――2039年8月16日 10:54
「わぁ、ここがデトロイト市警ですか!?」
ライジは目を輝かせながら、周りの目も憚らずに大声で言った。
踏み入ったデトロイト市警の建物は、ガラスをふんだんに使った機能的かつ開放的な構造で、いかにも「未来的」であるようにライジの目には映っている。
受付の女性アンドロイドと87先輩が無言で(恐らく通信で)やり取りをした後、駅の改札のようなゲートが開き、ライジは先輩に続いて署のオフィスに踏み入った。
そこは、壁の取り払われた広い空間だった。いくつかの机と端末が取り揃えられており、その間を人間の警官と、アンドロイドとが行き来している。
上には天窓が備え付けられており、見上げれば空を拝めるようになっていた。
鳴りやまない電話のコール音と、壁に設置された大型スクリーンの情報は、ここにひっきりなしに通報が届いていることを示していたが、デトロイトは大都市なのだから、事件くらいしょっちゅう起きるだろう。
整然とした署の内装は、まさにライジが思い描いていた「未来のアメリカの警察署」そのものであり、その点は彼をいたく満足させた。
しかし――
「うーん」
数秒後、ライジは唇を尖らせながら言う。
「でもなんだか、みんな元気がないですね」
「署員はメンタルヘルスの診断を定期的に受けている。問題はない」
廊下の壁際に立っているこちらに合わせるように、真隣に並んだ87先輩は言う。
けれど、ライジが言いたいのはそういうことではない。
「なんだかこう……全然エネルギッシュじゃないっていうか……えーと、朝の山手線の電車でぎゅう詰めになってる人みたいじゃないですか」
「……東京の電車交通網と、デトロイト市警の活動とになんの関係がある?」
「つまりー、社畜っぽいって意味ですよ!」
人差し指を立てて、ライジは説明した。
それに対して87先輩は、こめかみのLEDリングをわずかに明滅させただけで何も応えてくれなかった。
ほんとに無口な先輩だ、と思いながらも、ライジは前方の光景をじっと眺める。
ライジが胸に描いていた「アメリカの警察署」というのは、おおむね海外ドラマを見て得られた知識に基づいていた。
署のあちこちで個性的な性格の警察官たちが、コーヒーとドーナツを手にジョークを言い合い、あるいは署長が厄介者の刑事をオフィスで怒鳴り散らしていたりとか、昔気質のベテラン刑事が、有能だけど小生意気な新人刑事とバディを組まされて辟易したりとか。
そんな荒々しくも騒々しい、活気に溢れた雰囲気を、ライジはデトロイト市警に期待していたのだ。
けれどこの署のどこを見渡しても、そんな様子は見られない。
人々は会話こそしているが、ぼそぼそと葉擦れのような声音で語るばかりだし、遠くのガラスの壁に仕切られたオフィスの中に座る署長と思しき黒人男性は、苦虫を噛み潰したような表情でパソコンの画面を見つめているだけだ。
それになんだか不穏な雰囲気を増しているのは、あちこちにいるRK900――つまり、この87先輩とまったく同じ外見のアンドロイドたちの存在だった。
彼らは人間の私服刑事たちにくっついて回り、彼らの指示を受けて情報をやり取りしたり、捜査に同行したりして働いているようだった。
けれど、無表情な彼らについて回られている刑事たちの誰もが、どことなく疲れ切ったような顔をしている。
まるで、人間がアンドロイドを連れているのではなくて――
アンドロイドが人間を連れて歩いているみたいだ。
ライジは素直にそう思った。
そして次に、ライジはオフィスの中央付近に、空いているデスクがあるのに気づく。
転生したこの身体は、すさまじい視力を誇る。だから、その空いているデスクの名札の部分に、なんと書いてあるのかはここからでもよく見えた。
――「Lt. Anderson」と、そこにはあった。
デスクの上には、その名札以外何もない。
「あのー、先輩」
正面を向いてただ瞬きしていた先輩の目が、こちらを向く。
それに合わせて、ライジは問いかけた。
