姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

74 / 91
74 いつかあなたが帰るところ

―――――

 

 

 

 常緑樹のものを除く木の葉はもう色を変えるか落ちるかしてしまっているが、太陽が姿を隠してしまったこの時間にそれを楽しもうと思っても無理な相談だ。日はどんどん短くなっていき、あと二ヶ月も経てば一年で最も日の短い冬至がやってくる。夜はもうすっかり冷えるということで、一部の女子生徒は早くもマフラーを持ち出し始めている。どうやら日が沈んでから少しずつ雲が出てきたようで空を見上げても月も星も見当たらない。しかし天気予報によると日付が変わるころには雲が晴れるとのことだった。

 

 普通なら生徒を帰しきっているはずの時間帯に昇降口から洋榎が姿を見せたのは、彼女が郁乃と拳児の部員に対する所見を交わす会議に参加していたからだ。麻雀において中学生や高校生という時期は、覚え始めのころとはまた違った意味での爆発的な成長を見せる可能性を持つ時期である。それは本格的な意味で麻雀というロジックに慣れることをきっかけとしているのかもしれないし、あるいは頭の使い方そのものがわかってくるということに起因するのかもしれない。なんにせよ大会も終わってしばらく経って、余計なことに気を回さずに打ち込める今の時期はそういった急成長が見られ始める時期であるとも言えるのだ。

 

 ひとつの嬉しい悲鳴とでも呼ぶべきこの状況を、もちろん洋榎も喜んでいた。かわいい後輩たちが成長していくのを見るのはいつだって気分のいいものだ。気が付けば部の主体としてのものではない思考が当たり前にできるようになっていて、洋榎はそのことにちいさく苦笑した。どうやら主将という立場からは意外と自然に離れることができていたらしい。

 

 洋榎にほんのわずかに遅れて、同じように会議に参加していた拳児が昇降口から現れた。なんでも聞くところによるとここしばらくはずっとこんな時間に帰っているらしい。なるほど監督というものの仕事は表面に出ないところがあるようだ、と洋榎は感心していた。基本的に目立つ性質を持つ播磨拳児であるからこそ、余計に水面下での働きは誰の目にも留まりにくいということもあるのかもしれない。それにしても教室ではまったく疲れたそぶりなど見せたことがない辺りを考えるとすさまじい体力だと言えそうだ。

 

 「ンだオメー、先帰ってなかったのか?」

 

 「言うほど時間差ないやろ、それにこんな暗いなか女の子を一人で帰すんは感心せんなぁ」

 

 「アホか、だったら半笑いで言ってんじゃねえよ」

 

 おっと、と大げさに口元を隠す洋榎に拳児はため息をついた。ツッコミ待ちのちょっかいを放っておいたら放っておいたで面倒になるのが彼女の悪癖である。ひょっとしたらこの数ヶ月で拳児のそっちのスキルを上達させたと言えるかもしれないほどに。

 

 校門から出てしばらく歩いて右に曲がれば最寄りの駅へと続く道になるのだが、そこまでは案外と距離がある。ちなみにそこで曲がらずにもう少しまっすぐ行くと拳児の家にたどり着く。

 

 「そういえばアレやろ、こないだ臨海行っとったて聞いたけど、どやった?」

 

 「ゴールデンウイークん時と変わんねーよ、行くのがめんどくせえってとこもな」

 

 わざわざ行くこと自体を別にしている辺り、とくに臨海女子に悪印象を抱いているというわけではないらしい。拳児があの合宿のどこに照準を合わせて “変わらない” と言っているのかはわからないが、ためらいもせずに先の言葉が出るのは実に彼らしいと言える。本当に取り繕うということをしない男だ。

 

 「面白い子ぉとかいーひんの?」

 

 「オメーも合宿でひと通り打っただろが、大して変わっちゃいねえよ」

 

 監督として全幅の信頼を得てしまっている男の発言ということもあって、洋榎はそれを疑ってかかろうともしなかった。彼女は拳児の特殊な目のことなど露とも知らないが、それの有無が影響を与える時期はとうに過ぎ去ってしまっている。それに彼女を満足させるような打ち手が高校レベルでそう簡単に見つかっても面倒な話だ。もちろんそれは姫松を含む他の高校から見て、という意味においてであるが。

 

 そら残念やな、とちょっとだけつまらなそうに洋榎は口をとがらせた。これで傍にいるのが拳児以外の人間ならば何かしらの反応を見せたりちょっかいをかけたりするのだろう。けれども拳児はその仕草を見てもこれといって行動を起こさなかった。歩く速度さえ落とさない辺り、筋金入りとさえ呼べそうだ。

