「勝ったっ……! 勝ったぞっ……! 打ち勝ったぞ、中間テストっ……!」
ざわ……ざわ……とクラスメイトが騒がしい声を上げる教室のただ中、俺は一人会心の勝鬨を上げていた。
そう、今日は試験結果が全て返却される日だ。
俺の手元に戻ってきた愛しき答案用紙の全てには、でかでかと「七十七」の刻印が押されていた。
「んぐふっ……ふふふ……」
ああダメだ、テンションが上がって仕方が無い。完膚なきまでに勝った後というのは何故にここまで気分がいいのだろう。達成感と高揚感がない交ぜになり、俺は一人、肩を震わせる。
「おい、七里ヶ浜」
「これは勝利の祝杯を上げるしかねえな……フケてゆか姉のとこ行くか!」
瞬間、俺の頭に衝撃が走った。どうやら上から殴られたようだ。
いきなりの敵襲に驚きながら顔を上げると、そこには青筋を立てる平塚てんてーが強敵オーラを放ちながら立っていた。バトル漫画的展開である。
「静、どうかしたか?」
「ふむ……キャラどころか立場まで忘れたらしいな……」
バキバキと拳を鳴らし、何処かで見たような拳の握り込み方を俺に見せつけながら平塚てんてーは不敵に笑う。
「冗談ですよ冗談。どうかしたんですか? もしかして、遂に僕とステディな仲になってくれる気になったとか」
「馬鹿者。誰がお前とそんな関係になるものか」
「いてっ」
彼女は俺の頭をこつりと軽く殴り、それからもう一度俺の目を覗き込むように向き直った。
「周りを見てみろ。もうみんな行ってしまったぞ?」
言われてみれば、先ほどまでの喧騒は既になく、教室には俺たちを除いて人っ子一人いなかった。どうやら俺がトリップしてる間に、みんな何処かへ行ってしまったらしい。どこ行ったんだよ。
「みんな何処行ったんですか? 移動教室とかでしたっけ?」
「はぁ……。お前は職場見学の存在すら忘れているのか……」
心底呆れたようにため息をつく平塚てんてー。そういえば職場見学とかなんとか言ってたなぁ……。あれ、俺どこ行くんだっけ? ていうか俺の班ってどうなってんの?
「残念ながらお前の希望は通らなかったので、私に着いて来て貰う。すまんな、七里ヶ浜」
「あ、そうだったんすか……ていうかそれって、もっと早く教えるもんなんじゃ……」
「ああそうだな。まさか五日連続で同じリアクションをされるとは思ってなかったよ」
蔑みを交えながらこちらを見やる平塚先生を見て、どうやら俺はこの告知を少なくとも五回は受けていたことが知れた。物覚えが悪いってレベルじゃねぇぞ!
「いやはや、中間テストで僕の鳥頭はいっぱいだったんですよ。すみませんでした」
「ほう。結果はどうだった? 確か現国はそこそこ良かった筈だが」
「最高でしたね。多分学年で一番美しい点数だと思います」
そう言って俺は、机の上にまとめてあった答案用紙を、最高の笑みで平塚先生にまとめて渡す。
「……なんだこれは?」
「……いや、答案用紙ですけど?」
「そういうことを聞いているんじゃない。何故、全部同じ点数なんだ?」
「……あっ」
「そう言えば、お前の点数は去年から毎回全く同じだなと疑問に思っていたんだ」
素で忘れていた。確かにこれは先生には自慢しちゃいけない類のもんだった。これを自慢するのは、これが『作為的である』ことを完全に認めちゃってるのと全く同義だ。しっちゃんたらドジっ子! てへぺろ!
「……お前とは、じっくり話す必要があるらしいな」
「そうですね愛を語り合いましょう!」
平塚先生は俺の言葉を無視して、無言で俺の背中を鷲掴んで俺を引きずって連行した。その後のことについては、自主規制ということにしておこう。……勘弁してくれ。
そんなこんなで職場見学。
平塚てんてーに連れられて来た場所は何処かで聞いた名前の電子機器メーカーだった。
どうやら五つくらいの班がここに来ているらしく、比企谷くんや由比ヶ浜さんといった奉仕部メンバーだけでなく、戸塚ちゃんや葉山くん、三浦さんなどといった見知った顔を見つけることが出来た。
会社の人からは中々に興味深い話を聞けて、結構良い場所に連れて来てもらえたと思いながらガラス張りの向こうにある機械の展示を見ていると、急に首根っこをひっつかまれてグイと引っ張られた。……最近こういう扱い多くないですか?