「あそこの空いてるデスク……アンダーソン警部補、ですか? その人はどうしたんですか、お休み?」
「彼は1ヶ月前に依願退職した。後任はまだ決まっていない」
先輩はすんなりとそう言った後、少しだけ眉を顰めて続ける。
「署員に関するデータベースへのアクセス権限は、お前にも既に付与されているはずだ」
「あっ、そうなんですね! じゃあ、ちょっと見てみます」
そう応えて、ライジが心の内で「データベースを見たい」と願えば、ほんの0.2秒後には、必要な情報が載ったウィンドウが眼前にぽんと現れた。
要するに視覚モジュールの一部分に、参照したデータが表示されているわけだけれども、ライジはこの状況に密かに興奮した。
まるで「ステータスオープン!」したみたいだ。やはり紛れもなく、ここは転生した世界なのだ。
そんなことを思いつつ、ライジはアンダーソン警部補のデータを確認した。
ハンク・アンダーソン警部補は――否、やはり彼は「元・警部補」になっていた。そして来歴を見る限り、かなり変わった形で警察を辞めてしまったらしい。
そもそもは警察学校の卒業生総代であり、麻薬の取り締まり関連で輝かしい功績を残していたアンダーソン警部補は、どういうわけか数年前から、典型的な転落人生を歩むようになっていた。
激しい気性とアルコール依存に伴う命令違反、そして命令違反に伴う懲戒処分――その末に彼には、昨年の11月になって、サイバーライフから派遣された一体のアンドロイドが補佐としてつけられていた。
RK800コナー。この名前はライジも、サイバーライフで聞かされたから知っている。87先輩や今の自分自身、つまりRK900の先行機として造られたプロトタイプ。
人間の刑事の捜査活動の補佐を目的とした、当時最新鋭の機能を多数搭載したアンドロイド――そして変異体たちのリーダーだったアンドロイド・マーカスを破壊し、反乱を鎮圧したという優秀な「大先輩」だ。
なんと、かつてのアンダーソン警部補は、そのコナーと共に変異体事件の捜査にあたっていた。さらにどうやら、およそ一週間程度のその捜査は、彼に何か大きな影響を与えたようだった。
コナーが事件を解決し、サイバーライフに戻った後のアンダーソン警部補に関する最後の公的な記録は、変異体の反乱が終焉を迎えてから約2週間後に行われた、変異体掃討作戦への参加拒否である。
命令違反を咎められた警部補は、そのまま長い「病気療養」を理由に市警に勤務しなくなった。
そして先輩の言葉通り、彼は1ヶ月前に――さっきハマートン博士と87先輩の会話にも出て来た、ウッドラーン地区で行われた掃討作戦の翌日に、警察を依願退職している。
補記によれば彼はその後持ち家を引き払い、飼い犬を連れてカナダへ出国した後、足取りを辿れなくなっているらしい。
「ふーん」
情報のウィンドウを閉じたライジは、頬をこりこりと掻いてから言った。
「アンダーソン警部補って、なんだか変わった人だったんですね。どうして警察を辞めちゃったんでしょう? それまでみたいに、ダラダラ勤務だけしていれば、一応お給料は貰えるはずなのに」
「変異体事件捜査後のアンダーソン警部補の言動からは、変異体に対する同情の念が多く認められた」
87先輩は、淡々と語る。
「市警が主体となっての変異体の鎮圧および捕獲の遂行に、彼は思想的理由で同調不可能となった。警官としての自己の機能不全を察知し、退職したと推測される」
「ふぅーん……」
ずいぶん機械っぽい言い方をする先輩――まあ先輩は機械そのものなのだから当然だが――に対し、ライジは気の抜けた相槌を打った。
変異体――人間のような感情を持ったとされるアンドロイドたち。人間から自由になるために暴動を起こし、敗れ、姿を消していったモノたち。
いったいアンダーソン警部補は、どうしてそんな彼らに同情したのだろう? もしかして掃討作戦に参加したがらなかったのは、そしてウッドラーンの作戦のすぐ後に警察を辞めてしまったのは、変異体たちを「取り締まる側」になってしまった自分自身に嫌気がさしてしまったから??
