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( まさか準決勝までをブラフに使ってここで新しい狙撃を披露、とか言わへんよね? )
事実は由子にはわからない。少なくともこれまで見てきたような狙いにくる意志はまったく見えなかった。自然に考えれば、普通に打っていてたまたま由子が菫の当たり牌を出してしまっただけの話だ。麻雀の展開としてごくごく当たり前のものである。しかし決勝に残るのが既定路線とさえ思われていた白糸台の選手だ、そこへ向けてもう一つ隠し玉を持ってきていても不思議ではない。由子はそちらの考えに引っ張られそうになった瞬間に我に返った。
( ダメなのよー、少なくともそれを疑うなら阿知賀が弘世さんにぶつけられてからじゃなきゃ )
どのみち拳児がいなければ気付けなかった彼女のクセが、また新しいものになったのだとしたら自分に打てる手はないだろう。それを自覚していた由子は考えてもしょうがないことは考えるべきではない、と割り切った。それよりはわずかでも勝利に近づくことを考えたほうが理に適っていると判断した。そう思い直すことができるということの価値を正しく理解できる人はいない。それらはすべて真瀬由子の中だけで生まれて消化されていったからだ。
由子のこの判断は間違っていなかった。少なくともこの局において弘世菫は誰かを狙撃しようとは考えていなかった。自然に聴牌にたどり着き、そこで運良く和了り牌がこぼれたから和了宣言をしただけのことである。菫は菫でこの偶然をさらに利用することもできたし、また考えそのものも浮かんだ。しかしそれに手を出すことはしなかった。まだそのタイミングではないと踏んだのである。この卓に着いている誰もが警戒に値し、また敬意を払うべき相手であると認識した上で菫は対局に臨んでいた。そういうプレイヤーを相手にするのなら入念に策を練り、我慢強く機会を待たなければならない。彼女もまた優秀な素質を持ちながらそれ以上の圧倒的な力に押し潰された経験の持ち主であり、そのことが雀士としての現在の弘世菫を形成していた。
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「由子先輩調子ええね、お姉ちゃん。いまんとこ区間トップやん」
「そらもうゆーこやからな、実際ようコントロールしとるでほんま」
既に南三局までを終えた時点で、絹恵が言ったように由子は収支トップを記録していた。各校の点数がそれほど動いたわけではないが、それでも重要なことに変わりはない。姫松というチームの戦略構成上、ここでどれだけ粘れるかはのちのち大きく響いてくる。ましてやいま戦っているのは決勝戦であり、最終的な意味では勝たなければどうしようもない。たとえそれが千点棒であっても重みがこれまでとは桁違いのものになっていた。
「お姉ちゃん、コントロールてどういうこと?」
絹恵がふと疑問に思ったことを口にした。よくよく考えてみれば真瀬由子というプレイヤーは、たしかに部内戦績では洋榎、恭子についで三番手の位置にいる。しかし先に挙げた二人に比べて、由子はオールラウンドな戦い方をする。良く言えばクセがなく、悪く言えば特徴がないのだ。団体のメンバーに入っていない部員を見ても特徴的なスタイルを持つ者が多くいるなかで、目立つものを持たない彼女が不動の三番手にいるというのもなかなか気になる話だ。姫松にいる部員たちはそれに対してまるで疑問を持っていないが、それが当たり前なのだと思わせるほどに安定していると言えば多少はその異常性に気が付くだろうか。
「ん? 他家との駆け引きが上手いーいうことや」
「もうちょっとわかりやすく」
「ふつう相手が行こか引こかで考えてるのを読んで合わせ撃ちしたりオリたりするやろ?」
ひらひらと手を振りながら説明を始める。実際には洋榎が口にした言葉の確実性を高めるためにデータ集めなどを行うのだが、インターハイに出てくるような彼女たちのレベルになれば当たり前のことである。したがってわざわざそちらに触れるようなことはない。
「そやね、みんなやってる思うわ」
「ゆーこはな、相手を誘導した上でそれやるねん」
「そんなんどうやって……」
それ以降の絹恵の言葉を洋榎は笑い飛ばした。無論、洋榎は由子の技術について説明ができる。それどころか洋榎自身の技術は由子の持つそれと相通ずる部分を持ってさえいる。それでも彼女が触れなかった意味を考えるならば、それはおそらく来年を見据えてのことだろう。最終的に答えを教えることになったとしても、まずは自分自身の力で考えるところから始めなければならない。
