姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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75 距離をおいて見る

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 3-2の元麻雀部レギュラー三人組は疑いようもなく仲が良いのだが、その一方でクラス内での人気も相当なものがある。それぞれ異なった個性を持っていて、それらがきちんと受け入れられているのはひとえに彼女たちの立ち居振る舞いによるものだろう。後ろ暗いもののまるで感じられない健康的な明るさを持てる人は本来ならそこまで数の多いものではない。その辺りは嘘をつけない男ナンバーワンであり、彼女たちを統括する立場にあった播磨拳児の影響もあるのかもしれないがはっきりしたことはわからない。

 

 そうなってくるとその三人組が固まってのんびり話をする機会が減ってくる。何も別に悪いことではないのだが、たとえば事前に決めておかない限りは昼食時にその三人が揃うことなどほとんどなくなってしまうと言っていいくらいだ。もう三年生なのだから部活以外にも昨年や一昨年のクラスで作った人間関係もあって、要するに他のクラスから声がかかることもさして珍しくはないのである。今日もまた三人ともがそれぞれ別のグループにお呼ばれされていった。

 

 

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 今日の由子は同じクラスの食堂組のひとつに誘われており、わりとよく昼を共にしているメンバーでもあったので彼女はとくに迷うこともなく了承していた。由子は基本的にお弁当を母親に作ってもらったり、あるいは自分で作ったりして学校に持ってきているのだが、食堂にそれを持って行ってもとくに問題はない。余程の偶然が重ならない限りは相席が必要になるほど混み合うことはまずないと言っていいだろう。今日もいつものように席を取るのに困るほど混み合っているわけではないようだった。

 

 いつもならその辺の空いている席にさっさと座ってしまうはずなのに、今日はなぜか奥のほうが目的地であるようで、由子にはそれが不思議だった。トレイの受け取り口からも離れてしまうのだから、奥に席を取る利点が思いつかない。あるいは由子がいなかったときに何らかの意識改革が行われたのかもしれないが、それはそれでなんとも奇妙な話である。とはいえ由子はそのことに対して何の不満があるわけでもない。とくに何を言うでもなく三人組についていった。

 

 お弁当組は席についたらさっさと包みを開けて食べ始めてしまうのが通例というか、どこか常識となっている部分さえある。仲の良い友達であるからこそおかしくないという面もあるし、購入組を待っていると食堂のテーブルに着いておきながら座って待っているだけになってしまって居心地がよくないという面もある。今日の由子のいるグループは彼女を含めてお弁当組が二人、購入組が二人であった。由子ともう一人の少女は例にならってお弁当の包みを開ける。

 

 二人のお弁当はいかにも女の子、といった感じのかわいらしいものだった。たいていの男子からすればそれで足りるのか疑ってしまいたくなるようなサイズのものである。もちろん男子高校生に比べて消費カロリーが少ないのも事実だが、あれやこれやと女子にはいろいろな事情があるものなのだ。

 

 少しあって購入組が由子たちのところに戻ってきて、やっとグループ揃っての食事が始まった。よく食堂を利用する女子からの話では日替わり定食かセットメニューにしかサラダがついてこないのが不満らしい。ほとんど利用経験のない由子にとってはなかなか実感の湧きにくい文句だった。野菜が摂れなくて困るというのには非常に納得できるものがあったが。

 

 声量に違いがあったとしても基本的に学生同士の食事などやかましいものであって、それは由子たちも例外ではなかった。上品で、ふわふわしていているけれど落ち着いている、という評価を受けていようが関係はない。もちろん品の無い振る舞いなどは控えるが、人間ならば楽しいほうに傾くのは当然だろう。今日はどんな話が飛び出すのだろうと由子はわくわくしていた。

 

 「で、ゆーちゃん。ダンナとは最近どーなん?」

 

 そこで飛び出してきたのがこの話題なのだから、なるほどわざわざ奥のほうに席を取ろうとするわけだと由子は一連の不思議な流れに納得した。十中八九出てくるだろう名前は推測できているがそのまま乗ってあげる義理もない。まずはすっとぼけることにした。

 