 

 雲が出ているせいか、空気はそれほど乾いてはいない。とはいえ梅雨や夏のようなじっとりした空気ほどひどいものでもない。積極的に気にしようと思わなければ意識にも上がってこない程度のものだ。まっすぐな道の両脇にある住宅から漏れるかすかな光の中を、ふたりはすいすいと泳いでいく。

 

 「あれ、なあ播磨、ジブン帰る道こっちで合ってるん?」

 

 「あ? ナンだいきなり」

 

 「考えてみたら駅で見たことないなあ思て」

 

 「そりゃそうだろ、このまままっすぐ行きゃ家だしな」

 

 「なんや意外とガッコから近いとこに家あんねんな」

 

 「寮だしな、そりゃ近えだろ」

 

 寮住まいは全員が新しいほうの寮へと移ってしまったために、現時点でそこには拳児以外に誰も住んでいない。そのおかげもあって、拳児のプライベートは相も変わらず謎に包まれている。どう転んでも拳児の後を尾行して自宅を突き止めようなんて発想が一般的な高校生から出てくるわけがないのだから当然と言えば当然のことだった。

 

 拳児の部屋にはいったいどんなものが置いてあるのかを聞いて、そのあまりの物の数の少なさにいくらなんでも冗談だろうと受け流した辺りで洋榎はあることにピンと来たようだった。

 

 「ああ、どっからかは知らんけど引っ越してきたんやったな。や、それでも物少なすぎやけど」

 

 「言っとくけどほとんど引っ越しってレベルじゃなかったからな」

 

 洋榎にはその意味がまったくわからなかったが、拳児が矢神を飛び出したときに所持していたと言えるのはバイクとちょっとした着替えと存在意義を失くしかけている財布だけだった。持ち運んだ家具などひとつもなく、大げさでなく身一つでしかなかった。もしも従姉が手を差し伸べてくれなかったらと考えるとさすがの拳児も言葉を濁すしかなくなるほどだった。拳児の言葉にそんな意味が乗せられていることなどもちろん洋榎には読み取りようがないのだから、この話題はこれ以上深く追求されなかった。

 

 「にしてもアレやろ、高三でひとりで知らんところに引っ越してしんどかったんちゃうん?」

 

 「は? なんでだ?」

 

 「いやいや友達がーとか住み慣れた環境がーとかあるやろフツー」

 

 「別にそういうのがねーワケじゃねーけどよ、しんどいとかにはなんねーだろ」

 

 拳児の場合、一般的な付き合いというよりは悪友と言うべきかわずか一年で作り上げた腐れ縁と言うべきか非常に判断の難しい関係を矢神の地に残している。それはいつも一緒にいて放課後には遊ぶなどという関係からは程遠く、やむを得ず協力体制を取ったり、酷い時には真正面から殴り合うような、それでいてそれぞれお互いに悪い評価を下すことのない非常に不思議な関係性なのだ。拳児は彼らとぱたりと会わなくなったことに対しては何も思わなかったし、おそらくその逆もそうだろう。しかし再び会えば、離れていた期間を思わせないほど自然にやり取りをするだろうことを疑わせない人物たちなのである。少なくとも拳児と一年間まともにやり合ってきたという事実から誰一人として一筋縄ではいかないことが推測できる。

 

 洋榎のものさしでは友達とは離れることになれば寂しいものであり、慣れ親しんだ街は常に自分が帰るべき場所であったから、拳児がさらっとそれを否定したことが変なことに思えて仕方がなかった。あるいはそれは女子と男子の考え方の違いなのだろうかとも思ったが、目の前にいる男を男子の代表として捉えるのも微妙に思えてすとんと納得するのも難しい。そこで洋榎はちょっとだけ質問のかたちを変えてみることにした。

 

 「そやったらこっちに来るん決まったときも何も思わんかったん?」

 

 「あー……、助かったくれーには思ったな、ショージキ」

 

 「えっ、むしろプラスなんか。なんでなん」

 

 「なんでっつってもな……。まあ、そんときゃ何も考えてなかったからよ」

 

 実際のところがどうだったのかを別にして、洋榎はこれを何も考えられなくなったというふうに解釈した。謎だらけの存在として認知されている拳児について考えるときに、現時点で判明している事柄を中心に考えを進めることは決しておかしなことではない。彼が何も考えられなくなるほどのショックな出来事、それまでいた土地から離れたくなるほどの大きな事件。そんなものは洋榎のなかではたった一つしかなかった。