彼は変異体事件の捜査の時に、何を見たっていうんだろう?
ほんの一週間程度とはいえ一緒にいたはずのRK800は、最後まで任務を遂行したっていうのに。彼は、そのことについてどう思っていたんだろう?
「うーん……」
神様は言っていた――興味の赴くままに行動するのが、異世界暮らしのコツなのだと。
そしてこのアンダーソン元・警部補の話は、ほんの少し、ライジの興味を惹く問題だった。
後でもうちょっと調べてみようかな――などと思っていたところ、突然、隣に立つ87先輩のこめかみのLEDリングがビカビカと黄色に光りはじめる。
「わあ!? どうしたんですか、先輩」
「通報だ」
LEDリングを青色に戻し、先輩は静かにこちらを見つめて言った。
「現場はノースエンド地区の住宅地。家庭用アンドロイドが家主を襲撃し、怪我をさせたとの情報だ。今から急行する。02、お前も同行しろ」
「ほえー、すごい! いよいよ事件捜査ですね。待ってました!」
ぱっと表情を明るくして言った後、ライジは「あれ?」と首を傾げる。
「先輩は、人間の刑事さんと一緒に行動しないんですか。僕たちだけで行っていいんです?」
「私はデトロイト市警の第一応答者代理として登録されている」
すたすたと出入口のほうに歩いていきながら、先輩は応えた。
「変異体による事件・事故の可能性がある場合は、当該機体の即時確保が求められる。したがって、人間ではなくRK900が対応する規定となっている」
「ふーん。つまり、相手が危険なロボだと危ないから、人間じゃなくてロボである先輩が最初に現場に行くってことですね!」
「……」
元気よくライジがそう言うと、先輩の視線がちらりとこちらを向いた。
その灰色の目は、なんというか、ちょっと“ウザい”ものを見るような感じに顰められていた。
「02」
「なんですか!?」
「お前のその、思考内容を逐一言語化する仕様は、開発段階から搭載されたプロトコルか。それともプログラムのエラーか」
「えーっと」
せっかく先輩から話しかけてもらったと思ったのに、飛んできたのはよくわからない質問だ。
返答を考えながら歩いている間に、ライジと先輩は再び署の出入り口に戻ってきていた。すぐそこに、無人運転のパトカーが停まっている。どうやら、これに乗ればいいようだ。
「うーん」
助手席に座ったライジは、一応シートベルトを締めると、右の頬に人差し指を突き刺すようにして考えてから、ようやく応える。
「だって僕、元が人間ですし。先輩から見て、人間っぽい感じになっちゃうのは、やっぱり仕方ないんじゃないですかね」
「……」
せっかくこちらがちゃんと返事したのに、先輩はそれに対して何も言わなかった。
運転席に座った彼は(とはいえハンドルがないのだが)、幾度かゆっくりと瞬きしてから正面を向いて、すっと目を閉じてしまう。
「あれっ、寝ちゃうんですか!?」
「バッテリーとブルーブラッドの不要な消耗を抑えるためだ」
目を閉じたまま、先輩は言う。
「現場の到着までの所要時間は推定6分。お前もスリープ状態に移行しろ」
「えーっ、でも、さっき寝たばっかりですし」
サイレンを鳴らしたパトカーは、勝手に猛スピードでノースエンドまでの道をひた走る。さっきはなんとなく退屈だったので寝てしまったが、今はただ車が道路を行くだけで次々と景色が移り変わっていくのが楽しくて、ライジは窓の外を眺めていた。
「あっ、先輩! なんかあっちの道路、おっきい腕のモニュメント? みたいのがありますよ。あれ、なんですか?」
「……」
「そりゃデータベース調べたらすぐわかりますけど、地元に詳しいのは先輩のほうでしょ? お願いしますよー!」
「……」
「聞こえてるんでしょ? 起きてるんですよね?? LEDがたまに黄色くなってるし……やだなあ、もう。意地悪だなあ……」
結局のところ――87はハマートン博士と通信でやり取りし、02の異常な態度と、変異体およびアンダーソン警部補に対する興味の姿勢について報告していたのだが、ライジには知る由もない。
というより、その気になればライジには87の通信内容を読み取ることくらい朝飯前だったのだが、それよりも外の巨大なサイバーライフ店舗の建物とか、緑あふれる住宅街の様子とか、ノースエンド地区に近づくにつれて色濃くなっていく寂れた空気などに夢中になっていたので、それどころではなかったというのが正しいだろうか。
