姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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79 awakening to femininity

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 見上げれば空は二枚くらい薄い膜を透かしたような青が広がっているが、気温は空の色のもつイメージと一致しない。風が吹いてくる方向は大まかに北からのものになって、朝の天気予報では西高東低という気圧配置の単語がよく聞かれるようになった。特別な加工などされていない教室の窓は結露するようになり、教室に入るたびにクラスメイトの眼鏡は白く曇った。日の当たらない廊下はバカみたいに冷え込んで、便座が冷たすぎるという愚痴が聞こえるようになった。そんな時期の出来事なのだから、彼のちょっとした変化は何の不思議もないだろう。

 

 

 掃除のゴミ出しを終えた漫は教室に置いてあった荷物を取って部室へと向かっていた。学校の敷地内とはいえ意外とゴミ捨て場への距離があるために、当番になったときには練習開始に間に合うかどうかが五分五分だったりする。遅れたところで罰則があるわけではないが、主将としてはあまり望ましくない。そんなこともあって漫は小走り気味に廊下を移動していた。

 

 ある程度行くと先のほうに見慣れた後ろ姿がのしのし歩いているのが目に入った。学校でいちばん大きいというわけでもないが、まあとにかく目立つ容姿をしているために見間違えることはまずない。一八〇センチオーバーでカチューシャをしている男などたったひとりしかいないのだから。その人物が部室に着けば練習が始まるということで、それならせっかくだしということで漫はその男に声をかけることにした。

 

 「おーい! 播磨せんぱーい!」

 

 足の回転をすこし上げて漫は拳児に駆け寄っていく。いまさらどうこう言うことでもないかもしれないが、彼女はあまり周囲を気にするタイプではないらしい。呼ばれて拳児が振り向いて、オウ、オメーか、といつものように返事をする。部員たちは彼の定型句にもはや何も思わない。

 

 「いやあ、珍しいですね、このタイミングで会うのは」

 

 「単純にオメーが遅せーからだろ。掃除かなんかか?」

 

 「あ、はい。ぴったりそれです」

 

 あっそ、と自分で聞いておきながらまるで話を広げようとしないのもこの男の特徴である。慣れていなければイラッとくる人もいるかもしれない。拳児と会話をするのにはちょっとしたコツがあるのだということを知っているのは、やはり麻雀部員だけである。とはいえ根本的に忙しい身分の人物であることは確かであり、そうホイホイ捕まえて長話をするのは難しいというのも事実には違いない。だからこういうたまたまの出会いは意外と貴重な機会だったりもするのだ。

 

 「あ、おい、聞いておきたかったんだけどよ」

 

 「はい、なんです?」

 

 「こないだの部内団体戦、外から見ててなんか思ったか?」

 

 「あー、なんですかね、あそこに自分がおらんのがすごいイヤでした」

 

 聞くだけ聞いて拳児はとくに何も返さなかった。これが夏前であれば、この様子は何も考えていないと断ずることができたが今はそうもいかない。いつの間にか監督としての思考回路を埋め込まれた拳児は、部に関わる事柄についてはしっかりと頭を回すようになったのである。言い方を変えれば、部員たちの幻想にわずかながら追いつき始めたということだ。もちろん漫は目の前の監督にはじめからその幻想を抱いていたから、何も言わない拳児に対してマイナスのイメージを抱くことはない。せいぜいもうちょっとかまってくれたほうが楽しいといった程度だ。

 

 そんなことを考えていた漫は拳児のほうへ視線をやって、いつもとは見た目がちょっとだけ違うことに気が付いた。頭部はいつもどおりだが、服装がすこし違う。

 

 「あ、播磨先輩やっと学ランのボタン留めたんですね」

 

 「そーいう主義でもねーしな」

 

 とはいえ真面目な学生のごとくすべてのボタンを留めているわけもなく、拳児が留めているのはだいたいみぞおちの辺りにあるボタンから下に限られていた。そこから視線を上にあげるとキャラメルカラーのカーディガンと、やっぱりある程度ボタンの空いたシャツが目に入る。

 

 「へー、先輩カーディガンなんて持ってるんですか、てっきりそんなもん着ないぜ派の人やと」

 

