姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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52 其を我らは魔法と呼べり

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 ( …………すべてはヒロエの掌の上、でしたか )

 

 前半戦も終わろうという局面で、明華はやっとこの半荘がどのような意志のもとで進行していたのかをつかみ取った。パズルのピースは決して多いものではなかった。しかし完成形は複雑で、何より組み上げるのに要求されるプレイヤーのレベルが並大抵のものではない。言ってしまえば愛宕洋榎にしか見えない完成図があるようなものだ。

 

 彼女はそれぞれにとっての状況も個々人の能力も、果ては警戒心でさえも利用して半荘を完璧に支配した。たしかにまだ南四局は残っている。しかしその局はほとんど争点にないと言っていい。準決勝において三翻以上の和了を他家に許さなかった愛宕洋榎が、ここへ来て新子に満貫を許した理由。透けて見えるようだ、なぜならつい先ほどまで明華は同じことを考えていたのだから。

 

 明華は表情を殺した冷たい仮面を顔に貼りつけて、連荘を含めて前半戦で何局を打ってきたかを数えた。渋谷尭深を相手にする時は常にそのことを意識しなければならないからだ。数えた結果が全部で十三局。それらの局での動きも考慮に入れれば、彼女がさほど苦しむことなく役満を和了るだろうことが推測された。もちろん明華も初めからそのことは意識していた。してはいたのだが、それを真上から力で抑えつけるような打ち手の存在が彼女の注意を一気に攫っていってしまった。論理的には考えるならば、明華はできる限り早い段階で洋榎の連続和了を止めなければならなかった。それを止めない限りは洋榎が得点を伸ばすことになる上に、その裏で渋谷の優位性が着実に築かれていくからだ。しかしあの七連続和了の時の彼女を相手に簡単に食って掛かるわけにもいかないだろう。反撃を食らってしまえば本末転倒もいいところだ。

 

 半ば結果の決まった山牌が、自動卓の天板を割ってせり上がる。それを崩して手に入れた配牌は味も素っ気もないもので、もともと望みの薄かった前半戦オーラスの明華の希望をさらに薄めた。自風が二枚入っているからといって、それがいったいなんの役に立つだろう。渋谷尭深は字牌だらけの配牌で字一色を狙っているというのに。

 

 渋谷尭深の異能は少し珍しいタイプのもので、オーラス以外の局が直接オーラスに影響を及ぼすかたちをとっている。具体的には各局の第一打がオーラスに配牌として帰ってくるというものだ。ある意味で言えば配牌を選ぶことを許された異能であり、そのことが麻雀において (特定の一局に限定されはするが) どれだけ有効かは簡単に想像がつくだろう。その半荘の連荘数と各局の第一打次第では緑一色だろうが九蓮宝燈だろうが、望むままに作れてしまうのだ。だからこそ彼女がいる卓では連荘を控えるべきだったし、許してはならなかった。それをどこ吹く風と無視したのは誰かなど問うだけ時間の無駄でしかない。

 

 無論だが弱点は存在している。どちらかといえばはっきりしている方に分類さえできるだろう。まずは彼女の異能の効力が一局にしか影響を及ぼさないこと。これでもしも彼女がラス親であれば目も当てられないような惨状になることは避けられないが、現実にはそうなっていない。次にオーラスにおける渋谷の配牌が割れていることが挙げられる。彼女の異能の特性としてそれは避けられない。また同時に他家同士で協力して連荘を避けてしまえば、帰ってくる牌を七つで止められる。そこまで持って行けばただの手の割れた宙ぶらりんの選手がそこにいるだけの状況を作り出すことができる。加えるなら渋谷尭深がその異能を有していることによる精神的な傾向をも計算に入れて場を進行させていくことさえ可能だろう。しかしそれだけのハンデをつけられても、彼女が恐ろしい存在であることに違いはなかった。役満という重たい一撃は、それだけで戦況をひっくり返す可能性を常に秘めている。

 

 深窓のお嬢様然とした柔らかい顔のまま、渋谷は既定路線でさえあった字一色を自摸和了った。ここまで展開を仕込んだ洋榎であっても素直に和了らせたかったわけではなかっただろう。明華も振り込むのは問題外として、自摸和了られるだけでも被害は大きいと考えていた。最終局で親番を迎える新子はなおさらそう思っていたに違いない。ただそれでも抵抗の隙はほとんど与えられなかった。それも仕方のないことだろう。十四の牌で完成する麻雀で、すでに十三の牌が渋谷の望みの通りになっているのだから。

