「七之助ー! ご飯ー!」
雪ノ下さんに本を貸した日から数日が経ち、特に何事もなくいつも通り学校から直接バーむらさきへ赴くと、ドアを開けた途端いきなりゆか姉が俺の胸に飛び込んできた。
これだけ聞くとドラマチックだが、残念なことに飯の無心をしながら、である。
「先生はトイレじゃありませんって小学校の時言われなかったか?」
飛び込んできたゆか姉の頭を抑えて接触を最小限に留め、軽く押し返す。
「フッ、私は過去を振り返らない女……そう、峰不◯子」
「知らねえよ……。死んでくれよ……」
ちなみに、◯二子ちゃんはファーストの四話でルパ◯のこと心配して泣いてたりするから割と純情派なところもある。はぐれ刑事並だ。
「何でも良いけど早くご飯作ってくんない? 嫁の食い扶持も確保出来ない甲斐性なしに育てた覚えはないんだけど?」
「誰が誰の嫁なんだよ……」
「ゆかりオネーサンが七之助の」
俺は断じてお前を嫁に迎えたりはしないぞと心の中だけで固く誓う。言うと冷戦になりバイトに来にくくなる可能性があるので言わない。
「はぁ……。何食べたいの?」
いい加減アホらしくなってきたので、ご飯を作ってやることにした。別に料理自体は嫌いじゃないしな。
「フレンチのフルコース!」
ゆか姉がものすごい良い笑顔で言い放つのを見て、頭が痛くなってきた。
「……明日まで我慢出来るなら作ってやってもいいけど……ていうか今日は店開けねーの?」
「今日はお休み。んー……何でも良いけど、デザートは出してね! 絶対だよ!」
どうやら今日は店を開く気分じゃないらしい。お金の無心が出来ない上、ご飯まで作らなきゃいけないらしい。来なきゃ良かった。
「はいはい……買い物行ってくるからお金くれ」
「え? 奢りじゃないの?」
「…………」
絶対に、びた一文出さないぞという固い決意の元、俺は押し黙る。
「ったく……。ケチな男だなぁ、七之助は!」
愚痴りながら俺に財布を投げつけるゆか姉。
「ま、やるからにはそこそこのもん作ってやるよ。任せろ」
俺はそう言い残し、ひらひらと手を振ってバーむらさきを後にした。
「出来たー?」
それから大体二時間程経ち、ようやくある程度の調理を終えた俺に、後ろから抱きついてきたゆか姉が尋ねてきた。
「一通りはな。サーブするから座ってろ」
幾つもの鍋を火にかけながら、最初に出す前菜──ゆか姉の要求に合わせた言い方をするならばオードブル──の盛り付けを終え、やたらと体温を感じさせるゆか姉を少々乱暴に振り払う。
それにしても、ゆか姉の家のキッチンは妙に広い。店の方と兼用なのを差し引いても明らかに大きめである。そうでなければ、こんな多数の料理を同時並行させながら作るのは物理的に無理だっただろう。
「お、本格的! そんなにオネーサンに気に入られたかったの?」
本当にフレンチのフルコースを用意するとは思っていなかったらしく、それっぽいオードブルを見ながらゆか姉は目を丸くしていた。
「そりゃあ、こんな可愛らしいお嬢様に頼まれてんだから、張り切らなきゃ男じゃねーだろ」
「あら御上手」
もちろん嘘だ。単純に凝った料理を作る方が楽しかったっていうのが一つ、シェフの気分になりたかったのがもう一つだ。
……実質一つだ。相変わらず救えない。
「てかとっととあっち行ってくんない? まだオードブルしか上がってねーんだけど」
鍋の一つで煮ていた洋梨が透き通る程の具合になっているのを確認して火を止めながら、自分でも無愛想だなと思う物言いでゆか姉を追っ払う。
「ていうかホントにフルコース作ったんだね。引くわ……」
何故かドン引きしていた。このクソアマ……。
「無駄に料理の上手い男の子って、女から見ると大概ポイント低いよ?」
すこぶるどうでも良い。結婚しても女の人に飯作って貰おうなんて思ってないしな。
自分で働いて自分でご飯作って自分で掃除して自分で洗濯するのが俺の理想だ。嫁という形さえあればそれで十分。高望みはしない。というかレストランだとかゆか姉とかならまだしも、素人の他人が作った料理なんて食いたくないし。
「てめえが作れって言ったんだろうが……全部俺が食べるぞ」
「滅相もございません! ありがたく頂かせてもらいます!」
高速で手のひらを返してから、ゆか姉はキッチンを飛び出してリビングのソファに座って、ナイフとフォークを振り回しながら野球中継を見はじめた。……フォークとナイフ叩き合わせてカチカチ鳴らすのはマナー以前の問題じゃない?
