憂き世は鬼の世 作:ミーティ(汚)
溺れるような息苦しさだった。
非現実的な事象を認識し、事実として受け入れてから幾年経っただろうか。何をするでもなく天井を見つめながら、男はぼんやりとそう考えた。己がいたはずの時代から遥か過去へと遡った現状や、かつての己とは似ても似つかぬ顔立ち等々を鑑みた結果として『転生』したのだと結論付けたのは記憶に新しい。
第二の生の始まりは覚えていない。朦朧とする意識の中、ひたすらに苦しかったことだけが脳裏に焼き付いていた。後で聞けば、心臓が止まったまま生まれ落ちたらしい。挙句、あわや荼毘に付されかける有様だったという。息を吹き返すのが遅ければ、そのまま焼き殺されていた所であっただろう。
男の人生には、以降も随所に死が付いて回った。幾度も病に罹り、快癒したかと思えば別の病に冒されて病床へと逆戻りする事はざらだった。満足に運動もできない状況は虚弱極まりない身体を生み出す土壌となり、更に病に罹りやすくなるという悪循環。当然体力などある筈もなく、病身も相まって身を起こす事すら一苦労という体たらく。閉め切った部屋での日に当たらない生活は、日光すら痛みに変える肌を育てた。なまじ健康であった記憶を持つが故に、現状を割り切る事が出来なかった。自由に動かない身体が不便で不満で仕方がなかったのだ。
病気の治し方にも苛立ちの種があった。後の世にて平安と呼ばれる時代における病の治し方は二種類ある。一つ目は薬師が調合した薬を飲む事。二つ目は祈祷師によるお祓い。男は、特に二つ目を信用しなかった。男の常識において、病気とは目に見えぬ程に微細な生物や不摂生などによって引き起こされるものであって、断じて化生の類によるものではない。祈祷なんぞで綺麗さっぱり治るのであれば、男の生きた未来において病理学は駆逐されていたに違いない。
男が幾度も祈祷を拒むうちに、祈祷師は訪れなくなった。その話を聞いてか、薬師も来なくなった。男の親が呼ばぬようになったという。捨て置け、と吐き捨てたという噂も男は耳にした。そういった情報を手に入れるのは容易だった。使用人達が、わざと男に聞こえるように陰口をたたくからだ。
邪魔だ、さっさと死ね。そう言われているように男は感じた。心配せずともじきに死ぬともさ。男は心の中でそう呟いた。ただでさえ少ない体力が、日に日に落ちていく。長くないだろう、というのは男が一番実感していた。
日々擦り減る命数に怯える男の下に、ある日一人の老いた薬師が訪ねてきた。男が祈祷を断った事や薬師が来なくなった事、果ては男の親がそういった話を寧ろ積極的に断っている事すらも知った上での事だった。どうせ治らない。そう思いながらも、わざわざ自分の下に訪れた変わり者の薬師の好きにさせてやろうとも思った。後僅かで尽きるだろうこの命が保てるのならば何だって良かった。
変わり者の薬師は方々手を尽くした。そこそこの良家に生まれた男すらも見た事がないような材料を持ち出してきたり、かと思えば病状から独自に調合した薬を持ってきたり。こんな方々から疎まれている死にかけよりも使うべき相手がいるだろうに、と言いたくなるような真似ばかりしたし、実際にそう言ったこともある。返答はいつも同じだった。
「私自身が、他でもない貴方を治したいと願っているのです」
奇矯此処に極まれり。この薬師の腕が良いのは男が最も良く知っている。今まで全く変わることのなかった病状が、この薬師の薬を飲んだら僅かなりとも軽くなったのだから。根本的な解決にこそならなかったが、腕の良さが窺えるというものだ。これだけ優秀ならば引く手数多だろうに。薬箱をごそごそと漁っている薬師を眺め、男は心中で呟いた。
「この薬が効かぬのであれば、最早今の私では打つ手がありませぬ」
薬師がそう言って取り出したのは、深みのある青色をした粉薬だった。薬包紙の上で僅かな光を放っているようにすら見える、ともすれば異様とも思える雰囲気を纏った薬だった。
「未だこの薬は未完成………御身を蝕む病に効果があるか分かりませぬ、御身に如何なる影響を及ぼすかも分かりませぬ」
