿三頭筋に挟まれた膝がやけに目立つ。ほとんど理想的なスタイルをしていると言っても過言ではないだろう。

 

 「あいつ、あんなカラダしとったんか」

 

 「……すごいとは思ってたけど、まさかあれほどとは思ってなかったのよー」

 

 拳児から視線を外さずにこそこそと洋榎と由子が話している横でも別の女子生徒が拳児について話をしていた。もう隠す素振りすら見せず、堂々と指をさしてきゃあきゃあと騒いでいる。無理もないだろう。体型だけで言えばスーパーモデルと遜色がないのだから。

 

 「な、きょーこはどう思う?」

 

 「いや、どう思うも何も先に突っ込まなダメなとこあるでしょ」

 

 「へ?」

 

 「サングラスとカチューシャつけっぱなしですやん」

 

 昨年の夏に海に遊びに行った時もそうだったが、拳児は自分を曲げなかった。拳児以外の人からすればまったく理由はわからない。だがこれは拳児にとっては何より重要な恋の証であった。塚本天満を奪い去るという覚悟の証であった。誰でも人と会う可能性のあるときには常にサングラスをかけることを再び誓ったのである。臨海女子での合宿で智葉と素顔で出会ってしまったのはまさに例外中の例外であった。それもほとんどが油断から来たものであった。

 

 「……まあほら、あのグラサンもゴーグルと似とるしやな」

 

 「照れながら言い訳せんとってください」

 

 えへへ、と長い髪をどうにか水泳の邪魔にならないようにまとめきった洋榎が笑う。その仕草がいちいちかわいらしく、恭子が呆れ半分にため息をついたところで拳児の周囲に集まっていた男子たちが一斉に軍隊のように横並びになった。体育教師が来たわけでもなければ拳児が怒ったというわけでもなさそうだ。その証拠に拳児の口は呆けたように開いている。

 

 女子たちは男子たちの奇矯な行動の理由も意味もわからなかった。ただひとつわかっているのはその中心にいるのが播磨拳児であるということだけだった。群がっていた男子が整列したことで、拳児の肉体が見やすくなったからどうでもいい、と喜んだ女子もいたがさすがにそれは少数派であった。

 

 

 授業とはいえ水泳でやることは多くない。スタート地点が泳げないなどであれば別だが、そうでなければ授業で劇的な進歩は望めないのが水泳という競技である。せいぜいが夏休みに入る前までの間にちょっとタイムが縮められるかどうかというのが関の山だ。そんなことは教師陣も理解しており、だから初日の授業はタイムの計測に充てられた。八つあるレーンを真ん中で男女にわけて、それは実施される運びとなっていた。

 

 麻雀部三人組のタイムは特別に早いわけでも遅いわけでもなく、平凡という言葉がぴたりと当てはまるようなものだった。タイムを測り終えた彼女たちは、水気を払いながら上がった場所で固まって話をしていた。授業とはいえプールという環境もあってか普段よりも心持ち楽しそうである。少し話し込んでいると男子の側のスタート地点からどよめきが起こった。深く考えるまでもない。そう思って恭子が視線を向けると、そこにはやはり拳児が立っていた。どんな泳ぎを見せるのかが気になるのだろう。生徒はおろか教員までもが拳児の挙動に注目していた。

 

 ぴっ、と飛び込む合図の笛の音と同時に屈められていた肉体が解き放たれたように空中に伸びていく。音も水しぶきもそれほどあげずに着水し、潜ったまま水中で体をうねらせながらぐいぐいと進んでいく。いわゆるバサロ泳法というやつだ。だんだんと浅いところへと浮かび上がり、水面にその背中が見えた途端、拳児の体が宙を舞った。両の腕を同時に体のわきから覆いかぶさるように出し、それに追随するように頭、胴、脚と鞭のようにしならせて前へと進んでいく。たしかに誰も泳法に関する指示を出してはいなかったが、それでもクロール以外を選択したのは拳児ただひとりだった。彼が選んだのは、バタフライだ。

 

 絞られた肉体が躍動する様はそれだけで美の感覚を想起させる。拳児の選んだ泳法は他のものと比べて大きく見えるものであり、視覚効果を倍増させていた。バタフライ泳法とはフォームが洗練されていなければ速度を出すことができないものであり、隣のレーンのクロールと当たり前のように競っている拳児のそれは当然のように美しかった。

 

 ざんぶ、と音を立てて拳児が水中から上がると、その辺りで固まって話をしていた女子たちから小さな悲鳴が上がった。大声を出してはいけないことを本能的に理解しているような必死に抑えた声だった。その原因は拳児の背中にあった。

 

 右肩甲骨の下の辺りから左腰へと向かうように、大きな傷痕が残っていた。おそらく刃物によるものだろう。生々しさはもう残っていないが、肉が引きつるように歪なかたちをして盛り上がっている。ちょっとした切り傷程度ではあれほどのものにならないことは容易に推測された。触れてはならない。そもそも棲む領域が違うのだということを改めて思い起こさせるものだった。

 

 先ほど男子たちが一斉に整列した理由はあれだと恭子は瞬時に理解した。彼女たち麻雀部は拳児が裏プロであるという誤解のもとに接しているため、麻雀部以外の生徒ほどの衝撃を受けてはいない。それでも頬が引きつるくらいには驚いたが。それだけに拳児のことをただの不良だと思っている一般生徒たちの衝撃は計り知れないものがある。またひとつ拳児について回る真偽の定まらない噂の種が誕生した瞬間だった。

 

 

―――――

 

 

 

 「…………なあ、播磨のアレ、なんでやと思う?」

 

 「いらん詮索は止しましょうよ、主将」

 

 「でも気にならんー言うたらウソやろ?」

 

 「そりゃそうですけど……」

 

 「やっぱ抗争とかに巻き込まれたんかな」

 

 「打ってる時に後ろからざっくりいかれたのかもしれないのよー」

 

 「ゆーこの発想が怖い」

 

 「でも裏の代打ちなんて言ったら周りにそういう人いないとダメだと思うのよー」

 

 「え、何その経験者みたいな発言」

 

 誰も本人に確認しようとしないあたり、始末に負えないとはこのことなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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