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唾か涎か、はたまた血か。何が出ているのかも判別できないまま死柄木弔はゴロゴロと転がり、地面に突っ伏した。
「がっ……っくっそ!!! 何だ!?」
痛みで錯乱しながらも、独り言のように呟く。
黒霧も、死柄木弔も全く想定していなかった角度からの奇襲に、動揺せざるを得ない。
特に死柄木弔は、意表を突かれたまま燈夜の跳び蹴りを受けており、今でこそ痛みはほとんどないが、肋骨に罅くらいは入っているだろう。
「誰か!!!」
掠れた声で、最後の力を振り絞り、燈夜は力なく倒れこんだ。
伝えたいことはまだまだある、けれども満身創痍の彼に出来たことは、オールマイトに頼り切らずにこの窮地を乗り越えろ、というメッセージを伝える事だけだった。
その絞りだした鬼気迫るメッセージに、雄英高校ヒーロー科という狭き門を潜り抜けた少年少女らが反応出来ない訳がない。
一際判断が早かったのは、轟焦凍と爆豪勝己。
すぐに臨戦態勢に入った2人を見て、黒霧の判断は早かった。
―氷結と爆破、どちらも聡明な生徒を相手に、手負いの死柄木を守りながらオールマイトに近づけるか……否、危ない橋を渡る必要はない。今回は退くしかなさそうですね
「死柄木、退きましょう。今回は、ゲームオーバーです」
迫りくる爆豪勝己、轟焦凍の氷結。それよりも先に、雄英高校1-Aを襲撃した主犯格の2人は姿を消した。
「今回は失敗だったけど……今度は殺すぞ、平和の象徴」
怨念の籠った捨て台詞は、不気味なほどに反響し、嫌な余韻を残す。
両脚重症の緑谷出久、糸の切れた人形のように動かない鬼燐士燈夜を除き、ほぼ全員目立った怪我はなかった。
金の卵たちが直面した、いずれ立ち向かう相手。
相まみえるのは、些か早かったのかもしれない。だが、これほどまでに早く実戦を経験し、立ち向かい、生き残り、大人の世界の恐怖を知った。
敵も馬鹿なことをしたものだと、オールマイトは確信していた。
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―なかなか、かっこよかったよ。まだまだ弱っちいけどね。さて、もうひと頑張りしましょうか
脅威が去り一息はついたものの、オールマイトからすればそれどころではなかった。
隠していた重大な秘密が公になることが、ほとんどの高確率で確定してしまったからだ。
限界を迎えたオールマイトは、自分の素性がばれてしまうと覚悟を決めた。
あまりにも呆気ない“オールマイト”の終わり。身動きすれば本来のやせ細った姿になり、頑張って維持しても長くは続かない。
―万事休す……
腹を括った時に、バチン・バチンと聞きなれない音がするたびに雄英高校1-Aの面々が倒れ、素性もわからない華奢な人物が華麗に歩み寄った。
オールマイトは助かった、と一瞬思うがそれと同時に命が奪われることも覚悟する。
この状況で生徒を地に伏させ歩いてくる人物は大方自分と敵対することは可能性として高く、この雄英高校の生徒を襲撃した関係者の可能性が高いのだから。
しかし、オールマイトの正体を知るものは現状のところ彼に親しい関係者を除き、正体を隠した美雷以外誰もいない。
そう言った意味では助けられた、といってもいいだろう。
だが、脅威が去った裏付けには欠片ともなりえない。
最後に、オールマイトの目の前にいる緑谷出久の意識を即座に奪うと、懐から筒を取り出し、地面に叩きつけると辺りは煙に包めれる。
「変な動き見せるとオールマイト殺すからな! 特に宇宙服!」
オールマイトには目の前の正体もわからない人間が、天使にも死神にも見えた。
「さて……悪い、とは思っていないよ。あんたにとっては本来の姿がばれると嫌だろうしね」
開口一番に出てきた言葉は、言い訳のようだった。
声音は悲しみを帯びていて、隠れている表情さえも分かるような気がした。
しかし、脅威である可能性はまだ高い。
「だ、誰だ?」
「今回の襲撃事件の協力者、といったところかな。おっと、勘違いはしないで欲しいね、仕事だって、仕事。別にあんたらがどうなったことか知ったこっちゃないし、私が請け負っていたのはここのセキュリティシステムの掌握と外部との電波遮断だけだって。手は出したけど、誰1人として死んじゃいないよ」