 

 

―――――

 

 

 

 「連続和了歴代タイ記録にオーラスでの役満和了。見どころの多い中堅戦前半戦でしたね」

 

 「スリリング!」

 

 決勝戦の実況を任されている村吉みさきは、隣に座る解説の野依理沙にパスを出す。ほとんどの場合において彼女は自分から話すことをしないため、折を見て話題を振らなければ放送事故になりかねない。とはいえみさきも理沙と組んでそれなりに長い。いまさらそんなミスをしようはずもなかった。

 

 「それでは野依プロ、前半戦を振り返っていかがでしたか」

 

 「姫松の伸びが顕著!」

 

 これについては異論を唱えられようはずもなかった。一人だけわかりやすく三万点ものプラスを叩き出しているのだから。姫松のエースの名は伊達ではなく、改めてその得点の推移を見て観客たちはため息をこぼした。さすがに偶然なのだろうが三家から綺麗に一万点ずつを削り取っている。

 

 「しかしこれで勝負の行方がさらにわからなくなりましたね」

 

 何の気なしにみさきはこの言葉を口にした。アナウンサーとしては話の流れを作るための当然とも言うべき発言だが、どうやら解説を務めるプロからすると状況にマッチしていないものであったらしい。喋らないぶんを取り返すかのようにぶんぶんと首を振っている。長い黒髪はさらさらと遅れて揺れるだけだった。

 

 「まだ中堅戦!」

 

 「失礼しました。それでは――」

 

 理沙の解説がより多くの人に伝わるように質問を絞って話を広げていきながら、みさきは一つの疑問を手放せずにいた。なぜいま彼女は勝負の行方がわからなくなることに対して異を唱えたのだろう。得点状況を見ればわかるように、急激に追い上げてきたのは姫松だけだ。後半戦も似たような展開になると単純に考えるのであれば混戦模様になることは明白で、否定する要素などないはずだ。おそらく理沙はまた別の何かを見ている、とみさきは考えた。

 

 “まだ中堅戦” という言葉から推測するに、おそらく彼女の言いたいことは判断が性急だ、という辺りのことだろう。もしもこの事態をまだ混戦と呼ぶには早いという意図のもとで先ほどの発言があったのだとしたら、それが指すことはたった一つだ。四校での優勝争いになると言っているのとそう違いはない。ここまで考えてみさきは考えすぎだと自分を諌めた。阿知賀女子は三位とでさえ六万点もの差がついているのだから。そもそもが推測に推測を重ねた上での突飛な発想だ、自分でたどり着いたとはいえ信じる方がどうかしている。みさきは理沙との言葉のやり取りが途切れないように意識を集中しなおした。

 

 

―――――

 

 

 

 前半戦が終了して、対局室に残ったのは洋榎と明華の二人だった。前半後半の合間の休憩時間の過ごし方は基本的に自由であり、ホールの外に出ない限りは咎められることはない。とはいっても十五分程度のものであることを考えればやれることは限られてくる。したがって対局室から出ないままに試合再開を待つというのもよくある選択肢のひとつだった。

 

 洋榎はおしりの位置をすこし前にずらして、背もたれに思い切りしなだれかかるように座っている。疲れているようには見えない。むしろまだ体力が余っているのに強制的に休まされているといった退屈そうな表情を浮かべている。あるいは続けて打たせていたら彼女の調子がより上がっていたかもしれない。なにせ思い描いていた策を通しきったのだから。そういった点で見れば明華にもツキがあるのかもしれない。この休憩時間こそが彼女の待ち望んでいたものであった。

 

 「あの、ヒロエ。ひとついいでしょうか」

 

 「ん? なんや」

 

 つい、と言葉を差し向ける。ゴールデンウイークでの合宿で面通しは済んでいるし、準決勝でも卓を同じくしている。投げかけた言葉は自然なものだった。

 

 「歌を、歌ってもよろしいですか」

 

 「うちが聴いてもええんやったらかめへんけど」

 

 それだけ聞くと明華はにっこりと微笑んで、席から降りて雀卓からは少し離れた位置に立った。くるりと振り返って対局室の中央、雀卓のあるほうを向いて何度か足で床の調子を確かめる。果たして歌うのに床の具合が関係してくるのかは洋榎にはわからなかったが、とりあえず興味を引いたようでしばらく眺めてみることを彼女は決めたようだった。

