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「サトハー、ちょっといい?」
外国人留学生が多数派を占めるこの臨海女子麻雀部 (智葉からすれば問題児集団と読む) を新たに引っ張っていくことになった新部長に挨拶を済ませると、すこし距離のあるところから聞きなれた感じで声をかけられた。これからどうしたものかと考えていたところでもあったから、彼女にとっては渡りに船、といったやつだ。
声の調子から急ぎであるようにも思えなかったこともあって、智葉は焦ることなく声の主であるアレクサンドラのもとへと向かった。当のアレクサンドラも椅子に腰かけて、のんびりと部室全体に目を配っている。しっかりと二年半過ごしてきた智葉だからわかることだが、この空間は指導を受けるというよりは実戦で牙を研いでいく空間だ。部としての方針や実績もあって未経験者が入ってくることはまずなく、したがってアレクサンドラが指導に回ることもそうそうない。
「なんでしょう」
「ん、今日の動きについて話してなかったなと思ってね」
言われてみればそのとおりだ。いったんは挨拶だけを済ませて場を辞したのだから当然だろう。とはいえ播磨拳児が控えていたのだから仕方のないことでもあって、言ってみればここまでの流れは初めから決まっていたものだったのかもしれない。それとは別に自分を呼んだのには、部として何らかの理由があるのだろうし、とりあえず智葉は立ったまま意識の上で背筋を正した。
「今日はさ、サトハに播磨少年についてもらおうかなって思ってて」
「……は?」
「まあ合宿の経験もあるから彼も練習の具合とかある程度わかってるとは思うんだけどね」
「それなら私がつく必要もないでしょう」
てっきり練習相手として呼ばれたものだと思っていた智葉の返答はかなりトゲのあるものになっていた。すくなくとも部の監督に対する言葉遣いでないのは明白だ。ただ国民性の違いかもともと持っている気質のせいか、アレクサンドラはそれについては何も思ってはいないようだった。あるいは自由に振る舞う部員たちと比べれば何でもないことなのかもしれない。ぼんやりと視線を中空にさまよわせて次にどんな言葉を選ぶべきかを悩んでいるように智葉には見えた。
会話の進行が途切れたこともあって、智葉は話題に上がった当の拳児を不意に探してしまった。ちょうど肩から提げていた荷物を部屋の隅に置き終えてその辺の卓に移動しようとしているところだった。ちなみにちょっかいを出しに行ったネリーが近くをちょろちょろと動き回っている。正直どうでもいいことではあったが、拳児の荷物の中身がまったくイメージできないことが智葉の気にかかった。カバンそのものは小さいというわけではない。意外な趣味でも抱えているのだろうか、と考えたところでアレクサンドラの声が智葉を現実に引き戻した。
「さすがにぶっつけでうちの子たちの戦い方を理解するのはしんどいでしょ?」
「ですがアイツの目は」
「それは知ってる。でも人数を考えてあげるといい、効率にも差が出るし」
伊達にこの臨海女子の監督を務めていない、と智葉は心のなかで嘆息した。あのインターハイの蕎麦屋での彼の言葉を信じるなら、拳児が自身のスペックについて語ったのは自分に対してだけだ。それをいつの間にか把握しているということは内容こそわからないがそれなりのアクションを取ったということであり、また同時に彼に対して何らかの違和感を抱いたということの証左でもある。ここまで言われてしまえばこれ以上の反抗はただの子供じみたわがままでしかない。それを悟った彼女は了承の意を伝えて身を翻した。
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「ねえケンジ、今日は何しにきたの?」
「何しに、っつってもな……。いちおう監督として呼ばれたんだから指導とかじゃねーの」
本来なら彼の口からは出てこないような返答がなされたのには理由がある。実は姫松の監督になりたての頃とは状況が変わって、拳児は明確に監督としての立場を守らなくてはならなくなったのである。だからこそ拳児は秋以降もサボることなく部に顔を出したし、郁乃から出された新レギュラーを考えるという宿題にも時間を割いていた。全国優勝をするまでは気付いていなかったのだが、箔というものはその価値をキープしてこそ意味を成すものであり、もし今それを崩してしまえば播磨拳児はただの嘘つきチンピラになってしまいかねない。むしろ拳児の戦いが始まったのは大会が終わってからのことだった。最高にかっこいい播磨拳児を保ったまま愛する塚本天満に会いに行かねばこれまでの生活のすべてが水泡に帰すということを拳児ただひとりだけが理解していた。