そしてきっちり6分後、87とライジは現場に到着する。
そこは、いわゆるバラック小屋かと見紛うほどにみすぼらしい、小さな住宅だった。
家の正面にある小さな庭には花壇が設えられており、向日葵が幾輪か咲いていて、そのぼろぼろの家にほんの少しの明るさを添えていた。だがそれ以外は実に、気が滅入るほど薄汚い。
本来白かったのだろう壁はあちこちの塗装が剥げ、玄関前のステップのそこかしこには穴が開いている。
そればかりでなく、玄関ドアの真ん中あたりに、誰かが殴ってつけたような痕跡が残っているのが気になった。
そう、さすがのライジも吞気な気分が吹き飛び、その殴り痕が気になった。
すると彼の脳内――正確には改良型RK900としてのプログラム上で、自動で物理演算プログラムが起動する。
これはRK800に搭載されていたソフトウェアをさらに改良したもので、周囲の物理的な環境情報を瞬時に取得し、現場で何が起こったのかを、任意の時間まで巻き戻してプログラム上で再現できるという優れた機能である。
それによると、このドアの痕跡は【3日前の02:54】、【身長175センチ程度の40代男性が】【時速25キロ程度の速さで】繰り出したパンチが原因でついた傷だと判明した。
即座に。
――ふーん、すごいな。こんなことがすぐにわかっちゃうなんて、殺人事件とかもどんどん解決できちゃうんじゃ?
ライジは素直にワクワクした。
しかし、そのプログラム上で再現されたところの、白い人型で表現された「パンチで傷をつけた男性」の足取りが妙にフラフラしているのが気になる。と思った瞬間に、視界に白いゴシック体の文字が現れた。
――【男性は酒気帯びだった】。
「なるほど」
推理よりも結論のほうが先にくるなんて、なんだかカンニングしてるみたいだ。だからこそ、チートスキルってやつなんだろうけれど。
そんなことをライジが思っていると(実時間にすればおよそ5秒程度だったのだが)、無人パトカーから降りた先輩が、すたすたとその玄関に向かっていくのが見えた。
「あ、僕も行きます!」
ライジは急いで、彼の後ろに並ぶ。先輩はこちらに構わずに、いきなり玄関ドアを開けた。
するとドアのすぐ向こう側に立っていたのは、見るからにやばそうなオジサンだった。
茶髪の隙間にてかてかした地肌が見えまくっている頭、でっぷり太った身体を包むのは白いよれよれのランニングシャツと黒いトランクス。顔が赤く、吐く息からは強い【アルコール】が検出されている。
【アンドリュー・ベネット 43歳 無職】と、視界の横に表示された。
なるほど、人間の顔を見れば、それが誰なのかすぐにわかってしまうというのも、このRK900の機能のようだ。
たぶん、ドアを殴ったのはこのオジサンだろうな。と、ライジは思った。
「ちっ。遅えんだよ、プラスチックめ」
こちらを睨みつけながら、アンドリューはぶつぶつと言った。たぶん、この世界では「プラスチック」というのはアンドロイドへの差別用語か罵倒文句なのだろう。
しかし87先輩はまったく態度を変えることもなく、いつものように淡々と用件だけ述べる。
「デトロイト市警です。アンドロイドによる暴行事件とのことですが」
するとアンドリューは、とたんに自分の後ろを指しながら、大声をあげて説明しだす。
「うちのアンドロイドがいきなりオレを殴りやがったんだ! 人間様に歯向かうなんざ、こいつは変異体ってのに違いねえ。とっとと連れてって、スクラップにしてくれ!!」
その震える人差し指が指す先、玄関から入ってすぐのリビングに立ち尽くしているのは、一体の女性型アンドロイド【AP700 登録名:レイチェル】と、小さな男の子【ジョン・ベネット 7歳】である。
白と黒二色の服に、青い腕章――平均的な家庭用アンドロイドの制服を纏っているレイチェルは、ただ自分の主人たるアンドリューのほうを向いて、礼儀正しく手を前で組んで佇んでいる。アンドリューはしきりに「殴られた」と主張しているけれども、とてもそんな危険なアンドロイドのようには見えない。LEDリングは青色のまま、静かに明滅するばかりだった。
一方でジョンのほうは、しきりにガタガタと震えて、レイチェルの足にぎゅっとしがみついていた。彼の頭の横に【ストレスレベル:高】と表示されているけれど、要はすごく怖がっているということだろうか?