 

 右手を胸へと持ってきて目を閉じ、すう、と明華は大きく息を取り込んだ。一瞬、上半身の、それも胸骨から肩の辺りにかけて膨らんだように見えて洋榎は自分の目を疑った。弾けるように開かれた口から放たれた声は圧力を持って押し寄せ、伴奏だとかそういった概念を吹き飛ばすほどの波は洋榎の鼓膜をかつてないほど震わせた。洋榎の頭に最初に浮かんだのは、透明なクジラだった。大きくて、やさしくて、きれいな存在感が力強くそこにあった。明華の歌声は決して太いものではなく、細いが力強い声という矛盾を成立させていた。

 

 メロディも言語も洋榎にはさっぱり聴きなれないもののようだったが、不思議と聴き入っている様子だった。明華の歌唱技術が高いことがあったのかもしれないし、この至近距離でオペラのような歌曲を聴いたのが初めてだったからかもしれない。

 

 

 「詳しいことはわからんけど立派なもんやったで。おひねりは持ってへんけど」

 

 「ふふ、ありがとうございます」

 

 やりきった表情に少し汗を滲ませて、雀明華は恭しくお辞儀をしてみせた。もちろん彼女は洋榎のために歌ったわけでも意味なく歌ったわけでもない。

 

 「ええなあ、それ。チョーシ上がるんやろ?」

 

 「やはりご存じでしたか、仰る通りですよ」

 

 楽しさと期待感を隠そうともせずに尋ねてくる洋榎に、明華は薄気味悪いものを覚える。ここが遊びの場ならばその反応もわからなくはないが、ここは団体戦決勝の場で、一番とそれ以外に分けられる決定的な場である。強い相手と打ちたいという願望は明華も持っているが、少なくともこの場で叶えたいとは思っていなかった。個人戦ならまだ残念なのは自分だけで済むが、団体戦はそうはいかない。チームを背負っている以上は一歩でも勝利に近づきたいと考えるのが自然であり、相手が調子を上げて喜ぶプレイヤーなどいていいはずがない。

 

 自負だ、と明華は確信する。愛宕洋榎は誰がどんな調子で出てきても制圧できると思っているのに違いない。もちろん彼女自身の傾向としての部分が大きいのだろうが、それを支えているのは思い込みや勘違いの混じらない純粋な自負だ。彼女には自分が崩れたらチームが崩壊するという恐怖はないのだろうか、と余計なことを考えずにはいられなかった。

 

 「な、それ対局の合間やったら反則ちゃうんやろ? なんで前半は歌わんかったん?」

 

 「中途半端に調子を上げたらヒロエに喰われると思ったからですよ」

 

 くく、と短く笑って洋榎はもういちど背もたれに思い切り寄りかかった。言葉があったわけではないが、指しているところはおそらく肯定だろう。正直なところ調子を上げた状態でも真正面からぶつかれば彼女に勝つ見込みは少ないだろうと明華は考えていた。卓を囲んで受ける印象はまるで違うが、絶望感とさえ呼びたくなるほどの感情を喚起する力の差はチームメイトである辻垣内智葉を思い出させた。しかしそんな相手が敵に回っているここで足を止めれば、より被害は甚大になるだろう。彼女は前に進まなければならなかった。今の明華を支えているのは、頼れる仲間が後ろに控えているという事実一つだけだった。

 

 決勝戦そのものが始まって三時間以上もの時間が経過していたが、場内にいる誰もがそのことに意識を回してはいなかった。時間などどうでもよいと考えているのではなく、時間の感覚そのものを失っていた。外で太陽が地球の周りを何周していようが月が公転周期を変えようが、そんなことは知ったことではなかった。それほどまでに出場選手の意識も観客の意識も集中していた。先鋒戦から続いていることを考えれば、疲れを感じている人が出ていないのが不思議なくらいだった。やがてそれらの意識の先に、退室していた渋谷と新子が帰ってきて、再開のブザーが鳴らされるのが待たれた。中堅戦後半戦が、始まった。

 

 

―――――

 

 

 

 渋谷尭深を除けば、後半戦の展開に望むことは他の三人で一致していた。連荘をしないことだ。もしも連荘を重ねることを選ぶのならば、役満に対抗できるほどの成果を出さなければならない。それは単純に自分の得点を伸ばすことだけではなく、渋谷が役満を和了る前に彼女の点数を32000以上削ることを指している。達成できないのなら控えるべきだろう。中堅戦開始時よりは削られたとはいえ未だにトップに立っている白糸台をさらに逃がすことに意味があるとは思えない。