したがって拳児はもう “バレてもいいや” という思考のもとで行動することができなくなっている。彼が最も苦手とする隠し事をしながらの生活が始まっていたのだ。校舎に入る前の段階で智葉からどうして断らなかったのかとさんざん聞かれたが、できれば拳児も嘘が露見する可能性のあることは避けたかったというのが本当のところだった。ならばなぜ来てしまったのかと問われれば、それが
「なんだ、遊びに来たんじゃないの?」
「んなコトのためにこっちにゃ来ねーよ」
「まあいいや、ネリーたちのとこおいでよ」
言うだけ言って弾むような足取りで彼女が向かった先には、臨海女子の中でも印象に残った顔が揃っていた。ついさっきまで一緒にいた辻垣内智葉を合わせて考えれば団体メンバー勢ぞろいというやつで、姫松の人間としての印象から言えばずいぶん苦労させてくれた相手だ。実際に個々人がどう思っているかまでは拳児は知らないが、全体としての印象はそういうことになる。とはいえ合宿をともに行った間柄でもあり、年がら年中敵対しているわけでもない関係上、その辺りのことをあまり気にせずに拳児はネリーのあとをついていった。
拳児の感じた違和感は、むしろ異物として扱われないことだった。悲しい話だが今ではホームである姫松でさえもともとそんな扱いを受けてきた彼からすると、この歓迎に近い彼女たちの対応はまったく身に馴染まないものだった。唯一あるべき反応をしてくれたのは道中で質問攻めにしてくれた智葉だけである。もちろん大阪からやってきた他校の監督に対して敵対的な態度を取るというのは失礼極まりないもので、あってはならないことだ。ただそのことを別にしても果たして文化の違いや校風と言われて納得できるかと聞かれれば素直には頷きづらいだろう。
すでに郝、明華、メグ、ネリーに対してそれぞれがぶつかった姫松の面子の話を尋ねられたから話をしておいてはみたものの、やはり違和感は拭えない。ある種の雑談といえば雑談なのだから当たり前とも言えるが、先の話題が彼女たちの本筋であるようにはどうしても思えなかった。会話をしているときのテンションなどは拳児の記憶に残っている合宿時のものと差がないように思われるのだが、どこかが違うような気がする。確信を持てない上にどう問いただせばよいのかもわからないため、結局のところ拳児は黙ることを選択せざるを得なかった。
「ところで播磨クン、来るときサトハと一緒みたいでしたケド、何話してたんでスカ?」
「ああ? 別に面白れーハナシはしてねーよ、なんで来たのかずっと聞かれてた」
「……サトハもソートー奥手でスネ」
ちいさなため息とともに呟かれたメグの言葉は拳児の耳には届かなかった。一瞬だけ奇妙な間が空いて、それを拒むようにネリーがふいと視線を別のところへ投げた。どうやらあまり落ち着きのあるタイプではないらしい。たしか年齢で言えば郝と同じだったはずだが、高校一年生にもなるとずいぶんと成長に差が出るようだと拳児は感心していた。自身もかなり偏った成長をしていることには当然気付かない。投げた視線の先にネリーがうれしそうに声をかけた。
「サトハ! またこっちに来てくれたの!?」
「今度は監督の指示だよ。まあ、お前らというよりは播磨なんだが」
「おや、いっしょに何かするのですか?」
智葉の言葉を承けて今度は郝が反応した。ついさっきの彼女の笑いを堪えきれなかった姿を思い出すと、おそらく智葉からすればロクなことを考えているようには思われないだろう。というより彼女の携帯争奪戦の一翼を担っている存在なのだから、こと播磨拳児に関する件について良いイメージを持っているわけがないのだ。普段の生活で楽しいことがあったときのものとも麻雀のときのものとも違う笑顔を浮かべている郝を見て、わずかに眉間にしわを寄せて智葉が口を開いた。
「サポートにつくってだけの話だ、それよりメグ」
「どうしまシタ?」
「お前は播磨のサポートにつかないのか」
「タイプ的に私がサポート向いてないの知ってますヨネ? だからサトハを推薦したんでスヨ」