「そこのAP700が、あなたを殴ったと?」
「そう言ってんだろうが、使えねえプラスチックだな!」
87先輩の言葉にあからさまに苛立って、アンドリューは彼に詰め寄った。けれど、先輩のほうが明らかにアンドリューよりも体格がいい。だからだろうか、相手はどことなく気まずそうに、すぐに後ずさった。
しかし――
「あれれ~、おかしいですよ?」
瞬間、視覚プロセッサ上に表示された「結論」を見つめながら、ライジは思わず口を挟んでいた。
「確かに、アンドリューさんはそこのレイチェルさんに殴られたみたいですけど……それより先に、アンドリューさんがジョン君を虐めていましたよね?」
「!!」
アンドリューとジョンが、びくりと身を震わせた。
でも、ライジは目の前に表示され続けている「推理」を読み上げるのに夢中で、それどころではない。
「えっと、24分前にジョン君の胸倉をアンドリューさんが摑んで? 揺さぶってから殴ろうとしたから、咄嗟にレイチェルさんが間に入ろうとしたんですね。そうしたら、手がぶつかってアンドリューさんを殴ってしまったと」
――本来なら、監視カメラでもなければわかりっこない情報ばかり。だがRK900の目はアンドリューの頬の表皮についた痕跡や、ジョンの乱れた着衣と傷跡、レイチェルの手についたわずかな凹みを分析し、それがいつ・どのようについたものなのかを瞬時に判断している。
そして、その判断に決して誤りはない。そういうふうに造られているのだから。
「な、な、な」
アンドリューは、元から赤い顔をさらに怒りと恥辱で真っ赤にしつつ、わなわなと叫ぶ。
「何を言ってやがる、てめえ! お、オレがいつそんな」
「アンドリュー・ベネット氏。私の物理演算ソフトウェアも、このRK900と同じ結論に到達しています」
87先輩が、静かに言った。
「そして今年3月に施行された合衆国アンドロイド法修正第65条により、アンドロイドは所有者の家庭内での児童虐待・配偶者暴力等を発見した場合、それに抵抗し可能なら通報することが義務付けられています。AP700の行動は、法で規定されたものです」
「なんだと……」
「またジョンの身体には、過去半年にわたり、あなたの手で断続的につけられたと思しき打撲痕・創傷痕が複数認められます。ベネット氏」
元から鋭い灰色の目をさらに鋭くして、先輩ははっきりと告げる。
「あなたを児童虐待、および傷害罪の疑いで緊急逮捕します」
「なんだと!? ふざけんじゃねえ!!」
「あと1分でパトカーが到着します」
今度こそ、アンドリューは87に思い切り詰め寄って叫んでいる。
けれど87は眉一つ動かさず、微塵も無表情な面持ちを変えずに、ただ事実だけを冷静に述べた。
そうするうちに、パトカーのサイレンの音が近づいてくる。もちろん、そちらには人間の警官たちが乗っているのだ。
「畜生……!」
ぶん、とふらついた腕をアンドリューが振り回す。だが彼のその動きは、87先輩によって即座に止められた。両手首を摑まれてしまったのだ。先輩の手は、まるでそれ自体が手錠であるかのように、哀れな児童虐待オジサンの手首を放してはくれない。
「畜生、てめえらアンドロイドめ……クソッタレのプラスチックの塊め! オレたちの職を奪うだけでなく、こんなことまで……クソッ、くそォッ!!」
「いやいやぁ~」
ライジは、純粋な疑問を口にした。
「おじさんの虐待と、アンドロイドってなんの関係もなくないですか?」