「比企谷。ここへ来ていたのか」
どうやら比企谷くんに話しかけたいのに、いつまで経っても動く気配のない俺に痺れを切らした平塚てんてーが、無理矢理俺を展示から引き剥がしたらしい。一人で行けよ……。
「先生は見回りですか? ていうかなんで七里ヶ浜?」
「まぁそんなところだ。こいつは行く場所がなくなったから私に着いて来させている」
平塚先生は展示されている機械を見ながら「私が生きてるうちにガンダム作られるかなぁ」などという呟きを小さく漏らしていた。
「七里ヶ浜」
「なになになんでしょ比企谷くん」
「川崎、どうなったんだ?」
「あー、中々上手く回ってると思うけど」
その後、川崎さんはほぼ毎日といった頻度でバーむらさきを訪れていた。仕事の覚えも早く、勉強に関しても相当上手くいっている。やっておけと言ったところは素直にやってくれるし、疑問に思ったこともすぐ質問しに来てくれる。少々物分りが良すぎるきらいもあるが、概ね生徒として申し分のない女の子だ。流石天使。
「そうか。ダメそうなら他の手もあったんだが、大丈夫そうだな」
そう言って、比企谷くんは一つ、どこか『らしくない』ため息を付いた。いつも通りの皮肉気な笑みを浮かべているはずのその姿は、まるで、言いにくい事を言う直前のようで……。
「んじゃ、俺行くわ」
「……うん、頑張ってこいよ」
そう言うと、比企谷くんは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてこちらを見た。
「……らしくねぇな。お前はそういうキャラじゃなかったはずだろ?」
「それはお互い様。比企谷くんにに幸あらん事を」
「どの口が言ってんだよ」
顔を見合わせ、二人でケラケラと笑う。これで、ちょっとは比企谷くんの気が軽くなってくれると嬉しいなと、俺は少し思った。
「何の話だったんだ?」
ユニバーサルセンチュリーから帰ってきた平塚先生が不思議そうな顔で首を傾げ俺に聞いてくる。
「よくわからないですけど……比企谷くんなりに決着、つけに行くんじゃねーですかね。なんの決着かまでは知りませんけど」
「ほう、決着か……」
そう言って平塚先生が不敵に笑う。この人こういう単語好きそうだもんな。決着とか勝負とか。あと意地とかプライドも好きそうだ。
とにかく先生の嗜好は、男の王道をことごとく押さえているのだ。こういう精神性も、普通の男女関係を築けない理由の一つなのかもしれない。
「……七里ヶ浜。お前今、何か失礼なことを考えたな?」
「結婚しましょう」
「シャイニングフィンガー!!」
「すんませんすんませんすんません!」
掛け声と共に、ギリギリと頭部を握力のみで潰しにかかってくる平塚先生の身体能力に心底ビビりつつ、全力で平謝りする。
「お前はもう少し、自重という言葉を覚えた方が良いな」
「危うく頭部破壊されて、失格どころか普通に人生ゲームオーバになるとこでしたよ……」
どんな握力だ。ホントに人間なのかこの人。実はゴリラなんじゃ……?
「七里ヶ浜」
「はい」
「……分かるな?」
ニッコリと、平塚先生はこちらへ笑みを向ける。漏らさなかったことに関しては褒めて貰いたいなと、強くそう思った。
「……委細違わず」
「そうか! それは良かった!」
言いながら、バシバシと俺の背中を叩く平塚先生の手の平の勢いがあからさまに増していることは気にしない事にした。もうホントすんませんでした。
「例の勝負についてなんだがな」
ようやく背中を叩くのをやめた平塚先生が、何やら思案顔で話を切り出した。
「勝負ですか」
「ああ。不確定要素が現れたせいで、現状の枠組みでは対処出来なくなっている」
不確定要素。つまりルールを決めた以降に現れたプレイヤー──由比ヶ浜さんの事だと考えられる。なるほど、確かに由比ヶ浜さんが解決の一助となった事は多い。例えば葉山くんの持ち込んだ、チェーンメール? 事件だとかは、由比ヶ浜さんのお陰でカタがついたというのが正しいだろう。アレに関しては、彼女がいなければ確実に奉仕部では解決出来なかった筈だ。
「で、どうするんですか?」
「ま、適当に考えるさ。一応比企谷や雪ノ下にも伝えておいてくれ。……お前に頼み事をするのは些か以上に不安だが」
平塚先生が諦めたように苦笑するのを見て、俺も苦笑いで返した。……流石に頼まれたことはちゃんとやりますよ、マジで。
「それでは私は帰らせてもらうよ。お前も遅くならないようにな」
「了解です。明日は普通に学校あるんでしたっけ?」
「ああ。真面目に来いよ?」
そう言ってイタズラっぽい笑顔で俺を見据えてから、平塚先生は踵を返して帰っていった。その仕草にちょっとドキッとしたのは内緒である。
そんな平塚先生の後ろ姿を見送りながら、俺は色々と考えていた。
それは例えば、バーむらさきに来るようになった川崎さんの事だったり、先ほどまで会話していた比企谷くんの事だったり、親の話を持ち出された時に真っ青な顔をしていた雪ノ下さんの事だったり、今さっき平塚先生を見送っていた俺の前を、思いつめた顔をしながら駆け抜けていった由比ヶ浜さんの事だった。
一体彼ら彼女らが何を考えているのか、なんてこと、俺に推し量ることは出来ない。
それでも、俺は少しだけ、そこに近付きたいと思っていた。
きっと、俺にはそれしか出来ない。何故なら俺は、いや、俺たちは、そうする事でしか誰かを理解することなんて出来ないから。
話せば分かる? 川崎さんの言った通り、そんなのは嘘っぱちかもしれない。
それでも、話さなきゃ分からない事は、確実に、ある。
だって、俺たちに誰かを理解することなんて、出来るはずがないのだから。
そこまで考えて、俺は一人、自分でも分かるほどに仄暗く、陰気に笑った。
何が「理解したい」だ。そんな事、本気で思っている訳じゃないだろうな? 一体いつから、俺はそんな真っ当な人間になったつもりをしていたんだ?
首を振って、無駄な考えを振り払う。
大丈夫だ。俺はナナとは違う。他人を好きだと大声で言うことも出来ないけど、世界に俺一人だなんて、間違っても考えたことはない。
「……だから、大丈夫だ」
確かめるように出した声は、どこか空々しい響きを持って、そのまま空へと溶けていった。