姫松高校麻雀部監督代行播磨拳児   作:箱女

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84 積もらない雪の日に

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 軽い灰色の空からちらちらと小さな白い粒が降りて来る。息を吐けば、そのままそれが白い塊として一瞬だけ占めた空間を温める。濃度の違う白がいくつも近くに存在するせいで、街並みという背景はいつもよりずっと印象が薄く、透明ではないという意識だけを人々の頭に残すだけだった。

 

 雪は地面に降りてはすぐに消え、それを眺めているといったいどうすれば降り積もるなんていう事態になるのだろうと不思議に思えるのだった。かすかな風のせいで大雑把な指向はあってもその中で不規則に揺れる軽い冬の象徴は、たしかに見ていても単純な飽きというものをすぐには感じさせない。傘をさすのは大げさに思われて、それでも何もせずに歩いていると多少のわずらわしさが生まれる程度の天候だった。昨晩の日付が変わるよりは前の辺りで降り始めた雪は、東京ではこの冬で最初のものだった。時期としてはおかしいものではないし、かと言って降らなかったところで変なことでもない。東京での雪などそんなものだ。

 

 黒く湿ったアスファルトの上をのんびりと歩く。朝が弱いなどということはないのだが、余裕を持って家を出て、そうしてゆっくり歩くのが彼女は好きだった。しかし彼女を知る人間はほとんどがそれに対して意外だと口を揃える。彼女の驚くほど生真面目な姿勢は、どこか生き急いでいるように映っていたから。きっと本人からすれば大きなお世話なだけだろう。

 

 

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 「サ・ト・ハー」

 

 「ええい、なんだうっとうしい。声をかけるなら普通にかけろ」

 

 四時間目の授業が終わって昼休みが始まった直後に、いつもどおり機嫌よさそうにメグが智葉の席へとやってきた。臨海女子は生徒数が多いために学年ごとのクラスも多く、その影響かはわからないが二人のクラスは別である。大抵は昼休みになるとメグが隣のクラスから何の躊躇もせずに智葉のクラスの戸を開けるのが習わしと呼べるほどのものとなっている。当然ながら二人ともそれぞれ自分のクラスに友達はいるが、昼休みを共に過ごす面子となると固定されてくるのはわりとよく見られる傾向だろう。智葉も気が付いてみれば一年の頃から昼休みはメグと過ごすのが自然となっていた。三年生になってからに絞るとネリーがいたりいなかったりするが、彼女はどこまでも自由人であるためにいないのが通例であると認識することが暗黙の了解となっている。

 

 智葉は基本的には弁当を作って学校に来ているが、メグは一も二もなくラーメンを食べることに奇妙なほどの情熱を燃やしており、そのため二人が食事を摂るのは学生食堂と決まっている。食堂は学生の数も考慮して効率が重視されていることもあって、長机に椅子がずらっと並んでいる。端のほうまで行けば四人テーブルなどもあるにはあるが、人数規模から導かれる競争率を考えれば取りに行く気にもなれないというのが智葉の認識だった。

 

 若さとは成長の余地を残していることを指し、成長は多大なエネルギーを要求する。高校三年生でそれも女子ともなれば成長も止まっているだろうという声もあるかもしれないが、それは外面にしか目が行かない者の言である。内面の変化にも当然エネルギーは必要で、言い換えれば性別に関係なく高校生が腹を空かせることは自然なことである。したがって智葉の隣を歩くメグが楽しそうにしているのも自然なことと言える。智葉自身がどんな気持ちなのかは表情からだと判断のしようがないが。

 

 

 二人が座れたのは長机の真ん中辺りの席で、席に対する評価としてはあまり良いものは与えられない位置だった。いつものことだがメグは場所を確認するや否や注文をしにさっさとカウンターに向かって行ってしまって席には智葉がぽつんと残った。いま現在は麻雀が関わっていないから彼女は髪をまとめてはいないし眼鏡もかけていない。かわいらしいサイズの弁当箱が包みのハンカチの上に乗っているのがよく似合っていた。一般的な女子高生として不釣り合いなのは姿勢の美しさだけで、それ以外の要素におかしいところはどこにもない。ちなみに麻雀部での練習でひっつめ髪と眼鏡のまま弁当を食べようとしたところをメグに “その弁当箱のサイズは似合わない” と笑われ、彼女をその休憩時間のあいだ黙らせ続けるほど睨みつけた経緯があったりする。