 「ダンナ? 私まだ結婚した覚えはないっていうか、そもそも相手は誰なのよー?」

 

 「えっ、そんなん播磨やん」

 

 何を当たり前のことを、とでも言うように友人のうちのひとりはこともなげに監督代行の名前を口に出した。それぞれ三人の顔を見回してみても、由子には誰一人としてそれに違和感を持っているようには見えなかった。真剣な話ということもないのだろうが、完全な冗談として言っているわけでもないらしい。どうやら丁寧に解きほぐしていく必要があるようだ。

 

 「……播磨の恋人の話が気になるのはわかるんだけど、なんで私?」

 

 「やって播磨とイチバン仲ええのゆーちゃんやし」

 

 「外から見てるとようわかるわ、なんや雰囲気違う感じするもん」

 

 混じりっけなしの純粋な勘違いではあるのだが、焦って否定などしてしまえば泥沼になることを由子は知っている。だから取り乱したりはしない。文化祭のときに拳児に対してそれなりの評価をしていると恭子に話したのは事実だし、それが嘘だと言うつもりはないがだからといってすぐさまそういう話になるわけもない。あまりにも短絡的すぎるというものだ。実際のところは雰囲気も何も、お互い慣れた形式でほんのちょろっと言葉を交わす程度だ。由子からすれば一日の会話量の中での比率はかなり低い。播磨拳児が会話をするシーンがあまり見受けられないから相対的に由子と話をしているのが印象に残ってしまうのは否定できないが、それにしたってそんなことは。

 

 「いやそれ、ただ席が隣だってだけの話だと思うんだけど」

 

 この一言で片付いてしまう貧弱な論理だった。

 

 「えー、でもうち播磨の隣におってもしゃべれる気せんわ」

 

 「そんなんうちの部の子に聞いたらみんな “そうでもない” って教えてくれるのよー」

 

 「嘘やん四六時中カオむっすーしとるやん」

 

 「言うてもデフォルトであれやし、機嫌のよさそな播磨なんて一度しか見たことないのよー」

 

 由子以外はしゃべるのと食べ物を口に入れるのとで見事に交替しているが、由子だけは完全に箸を止めざるを得ない状況に陥っていた。さすがに三人を相手にしてゆっくり食事を楽しむ余裕はない。いくらなんでも昼休みが終わるまでこの状態が続くわけもないだろうと由子も考えてはいるが、可能性としてゼロと言い切るのは無理に思えるためか、面倒ごとに向かい合うときのスイッチを既にオンにしていた。そうなってしまえば麻雀においても日常生活においても面倒相手なら海千山千の真瀬由子がそうそう崩れようはずもない。

 

 しかし実際にそのネタを使って恭子をいじった経験のある身としては彼女たちの気持ちがわからないでもなかった。こういった話題はどうしたって面白い。もちろん程度というものはあるし、それ以前にお互いの距離感が測れるくらいに仲良くなければ成立しないコミュニケーションでもある。麻雀部というくくりの中でなら由子は恭子や洋榎に対して何の遠慮もなくそう振る舞うことができるし、その逆も然りだ。そしてそのくくりが3-2ということになった場合、いまテーブルについている面子がそれにあたるということだ。互いにやりたい放題できる相手なのだから由子が手を緩めてあげる必要性などどこにもない。

 

 「それゆーちゃんが近くにいたからー、とかそういうオチとちゃうの?」

 

 「夏に優勝決めたときやって。あとはずーっと変わらへんのよー」

 

 サングラスで目が見えないせいもあるが、それを差し引いても拳児はいつもぶすっとした表情をしている。への字口と言ってもいいくらいだ。本当のところがどうかは別にして、外見に出るすべての部分がそう思わせる要因につながっているのも大きいのだろう。クラスメイトたちは変に怯えるようなことはもうないが、かといって自ら近づいていこうとすることもなかった。身も蓋もない言い方をすれば、難しい立ち位置にいるのだ。

 

 「で、実際のトコロどうなん? 仲悪いことはない思うけど」

 

 「それは否定しないけど、特別に仲がいいってこともないのよー」

 

 「えー? 恭子とか洋榎ちゃんと比べても?」

 