 

 ( ……そっか、恋人亡くしたんやったっけ )

 

 塚本天満は死ぬどころか自分の目標を達成するためにアメリカに単身で乗り込むなどという生の活力に満ち溢れた人生を送っているため、洋榎のその感傷は空振りである。ただ拳児がそのことを言わないものだから、何も知らない彼女たちのあいだではそれは事実へと成り代わってしまっている。思い返してみれば姫松に来たてのときはどこかつっけんどんな感じがしたのも、間違った彼の事情を考えれば驚くほど納得のいく振る舞いだ。恋人に関する誤解が広まったあのインタビューの日以降、沈むどころかいっさい弱いところを学校で見せていなかったことに思い当たった部員たちのあいだで、精神的にタフだという評価が本人の知らないところでつくほどだった。

 

 前々から思っていたことだったが、こうやってあらためて話をして、洋榎はこの男が自身の求める答えを持っていると信じられそうな気がしていた。それはむしろ部の仲間や友達や家族だからこそできない相談で、完全にフラットに彼女を見てくれるような存在でなければいけないことを洋榎は理解していた。そういった意味で播磨拳児が姫松にいるというのは奇跡のようなめぐりあわせだった。

 

 「なあ、播磨」

 

 「あ?」

 

 「うちはこれからプロに行く、んやけど」

 

 「みてーだな」

 

 「いくつかのチームから誘いが来ててな、なあ、どんな風に考えたらええ思う?」

 

 普段の彼女を、雀士としての彼女を知る者ならばその耳を疑うだろう弱弱しい声だった。

 

 歩幅が違うぶんすこしだけ早足だった洋榎のテンポが鈍る。それがどうして拳児にわかったのかと言えば、彼女の発言に違和感を抱くと同時に聞き返そうとして振り向いてみれば物理的な距離ができていたからだ。視線はどう見ても下を向いている。

 

 「……は?」

 

 「播磨の目から見て、うちはどこに行くべきや?」

 

 こういう問い方をした時点で洋榎はもう覚悟を決めていたのかもしれない。

 

 「ンなモン俺が知るワケねーだろ」

 

 洋榎は俯いたままの顔に左手を寄せて、やっぱりなあ、と口の端を上げた。どう考えたところでこれが一番フラットな回答なのだ。自分の周りにいる人々は優しいから、きっと親身に相談に乗ってくれただろうことを洋榎は理解していた。しかしそれではダメだということが痛いほど彼女にはわかっていた。欲しかったのはたったのひと押しだった。洋榎から見れば思考回路が似通っているだろう拳児だからこその一言だった。

 

 「何が引っかかってんのか知んねーけど、オメーが結論出さなきゃどうにもなんねーよ」

 

 「そやんなあ。や、わかっとったつもりやってんけどな」

 

 「下のヤツらもいんだからよ、情けねーとこ見せんじゃねーぞ」

 

 「アホ、人前でこんなんせんわ」

 

 

―――――

 

 

 

 「ただいまー」

 

 ドアを開けていつものように帰ってきたことを告げる。ふつうの家庭よりもちょっと広い玄関のせいもあって、靴の少ないぶんだけそのスペースはすこし寂しい。視線を上げるとぱたぱたとスリッパの音が近づいてきた。

 

 「おかえり、お姉ちゃん。今日はまたずいぶん遅くまでやってたんやね」

 

 「いや冗談なしに嬉しい悲鳴やな、播磨のやつがメンバー組み切れんのも納得や」

 

 洋榎はローファーの向きを整えながら、言葉の奥に本当に嬉しそうな感情を滲ませる。もともと隠し事が苦手なタイプではあるのだが、喜色満面に話をするのも何か違うということでできる限りいつもどおりに話そうとした結果だった。生まれたときからそんな表情と付き合ってきた絹恵には見慣れたものである。だからそういうとき彼女は優しい相槌だけを打つのだが、今日はその見慣れた表情に何かが上乗せされているように絹恵の目に映った。

 

 「あれ、キヌ、おかんは?」

 

 「さっき電話あって、もうちょっとかかるー、て」

 

 「ふーむ、それやったら先にお風呂にしよかな」

 

 これまでふたりのあいだで何度も行われてきたやり取りだからこそ、絹恵にはほんのわずかに違う何かがあるように感じられた。なんだかいつもよりすっきりしているような印象さえ受ける。具体的にどこがどう違うとは言えないが、ずっといっしょに過ごしてきた人間にしかわからない “なんとなく” がそう訴えかける。