 

 メグが帰って来るまでは多少の時間があるが、性格上自身はきちんとしていなければ気が済まない智葉は先に食べることなく待つのが常だった。そのあいだが退屈かといえばそういうこともなく、重ねた年月が増やした知り合いが通りすがりに声をかけていったりする。智葉は自分のことを無愛想で面白くない女だと思っているが、外からの評価はどうやらそれとは違ったものということのようだ。

 

 「イヤー、今日は悩みまシタ! 醤油にするか味噌にすルカ!」

 

 「残ったほうを明日食べればいい話だろう」

 

 「そういうハナシじゃありまセン、イチゴ一円、安い! というやつでスネ」

 

 「そのイチゴ不良品かなんかだろ、……一期一会か? それ」

 

 ボケなんだか真面目に言っているのか判別のつかない会話はメグの十八番で、正直なところ智葉は目の前のこの少女が本当は日本語を完璧にマスターしているのではないかと疑っている。しかしいちいちそのことに触れるのも馬鹿らしいと考えて、わざわざ聞くようなことはしていない。

 

 もちろん話題の提起はメグからのほうが多いが、智葉から話を始めることも別に珍しいわけではない。真面目な話もすればくだらない話もする。外からのイメージほど彼女が固い存在ではないということを知っている人物はあまり多くないのだが、それが良いことなのかどうかは本人にも判断がついていない。ただメグだのネリーだのと問題児ばかりを相手にしていると、面倒な話を持ってくる対象を減らすという実感できない効果を発揮しているのではないかという考えも浮かぶようになるのだから困りものである。

 

 「そういえばお前、正月は実家に帰るのか?」

 

 「そうでスネ、今年くらいは帰ろうカト」

 

 「高校も卒業で節目だものな」

 

 「そんな時にメールじゃ味気ないですかラネ」

 

 そろそろ周囲も空席がなくなるほどに混み合ってきた。臨海女子は強豪の運動部も数多く抱えているために越境入学をしている生徒も多く、彼女たちは寮に一人で住んでこそいるものの、だからといって家事が十全にこなせるということにはならない。寮では朝食夕食と出してもらえることもあって、掃除洗濯まではできても炊事となると手が回らないパターンがよく見られるのだ。したがって昼食時には食堂が大人気なのである。智葉とメグの二人も授業が終わってからそれなりに早く教室を出たはずなのにそれほど良い席が残っていなかったのにはそういった事情が控えている。

 

 周囲を人に囲まれ過ぎると逆に孤独になったような錯覚に陥ることがあるが、いま智葉はそれと似たような感覚を味わっていた。おそらく学年も違うのだろうグループに前後左右を占められている。無論メグがいるというのもあるが、智葉はこういう状況も案外と嫌いではなかった。何を話そうとも周りに気を配らなくていいというのは実に気楽な話だ。冷静に振り返ってみると、あの部をまとめる立場というのは心労が大きかったのではないかと思えてくる。不意に苦笑いがこぼれた。

 

 「サトハもご実家には顔を出すんでショウ?」

 

 「まあな。遠いわけでもないし、それに帰っておかないと両親がうるさい」

 

 「ハッハッハ。大事な機会でスヨ」

 

 「でもまあすぐに戻ってくるつもりだよ、幸い今年は受験勉強って建前もあるしな」

 

 「フーン、年末はどうするんデス?」

 

 「寮でいいよ。実家は年が明けてからでじゅうぶんだ」

 

 すっかり一人暮らしに慣れたように返す。両親の立場からすればきっと寂しいだろうことはわかっているが、無意味に変な意地を張りたくなる年頃というやつなのかもしれない。単純な反抗期とは違って、いまの彼女は自立心みたいなものが根拠として大きな位置を占めている可能性もある。本当のところがつかめないのは彼女が自分の本音を話してくれないから、という結論になってしまうのが残念だ。このことに関しては部員たちも直接文句を言ったりしているのだが、当の智葉は取り合わないのが現実だった。

 