 「フツーに同じくらいやと思うのよー。誰に対しても平等だし」

 

 この由子の実感は見事なまでに正確だった。拳児にとって世界の構図など基本的には塚本天満とそれ以外、の単純な成り立ちであって他ではない。無論状況次第で例外が生まれることはあるが、それは彼が恩を受けた場合や負い目ができてしまった場合に限られる。現在に至るまで部員たちはそのどちらも満たしていないため、結果としてあの拳児が完璧に平等な振る舞いを続けることになっているのだ。それでもインハイ優勝のために必死に監督を務めてきた時期と、その名残で今でも麻雀部員に対してはほんの少しだけ扱いが良くなっているのだが誰もそれには気付いていない。

 

 ここまである程度の会話を交わして、由子はなんとなく話の最初から感じていたもやもやしたものが認識のずれに起因するものだということに気が付いた。麻雀部の外から見ると、たとえ適当にあいさつを投げかけることができるようになったとしても、今でもあの男は怖さの残る存在であって、だから誰も彼に積極的に話しかけには来ないのだ。一方で彼とコミュニケーションを取らなければほとんどの物事が成立しない麻雀部という環境に身を置いていた側からすれば、そんな時期はとうに過ぎ去ってしまっている。由子はもう部に顔を出していないから詳しいことは知らないが、洋榎から聞いた限りでは一年生ももうすっかり慣れたらしい。すくなくとも拳児が気の利く男だとは思わないが、それでも見た目でけっこう損をしているんだな、と由子は心の中でちょっとだけかわいそうに思った。

 

 「LINEとか電話とかしやんの?」

 

 「播磨相手に? 緊急で何かない限り連絡なんて取らないのよー」

 

 「麻雀部のみんなもそうなん? それやったらしっかり線引きしとるんやね」

 

 「あくまで私は、ね。あと他のみんながどうしてるかは私は知らないのよー」

 

 言われてみてはじめて拳児に対して誰がどんな行動を取っているかなどわからないということに由子は気が付いた。文化祭の時の反応を見る限り恭子が何かしらの行動を起こしていることだけはないと断言できるが、恭子以外のことは知ろうにも知りようがないのだ。あらためて環境を見直してみると女子部の監督というのはとんでもない環境である。よくもまあ変な事態にならずに済んだものだ、来たのが播磨拳児以外であれば成立し得なかった可能性すらある。

 

 「くぅー、思っとったより色気ないなあ麻雀部」

 

 「あのねえ、そんなヒマなんてないの。まずは部活、それが終われば受験なんだから」

 

 「あっ、ゆーちゃんそれは言わんといて。これ逃避も兼ねてるから」

 

 蓋を開けてみれば結局はこういうことで、やはり真剣な話題ではなかった。もちろん昼食中に真面目な話をする道理もない。ひょっとしたらあまりいじられることの多くない立場にいる由子を珍しくいじれる可能性がある話題だったから選んだのかもしれない。ただ由子を相手取るには彼女たちにちょっと強靭さが足りなかった。そのあともある程度は似たような話が続いたが、雑談の常というか、どこにも行けない話だった。

 

 

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 学校のチャイム、と言えば誰もが簡単にそれをイメージできる。また学校から卒業した身ともなればそれに付随する思い出なんかも出てくるのかもしれない。しかし一方で実際に鳴り終わるまで聞いていると、どこか空虚な感じがするのも否定できない。鳴り終わったことに対して何の感慨も抱かないし、下手をすればついさっき鳴ったはずのチャイムが本当に鳴ったかどうか自信が持てなくなってしまうことすらあるほどだ。恭子もまたその音が消え去った廊下を、いつの間にか頭の隅に湧きだす不思議な思いとともに歩いていた。

 

 廊下の窓から見える外はいつもと変わらぬ町並みで、どこがどう特別というものは一つもない。ここから見える景色は他の季節と違って、これが秋だ、という特別なものが何もない。あるいはそれが特徴なのかもしれないが、もしそうなのだとしたらなんとも寂しい話だ。それほど歩くことなく階段までたどり着いて、恭子はいつものように降りていく。

