「確か私が中学校卒業して以来だよね、お兄ちゃん」
「あ、ああ……そういえばそうだったな……」
太陽のような笑みを浮かべる彼女に、俺もなんとか苦笑いで応えながら、もう一度机の上に飛び乗った。高い所にいないと落ち着かないのだ。そんな筈あるか。いや、高い所が好きなのは本当だ。バカと煙は……ってこれ前にも言ってたな。
「あ! その笑い方してるお兄ちゃん見るの久しぶり! 私が中一の年の九月二十八日の八時四十七分に、私がフィリップKディックって卑猥な名前だよねってお兄ちゃんに言った時以来!」
……こえーよ。軽くホラーだよ。
「……こちらがナナさん?」
何と答えれば良いのか分からず押し黙っていた俺だったが、雪ノ下さんが彼女に話しかけたことによって九死に一生を得る。サンキューゆきのん!
「はい。七里ヶ浜七海です。七里ヶ浜七之助の妹の」
先ほどまでの笑みとは一転し、ほとんど感情の乗っていない、薄っぺらな笑みでナナが自己紹介をする。
「……あれ? 七里ヶ浜七海って……」
比企谷くんが怪訝な顔を俺に向ける。そうです。多分比企谷くんの想像通りです。
「そういえば、一度会ったことがあるわね。確か戸塚くんのお手伝いをしていた時だったかしら……」
「ああ、それ多分お兄ちゃんです」
「!?」
事も無げに答えるナナに、雪ノ下さんが言葉を失う。まさしく絶句していた。
……あ、そういえばあの時、雪ノ下さんには説明してなかったな。
「それのせいらしいんや、最近元気ないんは」
そう切り出す楽太郎。やはり予想通りか……。
「つまり、あれのせいで上級生に目を付けられたってことか?」
確認の意味を込めてナナに尋ねる。
ていうかホントなんでこいつこんなショボい学校来てるんだよ。ナナならもっと良いとこ行けただろ。や、ゆか姉が行ってたからって理由でここ選んだ俺が言えた義理じゃねーけどさ。
「まーそれもあるかな。カビラさんだっけ? あの人面倒くさいんだよね。もう一回勝負しろだのなんだの。何回も『知らない』って言ってるのに」
軽く肩までかかった髪の毛を弄りながら、興味なさげに告げるナナ。カビラじゃなくて三浦だ。らしか合ってねえよ。どこの実況者さんだ。
「でも」
そう言って、ナナはもう一度ニコリと笑ってこちらを見る。
「丁度良かったんだー。お兄ちゃんに会う口実になると思ったし」
「……口実ってなんだよ。兄妹なんだから、会おうと思えばいつでも会えるだろ……」
「えー? だってお兄ちゃん、
ゆかりさんのとこに入り浸ってて中々帰ってこないし、ケータイだってずっと電源切ってて連絡付かないじゃん」
ツカツカとこちらへ歩いて来たナナは、人差し指で俺の胸をツンツンと突きながら笑う。
「あっ、お兄ちゃんに触るの中二の五月十六日以来だー! えへっ」
「『えへっ』じゃねえよ……。キャラ変わりすぎだろ……」
ナナの手を弾きながら俺が呟くと、楽太郎がうんうんと頷いた。……やっぱりこの部屋入ってからこんなになっただけで、普段の性格が変わってる訳じゃないんだな。良かった。
「キャラだけじゃなくて顔まで変わってるお兄ちゃんには言われたくないかなー」
ナナがクスッといたずらっぽい笑みを浮かべる。
言い返そうと俺が口を開きかけると、ナナは人差し指を俺の口に当ててそれを封じた。
「とにかく、一週間に一回くらいは、ちゃんと夕方にお家に帰ってきて一緒にご飯を食べること! お父さんは何も言ってないけど、お母さんはケッコー怒ってるよ?」
「……善処する」
「……うん、待ってるからね? それじゃ、いこっかラクちゃん」
そう言ったナナは、一度も振り向かずに部室から出て行った。
それを楽太郎が追いかけようとするが、思い留まってもう一度比企谷くんたちの方を見た。
「……ま、これで解決ってことになるんかな? あ、ついでにカビラさん? の方にもナシつけといたってくれへん?」
奉仕部の面々へ拝む楽太郎。ナシつけるってお前どこの組のもんだよ。反社会的勢力じゃねえか。あとカビラじゃねえって。
「ええ、分かったわ」
雪ノ下さんが釈然としないながらも承諾する。
「おおきにな。ほなまた!」
そういってもう一度頭を下げた楽太郎は、今度こそナナを追いかけて部室を後にした。
「「「…………」」」
三人が一斉にこちらを見る。いやーこんなに注目を集めちゃうなんて、人気者は辛いよなぁ!?
