姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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68 判定は照れ隠し

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 「なァ」

 

 「なんや」

 

 午前九時ちょうどの開場を目前に廊下を駆け回る姫松生を横目に見ながら、借り切った大会議室の入口で拳児がいつものように不機嫌そうに声をかける。慣れたもので恭子もそれに特別な意識を向けることなく返す。二人の座っている座席には、受付と大きく書かれた紙が貼りつけてあった。

 

 「ナンで俺がこんなトコに座ってなきゃなんねえんだ?」

 

 「客引きや客引き。自分の知名度考えや」

 

 「別に俺じゃなくていーだろが。クラスにゃ愛宕も真瀬もいんだろ」

 

 心底迷惑そうに拳児は反論を試みる。しかし拳児が恭子に論戦を挑んだところでどうやったって勝てないだろうことは誰の目にも明らかだった。思えば三年生が、もちろんそれはクラスメイトか元麻雀部員に限定される、誰も拳児に怯えなくなっていることに拳児も気付いていなかった。ひょっとしたら彼が裏プロだという噂をいつの間にか意識せずに接するようになったのかもしれない。もしそうであるとするならば、きっと拳児も転入当初よりもずいぶんとこの学校に馴染んだということなのだろう。

 

 「由子がめっちゃ働いてたん知らんとは言わせんで。そんな子にまだ仕事させる言うんか」

 

 そもそもが有能でありスポーツ以外なんでもござれの由子は、この文化祭の準備においてもその万能ぶりを如何なく発揮した。小物の作成に始まって、最終的には下校時刻を過ぎての居残り作業をしていたクラスメイトに家庭科室を借りて差し入れを作ってきてくれたほどである。もちろんそのとき意に反して残されていた拳児もお世話になっている。ちなみにクラスの男子どもには、それ以降の作業能率が見違えるように上がったという確かめようのない噂が立っている。

 

 「ぐっ、な、なら愛宕は」

 

 「ここに置いて何も起こさん思うんか」

 

 彼女の名誉のために触れておくが、決して愛宕洋榎という少女が受付を担当できないというわけではない。事実として彼女は部の主将として、インターハイの最中もそれ以外の場面でもチームを率いてきたという実績がある。彼女にしかできないやり方でチームを鼓舞し、及ばないところは仲間と協力して切り抜けてきた。部を牽引する存在として得難い個性であったことに間違いはない。ただ、高校生としての彼女は仲の良い友達にはガンガン甘えるし、楽しそうと見るやすぐにふざける。もし恭子のとなりに彼女を置いたとすれば、おそらくはなんらかの事態を引き起こすだろう。

 

 拳児も拳児で彼女の名前を出す際に言葉に詰まっているところを見れば、恭子からの返しにおおよその見当をつけていただろうことが読み取れる。失礼な話ではあるが、ガテン系の作業に関しては高い技術を有する拳児からすれば、不幸が重なったとはいえ大小を問わずにこしらえ物を壊して回った愛宕洋榎が何もしないとは到底思えないのであった。

 

 「……チッ、そもそもよ、俺ァ客引きに向いてねーんじゃねーのか」

 

 「変に絡まんのやったら座っとるだけで十分や。テキトーに挨拶とか相槌くらい打てるやろ」

 

 期待されているのはその程度であって、まさか彼に愛想よく振る舞ってもらおうなどとは恭子も考えていない。というか拳児が対外的に受け入れられる対応をしたところで気味が悪いだけで、その辺りの認識は3-2のあいだでは一致している。あるいは拳児をテレビで見たことがあるという人も同じ認識を持っているかもしれない。インタビューの際にふてぶてしい態度であったことは、それらの映像を見ていた人々の記憶に新しい。

 

 つまるところ座っているだけのラクな作業とはいえある種の見世物になるのが拳児に任じられた仕事であって、となれば彼でなくともあまり気分のいいものではないだろう。たしかに好奇の視線を長らく受け続けてはきたが、すくなくとも自分からその立ち位置に身を置いた記憶は彼にはない。想い人のいない高校生活とはこんなにも疲れるものなのか、と短く息を吐いた。

 

 この日、拳児は “播磨拳児” という名前がどういう意味を持つのかを初めて知ることになる。

 

 

 開場の、普段ならば授業開始のものだ、チャイムが鳴って各クラスが来客に備える。人気を集める出店こそ実行委員会により数の制限を受けているが、それ以外の出し物もバリエーション豊かに校門に置かれているパンフレットに記載されている。所詮は高校生の文化祭とはいえノリと気合でどうにでも楽しめるのだから捨てたものではない。