 「バカ言え、寒けりゃ着るわ」

 

 「意外としっくりきますね、やっぱスタイルええからかな」

 

 「制服なんだからそこまでおかしくなるわきゃねーだろが」

 

 気が付けば二人の会話は、漫が拳児の前に出たり後ろに回ったりして着こなしをチェックしながらのものになっていた。拳児の周りをくるくる回りながら身振り手振りを加えて話をしている様はどこか微笑ましいものだった。すくなくとも編入当時よりは拳児の安全性が確認されているため、それを見て動揺するような生徒はずいぶんと減ったという事実も関係していないわけではない。

 

 

―――――

 

 

 

 部活が始まってしばらく時間が経ち、同じ姿勢を続けてちょっとこった体を漫が伸ばしていると、卓にはつかずに牌譜を読み漁っている前主将の姿が目に入った。イメージとは一致しないかもしれないが彼女は意外と研究熱心であり、だからこそ継続的に強さを発揮している部分もあるほどだ。ただ彼女の思考の軸にあるのは打つことが麻雀の根本であるというもののため、まずは卓に着いて、それから気になるところができたら反省を含めて研究を始めるのが常だった。どうして今日になって漫の目に留まったかといえば、昨日から練習が始まって以降いちども卓に着いている姿を見てもいなければ元気のいい和了宣言を聞いてもいなかったからだ。一日程度なら打たない日もあるかもしれないが、二日目もそれが続くとなればそれはさすがに異常と言わざるを得ない。

 

 次の年度にはプロのとしての生活が始まる洋榎はさらに腕に磨きをかけるべく他の三年生が引退した今でも練習に参加しているが、実質的な成果で見るならば現役部員たちの成長に寄与しているといった側面が強い。爆発状態の漫をさえ平気で抑え込むような彼女が実力を鍛え上げられるような相手は、やはりというか現在の姫松には存在しない。言ってしまえば高校生が相手となると宮永照だの辻垣内智葉だのといったような相手でなければ身を削るような試合にはならないのだ。もしそれ以上を望むのなら、それこそこれから飛び込むプロの世界にしか適切な相手はいないと断言できる。そういった見方をするならば洋榎が牌譜を読み漁っている現状もおかしくないといえばその通りではある。

 

 しかしさすがにそこまで考えが及んではいない漫からすれば、いつもと違うこと、で済まされてしまうことに変わりはなく、素直な彼女は既に洋榎のほうへ足を向けていた。

 

 「せーんぱいっ」

 

 「ぅわあっ! お、おお、なんや漫か……」

 

 まるで暗い夜道で後ろから突然に声をかけられたかのような驚きぶりに、さすがの漫も心配になった。確認しておくがまだ外は明るく、漫も別に後ろからこっそり近づいたわけでもない。普通に声をかけたら普通ではない反応が返ってきたのだ。

 

 「え、いや、なんかあったんですか」

 

 「んにゃ、単にびっくりしただけや。ま、強いて言うならいつもより肌ツヤがええかな」

 

 「それはいつもと変われへんと思いますけど」

 

 「えぇー……、もうツッコミですらないやん……」

 

 イメージとはまったく違った返しに洋榎はわかりやすく元気をなくした。これが彼女のイメージした通りなら、もうちょっと漫もノってくれて会話も弾んだはずだったのだが、いったいどこで何をどう間違えたのか状況はそうは進まなかった。

 

 「なあ漫、今のボケそんなあかんかったかな」

 

 「いやいやボケどうこうの前に心配なりますからね、センパイが卓つかへんとか」

 

 「ん、なんや気付いとったんか」

 

 「あっはっは、やってセンパイめっちゃ目立ちますし。播磨先輩ほどやないってだけで」

 

 にっこり笑う漫と対照的に洋榎の眉間には少しだけ皺がよった。どこか不機嫌というよりも消化不良の物事を抱えているといった印象を与える表情だ。いまさら播磨拳児と比べられて怒るような関係性ではないのだから、何やら他に思うところがあるのだろう。もちろんその内容が漫にわかるはずもなく、そのことについては放っておいて、彼女の頭はプロ行きを決めた先輩が卓に着いていない理由のほうへシフトしていた。ちなみに話題に上がった拳児はいま第二部室に足を運んでいるためここに姿はない。