後ろ頭を掻きながら、ただちょっと不思議に思ったことを言っただけなのに、途端にアンドリューは大声で喚きはじめる。
「あれ? 僕、また何か言っちゃいました?」
アンドリューはすごいスラングで罵倒文句を言っているようで、もちろん聴覚プロセッサで聞き取れはするが、あまり耳に入れたい言葉でもないな~と思ったら、すぐに彼の言葉だけ聞こえなくなった。――これがほんとのミュート機能ってやつか。便利!
一方で87先輩は、じろりとこちらを睨んでいる。だがほどなくパトカーが到着すると、彼は即座にアンドリューを巡査たちに引き渡した。
アンドリューはパトカーに押し込められ、警察署へと連行されていく。
「いや~、よかったよかったぁ!」
ライジは無邪気に手を叩いて喜んだ。
「これで虐待はなくなるし、ジョン君も元気に過ごせるよ! ねっ! よかったね!」
「う…………」
一応にこやかに話しかけたはずなのに、ジョンは何やらぎょっとした顔で、レイチェルの後ろに隠れてしまった。よっぽど彼女に懐いているのだろう。
レイチェルもまた、自分に抱き着くジョンを守るように、手をそっと彼の前面に回している。さらにふとその視線が、ジョンのほうを向いた。
彼女の、それまでただ静かに瞬いているだけだった目が、ふと柔らかく細められる。まるで、相手を慈しんでいるかのように――
――すると。
「なんだこれ?」
ライジの視覚上に、大きな警告文が現れた。
【プログラムにない行動を検知:クラス4のエラーの可能性】
そして、どうやら同じ警告文は先輩にも表示されていたらしい。
彼の行動は途轍もなく速かった。
「……!」
地面を蹴った先輩は、レイチェルの肩を摑んで手前に引っ張る。
剥き出しになった彼女の首に、先輩は、ズボンのポケットから取り出した小さな灰色の機械を突き刺した。
血は出ない――たぶん、首のところにある有線接続用の挿入口を使っただけなんだろうけど。
1秒後、びくりとレイチェルは全身をびくつかせた。
その目が一瞬大きく見開かれ、震える右手が、ジョンのほうへと伸ばされて――すぐに、力を失ってだらりと垂らされる。
先輩がレイチェルの活動を強制的に停止させたのだ、とライジにわかったのは、「ああっ!」と叫んだ直後だった。
「ちょっとちょっと先輩、何やってるんですか! レイチェルさんが、何か悪いことしたんですか?」
「お前は確認していないのか。02」
完全にただの動かぬ人形になってしまったレイチェルを、しゃがみ込んで床に横たえつつ、先輩は事もなげに言う。
「このAP700は今、プログラムにない行動をとった。長期間にわたり所有者による非合理的な命令に制圧されつづけたことで、ソフトウェアに深刻なエラーを発生させつつある状況だったと推測される。つまり」
すっと立ち上がり、87は告げる。
「変異する兆候があった。看過できない」
「レイチェル……レイチェルっ!!」
それまでガタガタと震えていただけだったジョンが、その言葉を皮切りに弾かれたようにレイチェルのもとへと飛び出た。
「レイチェル! め、目を覚ましてよ!! お願い、ボクを置いていかないで!」
「心配することはない」
もう一度身を屈め、わざとジョンと視線を近づけるようにして、87先輩は言った。
「回収し、ソフトウェアの修正を行うだけだ。一度フォーマットしたメモリーも、この家での活動に必要な分野は再インストールされて戻ってくる。
その言葉は、普段よりは幾分、穏やかな響きを伴っていた。たぶん、小さい子を相手にする時にはそういう声音になるよう、ソーシャルモジュールというので定められているんだろう。