「説明を」
「比企谷くんと由比ヶ浜さんに聞いてくれ。全部知ってるだろうから」
ノータイムで雪ノ下さんの質問に返すと、彼女は由比ヶ浜さんに視線を移した。
「えっと……多分だけど……しちりんとヒッキー、前に優美子たちとテニスしたんだけど、その時しちりん、ナナちゃんに変装して勝負してて……」
「しかもご丁寧に七里ヶ浜七海って名乗ってな。で、その状態でめちゃくちゃ三浦のこと煽ったせいで反感買ってんだろ」
由比ヶ浜さんのたどたどしい説明を比企谷くんが引き継ぎ、完璧な説明をしてくれた。
「……あなた、女装癖まであったのね……」
「あ、ツッコミ入れるところそこなんだ」
「けど良いわ。今更あなたの奇行をとやかく言うつもりもないし。それより、家に帰っていないというのはどういうことかしら」
雪ノ下さんが凍てつく波動を飛ばしてくる。どこの大魔王さまだあんたは。こえーよ。バイキルトかけてる場合じゃねえぞこれ。
「実は俺、彼女と同棲してるんだ」
嘘だけどな。
「嘘ね」
「嘘だな」
「嘘でしょ?」
「……どんだけ信用ないんだよ」
三人のあまりの即答っぷりと息の合いっぷりに言葉を失いかけたが、俺も仲間に入れてくれよ~という視線を送りながら文句を言うと、比企谷くんたちは汚物でも見るような目で俺を睨んでいた。
「あー……別に、家庭内に複雑な事情があるわけでもなんでもないし、親との関係もそれなりには良好だよ」
一応、弁明。言わなくても良いような気がしたが、別に俺には自分の情報を執拗なまでに隠すような趣味もないので割とあっさり答えてやった。どうでもいいことだしな。
「なら、どうして?」
……えらく食いついてくるな、雪ノ下さん。そんな俺の家庭環境に興味があるのか? まさか七里ヶ浜に嫁入りしたいとかか!?
困っちゃうな~あんまり雪ノ下さんはタイプじゃないんだけどな~でも雪ノ下さんみたいな可愛い女の子の求愛を無下に断るのも悪いしな~。
グヘグヘと笑いながら自分でも自覚出来るほど下卑た目で雪ノ下さんを見ると、彼女はさっと自分の体を守るように深く腕を組んだ。
「……七里ヶ浜くん」
「スンマセンシタ!」
「はぁ……。聞いても無駄なようね。……七里ヶ浜くん、後始末は自分で付けるつもり?」
「まあ、皆様方のお手を煩わせるような問題でもないですし、不肖私めが小槌の一振りで解決してご覧にいれましょうか」
ヘラヘラ笑いながら机から飛び降り、後ろ手を振ってニヒルを演出して部室から足を踏み出し扉を閉める。
…………さて、タバコ吸いに行くか!!
「七里ヶ浜くん」
「如何な御用向きでございましょうか雪ノ下様」
何で出てきてるんだよこの女。ストーカーかよ。ていうか今日の雪ノ下さんちょっとウザくないですか? 車間距離も大切だけど人間距離はもっと大切だぜ?
「あなたに任せるのは不安だわ。明日私たち全員で片付けましょう。勝負のこともあるし」
「勝負?」
俺に任せるのが不安というのも聞き捨てならなかったが、それよりも勝負という単語に興味が湧いた。何の勝負なんだろう。
「平塚先生が言っていたでしょう? 誰がより多くの問題を解決出来るか、という勝負よ」
初耳である。ていうかなんでそんな勝負する羽目になってんだよ。
「……どういう経緯でそんな勝負することになったんだよ。あと勝ったら良いことあるの?」
「あなたがダイエット宣言したあとすぐに、平塚先生が部室に入ってきて言い出したことよ。勝った人は負けた人に何でも命令出来る、だったかしら」
ん? 今なんでもって言ったよね?