 

 普段から特別に仲の良い末原恭子や真瀬由子、あるいは妹である愛宕絹恵を別にして、ひとりの部員という観点から見ると、愛宕洋榎という存在は掴みづらいというのが正直なところだった。麻雀に関しては超人的であり、その成果だけで部員全員を引っ張っていく存在。かと思えば初対面だろうが対戦相手だろうがお構いなしにコミュニケーションを取って、気が付けば友達を増やしている。弱音を吐かない、不安な表情は見せないといったある意味人間らしくないとさえ言えるような振る舞いと、ごくごくまれに零れる達観したような一言のせいで余計に人物像とでも呼ぶべきものが見えにくくなっているのである。だからこそ漫は尊敬するべき対象のいつもとは違う行動を心配し、またそんな彼女がナイーブになる可能性のあることについて思考を巡らせた。

 

 「あ、ひょっとして一人暮らし始まるのの心配ですか? 北海道やし、遠いですもんね」

 

 「んー、そこは大丈夫やろ、どのみち最初は寮らしいしな」

 

 「それやったら何が大丈夫とちゃうんですか」

 

 「えっ」

 

 いつもの調子で返答するものだから、何が事情があることを証明する返しをしてしまったことに言われてから気がついて、あまり聞けないような濁った感嘆詞が漏れる。もともとが嘘のつけない性格なのだから追究されているうちに隠しきれなくなることはわかっていたことだったが、それにしたって素直に過ぎるというものである。

 

 「あっ、や、やー、ないで! 全然ほんまにオールオッケー大丈夫!」

 

 「目ぇ泳ぎまくりやないですか、寒中水泳ですか」

 

 「もう年末も近いしな、ってやかましいわ」

 

 「それで何があったんですか」

 

 「……ハァ、ええか、いまから言うことはウソちゃうからな? これ昨日のハナシなんやけど」

 

 

―――――

 

 

 

 「うっそぉ!?」

 

 話の前に念押しをされてもなお、練習中の部室だというのに漫は驚きの声を抑えきることができなかった。第一部室にいる部員たちの目がいっせいに漫と洋榎のほうへと集まったが、ああ、あのふたりか、と納得するとそれぞれがすぐさま自分の練習へと戻っていった。仮にも視線を集めたのは現主将と元主将だというのになかなかの扱いである。ちなみに拳児と郁乃は現在第二部室のほうへ指導に回っており、そこはかろうじて幸いだと言えた。もしもどちらかが大声を上げた漫を確認していれば洋榎も合わせて説教コースだっただろう。話は逸れるが播磨拳児という男は勝つための練習というものに対しては一貫して真面目であり、もし部員が練習中に気を抜いているようであれば普通に注意を飛ばすくらいのことは監督就任直後から行っている。矢神時代にはなぜかバスケットボールを練習する姿も確認されていたりする。

 

 一瞬とはいえ練習を止めてしまったことで気まずさを覚えたのか、二人ともが眉を困らせながら目を合わせて、そして何とも言えない笑みを浮かべた。しかし話そのものはまだ終わっていないため、漫は話を聞こうと椅子を洋榎のほうに寄せた。反省もあって声量は先ほどよりも明らかに小さい。

 

 「だからウソちゃうんやって。コーチに直に言われたんやもん」

 

 「え、それなんかいろいろ大丈夫なんですか」

 

 「……あっちはそう思とるんやろな」

 

 「それ身も蓋もない言い方したらふたりで北海道旅行ですよね?」

 

 そう言った瞬間に洋榎の右手が漫の左肩をつかんだ。口こそ開いていないがぶるぶると首を振る動作のおかげで言いたいだろうことはすぐに漫にも察することができた。頭ではわかっていても言葉にしたくない、してはいけないものがこの世には意外なほど多く存在しているのだ。こくこくと頷くことでこれ以上NGワードを言わないことを示したあとで漫は話を続けることにした。

 

 「……ちなみに播磨先輩は何て?」

 

 「漫、あいつたぶんアホやで。“はぁ、北海道スか” ってそれだけや」

 

 「えええ、どう考えても大事なトコにピンと来てないやないですか」

 