 

 いかに調子を上げた明華とはいえ、その論理からは離れられそうもなかった。出親である彼女は初めから我慢を強要される。渋谷尭深を不利に追い込むためには親番を我慢しなければならない。これもまた彼女の異能の気付かれにくい利点のひとつだった。

 

 後半戦の東一局において明華のやるべきことは決まっている。阿知賀の新子に和了らせることだ。現時点でやってはいけないことを順番に挙げていけばその結論は簡単に導かれる。まず連荘になってしまうため明華自身は和了れない。トップを走る白糸台に和了らせるわけにもいかないし、姫松はもってのほかだ。卓のレベルを考えれば流局というのは考えにくく、であれば他を封じつつ阿知賀を和了らせる以外に道はない。自身が和了を目指すよりもはるかに難しい目標を前にして、明華は奇妙なおかしさを感じて笑みをこぼしそうになった。

 

 ( そっくりそのままヒロエがやっていたことではないですか! )

 

 明華を除く全員が全力で牌を倒しにいく理由がある中で、それらを制御するというのは至難であった。それぞれの意図を読み手を読み、またそれぞれが他家の手に対してどれだけの推測を立てているのかまでを確と見抜かなければならない。未曽有の情報量に脳の回路が焼き切れそうになる。しかし雀明華も一流の雀士だった。未体験の情報の処理の仕方であったはずなのに迅速かつ的確にそれらを選り分け、ついには愛宕洋榎を攻めの状態から一歩退かせることに成功した。

 

 新子が渋谷から直取りした2000点は、直接点数の動いていない明華と洋榎の間での勝敗にもなっていた。これまで思い通りにタクトを振るっていた存在に、ついに牙が突き立てられた。若くして世界ランキングに名を連ねているのは伊達ではないということだ。新子が和了ったときの洋榎のきょとんとした顔が、明華が読みを通しきったことを如実に告げていた。

 

 次の親番が来るまでは明華は自由に和了を目指せる身となった。しかし実態としてはそこで和了らなければならないと言い換えても何ら問題のないものであった。当然ながら勝利を目的として。重たい道だが今の局が達成可能であることを示している。勝てる可能性のある相手から逃げる必要などどこにもない。まして個人としては現時点で圧倒的な差をつけられているのだ。ここで後ろへ退けば失われるものがある。まだ十代の半ばを過ぎた辺りだというのに、あるいは()()()()()なのかもしれない、明華は雀士として前のめりにならなければならなかった。

 

 ギアをトップに持ってきた明華の手が悪くなろうはずもなく、配牌時点で二向聴の攻撃的なものだった。育て方を間違わなければ満貫までは持って行けるだろう。それに他家を膨大な情報処理の果ての捨牌で抑え込むことに成功したのだから、同じ手法を採っている洋榎のやり方に引っかかる可能性はぐんと下がったはずだ。もう和了ったとしても二翻が限界などという屈辱的な状況に戻るつもりは明華には毛頭なかった。差があるとすればせいぜいその道での経験の差くらいしかない。それを大きいものと見る向きもあるかもしれないが、だからといってそれを言い訳にしていられる場ではないのだ。

 

 

 初めは何かの勘違いだろうと思っていたものが、七巡目にはっきりと意識に上ってきた。まるでコールタールが手の平にべったりとくっついているかのように一部の牌が手から離れなくなった。隠さずに言うなら、絶対に切れない牌が生まれてしまった。動かそうとすればぎしぎしと手が軋むような気さえした。先ほどまでの感覚とは重さがまったくと言っていいほど違う。“切りたくない” なんて甘いものではない。“切ってはならない” 牌なのだ。この違いがどこから来るのかがまったくわからなかった明華は、いま進行している局とそれ以前のものを比べてみることにした。

 

 結論から言って、違いなどどこにもなかった。

 

 決勝戦の東一局から、あるいは準決勝からそうだったのかもしれない、愛宕洋榎はまったく同じ濃度で対局を進めていた。特定の牌に対する他家の危険度の認識を操作することで他家そのものを操っていた彼女は、手が震えるほどの恐怖をおそらく叩き込み続けていたのだ。どうして今になって明華がそれに気付くことができたのかと問われれば、それは彼女がやっと愛宕洋榎のステージに手をかけたからに他ならない。その年の高校生の最高峰が集うこのインターハイにおいて、彼女の技術は異次元にあった。プロやそれに準ずる実力者たち()()が彼女を宮永照に対抗し得る存在だと呼んだのには理由がある。一定のレベルになければ理解が及ばないところに彼女はいたのだ。