君のせいで、こんなにも被害が拡大したんだぞ、と喉元まで出た言葉を飲み込んだ。
見たところ、重傷者はいるものの、明らかな死人はいない。トップヒーローとしての意地もあるが、こんなところでは終われない、と言うのが本心であった。
「その言葉を信じたいがね。君は一体何をしに来たんだ?」
納得のいかない怪訝な心情は目に直接表れる。
そんなオールマイトに臆することなく、美雷は拍子抜けするほど、あっけらかんと答えた。
「仕事、かな」
「仕事、だと? 私を屠ろうとでも言うのかい?」
「んー、お望みならそうするけど、あんた死にたいの?」
美雷は呆れ口調でそう返した。確かにこの場面で正義か悪か問われれば、間違いなく悪に該当する人物なのだから、オールマイトが警戒し、信用できなくとも何の不都合もない。
あまりにも呆れかえった口調に、オールマイトも毒気を抜かれたのか警戒は解いてはいないが、一先ず話を信じることにした。
「いいや、そのつもりがないなら結構だ。それで、煮るなり焼くなりどうとでも出来る私を前にどういう提案を?」
まな板の上の鯉とは正にこの事だな、とオールマイトは自嘲気味に美雷に告げた。
「簡単な話だよ、私を雇わない? って話」
「雇う……?」
「そう、手助けしようかって。つーか、もうしてるけど、まぁ初回限定のサービスってことでいいよ。私を雇えば、あんたの言うこと聞く。もうじき生徒さんたち目が覚めちゃうだろうけど、この煙が晴れるまでに答えをどうぞ」
だいぶ視界が開けてきた煙幕から、判断をじっくりする余裕はない。
ここで、他の教師を頼る手もあるが、13号・相澤共に損傷が激しく、頼れる状況ではない。
そして、こんなことがあった後で目の前の人物が去れば、間違いなく正体が割れてしまう。
故に、オールマイトは美雷の提案を飲むよりほかはなかった。
ヴィランかもしれない相手に手を借りるのは死んでも御免だ、だが、今はその信念ですら歪めてしまうほどに耐えがたいものと計りにかけている。
「信頼は出来ない……が、君しか頼れない。乗ったよ、ところでお値段は?」
オールマイトの判断は早かった、目の前の人物の言葉を信じる、そして正体を隠蔽できるのならばそうせざるを得ないという結論に至った。
「そうだね、気持ちの分でいいよ。んー、最低1円は払ってほしいけどね。0だったら……決定的な証拠を押さえたし、どうなるかはわからないけど」
「目ざとい商売人だねえ。いいだろう、お願いしたい」
「オッケー、それで私ご依頼の方は?」
まるで当然だろう、とばかりに食い気味に美雷は返答した。
信じられないのも無理はないだろうが、歯切れの悪いオールマイトへの苛立ちが僅かに合った。
「雄英高校に連絡出来る手段を、あと……私をせめてこの演習場の外に出す事って出来るかい?」
「お安い御用です……えっと、はいこれ、連絡用のスマホ。それとこれを手足にはめれる?」
「わかったよ、すまないね……っと、13号! 安心してくれ! また後で落ち合おう! HAHAHAHAHA!!! …………これは個性かい? 良い物を持っているじゃないか」
「……間違いなくトップクラスのヒーローになれる自信はあるかな。連絡はいいの?」
素性はわからない人物。
今のところオールマイトの窮地を救っているのは確かだが、一方で生殺与奪の権利を握られているのも確か。
13号も怪我を負っており、見送ることしか叶わない。
「そうだね………………校長、私です、オールマイトです。はい、単刀直入に言いますと、敵の襲撃を受けました、脅威は去りましたが、直ぐに動けるだけの教員を集めて私たちが演習していた場所へ駆けつけてください、出来るだけ急ぎでお願いします。はい、では」
一段落着くころには、オールマイトは演習場外に運び出されており、ありがたいことに素性が明らかになる心配はなくなった。
そして、美雷が自分の命を狙っている素振りもなく、敵意も悪意もない非常に無関心だというのを見計らい話しかける。
何事もなかったかのように立ち去る背中に投げかけるように。
「今からでも遅くはない。足を洗って、罪を償い、ヒーローを目指すのもありだと思うけどね」
ぴたりと美雷の足が止まった。
オールマイトには見えないが、自虐の笑みを浮かべたまま何かを堪える様に答える。
「おー、ヘッドハンティングってやつ? こちらとしても№1にそう言われるのは嬉しいけど、断っておくよ」