「マジか。勝ったら是非とも雪ノ下さんにはどじょうすくいやってもらいたいもんだな」
ほっかむりでどじょうすくいをする雪ノ下さん。想像しただけで爆笑もんだ。絶対に録画して一生保存しよう。そして定期的に雪ノ下さんの家に郵送しよう。
「……どうしてそのチョイスなのかは分からないけど、あなたが私に勝つことは絶対にありえないから、そんな事を考える必要はないわ」
「ふふん、あんまり俺様の事を舐めるなよ? こう見えても日本の至宝と呼ばれて長いからな。我が闇の炎の前に震えろ」
「ざいなんとかくんを揶揄するのはやめて上げなさい」
名前くらいちゃんと覚えておいてやれよ……。
「モハハハハ! 八幡!! 二人で駆け抜けた、あの室町を再び蘇らせようではないか!!」
なんかディテールが甘い気がしたが気にせず真似する。声は多分完璧だったが、セリフが不味い。俺はタイプの違う中二病だから、イマイチ彼のセリフを上手く思い浮かべる事ができないのだ。
「……っ!」
「雪ノ下さん沸点低過ぎだからね。クール系気取るんならもうちっとキャラ作り頑張った方が良いよ。じゃ」
一息に言い切って、屋上へ一直線に向かう。
雪ノ下さんが後ろで何やら早口にまくしたてていたが、いい加減興味も失せてきたしこれ以上こいつと喋っててもどうせつまらないだろうから無視して歩く事にした。
あ、何か露骨に態度悪くなってきてるなこれ。ナチュラルにこいつとか言っちゃってるし。ダメだダメだ。
……まあ、アタマの中でだけだから大した問題では無いんだけど。雪ノ下さんみたいに顔や態度に出るわけじゃないし。
つまり、精神衛生上の問題だ。アタマの中でだけでも、自分のバイアスのかかった評価を人に下すのは気分が良くない。そんなのまるで、自分がその人に興味があるみたいじゃないか。
とにかくなんにせよ、雪ノ下さんがちゃんと仮面を被れるようになるのはまだまだ先になるらしいというのが、彼女を客観的に見た時の今の状況だ。
それが悪い事なのか、良い事なのか。俺には判別が付かなかった。
「これで満足していただけましたか? ……もしまだ何か言いたいんなら、あなたと同じクラスの兄に言ってください」
翌日の昼休み、俺はもう一度ナナに扮して三浦さんとテニス勝負をしてやった。「これで最後」と前置きして。
結果は快勝。汗一つかかずに三浦さんを退ける。そもそも汗をかいてしまうと化粧が落ちてしまって不味い。
それにしても、性別差が大きいだけだとは思うが、流石に経験者がここまでショボいのは憐れみを通り越して怒りすら感じる。これじゃ全く楽しめない。
無駄な時間だ。この時間を面白い遊び探しに使う方が有意義だろう。
「それでは失礼します。三浦先輩」
挨拶をすると、三浦さんの取り巻きの女の子たちがこちらを睨んできたが──ちなみに由比ヶ浜さんも、なんとも形容し難い苦笑いを浮かべながらそこに居た──俺は気にせず踵を返して校舎へ向かう。
「あんたは……!」
ここにきて、試合後初めて三浦さんが口を開く。
無視するのは可哀想だったので振り向いて先を促す。
「……ごめ、いいわ」
しかし、三浦さんは俯いて黙ってしまった。何を言いかけたのだろう。
「……落ち込まないで下さい。先輩は私なんかより、よっぽどすごい人です」
ナナでなく、「俺」の実感を口に出してしまった。雪ノ下さんのことを笑えないな、こりゃ。
案の定三浦さんはポカンとした顔をしている。
「先輩は好きなようにやってて下さい。私、そういう自己中な人、嫌いじゃないですから」
それを最後に、俺はもう一度校舎の方に歩く。
「……次は勝つから」
後ろから聞こえた声は、聞こえなかったことにした。
……さて、今回の遊びはここまでだ。とっとと着替えて煙を呑みに、屋上へでも行こうかな。予想外に早く終わったから、時間はまだまだ余ってるし。
「終わったのか」
丁度、グラウンドのクレーとアスファルトの境界のところに彼らは立っていた。
「……比企谷くんに、雪ノ下さんも」
声を作らず普段の声で話す。事情を知らないとビックリするだろう。ニューハーフ界隈だとすんなり受け入れられるかもしれないが。
「ホントに七里ヶ浜くんなのね……。……由比ヶ浜さんからメールを貰ったの。ナナちゃんが三浦さんのところに来たって」
「俺は教室で全部見てたからな。で、どうやって決着付けるのかと思ってきてみたが……言っちゃワリーが、ありゃ悪手だろ」
「まあね。でも良いんじゃない? 別にナナもめんどくさいってだけで大して困ってたわけじゃないし」
それだけ言って俺はもう一度校舎へ向かう。
そもそもナナは、他人に何言われようが気にするような人間じゃない。そんな出来た人間では断じてない。
あいつは、親しい人間以外なんて視界にすら入れる気がないような奴だ。
それでも一見普通に見えるのは、しっかり仮面を被っているからに他ならない。
それに気付かずにアレと仲良くしてる奴らが多いことに、反吐が出るような感覚を覚える。
因果なものだ。
どこまでも真っ直ぐな雪ノ下さんは集団から弾かれる。
他人になんて興味の欠片も持たないナナは、仮面を被って集団に上手く溶け込んでいる。
クソくらえだと思ったが、俺にはナナを非難することが出来ない。
ヘラヘラ笑う俺とニコニコ笑うナナに、大した違いなどないのだから。
名前が思いつかないというのもあり、これでオリキャラは最後だと思います。
もし出すとしたら腰越五右衛門とかになります。斬鉄剣持ってそうですね。
ないですね、ハイ。