 

 目の前に群がる人、そして人。一年前までは外を歩けば避けるように足早に通り過ぎていくだけだったはずの存在が、いまは歩く速度を変えないどころかむしろ一様に立ち止まりさえしている。群集心理とは面白いもので、大勢で取り囲んでしまえば当の人物が暴れださない限りは、場合によっては暴れだしたとしても勝手に精神的に優位に立ってしまう。立ち止まってしげしげと眺める、手を振る、気軽に声をかける、果ては許可なくスマートフォンで撮影までする始末だ。拳児はいま起きている状況をほとんど理解できていない。なぜ、という単語だけが頭の中に浮かんで、それに続く言葉がまったく出てこない。若干ではあるが恭子の顔もこわばっている。

 

 理由など単純だ。播磨拳児がいまだもって時の人であるというその一事で事足りる。要素に分解するならば、まず高校生の身にあって名門の監督に就任しそのまま全国優勝をかっさらったという最大のポイントに加え、どうあっても目を引くその容姿ならびに言動から見え隠れする秘密など、細かいものまで含めれば枚挙に暇がない。そんな彼を文化祭に行くだけで見ることができるというのだから、世間からすればこれを放っておく手はないだろう。現に淡による (間違った情報の) 暴露のブーストもあって、ただ隣に座っているだけの恭子にまで飛び火している。もう二組の出し物であるお化け屋敷など拳児を見るおまけになりそうな気さえしてくる。ちなみに拳児と同じクラスで半年も過ごしてきた二組の面々がこの事態を想定していないわけがなく、拳児で釣ってマジビビリさせて帰すという伝説を打ち立てたりするのだがそれはまた別のお話である。

 

 「あっ、ひょっとして隣の彼女がウワサの……?」

 

 知らない顔が入れ替わり立ち替わり同じようなセリフを口にしていくのに対応するのが、拳児はどこまでも面倒なことに感じられた。ひどい時には本人の返答を待たずに言うだけ言って先へ進んでいく者まであった。一方的に納得をして、勝手に応援したり幸せを祈っては満足して立ち去っていく。どれだけ否定しようが勘違いだと説明したところで照れ隠しだの何だのと言って話題を自分のグループに持ち帰っては盛り上がるのだから手の打ちようがない。面倒ごとには関わらないと決めたのか恭子が機械的に受付の業務をこなしている隣で、これまでまったく見たことのないレベルで拳児が苛立ち始めた。

 

 意中の女子といっしょにいるだけで舞い上がるほどの純情ぶりと喧嘩っ早い不良の側面を同時に持ち合わせるという誰も知らない驚異的な二面性を有する播磨拳児は、だからこそこの状況を適当に流すことができなかった。彼にとって女子といえば塚本天満のみを指し、それ以外はそういう対象ではありえない。もちろんこれはたとえば姫松の麻雀部員たちが悪いというわけではなく、拳児自身も彼女たちのことを悪く思っているわけではない。活動に対する応援であるとか、あるいはさまざまな意味において感謝している部分もある。ただ、まだ高校生の純情な少年が間違った認識に基づいてからかわれ続けたとすれば、その反応を想像するのは難しいことではないだろう。

 

 がたん、とわかりやすく大きな音を立てて立ち上がり、あからさまに不機嫌な様子で拳児が歩き出した。人垣がまるで指示を与えられたようにきれいに割れる。彼が長身ということも相まってひときわその姿は目立つものだった。声を発するものはひとりもいない。これまでテレビ、あるいはクラスを隔てた存在であった播磨拳児が本当に修羅場を潜り抜けてきたことがその雰囲気だけで読み取れた。複数の意味で信じられない人生を送ってきているのだ、ひとたび本気で機嫌を損ねれば冗談ではなく一般高校生の手に負えない存在になるのは当然だろう。

 

 隣で機械的に受付業務を担当していた恭子でさえ目を丸くして去っていく拳児の背中を見つめていた。その場にいた誰もがお化け屋敷に入ろうとはしていなかったから、クラスの出し物の運営としてはとくに問題はなかった。しかしこれは本格的にまずいことをしてしまったのではないかという思いが恭子をかすめた。これまでもなにかあるたびに恭子に対して小さな文句ばかり言っていたのは事実だが、それ以上のことに発展したことはない。しかし今回のことが “それ以上のこと” になっているのはもはや疑いの余地のないことで、周囲の客も気まずそうに視線を移動させるだけで黙りこくってしまっている。拳児のあとを今すぐ追うわけにはいかない恭子は、いったんそのことを脇に置いてこの場の空気をもとに戻すべく動き始めた。