それでもよろしければ、と呟くように口にして、薬師はその粉薬を差し出した。男は一瞬だけ逡巡すると、乱雑に粉薬を掴み取って口に含み、傍に置いてあった器で桶から水を汲んで喉の奥に一息に流し込んだ。甘いとも苦いとも言えぬ不思議な味だった。しかしその奥に男の知る味があった。喉を灼くような痛みと共に嫌という程味わった味────血の味だった。反射的に感じた吐き気を堪えて嚥下する。飲み終えて、長い長い息を吐いた。これで何か変わるのか、それとも変わらぬのか。それは分からないまでも、兎も角もうあの薬は飲みたくないと、それだけが男の頭の中に残った。
あの薬を飲んだ後、日が経つ程に男の体調は快方に向かった。些か異様な回復の仕方だった。骨と皮ばかりだった筈の男の体には鍛え上げた武士の如き筋肉が付き、月明かりの無い闇夜でも昼間のようにはっきりと見る事が出来た。一方で何の変哲もない陽光に命の危機を何となく感じたりもした。更に奇妙な事に、食っても食っても腹が膨れない。食事をしてもしなくても変わらない為、男は今はもう食事をしていなかった。吐き戻す事なく食事ができたのは久方ぶり────前世ぶりだったので、男としては些か残念でもあったが。
薬師は以降も度々男の下を訪れた。男の体を触診し、いくつかの質問をし、そして何やら手元の紙に書き込んだ。その目には純粋な興味が宿っていた。何処か実験動物を観察する研究者にも似た嫌な熱の篭った視線で、それを感じ取った男は日に日に薬師への不信を募らせていった。
ある日薬師への不信がいよいよ頂点に達した男は、薬師の頭を刀で叩き割った。その気になれば幾らでも隠せると踏んでの事だった。男を忌避する家の者達も、名家の看板に
処分される前に薬箱から抜き取った紙束には、様々な事が書かれていた。最後に処方されたあの薬は確かに未完成だった。青い彼岸花なる原材料が欠けていたのだ。それはいい。他が問題だった。薬師は未完成の薬を男に投与し、その経過を観察していた。如何なる反応が現れるかを、つぶさに。人体実験だ。更には快方に向かった男を毒殺するよう男の生家に言いつけられていたことも判明した。生家が男を邪魔だと判断したという事は想像に容易い。今更治られても困る、という事だろう。
それを認識した途端、男の頭は憤怒一色に染まった。殺されてなるものか、死んでなるものか。知らぬ間に被験体にされていた事、毒殺を画策された事、男の根底に巣食う生への執着。それらが絡まり混ざり合い、関係者への純然たる殺意へと変わっていく。
刀を手に、男は夜の闇に包まれた屋敷を歩いた。薬師を斬り殺した刀を使って、順番に屋敷に住む者を斬り殺していく。一人一人懇切丁寧に、今までの恨みも乗せて深々と肉を抉る。ぽたぽたと零れ落ちる涎に困惑しながら、誰一人逃さぬように人数を数えつつ血を浴びる。はて、自分は怒りに任せて人を殺せるような人間だっただろうか。そんな疑問も一旦頭の隅に押しやって、男は血縁上の父の元へと辿り着いた。聞くに耐えぬ命乞いを垂れ流す頭を刎ね飛ばす。呆気なく終わった。胎を借りた女の首も刎ねた。女の口からはついぞ罵倒しか聞く事はなかった。
腹が減った。涎が止まらない。
腹が減った。目の前の
腹が減った。無造作に噛み付き食い千切る。
最早何も考えられない。限界を迎えた飢餓感に突き動かされ、目の前の
男は、いよいよ己の肉体の異常性を自覚した。人の枠を鼻歌交じりに飛び越えた身体能力、肉も骨も関係なく噛み千切る咬合力、あれだけ嫌っていた血の味を
あの薬師、何をしやがった。一撃で仕留めたのは間違いだっただろうか、と男は思いを馳せた。その間も手と口は動き続け、肉を骨ごと喉の奥へと送り込んでいる。こんな真似を平然と出来る精神性も異常と言えば異常だが、男の場合は置かれた状況が特殊過ぎて主に精神面では参考にならない。
一通り腹を満たした男の興味関心は、既に自分がどこまで出来るのかというその一点に向いていた。喰い散らかされた肉片の主の事など、既に眼中に無い。男は身なりを整え、懐に薬師が纏めた資料を収め、口元に薄く笑みを浮かべながら屋敷を出ていった。その際に屋敷中に油を撒いて灯りを倒す。火種が油に引火して一気に燃え広がる。木造故の燃えやすさか、容易く屋敷は火に包まれた。周囲から人の声が男の耳に入り始める。野次馬が集まるよりも早く、男は闇夜に姿を眩ませた。
男の名は鬼舞辻無惨。闇に蠢き人を喰らう異形・鬼の主人にして始祖たる鬼。のちにそう呼ばれ、恐れられる事となる者だった。