 

 絹恵の性格上、姉に対して何かを怪しむということはまずない。姉がうれしそうであればいっしょに喜ぶし、逆に辛そうであればなんとか力になろうとする。今日の場合は前者だ。単純に誰かに喜ばしいことがあったとして、それを尋ねられて怒る人間などいないのだから絹恵もその当たり前の論理に従って自分の姉に話を振ってみた。

 

 「今日なんかいいことあったん?」

 

 「お、さすがうちの自慢の妹なだけあるわ。ふふん、ま、ちょっとあってな」

 

 もちろん絹恵は絹恵で部活に出ていたのだから、その “いいこと” が起きた時間はだいぶ限定される。言ってしまえば帰り道くらいでしか何かが起きようがないのであって、さて今日の帰り道を思い出してそこに何かあったかな、と絹恵は首を傾げた。どうやら即物的なものではなさそうだ。

 

 「えー、なんなん?」

 

 「奥歯に挟まっとったもんがようやっと取れたーいうこっちゃ」

 

 「歯磨きはきちんとせんとダメやん」

 

 「せやけどたまにはしてもらうのも悪ないで」

 

 いつもならノリノリでツッコんでくるところをむしろ乗っかってくるのだから、それだけを見ても余程なのだろう。尋ねられたから更にウキウキしているのかもしれない。歯磨きをしてもらうと聞いて頭に一瞬だけインモラルな想像が過ぎったが、なんとかして絹恵はそれを追い払った。

 

 汗を流すにせよ着替えてだらけるにせよいったんは自室に向かわなければならないのだから、洋榎は軽い足取りで二階へと上がっていった。絹恵は姉よりはだいぶ早めに帰ってきていたためにこの時間はとくに二階に上がる気にはならない。手のかかる宿題でも出ていれば話は別だが、今日はそんなものは出ていないしなんとなくバラエティ番組を眺めていたい気分だった。

 

 

 仕事終わりの両親の帰宅時間に合わせて、姉妹のふたりは台所に立っていた。多くの家庭では母親が夕食の支度をする光景が当たり前なのだろうが、こと愛宕家ではそうはいかない。姉妹が通う姫松とは別の、千里山女子という高校で監督を務めている彼女たちの母親は驚くほど忙しい生活を送っている。そのため帰りの時間が安定せず、いつしか夕食は姉妹が用意する機会が増えていった。今では冷蔵庫の残り物からそれなりのものを作れるレベルにまで達している。ちなみに洋榎は家庭科の調理実習で意外すぎると褒められて何とも言えない気分になったことがあるがそれはまた別のお話。

 

 ふたりの手際は慣れたもので、雑談交じりに料理を進めながらきちんと作業は分担されている。もちろん普段通りの夕食なのだからそれほど手間がかかるわけでもなく、分担することで生まれる余裕が気楽な感じを生み出していた。あとは米が炊き上がればそれでおしまいだ。料理を温めなおす前に帰ってきてくれればいいな、なんて軽口を叩きながらダイニングルームから繋がるリビングルームに足を運ぶ。

 

 勢いよくソファに身を投げて、ひと息ついたところで出し抜けに洋榎が口を開いた。

 

 「な、キヌ」

 

 「ん、どしたん」

 

 「うちな、札幌に行くことに決めたわ」

 

 驚きのあまり、絹恵が目を見開いて俊敏な動作で洋榎のほうへと顔を向ける。洋榎はまっすぐテレビのほうへ視線を投げている。しかしこれはきっと洋榎にとっての精一杯だった。母親相手ならいざ知らず、絹恵を相手にあらたまって話をするとなれば必要以上に仰々しくなってしまうだろうことが彼女には姉としてなんとなくわかっていた。ベストなやり方とも思えないが、他のやり方が思いつくわけでもない。何よりそれがいちばん()()()と彼女は考える。どこかの監督のように、愛宕洋榎はいつだって愛宕洋榎でなければならないのだ。

 

 少しのあいだ硬直していた絹恵は、何かを堪えるような表情で二階へと駆け上がっていってしまった。まったく出来た妹を持ったものだ、とため息をつきながら、洋榎はまるで頭に入ってこないテレビ番組を眺め続ける。今日のところはあと両親に話せば済む。夕食のときに絹恵が降りてきてくれるかはちょっとだけ心配だが、きっとどうにかなるだろう。そう自分に言い聞かせて、洋榎はソファの隣の空いたスペースにごろりと転がった。

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。