 きっと昼休みが始まる前から効いていたのだろう暖房と人口密度、それに目の前のラーメンの熱気で、食堂は季節に似合わないほど暖かかった。むしろ温度を失った弁当がバランスを保っているようにさえ思える。午後がいきなり体育の授業から始まるのはすこし気に食わないが、運動不足になりがちな今の時期には大事な時間であるとも言える。そういうことを考えていると、熱というのは重要なのだなという当たり前すぎてどうしようもない考えがぽんと智葉の頭に浮かんだ。

 

 「年明けと言エバ、あいさつ回りみたいなのはするんでスカ?」

 

 「……元旦にはすることになるだろうな、早めに切り上げさせてくれればいいんだが」

 

 「しっかりした環境って大変ですヨネ」

 

 「いろいろあるんだよ。好きかどうかは別にしてな」

 

 「播磨クンとかにもちゃんと連絡するんでスカ?」

 

 「世話になったしな、それが道理だろう。姫松ならあと連絡先知ってるのは……、愛宕か」

 

 「……なんといウカ、その辺が彼氏のいない原因なんでしょウネ」

 

 そう言いながらため息をつくメグの表情は、どうしたものかと真剣に頭を悩ませているもののように見えた。智葉はいまの会話の流れから彼氏という単語が出てくる理由もため息をつかれる理由も思い当たらなくて、ただただ困惑するばかりであった。播磨拳児はゴールデンウイークの合宿でも十月ごろに練習に参加してもらった時にも、実力は別にしてお世話になったのは事実だし、愛宕洋榎に関してはそもそもしょっちゅう全国だの選抜だので顔を合わせている。そんな人物たちに年始のあいさつをするのは当たり前の話であってそれ以上に何があるというのだろうか。

 

 「おい、話がつながらないぞ。それ以前にうちは女子高だろう」

 

 当然のことを口に出したつもりが、それを聞くや否やメグは食事の手を止めて額に手をやった。言葉にされてはいなくても、呆れられていることくらいはわかる。いまはただの仲の良い友人として話をしているぶん、メグの態度がちょっと引っかかって、智葉は自分の正当性を主張しようとした。

 

 「というか今の時期に彼氏だなんだは邪魔になるんじゃないか? 受験が近いんだぞ?」

 

 そこまで言ってしまうとメグは額に手を当てたまま思いきりうなだれた。もしかしたら小声で、あちゃあ、と呟いたかもしれない。智葉はそんな声を聞いたような気がした。

 

 「わかりまシタわかりまシタ、別の話にしまショウ。ゴールドフィッシュは元気でスカ?」

 

 「ん、ああ、元気だよ。調べてみて初めて知ったんだが、越冬くらいなら簡単らしいな」

 

 「へえ、小さいのにタフなんでスネ」

 

 「個体差もあるらしいが三十年生きるやつもいるそうだ」

 

 「冗談でショウ?」

 

 「どうだかな」

 

 そう言ってちいさく智葉は笑った。彼女は本当にごくごくたまにだけ茶目っ気を見せる。これは気を許せる友人を相手にしているときにだけ見られる貴重な振る舞いなのだが、智葉自身は何の気にも留めないしその持つ意味も考えない。仲が良いのだからたまには軽口くらい叩いてもいいだろう、くらいにしか思っていない。どういった環境で育ったのかはわからないが、どうやら彼女と自己評価という観念はかなり縁遠いものであるらしい。

 

 「そういエバ、あの、なんでしたっけ、金魚すくい? サトハが苦手なんて珍しいですヨネ」

 

 「いいだろ別に。昔からあれだけはうまくできないんだ」

 

 「てっきりサトハは完璧超人なのだとばっかり思ってましたケド」

 

 「まずそんな人間はいないし、金魚すくいごときでそれが崩れるのも酷い話だろ」

 

 「それもそうでスネ。あ、忘れてまシタ、ご両親と播磨クンによろしく伝えておいてくだサイ」

 

 「会う機会もそうないだろうしな、忘れないようにしておくよ」

 

 

―――――

 

 

 

 手洗いに行くと言ってメグがさっさか廊下を駆けて行ったせいで、智葉はひとりで弁当箱の入った包みを持って教室に戻ることになった。こんなことは三年も一緒に過ごしていれば何度もあるために彼女は気に留めることもないし、それにゆっくり歩くのは嫌いではない。朝には粒は小さいながらしっかりと降っていた雪は気が付けばすっかり止んでいた。

 