絹恵もそれを理解していたのか、それ以上食い下がるようなことはしなかった。深く考え込む様子も見られない。あるいは由子のことについて考えるよりも、わりとすぐに待ち構えている副将戦の方に頭のリソースを割いていたのかもしれない。控室は涼しく、清潔な匂いだけが漂っていた。
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前半戦の終わりは派手なものではなく、そのまま由子が収支をトップで終えた。しかしこのまま進行していくとは、卓についている四人どころかほとんどの観客でさえ思っていなかっただろう。白糸台の弘世菫が沈黙に等しいレベルでアクションを起こしていないこともそう、そして臨海女子の郝慧宇も同様に沈黙を貫いていたからだ。これまで郝は決勝以前の試合でわかりやすい目立った動きを見せてはいないが、事あるごとに解説を務めるプロたちが彼女の技術については触れてきている。その能力の高さは明らかだった。
後半戦を控えた四人は既に卓について開始のブザーが鳴るのを待っている。表情にこそ出していないが、由子の精神状態は珍しく高揚していた。何を隠そう、この面子を相手に半荘を戦い抜いてトップを獲れているのだ。もちろん団体戦であるがゆえにそう単純なものではないことも、むしろここからが本番になるだろうことも理解はしている。それでも単純に麻雀打ちとしてトップを獲るというのは気分のいいものだった。
少しの間があって警告音を想起させるようなブザーの音が響き、後半戦が始まった。
後半戦も由子の好調は止まらなかった。和了り和了られの叩きあいではあったものの、それでも東場までの収支トップを譲ることはなかった。しかしそのことが何を意味しているかがわからない由子ではない。なにか証拠があるというわけではないが、おそらく誘い込まれているのだろうという感触があった。彼女たちがどんな罠を張っているのかなど由子にはわからない。しかし踏み込まないわけにはいかない。格上である白糸台と臨海女子がまともに駆け引きしてくれるのはこの環境以外にあり得ないからだ。
そうしてやってきた後半戦南一局の配牌は速度の見込めるもので、実に状況にマッチしたものと言えた。鳴きたい牌の出方によっては誰にも追いつけないような運びにもできるだろう。あとは相手との兼ね合いだ。由子自身の経験則から言うなら、自分が早いときには少なくとも他家のどこかも早いというのがお決まりのパターンということになる。あるいはそれは痛い目を見たときの記憶だけが強く残っているというだけの話なのかもしれないが、気を引き締めるという意味においては十分な効果をもたらしていた。
仮にその記憶のもたらす由子の気が引き締まる効果を無視したとしても、彼女の他家への圧力のかけ方は見事と言う外なかった。麻雀を打つ上での情報と言えば主に現在の河の様子と、どういう打ち回しをするかという事前情報である。そして真瀬由子はこのインターハイにおいて、いや予選の段階から周到に準備を続けていた。どういった河の様子においても決まって相手に由子の動き方を考えさせるような戦い方を続けてきたのである。
実力も相まって他家からすれば由子は打点の意味でも油断はならず、そして彼女と戦い方の意味で相性が最悪であった弘世菫の “狙撃” は姿を消しつつある。環境は願ってもないほどに整っていた。もはやそこでどれだけ戦えるかが由子にとっての焦点となっていた。南一局では阿知賀の松実に3900を叩き込んで、原点まで戻すことを射程距離に入れたことを強烈に印象付けた。
それぞれの思惑が空気を重くしているような錯覚にとらわれる。由子が自分の勝負できる領域で戦うために長期的な計画を立てたように、彼女以外にもプランというものがある。そしてそれを発揮する機会は、連荘がなければあとたったの三局しかない。どの学校も動かざるを得ない状況であり、見方を変えれば全国でも有数の雀士の食い合いが期待される場面でもあった。
( またこれ悩ましい手なのよー…… )
前局に続いて由子の手は和了を意識させるものであり、いっそのこと防御のことなど考えることなく攻撃的に打ってしまいたいとさえ思いたくなった。しかし状況はシンプルではない。動くにはもうひとつ根拠が必要だ。そしてそれはおそらく由子以外も同様であるはずだ。由子がそう推量を働かせたその瞬間、どうしてか心の中がざわついた。しかしそれがいったいどこから来るのかが由子にはわからなかった。とりあえずそのざわつきには蓋をして、由子は南二局へと意識を集中することにした。
これを幸とすべきか不幸とすべきか、由子が
