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「お前、ちょ、なんでこんなん、もっと前に起こすとか」
「どうしようもねえよ、五分十分で
外の景色に釘付けになっていた目をロビー内に向けてみると、同じようにじっと外を眺めている人々が見受けられる。年末が近いとはいえ帰省のピークでもない平日ということで目を背けたくなるほど混雑してはいないが、それでも一定程度はいるこの雪の嵐に捕まった人たちのほとんどすべてが外の雪の飛び交う様子に目を奪われたようだった。上に向けた顔を両手で覆って状況に対する不満を飲み込んだすぐあと、あれ、と洋榎は再びまわりを見渡した。
「なあ播磨、いっこ聞きたいことあんねんけど」
「たぶんオメーの思ってるとおりでビンゴだよ」
「ひょっとしてこれ、閉じ込められてるパターンのやつやんな?」
「……飛行機どころか電車もバスもタクシーも動いてねーからな」
「ちょっと外に散歩ー、いうんは」
「自殺行為だ」
冗談ともそうでもないともつかないやり取りがあって、洋榎はまだ聞いていなかったが定期的に行われていたであろう館内アナウンスが流れる。外の景色を目にした瞬間に理解はしていたが、すでに警報は出揃っているらしい。むしろ何の警報も出ていなかったら気象庁に文句を言いたくなるほどの惨状なのだから当然と言えば当然のことだ。
もう一度だけ周囲をぐるりと見渡したあとで盛大にため息をついて、いつの間にか背もたれから起こしていた体を思いきり後ろに預けた。いまここでどんな文句を言ったところで状況が変わるはずはないし、そもそも拳児が天気に関係しているわけがない。必然として洋榎は口を閉じることになった。毛布をすっかり肩まで掛けてどうしたものかと眉根を寄せる。その様子をある程度は落ち着いたものと取ったのか、めずらしく拳児が声をかけた。
「おい、外こんなんだからよ、さっさと家族とかに連絡してこい」
「ん、おお、そやな。心配するかもしれへんしな。にしてもなんや、意外と気ぃ利くやんか」
「うるせェ。オメーが思ってるよりは面倒くせぇ立場なんだよ」
家族への連絡を聞かれるのはさすがに気恥ずかしかったのか拳児からは離れて電話をかけにいった洋榎が戻ってきて、拳児の隣に腰を下ろした。どういった話の進め方をしてきたのかさっぱりわからないが、拳児からはどうしてか洋榎が妙な疲れ方をしているように見えた。そのくせ何も聞くなオーラを発している。経験上こういった態度を取っている相手から話を聞こうとしてはいけないことを拳児は知っている。絶対に面倒に巻き込まれるのだ。
立ち上がったときに置いていったはずの毛布を、洋榎はもういちど抱え込んだ。館内は不均質なざわめきとときおり流れるアナウンスで満たされている。二人とも意識に上げることはなかったが空気はさすがに快適なもので、本来ならもっと積み重なっていたはずのストレスの軽減に役立っていた。窓の外の景色は変わることなく大荒れで、時計がなければ大雑把な時間の把握すら難しい。わかるとすればせいぜいまだ夜にはなっていない程度のことが限界だろう。
手元のスマホをいじりながら、ぼんやりと洋榎が零す。仕草だけ見ればどこをどう切り取っても女子高生のそれだが、その内容は一般的な女子高生のものよりよほど現実的だった。
「あかん、アナウンスの言う通りや。もう今日のぶんはぜんぶ欠航になっとる」
「そうかよ、にしても気の利かない連中だぜ。事前にわかってりゃ延期くれえしとけってんだ」
「そら言ったらあかんやつやろ。なんや爆弾低気圧? いうんが急に進路変えたらしいからな」
「爆弾低気圧だか武者小路実篤だか知らねーがメーワクな話だぜ、まったく」
「あー、それ教科書に載っとったな」
それが何を指すのかよくは理解していないが、とりあえず音として頭に残っていたものを愚痴に使って二人はほんのわずかに溜飲を下げた。拳児と洋榎という普段からほとんど本格的な文句など口に出しそうもない二人がなぜこんなに対象を明確にして愚痴を零しているのかといえば、二人に許されているのがしゃべることと、あとは実際的な手続きなどを行うことに限られていたからである。そもそも学校生活の段階で、そのほとんどが部活絡みであるところには寂しい印象を抱かないわけでもない、やるべきことが詰まっている二人はゆっくり趣味に没頭する時間など取れた試しがないために趣味など持てず、だからこそこのようにぽんといきなり空いた時間を与えられても何をしたらよいのか見当がつけられないのが現実である。悩んだところで結局は手持ち無沙汰となってしまって採れる選択肢が口を動かすくらいしかなくなってしまうのだ。さらにそのうえ会話があったにしても仲良くわいわいと会話を楽しむような関係性、これは一方的に拳児による部分が大きいが、ではないためにその内容にせよお互いのテンションにしろ必然として明るくはないものに落ち着くことになってしまうのである。
「……チケットの払い戻しンとこ行くぞ」
「うちが寝とるあいだにやっとってくれたらええのに」
「バカ言え、オメーのチケットをなんで俺が持ってなきゃいけねーんだ」
「それは、まあ、セクハラになるなあ」
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外がすっかり夜の闇に呑まれて、積み重なっていく白い雪さえもそれほど距離を置かずに黒く見えた。天候は変わらず酷いもので、館内の光が漏れる範囲だけでもそのことがじゅうぶんにわかるほどだった。そのくせ音がきれいに遮断されているから、感覚としては奇妙なものだった。普段は近くで飛行機が離発着していることもあって防音は行き届いているらしい。