 

 

―――――

 

 

 

 両手をポケットに突っ込んでずかずかと歩く。いつもの廊下に比べて驚くほど人が多いがまるで気にすることなく真ん中を突っ切る。ときおり呼びかけるような声が聞こえてくるがそれに反応は示さない。パンフレットに記載された出し物の多くが校舎内にある以上、校舎内が人でごった返すのは自明である。もちろん使用されていない教室もあるにはあるが、そこには鍵がかかっている。したがって拳児はわずかにでも安息を求めるために、最悪でも校舎を出ようと足を動かしていた。学校から出てしまえるのなら御の字だが、さすがにその辺りは教師陣が張っていそうだ。とすると落としどころは校庭だろうか、と頭を働かせながらまたひとつ息をつく。

 

 拳児の感覚からすれば、根本的におかしいのだ。誰が誰を好こうが嫌おうがそんなことは当人の問題であって、外部が口を出すことそのものの理解に苦しむ。拳児のなかにそんな言葉が存在しているかどうかは知らないが、デリカシーがはじめて彼の問題として姿を現したのである。

 

 普段の拳児を知っているかどうかをまったく無視して、彼の様子はその不機嫌さを十分すぎるほどに伝えるものだった。いかつい歩き方をしているのには間違いがないのだが、いくらなんでもそれだけで彼の行こうとする道の先が自然と開けていくことに説明をつけるのは難しいだろう。その姿を目にしたものはあからさまに身を引き、話しながら歩いていて視線がよそを向いている友人がいれば避けるように腕を引いた。苛立っている拳児はそれを見てすら何も思わない。

 

 そうやって拳児を避ける人ごみの中に部員が紛れていたところで不思議はないだろう。

 

 

 のしのしと歩いて一瞬の沈黙を強制する背中を見送って、はてと首を傾げる少女の姿があった。先輩から聞いたところによるとすくなくとも今の時間、午前いっぱいだ、は受付にいるはずなのにどうしたことだろう、とふたつに提げた黒髪と額が特徴的な少女は疑問を進める。本来いるべき場所におらずに階段を降りていったということ、それを追いかける人がいないこと。それと見た限りでは機嫌が悪かったということ。漫は拳児をけっこうからかってきたという自覚があるが、怒ったところを見たことはない。そう考えるとよほどのことがあったのではないかと推測されるのだが、さてそうなると見当がつかないので首を傾げざるを得なくなるのだ。

 

 現時点でクラスの仕事がなく自由時間をもらっている漫は、初めから向かうつもりだった3-2のスペースである大会議室へと急ぐことにした。

 

 大会議室の近辺はとりあえず播磨拳児を一目見ようと集まってきた人たちと、やたらクオリティが高いお化け屋敷があるという噂につられてやってきた人たちとでごった返していた。それでも拳児本人がいたときよりはマシになってはいるのだが、それを知らない漫の感想は、大変そう、の一言に尽きた。とはいえ敬愛する先輩に挨拶に来たのであって、人ごみにリアクションを取るために来たわけではない。事前に聞いていた受付のところへどうにかこうにか人垣を抜けて顔を出した。二人掛けの受付に座っているのは恭子ひとりだ。

 

 「やっぱり! 末原先輩、播磨先輩いったいどうしたんです?」

 

 仕事もあるためにおおっぴらに長話もできない恭子は、自分の隣の空いている席を指して言外に座るように指示を出した。本来なら漫はこの受付席に何らの関係もないのだが、この場は文化祭であるので別に誰が注意をするということもない。とある事情があって漫は客への対応というものに慣れているため、恭子の動きを見て流れを確認してからは自然なかたちで手伝うことにした。

 

 そうしてある程度の時間が経って拳児が受付にいないという噂が全体に浸透すると、受付業務もようやく落ち着きを見せ始めた。つまり二人に話をする余裕ができてきたということだ。

 

 「漫ちゃん、助かったわ。ホンマありがとな」

 

 ふう、と恭子は長めに息をついた。実際問題として拳児の (いないにもかかわらず) 集客能力は半端なものではなく、あるいは開場前に諭した自分ですらそれを見誤っていたのかもしれない、と恭子に思わせるほどだった。

 

 「……階段近くで播磨先輩ちらっと見ましたけど、なんで脱走してるんです?」

 

 ここで “どうして怒っていたのか” を直接尋ねるほど漫は野暮ではない。

 

 「私のミスやな、文化祭で舞い上がってたいうてもヒドいことしたわ」

 

 「えっ、何かしてもうたんですか」

 