何を当たり前のことを、とでも言うように飄々と答えるメグと彼女を相手に頭を抱える智葉のやりとりを、はじめ拳児は口をはさむこともなくただじっと見ていた。なぜなら話にまったくついていけていないからだ。そもそも女子集団であるうえに彼女たちはもともとチームメイトでもあったのだから、そっちのけにされること自体は決しておかしなことではない。しかしそのことと本人の目の前でその本人が理解していない話を展開することの正当性とのあいだに関わりがあるわけでもない。やっと言葉の理解が追い付いた拳児が、ついで確認を取ろうとしたのは自明のことである。
「えっ、なに辻垣内オメー俺のサポートにつくの?」
「待て、お前監督から聞いていないのか?」
聞いていないものは聞いていないのだから、拳児は素直にそう答えた。すると目の前の少女の顔が、麻雀を打つ準備を整えていないために眼鏡をしているわけでも髪を後ろに下げているわけでもないその顔が、一段階険しくなった。誰かを咎めるようなものではなく、真剣に考察を進めているときのものだ。状況だけ見れば自分の発言が智葉に何かを考えさせていることになるのだろうことは拳児にもわかったが、その内容がまるでわからなかった。彼女がサポートにつくのを聞いていなかったと答えただけで考えるべき事柄が生まれるとは到底思えない。拳児からすればこの状況そのものが不思議でしかたなかった。
五秒ほど思考の海に沈んだ智葉は意識をこちら側に戻し、静かな声色のなかにはっきりと赤い色をした感情を乗せてこう問うた。そうは言っても半ば以上問いではなかった。
「……お前ら、監督まで巻き込んだな?」
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愛宕洋榎にはときおり自分の世界に閉じこもるクセがあって、その世界の風景がどんなものなのかを知っているのは当然本人しかいない。周囲の人間にわかっていることは、そこに入り込むのは麻雀について考えるときに限られているらしいということだけだ。そのせいで彼女に解説を頼んだとき、その口から言葉となって出てくるのはいろいろと抜け落ちたものであるのだという。いま洋榎はまさに自分の世界に閉じこもっていて、それもお手洗いから戻ってくるなりいきなりその状態に入ったものだから、部員たちとしてもなんとも声をかけづらかった。
しかしその中でただひとりだけ、額の特徴的な少女だけが自分の世界に閉じこもっている彼女のもとへとまっすぐ進んでいった。
「主将! ちょっとええですか?」
「……お、なんや漫か。ちゅーかもううちは主将ちゃうやろ、そろそろ二ヶ月経つで」
「あ、えっと、それやったら、……先輩!」
「まあなんでもええけど。で、なんや」
それほど深くは潜っていなかったのか、想定していたよりも速やかに、かつ穏やかに対応してくれたことに漫は安堵していた。漫個人の感想としては、ここ最近の洋榎はどこか不安定な面が顔を覗かせているような気がしていたからだ。ただ具体的にどこがおかしいと言えるような部分はないし、そんな感じがするというレベルのものではあったが。それよりも今は話を聞いてもらうことのほうが重要であったため、漫の頭はそちらにしか向いていなかった。
「あのですね、えーっと、今日播磨先輩来てないじゃないですか」
「ん、おおホンマやな。なんか足りん思ったらそれか」
「それで実は臨海女子に指導に行ってるらしいんですけど」
「ほー、呼ばれたんか。出世したもんやな」
呑気に答えを返す洋榎が漫には不満だった。だが彼女はついさっきこの部室に戻ってきたのであって、どうして漫がいま拳児に関する話の説明をしているのかといえば、洋榎がその話を知らないからである。漫はこの当たり前の論理に気が付けないほどに動転したまま話を続けていた。
「いえその、それで、播磨先輩が卒業したら監督辞めてまうかもしれなくてですね」
「待ち待ち、なんで臨海に呼ばれたら監督辞めることになんねん」
言われて一拍置いて、やっと漫は自分の説明が穴だらけどころの騒ぎではないことに気が付いた。恥ずかしさと壊れていた思考回路を吹き飛ばすように顔をぶるぶると振って、そうしてから漫は先ほど郁乃が話した内容を洋榎に説明した。
きちんとした説明を聞いて洋榎が口にした言葉は、そうか、という一言だけだった。