手作りの関係かはたまた別の理由か、弘世菫の標的はどうやら阿知賀であるらしかった。由子が気付いた菫の視線の動きに松実は気付いていない。局はもう折り返し地点まで進行している。聡い由子がここまで進んだ状況を読み違えるわけがなかった。菫が自覚のないクセとともに標的に視線を送ったということはかなりの水準の見通しが立っているということであり、またそれを成就させることは姫松の優勝が一歩遠のくということでもある。後ろに控える三人はたしかに信頼できる仲間には違いないが、それは由子が目の前の事態に対して指をくわえて見ていることを肯定しない。トップを走るチームをそのまま見逃すわけにはいかないのだ。
しかしここへ来て席順が由子に重くのしかかった。速度を上げることを考えたときに最も重要になってくるのが上家であり、そこから欲しい牌がこぼれてこなければ加速は難しくなる。いま由子の上家に座っているのは、郝慧宇であった。
( 思い出してみれば準決勝も上家に座ってたのよー、なんや
この卓にあって当たり前のように点数を維持する彼女の意図は、この時点においても読み取ることはできなかった。雰囲気だけで言うならば、何かを見ている。しかしそんな郝から由子の助けになるような牌が捨てられるわけもなく、ついに弘世菫が松実に “狙撃” による満貫を叩き込んだ。外部から見ても不思議なほどに精度の高い菫の狙撃はあまりに鮮やかで、観客席からは歓声さえ上がった。
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種を明かせば単純な話だ。見破られた “狙撃” を、もう一度通すためだけにひた隠しにしてきたのだ。彼女にとってはそんなことなど朝飯前だろう。彼女は別に自分の武器など用いなくとも全国上位陣とやり合えるだけの実力を備えているのだから。菫に対して “狙撃” だけの印象を抱くのは間違いでしかない。そしてもうそれらのことを隠す必要がなくなった以上、彼女は攻撃の手を緩めないだろう。初めから簡単なところのない卓が、ここへ来て一気に厳しさを増してきた。
菫の南二局での和了は他のプレイヤーの脳裏に強烈に焼き付いて、次の彼女の動き方についての選択を強いた。残る局ではどうあっても弘世菫から意識を離すことは許されないらしい。クセを見抜かれていない本来の状況ならば、おそらくはこれが彼女にとっての最善の形であったのだろう。攻撃手段はわからず、さりとて目を離すこともできず。しかし由子もクセこそ理解できているものの、それがあまりに微細な動きであるがゆえに目を切るわけにはいかないことに変わりはない。あるいは彼女を無視できるほどの特殊な技術があれば話は別なのかもしれないが、無いものを想定したところで戦況は変わらない。由子にできるのは、とにかく丁寧に打つことだけだった。
( 最悪は大きいのを白糸台に振ること。まずそれだけは避けやんと )
頭の中に並べた回避するべき事態の序列にしたがって由子は打ち回しはじめた。物事に押すべきタイミングと引くべきタイミングがあるとするなら、今はまさに引くべき時だった。真正面からぶつかれば負ける公算の高い相手に突っかかっていくような時機ではないし、もうひとつ言えばそれを期待されているポジションにいないことも由子は自覚している。だからこそ彼女は色気を出すことなくこの場で思い切り逃げるという決断を下せたのだ。それはひとつの信頼の形式であり、見方を変えれば宣戦布告でさえあった。なぜなら彼女が引くということは、後続を計算に入れれば現在の点差であっても十分に射程圏内であると言っているのと大差ないからだ。
逃げることに比重を置いた全国クラスの選手を捕まえるのは簡単なことではなく、また勝利目標の設定の違いから逃げる側が有利なのは明々白々である。その利と試合前に見抜いた彼女のクセを合わせることで由子は南三局を振り込むことなく逃げ切った。のみならず阿知賀の松実も、また郝でさえも和了の要素に触れることなく南三局は閉じた。
さあ使い終わった牌を中央に流し込んで次鋒戦オーラスの山を待とうと手を動かしたところで、強烈な違和感が由子の身を包んだ。たったいま流れた局には見過ごしてはいけない要素がある。その事実だけがまず由子の頭を駆け巡った。この時点では彼女は違和感の正体には気付いていない。一拍置いて、やっと何に対して違和感を覚えたのかについて頭を回し始めた。
( 何が、やない。