 「受付に置いといただけやけど、恋人の話で囃されまくったらそら播磨でもアタマくるわな」

 

 「あー、そういうことですか……」

 

 根本的な部分で勘違いが起きてはいるが、大雑把な理由としては間違っていない。ある意味では理由が間違っていないこと自体こそ面倒を引き起こす原因になりかねないのだが、当然ながら誰もそれにたどり着くことはできない。どちらかといえば恋人を喪ったという悲しみからの立ち直りという意味も含めてシリアス寄りかつ間違った方向に捉えている部員勢と、ただ一途であり続ける拳児のあいだには、決定的な違いがある。

 

 「いくら監督いうてもせいぜい同い年やいうこと忘れてたわ」

 

 「よう考えなくても同じ教室に播磨先輩いるんですもんね、想像しにくいですけど」

 

 3-2の面々からすればもう馴染んではいるものの、たしかに他のクラスや下の学年から見れば拳児が席について授業を受けているさまなどイメージしにくいに違いない。馴染んだとは認識しているクラスメイトの多くがいまだに似合わない、と思うほどには教室という場所は播磨拳児にそぐわない。いっそのこと授業中にマンガでも読み始めてくれたほうが絵としてはしっくりくるくらいなのだ。

 

 「謝るんは決まりやけど、どーしょかな。わりとマジっぽい感じやったしなぁ……」

 

 「マジっぽいてどないなったんですか」

 

 「なんも言わずにガタン、て席立って行ったパターンやな。見たことある?」

 

 「うわー、見たことないですそんなの。マジっぽいですね」

 

 重そうなため息をついた恭子の隣で漫の顔が引きつった。すくなくとも部員たちの前では本当に怒ったところを見せたことのない監督が、どうやら今度は本当に怒ったらしい。階段をのしのしと降りていった後ろ姿がはっきりと思い出される。どれだけ甘く見積もっても気にしていないということはあり得ないだろう。この場や恭子の様子を見る限りここで暴れたということはなさそうだが、よそでどうなっているかは軽々しく断定はできなさそうだった。いまだ知れない部分がほとんどを占める上に持っている背景が背景だ、それこそ何が起こるかわかったものではない。

 

 3-2のお化け屋敷は多少はマシになったとはいえ客足が途絶えたというわけでもなく、加えてどちらも拳児に関することで実りのあることが話せるわけでもなかったために自然と二人の口数は減っていった。わからないものへの対策など取りようがない。きちんと謝ることだけは外せないが、その上で拳児がどんな対応をするのかはまったく別の話である。場合によってはその前段階から難しいことになっている可能性も恭子には否定できなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 自分のクラスでの仕事の時間が来たという漫と途中で別れ、担当の時間が終わって恭子が最初に取り掛かったのは、あまり人の立ち入らないスポットを見て回ることだった。拳児が単独行動を取りたがることはよく知られた話である。昼休みにはいつも一人になるために屋上に行くことなど逆に学校中に知れ渡っているほどだ。しかし文化祭が行われているなかで一人になれる場所などほとんど限られており、恭子もはじめはすぐに見つかるだろうとタカをくくっていたのだが、捜し方が悪かったのか思い当たるところをすべて見回っても目的の人物の姿は影も形も見当たらなかった。

 

 あまり締まらないので手段としては選びたくなかったものだが、背に腹は代えられない。自分の落ち度で人を怒らせておいて何もしないなどというのはあってはならないことである。他人にわざわざ聞かせるような話でもないということもあって、恭子も人気のないところへ移動してスマートフォンを手にとった。

 

 友人に掛けるのとはまるで違う緊張のなかでコールする。呼び出し音が二回だけ鳴った。

 

 「オウ、俺だ」

 

 「あ、えっと、播磨? いまどこ?」

 

 「……末原か、どこでもいーだろが」

 

 「えーと、その、用があってな?」

 

 あからさまに面倒だと言わんばかりの舌打ちが耳元で響いた。電話の向こうの拳児には見えないだろうが、恭子の顔色が変わっていく。

 

 「用なら電話で足りんだろ、いちいち顔合わせるまでもねえ」

 

 恭子の顔が青ざめていく。どう好意的に捉えても、顔も見たくない、と言われているに等しい。状況はすべて恭子の考えを後押ししていた。決して特別な好意を持っているわけではないにせよ、人から拒絶されるというのは堪えるものである。もちろんそれも高校生という身において重要なことだが、それ以前に恭子は人としての礼儀を通そうとしているのだから簡単に引き下がるわけにはいかなかった。

 