 とくに頭を働かせることもなく、教室に戻ることと泡のように浮かんでは消えていくどうでもいい思考だけが脳を掠めていくだけの折、ふと声をかけられた。意識を急激に引っ張られたのは声の主が智葉の脳内のブラックリストに登録されているからだった。もうこれはクセになってしまったと言ってもいいだろう。夏までは臨海女子麻雀部で起きた事件の処理をするのは智葉の役目だったのだから。

 

 「サトハ! 久しぶり!」

 

 「そうでもないだろ、先週には顔を見た覚えがあるぞ」

 

 「だって部活にいたときは毎日会ってたから、それと比べたら久しぶりだよ」

 

 麻雀を打つ時とは違う、高校の制服に身を包んだネリーがまるっこい笑顔でそこに立っていた。場所と制服があるから成立しているようなもので、言ってしまえば小学生の集団にいたらそのまま小学生で通ってしまうほどに彼女は骨格レベルで小さい。初対面の人物に高校生だと紹介すれば冗談だと思う人が大半に違いない。ただそれでも観点を麻雀という競技に移せば、彼女に肩を並べられるプレイヤーさえほとんどいないのだから面白いものだと智葉は思う。

 

 「まあそれはそれでいい。麻雀のほうはどうだ?」

 

 「チョーシは悪くないよ、戦績もそこそこだし」

 

 「十分だ。お前くらいになるとあとは打ち続けないと何にもならない領域だからな」

 

 「カントクと同じこと言ってるね」

 

 「経験者は語るんだよ、鈍った勘ってやつは簡単には取り戻せないからな」

 

 それなら今から打てばサトハにも勝てるね、と無邪気に笑うネリーにつられて智葉も笑ってしまった。強気なことは実にけっこうだったが、生意気だったのでとりあえず智葉は頬をつねっておくことにした。

 

 お互いわざと大げさにやり取りをしたあとで、もう一度会話が始まった。智葉からするとこれでずいぶんマシなほうに分類される。引退する前には部活が始まる前に真後ろからタックルをかましてくるレベルが決して珍しくなかったのだ。携帯電話の取り合いが果たしてどこに位置するのかは未だもって智葉にもわからないが、とにかく平和な日常になったと思わざるを得ない。

 

 「でもアレだね、早く試合やりたいよ」

 

 「春になればあるだろ、監督も練習試合なら組んでくれるだろうし」

 

 「練習試合じゃダメだよ、向こうもこっちも本番みたいに気乗りしないもん」

 

 「じゃあ春まで我慢しろ」

 

 「遠いよお、早くオオホシとかシシハラとかともっかいやりたい」

 

 「大星は構わんが獅子原は三年だ。春には卒業してるぞ」

 

 「えっ!? シシハラあんまり大っきくなかったよ!?」

 

 「それをお前が言うのか」

 

 本人がいないからこそなのか、失礼な言葉が飛び交う。本気で驚いた顔をしているネリーは、もう一度全国の舞台でぶつかれるつもりでいたのだろう。外から見ていた限りでも彼女の打ち回しは見事なもので、準決勝で有珠山が落ちたのは展開の綾だったとさえ言えるだろうと智葉は考えている。あの場にもしも姫松がいなかったのなら、決勝に上がったもうひとつの高校はわからなかったはずだ。そういう前提を置くとするなら目の前のこの少女が試合をしたがるのも道理なのかもしれない。

 

 「まあいい。少なくとも次の夏にはまた楽しめる相手も出てくるさ」

 

 「ヒメマツもいるしね」

 

 「ほう?」

 

 「あそこケンジがいるから強くなったんでしょ? じゃあ次も大丈夫だよ」

 

 「あー、まあ、うん、そうだな。ん? 待て待て、あいつ卒業したらどうなるんだ?」

 

 「え、日本だとカントクって卒業あるの?」

 

 「播磨のやつは高校生だ」

 

 「え"」

 

 「…………ふむ」

 

 廊下を歩きながらネリーが拳児の高校生とは思えない要素をひたすら挙げ、それに対して智葉が制服を着ていたなどの証拠を返しながら議論は続いた。あれだけ高校麻雀界隈で騒がれていたのにそのことに対してまるで無頓着だったことにさすがに智葉も呆れたが、ネリー・ヴィルサラーゼとはこういう人物である。そうこうしているうちに階段までたどり着いて、多くの学校と同じように学年ごとに分けられた階に二人は別れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 


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