まあ、外行きの時はこんなこと出来ないし、してるのも見たことないもんな。ゆか姉もああ見えて、色々抑圧されてるのかもしれない。
「とっとと引っ込めヘボピッチャー!!」
抑圧……されてる……かもしれない……。
炎上してマウンドを降りるピッチャーに散々な野次を飛ばすゆか姉の前に、料理を持って行く。
「お、きたきた! あ、お店みたいに次の料理までにバカみたいに時間かけるのはやめてね?」
「アレはアレで意味があるから一概に叩くのはどうかと思うが……。そもそもゆか姉しかいないんだから、食べ終わってたらすぐ持ってくよ。料理が出来てたらな」
「良かったー。で、これ何?」
「見りゃ分かるだろ」
「フレンチなんて食べたことないから、ゆかりわかんなーい!」
衝動的にブン殴りそうになった右腕を全力で抑えて平静を保つ。
落ち着け……ここで殴ったら後々どんな命令を聞かされるか分かったもんじゃないんだぞ。クールダウンだ。まだあわてるような時間じゃない……。
「……鯛のマリネでございます……」
俺の言葉を完全に無視してしばらく料理を眺めていたゆか姉は、淀みない所作でナイフとフォークを操って料理を口にした。
「ソースには……フランスっぽいソースににトマトとバジル混ぜたやつ!」
音速でキャラを投げ捨てたゆか姉に一つため息をつき、俺も普段通りの受け答えに戻す。
「合ってる。テリーヌにしようかと思ったけど、時間的にやめた」
具体的に言うと、白ワイン酢に油や玉ねぎとリンゴを摩り下ろしたものとレモン汁を入れてそれを濾したものだ。ヴィネグレットソースと言うらしい。これを入れると、とりあえずフランスっぽい味になるから便利である。
「なるほど……中々やるじゃない。八十五点をあげるわ」
「オードブルだけでもう採点すんのかよ……ミシュランも真っ青だな」
「まあね。あとは何出てくんの?」
「ん、カボチャのポタージュとホタテのグラタン、サーロインのステーキに玉ねぎのコンポート乗っけたやつと、あとはフィナンシェに洋梨のコンポート添えたやつ用意してる。酒は?」
「相変わらずの病気っぷりね……お酒はワインで」
どこが病気だ。所詮一時間やそこらで出来るものばっかりだ。凝りはじめたらもっと徹底的にやるぞ。フィナンシェだって買ってきたやつだし。
「へいよ。店から勝手に取ってくるぞ」
「あいよー」
受け答えを終え、適当なワインを取って戻ってくる。
酒には興味がないため、コップと一緒にテーブルに適当に置き、栓抜きを放り投げる。
キャッチしたゆか姉は丁度前菜を食べ終えていたので、スープを持って行く。
「んー、美味しそう! 私レベルには到達出来たみたいだね」
「最初っからこんなんだったろ。才能のない人間にはここが限界」
言った瞬間、失言だと思った。どうも、非常用階段でした比企谷くんとの会話のあとから、調子がおかしくなっている気がする。らしくない言葉ばかり口に出してしまう。
「……決め付けは、良くないよ、七之助」
すぅっと、梅雨を前にして暑くなる一方の室温が、急激に冷えていく錯覚を覚える。下げたのはゆか姉か、それとも俺か。
「……冷める。とっとと食べれば?」
「……そうだね! 折角美味しそうなんだから、アツアツを頂かないと!」
ゆか姉はそう言って、黙々とスプーンを口に運び始めた。
それを見ながら、制服のポケットを漁ってタバコを取り出す。
まあ、あんな話をしたところで、俺の生活が変わるはずもないのだ。これは全部、いつも通り。
もしいつもと違うというのなら、それはゆか姉の無茶な注文に答えたからだろう。
咥えたタバコに火をつけ、舌を火傷したらしくペロッと口から舌を覗かせるゆか姉を見て笑う。
うん、いつも通りだ。……いつも通り。
こうして俺とゆか姉は、多少の気まずさを感じながらも、いつも通りの軽口の応酬に戻っていく。