 舌の付け根がこわばるのがはっきりとわかった。喉の奥にはひりつくような感覚がある。恭子の語勢はいつもと比べるまでもなく弱まっていた。いまは声が震えないようにするのが精一杯だ。

 

 「わ、私としてはできるだけ直に話しておきたいんやけど」

 

 「なんだ、直接じゃねえと都合悪いのか?」

 

 「……大筋では」

 

 「オイ末原、何が言いてえのかさっぱりわかんねえぞ」

 

 拳児の声がすべて圧力を持って発されているような気さえした。すべてに対して否定を唱えているように思われた。言うことを聞かない喉から必死に声を絞り出す。

 

 「あっ、あ……」

 

 「あ?」

 

 「……謝るんやったら、直接やないとダメやろ」

 

 「どういうことだ?」

 

 「だから! アタマ下げるんやったら面と向かわんと礼儀も何もないやろ!」

 

 「ナンでオメーが俺に謝んだ?」

 

 まるで想定していなかった一言に、恭子の思考は停止した。どうやっても話の筋道が通らない。恭子の頭はただただ混乱に巻き込まれていく。先ほどまでとは違った意味で言葉に詰まる。

 

 「いや、だって、その、さっき播磨が怒ったん私のせいやし」

 

 「ありゃ口やかましいバカが大勢いたからだ」

 

 「でっ、でも、受付に置かんようにしとったらあないならんかったやろ」

 

 「バカ言え、どこ歩いても大差ねーよ」

 

 膨らみすぎたビニール袋に穴が開けられて、ぷしゅう、と音を立てて空気が抜けていくような感覚が恭子の頭に残った。つまるところ思い込みが過ぎて、勝手に拳児が自分に対して怒りを抱いているということにしてしまっていたのだ。その前提を作り上げたからこそ電話を掛けるのにも緊張し、話が始まれば怯え、断られたらどうしようとひたすら弱気な思考が頭を巡っていた。思い出してみれば拳児はもともと不器用な話し方をする人物なのであって、普段の口調とこのたびの会話での口調に差はないと言っていい。恭子はなんだかこれまでの自分が急に恥ずかしくなってきた。

 

 空気が抜けるや今度は頬に熱が集まる。力の限り叫ぶなり携帯を叩き壊すなりしたかったが、そうすることに意味はない。先ほどまでのこわばっていた体とは反対に力の入らなくなった体を壁に預け、恭子は安堵のため息をついた。

 

 「怒ってないって聞いて安心したけど、こういうのはきちんとせなな。本当にごめんな」

 

 「いやアタマにゃ来てんだよ、オメーが関係ねーってだけで」

 

 いつもの拳児の調子というものを感触として思い出したことで、恭子もいつもの頭の回転を取り戻した。たしかに落ち度は彼女にあったし勝手に思い込んで先走った判断をしたのも彼女だ。しかし喉元過ぎればなんとやら、というやつで必要以上に気にしている様子は見受けられなかった。

 

 「それにしても意外やったんやけど」

 

 「何がだ」

 

 「播磨ってああいうとき暴れたりしないんやなー、って」

 

 「そういうワケにもいかねーだろが」

 

 拳児からしてみれば当然のことである。もしも暴れて卒業に響くようなことがあればこの環境に身を置く手配をしてくれた従姉との約束を破ることになる上に、卒業と同時にアメリカへ発つというプランが崩壊することになる。彼の想い人たる塚本天満に会えなくなるのではこの姫松にいる意味がなくなると言っても過言ではないのだ。

 

 既にアメリカに行く宣言は進路調査票で済ませてあるもののどうしてかクラスメイトには冗談として認識されているために、恭子がその拳児の計画に言及するわけがない。となれば自然、拳児の現在のポジションである監督という立場に絡めて思考を進めていくことになる。その基準となる拳児の監督としての評価は、もちろん彼の実力を別にして、インハイ優勝という最高レベルのものであることを忘れてはいけない。

 

 ( ……そっか、いくらなんでも監督が暴れたりしたらシャレならんもんな )

 

 「部のために我慢してくれた、いうことか」

 

 「……は? いや違げーけど」

 

 まったく部のことなど考えていなかった拳児は、恭子の言葉を理解するのに手間取って、返事をするのに多少の時間がかかってしまった。拳児が考えるために使ったその時間を電話の向こうの相手がそのままの意味で捉えてくれるわけがないなんてことは、彼にわかるわけがなかった。

 

 

 

 

 

 




諸事情ありまして、今後は更新がさらに不安定になります。
大変申し訳ありません。ですがもしよろしければ変わらぬお付き合いをいただきたいと思います。

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