漫が話をしている途中にも表情に微細な変化はあったものの、そこから感情の動きを正確に読み取るのは困難な程度のものでしかなかった。それは漫が想定していたものよりずっと淡白なもので、ひどく冷淡に感じられるものだった。ひょっとして嫌いになるようなことでもあったのだろうかと考えてみるが、どうにもイメージがしにくい。そもそも昨日の段階ではいつも通りに接しているのを見ている。漫はまたも不満を感じると同時に不思議で仕方がなかった。
「え、もっとなんか無いんですか」
「そら続けてもらいたいのもわかるけどな、結局は播磨自身の問題やろ?」
漫の印象では三年生の中でいちばん精力的に動いてくれそうな存在だったために、余計に彼女の口からこぼれた言葉はかつんと頭に響いた。欲しかったのはオトナの意見ではなく、女子高生の無謀でもなんでもいいワガママな意見だった。
返す言葉が思いつかなくて、漫は少しのあいだ黙り込んでしまった。洋榎の表情は先ほどまでと変わらずいつもよりはいくぶん真面目なままだ。視線は漫からは外されている。ここからいきなり冗談でした、と態度を改めるようなことはまずないだろう。いくらなんでも何も思っていないということはないのだろうが、その中身が外面からでは読み取れないのだ。
それから洋榎は腕を組んで目を閉じ、沈思黙考の構えに入った。漫が初めて見る彼女の姿だった。麻雀について考えるときは放心したように遠くを見つめるのが彼女の習わしで、それ以外は存在しない。漫が息を呑んで一分か二分かが経過し、ゆっくり目を開いた洋榎が拾うように言葉を紡いだ。
「なァ、漫」
「っ、はい!」
「播磨のヤツもどこかは知らんけど地元を離れてこっちにおんのやろ?」
「えっと、たぶんそうやと思います」
そやんなあ、とこぼすと、洋榎はまた腕を組んで目を閉じた。
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「なあ、オメーらってよ、後釜とかいんの?」
「なんだ藪から棒に」
拳児の目のことを知っている智葉がまず全員の対局を見て回ることを提案し、それにしたがって卓から卓のあいだを移動しているときのことだった。珍しいことに顔を智葉のほうに向けての問いかけだった。智葉からすると拳児の目 (サングラスだが) を見るためには見上げるかたちになる。身近にメグという長身の友人がいるためにそれほど違和感を抱くことはなかった。
「ウチんとこもよ、愛宕の、……末原もだな、代わりをどーすっか考えててな」
「あんなのがぽこぽこ出てきてたまるか」
「だからヨソがどーなってんのか聞くのもアリかと思ったんだよ」
拳児が言い終わると同時に智葉の視線が顔ごと動いた。その先にはひとつの卓があって、当たり前のことだが四人の少女がそれを囲んでいる。拳児が見る限り、そこには日本人がひとりいるようだった。なんとも奇妙な話だが、国ごとの人数割合としてはいちばん多いはずなのにここ臨海女子ではむしろ日本人のほうが浮いて見えるような気さえしてくる。
「ひょっとしてあの日本人か? てっきり外国のヤツかと思ってたぜ」
「先鋒だけは日本人じゃないといけなくてな、他の学校は気にすることもないだろうが」
「そんなルールはじめて聞いたぞオイ」
「この間のインハイから改正されたんだ、条項の細かいところだよ」
いつの間にか足を止めて、その少女がいる卓を遠目に見ながらふたりは話をしていた。その卓の進行は淀みもなく雰囲気も穏やかなようで、局の合間にはなんらかのやりとりもあるようだった。公式の試合やあるいはそれを意識した練習ともなれば話は変わるのだろうが、そういった特別ななにかが無い限りは同じ部の仲間と打っていればそういう雰囲気になるのは自然な話であり、また拳児にとっても見慣れた一幕であった。
本来ならゴールデンウイークの合同合宿で既に面通しは済んでいるはずなのだが、まさか拳児にその少女のことを覚えていることを期待するわけにもいくまい。なにせ姫松においてもようやく顔と名前が全員一致し始めたくらいであり、臨海女子においては辻垣内智葉とメガン・ダヴァン以外は名前をきちんと覚えていないのだから。失礼と言ってしまえば実際否定はできないのだが、悲しいかなこれが拳児のマックスである。したがって次の拳児の発言はごくごく正当なものに違いなかった。
「一応名前くれー聞いとくか」