 

 初めて直視した世代を代表するプレイヤーのほんとうの姿は、明華の想像を超えて凶悪なものだった。もはや蠢く黒い線のカタマリがヒトの形状を成しているようにさえ見える。比喩でもなんでもなく、彼女は化生の類だ。明華はそう思わずにはいられなかった。

 

 “切ってはならない” 四筒は明華にとっては切らなければ先に進めない重要なものだった。和了りにいくなら、勝ちにいくならどうしたって邪魔になる牌だ。ただ、それが致命的なまでの危険信号を発している。切れば突き刺さるぞと彼女の打牌が主張している。これまでの愛宕洋榎との対局で何度も感じてきたよくない何かが、何倍にも濃くなって警鐘を鳴らす。捨てなければ前へ進めない。捨てれば撃ち落とされる。いつからか明華の手は震えている。この四筒が通れば。この四筒が当たってしまったら。明華の長考は二十秒にも及び、そしてついに結論を出した。

 

 捨てられたのは、北だった。

 

 黒い線のカタマリが、どくんと跳ねた気がした。それだけで明華は強制的に降ろされ、東二局において敗北したことを察することができた。四筒は、本当は通ったのだ。手を崩すことを余儀なくされた明華がなんとか立て直そうとしている間に彼女はぐいぐいと手を進め、そして結局は満貫を和了ってしまった。

 

 

 何より辛かったのは脅威を知覚してしまったことだった。知ることは重要なことだが、この場合においてはむしろ気付かないままに打ち進めていたほうが伸びやかに打てていたことだろう。しかしそれでも明華が強い意志を持ち続けていられたのには、ひとつの新しい根拠が生まれたことが関係していた。たしかに彼女は絶対的に見える力を持ってはいるが、そのまま絶対の存在ではない。たとえば前半戦オーラスの渋谷による役満和了を止めることはできなかったように、たとえばついさっき明華自身が彼女を降ろすことに成功したように。

 

 幸いなことに後半戦では洋榎も連荘をするつもりはないようで、そのことはわずかにでも点数を稼いでおきたい明華にとってはっきりと有利に働いた。彼女がこの東三局で息を潜めるのならば、この場は明華のものだ。それを証明するかのように明華は渋谷から直撃を奪って和了ってみせた。手こそ伸ばしきれずに終わってしまったものの、この和了には弾みになりそうな感触があった。

 

 続く局が明華にとって試金石だった。もちろん手を尽くして和了りを狙うだろう洋榎と、彼女の正体を知った上で戦うことを決意した明華とがぶつかる最初の局だからだ。ここを取ることができれば勝ち負けのレベルまで持っていける。相も変わらず彼女は自分が和了れないのなら他家を二翻以下の和了で収めるような打ち回しをして、また実際にそれを成功させていたが、明華が打ち破らねばならないのはこの部分にあった。そこから脱出できない限りは洋榎の支配から抜け出せていないことになる。三翻以上で和了ることが何よりも肝要だった。

 

 その熱に応えるように配牌は十分に明華を前向きにさせるものだったし、頼りにしている自風もきちんと手には入っていた。ここから彼女の読みと意図を超えて叩き伏せる。条件としては上々のものであり、だからこそ余計に明華には気合が入っていた。明華にはまだ彼女のことが蠢く黒い線のカタマリに見えているが、逆にそのほうが今はありがたかった。怯えを認識することができて、冷静になることの重要性をすぐに思い出させてくれる。落ち着け、と小さく明華は呟いた。

 

 

 

 

 

 

 




色々気になる方のためのカンタン点数推移


        南四局開始時   後半戦開始時   東三局終了時

雀 明華   → 一一八一〇〇 → 一一〇一〇〇 → 一一〇七〇〇

渋谷 尭深  → 一〇七五〇〇 → 一三九五〇〇 → 一三〇九〇〇

愛宕 洋榎  → 一一三八〇〇 → 一〇五八〇〇 → 一一三八〇〇

新子 憧   →  六〇六〇〇 →  四四六〇〇 →  四四六〇〇

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