 「まあ言うてもいろいろあったみたいやし、そっちのアタマが働かんのもわかるけどな」

 

 「でもそれこっちからすると」

 

 「まあ、うちがモテへんのはおかしいとまでは言わんけども、女としての自信失くすわなぁ」

 

 

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 「えっちょっ播磨、え? 行くの? ほんまに?」

 

 予定を言うだけ言って足早に去ってしまった郁乃に取り残されて、洋榎と拳児は部室へ向かう途中の廊下に突っ立っていた。カバンを左手に提げた洋榎が珍しくはっきりと動揺している。学校生活ではそうでもないが麻雀が関わっているときにはまず見られない振る舞いだ。

 

 「あの言われようじゃ行くしかねーだろ」

 

 「言うてもジブン高校生やで? そのへんわかっとるんか」

 

 「鏡見ろ鏡」

 

 状況や会話の内容だけを見れば日常的な友人同士の応酬と取ることもできそうだが、実際のところは混乱が洋榎の頭を支配していた。もう西の空は白に橙色を透かしたような色に染まり始めている。時計の針はおおよその部が活動を開始するような時刻を指しているが、冬至も近いこの季節でははっきりと日は短い。

 

 「大体よ、入るプロチームにアイサツに行くってんなら俺様が行くのは当然だろ」

 

 「そやけどこーいうんはフツー大人が行くもんちゃうんか」

 

 「まあそこに関しちゃ俺もそんな気はするけどよ、立場を出されちゃナンも言えねーよ」

 

 「お前ほんまなんで監督なん」

 

 うるせえ、と一言だけ返して拳児が歩き出して、それに洋榎がついていく。リノリウムの床を上履きの靴底が叩いて出す独特な響きが二つのリズムを刻み始めた。ポニーテールの少女の顔はまだヒゲグラサンのほうに向いているし、時々そのヒゲグラサンの顔もポニーテールのほうに向けられているようだった。

 

 「別に移動費も他もいろいろ出してもらえんだから問題ねえじゃねえか」

 

 「アホ! そんなケチくさいことこの洋榎ちゃんが言うワケないやろ!」

 

 「あーもう、じゃあなんだってんだよ」

 

 「あれや、部のほうはどうすんねん。練習見なあかんやろ」

 

 「そもそも俺が来る前は赤阪サンひとりで回ってたんだからその必要もねーだろが」

 

 そこまで言ってしまうと、話は終わったと言わんばかりに拳児は歩調を早めた。体格的に差のある拳児が早歩きをしてしまえば洋榎に追いつけるわけもなく、結局彼女は微差とはいえ練習開始に遅れてしまうかたちとなった。卓に着こうにもあれだけ予想外の話をぶつけられた直後にいつもどおり心穏やかに物事を考えることはさすがの愛宕洋榎にもできず、余計な考えが欲しくもないのにいくつもいくつも浮かんでくるような事態に陥っていた。もちろんそんななかで集中できるわけもなく、しかし部室に顔を出しておいて練習に参加しないという選択もできないために彼女が導いた結論が牌譜を読むふりをするというものだった。彼女への信頼が厚かったこともあって周囲はそれほど違和感を覚えなかったが、翌日になって漫に見つかるというのがこの後の流れである。

 

 

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 第二部室での指導を終えたのだろう、第一部室のいつものお決まりの場所に座っている拳児のもとへと額の元気なおさげの少女が近づいていく。

 

 「せんぱーい」

 

 「オウ、どうした」

 

 手元の資料から顔を上げて、漫のほうへと視線を向ける。漫から拳児に質問を投げることはそれほど珍しいことではない。なにせ彼のアドバイスのおかげで彼女は考え方を変えるきっかけをつかんだのだから。もちろん質問の範囲が大雑把な質問には答えてくれないが、きちんと的を絞った質問であれば最低でも方向性は示してくれる。ちなみにこの漫の継続的なアクションのおかげで拳児への質問が増えるようになったのだがそれはまた別の話である。

 

 「いっこだけええですか?」

 

 「ナンだ」

 

 「いくらなんでもナシやと思います」

 

 「……は? 何が?」

 

 

 

 

 

 

 


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