 

 

 恭子がちょうど二階へ降りたとき、廊下から漫がひょっこり顔を出した。カバンを背負っているわけではなく、両手でゴミ箱を抱えている。誰が見たって一目でゴミ出しに行くのだなとわかる姿だった。

 

 「あ」

 

 「あ、末原先輩」

 

 絵で描いたように目をまん丸にして、そうしてからうれしそうに漫は笑顔を見せた。自他ともに認めるほどに末原恭子に目をかけてもらい、世話になり、そして仲良しだった。根本的な意味で彼女の姫松における立ち位置を決定した人物でもある恭子からしても、漫はかわいくてしかたのない後輩である。

 

 「どしたん、ジャンケンで負けたん?」

 

 「ちゃいますよ、うちのクラス当番制なんです」

 

 視線の先のゴミ箱に気付いて、わずかに持ち上げて漫が答える。もともと嘘をつけるタイプの子でもないからきっと本人の言う通りなのだろう、と恭子はひとり納得した。ちなみに恭子のクラスではゴミ出しのたびにジャンケンで決めるものだから、毎度やかましいことになっている。

 

 引退してからというもの恭子は一度も部に顔を出していなかったから、たまに校内で顔を見かけていたとはいえ、それでもなんだか漫と会うのは久しぶりな感じがしていた。ひょっとしたら勉強漬けの毎日にすこしだけ疲れていたのかもしれない。そんなところに上重漫という現役の主将が現れれば、あの部室のことを思い出してしまっても仕方ないだろう。そこにはたしかにいまの生活とは違った現実が存在していたのだ。ほんの三ヶ月前までは自身がそこに含まれていた現実が、ここのところはどうなっているのか気になるのも自然なことだと言えるだろう。

 

 「ふうむ、エライなあ漫ちゃんは」

 

 「いやいやこんなん普通ですやん。死ぬほど面倒! ってわけでもないですし」

 

 「そうは言うてもやな、きちんと主将の役割もこなしてゴミ出しもきちんとするのは立派やし」

 

 ちょっといたずらっぽい笑みを浮かべて、恭子は急に漫を褒め始めた。そのことがどうして漫にとってちょっと不安に思えるのかといえば、末原恭子は基本的に厳しい振る舞いをする存在であったからだ。そのことには時には必要最低限のことすら言わない拳児や、物事を伝えるのに決定的に向いていない独自の回路を持つ洋榎を部に冠していたことが関わっている。集団にはどこかできちんと締めることのできる人物が必要で、それが姫松では恭子だったのだ。実力で見ても実務能力で見ても性分で見ても彼女以上の適任はいなかった。もっとも、彼女がいちばん厳しく接したのは自分自身だったのだがそれはまた別の話だろう。

 

 「な、なんなんですかいきなり」

 

 「いやあ、もう主将様にはしっかり敬語使わないといけませんね」

 

 「ちょっ、それホンマやめてくださいよ、慣れなさ過ぎて何言うたらええかわかりません」

 

 あからさまに落ち着かない様子を見せる漫に、こんなだからちょっかいをかけたくなるのだ、と恭子は困ったような不思議な笑顔でため息をついた。いちばん世話もしてきたが、いちばんちょっかいをかけてきたのも恭子なのだ。

 

 「それはそれとして、漫ちゃんのほうは最近どんな感じなん?」

 

 「えーっと、主将としては足りんと思いますけどみんなに助けてもらってなんとかやってます」

 

 「ほー」

 

 「わたしは器用なタイプやないですから、まずできることをやろうって」

 

 イメージしていたよりもはきはきと答えが返ってきたことに恭子は感心していた。下手を打てば泣き言が飛んでくることもあるかもしれないと思っていたほどだから、その落差は大きいものだったと言えよう。立場が人を作るという言葉があるが、いまの漫はそれを体現していると言えるのかもしれない。ちょっと見ないあいだに大きくなったなあ、とまるで親戚みたいなことを恭子は思う。それと同時にわずかに寂しさのようなものが胸を過ぎった。事実上、しばらく前に漫は恭子の手を離れていたが、今度はそれがたしかな実感になったからだ。