ただ座っているだけの時間は二人にとって退屈なものだった。彼らが特別に生き急いでいるというわけではないが、いくらなんでもじっと腰を落ち着けて荒れ狂う風景を眺めて時間を潰すことに楽しみを見出せるほど達観しているわけでもない。ちょっと普通の人生ではできないような体験をしてきているとはいえどちらもまだ身分としては高校生でしかなく、この偶発的に生まれた時間を退屈に感じるのも仕方のないことと言えた。現時点でできること、やるべきことはすべて済ませていたし、食事も終えたばかりだ。残ったことと言えばせいぜい天気が早く回復するように祈ることくらいだが、どうやらその祈りはガラスを通り抜けることができないらしかった。
「なァ、なんでいっつもサングラスつけとんの」
「別になんでもいいだろ、俺様の勝手だ」
館内にいるほとんどの人が状況を受け入れたのか、洋榎が起きたばかりのときにはあれだけ満ちていたざわめきもすっかり落ち着いていた。もちろん人がいる以上まったくの静けさというわけではないが、今では声量に気をつけなくても問題なく会話が通じるくらいにはなっている。
「なんか意味とかあんの」
「ねえよ、ねえ」
そう言って拳児は首を横に振った。疑える材料を持たない洋榎はそれを疑うことができない。播磨拳児が変な男であることは春からの付き合いでよくわかっている。そんな彼のこだわりなど理解しようとしたところで及ばないのがオチだろう。そう考えた洋榎は質問を重ねるのをやめることにした。それにもともと強い興味が湧いての質問でもないのだ。修学旅行のクラス単位のバスでの移動中に見かけたヘンテコな建物の用途は何だろう、と聞いているのと変わりない。結局はなんとかしてひねり出した時間つぶしの一方策でしかなかった。
あっそ、と洋榎の言葉が空中でちいさく弾けると、また言葉のない時間がやってきた。
あまりにも退屈が極まって、洋榎は自分の左手の指を一本ずつ点検し始めた。生まれてからずっと自身の身体の一部として近くにあった割には明確に意識に置いた記憶がほとんどないことが、なんだか洋榎には面白かった。彼女自身この指が長いとは思っていないが、それでもいつの間にか十八歳然とした長さになっている、と思う。正直なところ十八歳然とした指の長さなどよく理解してはいないが洋榎はただそう感じていた。動かす。動く。薬指だけを独立して動かすことはできなかった。どうしても中指か小指がつられて動く。右手でいろんな方向に引っ張ってみたりする。手の甲側には九十度までしか曲がらなかった。これがずっと自分を支えてくれた片割れなのだと思うと、そこで初めて親近感が湧いてきた。磨いたわけでもない爪を眺めて、洋榎は得意げな笑みを浮かべた。そうしてまるでポンチョのように体に巻き付けている毛布の中に左手を仕舞った。
収まりが悪いのか毛布の中でもぞもぞと体を動かしていた洋榎の動作が、あるタイミングでぴたりと止まった。じっと毛布を見つめて怪訝そうな顔をしている。
「なあ播磨、この毛布ひょっとして」
「風邪でもひかれると面倒だからな、持ってきてもらった」
「お前ほんまに実はええヤツやろ。ナリで損ばっかしてるんちゃうん」
「毛布くれーでやかましい」
気が付いてみると拳児はいつもの学ラン姿だ。調整された環境下なのだから外で着ていたジャケットを脱いでいることはおかしくないが、いま洋榎にあるものが拳児にはない。ポケットに手を突っ込んで、腰をすこし前に出して背もたれに寄りかかっている姿勢はいかにもチンピラの匂いがする。膝下が長いせいで座っている椅子が小さく見えた。しかしその姿はただ座って待っているだけにしか見えなかった。
「ちゅーかなんで毛布一コやねん。フツー自分のももらうやろ」
「使わねーんだからもらう必要もねーだろ」
「えぇー……。自分でそう言うんやったらもうなんも言わんけども」
「余計な世話だ。明日に備えてさっさと寝てろ」
「そらこっちのセリフや。うちと違て昼寝もしとらんのやろ?」
「フン、俺様を誰だと思ってやがる。一日寝ない程度でどうにかなるようなヤワな体じゃねえ」
自信満々な態度はさておき、言い方にちょっとだけイラッときた洋榎は、それ以上の救いの手を出さないことに決めた。それにこの男の体力バカぶりを考えれば本当に一晩の徹夜くらいはどうってことはなさそうに思える。この事態を含めて考えればおそらく明日も学校は公欠扱いにしてくれるだろうし、どうしても辛いなら帰りの飛行機で仮眠は取れる。さすがにそれくらいの自己判断はできるだろう。洋榎はそう考えた。まだ彼女自身眠くはなかったためすぐ目を閉じるようなことはなかったが、寝かせてもらえるのはありがたいところだった。とはいえここは日本なのだから二人ともが眠ったところでどうなるものとも思えなかったが、そろそろ頭を働かせるのも面倒になってきていた。気を抜いたからか不意にあくびが出そうになったが、人前ということで洋榎はなんとかそれを噛み殺して視線を真っ暗な外へと向けた。
窓のすぐ近くをちいさく白い何かが横切るだけなのだから殺風景であることに変化はなかった。防音が行き届いていることもあるのかもしれないが、外が音の無い世界のように見えた。雪の動きから強い風が吹いていることは間違いないのだが、洋榎にはどうしてもその音がイメージできなかった。テレビの音量をゼロにして映像だけを眺めているような感覚が残った。