その異常性を知っているとはいえ、それを目の当たりにするとさすがの智葉もなにかうすら寒いものを感じずにはいられなかった。卓を見回り始めたときには二局かせいぜい三局見る程度で、しっかりと見るわけではないのだなと思っていたのだが、それは智葉の思い込みでしかなかった。いま拳児はちょうど打ち終わった智葉の後釜に質問を飛ばしているところなのだが、その内容が問題だった。
麻雀においてすべての局で全力で攻めるというのはそもそもあり得ない話で、自分の手の具合や相手の出方を見て動き方を決めるのが自然である。言い方を変えれば手の抜き方というものがあって、その調整次第では対局相手の自らに対する認識をずらすこともできる。もちろんそんなものは超々高度な技術であって成立させるためには複数の厄介な条件が存在するのだから基本的には考える必要はない。とはいえ手の抜き方そのものが重要な技術であることには変わりがない。当然ながら同卓していても外から見ていてもそれを見抜くのは至難である。普通ならば。
問題は彼が未だ麻雀のスキルに関して初心者でしかない身でありながら麻雀を打っている人間の実力と全力かどうかを見抜いてしまう目を持っていることであり、そこから生まれる質問はされた側にとっては凶悪そのものでしかなかった。“なんでさっきの南三局、獲りに行かなかったんだ?” と、彼はごく当たり前のように問うたのである。
明白にオリを選択したりミスをしたならば、外から見ているぶんには理解できることもあるだろう。しかし拳児が指した局には明白なオリなど見られなかったし、臨海女子においてそういったミスなどまず見られない。つまり技術的に隠蔽された手抜きを拳児はたった三局眺めただけで見て取ったのであり、それは智葉のレベルにあってもはっきりおかしいことだと断言できた。下手をすれば部員が潰されてしまいかねないと思った智葉は、どうにかしてあの男をこの場から引き離さねばならぬと決意した。
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結局あちらこちらと見て回り、拳児が事故を起こしかけては智葉がフォローに回るという形式で進んでいった練習も、いつしか終盤に差し掛かっていた。他校からの客が来ているとはいえ別に長期の休みでもないため、自主的なものを例外とすればさすがに夜まで練習を組んでいるということもない。自分がまだ現役で練習していたころと比べて日が短くなったな、と窓の外を眺めた智葉が感傷に耽りかけたそのとき、なにかがおかしいことに気が付いた。もう日が暮れつつある。おかしくない。そろそろ練習が終わろうとしている。これもおかしくない。播磨拳児がまだ智葉の隣にいる。これだ。
「おい播磨、お前新幹線の時間は大丈夫なのか?」
「は?」
声色と表情から、何言ってんだコイツ、と言外に含んでいるのがありありと感じられる。
「ちょっと待て。お前いつ帰るつもりだ」
「明日の夕方四時くれーのに乗るから、それよりは前だな」
何言ってんだコイツ、と今度は智葉が言いたくなった。明日もいるだなんて聞いていない。たしかに尋ねてもいないがそんなことは考えないのが普通ではないだろうか。ああそういえば似合わないカバンを提げていたな、と智葉は思い出す。気付くきっかけはゼロではなかったのだ。ずいぶん弛んでいるようだ、とため息をつく。
「……泊まる場所は?」
「宿直室を借りることになってんな。ま、寝れんならどこでも問題ねーよ」
ここまで来てようやく智葉は事態の大きさを理解した。これは決してあの問題児どもの突発的な行動ではない。アレクサンドラどころかおそらく姫松までもが一枚噛んでいると見るべきだろう。そうでなければご自慢のインハイ優勝監督を泊まりがけで貸し出すわけがないからだ。何を企んでいるかはわからないが、さてそうなるとこれまではあるかどうかがわからなかった正解の行動そのものが完全に消滅する。何らかの特別なアクションを起こせば、それはきっと常に誰かの思うつぼだろうからだ。今日一日の疲労感と、このタイミングで巻き込まれていたことに気付いたせいでイラッときていた智葉は反骨精神の塊だった。そしてそいつらの要求なんて呑んでやるものかと考えた智葉はひとつの決断をした。問題児どもにからかわれるのは勘弁願いたいところだが、それでも拳児に対して徹底的に普通に接することにしよう、と。
直後に第二ラウンドの始まりを告げるゴングが手を振りながらやってきた。
「サトハー、せっかくでスシ播磨クン誘って一緒にディナーにしましョウ!」