初めて、動揺が感じ取れた。すぐさま揺れはなくなるも、美雷のかつて憧れていた人物からのお墨付きのメッセージに嬉しさを感じないことはなかった。
「そうかい、それはすごく残念だ。どうしても君が悪い子には見えなくてね、出来る事ならと思ったんだけど……訳を聞いてもいいかい?」
説得を辞めなかった、歯切れの悪い回答に、もしかするならば助ける道はあるのかもしれないと踏んだからだ。
しかし、返ってきたのは諭すような質問だった。
「……あんたにとって守りたいものって何?」
突き放すようなぶっきらぼうな言い方。
放つ言葉には棘がある。
「現状だよ、平和な世界を守っていきたい。この国の平和な柱であり続けたいんだ」
だからこそ、得体のしれない人物の要求ですら飲んだのさ、と朗らかに返答する。
姿は違えど、オールマイトとして美雷へと接していた。
「流石だね……私はさ、そんな大層なものじゃないよ。たった一人の妹を何に変えてでも守りたい、その為だったら何でもする」
美雷の言葉は、覚悟を言語化したようなもので、ズシンと重い。
「……私は、君達を守ることは出来なかったんだね」
「仕方ない、いくらあんたでも、手の届くところしか守れないでしょ?」
子供の頃に見た夢は、結局叶う事はなかった。
誰かが助けてくれると信じ、この人なら助けてくれるかもしれないという夢はずっと前に醒めていた。
「そうだね、私は何も守れちゃいない……世間ではそうは映らないけれど、零れてしまったものもとっても多いんだ、私が力になることは出来ないか? 君を縛るその呪縛から……」
助けを求めたときに助けてくれないヒーローに何の価値があるのだろうか。
オールマイトが美雷を、鳴神姉妹を助けるのはあまりにも遅すぎた。
「オールマイトとして活躍できる時間はそんな多くないでしょ?」
「っ……何のことかな?」
「しらばっくれる必要ないけどね。あんたのその姿を見て、ようやく納得がいったよ。もう、オールマイトとしていられる時間はそう長くはない、違う?」
「………………」
「別に私もこの世の中を混乱させたいわけじゃないし。それに、妹があんたのファンみたいだしね、だからもう少し頑張ってもらわないと困る。言いふらしたりはしないよ」
「……本当に、すまないね。それでも「ともかく、今のあんたじゃ無理だよ。手の届く範囲で頑張りなよ。あ、これ口座ね、5日以内にここに振り込んで。もし入金記録がなければこの事実を世間に公表する。裏をとっても、どうなるか……言わないでもわかるでしょ?」
一方的な口約束を守らせるには、弱みを握る必要がある。
そう言った意味で、オールマイトは美雷の要求を呑むより他はない。
これ以上の追及は意味がない、と判断せざるを得なかった。
声音が急にぞっとするほど冷たく、暗くなった。本来であれば“オールマイト”として、もっとフランクに追及をしていたのだろうが、状況が悪すぎる。
機嫌を損ねて、秘密を洩らされるという事もなくはない中、それ以上首を突っ込むことは出来なかった。
「……私も窮地を救われた身だ、恩を仇で返すことはしないよ。とにかく助かった」
「それじゃあ、もういいかな? そろそろ増援来そうだし、じゃあね」
「次会ったときは、容赦なく君を保護する。確かに助かったが、それとこれとは別の話だ」
「あんたはそうでなくちゃね、出来る事ならやってみなよ。たった数時間の平和の象徴さん」
オールマイトの言葉を一蹴する、嘲笑うかのような軽やかな足取りで去っていく。
自分の作り上げてきた平和というものが、ガラガラと音を立てて崩れそうになるのをオールマイトは空を見上げて感じていた。
「あはははは! マジかあいつ! いやー、これは流石にウケた……平和の象徴の意地ってやつ? 骨折り損のくたびれ儲けとはまさかにこの事だね」
雄英高校襲撃事件の5日後、美雷はオールマイトに渡した口座に振り込みがあるか確認したのだが、そこには驚くべき数字が刻まれていた。
「まさか、最低限度の1円しか振り込んでないとはねー。感謝はしているけれど、悪には屈さないぞってところ? それとも本当に貧乏とか? いやー、これはウケる」
雑踏の中、美雷は声を上げて笑う。
笑い声と共に彼女も暗闇へと紛れていった。
「ヒーローは遅れてやってくる、そして間に合うってのが相場だけど……あんたはあまりにも遅すぎたよ」