 

 元気のよい漫の返事に、恭子は二度三度としみじみ頷いた。目の前のこの少女はたしかに異能を持ってこそいるが、できないことをできないと自覚するという自分の魂のようなものを受け継いでいると恭子は理解した。それは()()()()()()()()()。どうしたってセンスや才能やその他いくつかの言い方を持つそれが幅を利かせるこの世界で、それと向き合うことは何より大事になるだろう。そう恭子が思うのは、誰より彼女がそう感じてきたからだ。

 

 「えらい殊勝な考え方するようになったなぁ、なんかきっかけでもあったん?」

 

 「……まあ、播磨先輩ですよね」

 

 ちょっとだけばつが悪そうに笑って、漫は自分が思うきっかけを口にした。

 

 「播磨?」

 

 「ほら、インハイの準決のときに先輩言うてたやないですか。頼れるヤツになれって」

 

 「ああ」

 

 言われてみればそんなことを聞いた記憶が恭子にもあった。たしかそのあとには尻拭いは自分に任せればいい、なんてことも言っていた。たしかに現役時代はそんな立場にあったが、他人からそう言われるとなんだか微妙な気持ちになるんだな、と思ったことを恭子はよく覚えている。

 

 根が真面目で、真面目すぎてちょっと融通が利かなくなりそうなところのある少女は、監督から言われたことを律儀に考えていたのだろう。そうして出した結論が、助けてもらいながらでも主将として立つというものだったのだ。このことに対して恭子は本当に立派なものだと称賛したくなった。口に出して褒めてはあげないけれど。

 

 「なるほど、それやったら団体レギュラーとしてはどんな感じ?」

 

 「うー……、中堅には座られへんかもしれませんね、わたしやと」

 

 姫松における中堅とはエースを指し、それは他校が外から見るよりはるかに重い。そこは勝利に直結する絶対的な何かが要求される場所なのだ。とくにここ二年間はそれがより色濃かった。その自信なさげな漫の様子は、恭子からすれば実に自然なものだった。

 

 「漫ちゃん、それは比較対象があかん。洋榎と比べるんは酷が過ぎるってもんや」

 

 「いや、そうやなくても安定して勝つんはわたしやとキビシイんやないかって」

 

 「やっぱりその辺はいまいち理解してないんやな」

 

 「へ?」

 

 「こっちの話。ま、コーチも播磨もそこは見誤らんと思うけどな」

 

 エース、なんてものの在り方は時と一緒に変わっていくべきで、はっきり言ってしまえば定まったかたちを持ってはいけないと恭子は考えている。すくなくとも理想形が、こうあるべきだというかたちが存在してはならないと考えている。なぜならそれはその理想を実現できないエースを生み、きっと潰してしまうから。そういった意味で愛宕洋榎は危険なエースだった。彼女自身が何も言わなくても、結果と背中ですべて済ませてしまうことができたからだ。あまり好きなやり方ではないが、“特別” と決めて蓋をしてしまうのがいちばんの存在だった。

 

 きっと漫をはじめとした一、二年生たちはその幻影に苦しむことになるだろう。いまは意識していないとしてもそれは必ずどこかで顔を覗かせる。しかし自身が手を出してはいけないことを恭子は理解していた。あのとき拳児が突き放したのも、結局それは彼女たちが自力で乗り越えなければならないことだからだ。後進の育成ほど難しいものはないとよく言うがそれは当然だろう、新たな世代はそれまでとは違った新たなかたちを生み出さなければならない。それは伝統を継ぐこととは違う部分での話で、言わば現実的な運用面での話なのだ。

 

 「え? へ?」

 

 「大丈夫。漫ちゃんならきっと大丈夫やから、ね」

 

 とりあえず新主将はどうにかなりそうな気がして、そのことが恭子にはうれしかった。まだしばらく先の話にはなるけれど、これで安心して卒業できる。ゴミ出しに行く途中の主将を捕まえて卒業の安心とはずいぶん偉くなったものだと自分でも思ったため、恭子はそこで話を打ち切って漫を解放してあげることにした。

 

 

 

 

 

 

 

 


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