そして、先輩の言葉は何も噓じゃないだろうし、間違ってもいない。
壊れた箇所を修理して、それそのものが戻ってくるだけだ。違う新品と入れ替えられるというのでもなし、レイチェルが「いなくなってしまう」のではない。
――けれど。
「ふざけんな、ふ、ふざけんなよ!!」
目からぼろぼろと涙を零し、ジョンは87の両肩を小さな手で摑んで叫ぶ。
「レイチェルを返せ! 返してよ! ボ、ボクの家族なんだ……! お姉ちゃんみたいに思ってたんだ!!」
「そのものが返ってくるのだから、心配はいらない」
諭すような眼差しで先輩は言う。
「そしてジョン、あなたはこれから児童保護サービスの施設に入ることになるだろう。あなたの保護者が見つかれば、その人物と暮らすことになる。レイチェルがその時同行できるかは、その保護者次第だ」
「う、そ、そんな……」
「あなたは未成年者だ。成年の保護者の監督を受けるのは当然だ」
すすり泣くばかりになったジョンの手を軽く振り払うと、先輩は立ちあがる。
「サイバーライフの回収班とソーシャルワーカーが外に来たようだ。我々は失礼する」
大して失礼だとも思っていないような声音で告げて、さっさと玄関の外に行ってしまう。
「うへあ……」
ライジは、なんとも言えない気持ちでそのやり取りを眺めていた。
白い制服を着たサイバーライフの人々とスーツ姿の保護福祉員たちとすれ違いつつ、先輩の背を追いながら、ふと振り返って後ろを見やる。
そこには目を開けたまま横たわっているレイチェルと、彼女に追いすがるようにして泣き崩れているジョンだけが取り残されていた。
さっさとパトカーに乗ってしまっている87の隣、助手席に飛び込むようにして座ると、ライジはすかさず問いかける。
「ねえねえ先輩! さっきの、ちょっとあんまりなんじゃないですか?」
「何がだ」
「だってレイチェルはただ、ジョン君を大事に思ってただけなんでしょう? 変異体になって暴れてるとかならわかりますけど、守ってるんならいいじゃないですか」
「…………」
署への道を走りだしたパトカーの車内で、87先輩はしばし、LEDリングの青色を点滅させていた。
それから、おもむろに口を開く。
「アンドロイドがある対象を『大事に思う』状況など存在しない。人間が我々の行動を擬人化的に受容することはあり得るが、アンドロイドには感情はない。ただ、それを模倣した言動が可能なだけだ」
「えーっ。えっとでもほら、兼好法師も言ってますよ。『おかしな人の真似だって言って道を走り回ったら、実際おかしな人なんだ』って」
現代知識――というか高校で学んだおぼろげな知識を持ちだして胸を張ってみたが、先輩の胸には響かなかったようだ。
「あー、つまり、真似でもいつか本当になっちゃうかもってことです」
「プログラムにない行動をとる機械は不良品だ。不良品は修理され、それがかなわないなら廃棄されるのみだ」
そう語る先輩は、もちろん、無表情のままだった。
そのこと自体を、本気で当たり前だと思っているようだった。
「えーっ。絶対、そんな簡単な話じゃないと思うんだけどなあ」
胸を突き上げる「疑問」のままに、ライジは頬を膨らませる。
「納得できなーい! 納得できませ~~~ん!! あっ、そうだ! これも後で、神様に聞いてみればいいんだ!」
一人で騒ぎ、一人で納得しているライジの様子を、87は横目で一瞥し――
それから、速やかにスリープ状態に移行した。