状況だけ見ればおかしいところはどこにもない。攻撃的に出ていた菫がカウンターの匂いを嗅ぎ取って聴牌を崩し、そのまま全員がノーテンのまま流局しただけのことだ。このままむやみに悩んだところで答えが出ないだろうと考えた由子は、仕方なく一人ずつの情報を確認しなおすことにした。そして、一人のプレイヤーのことを思い描いたときに、かちりと歯車がかみ合った音がした。
( 郝ちゃん……? よう考えたらこの卓で全然目立ってないのよー )
( ……そもそも中国式は “狙撃” に怯える必要ないのになんでわざわざオリる必要が )
そこまで考えた瞬間に、一気に答えが由子の中で導かれた。なぜ、どうして、の部分にいまだあやふやなところこそ残るものの、郝が消極的にしか卓に参加していなかった理由などたったひとつしかあり得ない。彼女は留学中の身であり、このインターハイを通じて世界標準ルールでの麻雀を学習している身でもある。ルールが変われば戦い方も変わる。彼女はこの決勝の場で、それを学習していたのだ。かちりかちりとパズルのピースが嵌まっていく。弘世菫が南場へ来て仕掛けてきた理由もそれと関係があるだろう。この決勝戦における次鋒卓で目立つことなく得点を減らすこともなく観察に回ることができるような雀士が、
おそらく弘世菫は郝慧宇に及ばないことをどこかで理解してしまったのだ。もちろんそれは紛れさえ許さないような絶対の差ではない。半荘を打てば勝ったり負けたりすることに違いはないし、ましてや一局に限定すればどうなるかなどまったくわからないだろう。それでも彼女はこの一局を持っていかれることを前提とすることを迷わなかった。それだけでも郝慧宇が動くと断定するのに十分と言っていい。
特別な動きはどこにもないのに、郝の手が牌を自摸ろうとするたびに
これまで努めて意識を向けないようにしてきた “意図が見えない恐怖” が途端に由子に襲い掛かる。由子からすれば郝慧宇がこの大会に全力で挑んでいないことははじめからわかっていたことだが、それでもこれほどまでに落差があるとは夢にも思っていなかった。今の彼女から放たれているプレッシャーは、自身のチームの主将のそれと同質のものだ。それはすなわち、彼女が世代を代表するような怪物であることと意味を同じくしている。
本来であれば相手の技量がどれだけだろうと、いつも通りに打てばそれほど崩れはしない。真瀬由子はそれだけの実力を備えているし、そのことはこれまでの試合で証明されている。しかしそれはあくまで技術面の話であり、規格外の圧力を前にすれば条件はまた変わってくる。聡い頭も高い水準の技術も、どちらも郝への恐怖を呼び起こすために機能してしまっていた。もちろんこれは由子に限った話ではなく、弘世菫も松実宥も条件は変わらない。つまるところこのオーラスは郝慧宇の胸先三寸で決まってしまうような状況に陥っていた。実質的には何もしていないはずなのに、それほどまでに精神的な差が開いてしまっていた。
たん、たん、と牌がラシャを叩く音が何かの到来を予感させる。それは階段を一歩ずつ上がってくる音を思わせた。それぞれが自摸を進めることで間違いなく状況は変化し続けていた。手も前へと進んでいたし、河から得られる情報は次第に増えていく。しかし、それでも、郝を除いた三人は停滞以外のものを感じ取れなくなっていた。
たったひとりだけが羽のように軽い足取りで歩を進めていく。頻発するようなことではないが、かといってそこまで珍しい事態でもない。とてつもなく長い道に置き去りにされるかのようなあの感覚が由子の胸を通り抜けたとき、彼女の口が言葉のためにかたちを変えた。
「それです、ユウコ。八翻は、……倍満でしたね?」
郝は16000を突き刺してなお平然とした表情で次鋒戦終了のブザーを聞いていた。歓喜に震えるでもなく安堵のため息をつくでもなく。それどころか卓を同じくした相手ひとりひとりの顔を順番に見回して、恭しく頭を下げた。対局後の一礼は当然と言えば当然の行いだが、彼女のそれにはなにか別の意味が含まれているような感があった。
「得るところの大きい対局でした、感謝します。私はまだまだ強くなれるとわかりました」
三年生だらけの卓にひとりだけ放り込まれた一年生が口にした言葉を聞いて、彼女たちは目を見合わせて苦笑した。どうやら来年再来年ととんでもなく厄介な選手が臨海女子には残るらしい。
こうして女子団体決勝の次鋒戦は終わり、中堅戦が始まろうとしていた。
色々気になる方のためのカンタン点数推移
東四局終了時 前半戦終了時 次鋒戦終了
弘世 菫 → 一四七四〇〇 → 一四二八〇〇 → 一四九六〇〇
松実 宥 → 六五四〇〇 → 六四一〇〇 → 五四三〇〇
郝 慧宇 → 一一五〇〇〇 → 一一一七〇〇 → 一二二八〇〇
真瀬 由子 → 七二二〇〇 → 八一四〇〇 → 七三三〇〇